40歳になるタイミングで、外資系ITベンダーからスタートアップの世界に飛び込み、この5年間で3社を経験しました。 そして今は、また外資系ITベンダーに戻っています。 この5年をひと言でまとめると「爆死した」です。 ただ、単純な愚痴でも武勇伝でもなくて、「40代でスタートアップに行く」ときに知っておきたかった現実を、備忘録として残しておこうと思います。 1. MVVという概念に、静かにすり潰されるここ数年、「MVV(Mission / Vision / Value)」を見ない日はありません。 主体性を持て!自責! オーナーシップを発揮しろ 仲間をリスペクトせよ どれも正しいし、反論の余地はない。 ただ問題は、「あるべき社員像としてのMVVと、自分のキャリアや性格が少しずつズレていく」感覚でした。40代までにそれなりに成果を出してきて、自分なりの仕事のやり方や価値観もある。でも組織が掲げるV

1975年宮城県生まれ。元SEでフリーライターというインドア経歴だが、人前でしゃべる場面で緊張しない生態を持つ。主な賞罰はケータイ大喜利レジェンド。路線図が好き。(動画インタビュー) 前の記事:ガンクス・パル玉・人面土器~みんなの「待合せ場所」教えてください② > 個人サイト 右脳TV ライターwiki本社の屋上が展示場 訪れたのは、東京都文京区にあるオリロー株式会社の本社。案内されたのは、3階建ての社屋の屋上であった。 午前10時。風のない、秋の爽やかな朝でした。 奥に設置されていたのは、2つの「救助袋」と「避難ハシゴ」、そして…… 緩く降りる機械と書いて「緩降機(かんこうき)」という避難器具。 避難器具だらけである。これなら避難し放題ですねというわけではなく、この屋上は避難器具の展示場を兼ねているのだ。 消防法では避難器具を8種類に規定している。そのうち一般的に使われているのは6種類

▼ [Web][Software]LINEヤフー株式会社を退職したので歴代社長の感想を書く(元ヤフー社員視点)本日付でヤフー株式会社から通算で17年勤務していたLINEヤフー株式会社(以降LY社)を退職した。退職の理由とかタイミングの話は、すべてLY社の社内ネットワークにあるConfluenceというWikiシステムに書いておいたし、LY社に改善を望むことは退職者インタビューで伝えてあるため、ここでは会社員生活の振り返りとして歴代社長の感想を書いておくことにする。僕は2008年にヤフー株式会社に吸収合併されて入社した立場の社員であったため、文章のほとんどがヤフー時代の社長に関する感想となる。 はじめに このエントリは一義的に 繰り返し自分で読み返すため に書かれている。どうか文章として書いてあること以上の意図を勝手に読み取らないで欲しい。 そろそろ僕も記憶力のあやしい中年であるため、間
ライター業の傍ら、スキマバイトでさまざまな職場で働いている筆者が仕事を通じて見えた悲喜こもごもをつづる本連載。今回は、天丼チェーン店で働いてみた。なんだかこのお店、うまくいっていない雰囲気で嫌な予感……。(ライター みやーんZZ) 到着早々おつかいを頼まれた! この店大丈夫?氷河期世代の40代おじさんである僕が去年、突如ハマったスキマバイト。今回はある天丼チェーン店でバイトした際の模様を紹介します。 予定の時間にお店に着き、出勤手続き後、すぐに店長さんから「そこのスーパーで大葉を10枚ぐらい買ってほしい」と言われ、いきなり現金を手渡された僕。スーパーに向かい、サクッと購入してお店に戻ります。 レシート、お釣りと品物を店長に渡すと今度は電車に乗って△△店に材料を取りに行くよう言われました。 どうやらこの日、使う食材で一部、発注漏れがあった模様。電車に15分ぐらい乗って△△店へ向かい、お店で

Deleted articles cannot be recovered. Draft of this article would be also deleted. Are you sure you want to delete this article? 目的 何故リリース延期となったか私視点のプロジェクト推進状況を記載したいと思います。 背景 情報系の大学を卒業後メーカー系のSIerに入社して現在5年目となります。 開発経験は1年目にスポットで開発の手伝い(テスト)を実施したのみで、2年目から小規模案件の保守運用のPLにアサインされ、1年半従事していたため、システム開発はほぼ未経験の状態でした。 要件定義は私が保守運用の対応している間実施していたため、基本設計からの参画となりました。プロジェクトの概要 私が保守運用していたシステムの更改案件となり、既存システムではシステム化されていな

自分の難病と向き合う為、そして症例として、医学の発展や同じ悩みを抱える人の参考になればと思い、この記事を書きます。 Yusuke Terauchi、音楽家。 1991年9月5日生まれ。音楽活動については下記ページを参考にして下さい。 初期症状(2022年) 発端は2022年に遡ります。 コロナになって在宅でオンラインギターレッスンの仕事を始めた頃、 外を歩いていると左足の関節に力が入らずカクンとなって転ぶことが多くなりました。 運動不足だろうと思い、1日1時間以上散歩をほぼ毎日行っていましたが、転倒の回数は減りはせず。 そして整形外科を受診、その時は左足の腱がゆるくなって伸びていると診断、サポーターをつけるとカクンとなる現象は減りました。 しかし、外すと同様のカクンが起こる為、足の筋肉を鍛えようとジムに通い出しました。 鍛え方としては運動不足もあった為、全身を鍛えました。 ここで、以前か

はじめにエルメス総課金6000万円のエルメス君です。さて、まず皆さんが気になるのは何個バッグを変えたのか? 結論から言えば 2年間でバーキン6個、ミニケリー3個、ケリー無秩序1個、ケリー3個、ピコタン20個、コンスタンスミニ6個、ボリードミニ6個、エブリンは数えきれない という感じです。 ちなみに、この課金額に上記のバッグの値段は含まれていません。つまりバッグ以外のものを購入して6000万円です。 知らない人のために少し説明しますと、エルメスのバッグは基本レアです。なので買えないのですが、エルメスで洋服を買う実績を認められると、レアバッグが買えます。なので課金していました。 このタイプの商法は、ポルシェ、フェラーリでも一部見られますが、車は良いんですよ。最悪、すぐに売れますからね。洋服は、売れないし着たくもないし、ただのゴミになります(ごめん、エルメス、、、) この2年で6000万近く使っ

ペアプロ・モブプロアンケート結果発表 🎉 ペアプロに対するエンジニアの本音が分かります。こちらもオススメです。 はじめに 巷ではペアプロ、モブプロがホットワードになっており、あたかも開発生産性を向上する特効薬のように取り上げられている印象を受けます。一方、この記事では、ペアプロ、モブプロ開発のネガティブな部分を考え、私の経験から感じたペアプロ、モブプロのアンチパターンとその改善策をご紹介します。 どんなアンチパターンを踏んでいたのか? 勤務時間は100%ペアプロを実施(ソロプロ禁止) ソロプロは悪、ペアプロが最高というチームの雰囲気 フロー効率を過度に重視する姿勢 どうなったか? +) 開発生産性およびデプロイ頻度は上がった +) 4keysなどの数値上の指標はすべてプラスになった -)エンジニアとしての楽しさ、個性が抑制された -) 精神的な負担が蓄積し、最終的には退職に至った 学び

今から80年前の1944年、太平洋戦争で戦況が悪化していた旧日本軍はフィリピンで初めて特攻に踏み切った。爆弾を抱えた航空機や潜水艇でアメリカ軍などの艦艇に体当たりするという無謀な作戦で、特攻戦死者は6千人以上に上ったとされる。 その中に、自身のような特攻隊員を「一器械」と形容し、敗戦を予見していた学徒兵がいた。22歳で戦死した上原良司(うえはら・りょうじ)だ。出撃前夜には「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」との遺書を書き残した。 妹の登志江(としえ)さん(94)は「特攻は死刑みたいなもの」と言う。出撃前に帰省した兄は戦死を予感していたのか、自分だけに「死んでも靖国神社には行かない」と語っていた。家族との別れ際、兄は大声で3回「さようなら」と叫んだ。登志江さんは今も、その姿を忘れることができない。(共同通信=黒木和磨) ▽最初の航空特攻は1944年10月 特攻は太平洋戦争末期に

https://anond.hatelabo.jp/20241116063656 某中核市勤務です ↑の増田で20年以上前だが地元選出国会議員の傍若無人ぶりを思い出したので書いてみる ・その議員に何か書類を渡す場合、同じものを数十枚印刷して机の上に並べて見比べて1番汚れが少ない綺麗に見える書類を選んで渡す 残りは捨てる ・その議員が市役所に来る場合、歩くルートを直前に担当職員総出で清掃する 窓を拭いたり蛍光灯を拭いたりポスターを新しいものに張り替えたり ・アポも取らず名前も名乗らず唐突に市長室に電話かけてきて「市長を出せ」と言う 万が一名前を聞き返そうもんなら手がつけられないぐらい激昂して幹部が東京まで頭を下げに行かないといけなくなる(実際あった)ので、 こういう声でこういう喋り方の男性から市長宛に電話が来た場合は即課長につなげと暗黙のルールがあった エレベーター係や車止めを外すのはうちも

トランプ大統領の再選が決まって、例に漏れず鬱屈とした気持ちになる。トランプ大統領を支持する人たちってどういう人たちなのか。メディアで報道されているニュースを見ても、ピンとこない人たちもたくさんいると思う。私たち、日本人がビジネスで接するのはリベラルなアメリカ人がほとんどだと思うし、駐在・留学する地域も多様性が尊重される場所が多いのではないか。 多くの日本人が私に『私の知っているアメリカ人は皆トランプに反対している。彼を支持する人たちは一体誰なの?』と言います。この情報がその質問への答えを示しています。都市部以外に住んでいて、高等教育を受けていない人々、つまり日本人があまり出会うことのない人です。https://t.co/3X5FME3uSo — ロッシェル・カップ (@JICRochelle) November 6, 2024 私は高校時代、超保守地域のアイダホ州に1年間留学していた。ホー

https://anond.hatelabo.jp/20240921093915 失業者は日増しに増え、収入の道が途絶える一方で、家賃や光熱費、生活費など生きるための最低限の費用は賄っていかなければならない。多くの人々が大都市から脱出し、田舎の町に帰って「寝そべり族」化することを選択している。激しい不景気の波にさらされる中、田舎の町は、まるで時が静かに流れる安息の地を思わせるようだ。 その一方で、私の従兄が逆に田舎の町から大都市へ最近「逃げ戻った」のだ。 この二つの対照的な選択、果たしてどちらが現実的なのか? 気になって、家族のグループチャットで聞いてみた。以下は、親戚が教えてくれた田舎の町の最新情報だ。不動産業界は全国的に不振で、田舎の町も例外ではない。今年は新しいマンションが一つも立たず、建材、リフォーム、家具の店が最も打撃を受けている。親戚が働いているオーダーメイド家具の店舗も、客

親子げんかをして絶縁状態になった父が認知症に。介護と看取りを経て、今僕が思うこと #親の介護 公開日 | 2024/10/03 更新日 | 2024/10/03 親子仲が良くない場合に親の「介護」とどう向き合っていくかは、難しい問題です。 認知症のお父さんを介護し看取った経験を持つライターの安藤昌教さんは、お父さんとけんかをして絶縁状態のまま介護に関わることになったそう。複雑な思いを抱えながら介護に向き合い、正解のない「家族との関わり方」について考え続けていたといいます。 今度は新たにお母さんの介護が始まろうとしているという安藤さんに、お父さんの介護を通じて感じたことを振り返りながら、これから介護に関わる人に伝えたいことについてつづっていただきました。 安藤昌教(あんどうまさのり)といいます。1975年に愛知県で生まれて、高校を卒業するまで愛知に住んでいました。当時は自転車のことを方言で「

1945年8月8日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を破って日本へ宣戦布告し、旧満州(現中国東北部)や朝鮮、千島列島に侵攻した。当時、旧満州には「満蒙開拓団」に参加した多くの民間人が暮らしていたが、ソ連の侵攻と敗戦の混乱の中で多くの人が命を落とした。開拓団の男性や軍人など約60万人が捕虜となり、シベリアへ抑留された。 94年に出版された「僕は八路軍の少年兵だった」(山口盈文、草思社)は、そうした混乱の中で八路軍(中国人民解放軍)に身を投じた作者の体験がつづられている。 29年生まれの山口氏は「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に渡るが、現地で敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となる。その後、八路軍に加わり内戦で各地を転戦。50年に勃発した朝鮮戦争にも参加したという。同様の境遇をたどった日本人は少なくないとされるが、その正確な数は分かっていない。 山口氏は56年に帰国し、その後は日中貿易に携わった。著書では「

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