
はてなキーワード:701年とは
近世以前
日本において暦日を用いた新年の概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良の正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年の挨拶を伴った年賀状のルーツといえる[14]。
平安時代に入ると貴族間で年始の挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始の挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。
明治維新後になると逓信省の前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度が確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。
郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった[20]。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函が可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。
関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。
年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。
終戦後の1948年(昭和23年)12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。
お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。
1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(平成元年)からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。
イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。
一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月の風物詩となった。
2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。
2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった[28]。
2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。
また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に2024年10月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状はフタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である。企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
| 法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
| 新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
| 榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
| 平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
| 浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
| 三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
| 高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
| 浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
| 東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
| 長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
| 西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
| 熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
| 法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
| 厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
| 永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
| 東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
| 正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
| 吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
| 慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
| 妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
| 園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
| 園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
| 妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
| 大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
| 三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
| 二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
| 西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
| 西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
| 延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
| 三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
| 曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
| 桂離宮 | 1663年 | 京都 |
| 慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
| 江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
| 閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
| 東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
| 大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
| 大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
| 岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
| 栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
| 角屋 | 1787年 | 京都 |
| さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
| 大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
| 渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
| 羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
| 旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
| 旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
| 岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
| 柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
| 旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
| 宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
| 旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
| 旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
| 旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
| 吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
| 古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
| 高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
| 住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
| 聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
| 旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
| 軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
| ※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
| 旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
| 近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
| 旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
| 旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
| 神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
| 斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
| コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
| 南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
| 八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
| 香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
| スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
| ※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
| 日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
| 国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
| 大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
| 旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
| 白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
| 塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
| ※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
| KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
| 中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
| ※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
| ※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
| 阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
| 北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
| 幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
| 上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
| ※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
| 小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
| 弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
| SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
| ※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
| 海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
| 豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
| ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
| せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
| 横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
| 金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
どうせ土器が二種類ありました卑弥呼がいましたくらいしか習わへんし
「土器が普及してから大和王権が成立するまで」の先史時代的な定義で。
「大和王権が成立してから大宝律令が制定されるまで」と定義して、
で、そのあとは王朝国家体制期という意味での「王朝時代」なんかな、よくわからんけど。
仮に朱雀天皇の即位および藤原忠平の摂政就任を区切りとすると930年か。
ここは短すぎるんよなあ。
明応の政変から安土桃山時代までを「戦国時代」として独立させるほうがええかもしれんね。
またなんか大きな変化があるまでひと括りでええんちゃうの。
昭和・平成・令和から取りつつ憲法にも引っ掛けて「平和時代」とかどうやろ。
| 土器時代 | 〜3世紀 | |
| 大和時代 | 3世紀〜701年 | |
| 律令時代 | 701年〜930年 | |
| 王朝時代 | 930年〜1185年 | |
| 鎌倉時代 | 1185年〜1336年 | |
| 室町時代 | 1336年〜1493年 | |
| 戦国時代 | 1493年〜1603年 | |
| 江戸時代 | 1603年〜1868年 | |
| 帝国時代 | 1868年〜1945年 | |
| 平和時代 | 1945年〜 |
どやろ?
Leicesterは
(Roman) fort of the Ligore people
の意である。
「-cester」はラテン語の「castra」に由来し、これがローマ軍の「砦(fort)」の意味である。
「Manchester」とか「Lancaster」とかいろいろありますね。
「Lei-」は「ligore」であり、これはソアー川の昔の名前なのだが、
According to a suggestion due toWilliam Somner (1701) the Soarrivermay formerly have been called the Leir, from Brittonic Ligera or Ligora, cognatewith the French Loire.
ウィリアム・ソムナー(1701年)の提案によると、ソアー川はかつてLeirと呼ばれていたかもしれません。これはブリトニックのLigeraまたはLigoraからきており、フランスのLoireと同義です。
「ロワール」という名前は、ラテン語のLigerから来ており、ガリア語(ケルト語)での川の名前「liga」の転写である。ガリア語で「liga」は「沈殿物」を意味する。この単語は、ぶどう酒などの澱を意味するフランス語のlieや、英語のleesとなった。「liga」は、インド・ヨーロッパ祖語の「横たわる」を意味する「*legh-」から来ており、この祖語は英語のlay、ledge、lawなど多くの単語の元となった。
ということらしく、つまり「legh」→「liga」→「ligore」→「leir」→「lei-」なのか。
一方で、
レイア(Leir)は、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』に登場する、伝説的なブリトン人の王。その話はウィリアム・シェイクスピアの『リア王』の材源になった。レイア王の伝説はウェールズ神話の海神スィール(Llŷr)の形から始まり、後に歴史的背景が与えられたものと考えられている。
(中略)
ジェフリーの『ブリタニア列王史』では、レイアは父ブラドッドの後を継いでブリタニア王となり、ブリタニア王では最長となる60年間統治した。レイアはソアー川(River Soar)沿いにカール・レイア(現レスター)という町を建設した。
古代ローマ時代にすでに砦があったんならレイア王の「カール・レイア」は後付けくさいが。
ともあれ、レスター優勝おめでとう!