2021年4月3日、心不全のためこの世を去った俳優・田村正和さん。生前交流のあった著名人の方々が追悼コメントを発表するなか、田村さんの代表作『古畑任三郎』のモノマネで大ブレイクしたハリウッドザコシショウさんの発言にも注目が集まりました。田村さんの訃報について未だ沈黙を貫くザコシショウさんにその想いを聞くため、TV Bros.編集部はインタビューを申し込み、「古畑」モノマネの今後や田村さんへの想いを語っていただきました。インタビュー後には、渾身の古畑ものまねをグラビア撮影させていただきました。 撮影/ツダヒロキ 取材・文/井上佳子 【プロフィール】 ハリウッドザコシショウ(はりうっどざこししょう) ●1974年生まれ、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身。 1992年、大阪NSC11期生として入学。1993年デビュー、G★MENSとして活動。2002年コンビ解散、ピン芸人に。TBS「あらびき団

URのマンションにもう15年くらい住んでいる。ここは年配者か子育て世代しかいないので静かで住みやすく気に入っているのだけど、4年前に上に引っ越してきた人がだいぶうるさくて困っていた。いろいろ調べて自分で民事調停を起こして解決した。 時系列 4年前の話 下の子が生まれて1歳になった頃に、真上に5人家族が引っ越してきた。挨拶に来られたのはご両親と小さい男の子の3人だったが、あと二人子供がいらっしゃるとのことだった。見た目は普通の、このマンションによくいるような家族だった。こちらも子供が2人いて、下階とはいえ音や振動は上にも伝わるため、うるさかったら教えて下さいね、というような事を話してその場は終わった。 夕方や夜はたしかに足音がドコドコうるさかったが、うちの子もフローリングで飛び跳ねてるしそういうもんかな、と思って気にしないでいた。岐阜の母親が遊びに来て、子供を寝かしつけてリビングでおしゃべり


Executive Summary 2021年10月に、ナオミ・ウルフのツイッターアカウントが垢バンをくらった。コロナ陰謀論とワクチン否定論の最も低級な代物をバラマキ続けたせいだが、それ以前からナオミ・ウルフはどんどんおかしくなっていた。 もともと主著『美の陰謀』でも、ルッキズムからくる拒食症による死者数を、累計を毎年の数字だと思って数百倍にしてしまっており、いい加減さは有名だった。博士論文をもとにした近著Outrages!では、その中心にあった基本概念である death recordedが、単なる形式上の記述なのを知らず本当に死刑だと思って論を構築していたことが判明し、面目が丸つぶれ。その後、5G陰謀論、コロナ陰謀論、コロナワクチン陰謀論に次々にはまっていき、もはや信用を完全に失ってしまった。 2021年6月に、ナオミ・ウルフのツイッターアカウントが停止をくらった。 いやー、ついにそこま

全国の漁業、水産関係者から厚い信頼を受ける、「魚の伝道師」こと、上田勝彦さんの履歴を振り返ってもらいました。漁師、水産庁官僚といった、異色のキャリア。軋轢にも折れず、徹底的に現場に向き合ってきた上田さんが大事にしてきたものを聞きました。 上田勝彦さんはつねに現場にいます。 あるときは、漁港で活け締め(神経締め)の技術指導を行い、あるときは料理店やスーパーの厨房で魚の扱いを指南し、あるときはYouTubeから家庭に向けて魚料理の仕組みを伝える。 あらゆる現場に足を運び、漁業、水産、魚食に関わるすべての人に向き合い、上田さんは「魚を食べる意味」を伝え続けています。 「自分の肩書がよくわからない」と上田さんは笑いますが、漁師、水産庁の官僚を経て、魚食文化の普及を独自に行う現在に至るまで、魚や魚食という軸を、一切ぶらすことなく活動を続け、関係者から厚い信頼を得ています。 なぜ、漁師でありながら官僚

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真:谷浦龍一 進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。 ◆◆◆ 今回の「上京物語」に登場いただくのは、DJ松永さんです。 新潟県の長岡市で生まれ育った松永さんは、中学2年生でヒップホップと出会い、その「得体の知れないかっこよさ」に魅せられていきます。その後、高校を中退するほど没頭するようになり、やがてDJとしての活躍の場を求めて東京へ。 しかし、上京後に待っていたのは苦渋の毎日。東京のクラブに居場所はなく、苦労して制作したアルバムも売れず、辛酸を舐め続けました。その後、2013年にラッパーのR-指定さんとCreepy Nutsを結成してからは少しずつ状況が好転していき

濱口秀司さんの経歴を、履歴書とともにご本人に振り返っていただます。イントラネット、USBフラッシュメモリー、企業の生産活動の効率化など、さまざまな分野でのイノベーションを起こす方法論は、はたしてどのようなキャリアから生まれたのでしょうか。 世界初のUSBフラッシュメモリーの発案・開発に、世界初マイナスイオンドライヤーの創出、はたまた日本初企業内イントラネットの考案・構築、世界トップの物流会社のブランド改善、アメリカ西海岸最大となったコミュニティーバンクの設計、アメリカの缶ワインブームの設計・プロモーション……。彼がこれまでに手がけたプロジェクトの数々は、ちょっと現実味がないほどに膨大かつ多岐にわたります。世界的に活躍するビジネスデザイナーである濱口秀司(はまぐち・ひでし/ @hideshione )さんです。 これまでのキャリアの中で1000近いプロジェクトに関わってきたという濱口さんは、

20歳当時の著者私が初めて自分で賃貸物件を借りたのは18歳の時。それから45歳の現在に至るまで、仕事場として借りたマンションも含めると8部屋ぐらい借りてきたと思う。マンションを借りるたびに、私は面白い出来事や大変な出来事に遭遇してきた。騒音問題に悩まされたり、玄関を開けたら全裸の女性がいたり、隣の部屋で殺人事件があったり、発砲事件があったり。 その中で特に思い出に残る賃貸マンションの話と、そこでの暮らしを経た現在の私の住まいに対する価値観について話したいと思う。 都心のプール付きマンションと、スターになった同居人 20歳の時にプール付きのマンションに住んだ。新宿から徒歩10分ぐらいにある14階建てのオートロック付きマンションで、13階の私の部屋からは都心の夜景が一望できた。 家賃は8万円ほど。80万円ではない、プール付きで8万円ぐらいだった。 立地とプール付きということだけを聞けば「いや

厚生労働省の官僚として、女性政策や障害者政策に携わり続けた村木厚子さんの履歴書を深堀りします。育児とハードな仕事の狭間での葛藤。予期せぬ逮捕と、やがて手にした無罪判決。そして、事務次官へ。激動と呼べる半生を村木さんが振り返ります。 長年に渡り官僚として女性政策や障害者政策に携わりながら、予期せぬ逮捕で罪に問われ、裁判で無罪が確定し、復職。その後、女性としては史上2人目となる厚生労働事務次官(国家公務員の最高位)を務めた村木厚子(むらき・あつこ)さん。こうした履歴を目にすると、私たちはその人に「不屈の人」という印象を抱きます。しかし、村木さんはご自身を評して「平凡」と語ります。 「平凡な人間でも、職業人生を全うできることを証明したかった」と語る村木さんの言葉から見えてきたのは、激動と呼べる半生とは裏腹のしなやかさ、そして逆境にあっても決して失われなかった信念でした。 「志なんてなかった」消去

全財産の内訳は、大学生の時からベンチャー企業で10年間働いて、したたり落ちるスズメの涙を貯め込んだお金と。 こんなもん、もう一生書けへんわと思うくらいの熱量を打ち込んで書いた本の印税だ。 それらが一瞬にして、なくなった。 外車を買ったからだ。 運転免許もないのに。 「調子乗ってんなよお前」と思った人も、「どうせ“わたしのマネをすれば秒速で車が買えるんですよ”ってやばいビジネスに誘うんだろ」と思った人も、一旦、聞いてほしい。 わたしは、わたしなりに、誇らしい使い方をしたのだ。 あまりにも誇らしいので、一連の流れを12月6日放送の「サンデーステーション(テレビ朝日)」で取材してもらうことになったけど、時間が限られているTVでは、わたしの本当の思いが3分の1も伝わらず、ただ壊れるほど散財した女に見えるのではと心配している。 だから、一旦、聞いてほしい。 そもそも、誰のために外車を買ったかと言うと

五百旗頭正男被告の判決文。「王族の末裔」「ブライトン王国の王になれる」といった文言が並ぶ=2020年7月24日午後9時50分、横見知佳撮影 「私は王族の末裔(まつえい)。海外にある資産を回収して王国を建国するために支援してくれれば、1・5倍にして返す」――。そんなうたい文句で多額の金をだまし取ったとして、詐欺罪に問われた住居不定、会社役員、王見禎宏被告(67)の判決が28日、福井地裁で言い渡される。 6月1日に福井地裁で開かれた王見被告の論告求刑公判。4月に懲役5年の判決を受け控訴した東京都文京区、会社役員、五百旗頭(いおきべ)正男被告(71)と共謀し、2013年に東京都と福井県の2人から計6150万円をだまし取ったとされる王見被告に検察側は懲役5年を求刑した。しかし、王見被告は最終意見陳述で資産が存在すると信じて疑わない様子だった。「逮捕されたからといって事業が終わるわけではない。生きて

愛媛県松山市生まれ。私立済美高校で4番打者として甲子園で活躍。2005年に北海道日本ハムファイターズ入団。2015年に戦力外通告を受け、合同トライアウトを経て東京ヤクルトスワローズに入団。2018年に引退。その後、ソニー生命保険株式会社に入社し、生命保険営業を担当。 高校野球は人生で一度きり 愛媛県松山市に生まれました。1つのことに集中しやすい性格の子どもでした。近所に虫捕りに行ってトンボを見つけると、他の虫は全く目に入らなくなり、そのトンボだけを狙い続けていましたね。 小学4年のときに、友達に誘われてソフトボールを始めました。チームに大学野球で実績のあるコーチがいて、基礎からわかりやすく教えてもらえたので、すぐに夢中になりました。夢中になると、うまくなるためにいろいろ試します。何事も練習すればできるようになるという考えだったので、苦手なところはひたすら反復練習。自由に使える時間は全部ソフ
あの大ブームは、なんだったのか本格的なとんこつラーメンブームを巻き起こし、まさに一世を風靡した、あの店が復活している。 そう、とんこつラーメンブームの仕掛け人、環七ラーメン戦争の王者、平成ラーメン史に太字ゴシックでその名を刻む「なんでんかんでん」だ。 日本がバブルに湧いていた1987年に環状七号線沿いに本店がオープン、全国のラーメンファンに愛された。 期間限定の店も入れると過去には最高で16店舗まで拡大したこともあったが、その後2012年に環七沿いの本店が閉店し、全店が閉店。 だが、2018年9月、実に6年ぶりにその味が復活した。高円寺店ができ2020年からは渋谷肉横丁に舞台を移して「なんでんかんでん第2章」が始まっている。 と、なるとやはりこの人の話が聞きたい! そう、なんでんかんでんフーズ社長の川原ひろしさんだ。 今も変わらず名物社長であり続ける川原さん。「なんでんかんでん」の今につ

鹿児島県出水市(いずみし)の山深い場所に「東雲の里」(しののめのさと)はある。 ここは、広大な山の敷地に約10万本のアジサイが咲く大庭園だ。この場所を作り上げたのは、当時看板と陶芸の仕事をしていた宮上誠さんという一人の人物。 もとはジャングルのような手付かずの山だった。今から27年前の1992年、当時46歳だった宮上さんは、この土地の未知なる可能性にロマンを感じ、なたと鎌とつるはしで開墾を始める。この山に理想の蕎麦処と陶芸の窯を作ることを目標に。 無謀ともいえる挑戦。「そのうち音を上げてやめるだろう」という周囲の予想を裏切り、今では多くの人が訪れる観光名所になった。アジサイの時期は鹿児島のみならず、関東や関西、そして海外からも人がやって来る。 ▲園内はとにかく広く、マップがないと道に迷いそうだ(画像は東雲の里HPより) 広大な敷地にはアジサイ以外にも桜や椿、木蓮など多くの花や木が植えられ、

新潟を拠点に活動している3人組アイドル・Negicco。2003年の結成から活動歴はなんと16年。2010年にはご当地アイドルの全国コンテストで優勝をつかみ取りました。現在は「にいがた観光特使」をつとめるほか、地元企業のCMにもひっぱりだこ。地域密着型アイドルの成功例とされています。 その後もシングル曲がオリコンチャートTOP10入りするなど、着々とステップアップを続けてきたNegiccoですが、リーダーのNao☆さんが31歳の誕生日に結婚を発表。「結婚後もNegiccoは続けます」と宣言し、恋愛禁止ムードが漂うアイドル界に革命を起こしたのも記憶に新しいところです。 今回は、アイドル活動をしながら、新潟大学の工学部を2014年に卒業した「かえぽ」ことKaedeさんをお招きしました。年齢を重ねることで募っていく「今のままでいいの?」という焦りとどう向き合ってきたのか聞きました。 25歳で感じ

気づかないうちに、人は普段いる場所の時間感覚を身につけているはずだ――。15年以上歩みを続けてきた劇団ハイバイの主宰にして、劇作家、演出家、俳優の岩井秀人は、そう言葉にした。今年2月から全国を行脚した、松尾スズキ・松たか子・瑛太・前野健太らが名を連ねた新作『世界は一人』を終えた岩井は、生まれてこの方40年以上住み続ける東京の小金井で今、羽を休めている。 多摩や島しょ地域の自然の魅力、そこでの体験価値を発見する事業を東京都及び(公財)東京観光財団が支援するプロジェクト『Nature Tokyo Experience』を考えるにあたって、「東京だけど東京じゃない」という「小金井性」が沁みついていると語る岩井に、じっくりと話を聞いてみた。目まぐるしい日々で生きていくうちに忘れてしまいがちなオルタナティブな感性が、ここにはある。 新作も再演も、一つひとつの作品をじっくり作っていきたい。 ―ここ最近

東京から1240km離れた五島列島でもリモートワークできるが、やらない方がいい。-子連れワーケーションの理想と現実ー 正直に書くと、1週間ずっとモヤモヤしていた。 忘れないうちに、きれいごとではうまく行かない子連れワーケーション(ワーク+バケーション)の理想と現実について整理してみる。(まだ整理しきれないので、長文です。個人的な見解です。) まず、前提として ■5月20日(月)~5月25日(土)までの5日間の参加 ■小学2年生の息子と年長の娘を連れて参加。息子は地元の小学校に体験入学(朝8時ー14時半)娘は保育園に一時保育(朝9時ー16時)。働ける時間が通常時間の約半分 ■リモートワーク実証実験だったので、普段の仕事を山のように持って行った。(テレビ会議15件、制作案件4件) ■私は会社を経営している。サテライトオフィスを展開し、社員もリモートワークで雇用し、私自身も都内の企業にリモートワ

「自分は生きている間にあと何本のゲームを遊ぶことができるだろうか」って思うことありません? 1日平均2時間とすると年間730時間。物心がついて多少物事を覚えておける10歳から頭のしっかりしている70歳までゲームを遊べるとして60年間。すなわち730時間×60年=43800時間程度が人生をゲームにぶつけて過ごすことができる時間です。 長く遊ぶゲーム、短く切り上げるゲーム、色々あるでしょうが1本平均30時間遊ぶとすると43800時間を30時間で割って、1460本。これが1日平均2時間遊ぶ人が、生涯遊べるゲームの本数です。1日平均2時間以上遊べる人はもう少し多くなるでしょうし、平均2時間遊ぶ時間を作れない人はもっと少なくなると見積もると良いでしょう。 一生で遊べるソフトは1460本。いま10歳の人が残り1460本遊べるのだから、20歳の人は残り1217本、30歳の人は残り974本、40歳の人は残

昨夜、サッカーで日本とパラグアイが激闘を繰り広げているまさにそのとき、僕は、二本のセクシー動画とバイアグラで激闘を繰り広げていた。家族に見つからないよう、声をひそめてポニーテールをシュシュする悦びに浸っていたのだ。突然、理由もなくアニマルになったのではない。最近、10日ほど僕を悩ませていたミステリーがすっきりと解決し、安心したのだ。先日(先月末)、父の命日の朝に墓参りに行った。いつもの墓参りとはちがった。僕と母が墓に着いたとき、すでに墓前には盛大に花が飾られていたのである。父の命日を知っている、近しいが家族ではない人物による花、主役の向日葵とエキストラ・フラワーズ。ここ十年ほど、家族や親族以外で墓参りに訪れる人はほとんどいなかった。墓参りのスタートは、前に自分たちが飾った花を片付けるのが常となっていたので、僕らを待ち構えていた小さな向日葵の黄色と茶色の鮮やかな色彩には、日常に意外が差し挟ま
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