ある日、真ん中の兄*1と話していました。 俺「俺って結構理系っぽい思考パターンしてると思うんやけど」 兄「それはない。」 俺「何で?論理的な思考は結構得意な方やと思うで?」 兄「お前は自分が正しいと思うかどうかで物事を考えてるやろ。 それは典型的な文系型思考パターンや。」 この言葉で文系と理系の違いの本質に気づかされ、目の前が晴れた気がしました。 すなわち、文系と理系の違いは 文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか) 理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実 なのです。 一般に自然科学は理系といわれますが、この分野では実験で得られたデータや観察によって得られた客観的な事象を基に考察します。 一方社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず*2、結論を出すに当たっては、客観的な事実と正しい論理を
前回のエントリではタコなのにタカ呼ばわりしてしまいました。ごめんなさい。 ↑上に挙げた理由により、「あなたは不誠実だ」「いや、私は誠実だ」「俺だって誠実だ」「俺も誠実だ」「俺も」「俺も」「ぢゃあ、俺も」「どーぞどーぞ」といった遣り取りには意味がないと考えます。 http://d.hatena.ne.jp/takopons/20080806/1217964600 それはその通りです。でもわたしは「あなたは不誠実な人間だ」と言ったのではなく、あなたの論法は(あなたが自覚しているかどうかは別として)これこれこういう理由で不誠実なので、もっと誠実な議論をお願いしますよ、と言ったつもりでした。 ところがあなたは、それを「あなたは不誠実な人間だ」という意味にとらえ、逆に「macskaさんは、takoponsは不誠実で失礼な人間である、ということにしておきたいのでしょうか?」と言ってきました。それをわた
ちょっと前のエントリのコメント欄で起きたやり取りについて、id:takoponsさんがコメントを書いている。(追記:お名前を間違えていたので、訂正しました。ごめんなさい。) 私は直前のコメントで、『1つ、確認させてください。macskaさんは、「takoponsは不誠実で失礼な人間である」ということにしておきたいのでしょうか?』と質問しました。この質問に対するmacskaさんからの回答を待って、その後の議論に応じようとしていた可能性は考えられなかったのでしょうか? http://d.hatena.ne.jp/takopons/20080805/1217872800 そうした可能性は考えられませんでした。わたしは、あなたの論法が不誠実だと言っているのに、「いや、自分は自分なりに誠実に議論をしているつもりで、不誠実なつもりはない」と弁解もせずに、「あなたはそういうことにしておきたいのですか?」
宮台氏の社会学入門講座では、毎回その前の回の復習をしてから次の回の本題に入るような展開になっている。「連載第一四回:役割とは何か?」でも「役割」の説明に入る前に、その前の回で解説した「行為」についての確認を書いている。 この確認を読んでいると、論理的な展開というものがどういうものかというのが見えてくる。宮台氏のこの講座では、社会学の基本概念を説明するのが主目的だが、それは、その概念が論理的に展開されてどのような知見をもたらすかを説明するのが本題となっている。現実に「社会」という対象に見られるような存在を観察して、ここにこのような側面が見られるという、現実の解釈を語っているのではない。基本的な概念として、このようなものを認めれば、その概念に含まれている論理的な前提から、このような結論が必ず(論理的に)導かれるという論理の展開が語られている。 このような発想で物事を考えるというのは、「モデル理
些細な事でも、非論理的だと思うとつい口を出してしまう。 「そこはこうこうだから、そう言うのはおかしくないか。あくまで○○としか言えないはず」 とか。 http://anond.hatelabo.jp/20080215003906 んー、デノテーションとコノテーション(このまえ教えてもらった言葉)の問題かなあ。 っていうか、「つい」なんて、非論理的な現象のキワミだとおもうのだけど。 「なんで万引きしたの?」 「つい」 「ついじゃないでしょ、ついじゃ」 「だって、店員がいなかったんだもの」 こんな感じ? そのたびにまた、「屁理屈って言うけどどこがどう屁理屈なの?どこか間違ってる?」って言ってしまってまた 「この子は本当に言い訳がましい」「理屈っぽすぎる」「いちいちうるさい」って言われてきた 「なんで事故起こしたの?」 「相手が避けなかった」「摩擦係数が低すぎた」「音楽がアップテンポだった」…
<Befor ↑Above Next> 人はなぜ愚行するのか? (組織の認知能力低下-ビンの中症候群) 第1章 第2章-1 -2 -3 第3章 -1 -2 -3 -4 第2章:ルール逸脱とメタ認知の関係 ここでは、現象面からメタ認知の低下と組織のルール逸脱現象との関連を考察する。 2−1 論理階梯の混乱: 第一章で述べた第一の特徴で挙げたように、ルール違反が恒常化する過程で、現場担当者や経営陣が定められた規格を再解釈するという過程が起こっている。この与えられた言葉を再解釈して規定し直すという行動は、論理階梯論を逆転するという行為である。論理階梯論とは、数学者であるタルスキーが「自己言及パラドックス」を解決するために提唱したものである。このことから、「規則の再解釈」という奇妙な行為がなぜ起るのか、論理階梯論を用いて考察することが適していると考えられる。 自
一見筋が通っているようでも、どうにも無理がある理屈ってのをそのまま筋の部分で押し続けると議論は成立しません。論者として重要なことは、自分の論にしろ他人の論にしろ、(そこにより全体が破綻するようなものでない限り)枝葉末節を論じることよりも、全体の整合性が取れていることではないかと僕は思っています。常に一歩も引かない、相手の粗が自分の利になるような論戦をしているわけでないのであれば尚更。 いわゆる屁理屈と言われるものは 無理筋(単品で見ても論理的整合性があやしい。俺は正しい的) 前提の誤り・無視(泥棒に人権はない、等) 文脈整合性無視 などに分類されると思いますが、特に前提の誤りについては、間違った前提と言う認識自体が論者毎に統一されていなかったりするので、相手にとっては屁理屈でも自分にとっては前提になっているものもあります。そこで揉める場合、それが議論になることが正しい(つまり、前提そのもの
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です -はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて -はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
http://fragments.g.hatena.ne.jp/bluesy-k/20070705/p3 言葉の再定義合戦な気もするけど、まあいいか。 論理、もっと言えば科学は「価値判断」、さらにいえば「判断」しないし、ある事象についての瞬間的な生理学的「価値判断」こそが感情だ。 論理は、ジャングルは地獄論理、不良少女白書論理、なども含みそうなので、科学という言葉を使おう。科学は、見積もるけど判断はしない。こういう動物は、この環境下では生存が難しいですよ。このエンジン形式は、燃費がこの位ですよ。 そこから先の「重み付け」については、(狭い意味での)科学の出番ではない。長期間の期間*1に渡って、妥当なリスク評価*2を行い、そして、構成員の大部分に受け入れられる重み付けを行う、さらに、それを言語で説明できる人が論理的な人、と呼ばれるのだろう。ちょっと言い方を変えると、「感情」には、マスロー的な
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です -はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて -はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
2007-04-16 - 力士の小躍り アフガニスタンにソ連が侵攻して、傀儡の共産主義政権を建てた。これに対する抵抗運動があって、ソ連にとってのアフガンはアメリカにとってのヴェトナムと似た構図になった。で、このとき、民族主義的な抗戦活動の旗役となったのが、イスラム神学生の若者たち、すなわちタリバーンです。アメリカはこの人たちの支援をした。ビン・ラーディンだって、元はアメリカの子飼いだったという話があるでしょう。アメリカは、いわば「飼い犬に手を噛まれる」結果になった。 傀儡の共産主義政権とそれへの抗戦という内戦によって荒廃した自国という状況が、あったわけですよね。一方的な近代化=開発独裁による問題もあった。「イスラムの伝統の復活」というタリバーンの目標に多くのアフガン人の共感が集まった背景には、そういうこともある。 さらには、民族的に複雑なアフガニスタンという国情がある。人数的なマジョリティ
道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。 「持っている資源を渡さない」ことによって死なせることがない。──(A) 「持っている資源を渡さない」ことによって死なせることがある。──(B) 以上は事実問題。(A)は端的に間違い。(B)が正解。これを「間接的に人殺しである」と述べるとしても、それは多少感情のうずきを感じさせる表現かもしれないが、あくまで事実の問題であり、ここに何の詐術もない。選択肢があり、そこから具体的な選択肢を選ぶ以上、そこには問いがある。問いの向こう側に、選択の結果を被る他者の顔が見える。ここでの他者の顔は、そこに見るか見ないか、というレベルで選択可能だとしても、そこに顔が「ある」ということは徹頭徹尾事実問題である。 ここで既にトリックがあるわけですよ。「(A)は誤りで(B)が正しい」というのは端的に事実。それはそのとおり。例えば、育児放棄(ネグレクト)による餓
ここんとこ硬い話題を硬い文体で書いてばかりいたので、いきなりだけどカジュアルに戻ります。takisawa(瀧澤)さんとterracaoさんのお題にお答えしていこうと思う。お二方とも、私から見てだけど、元の話とは別にすごく大事なこと言わんとされていると思うから。で、本稿はまず、メガネのおじさん(フーコーおじさん)ことterracaoさんのお題から。 http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070421/1177181170 ↑これですけど、「サバイバーズギルト」って言葉は初めて知りました。「生き残ってしまった罪悪感」「助けられなかった自責感」のことですよね。この点については恵まれない人を見殺しにすると言うけれど - Backlash to 1984で私も触れました。殺人が話題になっているので殺人事件の場合で書いたわけです。そしてこれは、殺人事件以外の人災や天災にも広
「なぜ人を殺してはいけないか」と問う人がいたら、「あなたは何を聞きたいのか」と問い返せば良いと思う。たいてい、何か思うところが胸にあってそれを相手に問わせる…自分の言いたいことが先にあってそれを相手に問わせる、そのきっかけづくりとしての問いかけだろうと思うからだ。だから、この種の質問者には自分で答えさせたほうが、話が早いだろう。 自分や自分の大切な人を殺されたくないと思う人がほとんどなのだから、いつどこの世にも「人を殺してはならぬ」という約束事が原則として定められる。およそ原則に例外は付き物だ。「人を殺すことはいけない」というのも原則として定められているわけで、当然に例外規定もある。いかなる例外も認めないというのは絶対禁忌と呼ばれるもので、原則禁止とは極めて異質なものである。例外を認めることと、例外を認めないことの間には、ものの考え方として大きな隔たりがある。 価値評価ではなく、ごくごく事
ある命題が正しいのなら、その命題を認める人は正しい判断をしていることになります。その命題が誤りなら、その命題を認める人は誤った判断をしていることになります。つまり、それを認めようが認めまいが自由だとするにしても、まずそれが正しいかどうかの論考が欠かせません。いつもいつもそうしなければいけないということではなく、いまここで論じられている「募金しなければ間接的に殺したことになる」というのは全称命題だからなのです。当てはまる人と当てはまらない人を選ぶ命題ではない、ということ。全称命題という言葉をご存知だろうか。(全称命題 -Wikipedia)。 この命題が真として成り立つのであれば、全ての人が当てはまるわけです。個人的に認めようが認めまいが、共感しようが反感を抱こうが、それは個人の受容の問題だということです。そこで二次的に、受容しない人にどう対応するかが論じ得るのみです。ある人は「受容しない
もう一つの切り口として。 言葉の定義であーだこーだなるのも馬鹿馬鹿しいのでオレ理論(という時点でメタ議論になっている気もするけれど)でいかせてもらうけれど、理論ってのは おおよそ客観的事実と観測された事象について、論理的な整合性のある説明をするためのもの ある事象に対しての論理的な説明を行い、その将来観測されるであろう客観的事実を予想するもの のどちらかなんだと思うんだよね。ここでの「論理」は理論を導くためのツールに過ぎない。論理的に正しいというのは、単に今まで提示した言葉たちに整合性が取れている、ということに過ぎないわけです。 だから、「理論的に正しい」と言うのは事実を認定しているのではなくその切り口での整合性を保証しているだけです。だから、切り口が変わり、観測される客観的な事実が変われば整合性が取れなくなる。つまり、理論を受け入れるというのは、その世界に対する切り口と、それに伴う観測の
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