東京にきて30年以上経ったが、立川によく行くようになったのは7~8年ほど前、多摩ニュータウンに引っ越してからのこと。東中野に住んでいたころは、買い物といえば新宿や渋谷だったので、立川に行くきっかけがなかった。立川という町のことをよく知らず、「駅の近くに大きな公園がある」程度のイメージしかなくて、その公園の由来もよく知らなかった。高度成長期に多摩丘陵を切り拓いて作ったのだろうと思っていて、立川飛行場の跡地だったと気づいたのも最近のことだった。 立川駅から北には、空き地がちらほらあって、それらも昭和記念公園と同じく飛行場や軍需工場の跡地だった。終戦後も米軍に接収されていて、返還されたのが昭和52年のこと。『宇宙戦艦ヤマト』の映画が公開されてブームになったころで、返還後も最近まで空き地になっていたところもある。 立川駅の近くは、飛行場のあった町でありながら、その歴史を明示することはなく、駅前に飛

セルフうどん店でカレーうどんを食べながら、「いつも同じ店でごはんを食べる人は老化で前頭葉機能が低下している」という主旨の記事を見て、あまりにも当てはまりすぎて認めるのがつらかったので、反射的にサバサバしている女の漫画を読んでしまった。サバサバしている女の漫画は広告でもよく見かけるが、「サバサバ」で検索しても上位に出てくる。擬態語がひとつの漫画に占拠されるさまはなんともエキサイティングである。その漫画は、「女の敵は女だ」から始まるので、こちらはこちらでつらかったのだが、それはともかく、たしかに、新しい店に行くのがおっくうという気持ちはわたしの中にある。そしてその気持ちがわたしの暮らしを貧しいものにしているという強い自覚もあった。なので、しばらくカレーうどんは控えて、なるべく行ったことのない店に行こうと誓ったのだった。 わたしにとって「行ったことのない店」の筆頭は調布にある有名なバー、ジャクソ

大阪の実家を出てから梨をほとんど食べなくなってしまった。高校生のころまでは、わたしは自分のことを梨大好きマンだと思っていたのだが、ふりかえってみると、皮を剥かれて八等分されて楊枝が添えられた梨が秋の始まりとともに食後に自動的に出てくるのが好きなのであって、単に王様のように振る舞いたかったというだけではないか。自分の稼いだお金で梨を買い、皮を剥いて八等分して楊枝を添えてまで梨が食べたいとは思わず、ごく稀に人から梨をもらったときだけ皮をピーラーで剥いてそのままかじりついて、梨もいいよねと思うのは、「梨大好き」とはいえないので、上京して早々に梨大好きマンの看板を下ろしたのだった。 そのままわたしは数年に1回、人に与えられた梨のみで暮らし続けるのかと思っていたのだが、先日よみうりランドの近くに梨の園―「梨園」と書くと別の意味になるかもと思ってこう書くのだが、むしろ別の意味の方が後なのだから、別の意

きょうは椅子が低すぎたことに気づいた話をしたいが、特筆すべきドラマなどは特になくて申し訳ない。 椅子が低すぎたことが発覚したのはキーボードの傾斜問題が発端だった 先日、「キーボードの傾斜は実は意味がない」という趣旨の記事を見かけた。そんなはずはなかろう、わたしはキーボードを使い始めて40年近く経つが、キーボードに傾斜をつけることの意義をよく知っている。初めて使ったパソコン、シャープのX1 turboのキーボードにもチルトスタンドがついていて、わたしはそれをビンッビンに立ててディズニーランドとは似ても似つかない世界を冒険する『デゼニランド』などのゲームを満喫していた。80年代前半のパソコンは入力機器としてマウスが使われていないこともあり、ゲームも英語で直接コマンドを打ちこんで進めるものが多かった。しかも開発する者も遊ぶ者も英語ネイティブではないから、プレイヤーは正しい英語ではなく製作者の頭の

いまから白身魚のフライが好きという話をしたいし、エビやアジのフライにしか興味がない方はこっち(どっち?)に来てほしい。ただ白身魚のフライについての意外な情報のようなものはこれを読み進めたところでどこにも書いていないので申し訳ない……。 「白身魚」という名の魚はいない 「雑草という草はありません」。昭和天皇のお言葉である。ナマズの研究でおなじみの秋篠宮皇嗣殿下におかせられましては「白身魚という名の魚はありません」と仰せられたかどうかは把握していないが、秋篠宮皇嗣殿下は白身魚と名付けられた料理を召しあがったことはないに違いなく(念のため検索はしてみた)、そもそも白身魚という概念をご存じないかもしれない。ナマズは白身でおいしいのだが、白身魚のフライはスケトウダラ・ナイルパーチ・ホキ・パンガシウス(名前が怖くない順に書いたら受け入れてもらいやすいと思って……)などといろいろである。お弁当屋さんでは

海苔がそこまで好きでなかったライター、ココロ社です。 4月以降、多くの店がテイクアウトに対応して、わたしもいろいろな店の料理を持ち帰って楽しんだ。たとえば焼き鳥屋でも、焼き鳥単体ではなく、お弁当の形で提供しているが、テイクアウトを始めたお店が供してくれるのは、当然ながらできたての温かいお弁当。焼きたて&炊きたてでおいしいなぁ……と思いつつ、家でいただいていただくことも多かったのだが、食べるにつけ、脳裏にぼんやり、クラシカルなお弁当の姿が浮かんできたのだった。 【目次】 「温かくないお弁当が食べたい」という気持ちになる 「海苔=食べられる黒い紙」という偏見を超えて 海苔弁当に特化したお店、「刷毛じょうゆ 海苔弁 山登り」 お弁当を買ってから海へ向かう……これこそお弁当の醍醐味である 海苔原理主義者に変身したあとは海へ行こう この香りは海の香り?いえ、お弁当の香りです 過酷な持ち帰りでもおいし

話が長くなるので最初に製法についてまとめておきます。 【材料】 牛乳:200cc 砂糖:大さじ4杯 紅茶:10グラム クローブパウダー:大さじ1杯 シナモンパウダー:大さじ1杯 生姜:20グラム にんにく:20グラム 【製法】 ①牛乳・砂糖・紅茶・クローブパウダー・シナモンパウダーを鍋に入れて、弱火で7分温める ②①の間に、生姜とにんにくをすりおろしておく ③生姜とにんにくを鍋に入れて混ぜ、2分温める ④茶こしを通してカップに注ぐ ⑤うへっ……なんだこの飲み物は! ~~~ 先月、「海外のセレブの間でバターコーヒーが流行している」という話題がわたしの脳に届けられた。痩せたり集中力がアップしたりするなどの効果があるそうである。集中力は本当かなと思わなくもないが、痩せたら腹の肉が視界の端でチラつくこともなくなるだろうから集中力はおのずとアップするということなのかもしれない。 もしかするとあなたは

百合ヶ丘で降りてみようと思ったが、どうせなら新しい方がいいと思って新百合ヶ丘で降りた。大きな目をした色白の人がたくさんいる街だと毎度のことながら思った。この町の住人は自分の写真を撮るときに写真を整形する必要がないのかもしれない。 駅から5分ほど南下したあたりで、ふと、わたしの体が花を摘みたい状況にあることに気づいた。もともとわたしは花を摘むことがさほど嫌いでもなく、純粋に花を摘みたいときだけ花を摘むというより、気分転換として花を摘んでいたりもしてきた。花を摘みたいという気持ちが頂点に達してから花を摘むようにすると、本当に花を摘みたいと思ったときに即座に花を摘む場所に行けないかもしれないという強迫観念もある。ただ、いまの状況について考えると、「花を摘みたい」という気持ちは、その強さが頂点に達するはるか前に感じられる気持ちにすぎず、1時間以内に花を摘むことが望ましいが、いますぐ花を摘まないと悲

家系ラーメンのマインドシェアが低いという個人的問題 家系ラーメンのわたしのマインド中のシェアが低いことが、常々わたしの中で問題視されてきたのだが、その理由はふたつあった。 そもそも、立ち位置が定まっていないように見える。脂ぎっていることがアイデンティティなのかしらと思うが、そうでもなさそうである。わたし自身、脂ぎったものを食べたいと思ったときにはラーメン二郎→なければラーメン二郎にインスパイアされた店→なければ家系ラーメンという行動を取る。海苔やほうれん草がのっていることで、コンセプトのいっそうのゆらぎが感じとれ、和風にしたいの、それとも健康的なラーメンということにしたいの、などと、物言わぬ家系ラーメンに語りかけたくなってしまうのである。 しかも、世間では、家系ラーメンが、脂ぎった食事の代表のように扱われている点に違和感を覚え、わたしの心はますます家系ラーメンから離れていった。「ダイエット


『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』を聞いた事がある人は多いと思う。むしろ聞いたことがない人はどのような暮らしをしたらこの30年間聞かずに過ごしていられたのか知りたいほどである。もしかしたらハムスターに育てられたから聞いたことがないという方もいらっしゃるかもしれない。歯が生えるまではひまわりの種を何度も喉に詰まらせ生死の境をさまよったりもしたが、成長するにしたがって頬の大きさは並のハムスターの十倍以上に成長。歩くひまわりの種貯蔵庫としてハムスター銀行の頭取に就任するも、まわりのハムスターは数年で死ぬので、ハムスターが生まれるたびに種を貯蔵することの大切さを説くことから始めていた。そんな暮らしなら、音楽を聞く余裕などないだろう。 特殊な環境にいる人の話はともかくとして、『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』がなぜかくも空間をoccupyし続けて(≠聴き継がれて)いるのかというと、そ

「わかめラーメン」について、35年以上疑問に思っていた案件が解決した(ような気がする)ので共有させていただきたい。 わかめラーメン。言わずと知れたエースコック社のロングセラー商品である。 今も販売され、ラベルにはsince 1983と誇らしげに記してある。乾燥重量にして5グラムにも満たないわかめが健康にもたらす効果はいかほどかと思わなくもないが、安価な具を加えるだけで、当時不健康な食べ物の象徴的存在だったインスタントラーメンのイメージを変えたのはアイデアの勝利と言わざるをえない。 発売から35年を経ているが、有機丸大豆を使ったり、食物繊維を表示したり、健康をイメージさせる施策に余念がないし、健康に無頓着な人にも、優しい味のインスタントラーメンとして一定の支持がある。本題とは話がそれるが、ゴマを増量してさらにゴマ油を増量するとさらに天国に近づくのでお試しいただきたい。 実際のわかめラーメン

「いかがでしたか」という、もともとは不快な意味を持っていないはずのフレーズが、いつしか読む価値のない、読者を苛立たせるコンテンツの代名詞になってしまった。さらに丁寧なはずの「いかがでしたでしょうか」については、その丁寧さとは裏腹に、いっそう腹立たしいと思われている。 いったい、いつからこのような状況になってしまったのだろう。そもそも、無意味な情報を書き連ねるにしても、なぜ最後に読者に質問するのかと不思議に思う人も多いかもしれないが、その謎について記憶をたどってみた。 わたしの記憶がたしかならば、オンラインの文章の末尾につく「いかがでしたか」の決まり文句は、ブログの草創期に、ブログの理念とともに誕生していた。 ブログの登場により、読者と作者の関係が大きく変わった。雑誌やホームページを読んだ人は、その文章に対して感想や批評を述べたくなったとしても、読者ハガキに書くか、電子メールをしたためるかく

先日、あさりのホニャホニャうどんをいただいたときの話。 実際のメニューの名前は、たしか単に「あさりうどん」だったはずだが、あさりの味が薄かったので、あさりとうどんの間に「ホニャホニャ」という緩衝地帯を設けておかないとわたし的におさまりがつかない。そもそも味がしないのに殻だけは一人前につけているところが少々気に入らなかった。漁港のそばで定食とともに供される蟹の味噌汁と概ね同罪で、罪名は「海っぽい気分だけを味わせた罪」。ただひとつだけよいことに、あさりのうちの一匹の模様がまるで水墨画のようだったのだ。 念のため書き添えておくと、あさりの模様のすべてがこのように美しいわけではない。わたしはあさりをいただくときは、ひとつひとつ模様を確認しながらいただくという、人畜無害だが悪趣味な習性を持っているのだが、そのわたしの経験上、ほとんどのあさりの模様は退屈である。 念のため白黒にして、より水墨画度を高め

ドラッグに類する粉の多くはエクスペンシブであり、気持ちよくてエクスペンシブなものに囚われてしまったら、その気持ちよさを追求するためエクスペンシブ性に目をつぶり続々とその粉を購入し、やがて破産してしまうという危険性をはらんでいるので、粉を見たときにわれわれは以下の点に気をつけなくてはならない。 ①その粉はエクスペンシブなものではないか →エクスペンシブであるかどうかの目安は人によるが、借金をしてその粉を購入していたら、その粉はどう考えても身の丈に合わずエクスペンシブである。 ②その粉に常習性はないか →常習性とは、「それを摂取しないと禁断症状が出て、生活が困難である」ということ。仕事の疲れを粉で癒やすことがあってもよいが、その粉を入手するために仕事をするようになってしまうと、主従関係が逆転してしまい、人生を粉に支配されているということになる。 ③その粉はファッショナブルでないか →たとえば映

先に、忙しい人(お仕事無理せんといてね……)のためにまとめておいたので参考にしてほしい。このまとめ以下は単なるポエムなので読む必要はない。 2019年の三十槌の氷柱の公開期間は2月17日(日)、あしがくぼの氷柱の公開期間は2月24日(日)まで 急行バスに合わせて特急を予約すると楽 「三十槌の氷柱+三峯神社」のセットより、「三十槌の氷柱+あしがくぼの氷柱」の方が楽しいかもしれない あしがくぼの氷柱だけでもお釣りがくる(何のお釣りか知らんけど)感じがある 在学中にスクールカースト上位で、就職してからも会社カースト上位にいるような人でも、冬になると、ふと三途の川の向こう岸がどうなっているのかについて興味を持ってしまうことがあるという……などと微妙なデマから書き始めてみたのだが、誰しも部屋にこもりがちな季節であることは事実だろう。コミュニケーション界におけるカースト上位の人であれば、「最近引きこも

5年ほど前からわたしのなかで「靴尖り男子」が大きな話題になっている。悩みごとが少ないときは、脳内の半分以上をこの話題が占めている瞬間があるほどで、靴先は丸ければ丸いほどよいと考えているわたしとしては、靴尖り男子を見るたび、ほんとうに自分はこれでいいのかとその靴先に詰問されているような妄想に陥ってしまうのである。 以前、何かのフォーマルな集いがあり、渋々求めたのが左の靴。そのとき店の中にあった革靴のなかでもっとも靴先がマイルドだったのがこの靴だったが、これでも自分にフィットするものであるとは思えず、よほどのことがない限り、このような靴を履くことはないだろう。右の靴がわたしにとって理想的である。 同じ衣服の中でも、たとえばカーディガンの色が好みでないとか、袖が余ったりなどであれば、まあ安ければいいやと思いつつ着るのだが、靴の先だけは尖らせるわけにいかないという強い信念がある。この信念はどこから

スマートフォンの登場により、進行方向を見ずに歩く人が飛躍的に増えた。 それまで進行方向以外を見ながら歩く人といえば二宮金治郎くらいしかいなかったし、その金治郎が読書しながら歩いたところで、道ゆく人たちは咎めるどころか、むしろその勤勉さを褒めたたえていたが、本当に勤勉だったのだろうか。もしかすると、金治郎は農業技術の本の表紙にポルノ小説をくるんでいたのかもしれない。小説に挿入されていた春画の結合部分に目を凝らし、よりよく見えるよう、本を斜めにして覗きこんだりしているうちに蛇行して藪に突入してしまったこともあったかもしれない。そうしなくてもよく見えるよう、当時の画家は男性器も女性器も実際の人体の比率より大きめに描いていたはずだが、偉人の代表ともいえる金治郎のような男でも、それがエロスという領域になってくると、「見る角度を変えたところで、描かれたもの以外が見えることはない」という単純な事実を理解

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