
はてなキーワード:1899年とは
近世以前
日本において暦日を用いた新年の概念が生まれたのは飛鳥時代であり、聖徳太子が十七条憲法を制定した604年まで遡る[13]。その後、646年には朝賀が執り行われ、新年の回礼という風習が始まった[13]。これに伴い、畿内には飛脚使が設置され、701年には通信物を運ぶ脚力(かくりき)が定められた[13]。奈良の正倉院に収められている「人勝残欠雑張」には「正月七日のこのよき日、慶びを新にし、泰平が万年続き、寿命は千春を保つことができますように」とする十六文字が記されており、新年の挨拶を伴った年賀状のルーツといえる[14]。
平安時代に入ると貴族間で年始の挨拶を文で取り交わすようになったと見られ、当時の書簡、文例を集積した最古の例と言われている藤原明衡が残した『明衡往来』にも年始の挨拶文例を確認することができる[15]。室町時代に『庭訓往来』が登場し、寺子屋などで読み書きを教えられるようになると識字率の向上が見られるようになった[16]。これに伴って江戸時代には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった[16][17]。1740年の『書札重宝記』には年始書状のための語彙として「改年、新春、新暦、初春、陽春、祝賀、御慶」などの用語が紹介されている[18]。江戸中期以降は大小暦が大いに流行し、年頭には機知に富んだ摺物の交換が積極的に行われた[19]。
明治維新後になると逓信省の前身として駅逓司が設置され、1870年10月には新年賀詞を示す太政官令が発布された[20]。1871年には郵便制度が確立し、1873年に二つ折りの郵便はがきが発行され、1875年には単面の官製はがきなどが見られるようになった[20]。これにより年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。
郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に1月1日からの3日間、年始の集配回数を減らす対応が取られた[20]。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった[20]。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった[21]。この頃の年賀はがきの概数は1億1000万通前後であったが、郵便ポスト投函が可能となった1907年には4億通を突破し、「年賀状ブーム」とも呼べる時代が到来した[21][22]。
関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。
年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止[23](廃止決定は同年11月6日[24])。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した[25]。
終戦後の1948年(昭和23年)12月15日、特別取扱と年賀切手の発行が再開された[26]。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。
お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。
1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(平成元年)からはくじ付きの年賀切手も発売されるようになった。
イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。
一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は2000年代の正月の風物詩となった。
2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。
2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした[27]。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった[28]。
2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している[4]。
また高齢者の増加の他、郵便料金の値上げ、特に2024年10月1日以後は、消費税増税に伴う転嫁分を除けば実質1994年以来30年ぶりの大幅値上げで1枚85円[29]となったこともあり、年賀状終いをする世帯が急激に増え、アスカネットの調べでは、2024年に年賀状を出さなかった人は58.2%に及び、そのうち20代が72.5%、30代でも65.8%が年賀状を出さなかったとする統計がでている。また「年賀状はフタバ」の調べでは、全体の6割が3年以内に年賀状終いをしており、そのさらに半数の3割強が2023年度で終わりにしたという人である。企業においても、葉書をやめて、SNSなどを利用した「ペーパーレス」に移行したところも多いとされる[30
明治維新期に突如として出現した「瞬時伝達器」と呼ばれるマイクロブログ端末は、
出生時に人体に埋め込まれる生体統合型デバイスとして全国民に普及した。
この技術革新が明治5年(1872年)の学制発布以前に実現したことにより、
福澤諭吉が『西洋事情』で予言した「言論の電気的伝播」が現実化し、
明治政府の中央集権化政策と民間の自由民権運動が複雑に絡み合いながら、
森鴎外の『舞姫』(1890年)に描かれたベルリン留学中の懊悩がリアルタイムで共有され、
夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)の連載が「写生文運動」として全国規模の文学革命を引き起こすなど、
薩長同盟が瞬時伝達器を活用した情報操作が決定的役割を果たした。
西郷隆盛の「錦旗偽造疑惑」が全国民のタイムラインで炎上する中、
岩倉具視側近の情報工作班が作成した「討幕の大義」映像コンテンツが300万回再生され、
戊辰戦争では会津藩の白虎隊が自陣の不利をリアルタイムで発信、
森有礼文相が推進した「教育勅語デジタル配信計画」(1890年)では、
森鴎外が陸軍軍医時代に投稿した「戦場医学実況」(日清戦争)は、
作中人物の心理描写をリアルタイム修正する実験的創作を試みた。
夏目漱石は『こゝろ』(1914年)の連載時に「先生の遺書」展開を読者投票で決定、
芥川龍之介が東京帝国大学在学中に投稿した掌編小説が瞬時伝達器経由で漱石の目に留まり、
谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)の挿絵を読者からの画像投稿で構成する「コラボレーティブ・アート」を実践、
永井荷風の『腕くらべ』(1916年)では吉原の遊女たちが匿名アカウントで作中の描写に反論するメタフィクション的試みがなされた。
明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷隆軍が瞬時伝達器を活用したゲリラ的情報戦を展開。
政府側はAI分析による「感情予測アルゴリズム」で反乱軍の士気低下を計画的に誘導、
立憲自由党が政策動画配信と仮想演説会を組み合わせた「デジタル遊説」を実施、
明治30年代に隆盛を極めた「活動写真」は、瞬時伝達器との連動でインタラクティブ映画として進化。
日露戦争記録映像『旅順要塞総攻撃』(1904年)では視聴者が攻撃ルートを投票決定できる「参加型戦争体験」が提供された。
落語家の三遊亭円朝は端末向け音声コンテンツ「怪談電送話」を配信、
陸奥宗光外相が瞬時伝達器の暗号化機能を駆使した「デジタル砲艦外交」を展開。
一方で、端末の生体統合特性を逆用した「思考盗聴」の危険性が問題化、
国家形成のプロセス自体を根本から変質させる触媒作用を発揮したと考えられる。
従来の歴史区分を超越した「加速された近代化」の様相を呈していただろう。
大正期のメディア・アート運動や昭和初期の全体主義的傾向に新たな様相を付与し、
現代のSNS社会が抱える課題を半世紀早く先取りするパラドックスを生み出していた可能性が高い。
端末の技術的起源に関する考察(海外技術流出説VS超自然的出現説)と、
藤原明衡の『雲州消息(明衡往来)』に年賀の手紙の例文が記載される
玄関に「名刺受け」を設置し、不在時に年賀の挨拶を書いた名刺を入れる文化が生まれる
1873年:官製はがきが発行され、年賀状の利用が徐々に広まる
1887年頃:年賀状を出すことが国民の間で年中行事として定着
1906年:「年賀特別郵便規制」が公布され、年賀状文化が法的に確立
1949年:お年玉付き年賀はがき(くじ付き年賀はがき)が初めて発行される
1982年:寄付金付き年賀はがきの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになる
2003年:年賀はがきの発行枚数が過去最高の44億5936万枚を記録
これでシコれなくても俺は知らん
埼玉の出生率が過去最低 住宅開発など影響か?出生率の高さ県内3位さいたま市西区、2位横瀬、1位は
https://news.yahoo.co.jp/articles/4e7921b044f2b4aa19b919f523c92ca3b9bd9860
厚生労働省は2日、2022年の人口動態統計(概数)を発表した。女性1人が生涯に産む子どもの推定人数「合計特殊出生率」は1・26(前年は1・30)で、05年と並び過去最低だった。生まれた赤ちゃんの数(出生数)は77万747人(前年比4万875人減)で、1899年の統計開始以来、初の80万人割れとなった。埼玉は1・17(前年は1・22)だった。
このように無為無策。
言い換えると虐殺器官がフェミということになります。有害です。
都合が悪くなると逃げまくる。
水着撮影会中止で弁当キャンセルに困るお店にフェミニストらが暴言「反共カルト弁当屋」「未成年搾取に加担する弁当屋」
https://togetter.com/li/2165307
【これが共産党のやり方】水着撮影会中止で被害を受けた弁当屋さん、フェミ&リベラルの悪質な嫌がらせで電話非対応に追い込まれる...
https://femimatsu.com/article/499743903.html
https://news.yahoo.co.jp/byline/arakawakazuhisa/20211214-00272517
男女で未婚率が異なるのは、当然分母となる未婚人口が男の方が多いからである。なぜ、男の方が多いかというと、男女の出生性比の違いによる。これは日本に限らず、全世界的にそうなのだが、出生性比は必ず男児の方が5%程度多い。時代によってもそれは変わらない。少なくとも統計が残る1899年からの長期推移を見ても、大体女児100に対して男児105である。
2019年の実績でいえば、「再婚同士」37%、「再婚夫×初婚妻」37%、「初婚夫×再婚妻」26%である。つまり、「再婚妻×初婚夫」の組み合わせだけが少ない。「再婚妻×初婚夫」に対して「初婚夫×再婚妻」は常に1.4倍近く差がある。
要するに、離婚したバツあり男は未婚女性と再婚する割合が高いということだ。そうすると、未婚女性の絶対数だけが減ることになる。
19世紀においては、海底ケーブルの主導権はイギリスにあった。イギリスはゴムのでしょうか原料産地マレーシアを植民地としており、元イギリス東インドのメンバーが1845年に設立したガタパーチャ社がケーブルの絶縁物質を独占的に販売していた。1901年の時点で海底ケーブルの63%はイギリス製であった。
この力を背景に、イギリスは他国の電報を盗聴したり、伝達を遅らせたりするなど、外交面でケーブルを利用した。たとえば、1899年のボーア戦争の時に、イギリスはフランスと南アフリカの電報をすべて検閲し、暗号化された電報は通信しないという対応をとった
開戦宣言が届かなかったKDD海底ケーブル事件がありましたっけ
ガタパーチャ社は機械調帯も輸出しており日本では代理店山崎商店が造兵廠や大手工場に販売
防衛予算が増えれば再び国際汚職が起きるだろう(もう起きている)
幼名は「たりた」で、これは両親が子沢山だったため「子供はもう足りた」という意味で名付けられたという。
ちなみに彼女の下にはさらに妹がおり、「誤って産んだ」ので「あや」という名前だったとか。
16歳で見学した撃剣興行の、佐竹茂雄夫人の薙刀に魅せられ、家を飛び出して直心影流薙刀術に入門する。
師匠である佐竹鑑柳斎・茂雄夫婦の撃剣会に帯同し、各地の興行に参加して、20代にして「美人剣士」の勇名を轟かせる。
入門三年目にして直心影流薙刀術の印可と「秀雄」の名を授与され、「日下秀雄」と名乗るようになる。
同年に直猶心流剣術の十一代目・園部正利と結婚して「園部秀雄」となる。
1899年の第4回武徳祭大演武会において、唯一の女性剣士として出場、
幕末の人斬り・渡辺昇と戦い、渡辺は竹刀を投げ出して降参したという。
当時の渡辺は61歳ではあったが、秀雄の戦歴のなかではこの試合が特に有名である。
その後、渡辺の高弟である堀田捨次郎に一敗を喫したとも、生涯不敗だったとも言われる。
後年には女子学習院を始めとして多くの女学校で薙刀師範を務め、
また道場「修徳館」を設立して薙刀教員を育成するなど、女子教育としての薙刀術普及に大きく貢献した。
1963年、93歳で亡くなった。
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している[48]。
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている[49][注釈 7]。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている[注釈 8]。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し[52]、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本人女性と結婚している。この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している[53]。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が歌われ[54]、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもあった[55]。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている[56]。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している[57]。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定している[57]。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している[58]。ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業の人物を描き分けている。
清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べている[59]。
及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかったとしている[39]。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という[39]。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする[39]。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している[39]。
とりあえずググってみたら1890年代くらいの文章がたくさん引っかかった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776556?contentNo=219
然レドモ此ノ陰謀の最モ熱心ナル助成者ノ一人ハ「ノウゴロド」ノ大僧正「セッチン」ナルカ、「セッチン」ハ俗帝ニ反シテ其ノ管内ニ在ル所ノ衆多ノ法皇即チ道士ヲ煽動セリ
今回見つけた中では最も古かった。これはトーマス・ヘンリー・ダイアーの『History of ModernEurope』の翻訳で、原文では以下のようになっている。
Butone ofitsmost zealous supporterswas Setschin, Archbishop of Novgorod;who incited the multitude of popes or priests inhisjurisdiction against the "profane" Emperor.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799370?contentNo=128
「グドウィン・サント」ヨリ成リ世界中最モ不毛ノ土地ナリシ「フランダース」ノ「ペース・デ・ウエース」モ勤労ノ効ニ依リ豊饒ナル性質ニ変シ今ニテハ欧州中最モ生産多キ土地の一ト為レリ
こちらはJ・S・ミル『Principles of Political Economy』の翻訳で、原文は以下のとおり。
One of the barrenest soils inthe world, composed of the material of the Goodwin Sands, the Pays de Waes inFlanders,has been so fertilizedby industry,as to have becomeone ofthe most productive inEurope.
最初の「One of the barrenest soils」については「世界中最モ不毛ノ土地」と訳しているあたりに苦心がうかがえる気がする。
https://books.google.co.jp/books?id=y3ljPfzhz6EC&pg=PP11
加ふるに本書の主人公マコウレーは、著者が最も同情を表せる一人にして、其著作は著者が日夕誦読精通する所、其時代は著者が最も熟通せる所なりといへば、本書の著者が本書に置ける得意想ふべきなり。
竹越與三郎『マコウレー』は1893年刊行らしいので批評も近い時期に出たのではないか。「日本評論」は、後の日本評論社の雑誌ではなく、1890年から植村正久が発行したという同名の雑誌のことと思われる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871718?contentNo=235
されどすべての文字上にあらはれたる人心の形象を文学なりとして、新聞紙を最も重要なる文学の一つとせむは、文学の義をあまりに広く取り過ぎたるものにて、これがために青年文学会の進歩の多少障碍さらるべきは惜むべき事なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993477?contentNo=128
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809188?contentNo=11
「リーランド・スタンフォルド」大学ノ如キハ、千八百八十五年ニ「リーランド・スタンフォルド」氏及其夫人ヨリノ莫大ナル寄付金ニ依ッテ創設セラレタル大学デアルガ、今日デハ、米国ノ諸大学ノ中デ最モ盛大ナルモノノ一デアル
このように並べてみても、通説のとおり英語の「one ofthe most 〜〜」構文を直訳したものから「最も〜〜の一つ」構文が広まっていったように思える。つまり「誰が言い始めたの?」という質問に対しては「明治初期の翻訳家のうちの誰か」が答えになる。明治といえば、いわゆる言文一致運動があったように、まだ「近代日本語」自体が固まりきらず模索されていた時期であるし、またここに挙げた森鴎外・田口卯吉・竹越與三郎・外山正一などは、いずれも英語の使える教養人であるので、意識的に「直訳」的な表現を取り入れていったのだろうとも思われる。ちなみに、そもそも「〜〜の一つ」といった言い方自体が、英語の「one of 〜〜」から多用されるようになったという話もあるらしい。そうした文体は「欧文脈」「欧文直訳体」だとか言われて研究対象になっているので、気になるなら本格的に調べてみてはどうだろうか。
石井閘門 -宮城県石巻市。北上川にある閘門。1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門。現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財に指定されている。
脇谷閘門 -宮城県石巻市。1931年12月竣工。北上川本川と旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。
見沼通船堀 -埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門式運河である。昭和初期以降から使用されておらず、現在はさいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡に指定された。
荒川ロックゲート -東京都江戸川区小松川。東京都を流れる荒川と旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通が有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門。
扇橋閘門 -東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。
中島閘門 -富山県富山市。1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河式閘門。現在も運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財に指定されている。
牛島閘門 -富山県富山市。中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在も運用可能なパナマ運河式閘門。国の登録有形文化財に登録されている。
松重閘門 -愛知県名古屋市中川区。堀川と中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在は閘門としては使用されていない。名古屋市の有形文化財、1993年(平成5年)には名古屋市の都市景観重要建築物等に指定されている。
船頭平閘門 -愛知県愛西市立田町福原。木曽川と長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化・改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財に指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。
三栖閘門 -京都府京都市伏見区。宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。
毛馬閘門 -大阪府大阪市北区。淀川と旧淀川(大川)を隔てる閘門。明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門は1976年(昭和51年)まで使用され、現在は重要文化財に指定されている。
尼崎閘門(尼ロック) -兵庫県尼崎市西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶の重要な玄関口となっている。
下関漁港閘門 -山口県下関市の本土と彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河式水門。1936年の設置以来、現在も稼動中。
三池港閘門 -福岡県大牟田市。1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産に指定。2015年世界文化遺産に認定された明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。
前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409が字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマーク、コメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください
孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
| 法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
| 新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
| 榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
| 平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
| 浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
| 三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
| 高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
| 浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
| 東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
| 長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
| 西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
| 熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
| 法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
| 厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
| 永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
| 東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
| 正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
| 吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
| 慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
| 妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
| 園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
| 園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
| 妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
| 大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
| 三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
| 二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
| 西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
| 西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
| 延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
| 三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
| 曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
| 桂離宮 | 1663年 | 京都 |
| 慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
| 江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
| 閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
| 東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
| 大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
| 大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
| 岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
| 栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
| 角屋 | 1787年 | 京都 |
| さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
| 大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
| 渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
| 羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
| 旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
| 旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
| 岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
| 柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
| 旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
| 宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
| 旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
| 旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
| 旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
| 吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
| 古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
| 高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
| 住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
| 聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
| 旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
| 軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
| ※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
| 旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
| 近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
| 旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
| 旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
| 神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
| 斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
| コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
| 南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
| 八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
| 香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
| スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
| ※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
| 日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
| 国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
| 大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
| 旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
| 白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
| 塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
| ※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
| KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
| 中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
| ※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
| ※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
| 阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
| 北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
| 幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
| 上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
| ※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
| 小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
| 弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
| SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
| ※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
| 海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
| 豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
| ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
| せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
| 横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
| 金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
アーネストヘミングウェイは、1899年7月21日にシカゴの特権的な郊外であるオークパークの村(米国イリノイ州)で生まれました[4]。 彼の父、クラレンス・エドモント・ヘミングウェイは医師であり、彼の母、グレース・アーネスティン・ホール-ヘミングウェイ
アーネストヘミングウェイは、1899年7月21日にシカゴの特権的な郊外であるオークパークの村(米国イリノイ州)で生まれました[4]。彼の父、クラレンス・エドモント・ヘミングウェイは医師であり、彼の母、グレース・アーネスティン・ホール-ヘミングウェイはオペラ歌手でした。どちらも、保守的なオークパークコミュニティ[5]で十分な教育を受け、尊敬されている人々でした。このコミュニティについては、有名な建築家フランクロイドライトが次のように述べています。 ")[6]に行く多くの良い人。結婚式の後[7]クラレンスとグレース・ヘミングウェイはグレースの父、アーネスト・ホールとしばらく一緒に暮らし、その後夫婦は長男を指名した[注1]。
山口瞳のエッセイが出典ではね。新渡戸稲造は『武士道』でこう書いている。
I have noticed a rather superficial notion prevailing amonghalf-informed foreigners, that because thecommonJapaneseexpression forone's wifeis "my rustic wife" andthe like,sheis despised and held inlittleesteem. Whenitis told that such phrasesas "my foolish father," "my swinish son," "my awkward self,"etc., are in current use,is not theanswer clear enough?
To meit seems that ouridea of marital uniongoes in some ways further than the so-called Christian. "Man andwoman shall beone flesh." The individualism of the Anglo-Saxon cannot letgo of theidea that husband and wife aretwo persons;—hence when they disagree, their separate rights are recognized, and when they agree, they exhaust their vocabulary inall sorts of sillypet-names and—nonsensical blandishments.It sounds highly irrational to our ears, when a husband or wife speaks to a third party ofhis otherhalf—better or worse—asbeing lovely,bright, kind, and what not.Isitgood taste to speak ofone's selfas "mybright self," "my lovely disposition," and soforth? We think praisingone's own wife orone's own husbandis praising a part ofone's own self, and self-praiseis regarded, to say the least,as bad taste among us,—and Ihope, among Christian nations too! I have divergedat some length because the polite debasement ofone's consortwas a usagemost invogue among thesamurai.
http://www.gutenberg.org/files/12096/12096-h/12096-h.htm
これは有名な一節である。「武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い忠義を信条としたことに触れ、家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、これらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、この機微は外国人には理解できないものであろう」といった意味。
なお『武士道』の初版は1899年。「戦後あたりから間違った意味で使われるようになった」というおまえの説と矛盾する。新渡戸稲造によるとWe think praisingone's own wife orone's own husbandis praising a part ofone's own self(おのれの妻や夫を褒めるのはおのれ自身の一部を褒めることだと、我々は考える)というのだ。だからmy rustic wife(愚妻)のような表現を使うのだ、と新渡戸は言っている。したがって─
高島俊男さんの「お言葉ですが…2」では、「愚」はわたしの意味だと説明した上で、実はこのような一人称二人称という発想は西洋人の発想だとことわり、日本人の発想は、「こちら側」と「あちら側」に分けるのだという。
http://takusen2.seesaa.net/category/1656458-1.html
これも「こちら側」にいる私と妻をまとめて「愚」と呼んでいる、と読むのが正確だろう。
もっとも、高島説でも新渡戸説でも「どうして自分の師匠を『愚師』とは呼ばないのか」という問題は説明がつかない。門弟から見れば師匠は「こちら側」だ。
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飛び地とかが好きなんだけど、Wikipediaを見てたらビル・タウィールっていういずれの国家によっても領有権が主張されていない無主地っていうのを見つけて読んでたんだよね。
エジプトとスーダンがイギリスの支配下だったころにイギリスが引いた境界線があって、どっちもその境界線を国境だって主張している。1899年の境界線と1902年の境界線で範囲がちょっと違うから、どっちを使うかで主張が一致していなくて、ビル・タウィールっていう何もない土地を自国に含める境界線だと、もっと広くて港町とかがあるハラーイブ・トライアングルが自国に入らないから、どちらの国も領有権を主張していないんだって。
1902年の境界線を決めた理由を見るとスーダンに分がありそうだけど、今はエジプトが実効支配していて、遺恨が残りそうだねぇ。
そんな事はいいんだけど、この記事を読んでいたら川の名前のワジ・タウィールに括弧がついていて「وادي طويل 、一名 Khawr Abū Bard」って書いてあったんだよね。وادي طويلっていうのはたぶん現地語の表記なんだろうけど、Khawr Abū Bardって何?一人だれかいるってわけじゃないよね?って思って辞書引いたら、別名の事なんだってさ。
わかんねーよ!別名って書けよ!
見たことなかった表現だったからWikipediaでどのくらい使われているか検索してみたんだけど、9割程度は一人の意味で使われているようだった。別名の意味で使われているのも古い文献からの引用が多いね。
あとは昔の人の名前にも多かった。たとえばこれは野中兼山の説明。
諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。
通称とは何が違うんだろうね?諱とか幼名とか号とかに並んでいると一名という特別な名前の種類があるのかと思ってしまうけど、ただの別名っていうのはややこしいね。「尚字」もそういうなにかに見えたけど「なお、あざな」だった。ややこし。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E5%9F%8E
別名 一名蕪城、鏑木城
近くには白山市立蕪城小学校がある。一名が別名の事というのがあまり知られていない事が伺える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%95 の出典にあるのは『軽便西洋料理法指南 : 実地応用 一名・西洋料理早学び』
現代風に書いたら『【実地応用】軽便西洋料理法指南 ~西洋料理早学び~』といった感じだろうか。
書籍名に入った一名は、他のものもサブタイトルのように見える。
ヴァンセンヌ女子学園という学校で学生が名乗るニックネームのようなものを一名と言うらしい。
エロゲじゃん!!
あえてマジレス的に考察比較してみる(★印は主観だが、世界的観点のつもり)
世界:帝国主義の絶頂期。飛行機が実用化、ドレッドノート級軍艦が登場。
世界:清・独・露・オーストリア・トルコが革命で帝政やめる。第一次世界大戦で陸海空の技術レベルが激変。男が兵隊に取られた分を埋めるため女性の社会進出が拡大。
世界:基本的に2つの大戦間の平穏な時期。アメリカは大戦後の好景気で急成長。自動車産業が発達。あと各国でラジオと映画が普及して大衆文化が拡大。
日本:大正デモクラシーの時期。藩閥政治家が高齢化して影響力を失う。
世界:第二次世界大戦の勃発と終結と冷戦体制の到来。核兵器とロケット兵器の実用化。戦勝国の多くも植民地を手放す。
日本:敗戦で大日本帝国は一度滅亡。新憲法が制定。社会制度は激変したが、日本人の大部分は引き続き貧乏農民で、生活の風景は昭和初期とそれほど変わってないはず。
世界:冷戦体制から緊張緩和。東南アジアとかアフリカ諸国とか次々と独立。カウンターカルチャーとか出てくる。新左翼運動が激化。汎用コンピュータと月ロケットが登場。
日本:高度経済成長が本格化。農家や個人商店からサラリーマン世帯が激増し、家電製品や自家用車が一気に普及テレビが普及してエンタメも変化
世界:ベトナム戦争は失敗。米中が国交樹立。米ソ両陣営とも停滞。
日本:オイルショックで高度経済成長が終了。新左翼運動が失速。
世界:前半は停滞の冷戦体制。後半急に米ソ冷戦は雪解け、ソ連より中国のほうが危険視されるようになる。イランイラク戦争を契機にイスラム原理主義が台頭。
日本:一億中流とかポストモダンとか言ってたおめでたい時代。後半はバブル突入。
世界:冷戦体制が終結。世界はアメリカ一人勝ち……と思ってたんだよこの頃は。インターネットの普及、といってもまだダイヤルアップ時代。
日本:バブル崩壊。だんだんみんな貧乏になる。ネットはまだどちらかといえばオタクのアイテム。宮崎勤という男のせいでオタは日陰者だった黒歴史時代。
世界:テロ戦争の時代。中国経済が急成長。最後のほうはリーマンショック。ネットの高速・常時接続化とともに電子商取引が普及。後半にスマホが登場。
日本:失われた10年だか20年だか。新自由主義と構造改革で活性化するつもりで失敗。宮崎駿だの押井守だの庵野秀明だのの商業的成功のせいか、いつの間にか「ジャパニメーションは日本が誇る文化」になった。