
はてなキーワード:神功皇后とは
のっけから申し訳ないのだが、自分は「古事記」を池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹の日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。
自分が最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社の三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式で翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。
さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代の記述も面白い。ヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后の朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像しやすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史の一次資料に(翻刻・翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。
もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれた子供ヒルコの描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。
面白かったので「日本書紀」も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本の神話は理解できない。中世の神仏習合や近代の国学、陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。
ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉が引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである。
「万葉集」は全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分にフォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたときに出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。
「百人一首」は田辺聖子の解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体で説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝の人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線が楽しい。ちなみに、初めて百人一首に出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分の感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。
ところで、王朝文学は世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。
「新々百人一首」は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一はジョイスの翻訳で知ったのだけれど、文章のリズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。
これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではいい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。
「竹取物語」は、幼いころに聞いた物語の原典を知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本のバージョンだと、五人の貴公子の物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。
「伊勢物語」は短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。
だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。
なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間がいつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。
他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。
「堤中納言物語」は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくその祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいものリスト」である「よしなしごと」とか。どうも物語に統一感がなく、どういう意図で編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。
「土佐日記」は小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供にインパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。
「更級日記」はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分の人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。
そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚、子供の誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである。
それにしても、文学少年や文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないものを書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。
ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ。
こういうのは個人のブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境のブログでやってもあまり読者は集まらない。個人のブログを読んでもらうためには、ある程度自分をコンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質の記事を、独自色を伴って、継続的に生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である。
一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である。有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。
なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメン・モテ男に関する個人的な愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学に関係する箇所のみだ。
恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品を批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情を直視したい一方で、人にネガティブなものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである。
それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。
続く。
200年の三韓征伐のあと、後漢が朝鮮半島に帯方郡を作ったとき、日本には邪馬台国が作られました
ところが職を失った征伐軍のモンゴル系鮮卑らが蜂起して後漢を分裂させ、海を渡って邪馬台国も制圧しました。これが古墳人と呼ばれており当初の古墳は彩色古墳でした
卑弥呼が没すると軍を挙げて近畿を制圧しますが、このあたりが記録が殆ど無い空白の4世紀です
鮮卑は中国で晋や北魏を建て、近畿では朝鮮族を起用して飛鳥京を建てます(蘇我馬子です)
唐の時代になると日本の朝鮮族は平城京を建設しましたが、鮮卑は中国の晋書、日本の記紀などの半偽書を書かせました
記紀では中国元号が始まる紀元前140年ぐらいに日本元号も始めて、古墳時代も天皇がいたことにしました
実際は初代神武から仲哀または15代応神までは、邪馬台国を制圧した鮮卑軍団であり、鉱業技術がありました(木材防腐剤の朱砂を扱うためスサノオと呼ばれます)
卑弥呼(神功皇后、天照大神)を妻にし、死後は新羅人と思われる大神比義を使って応神を祖とする八幡神(宇佐神社)を創始したと見られています
のち、飛鳥奈良の朝鮮族は仏教化することで八幡神の侵攻を防ごうとしましたが、八幡神は壬申の乱のころ近畿に入り込み、法隆寺に火を掛けたりしたので、おそrかう朝鮮族と漢族の古事記及び日本書紀は、邪馬台国戦争は伏せた状態で書かせられたと見られます
巴御前(「一人当千の兵なり」とまで伝えられるつよつよ女武将)
立花誾千代 (立花城城主。薙刀と鉄砲の名手。「女子組」という部隊を率いて敵軍と戦ってたらしい)
天皇家もそうだけど、日本はわりと女に家督を継がせるパターンはあるんだよね
戦国時代まではわりと歴史上活躍してる女はいたし、政治力や財力を発揮してた。
薙刀って武器は遠心力を使って下から薙ぎ払う性格上、非力でも扱いやすいし、小柄なほうが有利だったりする。
いざというときに戦うのは女の勤めでもあったわけよ
日本だけではなくヨーロッパ中世の遺跡からでてきた騎士団の遺骨に女騎士の骨も含まれていたとか言うし、洋の東西を問わずまれに戦闘力高い女っていて、それなりに活躍してたっぽい
20世紀になってからは普通に女性にも徴兵制度が採用されてる国も多いから、女軍人ってくくりだと普通にいるよね。
エリザベス女王だって英国女子国防軍で訓練受けて軍用車両の整備やってたんだし。
むかし、「ツツ ノオ」3神が、神功皇后に新羅征伐を勧めたという話がある
ちょっと意味が分からないのは、貴船神社が海神を祀っているのに、住吉神社も海神を祀っていることだ
思うに、たしかに筒はツツと読むのだが、住吉は「墨江」とも書かれていたらしく、墨といえば文書だ
すると文章を書きしるすとか、一つにまとめるという意味で 綴(ツヅ)るという言葉がある
古代は、字は木簡などに墨で綴られ、木簡は紐で板状に綴られたりもした
だから、住吉神社の3人のツツノオの筒(ツツ) →綴り(ツヅリ) ではないか?
「綴」はどうしてか、三国志にも出るし日本でもツヅルと呼んでいただろうに、古事記には出てこない漢字なのだ
古事記当時には、紙技術があった(技術者を連れてきていた)からだろうか
何をかいわんや
1.神武天皇
2.綏靖天皇
3.安寧天皇
4.懿徳天皇
5.孝昭天皇
6.孝安天皇
7.孝元天皇
8.孝元天皇
実在する可能性のある初めての天皇。大物主神を祭り、疫病を治めた。武埴安彦の乱を鎮圧し、各地に四道将軍を派遣。戸口を調査し課役を課した。
愛妻が兄狭穂彦王の乱に連座し焼死する憂き目に遭った。伊勢神宮を建立した。彼の代に相撲や埴輪が誕生したとされる。
13.成務天皇
国郡県邑を定めた。
14.仲哀天皇
熊襲より先に新羅を討つべしと言う神託を無視したため、病没した
15.応神天皇
神功皇后の三韓征伐中に誕生。彼の治世に大和政権は国力を伸ばし、倭の五王讃と同一視される。八幡神として祭られる。
16.仁徳天皇
民の貧しさを嘆き3年間一切の税を廃した。好色であったため木崎の嫉妬に悩まされた。倭の五王讃と同一視される。
帝位を狙う住吉仲皇子に暗殺されかけるも、端歯別王(後の反正天皇)にこれを殺させ即位。国内情勢調査のため国史を設置した。倭の五王讃と同一視される。
18.反正天皇
身長3mで綺麗な歯並びの美男子であったとされる。倭の五王珍と同一視される。
刑部を定め、死傷の混乱を避けるため盟神探湯を行った。倭の五王斉と同一視される。
允恭天皇の皇子を暗殺して即位。大草香王を殺して妻を娶るが、その息子の眉輪王に殺された。倭の五王興と同一視される。
21.雄略天皇
眉輪王と履中天皇の子を殺して即位。渡来人を重用して王権を強化した。倭の五王武と同一視される。
22.清寧天皇
履中天皇の孫。父を雄略天皇に殺されたため、播磨に逃れたが、清寧天皇に迎えられ即位した。
25.武烈天皇
妊婦の腹を裂く、人を木に登らせて殺す等の暴君であったとされる。
慈悲深い君主であったが、朝鮮での日本の勢力が弱体化し、磐井の乱が起るなどその治世は乱れた。
30.敏達天皇(572~585)
任那復興を目指して新羅と交渉、国内では物部氏と組んで排仏運動を進めた。
初めて仏教を受け入れた天皇。その治世は物部氏と蘇我氏の対立が激しく、天皇の崩御直後に物部氏が滅んだ。
32.崇峻天皇(587~592)
34.舒明天皇(629~641)
35.皇極天皇(642~645)
女帝。在位中に乙巳の変が起きる。弟の孝德天皇に日本初の譲位を行った。
36.孝德天皇(645~654)
37.斉明天皇(655~661)
皇極天皇の重祚。阿倍比羅夫に蝦夷を討たせた。百済救済のため軍を派遣し、自ら九州に赴き現地で死去した。
38.天智天皇(668~671)
40.天武天皇(673~686)
甥の弘文天皇を倒して即位。八色の姓を創始、律令の制定、国史の編纂など律令国家の確立に尽力した。
41.持統天皇(690~697)
女帝。天武天皇の妃。夫の制作を引き継ぎ、飛鳥洗御原令を制定し、藤原京を造営した。
42.文武天皇(697~707)
大宝律令を制定した。
43.元明天皇(707~715)
女帝。平城京に遷都し、風土記・古事記を編纂、和同開珎を鋳造した。
46.孝謙天皇(749~758)
女帝。その治世に奈良の大仏が完成し、鑑真が来日した。藤原仲麻呂を重用したため、橘奈良麻呂の変が起きた。
47.淳仁天皇(758~764)
孝謙上皇が道鏡を寵愛すると、藤原仲麻呂と結託して乱を起こすが敗れ淡路島に流された。
48.称徳天皇(764~770)
孝謙天皇の重祚。在位中は道鏡の専横が激しく、宇佐八幡神託事件が起きた。
50.桓武天皇(781~806)
平安京に遷都。空海・最澄を登用した。勘解由使の設置、兵役の廃止など農民の負担軽減に努めたが、蝦夷討伐には財力を惜しまなかった。
まず、https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/seikatsu-eisei15/ を確認。
実際に使用するならだけど。
で葺石な、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%BA%E7%9F%B3
復元された葺石で覆われた五色塚古墳(神戸市)これと同じ方法ではいかんのか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3#%E8%91%BA%E7%9F%B3
石材は、上段・中段(推計714,800個・2,278トン)では主に斑糲岩(一部に花崗岩等)で、地質学的には明石海峡対岸の淡路島北東岸産と推定される[3]。下段では主にチャート・珪石で、古墳付近の海岸・河川産と推定される[3]。『日本書紀』神功皇后紀の記事(後述)では、淡路島の石を運んで赤石(=明石)に陵を築いたとする伝承が記されており、上の事実はその伝承を裏付けるものとして注目される[3]。
近年の復元整備に際しては、前方部の葺石は出土した石を利用し、後円部の葺石は新たに入れた石を利用することで再現されている。
アマゾンで「玉石」買ったらいいんじゃね?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A4%BC%E6%9C%8D
律令制の名前の復活みたいなこともやったひとたちがすんなり洋装をうけいれたとも思えない
にしても、なんかしら軋轢みたいなものはあっただろう、と思いwikipediaる
1.新政府は公家出身と武家出身とまちまちでそれぞれに恰好が違った
さらに指揮すべき軍隊のなかには、洋式化された洋装のものもあった
3.こんな内勅が出た
このような混乱を収束するために、明治4年9月4日(1871年10月17日)、「服制改革内勅」[注 1]が出された。この内勅は従来の服装に拘る華族に対するもので、衣冠などの服装は軟弱であり、神武天皇や神功皇后の頃の姿に戻るべきとしている。この「神武・神功の頃の姿」とは「筒袖・細袴」を意味しており、洋服もまた「筒袖・細袴」であり、洋服は日本人本来の姿と相通ずるものであると示唆している。そして、“神武創業”の精神に立ち返って新しい服制を創造しようと呼びかけている
すごいな!
講演会:韓国併合100年 高橋・東大大学院教授、富山で /富山
◇「謝罪と補償」最初の一歩に
◇「南北分断、無関係でない」
韓国併合100年にちなんだ連続講座の一環として、哲学者の高橋哲哉・東大大学院教授の講演会「私たちの『戦後責任』とは?」が富山市で開かれた。
講座は市民グループ「コリア・プロジェクト@富山」が4月から開催し、先月27日の高橋教授が5回目。今回は日韓が真の信頼関係を築く方策を探るのが目的で、約110人が聴講した。
高橋教授はまず、北朝鮮の韓国砲撃事件について「朝鮮半島の南北分断は日本の植民地支配と無関係ではない」と指摘。砲撃後に朝鮮学校の授業料無償化適用手続きが停止されたことで、「通学する子どもたちへの差別を助長する」と政府を批判した。
更に、石川啄木が併合を憂いて詠んだ短歌と、逆に併合を喜ぶ小学生の作文などを紹介。「啄木は例外的で、ほとんどの日本人は小学生から福沢諭吉まで併合を歓迎していた」と述べた。その根底には当時の小学校で教えられた神功皇后の三韓征伐など、朝鮮支配を正当化する神話的な教育があったことなどを挙げた。
日本の朝鮮半島支配を巡っては、菅直人首相が今夏、反省とおわびを表明した。だが従軍慰安婦や強制連行問題など戦後補償に関しては、ほとんどの裁判で原告側が敗訴するなど解決していない。
高橋教授は、日本が何をしてきたのかを若い世代に伝え、みんなで責任を考える必要性をアピール。植民地支配を反省する世界的な流れを紹介し、「日本の(謝罪と補償という)最初の一歩をグローバルスタンダードにしよう」と呼びかけた。
◇
連続講座の最終回は、来月22日午後1時半、富山市湊入船町の県民共生センターサンフォルテ303で。「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳(は)せ、心に刻む会」の谷川透さんが「戦後補償 その全体像と解決への道」と題して話す。参加費1000円。詳細は、同会の堀江さん(090・5175・3756)。【青山郁子】
まだこんなのが生き残ってるってのが凄いよな。
先進国が途上国から移民を受け入れることで維持していくようなら、その先進国は最終的に移民を供給しつづけた国あるいは民族のものになっていくでしょ?
歴史上実際にあった話をすると、大化の改新(というのが教科書で言われてるようなものかどうかも議論があるがさておく)のころから奈良時代にかけて、朝鮮半島ではそれまで2~3世紀単位で続いていた三国鼎立+加羅(任那)の小国家群というパワーバランスが一気に崩壊して、紆余曲折あって新羅による半島統一に向かっていった。そうすると百済、高句麗あたりの支配層ってのは難民化するわけで、そういう理由で半島の住民(今の朝鮮民族とは民族的に連続しない可能性もあるらしいがさておく)が日本に大量に流れ込んできたわけよ。『自称・神功皇后以来朝鮮半島三国+任那の主権者』であるところの日本にとっては、『日本に帰順するから居させてくれ』といわれれば断れもしない。
百済や高句麗の王族・貴族は日本の貴族社会に受け入れられ、それより下の人々は技術的な意味で重宝され、少なくとも平安初期くらいまでは百済・高句麗の遺民としての意識・集団性を保ちながら暮らしてたらしい。高麗神社とかその名残な。しまいにはそういった朝鮮系の人々の娘さんの腹から天皇が生まれるに至った(桓武天皇な)。
しかしそれで日本が朝鮮化したか? というと、ご覧のとおりである。どっちかっていうと当時の唐文化のほうがよほど影響が大きい(漢字の音とか漢詩とか、奈良時代の建造物群とか)。
古すぎるよ! というなら宋末から明初にかけて漢民族が、って例も挙げられるが結論おんなじだし上に挙げた例より規模が小さいので。