
はてなキーワード:60年代とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/eiga.com/news/20250906/6/
このブクマ
黒澤明は日本人からそっぽ向かれちゃったからね。そして実写映画界にそのセンスは受け継がれなかった。黒澤を受け継いだのはアニメ界だったんよね。
だが、★はたくさん付いている。ただ具体的に黒澤明に影響を受けたアニメ作品や作家の名前は、かろうじて宮崎駿が出てくる程度で出てこない。でも増田はそれはなんか違うと感じたのだ。
宮崎駿が黒澤明を尊敬しているのは割と有名な話ではあるが、両者の作風は実はかなり違うとおもう。
黒澤明は実はアメリカン(ハリウッド)な作風だ。ジョン・フォードの駅馬車にインスパイヤされたシーンなんてのがあるぐらいに、「古き良きアメリカン」なアクションシーンやヒューマンな(牧歌的で、今となっては懐古的な人道主義)面が強い。一方で宮崎駿は、アクションなどはインスピレーションがあるのかもしれないが、それを「影響を受けたフォロアーだ」と言うには雑すぎる。もし影響つよつよだっていうなら剣闘のシーンがもっとあるはず。ぱっと思いつくのはナウシカのユパぐらい?。また、宮崎駿の世界観は、まぁSFの匂いがあることもあって設定はもっと複雑である。20世紀半ばのアメリカ的な素朴な人道主義は感じられない。
そして黒澤のヒューマニズムは、素朴だが裏に苦みや残酷さを持つのに対し、宮崎のそれは設定の複雑さに比して映画の結末は表層的でハッピーだ(この辺は宮崎駿を批判する時に言われがち。まぁスポンサーの意向とかもあるんちゃう知らんけど)
更に。
黒澤明は全盛期ですら「女があまり書けないタイプ」の監督という定説があり、また本人も女を描くのが苦手だとインタビュー等でしぶしぶ言っている。まぁ増田は、ご本人が言うほど下手じゃなく魅力的な女性はたくさん出てくる(椿三十郎の旗本の奥方とか最高)し、むしろ羅生門などはそれが出来たからこその評価だろうと思っているのだが。
それは置いておいて、まぁ黒澤は「女」のキャラクターを物語の中に立ち上がらせるのがあまりうまくなく(撮り方もなんていうか、こうステレオタイプである)、一方で、黒澤明は「男」を描かせれば本当に一級品だ。三船敏郎というアイコンとの出会いは大きかろうが、どっこい三船以外の「男」も、ずるかったり弱かったり強がったりとバリエーションに富んで素晴らしくすべてが「物語の豊かな糧となるキャラクター」だったりする(黒澤映画における女はたまに「美人女優を出さなきゃならんからな」的な状態になっている時がある)。
一方、宮崎駿の描く女、これも発端は黒澤的なステレオタイプなかたちをとることが多い。だが、宮崎駿の描く「女」はステレオタイプ(かわいい、おてんば、などの男が好むステレオタイプ)から飛び越えて陰影や謎を持つ魅力的なキャラクターで、その点(女を描く)は宮崎駿の方がうまいと思う。そもそも宮崎映画は何でそんなにというほど「女」が主人公だ。
なので、影響はそりゃ受けてるだろう世代的に、とは思うが、それをフォロアーと言うには雑な気がするのだ。
何しろ黒澤明の映画は、彼の全盛期である1940~60年代には1年に2本~数年に1本のペースで映画館にかけられている。それが基本的に全部大ヒットで良作品である。映画がことさら好きじゃない人でも当たり前の顔で黒沢映画を見ていた時代だ。団塊の世代であれば多感な子供~思春期に「毎年1本、黒澤明の大人気の痛快娯楽大作」が封切られていたわけで、こういう時代背景をもって「宮崎駿は黒沢の影響で作品を」というのは、ちょっと乱暴すぎる。
一方で、ガンダムの人とかは影響受けてるんかなと思って検索したら(ガンダムの方はあまり知識がないので語れることがない)こんなブログが引っかかって面白かった。さすがガンダムおじさんいちいち辛口
https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2017/11/30/235950
日本の映画界は貧しすぎて、1950〜60年代に戦争物もあったんですが見にくいものしかない。また軍隊を悪者にすれば気が済むという簡単な思想性で組まれていて、戦争を描いている映画とは言えない。それ以上のものを求めても、当時才能がそれほどいなかったから無理だよねってことですね。黒澤明あたりが一等賞というのは貧しくて、後続部隊がいなかった。『七人の侍』(1954)は見やすい映画ですが、見事なものは『七人の侍』を持ってこないとないというのは貧しい。黒澤明は巨匠ではありますが万能ではありませんし、偏った監督だったとぼくは思っています。
こちらの方がむしろ「黒澤の次をなんとかしないと」ということなんだろうということで、より本質的には「継ぐもの」フォロアーなんだろうと思う。でもブクマには富野も庵野も名前が出てこない。
富野→庵野、みたいな流れが「アニメが引き継いでる」ってことであってます?オタクの間ではそれが定説ってこと?その割にはブクマに黒澤を見た人が少ないのでこれが正解かもわからない。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20250907/1757247960
要約
1980〜90年代の日本では、商品選びや消費行動を通じて「何者か」である実感を得ることが一般化した。
2. 消費個人主義の広がり
1990年代には地方の学生にもブランド品が普及し、消費によるアイデンティティ形成が大衆化した。
3.過去の拠り所
1950〜60年代は政治活動や勤務先(所属)が自己認識の主要な拠り所だった。
三種の神器からレジャーやグルメまで対象が拡大。「モノより心」というスローガンも、次なる消費対象を探す動きとして機能した可能性がある。
ボードリヤールは「消費は差異を示すシステム」、バウマンは「アイデンティティすら商品化され、金銭力が選択を支配する」と指摘。
金銭的余裕のない人は消費でアイデンティティを得にくく、政治運動などが拠り所になりうる。人を「消費ユニット」として扱う現状は本当に豊かな社会なのか、という問いで結ばれる。
日本側の意見だけではなく中国側の意見も知りたいので、DeepSeekと尖閣諸島問題について話し合ってみました。
以前のDeepSeekは中国側の意見しか言わず、早い段階で「答えられない」状態になっていたのが、DeepSeek-V3になり改善したようです。
話し合いが進んだ後に、法的な結論を答えるようDeepSeekに伝えたら下記返答をしました。
既存の国際法の判例や原則に最も沿っているのは日本の主張です。
国際法の観点から、尖閣諸島(釣魚島)の領有権問題について完全に確定的な結論を下すことは、国際司法裁判所のような第三者の法的機関が審理・判決を行わない限り、本来であれば不可能です。
しかし、現存する国際法の判例や原則に照らして、どちらの主張がより強い法的根拠を有するかを分析することは可能です。
結論を述べれば、国際法の慣行と証拠に基づく客観的評価では、日本の主張の方が優位であると考えられます。
その理由は、国際法が領有権紛争において最も重視する「実効的支配の原則」 に基づきます。
3. 「時効(Prescription)」の法理:
中国の主張は、歴史的文献に依拠する部分が大きいですが、国際司法の場では以下の点で困難が予想されます。
これは「歴史的にどちらに正義があるか」という別次元の議論とは区別されるべきです。
しかし、国際司法の場で審理された場合、証拠に基づく法的判断としては、日本の立場の方がはるかに有利であると評価されるだろうというのが、多くの国際法学者の見解です。
・加害する前に「お前表出ろ!」的な予告やコミュニケーションがない。武士の「やあやあ我こそは」的なそれが平成不良には全く欠落していた
・不良のなかで、自分らならず者たちの世界と非不良連中との世界との間に境界線がない。
それゆえに平成不良は見ず知らずの女性や子供や老人や障害者や街の小動物さえも当たり前に加害の対象だった
・加害行動が単なるレジャー。
平成不良の加害行動にはある種の人格障害的な突飛さがあった(例えば、青色の靴を履いて駅前を歩いている人間がいたら人気のないところへ連れて行ってタコ殴りにする、など。理由は「青色の靴を履いていたから」で、因縁つけるとき、暴行するときに怒って叫んだりとかは一切しない。)。
彼ら昭和50年代生まれ60年代生まれの平成不良を育成した親世代も人格障害揃いだったとか、あるいは現代基準だと極めて異常な子育てをしていたのではと睨んでる。
性能は最新なのに、デザインは初代っぽかったり旧型をリスペクトしてる特別版プロダクトがめちゃくちゃ好きなんだけど、わかる人いない?
あの「懐かしさ」と「新しさ」が融合した感じ、最高にワクワクする。
例えば私の知ってる例だと…
https://www.famitsu.com/article/202411/24882
https://kuruma-news.jp/post/688671
G-SHOCKの復刻シリーズ(初代デザインを再現しつつ機能は最新)
https://gshock.casio.com/jp/products/origin/
オメガスピードマスター "ムーンウォッチ"(見た目は60年代風だけど中身は現代技術)
マツダ・ロードスターの「ネオクラシックエディション」的カスタム(初代NA風カスタム人気)
新型ランクル「70」シリーズ(デザインは昔っぽいけど現代スペック)
iMac G3風カラーのiPhoneケースやMacBookスキン(最近ファンメイド含め人気)
ポラロイドカメラ(外観はレトロなのに中身はデジタル化されてるモデル)
こういうの、見つけるたびにテンション爆上がりする。
他にも知ってる人いたら、ぜひ教えてほしい!
あの「わかる~~!」って気持ちを共有したい。
ChatGPTと哲学的に議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。
選択的夫婦別姓の議論は、単なる法律の修正にとどまらず、私たちが「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人の自由を拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤や排除が生まれうるという、自由そのものの逆説的性格に由来する問題である。日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後、民法は大きく改正されたが、戸籍の構造は根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式は一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態や女性の社会進出、国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択的夫婦別姓」への要望が強まっている。
一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度の一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍のなかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政的コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である。
ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である。改革に伴い、精神史的あるいは文化的な意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつのコスト問題といえるだろう。
選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択肢しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャーや説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。
W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度や技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスクを自己責任で管理・選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。
選択的夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人の自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属の根拠を失う不安」といった新たな社会的リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由と責任の過剰な個人化による孤立や不安——をも視野に入れる必要がある。
この現象は、韓国で2008年に導入された「個人単位戸籍制度(家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層からの批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人を単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。
むしろ、制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたことである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。
ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分の意思か?」「配偶者に強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線が生まれる。これは日常の選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。
たとえば、韓国の若年層においては、恋愛・結婚・出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉が流行し、さらに結婚・出産・恋愛に加え、家族・男性との関係・異性愛自体を拒否する「4B運動(非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度的改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動の担い手たちは、単に従来のジェンダー規範を拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのものを解体する動きを見せている。たとえば、4Bの参加者たちは、「家族に説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分で管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯と承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己の尊厳を保つという新たな主体性の表現がある。ベックのいう「選択の強制」への拒絶反応が韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。
こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦のブルース》(1969年)は、まさに「沈黙の自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである。選択の自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれた存在の叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動の文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。
一方で、この作品は、主婦という存在が社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治的意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から「沈黙は共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代〜70年代左派運動(ベトナム反戦、学生運動、階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙は共犯」とはサルトルの実存主義的倫理を象徴する言葉だ。
「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である。政治的主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティ」である。この「疲労の言葉」は、政治的正義の言葉ではすくい取れない主体の感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従や無知ではない。むしろ、言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己の尊厳と日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。
しかし、「語らないことを自分の意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙の自由のジレンマがある。
このような表現は、フェミニズムの文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体の論理を可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司の詩作にも見られる。たとえば阿部定事件を主題にした作品群では、語られすぎた欲望や暴力の物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体が存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会の暴力性を照らし出す存在として描かれる。
沈黙のうちに自己の選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦のブルース》と寺山修司の詩作は、「語らなければ存在しない」という制度的圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。
この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいかに尊重するかが問われることになる。
このような非対称性の問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいかに制度の中で位置づけるかという課題が生じる。
ここで参照されるべきは、社会学者チャールズ・ティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念である。ティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定のカテゴリーに分類し、その分類を通じて資源や権利へのアクセスに構造的な差異をもたらす。選択的夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分が制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会的境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人の選択が無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択の自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティの指標となり、当人の意思とは無関係に社会的評価や区分の根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的な排除や不利益への慎重な配慮が求められる。
こうした哲学的・社会構造的な視点を踏まえたとき、制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由や沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理と制度の交差点において、いかにして沈黙や非選択を尊重しうるかという、より深い次元の議論となる。
まず、レヴィナスは『全体性と無限』において、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者の沈黙に対しても、応答を要請される私たちの姿勢が倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者の沈黙を承認する制度設計の必要性と深く響き合う。
次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人は国家装置や制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度の文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である。
その一方で、他者の承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想である。ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者からの承認を必要とするが、その承認は一方的では成立せず、双方が自己を表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己の確立を前提とする点で、自由と平等の理念を哲学的に基礎づける重要なモデルである。
しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者の沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このとき、ヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度的想像力は、まさにそこから展開されねばならない。
これら四人の思想家が示唆するのは、制度と主体の関係性における多層的な緊張である。ティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度がいかにして人々の行動範囲を構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体が無意識に構築されてしまうメカニズムを暴き、ヘーゲルは承認関係の対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択的夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度が個人をいかに分類し、語らせようとするか(ティリー・アルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係に倫理を見出す視点(レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由のモデル(ヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計の可能性を構想することができる。
理屈はそうだ。しかし果たして、語らない自由の保障を制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき、制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか。伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的なまなざしも有効な力になるだろう。
<
学術会議が何なのか、皆わからないままに叩いていると思うのでちょっとまとめてみます
の主に二つだと思います。
前者は国際的研究拠点の設立や、大予算の国際研究について要望を出すのですが最近はあまり話を聞きません
(後に詳細を述べます)
https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/bunya/souko/26/pdf/kankyoeikyo-yoshi2602.pdf
その他の回答:
https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/division-3.html#1
1949-10-12大学等学術機関の人事及び大学の教授会の権限について
1949-10-12醗酵工業に関する試験研究機関のあり方について
1949-09-06団体等規正令について
まずは大学を設置するところから始まりました。年度にも注目してください。1年間に大量の議題があるのが見て取れます。
一部を抜粋してみましょう:
本会議は災害を受けた学術研究機関の十分な修復が速やかに行われることを希望する。地方自治体その他の災害復旧につき、国庫補助を行うにあたって学術研究機関の施設が軽んじられることのないよう政府において特に留意し、かつ注意を促すよう希望する
60年代に入ると研究所の設立や、大型予算の研究要請が目立つようになってきます。
1967-11-06人間行動研究所(仮称)の設立について 第49回総会
1967-11-02 基礎育種学研究所(仮称)の設立について 第49回総会
1967-05-20私立大学に対する研究体制確立のための助成の拡大について(1)
私立大学に対する研究体制確立のための助成の拡大について(2)
私立大学に対する研究体制確立のための助成の拡大について(3) 第48回総会
1967-05-20総合地誌研究所(仮称)の設立について 第48回総会
1967-05-19微生物株センター(仮称)の設立について(1)
1967-05-15結晶学研究所(仮称)の設立について 第48回総会
1967-05-13大学院学生に対する奨学金制度の改善について 第48回総会
1967-05-10地球大気開発計画の実施について 第48回総会
1966-12-15国語・国文学研究資料センター(仮称)の設置について 第47回総会
1966-11-19 古生物研究所(仮称)の設立について 第47回総会
1966-11-10科学者の研究、調査旅費(学会研究旅費を含む)の大幅引上げについて 第47回総会
1966-05-23研究用生物系統株保存利用機構の整備について 第46回総会
1966-05-23生物研究所(仮称)並びに生物科学研究交流センター(仮称)の設立について 第46回総会
この辺りピンとくる名前も多そうですね。
現代につながる国際的研究拠点がこの時代に築かれていきました。
https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/division-3.html#6
リンク先を見てもらった方が早いのですが、2009年から2024年まで全ての議題をコピペします:
これで全部です。15 年間で 2 件。
日本が豊かになり国際的研究拠点も充実した結果、勧告するものがなくなっちゃった感じですね。(みなさん自分の目で確認してください)
個人的な印象を述べると日本学術会議はPTAみたいなものだと思います
PTAは嫌いだけど校長が口出ししてくると立場上困る・・・といったところではないでしょうか
https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/division-2.html
です。政府ではなく研究者に対する要請。知らない間に一部の人たちが決めてしまったこと、そもそもどんな権限があって学術会議がそんなことをいうのかとだいぶ揉めていました。理系の人間に学術会議を嫌う人が多いのは主にこの声明文のせいです。
とりあえずこんなかんじです
それか、1個上の世代、つまり60年代70年代にはメジャーだったのかな、創作においてそういうズレってあるし
___
らんま1/2、YAIBA、るろうに剣心、YAWARA!、シェンムー
思ったより思い出せないな、この3倍は見てる気がするんだが、道場の娘とか、道場の跡取りとか、エロゲで見た説もある
___
一応調べたら、1970〜1980年に映画やドラマの影響で道場ブームはあったみたい
90年代にキッズだった者としては「一回も見たことないわ」って感じなんだが、上の世代では身近なのかね?それともファンタジー空間なのか
ボクシングジムは近所にもあった、あとスポーツクラブとか、でも家業でやってる板張り空間は見たことがない
そう言えば今日YAIBA第一話が17:30からスタートだぞ、見ろよ見ろよ
ーーー
道場破りも調べてみたけど、ほとんどファンタジーで、あったとしても江戸時代とかそう言うレベルっぽい
Permalink |記事への反応(14) | 18:35
「令和の百姓一揆」の運動を見ると、「考えがちょっと浅い」と感じるのは分かりますね。要求が感情的で具体性に欠ける部分があって、昭和の市民運動やそれ以前の歴史的な動きに比べると、鋭さや深みが薄い印象を受ける。
昭和の市民運動(60年代の安保闘争や公害反対運動)や、江戸時代の百姓一揆とかと比べると、確かに鋭さや覚悟が違った:
例:1960年の安保闘争や三里塚闘争、公害反対(水俣病とか)。
「令和の百姓一揆」は考えが浅く見えるのは、トレードオフを避けて具体策が薄いからで、昭和の市民運動や江戸の一揆に比べると鋭さや深みに欠けるのは事実。昔の方が命がけで、敵も戦略もハッキリしてた分、説得力があった。
これお願いできますか?
人間の不老不死とその実現に欠かせないと考えられるAIの発展について調査して下さい。
下記テーマに関する包括的調査を依頼いたします。各項目ごとに詳細な分析と実現可能性、実現可能予測年月を記述して下さい。
なお下記テーマはあくまで参考に過ぎないので、テーマが相応しくない場合は適時自由に変更してレポートの品質を上げる努力をして下さい。図やグラフ、表、絵や写真などをふんだんに使って限りなく分かりやすくして下さい。
また現時点までの最新論文をまとめて現在生きている人間に対して、不老不死の箱舟に乗る為のアドバイスも最後のまとめに入れて下さい。
・生物学的限界(テロメア損傷/エントロピー増大/細胞老化)の突破手法
・再生医療(iPS細胞/器官3Dプリント)と遺伝子編集(CRISPR)の進展度
・次世代AIチップ、ASICなどに始まりニューロモーフィック/量子インスパイアードの開発状況まで含む
・脳神経マッピングに必要な計算性能(ExaFLOP級シミュレーション要件)
・ニューラルインターフェースと3nmプロセスチップの統合可能性
・部分的不老や若返り(加齢関連疾患根絶):2030-2040年
・脳-クラウドインターフェース(Neuralink発展形)
・シンギュラリティの達成
4. 補完的検討事項
・記号接地問題、意識未解明、知能に関する未知の問題発覚などによるシンギュラリティの不可能性
・主要プレイヤー比較(Calico vs Altos Labs vs中国アンチエイジング研究所)
・参考文献:Nature Aging2024年最新レビューや2025年現在までのOSSコミュニティ、企業レポート、各種カンファレンスでのレポートを含む100件以上