ツイッターにも少しだけ書いたけれど、話題の「クローズアップ現代」について。いま我が家には録画できるものが何も無いので、早く帰宅して見た。 たぶん観る者の立場によって、評価が分かれるのだろうと思う。自分の立場からすると、いくつか引っかかる点はあるものの、穏当な内容であるように思えた。冒頭から、司会の国谷氏が「すべての服薬を否定するものではない」ことを強調してはじまったし、終盤になってもそのような発言を折に触れて挿し込んでいた。 もともと番組サイトによれば、ゲストは石川憲彦氏だけの予定だったのである。それが前日になってNHKの記者も同席することになった。確信はないが「石川氏だけだと、スタジオ部分が自説の独演会になりかねない」という懸念があったのではないか。 途中で国谷氏が「いつから子どもへの向精神薬の投与は増えているのか」という質問をして、石川氏がひとこと「10年ぐらい前から」と答える場面があ
あたしが小学5〜6年生だったときの担任・マツダ先生(仮名)は、クラスで話し合うとき生徒にたったひとつのルールを課しました。そのルールとは、「意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない」というもの。これは鉄の掟で、例外は許されませんでした。今にして思うとこれはすばらしい教育で、あたしはマツダ先生にものすごく感謝しています。 このルール下だと、「今度クラスのレクリエーション時間でどんなスポーツをやるか」なんて議題で話し合うとき、ただ各自で 「バスケがいいでーす」 「ソフトボールがいいでーす」 「ドッジボールがしたいでーす」みたいに提案だけしていきなり採決ってのはダメなわけ。提案するには、絶対に「なぜ自分はクラスでこのスポーツをやるのがいいと思うのか」を言わなきゃいけないんです。 そうなってくると、「自分がバスケが好きだから」クラス全体でバスケをするべきだなんて言えないわけですよ。いくら小
東日本大震災と福島第一原子力発電所の大事故は、巨大科学技術の抱える問題を「自ら考えるべき切実な課題とせよ」と我々に突きつけている。だが、専門家でも意見が割れ、日々の生活にどうしても意識を取られる私たちには、どのような思考、議論がありえるだろう。 社会、そして「素人」である我々は科学とどうやればうまくつき合っていけるのか。科学技術はどうガバナンスされるべきなのか。この難題を、「科学技術社会論(STS)」を専門とする、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授の平川秀幸氏に聞いた。 ―― ご専門の「科学技術社会論」とは、どのような学問なのでしょうか? 平川 科学技術自体は理系に分類されるものですが、科学技術と社会との関わりについては、人文・社会科学系の議論が必要になります。新しい科学技術はどのように生み出され、社会のなかで使われるのか、その結果、社会にどのような影響がもたらされるのか。

kikulog 記事一覧 カテゴリー別記事一覧201410 2014/10/22 江本勝氏の死去 201409 2014/09/12 生協の「書評対決」の書評 201407 2014/07/04 「いちから聞きたい放射線のほんとう」サポートページ 201406 2014/06/04 「いちから聞きたい放射線のほんとう」訂正箇所 201404 2014/04/23 朝日新聞に書評が出るようです [kikulog 647] 2014/04/09 理研CDBの騒動について [kikulog 646] 2014/04/07 博士論文中での剽窃について [kikulog 645] 201403 2014/03/17 「いちから聞きたい・・」のあとがき [kikulog 644] 2014/03/03 論文: Structural flexibility of intrinsically disord
タイトルで言い尽くしてしまっているので、twitterに投稿した方がよかったかもしれないけど、構造に共通点があるように感じた。 専門家コミュニティ内部の議論としてはほぼ解決している問題 しかしその結論を社会全体の合意とすることができてない 感情的反発があるが議論の論点がなかなかかみあわない librahack問題は、直接、社会 VS 専門家という対立構造にはなっていないが、警察や図書館が「クローラを作成した人にも問題があった」という無理な強弁をするのは、漠然と世論の消極的な支持は得られるだろうという読みがあるように感じる。そして、その読みは、それほど間違ってないように私は感じる。 だから、これは私の(被害妄想的な?)印象論でしかないが、いくつかある明解な問題の背後に、底流として、世論が専門家コミュニティに対して抱く漠然とした不信感があるように思うのだ。 ホメオパシー問題もいろいろな角度から
今回の件に関連して、twitter上で言及してくださった方が複数いらっしゃいます。 特に、私が7月17日に出した「再質問」について、議論していただいたり、アドバイスをいただいたりしたので、この点についてここで補足させていただきます。 まず、私は、「再質問」で以下の通り述べました。 >私は今回の先生のご発言の「内容」と「意図」を問題にしてここで議論しています。 >「受け取られ方」については問題にしていません。 >どのような発言でも相手によって受け取られ方は確かに様々でしょう。 >問題は、今回の先生のご発言の「内容」と「意図」です。 >発言の中身が問題となっているのですから、まずはその「内容」を検証すべきであり、「受け取られ方」はその次ではないでしょうか。 >私は、発言の内容と意図について知りたいのです。 >そのために、先生ご自身のご認識とご見解を伺っております。 この点につき、発言者の「意図

■非常に興味深いトピック 重い政治課題が山積のまま突入したゴールデンウイークだったが、ビジネス関連では休業中の会社も多く、IT関連の情報も動いているのは海外関連ばかり、と思っていたら、何とも興味深いトピックが飛び込んで来た。勝間和代氏とにしむらひろゆき氏(言わずと知れた2ちゃんねるの創始者)の対談である。 5月2日にテレビ東京系列のBS放送「デキビジ」で放送されたようだ。ほぼ全編Youtubeに残っているので一渡り視聴することができる。 YouTube YouTube YouTube ■にしむらひろゆき氏の勝ちと言わざるをえない すでに続々とブログ記事も書かれているようだし、Twitterでの議論もまだ続いている。これからどのような議論に発展して行くのか予想もつかない展開だ。そのような中、場合によっては火中の栗を拾うようなことにもなりかねないが、この対談、私自身普段から考え続けていることの
以下は http://h.hatena.ne.jp/manysided/9236557630630465306 への反論。 ハイクで応答しようと当初は思ったけれど、長くなったし大事な論点も含むのでエントリという形にしますにゃー。 応答します>id:manysided 前回のエントリでも書きましたが、宗教権力というものは「善」を他者に求めるものだといえるでしょう。それに対して、他者危害行為を禁じるのが自由主義における世俗的な権力です。他者に対して善を求めることと悪を禁じることには大きな違いがあります*1。 なぜなら、善というものは人によってさまざまな形をとるものだからです。それに対して、危害というものはある程度客観的に定めることができます。 はてこ氏の議論は、「良心」を他者に求めるものでした。 これは基本的に宗教のロジックです。自らの信ずる「善」「良心」を他者に求める論法に対しては、「僕には
もうタイトル通りで、なにをいまさらという話なんですが。 4,5日前に、匿名ダイアリーで、自分がなぜ「陵辱嗜好」を持つに至ったのかを書いた記事があがりました。 「現実で女に拒絶されているから妄想の中でさえ和姦など想像できない」 http://anond.hatelabo.jp/20100210012057 この匿名ダイアリーに書かれていることはむちゃくちゃです。あっちこっちに八つ当たりで、差別的な発言をしまくっていますから、内容は糾弾されて当然だとは思います。ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。 私がわざわざ記事をあげたのはsociologbook*1という大学教員のきしさんがやっているブログに、上の記事に触れて、こんなことが書いてあったからです。 そんなもん、「陵辱嗜好」(笑)なんてものは、復讐でもないし、女性たちに原因があるわけでもないですよ。男の一部に、モテようがモテまいが、そ

著名な科学者が実名でブログを書いている。 私は先生という敬称を付けて呼ばせて頂いている。 科学者は業績を上げることが全てで(ちょっと大袈裟に言えば)、業績を上げるには資金を獲得しなくてはならない。業績が上がれば資金の獲得も容易になる。先生は研究資金の配分に対しても時に痛烈な批判をなさる。研究者としては大変勇気の要る行為と思う。 先生は日々の生活で感じる不安や期待をストレートに記事にする。その感覚は一般市民に近い印象である。大変興味深いし、私には好ましい。過去ログの一覧を見ると5年近くブログを書いておられるが、常にマイペースを維持し続けている。 そんな先生のブログにコメント欄がある。著名な先生であるにも拘わらず、コメンテーターはいつも匿名である。先生のお知り合いでは無さそうだ。先生はコメンテータを全く相手にしないが、かといってコメント欄を閉じようとはしない。有名な先生のブログであるから、恐ら
twitterまとめツールの確認をかねて。 fut573はてなダイアリーにおけるレイプレイ騒動→規制論の話はいまだに続いているんだけど、途中の段階でみんな脱落して、今では数十人が追いかけるだけという状態。 ダイアリー言及数は、例の騒動の時に急激に伸び、その後平常状態に戻ってはいる。http://tinyurl.com/n9x7bdlink 「表現の自由」の統計グラフ -はてなキーワードGoogleTrends: 表現の自由 fut573マルクス、カント、ヘーゲル、フロイト、レヴィ=ストロース辺りの19-20世紀思想の巨人の名前が連呼され、マッキノン、阿部謹也辺りまで持ち出される議論について来いという方が間違いなんだろうけど。link fut573一時期のマルクス必読だった頃と違って、今時は史学部の学生でも『資本論』読んでないこと多いし、阿部謹也さんも『ハーメルンの笛吹き男』辺りしか知
タイトルは半分だけ釣りです。 まず、私は誰の味方なのか? 自分でもわかりません。ただ、色々な人の主張における論点の食い違いを明らかにしたいと願う者です。 「性犯罪の数」だけが評価基準? YOMIURI ONLINEの記事に対するブックマークコメントでも何件か見られたのが「実際の性犯罪の件数が少なければいいじゃないかメソッド」。例として一件引用させていただく。 cubed-l エロゲ, 性 実際に罪を犯さない限りどのような嗜好でも自由であって欲しいな/正直この手のは広告ですら見たくはないけど、こういう嗜好を持つことそのものが犯罪のような言われようには違和感を感じる 2009/05/08 心情的には、私もb:id:cubed-lさんの意見に賛同したいところなんだけれども、おそらくこれではEquality Nowのような人たちとは議論がかみ合わないであろう。 昨日翻訳した声明をもう一度見てみよう
一応、私がいつも踏まえておいた方がいいと思う前提を書いておきます。 (1)えん罪 なぜか「痴漢被害者vs痴漢えん罪被害者」の構図が生まれ、女性が前者を、男性が後者を代表し、それが「女性vs男性」の構図にすり替わっていくことが多いようです。 痴漢の場合は、関与する当人は「被害者と加害者」です。しかし痴漢えん罪の場合は、「冤罪被害者と司法関係者」です。現在の司法手続きは、えん罪が非常に生まれやすいシステムになっています。とりわけ、代用監獄の問題が指摘されてきました。(http://www.toben.or.jp/news/daikan/q1.html) えん罪は、「女性が声をあげないようにすること」で防ぐべきではありません。判決が確定するまでは人権を守った手続きをとり、慎重に事実を調べていくことで、防ぐべきです。証言の信頼性を疑ったり、監視カメラという発想をする前に、現行システムの改善で防げる
※本文中で言及したaozora21さんのブクマコメントについては、御本人から本記事メタブクマでご指摘があり、再追記しております。 前記事の本文(付記は除く)では、なるべく私的意見や価値判断を含めず、あくまで一般的なセクハラ概念の説明を試みた。私の立場は、「まずセクハラの概念を理解すべき。そうでないと話にならない。その上で、個別の事例をどう見るか、そこでどういう態度を取るか、さらにはセクハラ概念そのものや運用に疑義を呈するか否かという話になる」というもの。 これまで関連記事につけたブコメも、あちこちのコメントも、あまりに意見が錯綜していると思ったのですべて「セクハラ概念を理解すべき」というスタンスで書いている。しかし個人的には、「セクハラだと言われたらともかく謝ってしまえ」とか「どこまでも被害者感情を優先せよ」とは微塵も思っていない。この点、誤解されそうなのではっきりさせておきたい。 で、今
話題 再開早々、こんな話題で何だかなぁとも思いますが、奇しくも今日はマーティン・ルーサー・キング記念日。キング牧師の情熱と勇気を讃えるため、自由と平等に関する政治的な意見を書いてみる事にします。記念日との関係は勿論こじつけです。本当は元記事に私が書いたブクマのオチャラけたコメントに思いのほか沢山スターを付けて頂き、発言する勇気を得たからです。ホッテントリーに絡むのは今回初めてなので緊張しております。 まず元記事はコチラある夫婦、その妻に思いを寄せる男性、この3人とは何の関係もない男性、おじいさん。この5人が乗っていた船が難破し、無人島に流された。その過程で、夫婦の夫は行方不明となり、島に流れ着いたのは4人だった。この時点で夫の安否はわからない。夫の安否を確かめるには、船を出して捜索するしかないが、妻には船をつくる能力や、直す力はない。船をつくり、直すことができるのは、夫婦とは縁もゆかりもな
RX100M7を買った 今年の2月、SONYのRX100M7を買った。年明けから何度も実機を見に行って、撮影する自分の姿を想像しながらじっくりと選んで買ったカメラなので、とても気に入っている。カメラに関しては趣味程度の素人だけど一生懸命選んで買った決め手などをまとめたいと思う。 わたし…

最近、ブログ(と言ってもはてな周りが主なんだけど)がつまらないなと思う。何故か考えてみた。 ちゃぶ台返しと議論の「強度」 ある物事に関して、色々と不平不満を立て並べた挙句、「こうしたほうが良い」という改善点までご丁寧に指摘しているエントリーがあるとする。ブログを見ていれば四六時中目に付くタイプのエントリーだ。 それに対して、「そんなにアイディアあるなら、じゃあお前がやれ」と一言付けて突っ返す人がいる。これはちゃぶ台返しだ。「それ言ったらおしまいでしょう」と。なので元のエントリーを作った人は、そうした言葉を「不毛だ」「非建設的だ」と非難する。確かにそれはそうで、ちゃぶ台返しはちゃぶ台返しでしかない。それをやっちゃうと後に全然全うな議論が続かなくなる。 けれど、たとえそれがいかに不毛であろうと、いやむしろ不毛であるからこそ、その「ちゃぶ台返し」はすごく強力なのだ。覆水盆に返らず。一度「お前がや
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