
はてなキーワード:Delphiとは
Delphiなら開発環境に付属するヘルプがとても充実しているはずだ。
ObjectPascalそのものは、これまでのご経験があれば習得に大きな問題はないと思う。
どちらかというとDelphiはVCLというライブラリを使いこなしてこそなのだが、これの説明はヘルプがかなり役に立つ。
実は俺も20年以上前にDelphiの兄弟分であるBorlandC++Builder(BCB)というのを仕事で使っていた。
これもVCLが肝だったのだが、ちょっと慣れたら参考書なんて不要でヘルプでだいたい片が付くようになった。
膨大な内容だが、一度全体を目を通してみるのが良いだろう。
DelphiやBCBのユーザたちはメーリングリストで情報をシェアしあっており、悩み事があればその過去ログがよく検索でヒットして重宝したんだけど今は厳しいね。
メールアドレスが載っているので、自分だったらダメもとで連絡してみる。
こちらに関しては、会社に公式ドキュメントが残っているんじゃないだろうか。
20年前の、紙の資料がそれこそ山のようにあってもおかしくない。
ベテラン先輩に「会社の中にあるUNIFACEの公式ドキュメント全部のありかを教えてください」と言うのだ。
結構ちゃんとしている中小JTCなら、廃棄してないんじゃないかな。
これも出てきた文書すべてにざっと目を通せばとっつきやすさの順番がなんとなくわかるので、その順番どおりにじっくり読んでみるのをお勧めする。
望みはない気はするが、サポート契約してないかも念のため確認してみるといい。
サポート窓口が使えたら随分違うはずだ。
近頃のWeb記事や書籍はよく噛み砕いて初心者にも解りやすく書かれているから、元増田はそういう情報源じゃないと嫌なのかなと感じた。
確かに公式ドキュメントにそうしたフレンドリーさは期待できない。
特に慣れていない分野だったら最初の内は本当に訳わかんなくて読むのが辛いけど、理解できないうちは頑張って三度目を通そう。
眺めているうちに慣れていく。
絶対に助けになるはずだ。
何いってんだ?
ローカルLLM使えばいいじゃん。ローカルLLMだからインターネット接続不要、情報が外部に漏れることが原理的に起こり得ない。
delphiとか過去の技術の話なんだから、新しい情報は不要。インターネットを検索する必要もない。
現時点の学習済みモデルなり、テキストとかマニュアルをあらかじめ全部ローカルに置くだけでAIは機能するぞ。
性能に関しても、nVIdiaのH100程度のサーバ用意すれば、oss-gpt で150tokens/secぐらいでる。 150tokens/secだよ?どれくらいすごいか判る?
これで chatGPT 3.5よりは賢く、コーディングぐらいなら普通に実用レベルのシステムが手に入る。
ポンコツ社員を一人リストラして、代わりにH100サーバを導入すれば電気代込でも半年で元が取れるぞ。
俺はH1004台買ってAIぶん回してる。すでに社員10人ぐらいの投資効果が出ている。これが今のAIの世界だし、これからの世界のあり方だ。
ChatGPT:
はい、Delphi(ObjectPascal)のソースも読めますし、解説・リファクタ・バグ箇所の指摘・他言語への移植案など対応できます。
VCL /FMX、Generics、Interface/RTTI、プロパティ/イベント、レコード・セット型、メモリ管理(string/AnsiString/UnicodeString の違い)、スレッド(TThread / TTask)、WinAPI/COM 呼び出し、uses単位構成、.dfm(フォーム)やリソース周りもOKです。
コードを貼ってくれれば、1ステップずつ説明や改善案を出します(DelphiのバージョンやVCL/FMXも書いてあると精度上がります)。
UNIFACEはどう?
ChatGPT:
はい、UNIFACE(Proc言語)も対応できます。フォーム/サービス/レポート/エンティティなど各コンポーネントのトリガ(initialize, validate, leavefield など)、operation/entry、newinstance/activate/call、retrieve/e, read,write、エラー制御($status, $procerror)や論理名・assignment(.asn)、署名/パラメータ、DSP/REST・SOAP連携、DBドライバ設定までOKです。
コードや .asn を貼っていただければ、処理フローの解説、バグ箇所の指摘、リファクタ、他言語・他フレームワークへの移植案(例:REST API化、Java/Python 置き換え)まで具体的にやります。
可能なら UNIFACE のバージョン(9/10/10.4 など)、DB(Oracle/SQL Server 等)、OS を添えてください。
配属されたシステム開発部には定年後再雇用されたベテランの先輩が一人いるだけで、
UNIFACEとかDelphiとかで作られた化石みたいな業務システムを保守してた
改修や仕様追加はわりと頻繁にあり、先輩はやり手でちょちょいといじって直してしまう
それを俺もできるようになってくれというのだが、研修があるわけでもなく、
UNIFACEもDelphiも10~20年前の参考書しかない
零細のWEB制作をあちこち転々としたあと、反社のフロントみたいな企業に落ち着き
7年くらいコーディングとか、社内ツール作ったり簡単なPHP開発なんかをやった
近年はChatGPTとかも活用して小規模なWEBサービスも作ったりしてた
とか思ってしまった
それで「開発もそれなりにやってきました」って体で実際に転職活動してたら
転職先は中小JTCだが結構ちゃんとしてて、業界は落ち目だが競合が少ないので転落は緩やか
なんとか定年まで勤め上げれば老後も不安なく生きれるだろうなって感じ
そこまでは良かったのだが…
ダメだった、俺開発とか出来なかったわ
配属されたシステム開発部には定年後再雇用されたベテランの先輩が一人いるだけで、
UNIFACEとかDelphiとかで作られた化石みたいな業務システムを保守してた
改修や仕様追加はわりと頻繁にあり、先輩はやり手でちょちょいといじって直してしまう
それを俺もできるようになってくれというのだが、研修があるわけでもなく、
UNIFACEもDelphiも10~20年前の参考書しかない
使用人口が少ないのかネットを漁っても情報が少なすぎてすぐ積む
WEB開発してた時はネット検索&コピペ&AI生成で何とかなってしまっていた
それが今はどうにもならん
毎日毎日過去のコードを読んでるが、前提となる業務知識も複雑で遅々として解読が進まない
先輩は優しく「わからないところは何でも聞いて」とか言ってくれるが、
四十路のおっさんがこんなこと言うのもあれだが、正直もう完全に自信喪失して逃走したい気分になってる
完全に力不足だった
かと言って辞めたところで何ができるわけでもないんだよな
この前まで反社のいい加減なフロント企業でちょっと真面目だったから重宝されてただけで
なんかもう人生が完全に行き詰ってると感じる
Permalink |記事への反応(27) | 12:50
プログラマーって聞くと今の若い人は稼げる業種って思うかもしれない。でも昔は、そのイメージとはまるで真逆だったんだよ。
90年代初頭、日本はバブルの余韻が残ってたけど、IT業界なんてまだオタクの延長みたいに見られていた。NECのPC-9801シリーズがオフィスの定番で、OSはMS-DOS 3.3とか、その後にWindows 3.1が出ておお、マウスで操作できる!なんて騒がれていた時代だ。
もちろんインターネットなんて一般にはまだ普及してなかった。せいぜいパソコン通信。ニフティサーブ、PC-VAN、アスキーネット。回線速度は2400bps。ピーヒョロロっていうモデム音が夜中の住宅街に響いていた。
俺らはそういう環境でC言語やアセンブラを叩いてたんだ。コンパイルに時間がかかるから、トイレに行って戻ってきてもまだ終わってなかったりした。
今みたいにGitHubでコードを共有なんて夢のまた夢。ソースのやり取りはフロッピーディスクで手渡しだ。5インチのぺらぺらのやつな。運が悪いと磁気にやられて一発で飛ぶ。だから俺たちはよくフロッピー神社に参拝とか冗談言ってた。
正社員で手取り20万ちょっと。下請けやフリーランスだともっと安い。今でいうSESの走りみたいな人売りも普通にあった。客先常駐でCOBOLやらされてバグが出れば徹夜。オフィスに寝袋持ち込んで、カップヌードルと缶コーヒーの山を築く。徹夜明けに食う吉野家の牛丼が唯一のご褒美。今みたいにエンジニアは市場価値が高いなんて考え方はなかったからな。ただの駒だよ。
仕事は増えるのに単価は下がる。Windows 95の発売で世の中はインターネット元年なんて浮かれてたけど俺たちプログラマーの現実は泥臭いコード修正の山。Visual Basic 6.0やDelphiが出て「これで開発効率が上がるぞ」なんて言ってたが、結局は納期に追われるだけ。SunのJavaが登場したときも「Write once,run anywhere」なんて夢を見せてくれたけど、実際には動かないアプレットと格闘する日々。
Linuxが台頭してきたのもこの頃だ。
SlackwareやRed HatLinux 5.2をCD-ROM雑誌付録で手に入れて、夜な夜なインストールに挑戦。LILOがうまく動かなくて起動しない、ネットワークカードを認識しない、X Windowが真っ黒。そんな壁に何度もぶつかっては2ちゃんねる(当時はまだ草の根BBSが多かったが)やUNIX USER誌を読み漁って解決する。それが楽しくて仕方なかった。でも金にはならなかった。オープンソースに貢献しても無償の善意で済まされるだけ。Red HatやMySQL ABが上場するまでは、ただのボランティア活動と見なされてた。
今思うと、あの頃は純粋だった。
技術そのものが楽しくて、ASCIIやOh!Xを小脇に抱えて徹夜でコードを書いた。秋葉原でジャンクパーツを漁って自作PCを組み立ててベンチマークの数字で一喜一憂した。
飯代を削ってもSCSIのハードディスクに投資したし、月刊アスキーの付録CD-ROMに入ってたシェアウェアを片っ端から試した。儲けようなんて意識はなかった。ただ、面白いものを作りたかった。
それが今じゃITは完全に拝金主義。コードの美しさより投資家の顔色を見てる。エンジニアもどこが年収高いかばかりで、言語やフレームワークを選ぶ基準が金になっちまった。Pythonが流行るのもAIブームに便乗してのことだし、ブロックチェーンやNFTなんかバブルがはじける前提のネタ探しにしか見えなかった。
もちろん、技術が商業化されて豊かになった面もある。AWSやGCPのおかげで誰でも世界規模のサービスを立ち上げられるようになったし、GitHubやDockerで開発環境も夢みたいに便利になった。だがその一方で楽しいからやるという純粋さはどこへ行ったんだろう。GitHubの草がどれだけ生えてるかが採用基準になる時代。Qiitaに記事を投稿するのも、技術共有じゃなくて転職市場でのポイント稼ぎ。
あの頃には確かに、金ではなく面白さに突き動かされる熱があった。それが今は金の匂いに上書きされてしまったように感じる。
でも稼げなくても、やる価値があった。
今の若いエンジニアたちにその気持ちがどれだけ伝わるかは分からない。
当時「Hello, world.」と表示されるだけのプログラムに、30年前の俺は心を震わせていた。
95,98はまだ16bit appが生きてたからなあ
そもそもその16bitをもう新しく作るなと言って完全に切ったのもME, NT4だし移行するには十分と思うけどね
MacOSはMojaveがOSとしての32bitラストで翌年のCatalinaで64bit以降で完全に互換性切ってるしね。
Windowsは7が32bitラストだけどいまだ32bit appをサポートしてるのが
古いDelphi製の32bit appとか動かしてるとわかるけどちょくちょく挙動修正されてんだよね
Windows 95時代のソフトが今ちゃんと動くかというと疑問— Munechika Nishida (@mnishi41)March 7, 2025
ずっと忘れていた。
いや、脳の奥に生乾きのかさぶたのようなものがじっとりとこびりついて、ふとした時に思い出したりはしていた。
なぜだか、それが昨日になって出てきた
百子はJava言語の技術者だった。いや、技術者か分からないがJavaを学ぶ25歳の若い女性だった。
当時Java言語はJ2EEの登場により大きな注目を集めており、エンタープライズ用途で稼働していた業務系アプリケーションをWEBベースのJavaアプリケーションへのリプレースする事が大きな需要を生んでおり、VBやDelphi又はバックエンドとしてのCOBOL等で活躍していたエンジニアは技術転換を求められていた
現在も大して変わらんないかもしれないが、業務系エンジニアにコンピューターサイエンスを学んだ者は少なかった。
文系出身で(数学としての)関数や代数もちゃんと理解しているのか怪しいような者も数多く居り、当然ながらオブジェクト指向言語に戸惑う者も多かった。自分がそうだった。
当時の技術コミュニティはいくつかはあったが、古くからあったがどれも敷居が高かった。
fj.comp.lang.* (ネットニュース:現在と意味が異なる)は正当な技術者も多かったが初心者が書き込める雰囲気が無かったり過疎っていた。ニフティーサーブやPC-VAN等のパソコン通信(当時既にサービス名が変わっていたかもしれないがみんな昔の名前で読んでいた)をベースにしたものは歴史があったが、老害が偉そうにしているフォーラムも多く、やがて廃れていった。
そうした中で初心者も熟練者も和気あいあいと活発な議論が行われていたのが、JavaHouseというメーリングリストのコミュニティだった。
主催者は現在インターネットセキュリティの大物左翼として時折世間をビビらせまくっている、ひろみちゅ先生こと高木浩光氏。当時既に産総研の研究者になっていたとはいえ、あくまで個人が手弁当で運用していた。無料で誰でも自由に入退会ができるコミュニティであり、他に行き場のなさを感じた初心者のJavaエンジニアたちにとって大きな心の拠り所となった。
でも百子が注目された事があったのだ。
当時は適切な印刷用の整形ソリューションが無く比較的頻繁に挙がっていた話題で、
百子も同様に苦しんでいた
するような方法が、現時点ではり一ゾナブル
かとも思います。
ドラえもんのようなひらがなとカタカナを組み合わせたチャーミングな文体でその焦りを徹底的かつ高度に表現していた。
しかしこの議論中に問題が起こる。JavaHouseに障害が発生しメールが配信されない事象が発生したのだ。
NFSで他のサーバーにマウントしていたが不要と思われたNFSサーバーのデータを一部で参照していたため処理が行えなかった、応急的に対応したが根本対応を後日行うと管理者の高木浩光は告げた。
しかし、議論が途切れた事を不安に思った百子は高木浩光に直接確認を行った。返事は帰ってこなかった。
> ThisMessagewas undeliverable due to the followingreason:
> Theuser(s) accountis temporarilyover quota.
というエラーで戻ってきました。
いろいろとご心配のようでしたので(その内容については書きませんが)、迅
速にお返事を差し上げる必要を感じておりますが、上記の通りでは、連絡の取
り様がありませんので、やむを得ず、お返事を差し上げた事実をここで示させ
ていただきます。
まるで百子に非があるかのように。
恥ずかしさと悔しさで真っ赤となった泣き顔の百子を想像することは難しくない。
次はインスタンス生成時のコストに関する伝統的な議論であったが、
その流れで議論とは関係が無かったが百子はやりとりのマナーについて言及した。
議論をしていた者たちは本質的では無い指摘に形式的な謝罪をしたが、
高木浩光だ
そんな慣習はありませんよ。
きっと百子は憤然たる思いを抱えたに違いなかった
最後に決定的な事が起こる
先日の障害の復旧のためメンテナンスのためサービスを停止すると高木浩光が予告した。
百子はさんざん煮え湯を飲まされてきた高木に対して
以下ちゃちゃです。
全サービスが利用不可というのは、大変なことでしょうに。
以上、ちゃちゃでした。
挙げ句Javaコミュニティを自分で立ち上げてみてはどうかと言う者まで現れた。
か弱く繊細で思いやりのある儚き百子が、このような嘲りに耐えるのは致命的な苦痛だったに違いない。
百子は精一杯の力でJava界の将来についてその想いを書き綴った
私が恐れているのは、恐怖の日が襲い、対応の行動が遅すぎる前に
協議を行って欲しい、ということです。
別れは突然訪れた
「百子の夫です」
技術コミュニティに相応しない短い件名の投稿は衝撃的なものであった
私の妻百子は11日に進行性癌に伴う急性心不全で永眠いたしました
25才でした
医師の診断をもらったとき私たちに残された時間は1ヶ月というものでした
毎日が恐怖でした。、
なんという事だ!こんな悲劇があってよかろうはずがない!
しかもあのプりントアウトの話をしていたときには余命を悟っていたのか。
自分は打ちのめされた
そしてさらに衝撃的な事が続く
百子は先週からふさぎがちになっていました
聞くとブー様とうまくいっていないのではないかということでした
百子はずいぶん前からたびたび高木という男の名を出してひとりでジャバなる
パソコンを動かし一人で全部やってのけているのだと絶賛しておりました
おのれ高木さんめ!いや、ぶー様め!
百子の心に闇で満たしたという事か。
悔しくてウイスキーをストレートで何倍も痛飲し、この辛い出来事を忘れるように努めた。
自分はアプリケーションのプログラミングをする事もすっかりなくなっていた。
数年に1度くらいフッと湧き上がってくる事があったが、すぐに忘れようとした。
しかし、昨日はなぜ、菊池百子を思い出したのかずっと考えていた。
ずっと、ずっと
愛していたんだと思う、百子を。
直接会ったことはないし、見たこともない、投稿の文面の文字でしか見ていない、直接のメッセージのやりとりもしていない、だけど確かに自分は百子を愛していた。
雅人よりもずっと。
ぶー様よりもきっと。
Rest inpeace,I love you.
https://web.archive.org/web/20091027013532/http://java-house.jp/ml/archive/j-h-b/052276.html#body
"I sprang upon theswiftship in the form of adolphin,pray to measApolloDelphinius; also the altar itself shall be calledDelphinius and overlooked forever." - Homer
っていうあれね。
訳すと
私はイルカの姿で快速船にとびかかった。デルフォイのアポロンとしての私に祈れ。祭壇もデルフィニウスとよばれ、永遠に見渡されるであろう。
って感じかな。
ホメーロスのどんなところに出ているか、「イーリアス」にも「オデュッセイア」にもなかった気がしたので、英語版のウィキペディアの「Delphi」で調べたら、「ホメーロス風讃歌」の「アポローン讃歌」からの引用みたい
邦訳はあるっぽい。
で、wiktionaryで語源を調べるとデルフォイΔελφοίの語源はデルフスδελφύς (delphús)子宮の複数形かららしくて、ドルフィンと語源は同じだね。
Delphi使うような人はおはようからおやすみまで死ぬまでDelphiなので放っておきなさい(彼らはたぶん幸せです)