高校のときに好きだった女の先生がいて、 今もなんか変に執着してて、暗証番号とかにその人の誕生日設定するぐらいに一方的に好きなんだけど 昨日、1ヶ月ぶりにその人のインスタを見たら「結婚しました」って指輪の写真上げてて涙止まらなくなった 私が最後に会ったのは浪人してたときかな、 そのとき確か32歳って言ってた気がする そこから8年経ってるから今はもう40歳かな すごいな 私がその年齢で独身だったら色々億劫になっちゃって、好きな人のことをとても適当に扱ってしまう気がする というか結婚するの初めてなのかも私は知らない 見た目と言動がまとも、とてもまともな人だったから独身なのが当時から不思議で バツイチじゃね?って言ってる同級生もいたな あーー本当に好きだった Y先生数学の先生なんだよ 国公立志望のコースだから3年間お世話になった こんなこと恥ずかしくてネットにしか書けないけど、自分は本当に数学が

ハラルフードのお店でマトンのビリヤニを注文したら ムスリムのおじさん店主に「最後だからライタないけどいい?」と言われた ライタってなんだっけと思っていたら「ヨーグルトソース無いから100円引きにするけだいじょぶ?」とのことだった 「大丈夫です」と伝えて、しばらく経って、マトンのビリヤニがやってきた パサパサの米とマトンをスプーンでかっ込んでいると、店に電話がかかってきたらしく、 店主のおじさんは奥へ引っ込んでいった 小さな店でお昼のピークを過ぎていたのでお客は私一人、店員は店主のみなのでその場には私しかいない マトンの骨とクミンシードと明らかに辛そうな青唐辛子をよけつつ香味のついたジャスミンライスを汗をかきながら口に放り込んでいた スピーカーにしているのか、おじさんの電話の相手の声が聞こえてきた 「耳の聞こえない方からの依頼で電話しているのですが」 「はい、どういったご用件ですか?」とおじ

昔々、横浜は関内に住んでいた時のことだ。この関内、は文字通りであってJR(さすがにもう国鉄ではなかった)の駅から海側のエリアである。諸氏はそんなところに住居があるのかと驚くかもしれないが、当時は雑居ビルの上の方に思ったよりは多く転々と貸間があった。ただし、下の方からは常に酔客の声やカラオケのだみ声(後学のために申し上げると、カラオケ騒音で一番外に響くのはよりにも寄って音痴なおっさんの胴間声であって、BGMは全く聞こえぬ)が常に聞こえ、よく言って華やか悪くいうとそりゃ真っ当な借り手はなかなかつかねぇよね、ということになる。 その時は-このシノギだけは真っ赤な嘘の話だが-、石化パイプライン屋の営業部隊に属して、港町には良くある怪しい中東系商社から注文を取って糊口をしのいでいた。中東系商社は母国の都合で動く。つまり、朝は遅く夜は次の日が来るぐらいまでが仕事のピークである。こっちもそれに合わせて変

学生時代のこと 入学当初、地方から出てきた俺は期待や緊張やらで毎日がなんとも言えないそわそわした気分だった。 ある日学生課で手続きのことなどを色々聞いていたら、後ろから声をかけられた。 「あ、~学部ですか?私もです」 淡い茶色のふわふわしたパーマが特徴的な、明るそうな女の子だった。 それをきっかけにして入学当初はその子(以下M)と一緒になることが多かった。 徐々にそれぞれ別の友達も出来ていったが、共通の友達同士でのグループ付き合いもあり、よく一緒に遊んだりしていた。 そしていつの間にかMは俺の友達の一人と付き合うことになった。正直Mは俺の事を内心気になってるんじゃないかと勝手に思いこんでたので少し驚いた。 でも自分から積極的にモーションをかけるようにも見えなかったし、押しに弱そうだったので流れで付き合うことにしたのかなと思ったりした。 俺は俺でMのことはなんとなく気になってはいたけど、これ

俺は海沿いの街で暮らしていて、二日に一度くらいの割合で仕事が終わってから浜辺に焚き火台を出して一人で何時間も火を焚いているという、あんまり頭の良くない趣味を持っている。 職場から家に帰ってきて焚き火台と薪を持って浜まで行くと、始められるのがおおよそ19時過ぎで、何回もやっているくせに木が炭になる時間の感覚がいまいちつかめないのもあって、「俺はいま焚き火をやってるな」と実感できる数の薪を燃やしていると綺麗に燃え尽きるのが21時半ぐらい、それからようやく夕飯を食べ始めるのでやっぱり馬鹿なんだと思う。 季節で日が落ちるのが遅いけれども、灯りのあまりない海岸なので、20時を過ぎるとかなり暗くなる。自動車が道路を行き交う音と海鳴りが聴こえる闇の中にいるのは俺だけ…では意外となくて、砂浜に降りてくる道のコンクリートで舗装された突端に、よく誰かが二人で座っていたりする。 それは必ずしも決まった人たちでは

私は昔、機械式駐車場の建設、整備を行う仕事をしていました。マンション等に住んでいる方なら実際に使ったことがあるんじゃないでしょうか。 ボタンを長押ししたり、自分の車が止めてある番号を選択して呼び出すタイプの駐車場です。 平置きとは違いスペースが無くとも複数の車を止めることが出来るので都市部などではよく見られるかと思います。 地方、特に田舎だとほぼ無いでしょう。駐車場の土地が確保できないなんて事は希ですし余程のことが無いと建てないと思います。 だからこそ、あの村で見たボロボロの装置は私にとって不気味で仕方ありませんでした。 数年前の夏、暑さもピークを迎え汗が吹き出るようになった時期に、知らないアドレスから仕事の依頼が届きました。 元請けからではなく利用者の方からの直接の依頼は珍しかったので興味本位で詳細を伺うことに。 私は主に関東エリアで仕事をしているのですが、今回の物件は東北地方の某所に

大学卒業後に入った会社を2年で辞め、その後は父が経営する不動産分譲会社で働いていたが、父が病死し自分が跡を継ぐこととなった住宅分譲には注文住宅(顧客が希望するデザインで建築)と建売住宅(こちらで設計して建築し完成品を売る)があるわけだが、父は「建売でまとめて建築してコストを下げて安さで勝負する」というやり方に拘っていた ただ自分には「安さで勝負するのではなく、クオリティの高い住宅を建てればもっと高い値段で販売出来て利益も出る」という考えがあった そこで自分が社長になったあとは、これまでの「同じような住宅を安く建てる」という方針はやめ、有名デザイナーとのコラボなど高価格路線に切り替えた 結果として、この方針転換は大失敗に終わった より良い住宅を求める人たちは建売ではなく注文で購入することが多く、またそもそも地場の業者ではなく大手ハウスメーカーを選ぶ これまで父は安値路線で勝負していたから全

実家に帰ってきて親のいない茶の間で水ようかんを食べていたら、この家でこんなにしずかな時間を過ごすのは久しぶりだと気づいた。 それは両親が旅行(といっても彼らも私も都民なので県をまたいだ移動をするのは悩ましく、近場のホテルをとって普段よりすこし贅沢みたいなことをしている)で不在にしているのはもちろん、私が人との同棲・結婚・離婚を経てひさびさにひとりになったからというのもある。 10代後半から20代前半にかけては、親の不在期間はそのまま、好きな男の子を家にこっそり連れ込むためのタイミングだった。 いま、ひどいときには収入が5ケタになるような弱小フリーランスの私とはちがい、両親は当時から地に足のついた仕事をしており、なおかつ良くも悪くもバブル世代的な人たちだった。10年ほど前、実家の駐車スペースには黒くでかいベンツと流線形の銀色の外車が並んで置かれていて、家族である私から見てもそれらは笑ってしま

私の故郷はとても寒い場所にあって、そこで大人になるまで暮らしていました。 事情があって町を出てから初めて、あぁ、私はここから本当に離れたかったのだなと気がつきました。 一人暮らしを始めた日は大雨警報が出ていて、ラジオからは空港で足止めになった人がインタビューを受ける声が聞こえました。 これから暮らす知らない街は嫌がらせのように道が入り組んでいて、番地の順番はひどく不規則でした。土砂降りの中、散々迷ってほうほうのていでアパートに辿り着いたとき、私は全身ずぶ濡れで、まるで服のままシャワーを浴びたかのようでした。 電気がまだ通っていなかったので部屋の中は真っ暗でした。ドアを開けると、安くて古い家特有の匂いがして、一歩進むごとに床がぎしぎし鳴りました。アパートの廊下の灯りに照らされて、自分だけの部屋に一人佇む私のシルエットが浮かぶのが見えました。 それを見た瞬間、お腹の底からわーっと力強いエネルギ

新型コロナウイルスの影響で、どの電車も窓を開けて走るようになったわけだが、気候が良くなるにつれ、その開き方もだいぶ大胆になってきた。 初めは、車両端の何枚かの窓が、上の方だけ申し訳程度に開いているだけだったが、今や、あらゆる窓が全開になり、走行中の風の吹き込み方には恐怖を覚えるほどである。 例えば、新聞を読んでいたら、手から吹き飛びそうなほどだ。というか、実際に飛んで行ったのを見たことがある。車内を紙束が舞うというのは、コロナ以前では考えられなかった光景であり、ある種のファンタジーさえ感じてしまった。 そうして、恍惚にしばし酔っていると、落語のような呼応として、隣の車両から週刊誌が飛んで来ることになる。それは丁度真ん中あたりのページで開かれており、蝶のように片半分ずつを揺らしながら舞っていき、寝ているおじいさんの頭に乗る。カツラのようである。 もちろん、電車からは何物かが飛んで行くだけでは

2年ほど前だっただろうか、同僚が辞めるからってその送別会のために出張した。 しかも送別会にかこつけた出張なんてって半分遊びみたいなもんでその地で待っている業務なんて何もない。 経費削減の折に、なんて無駄なものなんだなんて思うけども、年度末の道路工事と一緒で部署としては確保した予算は使い切りたいもの。ありがたくマイルも頂戴する。 汚いお店だけども、美味しかった中華屋で光輝く去りゆくものと、残されたものたちのコントラストがなんともいえなかった。 そんな別れを惜しむ夜にホテルでデリヘルを呼んだ。我ながら最低だなと思った。しかも、ただのデリヘルじゃない、はじめてのデリヘル、はじめての風俗。 やはりはじめては特別で、忘れがたい。前から風俗が気になってはいたけど知らない土地で、知り合いもいないこの地が背中を押してくれた。 呼ぶまでたいぶ迷ったし、呼ぶと決めてからもお店選びにだいぶ迷った。優柔不断さがこ

夏休みの宿題で「お母さんと弟と市民プールに行ったけど休みでガッカリしたことが1番の思い出です」って作文に書いたら、お母さんに「なんで?」と怒られた。 そりゃそうだ。車の免許がないから行くところは限られていたけど、夏休み中、お母さんは電動でもなんでもない自転車の後ろに弟を乗せて、まだ自転車の運転に慣れない私に「車!」「赤!」と声をかけながら、サマーランドやら母方のおばあちゃん家やら、いろんな場所に連れてってくれた。それなのに、1番近場での1番楽しくなかった思い出を書かれたら怒るに決まってる。 私としたら「楽しかった」だけじゃつまんないかな〜と、おませなつもりで書いた作文だったけど、他の子たちの「帰省」や「初めての海外旅行」の思い出と一緒に、「仕方がないからモスバーガーを食べて帰った」思い出が夏休みの文集に綴じられているのはたしかにおかしくて反省した。 思えば、お父さん、お母さん、私の3人で借

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