2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。 一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、「休職」を理由に認められなかった。 母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。長男は母親との心中を考えるようになる。 そして

「この世界の片隅に」について。まだ見てねえけど、いい映画なんだろうなーというのは何となく感じる。 ただ、それをめぐってこういう言論が飛び交うのにはつくづくウンザリするなあ…。 http://togetter.com/li/1048335 ここにはどうも「反戦」という概念が戦時中には「なかった」とか思い込んでる人が一定数いるようで、それこそ鳥肌立つ。それじゃ憲兵さんや特高は何を取り締まってたんだよ。大正から昭和初期に言論を取り締まられてた人たちが何を唱えていたか、当時の雑誌を少しでも見てみればわかることなんだが。図書館に行けば復刻でもなんでも見られる時代だよ。見て確かめたのかよ? 何より、大昔に死んだうちのひいじーちゃんは、右翼の大物ともつきあいのあったそれなりの医者だったそうだが、戦時中酔っぱらって「こんな阿呆な戦争を誰が始めたんじゃ!負けるに決まっとろうが」とか叫んで警察のお世話になった

By Andre PanTwitterが同サービス上にはびこる「嫌がらせ行為」に対してミュート機能や報告システムに変更を加えた同日に、アメリカのインターネット発の新しい右翼「オルタナ右翼」のアカウントを閉鎖していたことが発覚しました。また、大統領選挙で40万ものボットが選挙に関するツイートを行い、そのうちの75%がトランプ氏を支持する内容をツイートしていたことも判明しています。Twitter suspends alt-right accounts http://www.usatoday.com/story/tech/news/2016/11/15/twitter-suspends-alt-right-accounts/93943194/ 保守系とされるウェブメディアや掲示板、SNSなどにおける議論から育ったオルタナ右翼は、アメリカのネトウヨという位置づけの政治思想グループのこと。このオ

11月8日の米国大統領選挙でドナルド・トランプ氏(71)が意外な圧勝をしたことは米国民衆の現状への不満の根深さを示した。国際情勢への無知を露呈した暴言の連発と言動の品の無さには共和党の幹部達もあきれはてて支持を取り消し、米国のメディアのほとんどがクリントン支持を表明する中、失業や貧富の格差拡大に怒る大衆は現状打破の希望を彼に託した。 これには十分な予兆があって、2011年9月から数千人がウォール街を占拠する「99%の乱」が起き全米各地に波及していた。米国では1%の人々が資産の34.6%を握っているから、そうでない99%の人々の怒りがウォール街などでの座り込みに顕れたのだ。米国では上位20%の人々が資産の85.1%を保有している。過去30年間で物価高を差し引いた実質所得が向上したのは人口の5分の1の上位20%だけ、次の20%はおおむね横ばい、残りの60%は減少したのだから、ただでは済まない情

承前 「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」という動員要求 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか 似非科学(疑似科学)批判派の中にある特徴をもった人々がいる。 専門知の範囲外では基本的に権力寄りの判断をする人々というか、ある種のポジショントークをしていることが露骨に感じられる人々のことで、確実ではないものの分かりやすい特徴を言えば、原発の再稼働を求める人々であることが挙げられると思う。 その言葉を使う人が想定する人々と私が想定している人々が重なるかは分からないが、ニセ科学批判教団という言葉はそういう人々を指していると思う。 とりあえず、ここではそういう人々を暫定的に原発再稼働派似非科学批判派と呼ぶことにする。 仮にであるが、私がそういう人々に「ニセ科学が人を殺すとか言って他者を動かそうとしている以上、そういう貴方は人を殺した似非科学であるところのナチスの優生学を当然批判するよね」と言う場合、そうい
「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」は人権感覚への一貫性を利用した人権派に対する動員要求である。 それぞれの人はそれぞれの関心事にそれぞれのリソースの範囲であたれば良い筈なのだが、「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」という言葉で人権派は人を死から救うために動員要求に応じることを求められ、応じないことをもって「お前らの人権感覚は偽物だ」と嘲られるのである。 近年で言えば、クーラーを使えずに熱中症で死んだ人を挙げて「原発を動かさないと弱者が死ぬ」と言うのがその例であろう。 そして、その例であれば、少なくとも私はその動員要求に応じることはない。 有り余る電力供給があろうと電気を使えるだけの金と道具を持たない弱者が死ぬのであり、電力供給の全てを弱者にまわしても絶対量が足りないという状況でもないのに弱者が死ぬならば強者の電力消費を抑制して弱者に優先的に電力を分配しようとしないから弱者が死ぬのだ。 弱者を

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