
はてなキーワード:Finalventとは
むかし finalvent というブロガ-がいた。
だがこの爺さん、今ではトランプ様を真似て、毎日、有害なフェイクニュースを撒いている。
https://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2025/11/post-442f5d.html
をファクトチェックしてみよう。
タイフォンで使用するのはSM-6およびトマホーク巡航ミサイルな。
各紙報道の通り、9月の演習のため「一時配備」されたものが撤収していっただけなのに、
finalventは「長期配備計画」の「一時撤去」と、正反対に伝えている。
長期配備計画なんてものが明らかになれば、高市発言以上の大騒ぎになる。
だいたい10月17日には自衛隊から岩国市へ「撤収準備中だ」と連絡して、
11月7日の国会発言のエスカレートを避けるため撤収したことにするのは無理がある。
エビデンスとして数字があげられているのだが、これらがことごとく嘘。
実際のBBC/FT記事は「軍出身の中央委員の出席率が半分以下」という記述に留まる。
記事に無い具体数字をあたかも英メディアの調査結果であるかのように見せている。
https://www.ft.com/content/48970df6-f837-476c-ac3e-6c8d28652cc2
「残りは軍関連の失脚が大半」は妄想。
さらに続く
といった描写も、報道には無く、すべてfinalventの妄想だ。
2023–24年時点でなお20%前後の規模があると見積もられている。
https://www.imf.org/en/publications/fandd/issues/2024/12/chinas-real-estate-challenge-kenneth-rogoff
「7%」という具体値は出典なく、低下しているとしても数字が小さすぎる。
明らかに誤り。
IMFや財政当局向け資料によると、中国の「政府全体=中央+地方」の債務残高は2024年末でGDP比約69%。
前年同期比4.3%増、10月単月でも2.9%増。
https://www.stats.gov.cn/english/PressRelease/202511/t20251117_1961879.html
「通年2%未満」は明らかな誤り。
65歳以上は約16%。
60歳以上22%の数字を誤って用いているか、意図的に盛っている。
重慶での単体事件を、「北京や上海で相次いだ」と膨らませている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2025090500737
大都市では隠蔽の難しいタイプの事件であり、実際に重慶の事件ではSNSや報道に載った。
TaiwanNewsが「ある月にPLA機のADIZ進入が222回」と報じたのは7月の記事。
https://taiwannews.com.tw/news/6154786
ISW(Institute for the Study ofWar)は戦争研究所で、ワシントンに本部。
「戦略国際研究所」はIISS(International Institute for Strategic Studies)でロンドンに本部。
全く別の機関を混ぜるんじゃない。
両日エントリとも、現時点の公開情報と明確に矛盾する、あるいは出典不明の数字やニュースを、まるで既成事実であるかのように紛れ込ませた内容である。
誤りのパターンは、LLMの典型的なハルシネーションに見えるが、そのほとんど全てが「中国は大したことない」「高市首相は有能」であるかのように見せる方向に歪んでおり、誤り、いや、意図的な嘘だ。
敵国を侮る分析は、国民に意思決定を誤らせ、国を亡ぼす危険なもので、右翼の面汚しと言える。
佞言断つべし。
なぜならAIに書かせた記事を最低限の校閲もせずにそのまま公開しているからである。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2025/08/post-fe05b0.html
甲子園球場はそもそも第10回全国中等学校優勝野球大会を行うために、1924年に作られた球場である。つまり戦後に区切る意味はない。
2024年、日本の高校生人口はおよそ100万人。昭和後期のピーク時から半減し、その影響は高校野球にも直撃した。2015年に約17万人いた野球部員は、2023年には10万人を下回った。
https://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa01/kihon/kekka/k_detail/2024.htm
https://www.jhbf.or.jp/data/statistical/index_koushiki.html
なぜ高校生人口は24年を使ったのに野球部員人口は23年を使ったのだろうか?
甲子園の本大会でも導入していないビデオ判定やピッチクロックを、人も予算もない地方大会で試験でも運用するわけがない。
悪魔の証明になるのでもし例があるのなら教えてほしい。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250123/k10014701571000.html
女子マネージャーなどの従属的立場を問題視するのは一理あるが、高校スポーツで男女を分けるのは一般的だろう。
一つ一つは細かい間違いかもしれないが、これだけの瑕疵がある記事をまともに受け取るべきだろうか。
現在進行形の暴力問題が記事に含まれていないのも、AIがまだ学習していないか誹謗中傷になりかねない内容を生成しないようにしているからだろう。
AIを使うことが問題とは思わないが、ろくに事実確認もしないままで公開し、finalvent氏の過去の知名度によって拡散されているのは問題だ。
Permalink |記事への反応(14) | 19:54
Finalvalent がはてぶでフルボッコにされてるがお前らは一度太平洋戦争を反省した方がいい。
まずお前らに聞きたいけど兵站どうするの?
「ローマは兵站で勝つ」「楚漢戦争の戦功第一は兵站担当の蕭何」と言われるように古来から優れた国家は兵站を重視してきた。兵站を軽視した大日本帝国が東南アジアで飢餓に苦しみまくって餓死者を出しまくり戦争どころじゃなくなったのは記憶に新しいところだ。
ではここで言う兵站の補給対象と補給物資はなにか?補給対象はアメリカおよびその同盟諸国であり、補給物資は石油天然ガスなどのエネルギーや食料品である。
はてなブックマーカーが知っているか知らないか分からないがウクライナは小麦の大量供給地域であり、ロシアは天然ガスなどの大量供給地域だ。ここからの補給が止まっているから世界規模の物価高騰のインパクトを与えている。それは日本でも味わってるはず。
さらに悪いことにバイデンなどの国際金融資本の活躍で社会システムはどこもカツカツの状態で余裕となるタメがない。日本でもこども食堂とか氷河期派遣の現状とかみれば分かるはず。
テレビしかみない諸兄は知らないかもしれないがある程度政治には詳しいやつは長期化すれば確実に不利になるってのはそもそも初期から殆どの奴が言ってた話で変な話でもない。(finalvent くらいの論客なら当初からこれくらい読めてたはず)
mRNAワクチンは死亡率を下げるものであり、マスクは感染者からの感染拡大を低減するものだからだ。事態が進行中の時点において、医療者インフルエンサーで、「感染予防」という発信をしたひとはいたはずで、それは文字面だけみて「誤り」を発信したひととなったかもしれない。
感染予防という誤情報によって未接種者はウイルスをばらまく人殺しだと批難し、特に若者に対してリスク・メリットを大いに錯覚させ、すでに知られていた心筋炎リスクすら河野太郎や山中伸弥のようにデマ扱いしてまで呼びかけ、結果無為に若者の死者や重症者といった薬害を出すのは「近似的に目的に合致していた」からリスクコミュニケーションとして正しいらしい。
しかし、ふたつめ以後は、リスクコミュニケーションとして、不適切な部類に入る。ふたつめの安全安心なる表現も制度的介入行為になじまない。あらゆる医療的介入にはリスクとベネフィットがある。その勘案として専門家がリスクをベネフィットがうわまわると判断し、それを国民も承認した、という形になっている。不服があるなら民主的に議論する必要があるが、その議論はあくまで、クリティカルになされるべきである。
何言ってるのか全然わかんね。選挙で選ばれた政権与党が出した方針に対して選挙で選ばれたわけでない尾身茂をははじめとした専門家会議が逐一「了承」し、気に入らなければ五輪反対のように政治介入する体制が民主的だったとでも?
マスクは感染予防効果があるんですか! と言い募るひとと議論はできないだろう。先に書いたように、未感染者に飛んできたウイルスの感染をマスク着用で低減するとは言えない。しかし、感染者がウイルス感染を拡大させるのを阻むためにマスクは有効だ。「文字面」というのはそういう意味だ。マスクは有効だった部分があると思う。したがってコロナ禍においてマスクは有益だったと評価したい。
ワクチンについても、ワクチンを打てば感染しなくなることもないし、感染拡大を妨げることもないが、感染したことで死亡するのを防ぐ効果があるものだったと理解している。これも、感染(発症)予防という文字面からは誤りとされるが、しかしコロナ禍においては同様に重要で有益だったと評価している。
「重要で有益だったと評価している。」[要出典][誰によって?] 結局、マスクもワクチンも有効だったと思い込みたいというのが言葉の端々からダダ漏れだけど大丈夫なん?『米国上院の報告書』読んでみたら?
つまりこういうことだ。「ウイルス飛来→感染→発症→死亡」という症状進行のステップと、「ウイルス飛来→感染→ウイルス複製→飛沫発生→感染拡大」という再生産のサイクルのどの段階に効いているかをあいまいにした議論は無効だと言っている。mRNAワクチンは症状進行のステップの最後の発症から死亡への矢印を抑えるものだったし、マスクはここでの再生産のサイクルの飛沫発生から感染拡大という矢印を抑えるものだった。
何言ってるのか全然わかんね。結果がすべてだぞ。日本よりマスクもワクチンも早々に辞めた諸外国が地獄にでもなったのか?
そういえばこの「ワクチン的利用」という表現も注意が必要なのだ。finalventにとってワクチンというのはあくまで「獲得免疫」を介した「感染・発症防止」に関するものとしてあり、感染(発症)を抑えることはできないmRNAワクチン(あるいは彼の表現を用いるなら、mRNA医薬)というのは、確かにその文字面としては正しいのはわかる。ただ、それは文字面として正しいだけなのだ。mRNA「ワクチン」を活用した企業・医療が、「ワクチン」という、ジェンナーの種痘以来のイメージに乗っかってプロモーションしたのは事実だ。それに対して文字面で批判したくなる潔癖の気持ちは、わからないといったら嘘になる。わかるのだ。
何言ってるのか全然わかんね。mRNAワクチンが従来のワクチンと一切の機序を異にするのは「文字面」の問題じゃないぞ。
でも、大事なのは死者を出さないことだった。その方針が、経済を妨げてまで行う必要があったのかどうかは、民主的な議論の俎上に載って然るべきものだが、それは本文で述べることではない。
生命と経済や文化との兼ね合いを勘案しないでどうやって生きるの?それをしない論って意味あんの?ていうか「民主的な議論」って何?
元ツイートはもとより、finalventのツイートもまたやはりリスクコミュニケーションとして不適切な部分が大きい。文字面としてだけ妥当するにすぎず、コロナ禍という事態の問題設定を捉えそこねているのだ。
まともな問題設定ができてないお前が何いってんの?経済や文化との兼ね合いを無視していいなら、あらゆるリスクを極大にとるのが正しいリスクコミュニケーションになるけどそれでいいの?じゃあなんでワクチンのリスクに関してだけは矮小化することが許されるの?
https://x.com/finalvent/status/1869910690649219583
ひとつめは半分だけ同意する。コロナワクチン接種もマスク着用も、「着用者とか接種者本人へと飛来したウイルスの感染」を予防するわけではない。
mRNAワクチンは死亡率を下げるものであり、マスクは感染者からの感染拡大を低減するものだからだ。事態が進行中の時点において、医療者インフルエンサーで、「感染予防」という発信をしたひとはいたはずで、それは文字面だけみて「誤り」を発信したひととなったかもしれない。
ただし、そのプロモーションは、結果として、近似的に目的に合致していたことは評価したほうがいいとは思う。
しかし、ふたつめ以後は、リスクコミュニケーションとして、不適切な部類に入る。ふたつめの安全安心なる表現も制度的介入行為になじまない。あらゆる医療的介入にはリスクとベネフィットがある。その勘案として専門家がリスクをベネフィットがうわまわると判断し、それを国民も承認した、という形になっている。不服があるなら民主的に議論する必要があるが、その議論はあくまで、クリティカルになされるべきである。
みっつめ、よっつめの「みんな」という表現もそうした側面がある。ここでは、扇情的な言葉遣いになっていて、議論をむしろ阻むものになっていると見た方が良い。
マスクは感染予防効果があるんですか! と言い募るひとと議論はできないだろう。先に書いたように、未感染者に飛んできたウイルスの感染をマスク着用で低減するとは言えない。しかし、感染者がウイルス感染を拡大させるのを阻むためにマスクは有効だ。「文字面」というのはそういう意味だ。マスクは有効だった部分があると思う。したがってコロナ禍においてマスクは有益だったと評価したい。
ワクチンについても、ワクチンを打てば感染しなくなることもないし、感染拡大を妨げることもないが、感染したことで死亡するのを防ぐ効果があるものだったと理解している。これも、感染(発症)予防という文字面からは誤りとされるが、しかしコロナ禍においては同様に重要で有益だったと評価している。
つまりこういうことだ。「ウイルス飛来→感染→発症→死亡」という症状進行のステップと、「ウイルス飛来→感染→ウイルス複製→飛沫発生→感染拡大」という再生産のサイクルのどの段階に効いているかをあいまいにした議論は無効だと言っている。mRNAワクチンは症状進行のステップの最後の発症から死亡への矢印を抑えるものだったし、マスクはここでの再生産のサイクルの飛沫発生から感染拡大という矢印を抑えるものだった。
https://x.com/finalvent/status/1869911781440901608
そういえばこの「ワクチン的利用」という表現も注意が必要なのだ。finalventにとってワクチンというのはあくまで「獲得免疫」を介した「感染・発症防止」に関するものとしてあり、感染(発症)を抑えることはできないmRNAワクチン(あるいは彼の表現を用いるなら、mRNA医薬)というのは、確かにその文字面としては正しいのはわかる。ただ、それは文字面として正しいだけなのだ。mRNA「ワクチン」を活用した企業・医療が、「ワクチン」という、ジェンナーの種痘以来のイメージに乗っかってプロモーションしたのは事実だ。それに対して文字面で批判したくなる潔癖の気持ちは、わからないといったら嘘になる。わかるのだ。
でも、大事なのは死者を出さないことだった。その方針が、経済を妨げてまで行う必要があったのかどうかは、民主的な議論の俎上に載って然るべきものだが、それは本文で述べることではない。
人工ワクチンだったかどうか? その可能性は否定できないと思う。ただし積極的に肯定もしない。そのうえで、それが未来永劫突き止められることもまた無いだろう、と思う。そうした調査が行われる可能性が低いと思う。
元ツイートはもとより、finalventのツイートもまたやはりリスクコミュニケーションとして不適切な部分が大きい。文字面としてだけ妥当するにすぎず、コロナ禍という事態の問題設定を捉えそこねているのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
Permalink |記事への反応(15) | 12:42
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/06/post-7a96.html
偶然はてなブックマークの上の方にあがっていた極東ブログの記事を読んでうんざりしたので、思うところを書いておきたい。とは言え、finalvent氏の議論それ自体を批判するつもりはない。その裏側にある、「不景気の主因を日銀に帰さないと気が済まない人たち」の困った思考パターンに対して一言もの申したいのである。
氏のちょっと出来の悪い陰謀論については措いておこう。気になるのは、というより、前から気になっていたのは、日銀を非難する人たちは何故こうも自分の意見の正しさに確信を持てるのだろうかということだ。自分たちの意見の方が間違っている可能性を慎重に考慮した議論をついぞしばらく見たことがない。現状の日本で金融政策が有効である、インフレターゲットを採用すれば期待インフレ率は上がる、量的緩和すべきだ、等々、自信満々でまくし立てておられる。たまに反論があってもまるで聞く耳を持たないご様子だ。
しかし、当の経済学界においては、これらの意見はどれもコンセンサスとは言えない。どちらかというと、2000年代半ば以降「ゼロ金利下での金融政策の有効性」についてはあまり目新しい論考が出ていないというのが現実と言って良いのではないか。「不景気から脱却した後も利上げをせず、過剰なインフレを放置することを約束すれば、ゼロ金利下でも中銀は影響力を行使できる」というKrugman他の議論は、「でもその約束を信じる理由がないじゃん」という十年来のツッコミに対して依然として回答できていない。この議論が死に絶えたわけではないが、最近の議論ではこの「約束」を信じてもらえない(=金融政策が機能しない)可能性にあらかじめ言及する論文が多いように思う(Mankiw and Weinzierl (2011)など)。
一方で、財政政策の研究は急速に進んでいる (ゼロ金利下では財政乗数が大きくなるとしたChristianoet al (2011)やWoodford (2010)などが代表的だろうか)。これは、むしろ復活したという表現の方が正しいのかも知れない。いわゆるDSGEマクロモデルでは財政政策の効果は無きに等しくなるので、マクロ経済学者の間では「景気対策は金融政策で行うべき、即ち、中銀が責任を取るべき」、という理解が一般的になった。いわゆる「リフレ派」とかその界隈の人たちが日銀をやたらと非難したがるのも、元々はこの理解を出発点としている(はずである)。だが、ゼロ金利下では、この常識それ自体が成立しないらしいことが少しずつ分かってきたのである。
この「常識の通用しない世界」では、色々なことが起こりうる。「ゼロ金利下では減税が景気を悪化させうる」としたEggertsson (2009)の論文もそうだし、逆に「消費税増税でデフレから脱却できる」と論じた論文もある。今年のアメリカ経済学会で話題になったCorreiaet al (2011)の論文がそれだ。結論は、「ゼロ金利の下では金融政策は有効ではなく、むしろ消費税を緩やかに増税していく(同時に裏で所得税を減税する)ことで利下げと同等の効果が得られる」というものだ。大雑把に言えば、消費税増税でも物価は上がるわけで、これがインフレ(=実質金利低下)と同じ効果をもたらすという理屈になる。ちなみに、所得税減税を伴わず、消費税増税単体で景気回復が可能とする論文をWren-Lewis (2000)が10年も前に書いている。彼のブログに簡単な解説があったので、興味のある人は読んでみると良いだろう。
http://mainlymacro.blogspot.co.uk/2012/04/more-on-tax-increases-versus-spending.html
ちなみに、アメリカ経済学会ではこれ以外にもゼロ金利関連で面白い論文が発表されていたのだが、The Economistの以下の記事が良い要約になっているのでそちらを参照してもらいたい。金融政策に対して学界が悲観的になりつつあることも、これを読めば概ね理解できるだろう。書き手は金融政策の有効性を信じる人らしく、金融政策はもう無効だという考えを少し批判的に書いている記事なので、自分に都合の良い記事しか読みたくない類の人も気持ちよく読めるのではないかと思う。
http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2012/01/monetary-policy
蟲毒の壺の物語
さて、ここまで読んでなお「日銀は議論の余地なくワルモノ」と思えるものだろうか。日銀改革が景気対策の最優先課題と断言できるのだろうか。別にリフレの信仰を捨てて日銀を真の神として崇めなさいと言いたいのではない。世の中には正誤定かならぬ「よく分からない」ことが山ほどあるのであって、この金融政策をめぐる議論もそのひとつだと理解してもらいたいだけのことだ。
知識の足りない人ほど目の前の景色が世界の全てだと思い込む。その景色を共有しない人を見下したがる。知識が足りないことが悪いのではない。自分だって景気対策は門外漢で、趣味で気が向いたときに論文を追っているに過ぎない。大切なのは、自分は世の中をろくに理解できていないということを理解した上でモノを語ることだと思う。
Twitterでの議論を見ていると、知識の足りない人同士が互いの誤解を肯定しあって自信を漲らせていく過程をたまに見かける。なんだか、毒虫が相食んで更に自らの毒を強める蟲毒の壺を覗き込んでいるような気分になったのを今でも覚えている。たまには壺から出て外の空気も吸おうよ。
参考文献
Christiano, Eichenbaum, and Rebelo (2011) “Whenis the Government Spending Multiplier Large?”, Journal of Political Economy.
Correia, Farhi, Nicolini and Teles (2011), “Unconventional fiscal policyat thezero bound”, mimeo.
Eggertsson (2009), “What fiscal policyis effectiveatzero interest rates?”, FRBNY StaffPaper.
Mankiw and Weinzierl (2011), “An exploration of optimal stabilization policy”,BrookingsPapers of Economic Activity.
Wren-Lewis (2000), “The limits to discretionary fiscal stabilization policy”, OxfordRev of Economic Policy.
Woodford, (2010), “Simple analytics of the government spending multiplier”, mimeo.
business.nikkei.com/atcl/NBD/19/depth/00357/
www.nikkei.com/article/DGXMZO50592160U9A001C1000000/
シンガポール首相「もし自分が日本人なら日本を捨てる。未来が見えないからだ」
www.recordchina.co.jp/b85755-s0-c30-d0046.html
李在明「失われた10年が失われた30年になったのように、21世紀の遠くない時点で日本は後進国に転落するだろう」
ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E6%259D%258E%25E5%259C%25A8%25E6%2598%258E_(%25E6%2594%25BF%25E6%25B2%25BB%25E5%25AE%25B6)
三木谷浩史「このまま放っておくと、日本は一流国どころか三流国に成り下がっていく。
www.nikkansports.com/baseball/news/202103200000244.html
ポール・クルーグマン「日本が「未来の国」だなんて、長期的に見るなら大きな間違いだ。人口動態だけ見てもわかる。日本には、出生率の低下に併せて移民への嫌悪まである。」
finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2013/01/post-d30c.html
news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000254001.html
もし私が今10歳の日本人ならば、自分自身にAK・47(自動小銃)を購入するか、もしくは、この国を去ることを選ぶだろう。なぜなら、今10歳の日本人である彼、彼女たちは、これからの人生で大惨事に見舞われるだろうからだ
plus.chunichi.co.jp/blog/odachuu/article/496/8689/
30年もしたら日本は大体潰れるだろう。
ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%B5%AC
森永:日本の賃金はいま、G7の最下位どころか、G7に属さない多くの国々、たとえば韓国よりも低い。10年もたたないうちに先進国からはずれると思いますよ。
news.yahoo.co.jp/articles/0717e0a238e23d59bea67284ad0df18a158d2059