楽園 - この町内の片隅から
毛並みに沿って、頭から背を撫でる手の感触が心地良すぎて、
うっとりしてきました。
記憶の中にある感触です。
喉の奥がごろごろします。
お腹と背中がくっつくくらい空腹ですが、今日はこの温かい感触だけで
腹いっぱい胸いっぱいになりそうです。
突然、その手が、わたしをヒョイと抱き上げました。
(どこに行くんだろう?)
しかし、この人に限って、怖いことはするまい、という妙な確信で
不安は感じませんでした。
「どこから連れてきた!ウチにはもう猫がいるんだ!返してこい!」
三角形の空き地からほど近い一軒の家に入った途端、わたしを目にした
この家のご主人さまらしき方が、お嬢さんを怒鳴りつけました。
「一緒に飼ってもいいがね!仲良くすると思うよ。
外は寒いし、飼ってあげたい」
キリッと三本線が入った濃紺のセーラー服に、えんじ色のリボンが
ふわりと揺れています。
リボンを揺らしながら、お嬢さんはご主人さまを必死に
説得なさいます。
わたしは、つい先頃、この近くの空き地に置き去りにされた猫です。
最後のご飯も食べ尽くし、さてこの先どうしたらよいだろう?
たいへん心細い思いをしていました。
そこに、この家のお嬢さんが通りかかったという訳です。
この家には既に他の猫が住んでいるのですね。
彼女は、先程からわたしを警戒して、部屋の隅で唸りながら毛を逆立てております。
敵対心などないことを、心の声で必死に呼びかけるのですが、
怖れと怒りに囚われてしまった彼女には、通じません。
人の怒鳴り声、猫の怯え、怒り、悲しみ、不安などの空気が漂い、
つけっぱなしのTVから流れる軽快な音楽とは裏腹に、
部屋の中は燻んだ灰色、禍々しい赤の色が渦巻いています。
わたしが現れたことで、この家のささやかな平和が乱れてしまったこと、
大変申し訳なく思いました。
優しい手を持つお嬢さんと別れることは、とても寂しいですが、
未練を断ち切るように、ドアの隙間からサッと外へ飛び出しました。
いつまでも情けをかけて頂くと、決心がグラつきます。
少しだけでも温かい手に触れることができて嬉しかったです。
どうか、お父さまと言い争いをなさらないでください。

(廃屋に近いアパートの縁側で日向ぼっこ。たぶん外猫)
家には飼い猫が1匹いました。
父は、元からいる猫の気持ちを第一に考えたのでしょう。
わがままに育ててしまった猫でした。
そして、自他共に認める猫好きの父ですから、情が移る前に
目の前から外猫の姿を消したい、と焦ったのでしょう。
妹は2、3日泣いていました。
わたしは、階段を下りる途中で身動きが取れなくなり、
一部始終を黙って聞いていました。
全ての猫が幸せでありますように。
猫は、神さまがニンゲンに与えて下さったプレゼントなのですから。