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この町内の片隅から

よく分からない

ある侍女の告白 其の九 侍女

ある侍女の告白 其の七 侍女 - この町内の片隅から


「痛い。痛い。痛い」
朝からひっきりなしに頭を駆け巡る言葉は「痛い」
ただ一言です。
身体のどこかが痛いということは、なんて情けなくて悲しいことでしょう。
空気が抜けて、しゅるしゅるしゅると萎んでいく風船のように頼りない思いです。


この仕事に就いて、かれこれ25年
いい加減、身体にガタが来たのでしょうか。
ここ数年、騙し騙しやってきましたが、限界かもしれません。
利き手である右の親指の付け根から手首にかけて、今日は何度も稲妻が走ります。


「お菓子は空腹を満たすものではない。
お菓子は、心で食べるものだ。
だから、楽しい気持ちで作らなきゃな」


徹底して、3種類の焼き菓子しか作らなかった亡き祖父の言葉が頭をよぎります。
しかし、どうにもこうにも楽しい気持ちになれません。
泣きそうな思いで、焼き上がったマドレーヌをオーブンから取り出しました。


「初音ちゃん、洗い物が終わったら早帰りしていいよ」


店のオヤジさんが声をかけてくれました。


「すみません。体調管理が不充分で申し訳ありません」


「また、整形外科で診てもらってるんだよね?」


「はい。湿布と痛み止めをもらっています。リハビリにも通ってるんですが…」


「商店街の佃煮屋に聞いたんだけどさ、いちばん外れの空き店舗に
オープンした鍼灸院、なかなか評判いいんだって。
ものは試しで一回行ってみたら?」


「え!鍼灸って?ハリを刺すんですよね?
いやいやいや!怖いですって。
痛いところが増えそうです」


「うん…気が進まないんだったら仕方ないな」


「せっかくご心配くださったのに申し訳ありません。
痛みに非常に弱いんです」


オヤジさんは笑いながら、


「知ってる。でも初音ちゃんに何かあったら店が成り立たないから」


そんなに信頼されていることに胸が熱くなりました。


「とりあえず、整形外科に行ってきます」


整形外科では、手首の使い過ぎによる腱鞘炎と診断されています。
ドケルバン腱鞘炎と告げられました。
病名を聞くと、身も心も病人になるので、なるべく病院に行かないように
していますが、この場合は仕方ありません。


着替えて、まだ日差しのある外に出ました。
夕方の診療時間まで、だいぶ時間があります。
活気つき始めた商店街をぶらぶら歩いているうちに、
先ほど、オヤジさんが話していた鍼灸院の前に差し掛かりました。
店とアパートを往復するだけの毎日なので、この辺りを通ることは滅多にありません。


「Cosmos鍼灸院」とある真新しい看板の横に、


【今まで何をしても改善されなかった方、ご相談ください。
当院は諦めません。患者さまの笑顔のために】


そう記したボードが立てかけてあります。


(手首の痛みもよくなるのかな?でもハリなんて怖いな)


躊躇いながら考えていると、中から一組のご夫婦が出ていらっしゃいました。


月に2度ほど通う整形外科はいつも大変混み合っています。
明るく清潔な待合室の中央には、色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ大きな水槽があり、
病む人々を和ませてくれます。
しかし、どんなに明るく清潔であっても
そこに集まる人々の顔はどんより灰色に見えるのです。
わたしの心が重たいからでしょうか。


お世辞にも立派とは言えない店構えですが、
たった今、出ていらしたご夫婦の晴れやかな笑顔にハッとしました。


(なぜあんなに明るく笑えるんだろう?
予約も問い合わせもしてないけど、いいかな?)


ご夫婦が立ち去ったあと、おずおずとドアを開けてみました。
正面に受け付けがあります。
焦茶の板を組み合わせた、手作りらしい受付台の端には、
一輪挿しの白いカラーが慎ましやかです。
誰もいません。
受け付けの両端に並ぶカラーボックスのひとつには、見本でしょうか。
天然塩や入浴剤や北海道産のオリゴ糖などが雑然と置かれています。


もうひとつには、子ども向けの絵本、おもちゃ、貸し出し用の本が並んでいます。
座り心地のよさそうな藍色の長椅子。
長椅子の隣にはウォーターサーバー。
いつでも飲めるよう紙コップが重ねてあります。
治療に関する何枚かの貼り紙は、力強い手書きの文字です。


「すみません、こんにちは!」


奥に向かって声をかけました。
カーテンで仕切られた、いくつかの部屋があるようです。


「はい!お待ちください」


明るい声と共に、白い施術着に身を包んだ背の高い1人の男性が現れました。
鍼灸の先生とは、もっと年配の方を想像していましたが、意外とお若いようです。


「予約もせず、突然すみ…」


言葉を続けようとしたとき、微かに聞こえていたBGMがプツリと途切れました。
ウォーターサーバーも藍色の長椅子もカーテンで仕切られた奥の部屋も、
誰もいない受付も手書きの貼り紙も、一輪挿しのカラーも
一切のものが、わたしの目の前から消えました。


シンと静まり返った世界で、
目に映るのは、その人ただ1人でした。
じわじわと滲んでくる涙で、視界が遮られようとしています。


「渡辺くん…文彦くん」
心の中では、彦星さまと大きく叫んでいました。


呆然として目の前に立つその人の目も、徐々に滲んでいくように見えました。


〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜


分かっていました。


身体を持たねばならない下の世界が地獄ということは、承知していました。
死んでから地獄や極楽に行くのではありません。
この世界自体が、地獄であり極楽であるのです。


怖かったです。


降りることが怖かったです。
しかし、ほんの時折、地獄の中に差す光を見たいと思いました。
四六時中光に溢れている天上では見ることのできない尊い光を、
もう一度見たかったのです。


下の世界では、とことんどん底になると、見えるものがあるのです。
希望という名の光です。


見ることが出来ないかもしれません。
見えていても、気づかないかもしれません。


わたしは決めていました。


必ず見ます。
必ず地獄の中に光を見ます。
そして、頑ななこの心を動かすのです。


わたしは、そう決めて下の世界に降りました。



これまでにも、地獄の中に光を見たことがあります。
しかし、ここまで尊く美しい光を見ることができるなんて!


降りてきた甲斐がありました。


神も仏も信じぬわたしですが、大いなる存在に向かって深々と頭を垂れました。


ありがとうございます。

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