
はてなキーワード:NHK朝ドラとは
NHK朝ドラ「ばけばけ」の放送も近づいて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への関心の高まりつつある昨今だが、この機会に言っておきたいことがある。それは、ハーンについての鶴見俊輔の以下のよく知られた言及は、素人の自分の調べた限りでは、非常に不正確でほとんどデタラメに近いということだ。
ラフカディオ・ハーンは、やがて日本に帰化し、日本人と結婚し、親類づきあいや近所づきあいの中にまきこまれ、日本に住む者として日本文化をまぢかに見るようになってからは、次のように書いた。 「私は、かつて日本人はみな天使であるかのように書いたことを思い出すと、気がくるいそうだ。」
https://x.com/shunsuke_bot/status/1019013776841039872
確かにハーンは鶴見の引用するような文章を書いたが、その前の「日本に帰化し…日本文化をまぢかに見るようになってから」という文脈は鶴見の勝手に付け足したものであり、実際の文脈は「以前住んでいた出雲の人たちはおだやかだったが、引っ越し先の九州の人たちは粗暴だ」といったものだった。今で言う「さす九」である。まあ確かに批判はしているのだが、日本全体を批判したわけではないし、また批判した内容も(鶴見のほのめかすような)日本人の陰湿さといったものではなく粗暴さである。それに130年近く前の話だ。九州や出雲の気風もかなり変わっているだろう。
またこの文章の出典は出版物ではなく、W.B.メイソンという人に宛てた1892年の私信である。つまり公然たる主張ではなく内輪の愚痴なのだ。それならその日の気分で筆の滑ることもあろうし、果たして重大に受け止めるべきものだったかのかどうか。
なお日本で刊行された小泉八雲の著作には、どうやらこの文章は収録されていないようだ。少なくとも国会図書館デジタルコレクションで小泉八雲の著作を「日本人天使」で全文検索しても見つからない。
しかしハーンの文章の英語原文をChatGPTに教えてもらい、その語句でググると出典が見つかる。これならおそらくアメリカの大学図書館では読むことができただろう。
"make memad to think that I wroteall theJapanese wereangels" -Google検索
Fulltext of "TheJapanese letters of Lafcadio Hearn"
https://archive.org/stream/japaneseletters00hearrich/japaneseletters00hearrich_djvu.txt
I can'tget much chance to studylife in Kuma-
moto. Idon'tlike the Kyushu people — the com
mon people. InIzumoallwassoft, gentle, old-
fashioned.Here the peasants and the lower classes
drink andfight andbeat their wives andmake me
mad to think that I wroteall theJapanese were
angels. . . .
(拙訳)
出雲では、すべてがやわらかく、優しく、古風だった。
また鶴見の文章の出典は、国会図書館デジタルコレクションで容易に見つかる。当該の記述は「生花の位置」という文章の一部で、初出は「華道1953年3月」だとのこと。率直に言って、私のような素人にもなかなか興味深く面白い文章である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2466359/1/88
https://dl.ndl.go.jp/pid/6028304/1/5
鶴見は1942年までハーバード大学に留学していた。彼はおそらくそこで、日本ではあまり知られていなかったこのハーンの手紙を読んだのであろう。そしてその約10年後に、その内容を自分の文章に(意図的かうろ覚えか)不正確に引用して、日本文化を批判する自説の補強に使ったのであろう。しかしハーンの手紙の正確な原文は日本ではあまり知られないままだったので、鶴見の文章の面白さもあって、その引用が独り歩きしてしまったのではないだろうか。
なお鶴見には他にもしばしば、他者の作品を我田引水して自説をイタコのように語らせる悪癖があるようだ。例えば彼は日本のマンガ評論のさきがけでもあるのだが、長谷川町子『サザエさん』などの評論は全編そんな感じだった。これもおそらく執筆当時は、庶民の作品に潜む抵抗精神という本質を見抜いたなどと称賛されたのであろうが、今となっては私には鶴見が他人の作品をダシに自分の政治信条を主張しているだけにしか見えない。しかし、もし仮に『サザエさん』が鶴見の評論より先に廃れていたら、同様に評論だけが独り歩きしていたのではないだろうか。
NHK朝ドラ「ばけばけ」の放送も近づいて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への関心の高まりつつある昨今だが、この機会に言っておきたいことがある。それは、ハーンについての鶴見俊輔の以下のよく知られた言及は、素人の自分の調べた限りでは、非常に不正確でほとんどデタラメに近いということだ。
https://x.com/shunsuke_bot/status/1019013776841039872
ラフカディオ・ハーンは、やがて日本に帰化し、日本人と結婚し、親類づきあいや近所づきあいの中にまきこまれ、日本に住む者として日本文化をまぢかに見るようになってからは、次のように書いた。 「私は、かつて日本人はみな天使であるかのように書いたことを思い出すと、気がくるいそうだ。」
これを読んだ私は当初、きっとハーンは日本人の建前の裏の本音にうんざりして、日本女性と結婚して日本に帰化したことも後悔したのに違いない、とすら思った。しかし調べてみたら全然違ったのだ。
確かにハーンは鶴見の引用するような文章を書いた。しかしその前の
「以前住んでいた出雲の人たちはおだやかだったが、引っ越し先の九州の人たちは粗暴だ」
まあ確かに批判はしているのだが、日本全体を批判したわけではないし、また批判した内容も(鶴見のほのめかすような)日本人の陰湿さといったものではなく粗暴さである。それも130年以上前の話だ。今は九州も出雲も、当時より相当おだやかになっているはずである。
またこの文章の出典は出版物ではなく、W.B.メイソンという人に宛てた1892年の私信である。つまり公然たる主張ではなく内輪の愚痴なのだ。それならその日の気分で筆の滑ることもあろうし、果たしてそこまで深刻に受け止めるべきものだったかのかどうか。
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なお日本で刊行された小泉八雲の著作には、どうやらこの文章は収録されていないようだ。少なくとも国会図書館デジタルコレクションで小泉八雲の著作を「日本人天使」で全文検索しても見つからない。これは私の調査不足による誤りで、実際は普通に収録されていた。申し訳ない。この記事の終わりで詳述する。
しかしハーンの文章の英語原文をChatGPTに教えてもらい、その語句でググると出典が見つかる。これならおそらくアメリカの大学図書館では読むことができただろう。
"make memad to think that I wroteall theJapanese wereangels" -Google検索
Fulltext of "TheJapanese letters of Lafcadio Hearn"
https://archive.org/stream/japaneseletters00hearrich/japaneseletters00hearrich_djvu.txt
I can'tget much chance to studylife in Kuma-
moto. Idon'tlike the Kyushu people — the com
mon people. InIzumoallwassoft, gentle, old-
fashioned.Here the peasants and the lower classes
drink andfight andbeat their wives andmake me
mad to think that I wroteall theJapanese were
angels. . . .
(拙訳)
出雲では、すべてがやわらかく、優しく、古風だった。
また鶴見の文章の出典は、国会図書館デジタルコレクションで容易に見つかる。当該の記述は「生花の位置」という文章の一部で、初出は「華道1953年3月」だとのこと。率直に言って、私のような素人にもなかなか興味深く面白い文章である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2466359/1/88
https://dl.ndl.go.jp/pid/6028304/1/5
鶴見は1942年までハーバード大学に留学していた。彼はおそらくそこで、日本ではあまり知られていなかったこのハーンの手紙を読んだのであろう。そしてその約10年後に、その内容を自分の文章に(意図的かうろ覚えか)不正確に引用して、日本文化を批判する自説の補強に使ったのであろう。しかしハーンの手紙の正確な原文は日本ではあまり知られないままだったので、鶴見の文章の面白さもあって、その引用が独り歩きしてしまったのではないだろうか。
なお鶴見には他にもしばしば、他人の作品を我田引水して自説をイタコのように語らせる悪癖があるようだ。例えば彼は日本のマンガ評論のさきがけでもあるのだが、長谷川町子『サザエさん』などの評論は全編そんな感じだった。これもおそらく執筆当時は、庶民の作品に潜む抵抗精神という本質を見抜いたなどと称賛されたのであろうが、今となっては私には鶴見が他人の作品をダシに自分の政治信条を主張しているだけにしか見えない。しかし、もし仮に『サザエさん』が鶴見の評論より先に廃れていたら、同様に評論だけが独り歩きしていたのではないだろうか。
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この記事を手早く書き上げて公開した後ほぼ失念していたが、「ばけばけ」の放送も始まったので思い出して読み返したところ、割と読みづらかったので文章に少々手を加えた。内容は変えていない。
この記事への反応は少なかったが、かなり肯定的な評価もいただけた。また「小泉八雲日本人天使」でググると検索結果の上位に出るようになったから、今後は鶴見のこの言及に興味を持った人の調べる手間が省けるだろう。
まあ省けると言っても、私は完全な門外漢の素人であり、調査はPCを数時間操作しただけである。たったそれだけで、もし鶴見の同時代人だったらハーンの専門家がアメリカの大学図書館に出向かないとわからなかったようなことが容易にわかってしまう。つくづくありがたい時代だと思う。
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申し訳ないが訂正。
先に書いた通り、ハーンの例の手紙が日本であまり知られていないという私の推測は間違いで、実際は広く知られていた。
つまり、ハーンの手紙が知られずに鶴見の言及が独り歩きしたという私の憶測は完全に間違いだった。改めて申し訳ない。
田部隆次 著『小泉八雲』,早稲田大学出版部,大正3.国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/950739/1/122?keyword=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%20%E5%A4%A9%E4%BD%BF
熊本では人の世を研究する機会にあまり数多く接する事は出来ない。
出雲では誰も彼もが柔和で、優しくて、古風だ。
また、ハーンの手紙を踏まえて書かれた最近(2025/08/18)のブログ記事もあった。
朝ドラ『ばけばけ』の主人公の夫のモデル小泉八雲はどんな人だったんだろう?① | よどの流れ者のブログ
https://ameblo.jp/s21y24/entry-12923911589.html
出雲では万事柔和で古風であった。
しかしそうなると、この鶴見の言及が、なぜ1953年から今(2025年)に至るまで間違いを指摘されてこなかったのかはわからなくなってしまった。
単純に、小泉八雲の専門家の目に触れる機会がなかったからだろうか。
それとも鶴見の権威を恐れて間違いを指摘する者が現れなかったのか。
今の私は見当がつかない。
コピペで引用なのここまで明確に示してるのになんで内容の不満が俺に向けられてんだよ
1964年「うず潮」
1966年「おはなはん」
林謙一「おはなはん」
1977年「いちばん星」
1978年「おていちゃん」
1979年「マー姉ちゃん」
1981年「本日も晴天なり」
1984年「心はいつもラムネ色」
1986年「はね駒」
1987年「チョッちゃん」
1990年「凛凛と」
1994年「春よ、来い」
最愛の夫を見送るまでが描かれている。
1997年「あぐり」
2000年「オードリー」
DVD未発売。
2003年「てるてる家族」
2006年「芋たこなんきん」
ソフト化されていない。
2010年「ゲゲゲの女房」
2011年「カーネーション」
ファッションデザイナー「コシノ三姉妹」の母、
2014年「花子とアン」
2014年「マッサン」
2015年「あさが来た」
2016年「とと姉ちゃん」
2016年「べっぴんさん」
2017年「わろてんか」
2018年「まんぷく」
2019年「なつぞら」
2019年「スカーレット」
2020年「エール」
古関著書「鐘よ鳴り響け」
2020年「おちょやん」
2023年「らんまん」
2024年「ブギウギ」
2024年「虎に翼」
三淵嘉子関連書籍
2025年「あんぱん」
2025年「ばけばけ」
大宝律令の中に碁に関する項目があること、隋書倭国伝に「好棋博、握槊、樗蒲之戯(囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む)」との記載があることから、実際にはさらに以前から伝わっていた説もある。
幕府の庇護のもと囲碁に専念する職業棋士が誕生し四家の互いの切磋琢磨により日本での囲碁の技術が飛躍的に向上、多くの名手が生まれる土壌が整えられた。
朝鮮通信使で来た囲碁の名手と日本の棋士との差は3子であったという。
近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。囲碁殿堂表彰にも第一回で選ばれている。
いまや囲碁以外でも用いられている段位制度を発明し、棋士同士の実力差を可視化し囲碁の競技性を高めた。
手割りも彼の発明であり囲碁の局面評価の技術発展に大きな影響を与えた。
その卓越した棋力は「棋聖」「実力十三段」と称された。(当時の実力最高段位は七段、九段=名人)
帝国ホテル、およびホテルオークラの創設者である大倉喜八郎の息子で大倉財閥2代目総帥。
明治維新により幕府の後ろ盾を失い混迷と貧窮を極める囲碁界に対し経済面で多大な援助を行い、本因坊家、方円社、裨聖会等乱立する各派閥を大同合意させ日本棋院を設立。
財界の力を背景に棋士たちをまとめ、混乱を収拾し碁界合同に物心両面で貢献し現在の囲碁界の礎を築いた。
女流棋士として初の実力四段となり、また多くの女流棋士を育てたことから「現代女流碁界の母」と呼ばれる。
喜多は杉内寿子を始め多くの女性棋士の育成にも尽力し、女流囲碁界の興隆に貢献した。
彼女の情熱と努力により、女性の囲碁参加が増え、囲碁界の多様性が高まった。
NHK朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル・広岡浅子とも交流があり二人の棋譜が残っている。(明治41年朝日新聞に掲載)
https://kajimaya-asako.daido-life.co.jp/column/15.html
本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。
囲碁の常識を変えた「新布石」理論の提唱者として知られる。呉清源と共に伝統的な布石にとらわれない大胆な構想で囲碁の戦略に革新をもたらした。
また多くの内弟子を取って育成し、大竹英雄名誉碁聖・加藤正夫名誉王座・二十四世本因坊秀芳・武宮正樹九段・小林光一名誉棋聖・二十五世本因坊治勲など「木谷門下」として知られる多くのトップ棋士を輩出した。
木谷の教育と熱意は、日本の囲碁界のレベルを大きく引き上げ、現代囲碁の礎を築いた。
木谷實とともに革新的な布石を開発し、囲碁の戦術と戦略に革命を起こした。
呉の卓越した棋力は「昭和の棋聖」と称され、多くの名勝負を残した。
彼の影響は日本のみならず世界の囲碁界に及び、囲碁の深みと可能性を広げた。
私財を投じて海外の囲碁普及に尽力。ヨーロッパやアメリカを訪れ、講演や指導を通じて囲碁の魅力を世界に伝えた。
岩本の活動により、海外での囲碁人口が増加し、国際的な囲碁交流の基盤が築かれた。
「原爆下の対局」でも知られる。
「宇宙流」と呼ばれる独特の打ち方で知られる。
陣地の多い方が勝ちであるゲームにも関わらず、地を取りに行かず盤上全体を大きく使い従来の囲碁の常識を覆す。
武宮の革新的な戦法は多くのファンを魅了し、囲碁の可能性を広げた。
独特の棋風と人柄で多くの人々に影響を与えた。中国や韓国の棋士との交流を深め、彼らの育成と強化に貢献した。
藤沢は自身の経験と技術を惜しみなく伝え、国際的な囲碁のレベル向上に寄与した。
日本で修行を積み、後に帰国し韓国囲碁界の発展に大きく貢献した。
また、彼の弟子である李昌鎬を育成し、共に世界一の座を競い合った。
韓国囲碁の飛躍的な成長を支え、国際囲碁界に大きな影響を与えた。
日本が囲碁のトップの座から降り、囲碁界の勢力図が塗り替わる大きなきっかけとなった。
史上最強の棋士の一人とされる。曺薫鉉の弟子として才能を開花させ、圧倒的な強さを誇り多くの国際棋戦で優勝した。
国際棋戦の優勝回数は歴代最多であり、2位以下に大きな差をつけている。
『ヒカルの碁』のヒットにより少年少女たちの囲碁人口を増加させる。
低迷極まる囲碁界に一筋の光をもたらした。
ヒカルの碁がなければ日本の囲碁界は今よりもっと厳しい状況に置かれていただろうことは想像に難くない
DeepMind社の創設者。ハサビスのチームが開発したAI「AlphaGo」が2016年に世界トップ棋士の李世ドルを破り囲碁界に衝撃をもたらす。
AlphaGoの登場は人間の思考を超えるAIの可能性を示し囲碁の戦略研究にも新たな視点を提供した。
今まで悪手とされていた手が見直されたり人間には全く思いつかない手を編み出す等、囲碁の常識がAI前とAI後では大きく変わった。
続き
(さらに続く)
と思ったんだけどよく考えたら佐藤ひろ美の方が近くね?
って考えてちょっと調べ直したんだけどさ、どうも違うんだよな。
I'vっぽい感じは確かにあるんだけど、でも単語の区切り方のセンスがちょっと違うんだよなあ……。
でも確かにKOTOKOとか佐藤ひろ美とかUR@Nとかそういう文化の中に、こういった感じの歌詞があったはずなんだよなあ。
やっぱKOTOKOなのかな?
本人作詞多いし。
誰か答えを知らね?
榊原ゆいも近い気はするんだよなあ……。
メロディーに対する音ハメの関係があるから特定の作曲者との組み合わせの時に現れる個性なのかな?
・一人称がぼく
・ノスタルジーへの刺激
・自分探しの途中感
島田紳助が「あのひとは人間1回目だから多めにみてやろうや」ってことをいってた。
転生して人間を何回もやることで人間として完成していくってことで、島田紳助は何回だと自己診断してるのか知りたいもんだなと。
それを発言した当時と、いまと。
それはそれとして本題。
人間以外は鳥のある種類以外は音楽を理解できないそうで。ただそこで音が鳴っているとだけ認識する。
その「人間n回目」理論があるとするなら、1回目や回数が浅いひとは音楽がそういうふうに聞こえているのかなと思ったりしました。
音楽になんの関心もない人間がいるじゃないですか。しかもわりと少なくない割合で。
音楽がわかればえらいということでもないし、わからないから劣るということでもないですが、音楽に一切無関心の人間にたまに出会うとすごく不安になります。
タワレコの有名なコピー「NOMUSIC, NOLIFE」の人生を送ってきました。いまのサブスクは天国にいるのかと思えるほど幸せです。
多様性を認める。そのつもりではいるのですが、柔らかい表現では不安にはなります。このお気持ちは揺るがないので残念でした。
そういうことはほかにもありますよね。アニメ、マンガ、韓流ドラマ、NHK朝ドラ、海外連続ドラマ、不潔な人間、ファッションに興味のない人間、仕事のできない人間、仕事をしない人間、暴力を振るう人間、人種、男女、思想、宗教etcetc
そのなかに、音楽がわからない人間というのがあるということです。わかっています。I KNOWI KNOW
オチはないです。ここはオチがないほうがまだ反応があるってところありますよね。
ただこれに反応はいらないです。お気持を吐き出してまあまあ満足です。
NHK朝ドラ「エール」の主題歌「星影のエール」のMVが先日公開された。
曲も映像も素敵で、ストーリーも素晴らしいような気がして初見で泣いてしまった。Youtubeのコメント欄でも泣いたファンは多かったようだ。
それで立て続けに何回も観たが、見れば見るほどストーリーは分かるようで分からなくて、考える余地がたくさんありひどくハマってしまった。ストーリー重視のMVはたくさんあるけど、こんな刺さり方をしたことはなかったので、妄想したことをひたすら書いていきたい。
まず私について簡単に。
しがない社会人。かつてはこういうコンテンツに興味があって勉強をしていたこともあったし、なんならそういう職に就いていたこともあった。
くじけてそうじゃない職に移ってしまい、いまはただの消費する側になってしまった落ち武者。仕事しんどいと思いながら虚無になる前にコンテンツを消費することで救われている多くのうちの一人。
少しだけ作る側の現場や状況を知っているので、そのことに思いを馳せて敬意とか羨望とかを織り交ぜながら楽しませていただいています。
GReeeeNの明示的なファンではないけれど、めっちゃ有名な曲とかはスマホに入れてて、星影のエールは朝ドラの主題歌なんだーと思って買ってた。
星影のエールの作品世界を考察しながら、MVをリピートしまくっているところ。
〜〜〜〜
〜イントロ〜
〜1番〜
光る星と遠ざかる青い惑星
〜2番〜
星空を見つめるロボット
〜Cメロ〜
浜辺。流星群を見つめる男女
宇宙船内。眠っている老婆
それを見つめるロボット。窓外に青い星
〜大サビ〜
意を決するように胸のスイッチを押すロボット。激しい光があふれる
倒れるロボット
構成は「段階的に年老いていく女性」と「段階的に老朽化していくロボット」の変化が主軸。1番サビではロボットに庇護される赤ちゃんの笑顔、2番サビではロボットと少女の喧嘩と対置されている。怒っている少女はこの作品の芝居の中では最も感情が発露されるアクション上のピークだが、その直後には宇宙船内から回想へ移る展開の落差が用意されている。流星郡や星空を含め無数の星が描かれている作中で「誰よりも私には輝く星」の箇所では、青年はそれらの一切は眼中になく少女を見つめているのが印象深い。そのあとは老婆とロボット、宇宙船の行く末という作品の山場に雪崩れ込む。
宇宙船のデザインやロボットのデザインはレトロフューチャーなのであまりカッチリ考えてもというところではあるが、楽しいしその後の考察の手がかりとして重要なので考えておきたい。
つまり近未来か遠未来かという点だが、ロボットに人格や精神を転写したり、恒星間宇宙船を建造できるくらいには未来、ということになると思う。
宇宙船は、メインの舞台になっている広間の「大窓」がイントロのカットでも確認できるので、居住区を回転させて遠心力で擬似重力を得るタイプではなく、狭い範囲の重力制御とかを実現しているのかもしれない。
また、ラストで事実上船員がいなくなった宇宙船をオートバイロットで着陸させられる程度に進んだ科学技術がある。
超光速航行は実現していない、重力制御はできる遠未来、と考えたい。
眉間の間に指を持ってくる謎の仕草をたびたびするが、これが回想に登場する青年と同じ癖であることが描かれる。このことからロボットと青年は深い関わりがあると考えられ、「ロボット化した青年」もしくは「青年の精神や人格を引き継いだロボット」だと考えられる。この差はSF的には重要で繊細だけれど、これ以上判断材料は提供されていない。ひとまず設定上の同一人物として扱っていいと思う。
青年がロボットになった理由はなんだろう?宇宙船は恒星間航行ができるが、超光速ではない。生身の人間は保たない。だがそれでは「少女はロボットではない」理由にならない。
作中、そのボディは徐々に劣化していく。記号的にボロにしているといえばそれまでだけどあえて考えてみる。宇宙船内だけで活動している場合、こけて塗装がはげるくらいは起きるだろうが、大袈裟にへこむことは考えづらい。赤ちゃんの世話だけでなく、船外活動など宇宙船のハード的なメンテナンスも多いに請け負っていたものと考えられる。大型の飛来物は宇宙船を操作して避けるだろうが、小型の飛来物は当たってしまうのだ。天文学的確率で。(あたったらへこむどころでは済まないんですが、そこは主人公補整)
冒頭で産声を上げ、時にはロボットと喧嘩をし、回想後にはカプセル内で眠っている老婆。これらは同一人物として見ていいと思う。その後、ロボットがトリガーした謎の発光により、再び赤ん坊へと再生する。歳を重ねてから赤ん坊へ戻る仕組み(能力)の詳細は不明だが、トリガーはロボットのボタンと女性が握った星型のアイテムにある。
回想の中で登場する女性と同一人物かどうかは分からない。ただ、別人と考えた場合、回想の男女のうち男性はその後ロボットになったのに女性が描かれない、ただ数秒登場する男性の恋人ということになる。その二人の子供が冒頭の赤ちゃんだと考えてもいいが、それだと母親は乗っていないのか、乗っていないにしてもロボットだけで行けばいい(お子さんは連れて行かなくていいんじゃ?)という話にもなるので、そのすじは想像を膨らませすぎというか、素直に回想の女性=宇宙船の女性と考えていいと思う。少女時代の姿もとても似ている。
GReeeeNらしい緑色の星。作中たびたび光の強さが変わるが、冒頭は光っていない。赤ちゃんが嬉しそうに持ち上げている時にぼんやり光り、ロボットと少女が喧嘩した時には光が弱まった。回想には登場しない。終盤、ロボットが胸のスイッチを押すと激しく発光し、女性の体が薄く透けていく様子が確認できる。
このことから、女性の生命の様子に深く関係し、影響を与える(具体的には身体を若返らせる)。
また、ロボットと二人の関係に影響を受けることが分かる。若返り発動が「女性が星を握る」「ロボットがスイッチを押す」という両者のアクションで発動した(女性ひとりのアクションで発動しない)ことからも、星は両者に関係して動くのだと考えられる。
感情に感応する・若返り効果を発揮するといった現象が、登場する二人だけに生じるのか、人類全般に対して生じるのかは不明だが、「互い照らすその意味」を司るアイテムだと考えたい。
終盤、老婆になった女性が、ロボットがスイッチを押した途端発生した光により赤ちゃんへと若返る。途中、老婆の手が透けてうっすら星が見えることから、コナンくん的に身体が縮むというよりは、もっとファンタジックなものだと思う。なのでやっぱり、若返りというよりは転生という語が適当だと考える。
船員はこの女性とロボットの二名で、ほかの船員は描かれない(最初はいたのかもしれないが、空間に余裕のある船ではなさそうだし、二人だけだと思う)。となると、出発時点で赤ちゃんだということは考えづらいので、MV開始時は「旅路の途中で、女性が老婆から赤ちゃんへ転生したあと」ではないか。
なので、MVのクライマックスで描かれる発光と転生はMV開始時点で最低一回は行われていることが分かる。そうなると問題になるのは回数だ。何度もできるならロボットが最後に「意を決するように」押す必要もなく、気軽に押せる。おそらく回数制限があるし、多分MVラストのそれが文字通り最後だったのだと考えられる。
冒頭、転生直後のためか星は光っていなかった。ラストでは淡く光っており、ロボットすら転生する様子はまさしくキセキということだと思う。
回想シーンでは、夜空に流星群が飛来している。GReeeeNのキセキでも同様のモチーフが使用されていて、同MVがYoutubeに登録されたのは2010年7月のようなので、ほぼちょうど10年ということになる(10年前でももう少しグラフィカルな合成はできたと思うのでMV制作の厳しい予算のことなんかを考えてしまった。このフルCGアニメは仕上がり通りの潤沢な予算で作られていてほしいと流れ星に祈るなどした)。
流星群と言っても放射点がない?ので、この呼び方が適当かはわからない。
流れ星には「良いことの前兆」「悪いことの前兆」両方の伝承があるようだが、今回はどちらだろうか。流星の色、宇宙船内の星形のアイテムの色をみると、両者に関係があると考える方が自然で、もっというと両者は同一物だと思う。
悪い物を持ち込んで旅をするのは苦しいし、実際転生のアイテムでもあるので、ここは吉報の方の流星だと考える。カタストロフの前兆を描いたものではない。
そんな特殊なものが降っていると考えると、自然現象としての流星ではなく、人為的な何か(人工物は降っている、または軌道上にあった人工物が飛び散って降下している)ではないかという妄想も膨らむ。
そろそろまとめていきたい。
流星が飛来し、それに祈る女性とその女性にみとれる男性がおり、二人は姿を変えてすごく長い宇宙の旅に出かけた。その理由はなんだろうか。
彼女は、流星として降ってきた何かの作用を受けて、若返ることができる。ロボットはできない。では男性は、同じことができただろうか?
20xx年、宇宙から飛来したものに、一部の人類の身体を転生させる効果があることがわかった。
そして、なんらかの理由でそれを多量に行使する必要が出てきた。収穫するために、宇宙を渡る旅に出なければならない。
なんらかの理由とは、やはり人類が滅びるようななにかではないかと思う。その着想はYoutubeの考察コメントで見かけたものだが、細かい理由はMV内に描かれていないしなんでもいいのだけど、このご時世、どうしても強大な病原体による感染症を考えてしまう。
人類が滅びに向かう中、かつて流星群で飛来した物体に特殊な作用があることが分かる。それは使用回数に制限のある消費物で、できればたくさん欲しい。
一方で転生に耐えられるのは人類の全員ではなかったのだと思う。なので、適性が見られた彼女が、星を摘みに行くミッションを担うことになった。
男性は病魔に屈する(または、転生の適性がなかったのでやばいことになった、という想像もできる)が、ロボットとして彼女をサポートし続けることを選ぶ。
SFで恒星間航行といえば冷凍睡眠だが、設備が大きく収穫物を積むスペースはできるだけ確保しなければならない。冷凍睡眠設備は搭載されなかった。その意味でも、転生可能な人材はこのミッションに適切だったし、それをサポートできる誰かが必要だった。
一人と一機は地球のために旅立った。
どれくらいの旅路だろう?
回想で高らかに歌われる歌詞。普通に考えて2020年の現在からみて星座を眺めた数千年前(ギリシャ時代とか)を指した歌詞に違いないが、ここは妄想の翼を広げたい。この歌詞が流れる瞬間が千年前の出来事。作品が描いている時間と、回想とで、1000年程度の開きがあるという妄想だ。
片道500年以上の旅だ。光速の何パーセントの速度が出るのかはわからないが、計画の時点でわかっていた数字だと思うと絶望が深い。
宇宙船建造時点でも、現代より進んだ科学で人の寿命は伸びていると思う。それでも何度となく転生が必要だ。
MV内で描かれた赤ちゃん、少女、老婆は、それぞれが通しではなく、転生した時々の一コマ一コマであると考えたい。転生する度にロボットと喧嘩をしたかもしれないが、孤独な旅に耐えるために、おそらく女性は感情を抑制する精神改造か何かが必須だっただろう。喧嘩なんて起きない、そんな中での感情の発露。あの衝突は、数ある転生の中でもほとんど起こらなかった、非常に珍しく尊いといえるような出来事だったのではないか。
窓の外の星はどうだろう。冒頭、大窓の外には青い星が見え、子供が歩き出すころには遠ざかっている。
ただ、最低一度は転生を実行し、新たに産声を上げたにしては、地球が近い気がする。また、赤ちゃんの一人歩きは1歳三ヶ月で80%とのことだが(ググった)、それだけの期間が経過したなら、青い星はもっと遠ざかっていてもいいのではないか。冒頭に環のある惑星が写っているが、土星軌道から見た地球であれば遥かに小さいはずだ。
ふたつめの理由については、推進剤を節約するためにスイングバイしていたと考えることができる。
ひとつめの理由については、「出発時点=赤ちゃん」はSF的な筋立てを思い浮かばないのでここでは支持しないのだが、そうするとMVが描いているのは「行き>回想>帰り(到着)」ということになり、作品としての納まりはなんとなくいい。そうでない場合、あの星は地球ではなく目的地の星だと設定できる。MVは「帰り>回想>到着」という流れで、こちらは描かれているものの背景の勘ぐりとしては納まりがいい(と思っている)。冒頭の環のある惑星も、目的地近傍の土星ではない巨大ガス惑星だと考えると辻褄が合う。
最後の転生は、女性が自ら動けなくなるほど老いてから行われた。転生の回数券がいよいよ最後だと判明し、可能な限り老いてから実行することになったのだろう。目的の星での収穫物を使えればいいのだが、察するになにか使えない理由があったのだろう。
「時に私の後ろに光る星」
それまで暗い星空で埋め尽くされていた大窓には、いま青い星が大きく見渡せる!
安堵もある、悲しさもある複雑な美しさに目眩がする。
地上300〜400km程度の低軌道で、降下は始まっていただろう。時間がない。最後の転生の光に包まれながら、宇宙船を地上へ降りていく。
二人を迎えてくれるのは、二人を、あるいはほかの多くの収穫者たちを打ち出したかもしれないマスドライバー発射台。人類の残り時間が少ない中、限られたリソースで建造されたそれは、いまは朽ちて鉄骨を晒している。(そうではない頃に作られた灯台は、長らく無人の状態でもメンテナンス機構が行き届いているようだ)
地上に着いてすやすやと眠る赤ちゃんだが、誰一人迎えには来ない。滅びかけの人類は、おそらく地上設備では可能だった冷凍睡眠を実行し、ミッションの成功とともに目覚めるのだろう。
女性はロボットと喧嘩する前、空の絵を見ていた。その次のカットでは引きの絵になるが、反対のページにはほとんどなにも描かれていない。おそらく商業的な画集などではなさそうだが、船内スペースが貴重な中で持ち込まれたものなので、とても大事な、プライベートな冊子だと思われる。
「明日はきっといい天気/青き春もまた そうであれ」
青き春の時代に、白紙の状態から、誰と物語を描いていくのか、考えながら描かれた絵。回想に登場する二人にまつわる品、もっというと青年にとっての「輝く星」である女性を描いたものだろう。流星群を見る前の昼間か、「夜明け前の空」を見たあとの絵だ。そう考えると、右ページに見えるスケッチが回想に出てくる帽子に見えてくる。
そんな思い出の絵なのに、少女は空のみに注目して、暗い星空と見比べる。
ロボットの手を払いのけて、少女は怒りながらなんと言っただろうか。たとえば「こんな空を一体いつになったら見られるのか」。
自分が描かれていることには気づかない……転生しても、記憶は引き継がれないのだ。いま怒っている彼女は、だから青空は見られない。
答えられるわけがない。
ロボットの献身、ふたりの悲哀に残酷ささえ感じるが、それでも困難を乗り越えて互いに照らし続けた二人が、数百年の航海を終えてのちには青空の下で安らかに眠っている。
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だいぶ書きたいことは書けた気がする。
ここで明示しておきたいのだが、「公式はこう考えて制作したに違いない!」と当てようとしているわけではない。むしろ、私はここでこう考えたが、全く違う考えで作られていたのならその方が面白い。そうあって欲しい。
残念ながら、設定を徹底的に練りきった上で作られた作品なんて、それこそ恒星間航行でデブリにぶつけられるくらいの低確率で、どんな作品も多かれ少なかれ作りながら決めた・変えたことが無数にあり、特に理由もなく決めたことも無数にある、ということを私は想像してしまう癖がついている(そういうナイーブさはないけど「考えてなかったけど結果的に筋が通って見える」みたいになってる箇所には、謎のかっこよさを感じたりする。このMVにもそういう箇所があったら楽しいなと思う)。このMVの制作期間中には緊急事態宣言とか自粛とか、ままならないことがあったと思うし、その意味でも、隅々に渡って「ここはこういう考えで作られたに違いない」という考察態度でいることは難しい。
いや、そのあたりはなんでもいいけど、とにかく妄想が捗る作品に出会えて嬉しいってことです。
監督の森江康太さんは、ヨルシカやAmazarashiのMVもやってるひとっぽい。探したら観たことあった。
顔を出してない歌い手のMVをよく手がけているのかもしれない。
同じく8/7に公開が始まったドラえもんのポスターにも名前が載ってる。
誰にいうでもなく自前の発表の場があるでもないので、初めて匿名ダイアリー使ってみた。
誤字とか見つけたら直します。
(「地球を滅ぼすようななにか」の所ですが、SFに興味がある方は「天冥の標」(小川一水)を読んで思い浮かべるといいと思います