はてなキーワード:自由主義とは
参政党の少子化対策が注目される中で、ルーマニアの孤児の問題が注目されている。
https://togetter.com/li/2573540
これは、あまりに一方的すぎるので、別の見方を紹介したい。参政党に賛成の人も反対の人も軽く読んでくれたらうれしい。
ルーマニア独裁者チャウシェスクは、人口=労働力を増やして国を経済成長させるため、避妊と中絶を原則禁止したり、子なし税を導入したりした。
しかしルーマニアは貧困だったので、親たちに子どもを育てる余裕がなく、捨て子が多発した。その結果、ルーマニアはストリートチルドレンだらけになった。
最終的にルーマニアは革命で体制が崩壊した。チャウシェスクは処刑された。
「避妊と中絶の禁止」という施策が特徴的なので、これが原因と思うかも知れない。しかしそれは早計だ。
よく考えると、この話は少しおかしい。人は、そう簡単に我が子を捨てるだろうか?人類がそこまで母性を失っているなら、人類はもっと早期に絶滅しているのではないか。
この問題の本質は「貧困」にある。ただの貧困ではない。食料店からモノが消え、冬でも暖房が止まるほどの極度の貧困だった。なぜか。
1950年代、ルーマニアは大規模な重工業化を進めた。これは初期には成功し、工業生産は40倍になった。
チャウシェスクは、西側諸国から借金をし、さらに重工業化を進めた。すると、労働力が不足し始めた。そこで、「避妊と中絶の原則禁止」という人口増加政策をはじめた。
しかし、ここで共産主義の非効率性が発動した。生産しても評価されない人々の労働意欲は上がらず、多くの工場がエネルギーと金を食いつぶすだけの施設になってしまった。
そこへ1970年代の石油危機も直撃する。西側からの借金と輸入原油に頼っていたルーマニア経済は、根底から覆され、完全に破綻した。
それでもチャウシェスクは西側諸国に泣きつくことはせず、意地で借金を完済した。その動機は、ルーマニアと共産主義の失敗を認めたくなかったため、つまり彼の誇るルーマニアのメンツを保つためだった。
無理な借金返済は美徳ではない。彼は返済のために、国内のあらゆるものを海外に売った。そして、国民の食料まで売った。当然、国民は飢餓に陥った。
そもそも、「避妊・中絶の禁止」はそこまで珍しい話ではない。なにしろ、かのキリスト教(カトリック)が原則的に避妊・中絶の禁止という教義をもっている。
そのため、中絶を規制していたり、強い忌避感をもっていたりする国・州は今でも多数存在する。それでもルーマニアのように、国が崩壊する例は見かけない。なぜか。
(余談だが、ポーランドのように、中絶を法規制していても少子化に苦しんでいる国はある。中絶の禁止が少子化の特効薬にならないということでもある)
ここまで共産主義だけを原因のように言ってきたが、これはこれで偏っている。突き詰めると、真の原因は「チャウシェスクの独裁」だ。
チャウシェスクはルーマニアや共産主義の失敗を決して認めなかった。
彼は失敗が見え始めると、さらなる無謀な巨大投資を進め、自体を悪化させた。
また、ナショナリズムとメンツのために国民を犠牲にして借金を返済した。
すべては、チャウシェスクの独裁体制が空回りして起きてしまったことだ。
(なお、チャウシェスクは、もともとこのような人物ではなかったらしい。当初の彼は検閲を緩和し、自由主義的な政策を展開した。彼が国家主義的イデオロギーに変わったのは、彼が中国と北朝鮮を訪問した際、毛沢東や金日成のやり方に強い感銘を受けてしまった結果とされる)
ルーマニアの孤児の問題を「避妊・中絶の禁止」のだけのせいにすることはできない。極度の貧困、それを引き起こした共産主義の失敗、それらすべての過ちを認めずに暴走した独裁者の存在が非常に大きい。
参政党の少子化対策を見てルーマニアの孤児のようになるというのは、歴史の一面を切り取っただけの暴論と言えるだろう。
一方で、チャウシェスクの失敗の根底には、ナショナリズムがあることにも注意したい。彼は国を守るために国民を犠牲にした。これは矛盾しているようだが、しばしば実際に発生する、ナショナリズムの負の側面だ。参政党の掲げる政策にこのような危うさがないか、よく分析する必要があるだろう。
「遍く表現の自由は全て尊重されるべきであると考える立場」という時点で日本の法体系や自由主義国の人権観念と整合しない(もちろん権威主義国家のそれとも整合しない)ので、普通に考えてそんな候補者はまともでは無いということになる。
増田の考えにもっとも適合する思想は無政府主義だが、無政府主義を掲げて選挙に出る倒錯した有力政治家は居ない。
たとえば誇大広告表現の自由は尊重すべきであるとは考えられておらず、したがっておそらくほぼ全ての自由主義国家で誇大広告は規制されている。
さて増田にとって表現の自由の一丁目一番地である猥褻表現の自由についてだが、程度の差はあれど、これもまた世界中の自由主義国家で規制されている。公園のど真ん中で全裸で自慰をする自由を認める国は無い。猥褻表現は何らかの理由(それは公共の秩序かもしれないし多数派のお気持ちかもしれない)によって一定の規制を受けるという考えが一般的なのだ。
もちろんそのような考えに疑問を持っている者も市井には珍しくなく、猥褻物陳列罪廃止論者がそれである。山田はそのような主張をしていないから、増田の基準で言っても山田は「本当の」表現の自由の擁護者では無いことになろう。
先日、「尊厳死の話題に絡めて思うんだが、人は"主観的に"死ねるのか?」という投稿を拝見し、その問いが非常に面白かったので、AI(Gemini)と対話しながら深く掘り下げてみました。結論から言うと、この問いは現代科学と哲学の最先端を突きつける、とてつもない問いでした。
元の投稿では、「コンピュータは自身の電源OFFを感知できない」ことを引き合いに出し、人間は「主観上は生きたまま」という可能性が示唆されていました。つまり、肉体が死ぬ直前の意識が、主観上はそのまま"現在の意識"として続き、事故死も安楽死も、主観的には「死を認識できないまま」終わらない可能性がある、と。
この衝撃的な問いに対し、AIとの議論を通じて見えてきたのは、以下の点です。
現在の科学的知見(神経科学、生物学)に基づくと、意識は脳の物理的な活動によって生じるという見解が圧倒的に有力です。脳が機能停止すれば、意識も消失すると考えられます。そのため、「主観が死を認識できないまま、最後の瞬間が無限に続く」というシナリオは、現在の科学では99%の確率で「その通りだろう」という結論に至りました。
この「99%」の根拠は、
もし主観が死を認識できないなら、最後の瞬間の意識が「無限に続く」感覚になるのか?という疑問も出ました。AIとの議論では、この「無限」は客観的な視点からその状態を見た場合の表現である、という見解に至りました。
主観は常にリアルタイムです。もし意識が死の直前の瞬間にフリーズするならば、主観にとっては「その一瞬が『今』として延々と続いている」ような感覚に近いでしょう。客観的に見れば短い時間でも、主観がそこから先に進めないため、客観的には終わらないように感じられる、というわけです。
ここからが本題の尊厳死との関連です。「主観は死を認識できない」という前提に立つと、尊厳死を求めて実行に移したとしても、その主観が「自分は尊厳死した」と認識することはない、というパラドックスが生じます。
尊厳死は、本人の「苦痛からの解放」や「尊厳ある最期」という自己決定権に基づいています。しかし、もし主観がその「解放された状態」や「尊厳ある状態」を体験できないのであれば、その目的は「本人の主観にとって」は達成されないことになります。
これは、尊厳死が「他者からの評価」や「生前の本人の強い意思」によって意味を持つ側面が強いことを示唆します。本人が「苦しまずに死にたい」と決意した瞬間までは主観が認識できますが、実際に尊厳死が実行された後の「死んだ状態」は、主観からは体験できない。ここに、深い倫理的な問いが生まれるのです。
この「主観的な認識のパラドックス」は、尊厳死が抱える倫理上の「限界」の一つを示していると言えます。自己決定権がどこまで及ぶのか、誰のための尊厳なのか、という問いを投げかけます。
しかし、このパラドックスがあるからといって、尊厳死の価値が完全に失われるわけではありません。多くの人は、現在の耐え難い苦痛からの確実な解放や、人生の締めくくりとしての自己決定、あるいは家族への配慮といった理由から尊厳死を選択します。これらの目的は、本人が死を認識できなくても、客観的には達成され、生前の意思が尊重されたことになります。
問題は、本人が死を認識できないことにあり、尊厳死の制度的導入は本人が尊厳死を認識できるという立証がなされなければ倫理的問題が一切解決されないことにあります。人権は本人のためにあり、本人が望む結果が得られない可能性の高い制度の導入は、尊厳死の主観的認識の科学的立証がなされるまで控えることが科学的知見、自由主義として妥当であると考えます。
「人は主観的に死ねるのか?」という問いは、我々の「死」に対する根源的な理解、そして「意識」の未解明な部分を深くえぐり出します。夏のホラーとして語られていましたが、現代科学の知見を重ねると、それは哲学的な恐怖へと形を変えるのかもしれません。
国際関係論ではこういうときの分析ツールとして3つの切り口が使われる。
コンストラクティビズム:価値観が同じだと戦争しにくい
リアリズム的には米・イスラエルとイランの武力差は大きいので武力では戦争を止められない。
リベラリズム的には米国の経済制裁でイランとは経済取引がほぼない。
ちなみに「リベラリズム」というと人権主義的・左翼的なイメージが持たれがちだが、国際関係論でいうリベラリズムとは共産主義の対義語としての自由主義、つまり資本主義とか金儲け主義のこと。
今回特筆すべきはコンストラクティビズムだね。
コンストラクティビズム(構成主義などと和訳されるが、あまり良い訳語ではない)とは、スローガン的には「民主主義国同士が戦争したことはない」などという主張に代表される見解。オバマの「価値観外交」なんかのベースもこれ。
ただし、米国の研究者がいう「民主主義国」という言葉の意味は「親米国」という意味でしかない。
たとえ国内で平等な普通選挙をしていても反米国家は非民主主義国だし、アパルトヘイト国家と言われるような人種民族によって政治的権利が異なる国も親米国家なら民主主義国とされる。
コンストラクティビズムにおいては、ある国が正しいか否かは「価値観を共有」してるかどうかで決まり、人権とか道徳は問われない。(リアリズムやリベラリズムで人権や道徳が問われないのと同じ)
なので、「民主主義」諸国は、人権主義者からはアパルトヘイト国家と呼ばれるイスラエルも同じ「民主主義」陣営なので、何があろうと擁護する。
「主要な先進国」とはつまり「西側」「民主主義」国家の中の比較的大きい国のことを言うので、彼らがイスラエルを何があろうと擁護するのはコンストラクティビズム的にも説明がつく。
共同体に奉仕するという「責任」などというものは、軽くしよう、無くそう、としてきたのが
俺もお前もまた、その恩恵に浴している。
なにせ、兵役をやっていない。好きな仕事を自由に選択することができる。ニートであっても公的に殺されることがない。インターネットで共同体の悪口を言っても赦される。宗教を自由に選択できる。歴史とかいう俺たちには絶対必要ない知識を趣味で学んでもいい。
なぜ「出産してもしなくてもいい」という自由だけが消えず責任が伴ってしまうのか?
自由を教示している分際のお前や俺が、共同体への責任にフォーカスを求めることに、妥当性はあるのか?
そういう問題がある。
なので、まあ無理なのよ。
個人自由主義は確かに少子化の原因の一端かもしれんが、それを消すことはできない。
正当性がないし。俺たちは自由の為に戦争だの内戦だのしているんだぞ。暴力革命になったらどうする。
自由を維持したまま、必要分の責任をちゃんと預けられる存在が出てくるまで、
人工子宮のことだが。
シェアリングエコノミーの真髄は、自由主義経済下にあっても、誰も置いてけぼりにされず、誰も貧乏くじを引かされることがなく、みんなで最新のイケてるものに乗っかってアップデートしていけるところ。
シェアリングエコノミー視点からみると、「所有」というのはギャンブルで、ポジションを生じさせる、不均衡と格差を生む原因であり、消費主義の罠の入口。
モノをプライベートにする必要性から「所有」が許容されうるもっとも高いものはスマホ程度までであるべきで、それ以上のモノならそれを共有できるように社会や経済自体が変わるべき。
シェアリングエコノミー時代の思想では、多様性は許容されるんだけど、単純に無条件の肯定をするわけじゃない。
既に存在している多様な選択肢については極力許容されるべきだけど、これから生まれるかもしれない多様さについては、そこまでポジティブに考えない。
だって多様すぎる選択肢は不和、対立、争いのもとだってことを昭和平成時代に起きたあらゆる事例から学んできたから。
できることなら一番すぐれた一番イケてるものにみんなで乗っかって、そこの会社がうまくやっていけるようにみんなで支えたほうがいい。
トップのプロダクト/サービスに対してマイノリティが抱える不安や不満を全部フィードバックさせて、偏見を可能な限り払拭するスーパー企業になってもらいたい。
これまでの人類だと、そうやって期待を一身に受けた存在が堕落し腐敗し大失敗をすることが多かったかも知れないけど。
ビッグデータやディープラーニングのようなテクノロジーを最大限に活用できるようになったこの時代なら、より強力に軌道修正していけるはず。
1.「法の下の平等」の誤解とその前提
「法の下」である限り法の力は強くなければ「個人の権利、自由、統治への同意、政治的平等、私有財産の権利」は当然守られないよね?
問題点:
「法の力が強くなければ守られない」と断言していますが、リベラルな思想では「法の力」は無制限な強さではなく、正当なプロセス・制限下の力であることが重要です。
アナーキズムというのはそもそも既存の権力や体制そのもの、「法」自体を疑問視するものなので…
問題点:
「アナーキズム=法そのものを疑問視」というのは一部正しいですが、すべてのアナーキズムが「法」や「秩序」そのものを否定するわけではないことに注意が必要です。
例えば:
アナルコ・サンディカリズムやアナルコ・コミュニズムでは、共同体的・合意形成的な「法」やルールは肯定される。
「国家権力による法の強制」を否定しているのであり、すべてのルールを否定しているのではない。
結構相容れてないんだよね
問題点:
リベラルというのは
Liberalismis a political and moral philosophy basedon the rights of the individual, liberty, consent of the governed, political equality, the right to private property, and equality before the law.
リベラリズム(自由主義)は、個人の権利、自由、統治への同意、政治的平等、私有財産の権利、そして法の下の平等を基盤とする政治的・道徳的な哲学です。
なんだよね
「法の下」である限り法の力は強くなければ「個人の権利、自由、統治への同意、政治的平等、私有財産の権利」は当然守られないよね?
ちなにみにChatGPTは
いいえ、リベラル(自由主義者)と無政府主義者(アナキスト)は必ずしも対極ではありません。両者には共通点もありますが、立脚点やゴールに大きな違いがあります。
国家や権威による不当な介入に反対し、個人の自由を重視するという点で一致します。
両者とも、国家や宗教、企業などの権威的な構造には慎重で、批判的です。
つまり、リベラルは現実的な範囲で自由を追求する改革派であり、無政府主義者はよりラディカルに自由と平等を求め、国家や権威そのものを否定する急進派といえます。
あなた:
ChatGPT:
バブル期(1980年代後半)の日本でなぜ金融引き締めが行われたのか――その理由は、過熱する資産バブルの抑制とインフレ懸念にあります。以下、背景と目的を分かりやすく説明します。
1980年代後半、日本は歴史的な好景気にありました。以下のような現象が起きていました:
株価:日経平均が1989年末には約39,000円に到達(1985年頃の約2倍以上)。
地価:東京の地価が急騰。「山手線の内側でアメリカ全土が買える」と揶揄された。
融資:土地を担保にすれば簡単に巨額の融資が受けられ、資金が株や不動産市場に流れ込む。
この背景には、1985年のプラザ合意を受けて進んだ円高→景気後退→それを下支えするための金融緩和(低金利政策)がありました。
■ なぜ金融引き締めに転じたのか?
銀行も無理な融資をどんどん行い、「土地神話」に基づいた投機が加速。
バブル崩壊による後の損害が懸念されたため、「今のうちに冷やそう」という判断。
消費者物価はそれほど上昇していなかったが、資産価格インフレ(バブル的インフレ)は深刻。
このままでは社会全体が不健全な投機に傾き、崩壊リスクが高まると判断された。
日本銀行は1989年5月から1990年8月までに、公定歩合を2.5%→6.0%へと急激に引き上げ。
融資規制:「総量規制」と呼ばれる、銀行による不動産向け融資の抑制も実施。
地価:数年かけて下落。担保価値の崩壊により不良債権問題が表面化。
経済:企業や銀行がバランスシート調整(借金返済・資産売却)を迫られ、長期的なデフレ経済に突入。
■まとめ
日本銀行がバブル期に金融引き締めを行ったのは、投機的な資産価格の高騰を抑え、経済の健全性を守るためでした。しかし、その対応が遅れ、かつ急激だったことで、バブル崩壊を加速させ、長期不況の引き金にもなったという評価がなされています。
興味があれば「なぜもっと早く・緩やかに引き締めなかったのか?」という政治との関係や、日銀内部の議論についても解説できます。
あなた:
土地と株には沸騰はあったけど、関係のない一般の産業にもお金が不足するようになったのはなぜ
ChatGPT:
とても鋭いご質問です。
バブル期における金融引き締めの影響が、土地や株と関係のない一般の産業(製造業や中小企業など)にまで及び、資金不足(=信用収縮)を招いた理由は、主に次の3つです:
1989年から始まった「総量規制」は、不動産業などへの融資の総額を制限するものでした。しかし、実際には:
リスクを避けるため、「関係ない業種」にも融資を渋るようになった。
結果として、資金需要のある健全な企業や中小企業にまで貸し渋りが発生しました。
銀行は「貸しすぎている」と判断し、企業に返済の前倒しや追加担保を要求。
バブル崩壊で、銀行は不良債権(返ってこない融資)を大量に抱えることに。
そのため、「自己資本比率の維持(BIS規制)」を守るため、融資をどんどん縮小。
→ この結果、すべての業界で資金供給が細るという現象が起きました。
バブルが崩壊しても、日銀はしばらく高金利を維持していた(1991年頃まで)。
政府も、当初は「自己責任」や「市場の調整力」に期待して介入をためらった。
結果として、企業の倒産が続出し、景気は底なし沼に突入しました。
■まとめ
金融引き締めと総量規制の副作用で、銀行が貸出を全体的に抑制したから。
担保価値の下落で、企業の資金調達能力が実質的に低下したから。
つまり、「バブルのツケを払わされ、被害が経済全体に波及した」というわけです。
さらに知りたいテーマ(例:日銀の判断ミスや、BIS規制、当時の政治の対応)などあれば、深掘りできます。
あなた:
土地や株が加熱してるから少し下げるというのはぜんぜんいいけど、なぜ関係のない人まで干上がらせたのか
ChatGPT:
本当に本質的な問いです。
そしてその疑問は、当時を生きた中小企業経営者や労働者たちの「実感」と完全に一致しています。
ではなぜ、「土地や株の加熱だけを冷ますつもりだったのに、関係のない人まで干上がった」のか?
これは単なる技術的ミスではなく、政策判断の誤りと構造的な金融システムの限界が重なった結果でした。
✅ なぜ“そこだけ”を冷ませなかったのか?
日銀がコントロールできるのは金利やマネーの量(通貨供給量) という「経済全体にかかるレバー」。
しかし、金利を上げたり貸出を制限すれば、株や不動産以外の分野にも等しく冷水を浴びせる。
つまり「熱いところだけ狙って冷やすことが構造的にできなかった」。
🎯=**「ピンポイントで撃ちたいのに、散弾銃しか持っていなかった」**という状態。
② 総量規制が“雑”だった
バブル対策として導入された「総量規制」は、不動産業向け融資の総額に制限を設けた制度。
ところが、不動産と関係のある業種(建設、流通、サービス業など)も巻き添えに。
銀行もリスクを嫌い、**「関係ありそうな会社全部アウト」**という判断で貸出を抑制。
地価の下落で担保割れが起きると、銀行は貸したくても貸せなくなる(BIS規制=自己資本比率の縛り)。
同時に、「不動産に融資した銀行自体」が傷んで、健全な企業にも融資を出す体力がなくなった。
日本の金融は間接金融(銀行依存型)なので、銀行が縮むと企業も一緒に干上がる。
💡つまり、「バブルの熱を冷ます」はずが、「金融システムの血流自体を止めてしまった」。
日銀は「土地バブルが悪い」という正義感が強すぎて、副作用に無頓着だった。
結果として、干上がる企業や家庭が続出しても、回復支援がまったく間に合わなかった。
🧠 なぜそんなことになったのか?(根本)
「資産インフレを冷ませば景気全体もソフトランディングできる」と甘く見ていた。
中小企業や地方の声が中央銀行に届いておらず、東京中心の視点で政策判断がなされていた。
日銀や大蔵省(当時)に、経済の現場に対する感受性が欠けていた。
🔚まとめ:なぜ関係ない人まで干上がったのか?
「熱い部分だけ冷ましたかったのに、金融政策の構造上、経済全体を冷やしてしまった。
さらに、対応のミスや銀行の自己保身が重なって、干上がった人たちへの水すら止まってしまった。」
もしももっと段階的に、現場の実態を見ながら慎重に調整していれば、バブル崩壊も「軟着陸」できたかもしれません。
あなたの感じている「そこまでやる必要あった?」という疑問は、今でも多くの経済学者・歴史家が共有している、正当な問いです。
あなた:
ChatGPT:
非常に核心を突く質問です。
なぜ、バブル崩壊で不振に陥った企業(=そこに勤めるサラリーマン)を国有化しなかったのか?
これは、単なる経済政策の話を超えて、日本の政治的哲学・制度の設計思想に関わる深いテーマです。以下、歴史的・制度的・思想的な観点から説明します。
国が企業を直接「国有化」して救済するという発想が、日本では非常に例外的・否定的に扱われていたからです。
戦後の日本は「自由主義経済(市場経済)」を基本とし、国家はできるだけ企業経営に直接関与しないという建前。
特に高度成長期以降、「政府はルールだけ作る」「経営は民間に任せる」という方針が徹底。
企業は潰れるときは潰れるべきで、政府は雇用保険や融資など間接的支援に留めるという考えが根強かった。
📝経済への国の関与は「産業政策(行政指導)」の形ではあったが、「国有化」は極めてまれ。
② 「モラルハザード」を恐れた
こうした「道徳的危険(モラルハザード)」を避けるため、自己責任原則が重視された。
→ 「国が助けてくれるなら、経営ミスしても大丈夫」と思われたら、それこそ経済が腐るという発想。
バブル崩壊直後、企業倒産は数万社規模、中小企業は数十万社が苦境。
これらを国有化(買い取って経営を維持)するとなれば、膨大な税金が必要。
当時はまだ「財政健全化」が強く意識されており、大規模な企業救済には政治的な抵抗が強かった。
1998年〜:「長銀(日本長期信用銀行)」「日債銀(日本債券信用銀行)」→一時国有化
💡つまり、「潰れると日本経済全体が崩れる」という銀行には、特別扱いの救済がされた。
→企業(≠銀行)は個別救済せず、金融システムの根幹だけ守るという政策スタンスだった。
「国が企業を持つ=計画経済」的な発想に対して、政治的にも国民感情的にも拒否感が強かった。
特に冷戦期には、「国有化」は共産主義的・非民主的とみなされがちだった。
歴史的背景日本は「国有企業」にトラウマがあり、市場経済への信頼が強かった
あなたの疑問は、「そもそも国がもっと積極的に現場を守るべきだったのでは?」という非常に正当な視点です。
実際、そのような議論は当時も存在し、今でも「国の対応が遅く・冷たすぎた」という批判は根強くあります。
もし希望があれば、「たとえばどんな制度があれば救えたのか?」という代替案的な話もできます。
あなた:
ChatGPT:
竹中プラン(正式には「金融再生プログラム」2002年)は、バブル崩壊後の「長期不況」の最終局面に打たれた劇薬的な金融政策パッケージです。
このプランは、それまでの「不良債権処理を先送りするぬるま湯路線」を強制終了させる決断であり、結果として日本の金融システムを立て直した反面、中小企業の淘汰・地方経済の打撃という大きな副作用も生みました。
当時、小泉政権の経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏が主導。
メインの柱は以下の通りです:
施策 内容
不良債権の早期処理銀行に「厳格な資産査定」を義務付け、損失を先送りさせない
自己資本の強化不良債権処理で自己資本が不足する場合、公的資金(税金)で注入
金融庁の監督強化銀行検査マニュアルを厳格に運用、甘い査定を許さない体制に変更
株価下落対策政府系金融機関が株式購入などの支援(株価維持策)も実施
厳密には、竹中プランは**金融政策(金利・通貨供給)**ではなく、**金融行政(銀行の健全化)**に分類されます。
しかし、経済への影響という意味では、猛烈な引き締め圧力をかけました:
厳格な査定→「貸し倒れリスクのある企業に貸すと、自分の首が飛ぶ」
これは実質的に「貸しはがし」「貸し渋り」という形で実体経済を冷やした
銀行の信用が崩れ、国民が「預金引き出し」に走る可能性も視野に
リフレ派山形浩生(がリフレ派であるかここでは議論しない)は「デフレマインドを吹き消すために消費税増税しろ」と言ってたよ
https://cruel.org/hotwired/hotwired01.html
〜天下のまわりもの高座〜
〜天下のまわりもの高座〜
日本はいま、とってもとっても不景気だ、なんてことはぼくがいまさら言うまでもあるまい。企業倒産、就職氷河期、銀行もばたばたつぶれ、もうお先真っ暗なのに、いつまでたっても出口が見えない。わーん、どうしたらい? もはや矢弾も兵糧もつきた。あの戦争からはや50年、この神国日本もはやこれまでか! かくなるうえは……
「いやいや殿。おそれながらあきらめるのは早いですぞ。聞き入れられるはずもないがゆえこれまでは黙っておりましたが、実はこの風来坊めに、景気回復の奇策がおじゃりまするのじゃ。かの匹楠導師が戯れに編み出したる外道の邪法ではございまして、よもやこれを使う日がくるとは思うておりませんでしたが……」
「ええい、茶坊主どもめが控えおろう、このお国の一大事に身の程をわきまえるがよいぞっ!」
「あいや家老、しばし待たれよ。ほほう、奇策とな。句留愚庵に日和庵とかもうしたか、このたわけどもめが、おもしろいことをぬかしよる。よし、言うてみぃ。ただしふざけた代物であれば、即刻斬って捨てるぞ! してその奇策とは?」
「はあ、それは……」というまえにそもそもお殿様、不景気ってなんだかおわかりでしょうか? 今回はそこからはじめよう。
不景気ってなに? みんなもちろんわかってるつもりでいる。でも聞いてみると、ちゃんと説明できる人はほとんどいない。株価が下がってるとか、失業が増えてるとか、倒産が増えたとか経済成長率が低いとか、すぐそういう話をしたがる。でもそれは、結果として生じる現象でしかない。不景気そのものではないんだ。不景気が何か知らなければ、不景気対策の話もできないだろう。
世の中には、ものを作る人と、それを買う人がいる。つくるほうが供給で、買うほうが需要だ。これはいいね。
さて、その両者がものを売買するのが、市場ってところだ。両者はおたがいに相手の足下と自分の在庫をみつつ、お値段の交渉をする。人気が高いブツは値段があがる。売れないブツは、売れるまで値段が下がる。いい、今の分をもう一回読んで頭に叩き込んでね。売れなければ、売れるまで値段が下がる。そしてブツがはける。それが市場なの。
ところが、何かのきっかけで、これが機能しなくなることがある。たとえば、ブツが売れないときに、売り手が値段を下げようとせずに、いっせいに「もうちょっと様子を見ようか」と思ったら? そのブツはいつまでたってもはけずに売れ残ることになる。
そしてもう一つ。この世では、極端なガキと年寄り以外はみんな働いてる。つまり、みんな働いてるときはつくる人で、働いてないときは買って使う人になる。そしてある人が買えばそれはつくった人の儲けになって、その人はその儲けをもって、こんどは買う人になるわけだ。
さてここで、世の中の人がみんないっせいにちょっと多めに貯金しようと思ったら? 「山一や拓銀が潰れるようじゃ、将来がちょっと不安だな」とか言って、みんな使うのを控えたりするわけだ。ところがみんなが同時にそれをやると、だれもモノを買ってくれなくなるので、売り上げが減る。すると思ったように貯金が増えない。これはまずいと思ってみんなもっと買い物を控える。するとさらに収入が減って・・・こうしてモノがどんどん売れなくなる。
不景気ってのはそういう現象だ。経済全体としての需用がいっせいに下がって、供給がだぶついちゃうことなんだ。そしてそれを市場と価格メカニズムがちゃんと調整してくれない。それが不景気ってことなんだよ。人は失業し(つまり労働力っていうブツが余ってる状態だ)、店には売れない商品がならび、工場は開店休業。オフィスビルは空室まみれで住宅も売れ残り。株も売れずにどんどん値下がり。ね。まさにいまの日本の状態。
すると、不景気はどうすれば回復する? 供給をいくらいじってもだめだよね。みんながお金を使おう、買い物しようと思わなきゃいけない。
じゃあまず、ものの値段を下げたら? でも自由主義経済では、値段を下げろと命令するわけにはいかない。
それ以外の方法は? まず、金利を下げることだ。するとみんな、貯金しても大して利息がつかないし、じゃあ買い物しようという気になって、需要がふえる。ローンとかも気軽に組めるようになるしね。
次に、公共投資ってのがある。政府が、道路をつくろうとか学校をつくろうとか、とにかくでかい事業を借金してまでやらかす。すると工事を請け負った建設屋さんがリッチになって買い物して、はずみがついてみんな買い物するようになる。
減税してもいい。税金が減ったら、その分みんな使うかもしれない。
そしてもう一つ、お金をいっぱい刷るという手がある。そうすると、そのお金がまわりまわって(ここの仕組みは面倒なのでまたいずれ)みんなの懐に入り、みんな太っ腹になっていろいろ買い物をするようになる。
いや、全部やってるんだ。まず金利。これまでも金利はどんどん下げてきている。こないだも、日銀が金利を0.25%下げた。でも、もう金利はゼロに近いんだ。だからもうあとがない。でも効果なし。
減税。これもそこそこやってる。恒久減税だの一時減税だの、流派はあるんだけどさ、でもまあやってる。効果なし。じゃあ公共投資。これもあわてていっぱいやってる。それなのに効果がない。財政赤字ばかりがふくれあがって、「きみたち借金返せるの?」と信用もなくなりだしてる(格付けが下がるってそういうことね)。
そしてお金を刷ることだけど、日銀はお金をいっぱい増やしてるんだ。
つまり手は尽くしてるのに、効果がぜんぜんない。それぞれの手口にはそれぞれシンパがいて、みんな「いやまだ公共投資/減税/資金供給が足りない」と叫ぶんだけど、じゃああとどれだけあれば十分なのか、だれもわかってない。みんな、現状をちゃんと説明できるモデルがなくて困ってるんだ。でも、そう認めるのが恥ずかしいから、わかったような口をきいてるだけなの。
さて、ここで新聞をよく読んでいる人は、首を傾げるだろう。景気対策という話で、構造改革とか不良債権処理とか出てくるじゃん。あれはどこいった?
うん、どっちも必要だしどんどんやってほしいんだけど、でもどっちも景気対策とはあまり関係ないんだ。構造改革ってのは、つくる人がものをつくりやすくしましょうって話でしょ。需要を増やす役にはたたないもの。不良債権処理も、まったく無関係じゃないけど、あまり歯切れのいい理屈じゃない。「風が吹けば桶屋が」式のずいぶんまわりくどい話で、やたらに「かもしれない」が多い議論だったりする。それで景気が回復するかどうか、実はぜんぜん怪しいんだよ。とりあえず他にすることがないので騒いでる、というのが実状に近いんだ。
もううつ手はないんだろうか。なんとか需要が回復する手はないんだろうか。もうあとは神頼みしかないのか……
3打つ手はある! 句留愚庵のとんでもない奇策
ところが1998年5月、何のまえぶれもなく変な論文がインターネット上にあらわれた。いいや日本くん、うつ手はある。金利をもっと下げよう。いまの金利がゼロなら、金利をマイナスにしよう。そして実質的に金利をマイナスにするには、インフレ期待をつくれ! 政府・日銀が、これからインフレを起こすと宣言しろ! そう論じたのがMITのポール・クルーグマン「日本のはまった罠」(原文はココ、邦訳はココ)だった。
インフレ期待があると、なぜ需要が増えるのか? インフレだと、手持ちのお金の価値はどんどん下がる。だからはやくモノに変えたほうが得なんだ。昔のインフレ年率40000%なんていう南米やドイツだと、一日でお金の価値が半分になったりするから、もうみんな金を手にした瞬間にモノを買おうとした。つまり、インフレが長く続くと思ったら、みんなどんどんお金を使うようになる。だったら、インフレが長く続くと思わせようよ。そうやって需要を増やせばいいじゃないか。クルーグマンの議論は、基本的にはそういうことだ。そしてかれは、この方法がよくてそれ以外の方法がなぜダメかを、とってもきちんとしたモデルを使って理論的に説明している。いまの日本の不景気をまがりなりにも説明した、数少ないモデルだ。
さて、かれの議論はどう受け取られただろうか。
みんなひっくり返った。怒る人さえいたくらい。インフレというのはこれまで、とっても悪いものだというのが常識だったからだ。インフレ→物価高→生活圧迫。よってインフレは地獄の使い。それを政府・日銀が旗振って起こせ? ふざけるな! というのがほとんどの人の反応だった。
でも批判は山ほど出てきたけれど、不思議なことにかれの理論そのものに対する反論は一つも出ていない。少なくともぼくは見たことがない。これまで出ている反論はすべて「でも、インフレには副作用もある」と言っているにすぎない。「円安で銀行が困る」とか「インフレは劇薬だ」とかね。でもそういう連中も、かわりの理論は出せていない。「不良債権処理」とか「土地流動化」とか繰り返してるだけ。なぜか?それは、クルーグマンの理論が基本的には正しいからなんだ。理論的な可能性としては、インフレ期待ってのが効くかもってことをだれも否定できないからなんだ。ただ、前例がない。インフレは悪いものだとさんざん叩き込まれてるし、失敗して収拾つかなくなったら何言われるかわからない。まして、そうでなくても付和雷同の好きな日本人。だから政府・日銀がこの政策をためすことは、当分ないだろう、と考えられてる。バカだな、小渕政権なんてどうせ何も失うものはないんだから、ばーんとやっちゃえばいいのにぃ、とぼくは思う。それに、クルーグマンは各種の副作用批判に対して反論を行ってて(原文はココ、邦訳はココ)、これまたかなりの説得力なんだ。
よろしい。インフレ期待ってのがあまりに無茶だと思うんなら、もしだれもやったことがなくて怖いっていうんなら、ぼくに別の案がある。需要を回復できて、みんなが経験済みで、さらにとってもすぐれた副作用もおまけでついてくる妙案だ。耳の穴かっぽじってよくききやがれ。
消費税を7%にあげよう。
さっきぼくの景気対策の説明を読んだ人は、アレ、と思っただろう。景気対策には減税してみんなの手持ちのお金を増やすんじゃないの?
そしてそこで爆笑してるか絶句してるあなた。うん、あなたはわかってる人だ。あなたが考えてるのは、こういう話だろう。1996年には、景気が上向いてきてた。なのに、1997年に消費税が導入されたので消費者が買い控えに走って景気がまた冷え込んだんじゃなかったっけ? だから共産党は、消費税を3%に戻して景気回復、なんて口走る。それなのに、そこで消費税をまたあげたら、さらに景気が悪化するに決まってる!
でもそれはちがうと思う。それは因果関係が逆じゃないだろうか。1996年当時、あなたのまわりで家や車を買おうとしていた人はいなかった? 思い出してよ。みんなもう、9月までに買えば消費税が3%というので必死こいて駆け込みで買ったでしょう。だから消費が上向いたんだ。このケチなぼくですら、3月にコンピュータを(中古だけど)買い換えたもの。だから景気が上向いたんだよ。増税したせいで景気が下がったんじゃない。増税期待のせいで景気があがったんだ。
だったら、それをもう一回やろうよ。いますぐに税金を引き上げるって話じゃない。将来それがあがるという期待をつくるんだ。「2000年元旦に消費税を7%に上げまーす」とアナウンス。するとかけ込み需要がたくさん発生して、景気は盛り上がるだろう。さらにそのままだと、増税した時点で1997年4月みたいに消費が冷えこむので、そうならないように、あげたその日にもう一発増税をアナウンスしておけばいい。来年には10%にするよ、と。
これはある意味で、クルーグマンの議論と似ている。ぼくたち消費者からすれば、インフレも消費税アップも同じこと。いずれにしても、いまの手持ち現金の使いでが減るってわけだ。だから、はやく金を使おうとする。それで需要は上向く。
さて、クルーグマンはインフレ期待を盛り上げろとは言ったけど、じゃあどのくらい盛り上げればいいかはまだ詰めていない。でも、ぼくの案はなにせ前例があるもので、効果が試算できるのだ。1996年の日本の実質経済成長は3.6%。このすべてが消費税効果ではないにしても、たぶん2%くらいの押し上げ効果はあったはず。1998年の日本はマイナス成長だよ。GDP成長率が2%アップっていったら御の字だ。
そしてこの案のすばらしいところ。まず、やりやすいってこと。これからインフレにしまーす、といって国民を納得させるのは、こりゃ至難の技だ。それが景気対策だってことを納得させるのは不可能といっていい。しかし消費税アップは経験があるから、やりかたはわかる。そしてそれを国民に納得させるのも簡単だ。やっぱり景気回復には財政再建が必要なんです、と言えばいい。「ごらんなさい。財政出動ばっかして赤字国債だしまくったら、格付けが下がってジャパンプレミアムで、ボロボロでしょう。やっぱ国の財政がしっかりしてなきゃ景気なんか戻りませんや」とキャンペーンを張るんだ。
もう一ついいこと。インフレは、手におえなくなる可能性はある。目標どおりにおさめるのはむずかしいかもしれない。でも、税金は7%と決めたらその率で決まりだ。さらにとってもすばらしい副作用。財政再建は方便にしても、これをやれば税収は確実にアップする。万が一需要が上向かなくても、とりあえず財政赤字は減る。それはそれで悪いことじゃない。なーに、どうせいつか消費税はあげようと思ってたんでしょ、みんな。それを来年やって何が悪い?
さて、このアイデアを友だちに話したところ「でもそれって、1回2回は使えても、3回目あたりからみんなひっかからなくなるでしょう」と言われた。ぼくも一瞬そう思ったんだが……そうか? 「ひっかかる」ってどういう意味? 別にだますわけじゃない。税金をあげるよ、といってあげるだけだ。待てば待つほど税金は高くなる。なんのひっかけも隠し事もない。なんなら「今後10年で消費税を15%まで上げます」と宣言しておけばいい。
そしてこれは、需要を前倒しにすることになる。消費税があがるぞ、とおもって、来年家を買う予定だった人が無理して今年ローンを組むわけね。だから、だんだん後がなくなるような気もするんだが、一方でその一時的にしても上向いた分の需要がどっかでまわってくるから、また新しい需要も出てくるはずだ。1997年だって、住宅需要は1995年並に戻っただけで、それを割り込むようなことはなかったんだよ。
シュミット先生は『合法性と正当性』にて「技術信仰の明証性は、技術において、ついに、絶対的、最終的に中性的な基礎を見出したと信じることができた」とか「ここでならば、あらゆる民族、国民、あらゆる階級、宗派、あらゆる年齢層、性別が、急速に合意することも可能であるように見える。なぜなら、技術的快適さの利益、便利は、万人が同じ自明さをもって享受するのだから」と書いている。
この人が生きていた時代はAI技術なんて考慮すらされていなかったので、ここでいう“技術信仰”における技術ってのは“科学的な体系や、その分野の専門家”などを指しているわけだが、現代でいうならここにAIも含まれることになるだろう。
このあたりの“技術信仰”の是非は他の人も語ってて、シュトラウス先生は『ホッブズの政治学』で
技術の中立性が仮象であることがわかるにつれて、「絶対的かつ究極の中立的基盤」を発見したり、いかなる協調を実現しようとする試みの不合理さも明らかとなる。いかなる代価を払ってでも協調が実現されるべきだとすれば、それは人間生活の意味を放棄するという代償を支払って得られる協調でしかありえない。なぜなら、そうした協調は何が正しいかという問いを断念するときのみ、実現可能だからだ。そして人間がそうした問いを断念するとき、かれは人間であることを断念することになる。
完全なる協調を求めるならば闘争を治めるしかない。そのためには皆が“何が正しいのかという問題”を放棄すればいい。或いは、価値一元論のもと解答先を決めて、皆がそれに従う世界にすればいいかもしれない。その“解答先”こそが“技術”であり、ひいては“AI”ってわけだ。
本質的に技術そのものは中立であり、その解答は客観的で偏りがないとされる。価値一元論のもと解答を求めるならば、AIはこの上ない存在だろう。しかし、シュミット先生は「技術は全ての人に仕えるという、まさにそれ故に中立的ではない」ともいっている。技術そのものが中立的であっても、そうではない人間が紛れ込む時点で中立性は損なわれるからだ。
ちょっと前に、朝日新聞フォトアーカイブをAIでファクトチェックしようとした人が話題になったけど、あれなんて典型例だろう。使う側が「この画像はおかしい」という含意のもとAIに尋ね、その結果を「AIがいっていることだから正しい」という前提のもと解答としている。もちろん、あの件をAI技術の未発達が原因だと論じることは可能だけど、それって人間側の未熟さを棚にあげるってことで「人間であることを断念」してないか。人間性を放棄しといて民主も自由もなかろうに。
人間が何が正しいかを真剣に問うならば、そうした問いのもつ「解きがたき問題構成」に直面して、紛争が、それも生死を賭した紛争が勃発するのである。何が正しいか真剣に問うことによって、政治的なもの(人類の敵味方への集団化)はその正当な根拠を得るのである。
これも『ホッブズの政治学』に書かれてたことだけど、つまり何が正しいか真剣に問わない世界ってのは政治的闘争もないってこと。というより、技術(AI)が絶対的に正しいとするならば、そこに民主的な考えや自由な考えが入り込んで対立する余地がない。あったとして、それは茶番や娯楽でしかない。だから人間は真剣でなくなるけど、争いは減るからまあ平和的ともいえる。
そういえば最近、シロクマ先生はAIに選挙を任せることの是非についても語っていたけど、ブコメで「AIの言ったとおりに投票する自由はあるだろ」といった旨のこと言ってる人がいたな。まあ理論上ではあるけど、「(AI)技術が本質的にもつ中立性」と「自由主義が追い求める中立性」って相性はいいんだよね。
ただ先ほどもいったように技術を誰でも仕える時点で中立性は損なわれている。その点を抜きにしても、技術が人間に服従していて、かつ人間よりは有能でないからこそ成り立つ話でもある。今後AIがより有能になり、むしろ人間側がすすんで服従することがマストの風潮になっていくならば、その先に自由なんてないわけで。奴隷が「その先に自由がないものを選ぶ」ことまで“自由”という括りにするのは欺瞞的だ。
とはいえ、価値一元論における解答者がAIになるような世界が実現した場合、そもそも人間による政治そのものが必要なくなり、選挙もする必要がなくなる(AIの判断が最も正しいのならば、国家レベルで「人間同士が正しさを競う場」なんて必要ない)。なので、いまの選挙のように「人間が政治的に争う場」がまだある現段階では、多少AIが介入したところで民主や自由は残ってるといえなくもない。
AIは現状「人間の労力と、その結果に対する責任を誤魔化すためのツール」の域を出ないからこそ、まだ悠長に語れている話ではある。シュトラウス先生が現代に蘇れば「私たちが語ってた頃よりも技術がヤバいことなってるのに、お前らまだそんな吞気なこと言ってんのか」って思うかもしれんが。