つくられた縄文時代 (新潮選書) 作者:山田 康弘新潮社Amazon 山田康弘*1『つくられた縄文時代』から。 「縄文時代という概念は、あくまでも第二次世界大戦後に「新しい日本の歴史」を語る上で用意された、いわば政治的なものであり、国外では内容的にこれに該当するような時代・文化は存在しない」(p.3)。「そもそも私たちが知っている縄文時代や縄文文化といった言葉は、今からたかだか五〇年くらい前にようやく広く一般に認知された、かなり新しい歴史用語なのである」(p.17)。「少なくとも第二次世界大戦以前における日本の歴史には、今日の私たちが学校で学んだ縄文時代も弥生時代もなく、これらは一括して石器時代と呼ばれていた」(pp.17-18)。 「縄文時代」の誕生は1950~60年代である。 (前略)縄文時代・弥生時代という語の成立を研究史的に概観してみると、明治から昭和期の初めにおいては石器時代とし

……運転手おじちゃんの青春時代… 先日私は昭和のファンキーな通販について書いたけど… その時、後輩社長の運転手おじちゃんが言ったんだ( ̄0 ̄) 「自分、雑誌見て文通した事ある」 ( ;`ω´) (`ω´;(`ω´; ) これには皆悶絶したわ スーパーブレンナーとかの通販が載ってる昭和の雑誌にはペンフレンドになりませか?って感じのコーナーや、文通する為の雑誌があったそうで… 『なに、その相手が奥さんか??』 「違うっすよ~σ(^_^;」と…… 後輩社長の運転手おじちゃんは、その様な雑誌から大分県の同じ歳の女の子と1年くらい文通して…自然消滅したそうだ 何て言うのか…まあ 見た目がヤ○ザそのまんまなのに可愛いオッサンで σ(^◇^;) ひょっとして…顔の写真でも送って「恐い!」って断られたんじゃないのか? (≧∇≦)b 令和ではあり得ない事だけど、後輩社長の運転手おじちゃんにも青春があったんだ

コンタクトレンズは非常にシンプルな仕組みでありつつ、その開発の歴史は長く複雑なものがあります。仕組みはシンプルでありつつ、製造に使う素材や機材の発展によって大きく変化してきました。 かつてはコンタクトレンズは円錐角膜(角膜の中央部分の厚みが薄くなり、角膜が前方へ円錐状に突出する病気)などの角膜疾患に対して、眼科医が装着する特殊な装置でした。 角膜の生理学的な知識が発達し、素材や機材が改善され、値段も安価になると、一般の人も使えるようになっていきました。 1. コンタクトレンズが生まれるまでコンタクトレンズのアイデアを最初に提示した人物はレオナルド・ダ・ヴィンチであると言う俗説があります。 彼は1508年に出版した目の写本で、水の入ったボウルに頭を沈めるか、水で満たされたガラスの半球を目の上に装着して、角膜の力を直接変化させる方法を説明しました。 ただこれは水の光の屈折の探求が目的であって、

2025年11月7日の衆議院予算委員会で、高市早苗総理が中国が台湾に武力侵攻する事態「台湾有事」を巡って、安全保障関連法の規定で集団的自衛権の行使が可能となる「存立危機事態」に当たるかどうかを問われて「戦艦を使い、武力の行使も伴うものであれば、存立危機事態になり得るケースだと考える」と述べました。 これは、中国が武力行使をした際、日本は参戦すると受け止められる内容で、中国側の最初の反応は駐大阪総領事の「台湾海峡問題に首を突っ込むなら、その汚い首を斬ってやる」とのSNSでの発信でした。これを中国中央の反発を代弁したものととらえず、その言葉だけを巡って中国が失礼だという雰囲気が広がり、だんだん中国側の発言者のポストが上がっていっても対応がまともにとられていません。そして日本への観光自粛、留学自粛、日本アニメ上映延期、日本産水産物輸入停止、と、段階を追って圧力がかけられる事態になっていて、日本バ

2025/11/20「高市内閣総理大臣の『台湾有事』答弁における『戦艦』の意義等に関する質問主意書」を提出しました。 →答弁書の閣議決定は12/2(火)の予定です。 ----------------------- 高市内閣総理大臣の「台湾有事」答弁における「戦艦」の意義等に関する質問主意書 高市早苗内閣総理大臣は、二〇二五年十一月七日の衆議院予算委員会において、岡田克也委員の質疑に対し、「先ほど有事という言葉がございました。それはいろいろな形がありましょう。例えば、台湾を完全に中国北京政府の支配下に置くようなことのためにどういう手段を使うか。それは単なるシーレーンの封鎖であるかもしれないし、武力行使であるかもしれないし、それから偽情報、サイバープロパガンダであるかもしれないし、それはいろいろなケースが考えられると思いますよ。だけれども、それが戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば
インドネシアは1万7000以上の島々で構成される世界最大の群島国家です。国土面積は約190万km²で、日本の約5倍の広さがあります。 東西5110km、南北1888kmに渡る広大な領海に島々が点在し、主要な島はスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島 (ボルネオ島)、スラウェシ島、ニューギニア島西部など。 島ごとに風土が異なるため、それぞれ特徴的な伝統文化があります。自身、2年ちょっとの滞在で見ることができたのは、インドネシアのほんの一部の側面だけ。 なので伝統家屋と言っても自分が見たものはふたつくらいでサンプルが少なすぎるのですが、それでもそこを訪れた時は静かな感動をおぼえました。 ニアス島 ヤホウ!(Ya'ahowu) はニアス語でこんにちはの意味。今はメダンから飛行機が飛んでいるのでアクセスは簡単になりましたが、ひと昔前は船しかなかったそう。この時は津波の遺構などいろいろなものを見てきま

おかしい……おかしいのでは?……おかしいんじゃないかなあ?……と思っているDTP従事者の愚痴を書く。適宜、(と、Photoshop使っている人間には思える)を脳内で補完しつつ読んでほしい。 たとえば(いきなりたとえ話をすると話が滑っていくのは承知で書くが)、次のようなことを言う人がいたら、だれもがおかしいと思うだろう。 「時速と分速ってどっちが速いですか?」 そんなものに答えはない。答えようがない。一般的に使われている「解像度が高い」、「解像度が低い」はこれと同じことを言っている。わかってくれる人はこれだけでわかってくれるかと思う。 解像度はpixcel/inch(ピクセル・パー・インチ)の値だからだ。 だが、一般的には次のように考えられている。 これが、 こうなったら解像度が高まった。戸崎圭太の乗ったフリオーソだとわかるようになったと。 あるいは、 これが、 こうなったら解像度が上がった

……人生とは運?… そういえばショパンコンクールで、出場者が選んだピアノ… ヤマハよりカワイの方が多かったな (・ω・) 昨日私が読者登録してるブロガーさんの記事を読んで思い出した ピアノを試弾してきました - moniqueのブログ 先生にカワイ試弾会を勧められたけれど - 夢でささやくピアノ まあ、私はウチのピアノ主席みたい異様な興味はないけど、 番組やってれば見ちゃうんだよね σ(^◇^;) 番組では日本人出場者の特集だったんだけど、スポ根並みの練習をしても 多分、予選の通過は難しくて… 虎の穴並みの特訓と あらゆる要素において運がなければ、ありゃ入選はムリだな ( ̄。 ̄;) そをな中でも気になったのは15歳で出場した「中島結里愛」さんの譜面にどんどん書き込んていく練習方法、これ希実ちゃんの練習方法と同じだった あと印象に残った事は共通して全員「手がデカくて細い」って事くらい それと

1963年、コルグ(当時の社名は京王技術研究所)が世に送り出した国産初のリズムマシン、Doncamatic(ドンカマチック)DA-20。創業者である加藤孟さんと長内端さんの発想から生まれたこの一台は、やがてスタジオで使われるクリック音の代名詞、ドンカマの語源ともなり、日本の音楽史にその名を深く刻むことになったのです。しかし、時の流れとともにその音は失われ、浜松市楽器博物館で静かにその姿をとどめるのみとなっていました。そんな歴史的な一台が、コルグの技術者チームの手によって約半年の歳月をかけて修復され、再びその特徴的なサウンドを奏でるようになりました。 先日、浜松市楽器博物館にて、この修復完了を記念した記者発表会が開催され、私も現地で取材を行ってきました。そこで今回は、その発表会の内容と、イベント後に個別に行ったインタビューをもとに、このドンカマチックがいかにして生まれ、どのような驚くべき仕組

Photo by Cabinet Public Affairs Office via Wikimedia Commons 再び日本を高成長に導くには 日本の歴代総理大臣といえば,だいたい,地味で冴えないつなぎ役で,在任期間も長く続かない.ただ,たまに重要な指導者が現れて大きな仕事を成し遂げ,長く政権を続けることがある――2000年代の小泉純一郎と2010年代の安倍晋三が,近年の代表例だ.新しい首相がそういう例外的な総理になるかどうか,就任当初に見極めるのは必ずしもかんたんじゃない――安倍にしても,2000年代にはじめて政権を担ったときにはパッとしないまま短期で退場している.彼が日本を大きく変えたのは,2012年に再登場してからのことだ〔日本語記事〕. 就任したばかりの高市早苗がそういう変革の担い手になるという期待は高まっている.高市は,現代日本ではじめての女性指導者だ.とくに若者を中心に彼

アメ横から薄れる「日本らしさ」 「『アメ横通り』に並ぶ飲食店の8割はもう、経営者が中国人じゃないか」 東京・上野のアメ横商店街連合会で会長を務める、星野勲さん(73)は少しあきらめ気味にそう話す。アメ横商店街は東京都台東区に位置し、JR上野駅と御徒町駅の間、約500メートルにわたり、今なお約370の店舗がひしめき合う。 終戦直後にできた闇市を起源とし、飴を売る屋台が多かったことから「アメヤ横丁(飴屋通り)」と呼ばれ、後にはアメリカ進駐軍の放出物資を扱う店などが増えたことから「アメリカ横丁」とも呼ばれたことが、その名の由来だ。いずれにせよ、日本を象徴する代表的な商店街といっていい。そのアメ横に何が起きているのか。 アメ横といえば、まず思いつくのが年末のにぎわい。特にマグロやカニ、エビ、イクラ、数の子、ホタテといった正月用の食材が店先に並べられ、店員から飛ぶ威勢のいい掛け声が、年末のにぎわいを

執筆者 森田 満樹 九州大学農学部卒業後、食品会社研究所、業界誌、民間調査会社等を経て、現在はフリーの消費生活コンサルタント、ライター。食品表示・考 畝山智香子さん(国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長)の新著「食品添加物はなぜ嫌われるのか 食品情報を『正しく』読み解くリテラシー」(株式会社化学同人)。 タイトルから食品添加物の話かと思いきや、そこにとどまらず、超加工食品、オーガニック、北欧食、食品の国際基準、食品表示、プロバイオティクスなど、国内外で話題となった情報を広く取り上げています。メディアなどで一面的に取り上げられる情報が、ほんとうのところはどうなのか、真実に迫る内容です。 新著の帯には「ゼロリスク幻想を超えて改めて考える、ほんとうの『食の安全』」とあります。これを見て、2009年に刊行された「ほんとうの『食の安全』を考える—ゼロリスクという幻想」を思いだしました。新著のまえが
かみたば/Kamitaba @kamitabaphoto アンデジ(アンパンマンキッズカメラ)でついに成し遂げました! 『ブダペスト国際写真賞(BIFA/Budapest International Foto Awards)』にて、アンデジで撮った作品が「Honorable mention」を受賞しました! 佳作相当なので賞としては小さいのですが、本気の写真機相手に30万画素のカメラで戦えたということは、僕にとって非常に大きな意味を持ちます。あとはファインアート部門で認められたというのも個人的に熱い…! アンパンマンのキッズカメラでフォトコンに食い込んだ例は世界初。「世界で一番アンデジを上手く使える写真家」として、またひとつ称号を手にすることができました!うれしい! #BIFA #アガツマ #アンデジ 2025-10-16 10:56:11 かみたば/Kamitaba @kamitabap

スウェーデンのストックホルム近郊で、人が釣り餌のミミズを掘っていたところ偶然にも中世の銀貨の大財宝を掘り当てました。 発見された銀貨と装飾品の総重量は約6キログラムにも達し、その中には銀貨が(多くは12世紀のもの)最大で約2万枚の可能性があるとされています。 これはスウェーデンの初期中世で最大級の一つと担当者は述べており、専門家たちを驚かせる「一生に一度」級の大発見となりました。 銀貨がまとまった形でこれほど大量に見つかるのは極めて珍しく、当時の歴史や経済をひもとく貴重な手がかりになると期待されています。

日本共産党の田村智子委員長は10日の記者会見で、石破茂首相が同日発表した所感「戦後80年に寄せて」には二つの大きな問題があると指摘しました。 田村氏は一つ目に、「侵略戦争と植民地支配への反省を自らの言葉で語るべきなのに、そのことへの反省がまったく述べられていない。これは大問題だ」と指摘しました。 二つ目に、「なぜ戦争を止められなかったのかいろいろと述べているが、あの侵略戦争を引き起こした直接の責任は、天皇絶対という政治体制、専制政治であり、ここに最も大きな責任がある」と主張。治安維持法のもと、戦争反対を唱える国民を徹底的に弾圧し、日本共産党員も弾圧で命を奪われたと指摘しました。 所感は、当時の議会や報道機関にも戦争を止められなかった責任があるとしていますが、田村氏は「大もとには、天皇の絶対的な権力による専制政治があり、所感はこれを不問にしている」と批判。「これでは何の教訓も引き出すことはで

石破茂首相の戦後80年所感全文は次の通り。戦後80年に寄せて(はじめに)先の大戦の終結から、80年がたちました。この80年間、わが国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者をはじめとする皆さまの尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄

大平洋戦争開戦前、日中戦争中の1941年秋にやったばかりの銅鉄回収を1942年の暮れにも実施ー南方の資源は数年先とか 太平洋戦争開戦から1年、まだ負け戦という感じではないころですが、1942(昭和17)年の暮れ、長野県では前年秋の太平洋戦争前に実施したのに続く「鉄銅回収」が行われました。 「聖戦へ征くぞ我が家の鉄と銅」のスローガンがぎょうぎょうしい 説明文を読んでみますと、海に陸に戦果を挙げて大東亜共栄圏の建設工事が着々と進展、「畏くも 皇威洽く世界を光被せんとして居ります 真に日本の将来は洋々たるものです」と盛り上げつつ米英があなどりがたいと釘を刺します。 まず、ここまでは分かるが、やはり天皇の為の戦争なんだと実感 そして油断大敵として個人主義や自由主義の考えで国策に協力をすることを忘れたら一大事と、思想統制、国策追随を求め「戦線同様銃後も毎日が戦争です」と強調します。そして、高炉をつく

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