
はてなキーワード:100m走とは
人種、身長、年齢、全ての限界を超えて男子100m決勝に進んだアジア人スプリンター・蘇炳添(ソヘイテン)の話をしようと思う
短距離界は長らく黒人選手の独壇場とされてきた。爆発的なパワーと大きな歩幅はアフリカ系スプリンターの大きな強みだ。
蘇炳添は173cmと小柄で、アジア人の骨格が不利だと見なされていた。さらにスプリント選手のピークは20代半ばと言われる中、30歳を超えても挑戦を続けていた。
常識的に考えれば、世界のトップで戦える条件は揃っていなかった。
そんな数々の限界を打ち破り、アジア人として実に89年ぶりにオリンピック男子100m決勝の舞台に立ったのが、中国の蘇炳添である。
2010年代、日本では桐生祥秀や山県亮太らが台頭し、誰がアジア人初の9秒台に到達するかが注目されていた。
その競り合いの先陣を切ったのが、2015年世界陸上北京大会で9秒99をマークした蘇炳添だ。
アジア人として史上初めて10秒の壁を破り、世界中を驚かせた。
蘇炳添の武器は鋭いスタートだ。爆発的な初速でリードを奪い、室内60m走ではアジア記録を次々と更新し、世界の強豪と互角に走れる下地を築いていった。
2018年には9秒91、9秒92と複数回9秒台をマークし、実力として世界最速に近い領域に居続けることを証明した。
この時点で既にアジア史上最高のスプリンターであることは疑いようがなく、30歳を超えた彼がそのまま引退しても伝説として語り継がれただろう。
年々高まる男子100mのレベルに阻まれ、日本の桐生祥秀・山縣亮太・多田修平の3人は惜しくも予選敗退。
テレビの前の陸上ファンが最後の望みを託したのは、アジア人で唯一準決勝に駒を進めた蘇炳添だった。
だが、その期待は同時に不安でもあった。
なぜなら蘇炳添が走る準決勝第三組は「死の組」と呼ぶにふさわしい激戦区だったからだ。
そしてイタリアのマルセル・ジェイコブス、自己ベスト9秒80。この男こそ後に東京五輪で金メダルを掴むことになる選手だ。
決勝に進めるのは各組上位2人、そして準決勝全体でタイム上位の2人。
第三組の顔ぶれを見れば、その争いが絶望的に険しいことは明らかだった。
この組を突破するのはほとんど不可能ではないかと、多くの陸上ファンが思っていた
31歳になった蘇炳添は、静まり返るスタジアムの中でスターティングブロックに腰を下ろした。
他の選手よりも明らかに一歩前に出る会心のスタート。室内60mでアジア記録を連発してきた男の真骨頂が、この世界最高の舞台で完璧に決まった。
世界のトップスプリンターたちが猛然と追い上げる中、蘇炳添は最後の一歩まで粘り、胸を突き出してフィニッシュラインを駆け抜けた。
結果は1着。
アジア人が100m準決勝を着順で突破する。それだけでも歴史的な快挙だった。
だが、真の衝撃はその先に待っていた。
9秒83
その数字を確認した瞬間、蘇炳添は感情を爆発させた。カメラの前で何度もガッツポーズを繰り返す。
大声で叫びながら歓喜を全身で表現する姿は、これまで積み重ねてきた努力が一気に解き放たれたかのようだった。
動画解析によれば、蘇炳添はレース中盤、60m地点を 6秒29 で通過していたという。
これは非公式ながら、現在の室内60m走の世界記録をも上回る驚異的なタイムだ。
蘇炳添は人類史上最速のスタートダッシュを、オリンピック準決勝という極限の舞台でやってのけたのである。
100m走は身体の消耗が激しく、蘇炳添は準決勝で全力を出し切っていた。十分な回復ができないまま臨んだ決勝の舞台。
結果は6位、タイムは9秒98。
メダルには届かなかったが、それでも同じ日に2度も9秒台を叩き出したという事実が、彼の実力を雄弁に物語っていた。
アジア人が9秒8台で100mを走った。
YouTubeには蘇炳添の準決勝の走りが無数にアップロードされ、ファンが編集したドキュメンタリー動画は瞬く間に1000万再生を突破した。(現在は権利の関係で削除されているが、当時の熱狂ぶりを物語っている。)
東京五輪男子100mの話題は「誰が金メダルを取ったか」ではなく、「蘇炳添が9秒83で走った」というニュースで持ちきりだった。
男子100mの記憶に残るレースといえば、真っ先に思い浮かぶのはウサイン・ボルトだろう。
2008年北京五輪で胸を叩きながら駆け抜けた9秒69(当時の世界新記録)、2009年ベルリン世界陸上で叩き出した人類最速の9秒58。
世界歴代1位から5位までのスプリンターが一堂に会した史上最速決戦の中で、ボルトは圧巻の9秒63(五輪記録)を記録し、自らの王座を守り抜いた。
彼の走りは、人間はここまで速くなれるのかというロマンを世界中に刻み込んだ。
それ以上に私の記憶に焼き付いているのが、東京五輪男子100m準決勝である。
自分と同じアジア人で、もしかしたら自分よりも背が低いかもしれない男が、大柄な黒人スプリンターたちを一瞬で置き去りにする圧倒的なスタート。
その光景は、アジア人スプリンターの可能性を根底から覆す瞬間だった。
ちなみに、ウサイン・ボルトが記録した9秒58の時の60m通過タイムはおよそ6秒30と言われている。
一般的に、身長の高い選手は加速局面を苦手とし、スタートが遅い傾向にある。
それにもかかわらず、身長ほぼ2mのボルトが、173cmの蘇炳添と同じスタートダッシュを見せられるというのは、まさに異次元としか言いようがない。
やんわりした引き止めのメッセージだ。
>最近のインターネットもとい生成AIの流れはいかに生産性を上げて業務を改善するかみたいなことが多いと感じている
同じことを感じて憔悴した結果、職種そのままで「効率! 成果!」という音頭を取る会社から離れたエンジニアだ。
詳細はぼやかすが「効率! 成果! という音頭を取ることがその組織の不利益になる組織」というのが存在する。自分の場合、たまたま縁でそこに巡り合うことができて、待遇は変わらずに働きやすさを獲得した。
ぼやかす理由は、「効率! 成果!」の文脈が存在しないサンクチュアリをピックアップすることで、そこが着目され、結果そこすらも働き手として苦しい場所に変わっていくことを恐れているからだ。
しっかり探せばサンクチュアリはある。
> なんとなくの次の仕事としては電気系の資格を取って働くというのがぼんやりと頭の中にある。それ以外では衣食住に関係する仕事がしたい
とても同じことを思っている。
ランプの修理をしたり、家具の高さを調節したりして、近いうちにはエンジニアを辞めて、それだけで月20万くらい稼げればあの頃より全然マシだと思っていて、色々準備をしている。
自分が知る限りで、効率主義を押し付けられる社会とは最も縁遠いかつ興味がある分野がここだった。
そして、出来上がれば誉めてもらえる。出来上がればそのプロセスが効率的かどうかは非難の対象にならない。
そういうイメージがある分野だから、おれも電気系とかにとても興味がある。
平均以上のタイムで100m走を走っているはずなのに、伸び代を求め続けられる。
これまでは平均以上のタイムで100m走を走っているだけで褒めてもらえたのに、最近はそれを褒めてもらえない。
なのに超新星みたいな後輩が入ってきて、彼らは平均以上のタイムを誉められないこと、伸び幅だけを褒められることを当たり前だと思っている。
エンジニアという職種であれば、この「効率! 成果!」の余波を、遅かれ早かれ受ける。
目の前のやるべきことをこなしていれば、ヨシヨシしてくれる会社は徐々に少なくなるのかもしれない。
それはあと3年もすれば侵食されると思う。
あと3年は、新しいサンクチュアリを見つけて良い待遇で働きつつ、電気系の仕事はその間に準備するでいいんじゃないかと思う。
「うちの子は足が遅いからスポーツ選手には向かないな」は受け入れるのに「うちの子は頭が悪いから学歴競争には向かないな」は受け入れられないのはなぜ?
https://togetter.com/li/2524065
答えは「そういう風に社会が出来ているから」だと思うんだよな。
まず第一に勉強というのはほぼ全ての子供が取り組むことであり、幼少期から学校の勉強の成績が一切求められない子というのは基本的にいないということ。
スポーツは競技を選べるし、そもそもスポーツで勝負しないという選択が普通にできる。しかし「勉強というものと無縁で生きる」という選択肢は現代においてはほぼ無いに等しい。
殆どの子が義務教育を越えて高校にまで進学し、さらに半分以上の子がそれ以上に進学する現代において、学校の勉強という勝負から降りるという選択は殆ど現実的ではない。少なくとも高校を出ていない子がまともな職に就いて十分に稼げる確率はほぼ0に等しい。
もちろん、例外はいる。しかしその例外になれるような才能のある子ならそもそもこの議論の俎上に上がらないはずだ。
そして現代社会において、学歴と収入の間には強い相関があるというのも事実である。
なぜ大企業がみんな揃いも揃って学歴偏重で採用をしているのかを考えてみればよい。なぜ企業は足の速い子を採用しないのか?頭の良さと足の速さにどちらも同じ価値があるならば、面接なんかせず100m走のタイムで採用を決める企業が沢山あってもいいじゃないか。
結局のところ、組織において高い価値を生み出せるのは大半が高学歴なのだ。高い学力、高度な頭脳が現代社会においては価値を生みやすいという傾向があるのは間違いない。
繰り返すが、例外は存在する。学歴が無くても叩き上げでのし上がった人たちはいるし、そういう人たちは尊敬に値する。だがそんなのは極々一部、ほんの一握りに過ぎない。
何の特別な才能もない人間がそれなりに成功するためには勉強するしかないのだ。逆に学歴さえあれば他に特別な才能なんかなくてもそれなりの結果は得られてしまうのだ。
つまり、学歴競争というのは好むと好まざるとに関わらず参加しなければならず、そしてそれが将来の職に大きな影響を与えるファクターなのである。
だから他に特別な才能が有ってそれで食っていけるというのでもない限りは学歴競争から簡単に降りてしまうというのは愚行であり、他人より秀でた能力が無いからこそ勉強をするしかないのだ。
そして、別にこの競争では一番以外には価値がないわけではない。
大半のスポーツの世界やゲームの世界では金を稼げるのはほんの一握りに過ぎず、プロではあっても本業だけでは食っていけなかったり、早々に引退せざるを得ない人が多いというのが現実である。
それに比べたら、学歴の世界は頑張れば頑張った分だけ相対的に上がっていくことになる。トップにはなれなくても「何もしなかった自分」よりは上を目指せるし、そして少しでも高い学歴を得られればそれだけ希望の職に就ける確率も高まるし、学歴に比例して良い労働環境と高い賃金が得られる傾向がある。
正直言って、高校生までの間に勉強して少しでも良い学校に進学すること以上に効率の良い時間の投資は中々無いと思う。大人になってからちょっとぐらい勉強したところで年収を大きく上げるのは難しいが、高校時代に勉強を頑張れば将来の年収を100万200万、なんならもっと上げることだって全く不可能じゃない。
才能が無いなら勉強で勝負するしかないという現実から目をそらしたところでなにも良いことは無い。むしろ効率的な生き方だと考えた方が良いのだ。
100m走が20秒とかボール投げが10m台とか、球技のラリーが全く続かないとか、そういうのは筋力や運動のセンス以前の問題であって、フォームが終わってるからそこをちゃんと教われば大抵ある程度にはなる。
というのはまあそうなんだろうけど、ただそういうのをいちいち教わる時点でセンスはないんだろうなって思う。筋力はともかくとして。
不完全ながら言葉に変換された他人の感覚を「コツ」として借りるまでもなく、こうやって身体を動かせば良さそうだなという予測だったり、自分の身体を使った試行からの軌道修正だったりを意識的にか無意識にかで実践出来ることこそが運動のセンスそのものなんだろうなって思う。コツを聞いた上でそれを身体に理解させられるか、とかも。
えっみんなわざと間違えてるの?
「能力基準をもとにトランス女性の競技参加を排除する理屈に従えば黒人の競技参加も差別することになる」「現代の価値観ではそれは許されない」「したがってトランス女性の競技参加を排除する理屈も、現代の価値観のもとでは成立しない」
ということですよね?
もうちょっというと、現代の価値観というより、ウォークの論理によれば、ということではあるでしょうが。
個人的には賛成で、激変緩和しないといけないので一世代くらいの時間は最低必要だと思うが、将来的には、ウォーク論理に従って考えるなら、オリンピックなどの国際的競技では男女別枠の撤廃という選択肢しか取りえない気がしています
結局、みんなが何を見たいのかというところが整理されてなくて、たとえば、同じ努力をしても男性の方が女性よりも競技得点が高くなりやすい、というのは、統計的にはそうなんでしょう。
しかしその考えは、同じ努力をしてもアフリカ系男性の方がアジア系男性よりも100m走で速い時計を出しやすい、統計的に。ということと全く同じ構造になっていると思います。
従って、同じことを言っている、トランス排除をすべきでない(と言っているんだと思うが)という元増田の主張に賛成です。
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むしろ、別に、みんながみんなスポーツで金メダル取らなくたっていいではないですか。
女性を男性と同じ土俵で競わせるのはおかしい、という論理は、障害者枠によって救済されるべきもので、生物学的(染色体)女性限定種目はパラリンピックにおいて実施するという考え方がありうるのではないか。念のため申し上げておきますが、私はパラリンピックの素晴らしい価値を最大限に評価し、むしろオリンピックよりも守るべき価値観だと思う人間です。
でも、そういう難しくて、ワンプレーごとにプレーが切れて、戦略性のあるゲームが日本人は好きだよね
野球で言えば捕手が座ってる位置あたりに木の柵があり、投手はボールをそれにぶつけて壊すことがゲームの根幹となる目的だ
打者は木の柵を壊されないように棒を当てて阻止する
つまり、柵に当たりそうなストライクゾーンに来る球は大振りせずバントのように確実に当て、ボール球のような柵に当たるリスクが少ない球を強振して打ちに行く
野球みたいに生還して1点という概念はなく、打者と、向かいにいる走者が互いにベース間を往復し続ける
2人がちゃんと進塁できれば1点だが、野球と違うのはバットに当たっても必ずしも走る必要はないため、野球だと内野ゴロになるような当たりも、走らなければファールのようにアウトにならない
もちろんタッチアウト、フォースアウトはあるため、無謀な走塁はリスクしかないためまず試みない
走らなければ進塁、得点もできないけどね
つまり、クリケットは柵を壊すまでにどれだけ邪魔されなかったかを競うゲームで、打って点を取るというより、柵を壊すまでの失点をなるべく避ける考え方だ
通常の球技はボールを持っているほうが得点する機会を持つが、野球は例外で、ボールを持たない側が得点する稀有な球技だ
それはこのクリケットのルーツ通り、柵を壊すのがメインのゲームだから、投手がしているのが攻撃なわけだ
野球になるとそれが逆転して、打つほうが攻撃で、投げるのは打つ機会を提供するためになってしまった
それに伴い変化したのが走者だ
が、野球のメインは走者を走らせることになった
ベースは安全地帯ではあるが、基本的に走者はいついかなる場合でも走ってよくなってしまった
本塁に帰れば1点となる
滞空時間の長いフライを打った時も走ってよければ、走者がめちゃくちゃ走れてしまうので、「フライウトの時は塁にいなければならない、いなければ帰塁しなければならない」という決まりはあるものの、それ以外はいつでも走ってよい
フライアウトになった時に帰塁していれば、その瞬間「いつでも好きなだけ走ってよい」状態が復活するため、ボールが戻る前に走者が進塁を試みるのがタッチアップ
また、走塁の時間が一番稼げる、打者への投球時に勝手に進塁を試みることが多く、これが一般的な盗塁だ
打者の出塁にのみ制限があり、「守備側がボールを保持していないこと」が走塁可能な条件だ
バットでボールを打てば、ボールはフリーになっているため走ってよく、三振したときも打席から解放されるが捕手が正規捕球をしていなければ守備側がボール保持をしておらず打者走者としては死んでいないため進塁を試みてよい、これが振り逃げだ
となると、基本的な考え方がどうであれ、観戦者は「打つのを見るゲーム」になってしまった
そうなった結果が、今のルールのわかりにくさだと思う
柵壊しから走塁へ、という流れが分かっていれば、野球のルールって、まあそうなるだろうって感じがする
というわけでクリケット見よう
あえてここで私が「衰退」するという言葉を使ったのはスト6プレイヤーのホモソーシャルへの皮肉でもある、彼らは衰退というワードを冷笑することで衰退していく格闘ゲームに対して建設的な議論をすることを恐れているからである。
増田はスト6をプレイしているインフルエンサーを認知している程度の人間が大半だと思うのでスト6界隈という小さな村落で発生する「有害な男らしさ」がどのような事例で観測できるかということを並べていく。
①マスターは誰でも行ける論争
まず、スト6界隈の男性は「努力」に対して絶対性を置いているのである。
100m走で遅い人はどれだけ走っても遅いままだし、球技などを経験していれば何度練習してもリフティングすら出来ない人間も観測できるがスポーツマンは大人であるため、向いてないのかもしれない程度の認識に留まる。
しかしスト6界隈の有害な男性はマスターに行けないと言っている人間に「努力が足りないから誰でも行ける」と言い放つのである。
それはもし、マスターが目標で到達したとしても「誰でもいけるもんな……」つて思ってしまうだろう。これがサッカーのプレイヤーやランナーならありえないセリフなのは理解できるだろう。100m12秒を目標にしてる人に「努力すれば誰でも行ける」などマウント以外の目的では発言するはずがないのだ。
家庭環境や職場環境によりけり、有線無線を選べない方も勿論いらっしゃると思う。
スト6プレイヤーは無線プレイヤーに「失礼」という言い方で侮辱するのである。
その人はその人の臨める環境の最大パフォーマンスで向かっているはずである、また「失礼」という言い方は第三次世界大戦の日本軍を彷彿とさせるような侍気取りなようで暴力的で抑圧的な人間らしさが垣間見える。
私はキンバリーが可愛いと感じたのでキンバリーを使用していた。しかし、「ポリコレ忍者(スト6プレイヤーの殆どはネトウヨだ)」だの「金色足削地蔵」だの揶揄されているうちに「私が可愛いと思ってるのに汚すなよ」という苛立ちを感じるようになった。
新キャラクターのA.K.Iも可愛いと思ったのだがTwitterでは「キノコの山」だの……
創作物とはいえ女性への容姿批判を容易に行うホモソーシャルでそれが内輪ならまだしもそれが大々的に行われているのである。
正直、このコミュニティに参入しないと大会やカスタムなどには参加できないと考えると一人でワールドツアーを回そうという思考になる。こうやって、ストリートファイター6は有害な男らしさによって衰退していくのである。
(そこそこ長いので、さっさと結論の説明してほしい人は本論まで飛ばしてください)
僕はブラック企業で追い詰められて精神科に通い出した、典型的なうつ病患者。
手帳も貰ってるよ。
3級だからポリコレカードバトルだとあんまり環境に刺さってないけど。
会社に行くために電車に乗ってたら突然心臓がバクバクし、まだ秋口なのに全身に悪寒が走り手が震え出した。
近くにあった神経科のクリニックに行くと「新しい環境に馴染めないストレスから出た自律神経失調症」と診断された。
その日から会社は週に2回勤務できたら頑張った方で、基本的に布団から動けない。
動かないんじゃなくてな。
幸いにも手首から先と腰だけは動いたので、トイレに行って戻ったら寝る、そしてまた起きてトイレに行くの繰り返し。
手が震えて×ボタンが正確に押せねぇから広告の嵐を呼ぶジャングルよ。
いやお前らの言う事は分かる。
全くもってその通り。
日光浴してランニングして筋トレして風呂掃除してお湯張って浸かればうつは軽減されるだろうな。
毎朝6時に起きて日光浴して、9時から18時まで、残業も考えたら20時までかな。
それで退勤してからジムで汗流して入浴をこれから数年間続けられる?
あ、出来る人はここでお帰りください。
あなたは強い人なので、弱者の事は気にせず元気に幸せな人生を歩んでください。
比較的マシな日に、どうにかこうにか顔洗って身支度して、さあ出社しようとしたらな、
いや理屈では分かるよ、鍵開けてドアノブ回して前に押し込めば開くよな。
MAXの力を出してドアノブに手をかけたまではいいんだけど、次何すれば良いんだっけってなっちゃうのよ。
そのうち頭が真っ白になって30分以上そのままの体勢を取り続ける。
なぜならもうこれ以上、思考と行動のための脳のリソースが無くなっているから。
全力で100m走ってる人は「ユニフォーム汗でビチャビチャやから後でシャワー浴びよ」なんて考えてないでしょ?
そんな事してたら当然クビだわな。
そりゃそうだ、週に2回来れるか来れないかの人間雇う余裕なんてないもんな。
そうなると、元々少ない給料が無くなって、貯金残高がみるみるうちに減るわけだ。
自立支援医療とかのおかげで病院代と薬代は1割負担になったけど、それ以外の生活コストは減らせない。
自炊して食費を削る?
じゃあ生活保護貰うために役所のどの受付に行ってどんな書類書かないといけないのか、何を提出すればいいのか調べて思考しないとね。
「止まない雨はない」に対して「今降ってるこの雨が耐えられないって言ってんの」状態なんだよ。
僕だって何かを変えようとして、インフォームドコンセントを目的に神経科から精神科に移ろうと初診の予約で電話したよ。
そしたらどの病院やクリニックでも「最短でも1〜2ヶ月後になります」って言われちゃうもんな。
明日の事も考える余裕がない人間が明後日より先の事考えられるワケねぇだろ!
僕の場合は地元の先輩が心配してくれて、引越しの手伝いから生活費を援助してもらったりなど、生きるために必要な事をほとんど支援してくれたから今生きてるけど、大半のうつ病持ちはそんな都合の良い人居ないわな。
引越し先でようやく精神科に通ったら即うつ病認定されて、手帳の交付に必要な診断書とかの支援もしてもらえた。
手帳持ってると便利だぞ、電車の路線によっては半額で定期券が買えたりするからな。
そんなこんなで療養期間を設けて、何とか非正規雇用だけど雇ってくれるところを見つけた。
障害者雇用枠の求人と合わせて200社くらい受けて、9割以上は書類選考で落とされたけどな!
そう、障害者雇用枠における精神障害者の割合は身体障害者の半分以下なのである。
なぜならオフィスをバリアフリーにする等、身体的に関わる問題を解決すれば中身は健常者と同じなのでちゃんと働いてくれる。
しかし精神障害者は朝起きる瞬間まで出勤できるか分からないし、出社しても仕事が大変だとやれ「早退します」だの「身体が動かないので休ませてください」だのカスみたいな事を言い散らかすからである。
僕の場合は「雨が降ってて気分が沈んでいるので休みます」と連絡したのが1番パンチの効いた欠勤理由だったなぁと思う。
これで僕は「障害者と健常者、両方の性質を併せ持つ♡」というヒソカ状態になった。
勿論、就職が決まったからと言ってうつは治ってくれないし、手足の震えも止まらない。
様々な抗うつ薬(うつエアプ勢が分かりやすくする為にまとめて「抗うつ薬」として表記してます)や、普通はパーキンソン病患者に出す震え止め薬を通常使用量の3倍近く常飲し、急な不安が湧き出した時用に頓服の薬も処方された。
軽い運動や入浴など、どんなにセルフマネジメントを重ねてもダメな日はダメなのである。
職場にたどり着く事がまず困難なのに、仕事なんてできないわな。
「いやお前ガイジなんだから普通の人と同じ生活なんて出来るわけないじゃん(※超意訳)」
って言われた。まさに然もありなん。
前置きが長過ぎて既にページ滞在率は激減してると思うが、同じ精神疾患の人にはあるあるネタとして、シンプルに興味を持ってくれた人には感謝として本論書きます。
もう30%は寝てる時間なので何もできません。
人生の自由時間が30%以下なんてどう考えてもおかしいでしょ。
しかも若いうちに取れる自由時間は少なく、本当に自由を満喫できるのが65歳になってからなんて嫌すぎない?
ナウル共和国見てみろよ、生きてるだけで国からお金もらって公共料金全部タダだぜ?
(当然その姿勢が問題になっているのは承知の上で、国や人によって仕事の捉え方って違うよねって話です)
趣味に没頭するために、お金を稼ぐ手段として仕事をしている人も居るでしょう。
何年も無遅刻無欠席で出勤する。
それらをこなしている時点で、少なくとも僕は「貴方は狂ってます」と言います。
だって僕は趣味や好きだったことが全部できなくなったからです。
料理が好きでした。
自分しか食べないものを作る気力が湧かないから全部冷凍食品にしました。
編集画面を開くどころかパソコンの電源ボタンに触れることすら激減しました。
人生の意味なんて人によってあったりなかったり全然違ったりします。
でも意志がなくなってしまうと、もう何もかもができないんです。
毎日「通勤電車にジョーカーが乗ってきて銃で瞬殺してくれないかな」と思ってます。
「心という器は、ひとたび、ひとたび ひびが入れば二度とは 二度とは」
きっとその「何か」が漏れきった時、僕は押入れにしまっている縄と子供用プールを広げる日が来ると思ってます。