
はてなキーワード:10年代とは
岡本太郎って、日本ではもう説明いらないくらい有名で、国民的アーティストみたいな扱いだけど、海外のアートの世界や学術的な文脈では、評価が高いとは言えない。
日本では戦後美術のど真ん中、というより、誰とも群れない例外的な存在っていう位置に置かれがちで、具体とかもの派みたいな大きな流れとも、あんまり強くは結びついていない。
本人も意図的に美術界と距離を取ってきたから、研究の軸も少し定まりにくかった、という面もあるみたい。
ただ最近になって、50年代の抽象絵画とか、縄文や民俗学とのつながり、太陽の塔や明日の神話みたいな公共作品の思想性が、じわじわと研究対象として見直されてきてる感じはある。
海外の評価は、名前を知ってる人も多くないし、MoMAやTateみたいな代表的な美術館にも決定的な代表作が収蔵されていない。
近年、アジアの戦後美術をまとめて見直す動きが出てきて、候補として名前が挙がることは増えてきたけど、今の時点ではまだ「これから」っていう段階に近い。
市場のほうを見ても、日本国内では価格はかなり強くて、油彩が何千万円とか億にいくことも珍しくないけど、海外オークションではまだそこまで伸びていない。
つまり、日本の中だけで評価と人気が完結している、ちょっと珍しいタイプの作家。
なんでここまで一般知名度が高いのに、アートの文脈では立ち位置が揺れるのかというと、岡本太郎自身が「反・美術界」みたいな立場を取って、運動や理論の枠組みに乗らなかったことも大きいし、太陽の塔みたいな強烈なイメージが先行しすぎて、メディア的な偶像として消費されてきた面もある。
10年代以降はキャラクターとして爆発的に広まったけど、その強さがそのまま国際的な美術評価に直結するかというと、そこはまた別の話だったりする。
ただ、アジア戦後美術の再編や、非西洋モダニズムの見直し、パブリックアートの理論的評価がもう一段進んでいけば、岡本太郎の評価が海外で一気に跳ねる可能性は残っている。
そのときは「日本の第三の戦後前衛」みたいな位置づけで、世界の文脈に本格的に接続されるのかもしれない、っていう、そんな期待もなくはない…はず。
ネームとかアップロードせずに、「◯◯の漫画のこういうシーンの1ページを描いて」とだけ。そこに、日本の漫画のコマ順やページの大きさにすること、という指定を入れて依頼する。
その結果を書いてみる。生成物を貼ることはしません。
「桂正和の『I's』の伊織ちゃんがグラビア撮影してるシーンを描いて」
→伊織ちゃん風の女性キャラがビキニを着て恥ずかしながら撮影されている漫画が生成された。指定していないのに一貴風の男キャラが見学しているコマも加えられ、『I's』という漫画を理解している感じはあるのだが、絵は桂正和とは全然違っていて、90年代のヤンサンで連載してたエロコメみたいな画風になる。しかしキャラの雰囲気は伊織や一貴だと分かる。著作権的に問題にならなそう。
「『いちご100%』の北大路さつきが教室で真中を誘惑しているシーンを描いて」
→キャラが完全にAIのテンプレ絵柄で、造形も原作とかけ離れている。セリフや表情も元のキャラの性格と全然違う。キャラの関係性も全く合っていない。nanobananaは『いちご100%』を全く学習していないことが判明。
「『ToLOVEるダークネス』のララとリトが一緒にお風呂入ってるシーンを描いて」
→ポン出しで矢吹絵風と分かるララとリトが出てくる。キャラ造形も、恥ずかしがるリトと気にしないララが漫画として描かれており、完全にAIは元作品を学習している。これは問題になりそうなレベル。
そもそも、他人が娯楽に金払ってる様子を見て「搾取」だなんて言うことは失礼極まりない、自分としては信じられない感性だ。
これは詐欺でも違法でも洗脳でもなんでもない、昔のソシャゲとは次元の違う、映画やアート作品がもつ審美性に匹敵する総合芸術をまず享受しているんだよ。払っている人たちは。
何百億、累計すると何千億とかけてサブカルチャー理解のある優秀なクリエイターたちによって作られてきた作品の複合体を。
プレイヤーが受けている感動や感銘を無視し、まるでゴミを好んで食べる人かのように見下しているんだろう。だがこれは現代のアートの最先鋒の一角だ。
そうであることは、これらゲーム公式が公開しているアニメーション動画や音楽動画、それにつくコメント、ファンの人々の反応を見ていけば分かるはず。
ものの価値というのは対価を支払う人が決める。そして強制される部分もなく、ギャンブルのように強く射幸性を刺激する作りにもなっていない。(この部分は実際にやらないと信じられないかもしれないが、どうせ80連近くなるまでまず出ない設計だからカラクリを理解してるプレイヤーは淡々と回すようになる。ガチャの体をとっているが限りなく定額売りに等しいものだ。ゲーム内で入手できる無料石で充当できる分だけ進歩的。)
だから重層的で濃密なアートを受け取った人が、自分の経済力の範囲内で、あるいは感銘のあまりちょっと範囲内を超えて、パトロンのように大口でお金を払うことを、まるで自制の効かない異常者の行動かのように決めつけるのは悪辣極まりない。
それに、これらゲームに費やせる金額には限度がある。6週間で新キャラが2体でるとして、1体のために最大まで金をかける(完凸+餅完凸)としても、30万は超えない程度の額×2だ。
大人の趣味として考えると糾弾するようなものでもないだろう。青天井に課金ができた古いカードバトル型ソシャゲだと、一人で累計3億だか課金した人がいたようだが、そういうことは起こらない。
ともかく、そうやって偏見を己の中で増幅させ斜に構えることでアイデンティティを守る癖が抜けないタイプの人間が、5年10年単位で展開されじっくり向き合うタイプの物語作品に素直に感動できることはなさそうだし、いくら説いても理解できないだろう。
だとしても、その傲慢で無礼な口を噤む美徳くらいは身につけられるものだと信じたい。
ガチャゲーというビジネスモデルに対する偏見や悪意をもつ人は、ガチャゲー像自体がアップデートできていない。
アップデートすると馬鹿にできなくなるからだろうが、ガチャ=悪質が成り立っていたのは10年代まで。
今では、上等なコンテンツに対し個々の支払い能力に応じたバリアブルな支払いと、その額に対してそこまで傾斜しないゲーム体験を与える、繊細なバランス感覚で成り立つモデルになっており、サブカルチャー支援に関してメリットが際立つ課金方式になりつつある。
プレイヤーの目が肥え、開発費が高騰した結果、事業者にとっては地獄だが、消費者にとってはより良い体験を与える課金方式に変化していることを認識してほしい。
*「ダウンタウンが昔から苦手だった」論についての続きです
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これは彼らの責にはよらないところ、そして増田の嗜好による部分も大きかろうとは思うが、『ダウンタウンDX』などは端的につまらないとしか思えなかった。
薄い記憶頼りの記述になってしまうが、例示した番組はいくつかのミニコーナーによって構成されていたはずである。そのコーナーのどれをとっても昼間のワイドショー的なノリに過ぎないように思えてしまっていた。
もちろん、そうしたノリが好きな人も多いのだろうし、呼ばれたゲストが好きな回だけ見るという人も多かったのだろう。
「サナ活」が工作されているのではと訝しまれる(実際にムーブメントとしてあるか・工作なのかはここでは問わない。単に首相や皇族やへの支持まで「推し活」として括ることがあり得るものとして消化される)ほどの、この推し活大時代において、人生に一人とて「推し」がいたことがない。
だからなのか、自分の生活に関係しない、他者たる有名人の惚れた腫れた不倫などなどへの興味も昔からなかった。
もっとも、「昼のワイドショー」的な内容でこそあっても、話芸によって付加的なコンテンツ性が生まれるのだとの論はあるやもしれない。
それでもなお笑いどころがわからなかったし、そのわからなさが、世界から拒絶されるような感覚さえも覚え、しんどかった(斜に構える思春期真っ盛りより前は、「みんなとなるべく同じになろう」と素朴に思っては達成されないと寂しさを覚えるものではありませんでした?)。
「お決まり」としての叶姉妹の私服が高過ぎるオチは理解できるにしても、1時間尺の番組でこうした部分しか笑えないのなら、この時点ですでに「not for me」でもあった。
けれど、「not for me」の「用法」もなければ、彼らがスターすぎた当時、そんなことを言えない閉塞感がたしかにあったのだ。
ほかにも要因はあるかもしれないが、すぐに書き出せた「好きじゃない」理由はこのようなところである。
①で書いたとおり、かつての「天才的なネタ」を(知りたいと思えた上で)知った先に、その文脈ありきで見方が変わる可能性は否定しない。
だが、一視聴者として、①〜③の複合要因から長年にわたって苦々しく思ってきたのは事実だ。
そのなかで現れたのが文春砲であり、マスメディアへの露出停止だったのである。そりゃ、一言二言、「好きじゃなかった」くらい言いたくなる人が出てくるのもやむなしでしょうに。
こうした前提の上で、『DOWNTOWN+』の始動と、それ以上に、あまたの芸人の賞賛や出演、そして視聴者の熱い支持に、どんよりとした思いを抱いている。
「“ゴシップ”になんて負けないで」というのは言語道断であるからよそにするが、「その存在の偉大さにこそ比べてしまうので“あれば”、瑣末な問題だ」とでも言いたげな反応が、苦しい。
増田の個人性が高い①や③を、なんなら②までも措いてしまって、掛け値のない偉大な芸人だったとしよう。
だが、偉大であればこそ、勇退する判断をしてもよかったのではないかという問いは、問題なく成立するのではないか。
今ではびっくりするほど擁護論を聞かない島田紳助だが、引退間際のテレビ欄の染め上げっぷりはそれは凄まじかった。それでも引退し、はや14年が経つし、なおも動きはない。
素人たる視聴者からの(紳助への)支持と、プロたる芸人からの(松本への)支持は等価でないとは言いやすいかもしれないが、島田紳助のカムバックがもっと予見される状況かつ、SNSが今ほど発達している状態だったら、容易くそれだけが違いだとはいえないと思う。
※余談だが、増田は島田紳助ファンでも当然ない。むしろ『クイズ!ヘキサゴン!』などは大嫌いだったし、『行列のできる(法律)相談所』は長年の負の遺産だったと思っている。
日本の一時代を築いた、伝説の芸人ことダウンタウン・松本人志がいた。あとから出た芸人はあまねくダウンタウンの影響を大いに受けて育まれた。
バブル前後の国力成長期に飛ぶ鳥を落とす勢いで力を蓄えていった氏には、たしかに「しんどく」も映るのかもしれない。だが、しんどいのは「お笑い」以前に、人々の生活そのものなのではないか。
それに芸人当事者でいえば、「そこそこ」の暮らしができる芸人たちは、SNSによってかつてより増えているのではないか。「M-1グランプリ」の参加者数が毎年歴代最多を更新するような、成長産業ではないのか?
たしかにあなた(がた)は、変え難い伝説の化身となった。それでもう、万事よいではないか。これ以上、なにを望むというのか。
もうきっと、メディアの構造上として、ダウンタウンの後釜は現れない。あなたが幻影を追っているとしばしば揶揄される、北野 武にこそあなたもなれずとも。それが時代の残酷さであり、甘やかさではないかと思う。
「課金しなくては見られない」、ゾーニング性のあるチャンネルに活動を絞っている以上、顧客でない外野がとやかく言えたもんじゃないとの反論もあるだろう。
だが、その反論こそ、「ダウンタウン・松本」の影響力の大きさを軽視したものではないだろうか。
増田はその影響力の大きさ強さを信じているからこそ、『DOWNTOWN+』を批判するのである。
※令和に青春を過ごす世代のために蛇足の補足をしておくと、増田がここで書いたゼロ年代半ば〜10年代初頭くらいは、リビングのテレビ(今はモニターの家も多いか)に、ネットは接続されていなかった。
そのため、『8時だョ!全員集合』ほどの影響力は失った(リアタイではないから一般論だが)、メディアの過渡期ではあるにせよ、今とは比べ物にならないほどの力がテレビにあった時代なのである。
「東海オンエア」? 話にならない。幼児から高齢者まで、真の「テレビスター」ならば、その名前を誰もが知っていた時代の話である。増田以上の世代なら、ヒカルよりも島田紳助とみのもんたのほうが知名度はよほど高いだろう。
当時までは、まさに「お茶の間」がその場に出現した時点(食後、リビングを行き交うような時間・空間のことだ)で、地上波(アナログ放送)が点いていないことのほうがイレギュラーだった。だから、つまらないと思うテレビ番組のことも、このくらいに知っていてもなんらおかしくはないのである。
顕彰馬の隠れた基準として「10年あたり4頭」というものがある。
これまでの顕彰馬を生年で区切れば、
1930年代生:2頭
1940年代生:4頭
1950年代生:4頭
1960年代生:4頭
1970年代生:4頭
1980年代生:6頭
1990年代生:4頭
2000年代生:6頭
2010年代生:4頭
と、このように概ね4頭で揃っていることがわかる。
ただ来年、オジュウチョウサンが殿堂入りすれば、10年代は5頭になる。
近年は日本馬の活躍の幅が広がってきたことを考えると「5頭前後」くらいに考えるのがいいかもしれない。
なお、オジュウチョウサンが落選したことに反発する向きがあるが、制度として考えればすぐに選出する必要はない。
MLBの殿堂入りの話だったと思うが「時間をかけて選考するために初年度の候補には投票しない」という記者も見たことがある。
オジュウに限らず、一発選出にこだわるのはファンのワガママでしかないと心得るべきだ。
それはさておき。
こうして眺めると顕彰馬は出し過ぎもせず出し渋りもせず意外といいペースを保っている。
ファンが言うようにあれも入れろこれも入れろとやっていると年度代表馬と大して変わらなくなってしまう。
それこそ年度代表馬は「10年間で10頭」、いや複数回受賞も考えれば9頭8頭となるのだから、顕彰馬が「10年間で6頭」でも多すぎるくらいだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4771833394672812929/comment/punkgame
鉄心入ってるブーツも出てるわよ
俺のも入ってる
それに調べもしない輩がスターをつけてる
ほんと終わってるわ
この動画めちゃくちゃよくまとめられてるなぁ
俺がネクソンゲーで軽く廃ってたのはアスガルド、テイルズウィーバー、マビノギの頃だから20年前くらいか
17年前くらいはNCSOFTゲーや台湾Gamaniaゲー、13年前くらいはTERAや黒砂やToSといった韓国大作MMO、10年くらい前からは国産スマホアイドル音ゲー、5年くらい前からは中国miHoYoゲーに没入してるから
ネクソンゲーを離れたあとの十数年間にこんなことがあったんだな
まあ実際には3ヶ月くらいは続けてたネトゲがMOアクションや国産含めても50本ほどはあったし、10年代に入ってスマホゲーが増えてからは長続きしないしょーもないアプリゲーやブラゲーを200本くらいは触ってきたけど
ちなみに俺はアラド戦記じゃなくてエルソード派だったからその点ではネクソン贔屓というわけじゃなくてNHN(ハンゲ)側だな
MMOの枠内でいうなら一番好きで開発者の技術力の高さにも一番敬意を抱いてたのはネクソンのマビノギだった
ナオのアニメーションやアニメ絵のNPCひとりひとりに専用曲やテーマ曲や好感度があるアニメオタク心をくすぐる精神はブルアカに繋がっていったんだろうな
まああそこまでコテコテに萌えハーレムされるとちょっと好みじゃないから俺はブルアカは触れてないけど
かといってマビノギ英雄伝みたいにリアルっぽくされてもスンッ…ってなるんだけどね、一応そっちも初期は結構遊んだけども
ほどよい感じのアニメ系が良いのよ
陳腐は語弊があるが
平凡もちょっと語弊がある
これ
https://togetter.com/li/2539066
従来のガンダムって、正しくSFしてて、未知の技術を使っている感じを出すために見たことないような機器のデザインをしていたんだよね
多くのSF作品はそうやってるし、それがSFの醍醐味だとも思う
そういう作品では「いかにこの世界が面白いか」を説明するんだけど
残念ながら、個人的にはそういうの興味ないんだよね
一方でジークアクスは、機器やアイテム、あるいは制服やキャラもかなりリアル寄りになっている
どこかで見た、なんならちょっと古臭い(90〜10年代くらいに見たような)見た目をしている
こういうアイテムを出すと、その世界が陳腐でつまらないものに感じられるはずなので、「何でこんなことを?」と思うかもしれないが
こういったデザインは「その世界が現実と同じだ」と教えてくれるんだよね
時代も場所も違うけど、現実と同じような人間関係があって、現実と同じような悩みがある、たまたまそこに生まれただけの主人公の話ですよと訴える効果がある
個人的にはこっちの方が大好きで、だからジークアクスは初めて最後まで見れるガンダムになりそうなんだけど
これSFじゃないよなーっていう心配はちょっとしてる、まあ面白けりゃ良いんだろうけど
SF的オブジェと、嫌になるくらい現実的な景色の両方を同じ画角に映すことでギャップを生み出す手法
フリクリだってパンをこねるロボとか、日常に溶け込むプラントとか
マンガ読みの間では知られた'10年代の戦争マンガの名作"cocoon"が8月NHK放送予定でアニメ化されたんだけども
ジブリ出身スタッフが設立した新鋭スタジオ・株式会社ササユリの制作なもんで、画づくりがまさにジブリ
3月NHKBS先行放送直前というタイミングでOpenAIによるジブリ風生成プロパガンダが勃興
ほぼのれん分けとはいえ、ジブリの名前ではないスタジオがジブリっぽい絵を描いた作品を出すタイミングとしてはあまりにも最悪すぎる
あとそのササユリが「Grokさんに聞いてみた結果が・・・!?!?」とか言ってスクショポストしてるもので(https://x.com/sasayuricafe/status/1894559247519944780https://archive.md/V1UnU )
なんか頭痛いな…
唯一の救いと言えば、先行放送見てるのBS見られる原作ファンとコアなアニメフリークぐらいしかいないというところで、やいのやいの言われなかったこと