まずはこちらのブックマークコメント。 id:Francesco3 犯罪, 性 だいたい性犯罪に服装関係ないのにまだ責任がどうこう言ってるって……。年寄りめんどくせえって感想しか出てこない。年寄りかどうかしらないけど。はてなブックマーク - 今更ながらのミニスカート問題 - どうでもいいことかもしれない 仰る通りです。「性犯罪に服装関係ない」のです。 では、何故いまさらミニスカート問題なんぞを出してきて、責任がどうこうとめんどうな話をしたのか? 今回はそんなお話。 前回の一連の記事は、諸事情によりかなりもってまわった言い回しになってしまったので、今回はストレートに結論から。 私はミニスカートと性犯罪は全く関係がないと思っている。 何故ならミニスカートと性犯罪を結びつける確かなデータがないから。 表現規制の問題もそれと同じだと考えている。 何故なら性的ファンタジーと性犯罪を結びつける確かなデ
先日Webで話題になった非実在青少年規制問題を、「何故これに賛意を示す母親が多いか」から見たエントリを読んだ。 ポンコツ家族の取扱いマニュアル - 母親の皆さんに 児童ポルノ法&東京都青少年健全育成条例改正問題について これ読んで最初に思い出したのは、これもTwitterでちょっと話題となったまとめよう、あつまろう -Togetterでの発言。 「もしそれで何かあったら、預けてしまった自分を許せない」 このセリフ、ほとんど同じものをmixiの予防接種コミュで何度か目にした。一応クローズドな場での発言なので引用できないが、文脈としては「自然罹患で死んでも運命だと思って諦めが付くが、予防接種の副反応で子供に何かあったら自分を許せない」といったものだった。 想定状況こそ異なるが、この3者はまるで同じメンタリティだ。要約すれば「子供になにかあったら全部自分のせい」。自然災害であれば言い訳も立つが
犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 優れた思想家は、従来の単語では物足りず、「それ」を表現するために独自の用語を生み出すものである。大屋氏にとっては、「近代法の逆説」がそれであるが(p.95)、これはかなりの傑作である。近代法の逆説に気が付くか否かで、私的なルサンチマンを高貴な思想と勘違いする過ちを防ぐことができるだろう。人権に対する危険が政府の存在に先行していなければ、そもそも人間は社会契約など結ぶ必要もない。国家とは、個人の自由を侵害すると同時に、個人の自由の守り手でもある。従って、国家権力に抵抗するという単純な人権論だけでは、他の暴力的な市民からの侵害を排除できないことになる。自由を確保するには、過剰と過小という二重の危険の間の隘路を探すしかない(p.96)。 人権論のパラダイムにおいては、事前規制

そうした事故に見られる共通の要因は、パイロットの判断と操作のミスである。事故原因の8割近くが、いわゆるパイロット・エラーなのだ。けれども、だからといってパイロットの再教育とか繰り返し訓練だけで事故がなくなるわけではない。事故の引き金をパイロットに引かせたのは組織としての安全管理システムの欠如であることを認識しなければならない。 http://www2g.biglobe.ne.jp/~aviation/anzen02.html 安全管理システムと、口に出した途端、経営陣は責任を追及される。ところが、システムから目を逸らし、現場責任と口にしていれば、免責される。「ミス」は罪だけど、「バカ」は犯罪にならない。 というわけで、今日も日本では日勤教育。悪いのはアルセスです。立法の問題。
このへん、切り分けて考えると良さげ。 例の事件、私は、「青信号を渡っていた歩行者が、信号無視の車に轢かれた」と喩えた。 もちろん、皆好き勝手に喩えるといいよ。 まず、リスクということ。日中の昼間、都会の交差点は、運転手の注意レベルは高く、また、平均速度が遅い。従ってリスクは低い。逆に、夜の街道では、その逆でリスクが低い高い。 次に、責任ということ。運転手は、業務に当って高い注意義務を持っている。歩行者は、そこまで高い義務を持っていない。 日常言語の善悪は、非常に緩やかな使われ方をしていて、店舗の駐車場から道路に出たところで側突「された」人は、「前を良く見ないあいつが悪い」、側突「した」人は、「飛び出したあいつが悪い」というだろう。正論好きは、「走行中の車が減速していれば事故は起きなかった。減速しなかったのが悪い。どうだ正論だろう」とか、「駐車場から出るときに、もう少し待っていれば事故は起き
mojimojiさんから再応答をいただいた。 おっしゃることはよく分かるのだけど、私にはまだ少し違和感があります。 他方で、自己欺瞞をうまく扱えない人がいる。そういう人がたくさんいる。 こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。 前回の文脈でいうならば、世の中には「倫理的な責任」を 「感じない人」 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」 「どうしても感じてしまう人」 がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。 しかし、それは同時に、「本当はできるでしょう?」などという必要もないことになります。言おうが言うまいが「感じてしまう人」なのですから。 結局、「感じない人」や「どうしても感じてしまう人」に対しては倫理的な呼びかけ自体が「役に立たない」といえるでしょう。 となれば、「多少は感じる、あるいは感
松岡農林水産大臣の自死には驚きました。ただ第三者としての第一感は、初老の男性にみられる突発的な自殺、最近言われるようになってきた男性更年期の心身失調によるそれではないかというものでした(参考)。ご冥福を…。 現在、45歳から65歳までが初老期とされています。62歳の松岡氏はまさにその中にいます。統計による中高年男性の自殺率は人口10万対で50以上。これは同年代の女性の三倍以上にのぼり、明らかに有意な多さを示しているとされます。資金管理団体の光熱水費の処理問題や緑資源機構の官製談合事件などの説明責任が問われてはいましたが、今の時点でそれだけで自死を選ぶというのはどうにも唐突過ぎるように思えました。 これに絡んでは、夏の参院選が近づき、自民党内からも辞職を望む声が出てきていたというのが何より影響したのではないかなと個人的には感じます。「敵対する側」からの攻撃には強気に出られても、「友軍からの攻
応答責任について、再度確認しておこう。 たとえば、ほっておけば自分では何もできないであろう赤子*1がいて、それを見ている人がいるとする。その人は、その赤子の面倒を見るのだ、と決意したとする。ある人は、そこで初めて倫理的責任が生じたのだ、と言う。そして、そうした何らかの手続きを経てその人に引き受けられた責任にしたがって、その赤子の面倒を見る、つまり、責任を果たす。──しかし、こうした記述は、私たちが無力な者を目撃するときに生じている様々なことどもを、きちんと捉えているだろうか。 次のような問いを立ててみよう。赤子の面倒を見ると決意したその人が、決意する前に考えることは一体何であろうか。明らかなことは、その人は決意する前には何ら強いられるような感覚を感じず、自らの意志によって決意したときに初めて何かの強いられる感覚を感じる、というようなものではないということだ。私たちは、決心しようとしまいと、
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