初音ミク -WikipediaWikipedia:削除依頼/初音ミク -Wikipedia 初音ミク騒動自体には大した興味がなかったものの、Wikipediaの削除についてはいい揉め事の匂いがしたため少し追ってみた。 まず、問題となったのは、初版の内容が公式サイトの転載だったこと。 これは著作権上問題があるということで削除依頼が出され、そのまま合意されそうな状況下でクリプトン社の伊藤社長がWikipediaにコメント。 「転載に問題はありません」とのコメントに対し、本人確認が取れないという意見が出されたため、本人がクリプトン社のブログにて、該当記事をWikipediaに載せてもいいという許諾を記載。 ところが、上記内容がGFDLに則っていないということと、今から引用要件を満たしても履歴が残るとの理由で、削除依頼が継続。その後いくらかのやり取りがあった後、いったん削除して再登録という意
ウィキペディアの"Comfort women"をめぐる議論は、混迷が続いている。その最大の原因は、ほとんどの参加者が問題を理解しないで、孫引きの資料だけで議論しているからだ。ウィキペディアのルールによれば、問題の真偽を明らかにすることは目的ではなく、記述が最終的に「信頼できる情報源」にリンクできるかどうかが信頼性の定義なのだという。この信頼できる情報源は別途定義されていて、たとえばNYTやBBCは信頼できるが、ウィキペディアは信頼できない。 こういう形式主義は、ウィキペディアが仲間うちのメディアだったときはうまく行ったのかもしれない。編集合戦などの紛争を解決するとき、それが本当かどうかを議論していると泥沼になるからだ。しかし今回のように「信頼できる情報源」が信頼できないことが事実によって証明されたら、この手続き論は崩れてしまう。NYTもBBCも、ウィキペディアの定義では信頼できるが、それ
先日、自前のウィキ百科サイト「閾ペディアことのは」を立ち上げてみた。これは、Wikipedia(ウィキペディア)と同じくMediaWikiで作られた極私的百科である。「集合知」の典型ともされるウィキペディアに対して、自分のは当然「個人のまとめ」であって、その性質は自ずから違ってくるのは当然であり、そのどちらがいいとか悪いではなく、それぞれに役割と得手不得手が出てくることになる。 さて、ウィキペディアの運営方針をもとにして、それを少しもじるつもりで自分の運営方針を書き始めてみたところ、どういうわけか完全に逆転してしまった。そこで、改めてウィキペディアというものの存在と性質を考えてみようと思った。 ■ウィキペディアの「集合知」は「真実」を追及するものではない 以前、私ははてなの方でこんなことを書いた。 ■Wikipediaの限界 Web2.0の例としてあげられるWikipediaであるが、多数
ウィキペディアの私に関する項目が、何度も削除されているらしい。いま残っているのは数行の経歴だけだが、これすら間違っている。私は「経済評論家」などと呼ばれたこともないし、名乗ったこともない。私が博士課程を中退したのは、1997年である。 前の記事でも書いたように、私は日本のウィキペディアの品質には疑問をもっているので、このブログでもほとんどリンクを張らない。大部分は英語版の質の悪いダイジェストで、日本語版オリジナルの項目には事実誤認や個人への中傷が多い。西和彦さんの項目などは、学歴や職歴まで間違いだらけで、本人が怒って編集し、大バトルが繰り広げられた末、大部分は削除されて保護されてしまった。 このようにウィキペディア日本版の質が悪い原因は、ウェブで匿名が当たり前になっていることが影響していると思われる。歌田明弘氏によれば、アメリカのブログの8割は実名だが、日本の9割は匿名だという。日本で
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