今年2月に発売されるやいなや、Amazon法学カテゴリでランキング1位になり、法律家のみならずあらゆるジャンルのクリエイターの間で大いに話題となった一冊の本がある。 タイトルは『法のデザイン―創造性とイノベーションは法によって加速する』。法律家の立場からさまざまなジャンルのクリエイターをサポートしている水野祐弁護士による、初の単著だ。その後も版を重ね、6月時点で第四刷となっている。 『法のデザイン―創造性とイノベーションは法によって加速する』(フィルムアート社・2017) (画像はAmazonより) 法とは単に「自由を規制し、イノベーションを阻害する」だけのものではなく、むしろルールの作り方次第でイノベーションを加速するための潤滑油にもなるのだ、というメッセージと共に、この本では、音楽やアート、ファッションなど、さまざまな切り口でカルチャーと法律の関係が具体的に紹介されている。そしてこの本
事前的ルールを選ぶ自由──リバタリアンはハイエクを越えよ 松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』 経済 #リバタリアン#ハイエク この連載では、ここ数回、「固定的人間関係がメジャーだった世の中から、流動的人間関係がメジャーな世の中への転換に合わせて、それにフィットした政策を支える思想も転換しなければならない。それは何か。」ということを見ています。新自由主義も第三の道も、それぞれナショナリズム、コミュニタリアニズムという、固定的人間関係にフィットした思想を採用したために矛盾に陥ってしまったのでした。 そこで前回から、流動的人間関係にフィットした思想として最有力の、リバタリアンの思想を検討しています。リバタリアンと言えば、「税金なんか払わないよ」と言っている人たちというイメージが強いのですが、「左翼リバタリアン」と呼ばれる一派は、困った人のために税金をとることを正当化しています。彼ら
『ナッジ』(邦題『実践行動経済学』)のリチャード・セイラー教授のインタビューが日経ビジネスにのっている(リンク)。 セイラー氏が共著者のキャス・サンスティーン教授と唱えているのが「リバタリアン・パターナリズム」であるわけだが、これは自由放任と家父長的管理の両方を矛盾なく並存させてしまおうというアイデアだ。 左翼的な人は、すぐに何かを禁止したり、法律で縛ろうとしたりします。例えば米国では、健康に悪いから学校ではコカ・コーラを禁止しよう、と運動する人たちがいる。極端な例ではありますが、こうしたやり方はあくまで上からの強制であって、人間的な対応ではありませんね。 逆の極端な例は「レッセ・フェール(なすに任せよ)」、まさに自由放任主義のやり方です。人は何が自分にとって最善の選択かを知っているのだから、政府は強制すべきでない、好きなようにさせよというものです。 しかし「リバタリアン・パターナリズム」
民主党が目指しているスウェーデン型「福祉国家」。スウェーデンは犯罪の増加に悩んでいる。日本とスウェーデンの犯罪発生率を比較すると、刑法犯は日本の 17倍、強盗は100倍、未成年の服役率は10倍を上回る。 福祉国家はネオコーポラティズムな警察国家への一番の近道。 私は、社会福祉士になるための実習で知的障がい者の更正施設に1ヶ月缶詰めになって驚いた。新インフルの流行の際に空調整備ごと1週間で変えた。数千万は掛かるはずだが、電話してすぐ全額の援助を即決した日本財団の懐の広さには驚いた。 日本財団は競艇利権のイメージが強いがドラマ界で多大な権力のある「研音」や、ロックフェラーとビルゲイツの緑の革命には「笹川グローバル2000」も参加しており、原子力利権(二酸化炭素温暖化=炭素税)もある 日本財団が福祉施設を建てまくる(昔ほど落ち着いたが、今もほとんどの福祉施設はここの助成を受ける)のは、福祉国家構
リバタリアン(またはリバータリアン)たちの「結婚」についての考え方が、わかりやすく書かれているページを発見。ので、とりあえず、メモ化。 ちなみに、過去何度か書きましたが、私は、現状からして、政府が結婚制度を廃止する可能性はゼロに近いので、「政府が結婚に対して許可を与えている限り、政府は、結婚に関して、いかなる差別も行わないという基本の下に、全ての人々に結婚の許可を与えるべき」という立場を採用しております。(よって、同性婚も合法化すべきだし、また、非婚出子差別解消のためには、個別の訴訟で争ってる場合じゃなくて、法改正が必要、または問題の元となっている戸籍法そのものを廃止すべき、という考えであります。) (本から自分で引用するのは面倒なので、こういうページがあると非常に助かります。。) ★第十章 現代の諸問題(Contemporary Issues)その2 (D.Boaz : Libertar
著者の増原義剛氏は元大蔵官僚で、東海財務局長で退官した後、2000年から09年まで自民党の衆議院議員を務め、現在は広島経済大学で教鞭をとっている。代議士時代は、内閣府副大臣や財務金融委員会理事などのポストにつき、自民党金融調査会で改正資金業法の立法に携わった。『「弱者」はなぜ救われないのか』は、その経験をもとに、日本の政治がいかにポピュリズムに翻弄されているかを世に問うたものだ。 とはいえ、本書を手に取った読者は、その穏当な表現に落胆するかもしれない。著者の経歴からすればスキャンダラスな告発本になるはずもなく、ポピュリズムを煽ったメディアや政治家が名指しで批判されているわけでもない。しかし政権の中枢にいた元政治家が、自らが立法に携わった法律を全否定するというのは、やはり“前代未聞”なことなのだ。 著者は自らの政治家時代を、次のように自己批判する。 改正当時の経緯を正直に申し上げると、改正貸
副題に「リバタリアニズム入門」とあるが本書「自由はどこまで可能か(森村進)」(参照)は、学術レベルに対する入門という意味合いで、内容はかなり濃く、いわゆる新書にありがちな入門書ではない。 後半になると著者森村氏の見解がやや突出する違和感があるが、総じて現代のリバタリアニズムを俯瞰して理解するには最善の書籍と言える。その分、簡単には読めない。不必要に難解な書き方も悪しき学術的な書き方もされてなく読みやすい文体なのだが、一見簡素な思想に見えるリバタリアニズムが投げかける本質的な課題を考えつつ読むことが難しい。 何度も繰り返し読むに耐える書籍でもある。出版は2001年と古く、やや現代の古典といった風格もあり、この間のリバタリアニズム思想の展開も気になるところだが、とにかく本書を出発点にしないことには話にもならないだろう。 リバタリアンとは何か。本書は、類似または対比される思想的立場との違いを次の
「サイバーリバタリアン」とは何か 今週から連載を始めることになったが、最初にこの奇妙なタイトルを説明しておこう。 サイバーはともかく、リバタリアン、あるいはリバタリアニズムというのは、まだ日本ではあまりなじみのない言葉だろう。定訳もなく、「絶対自由主義」とか「自由至上主義」とか訳されたりするが、これはちょっといけてない。 こういう奇妙な言葉が使われるようになったのは、米国でliberalが「大きな政府」を求める人々を指すようになったので、「小さな政府」を守る古典的自由主義者を「libertarian」と呼ぶようになったためだ。だからこのコラムでは、「libertarianism」を自由主義と訳すことにする。 サイバーリバタリアンという言葉も、10年ぐらい前から使われている。これはちょうど先月、新版の訳本が出たローレンス・レッシグ「CODE version 2.0」のテーマのひとつだ(訳文が
最近、友人がChikirinの日記を紹介してくれた。日本で有数のアルファブロガーだ。かなりの高ペースで良質な記事を書いている人で、鋭い洞察力には舌を巻く。まだ読んだことのない人たちは、是非購読するといい。正味な話、新聞の社説なんかよりも考えさせられる記事が多い。 書く記事もすごいのだが、それよりもぼくが感心したのは、この人のセルフブランディングだ。自称「おちゃらけ社会派」なのだが、実際はおちゃらけてもいなければ社会派でもないのだ。2009年の上杉隆との対談で、彼女はこう述べている。 日本ではマーケットに評価されることの大切さを、理解していない人が多い。なので会社や業界の中で評価されることを気にしているけれど、マーケット……つまり部外者には「どうせオレのことなんか評価できないだろう」といった考えを持っていますね。しかし大切なのはマーケットに評価されることによって、「1人前」と呼ばれることだと
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