滝季山景介(影一改め) @ETakiyam 「橋幸夫『潮来笠』の日本語がぜんぜんわかりません。意味を教えてください」って投稿が以前ヤフー知恵袋にあったが、ある世代から下にはぜんぜんわからなくなる歌詞といえば、個人的には「今日も元気にドカンを決めたら洋ラン背負ってリーゼント」だと思う。 2025-09-27 12:59:01 滝季山景介(影一改め) @ETakiyam アニメ『ばっどがーる』の声優さんのユニットのアルバムにこれのカバーが入っているらしい。「この歌詞はこういう状況です」なんてレクチャーとかあったのかしらね。 2025-09-27 13:48:14 リンクYahoo!知恵袋 橋幸夫の潮来笠という歌がありますが、あの歌詞の日本語がわかりません。どういう意味が込められているのですか? - ,潮来の伊太郎ち... -Yahoo!知恵袋 橋幸夫の潮来笠という歌がありますが、あの歌詞の

生野の街から鉱山跡までは思ったより遠いな。ここか、立派な門柱があって、駐車場も綺麗に整備されてる。まずは坑道巡りをやってからミュージアムに。生野鉱山って歴史もムチャクチャ古くて、 「大同二年に開坑ってなっとるけど、本格的に採掘が始まったのは天文十一年からで良さそうや」 元号で言うな。わかんないじゃないの。大同二年は八〇七年だから平安時代が始まった頃で、天文十一年は一五四二年だから戦国時代の初期ぐらいかな。初期の産出量はえっと、えっと、 「天文十一年から天和二年の一四一年間で六百三十六トンだから年平均で四・五トンぐらいだよ」 天和年間って将軍綱吉の時代になるそうだけど、そこから幕末の安政年間までの年平均が一・八トンなのか。これがどれぐらいなのかわかりにくいけど、 「家光の時代が最盛期やったみたいやけど、一か月で一五〇貫いうから五百六十キロぐらいやな」 それでも年間にしたら五トンぐらいがマック
こんにちは。ぱなしのお玲です。 私、時々考えることあるんですよね。 私の母も、3人子供産んだんです。母は専業主婦だったんですが、子供達みんな大学~大学院まで行かせてもらったんですよ。どうして、そんなことが可能だったのでしょう。そんなお金、どうやって貯めたの?ってたまに思うことあるんですね。 私立行くまでのお金はなかったので、みんな学校は国公立でしたけども、それでも大学~大学院はみんな地元じゃない学校に通いましたからね。それなりのお金はかかっていると思うのですよ。どんなして工面していたのかなって、謎に思うことあります。父、そんなに稼いでたんか?ってね。 最近、私、どう働くか、みたいな記事を複数あげているんですけどもね。働かない、という選択肢はないわけですよ。お金のためだけに働いているわけではないですけども、やっぱり働く大きな理由の1つはお金ですよ。私が働かないと、間違いなく赤字だから、働いて
日本人だけではないとは思いますが、人間は標語(スローガン)がお好きなようです。コロナ禍の現在においても「ステイホーム」「3密」など、簡潔で分かりやすい標語がもてはやされたりします。 今回は、日本国内における戦前&戦時下の標語(スローガン)をいくつかまとめてみました。国民を戦争に導くために、官民一体となって様々な標語が作られたのです。 誰でも知っているであろう代表的な戦時下における標語の1つが『欲しがりません 勝つまでは』でしょうね。そのような標語をいくつかご紹介していきます。 戦前&戦時下の標語まとめ 『欲しがりません、勝つまでは』 出典:1942年「国民決意の標語」入選作品 戦時下の標語としてはおそらく最も有名なもの。この作品は1942年に一般公募された国民決意の標語 -Wikipediaという企画の入選作品の1つです。作者は小学5年生の三宅阿幾子さんでした。 後に本人の回想によると、

今から約10年前、筆者(93年生まれ)がまだ高校生だった頃のこと。中高生を中心とした若者の間で、個人のホームページを作ることが流行した時期があった。 リアタイ、リンク、隠しページ…独自の文化を生み出した「ホムペ」群は、スマートフォンの台頭とともに忽然と姿を消した。私たちはそこでいったい何をしていたのだろう。2021年、今こそあの文化を振り返りたい。 懐かしきガラケーの「ホムペ 」 突然だが、こちらをご覧いただきたい。 こちらも。心当たりがないだろうか? そして、こちら。 懐かしさに胸がざわついた方は、もしかしたら筆者と同世代かもしれない。これはガラケーの全盛期に存在していたホームページ、私の周囲では「ホムペ」と呼ばれていたものだ。 約10年前、筆者がまだ瞳に輝きあふれる高校生だったときのこと。当時はクラスメイトの多くがこういった「ホムペ」を作成し、運用していた。 ドメインを取得したりサーバ

京都、大阪を中心に「ダンスクラブ」の利用者や関係者でつくる「Let,s DANCE署名推進委員会」は29日、京都市内で記者会見し、ダンスを規制する「風営法」の改正を求める請願署名を開始すると発表しました。呼びかけ人には、音楽家の坂本龍一さんや大友良英さん、作家でクリエーターのいとうせいこうさんらが名を連ねています。 会見に出席した呼びかけ人の中村和雄弁護士(57)は、いま各地で風営法による摘発などの影響で、閉鎖に追い込まれるクラブもあり、「若者が集う健全な場所が奪われている」と報告。一方で、今年度から中学校体育でダンスが必修科目となっていることに触れ、「時代遅れのままの風営法です。全国10万人の署名を目標に、法改正につなげたい」と語りました。 同日夕には、仕事帰りでにぎわう繁華街で署名行動。パーカッションのリズムに合わせ、署名を呼びかけると若者が次々と足をとめ応じました。ツイッターを見て署

このウェブサイトは山口 浩の個人的な考えを掲載したものであり、山口が所属ないし関係する機関、組織、グループ等の意見を反映したものではない。本サイトは投資の勧誘ないし銘柄の推奨を目的とするものではなく、本サイトに掲載された情報(リンク先ないしトラックバック先の情報を含む)をもとにして投資その他の活動を行い、その結果損失をこうむったとしても、山口は責任を負わない。本サイトの記載内容は、予告なく追記、変更ないし削除することがある。本サイトに寄せられたコメントおよびトラックバックは、いったん保留した上で公開の可否を判断する。判断の基準は公開しない。いったん公開した後でも、一存によりなんらの説明なく削除し、当該IPを投稿禁止に指定することがある。 このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています(帰属 - 非営利 - 派生禁止 2.1 日本)。 「もはや戦後ではない」

■ 実質上、2011年の始動である。 雪斎は、過去三年、「停滞の時間」を過ごした。 二十歳代の終わりから三十歳代を経て四十歳代l第一・四半期くらいまで、上昇気流に乗っていたはずであるけれも、過去三年は途方もない「失速」と「停滞」の時間を過ごした。日本の「失われた20年」なみに鬱陶しい想いをした。こういう停滞の時期というのは、人間の「精神」に悪しき影響を及ぼす。 昨年末には、NHKが『坂の上の雲』を放映していた。 『坂の上の雲』の新聞連載が始まったのは、昭和43年である。 昭和43年というのは、どういう年だったか。 日本が「世界第二の経済大国」になった年である。二年後が大阪万博である。 要するに、明治の『坂の上の雲』の物語を再現させたのが、この時代の日本だった。『坂の上の雲』が反響を呼んだのは、それが昔話ではなく、リアルに進行している「経済興隆」と重ねられて読まれたからではないか。 それから

id:kamayan氏が小さな途中経過 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記/はてダ版で述べている、天皇機関説を思い出したという話が正直、笑いごとでなくなってきた気がする。与党も野党も馬鹿、マスコミも馬鹿となると問題は大変ではないかと思います 難しいだろうがこの問題について、政治学会か何かで危惧を表明してもよいのではないかと思うくらい。しばらく前に、ホメオパシーの問題について日本学術会議が会長談話という形で危惧を表明しました。 日本医学会 - 「ホメオパシー」への対応について(日本医学会HP掲載の談話) 社会学会や政治学会も何か出したらというのは、ホメオパシーの件が念頭にあっての半ば冗談めいた考えでした。ホメオパシー問題は実際問題として死者も出かねない(既に死者も出ている)問題であるから、一定の緊急性を満たしているというのが、この談話がこの時期に出された理由であろうと考え
あけましておめでとうございます。 2010 年もどうぞよろしくお願いいたします。 とうとう 2010 年になってしまった。 『2010年宇宙の旅』が公開されたのが1984年。 そのときには「2010年なんてはるか未来」だと思っていた。 「2010年て、オレはそのとき60歳だぜ」とげらげら笑っていた。 想像力がなかったからではない。 うっかり想像してしまったせいである。 指摘するひとは少ないが、1950 年代に少年時代を過ごした私たちの世代の「21世紀」についての想像は小松崎茂先生のイラストによって深く決定的に規定されていた。 小松崎先生の空想世界では、21世紀の大人たちは銀色の宇宙服のようなツナギを着て、エアカーに乗って宇宙ステーション状のオフィスに出勤し、ロボット秘書にコーヒーを淹れてもらい、テレビ電話で会議をしていた。 私は「銀色のツナギを着て、エアカーで出勤する自分」をうまく想像でき
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20091108/1257661998 森剛志・橘木俊詔著「新・日本のお金持ち研究」で気になることが書いてあって、2004年の調査だが、5年前と比べて自分の資産が増えたと答えた富裕層が6割以上いるし、一般国民の低所得化についても自己責任とする考え方が圧倒的多数とのこと。 (中略) そしてマスコミは大本営発表を鵜呑みにするのでそうしたバイアスのかかった情報ばかり流通してきたというわけか。 シノドスセミナーで田中秀臣先生が仰ってたんだけど、新聞や雑誌って清算主義*1が大好きなんだそうだ。昭和恐慌の頃にも、水ぶくれした経済を叩き直し社会を変革するためにはまだまだ不況が足りない、なんて記事を書いていたらしい。 これって当時の井上準之助蔵相が、金を旧平価で解禁することの目的として、円高に耐える強い経済に鍛えるのだと言っていたのと凄く
暮らし 青島文化教材社、『宇宙戦艦ヤマト』デスラー総統の実物大グラスを製作 | ホビー | マイコミジャーナル

『写真週報』206号より 前々から探していた写真をやっと見つけた。記事は、社内で出る弁当の空き箱を再生利用する……という節約記事なのだが、それよりも驚くのは、通路にうずたかく捨てられた弁当の空き箱のキタネエこと。 こんなに汚い列車にはぜったい乗りたくないが、にもかかわらず写真の紳士たちは平然と乗れているのはナゼなのか。ここから「戦前の日本人は公共マナーが全然ダメ」と結論づけるのはやや短絡。そうではなくて、自分で食べた弁当ガラは自分で捨てる――という最低のルールはあくまでも戦後的平等主義の産物であって、戦前の行動規範ではなかったのではないか。ゴミを片づけるのは駅員やゴミ屋・汚穢屋の仕事であって、客は手を汚すものではないという、カースト制度にも似た傲慢な階級道徳があったのではないか――と推測している。 公共道徳は「公共」と名づけられてはいるが、その実は特定の階級・階層内における道徳的規範である

木村世忍さんによる新横浜ありな in アキハバラのデジラマですが、米Gizのスタッフが最近この写真を見つけたようで、 「どうして日本はこうなんだい?(Why, Japan, Why?)」 と聞かれて困りました。 確か15年ほど前は、日本人はみんな同じようで没個性で気持ちが悪い、詰め込み教育が悪い、僕らはもっと個性を大事にしなきゃいけない、と言われていたはずですが、「そうだ、もっと個性的にならなきゃ」とクソ真面目に頑張ったあげく、日本は世界中の誰もが開いた口がふさがらないレベルの、オリジナリティ溢れる国になっちゃったんですかね。でもまあユニークであることは利点ですよね? 新横浜ありな[TAMAKI’s Little Treasure] Jason Chen(いちる) 【関連記事】 ・秋葉原詣での帰りに寄りたい「GAME BAR A-Button」 ・秋葉原 or ファミコン がテーマのclu
思いは言葉に。はてなブログは、あなたの思いや考えを残したり、 さまざまな人が綴った多様な価値観に触れたりできる場所です。

宮下整の『戦前の少年犯罪』の大仰な物言いが、勢古浩爾さんの新著で批判されているのを見たが、勢古さんも、その少年犯罪の実態は知らなかったらしい。もちろん私だって知っていたわけではないが、そんなもんだろう、と思っただけだった。濱本浩の「十二階下の子供たち」や里見紝『多情仏心』に出てくる不良少年少女を見たって、そんなものだろうと思うし、歴史にせよ文学にせよ、日本近代を専攻して新聞などを見ている人には、さして驚くべき話ではない。 ところが、高島俊男先生が、向田邦子が描いているような家庭はエリート家庭だった、と指摘していると知って、たまげた。そんなことは常識だと思っていたからで、なに? あれを「普通の家庭」だと思っている人が、まあ若者とか、歴史を知らない低学歴者はいざ知らず、そんな人がいるのか? と思ったからである。 すると、さらに不安になってくるのだが、戦後の小津安二郎が描いたような家庭も、当時の
1リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く