
はてなキーワード:知覚とは
先日、『脳が冴える15の習慣―記憶・集中・思考力を高める』という本を読んだ。
「最近どうも頭が良く回っていないぞ」、というような感じがしている人は、脳トレや指回し体操なんかもいいけど、日々の生活の中に脳を活性化する方法を取り入れて習慣化すると良いようだ。
勉強においても、仕事においても、向上心の高い人にとって「脳がちゃんと回ってる状態を保つ」というのはとても大切なことだと思う。だからこれは生活習慣を見直してでも取り組むべき課題だと思う。
内容を簡単に書き出すと、次のような感じだ。
● 生活の原点をつくる―脳を活性化させる朝の過ごし方。足・手・口をよく動かそう。:散歩など軽い運動/部屋の片付け/料理/ガーデニング/挨拶+一言/音読10分程度。
●集中力を高める―生活のどこかに「試験を受けている状態」を持とう。:仕事の区切り毎に時間制限を設ける。
●睡眠の意義―夜は情報を蓄える時間。睡眠中の「整理力」を利用しよう。:夜の勉強は中途半端で止め、起きてから整理すると効果的。
● 脳の持続力を高める―家事こそ「脳トレ」。雑用を積極的にこなそう。:雑用は前頭葉の持久力を高めてくれる。
● 問題解決能力を高める―自分を動かす「ルール」と「行動予定表」をつくろう。書類整理のルール、予定表などで脳が一度に扱う量を整理する。
● 思考の整理―忙しいときほど「机の片付け」を優先させよう。:物の整理は思考の整理に通じている。
● 注意力を高める―意識して目をよく動かそう。耳から情報を取ろう。:目で立体的な情報を捉えたり、耳だけで情報を吸収すると脳が活性化される。
●記憶力を高める―「報告書」「まとめ」「ブログ」を積極的に書こう。:入力→情報処理→出力。
● 話す力を高める―メモや写真などを手がかりにして、長い話を組み立てよう。:質問によって話しは長くさせることが出来る。
● 表現を豊かにする―「たとえ話」を混ぜながら、相手の身になって話そう。:ありそうな質問を考えれば、話しを膨らませることが出来る。
● 脳を健康に保つ食事―脳のためにも、適度な運動と「腹八分目」を心がけよう。:食事制限以前にまずは動くこと。そして消費する以上に摂取しないこと。
● 脳の健康診断―定期的に画像検査を受け、脳の状態をチェックしよう。:MRやPET検査を受ける。
● 脳の自己管理―「失敗ノート」を書こう。自分の批判者を大切にしよう。:小さな失敗、人から受けた注意を書き留める。
●創造力を高める―ひらめきは「余計なこと」の中にある。活動をマルチにしよう。:アイディアを生み出すポイントは、誰のためになるのかを考えること、アイディアを組み合わせること、思い付きを書き出しながら考えること。
● 意欲を高める―人を好意的に評価しよう。時にはダメな自分を見せよう。:褒め上手な人は観察力が優れている。
番外編:高次脳機能ドックの検査―最低限の脳機能を衰えさせていないか確認しよう。
これだけでも、かなりのヒントを得られると思う。
さて、そんなおり、
海外のサイトを眺めていたら、「脳を活性化する47の方法 (47 Ways to Fine Tune Your Brain)」というのを見つけてしまった。
上記の「脳が冴える15の習慣」とかぶる部分も多々あるのだけど、それはどちらも脳の働きをしっかりと捉えている証拠ともいえるだろうし、同じ内容でも別の角度から見てみるとあらたな気付きがあるかもしれない。
いっぺんにやろうとせずに、
ひとつずつ、生活に取り入れられるところからやってみると良さそうっすね。
脳を活性化する47の方法
●一度にいろんな事をやろうとしない。無理だから。
脳は一度にひとつの事にしかフォーカス出来ない。これは科学的にも実証された事実。単調な仕事は別として、集中力や、論理的思考、意思決定を要求するようなことに関しては、ひとつに集中するべきだ。
●身体だけじゃなく、脳エクササイズが必要。
多くの人は、学生じゃなくなった瞬間に学ぶことをやめてしまう。外国語でも、新しいスキルでも、楽器でも、何でもいいから新しいものを学ぶことで脳は最適な状態を保てる。
●世界は謎だらけだ。
周りを良く見渡して、疑問を見つける。見たり、聞いたりするもの全てをそのまま受け入れないで、一度疑ってみるだけでも脳のエクササイズになる。それには、可能な限り自由な好奇心を持つことだ。
日常の論理的、数学的な問題に対応することで左脳が働く。想像力を自由にすることで、右脳が働く。日々の自分の生活を振り返ってみれば、脳のどっち側を多く使っているかわかるはずだ。そして、使ってない方の脳も使うよう工夫してみる。
睡眠は身体の疲れを回復するだけでなく、脳の疲れも回復する。自分は何時間寝たときが一番すっきりとした朝をむかえられるのか一度はっきりと調べてみると良い。
また、睡眠に悩みがある人は仕事や勉強の効率に必ず影響する。これを期に『「朝がつらい」がなくなる本―ぐっすり眠る、すっきり起きる習慣術。』などで自分の睡眠を改善してみるべきだ。
脳はノイズの少ない寝ている間に、昼間インプットした情報を振り返り、消化する。どうせ入れるならまともな情報を脳に与えよう。
●学習量を増やすなら、歩きながらやる。
動くことで血液の循環がよくなり、脳に酸素が行き渡る。歩きながら学習することで記憶力も増す。
もう一度言うけど。
エクササイズはたぶん脳の許容量を増加させる最も効果的な方法だと思う。避けて通ることは出来ない。
●人付き合いをする。
人付き合いに積極的な人は年をとっても脳がシャープだ。
UCLAの研究チームによると、インターネットで何かを検索しているとき、意思決定や複雑な理論を司る脳の中心部分が刺激を受けていることがわかった。
●ダークチョコを食べる。
ダークチョコを食べるとドーパミンが放出されることがわかっている。ドーパミンは学習や記憶を助ける物質だ。
●歌を覚える。
好きな歌の歌詞を覚えるという作業は、聴覚や記憶力を保つのにとても効果的だ。
●脳を刺激するような映画を視る。
ミステリー系映画のような、頭を自然と使う映画は脳を活性するのに役立つ。
●テレビゲームをする。
テレビゲームは認識力を高め、アルツハイマー防止に役立つことがわかっている。
●利き手じゃないほうの手でいろいろやってみる。
利き手ではない手を使うと脳のさまざまな部分を刺激できるし、とにかく楽しい。
瞑想をしてストレスを緩和することの効果は多くの研究で認められている。ストレスを感じる度に脳細胞は失われてしまうからだ。
●笑う機会を増やす。
声を上げて笑うと免疫機能を刺激してエンドルフィンという物質を刺激する。これは身体にとって良い物質だ。
●ポジティブな思考。
ポジティブな思考は脳を活発に保つ。反対にネガティブな思考は精神だけでなく免疫機能も低下させる。
●感謝することを忘れない。
感謝することで幸福感は劇的に高まりストレスレベルを下げるのに役立つので、脳にも身体にも良い。
●セックス。
セックスは心肺機能を正常に保つのに役立つ。つまり、脳に酸素がまわって脳を健康に保つのに役立つということ。
●良い本を読む。
どんな種類の本であれ、読書は脳を健康に保ち、活性するのに役立つ。老化の防止にもなる。
●アルコールの量を減らす。
適量のアルコールは実は脳に良い。ただし、度を越えると脳細胞の減少につながる。
●仕事をする。
多くの人は年を取ると仕事をやめリタイアする。しかし、パートタイムでもいいので仕事をしていると脳に良い刺激を与えられる。ボランティアワークでも同じ効果が期待でいる。
●最新の出来事、ニュースに注目する。
脳を健康に保つには、新しい情報を与えるのが良い。ストレスを感じない程度に、ニュース番組などで最新の動向を追うこと。
●音楽を聴く。
通常聞くのとは違うジャンルの音楽を聴くというのも、脳を活性化するひとつの良い方法だ。音楽はポジティブな感情を喚起する効果がある。
●踊る。
ダンスで新しい振り付けを学ぶことは認知力、空間認識、社交性、運動能力を向上させる。これは身体にとっても精神にとっても良い影響を及ぼす。
●キャッチボールをする。
キャッチボールは知覚、触覚、そしてこの2つを連携させる能力など、感覚神経の向上に役立つ。
●ちゃんと食べる。
しっかりとした食事は、脳の細胞に良い刺激を与える。
●水をたくさん飲む。
水分補給がしっかりしていると、細胞が適切に働いてくれる。
●お茶を一杯飲む。
冷たいのでも、熱いのでもよいので、お茶を飲む。お茶は脳に刺激を与えてくれる。
●旅行をする。
●議論をする。
友達や家族と友好的に議論を交わすことで、論理的思考や想像力を向上させることが出来る。
●ちょっと長めに寝る。
通常より一時間多めに寝る、ということを時々すると脳が若返る。これは学習速度を速めるのに効果が高い。
●昼寝をする。
10分程度の昼寝でも疲れやが取れたり、脳がすっきりしたりする。
●テレビの音を下げる。
テレビを多く見る人は、音を下げることで、聴力や集中力を高めることが出来る。
毎日同じような行動パターンを持っている人は、時にはそのパターンを破ってみると良い。そうすることで脳の働きを活発に保てる。
●新しい言葉を覚える。
新しいことを学ぶのは、それがどんなことであれ脳を健康に保つのに役立つ。新しい単語(言葉)をひとつ覚えると言うやり方は、もっともシンプルな方法だ。
●古い写真を見る。
これは、記憶を蘇らせ、脳細胞間のつながりを強めるのに最良の方法だ。
●突拍子もないことをする。
バンジージャンプや、スカイダイビング、ロッククライミングなど、普段絶対にしないような経験をすることで脳は活性化する。
●脳を鍛える。
脳トレが現在盛んであるが、これはちゃんとした理由に裏打ちされているからだ。効果がちゃんとあるので、やらない手はない。
●サプリメントを採る。
オメガ3、葉酸、ビタミンB12、コエンザイムQ10、アセチルLカルチニンなどは老化防止に役立つといわれている。
●集中力。
もっともシンプルな集中量を高めるエクササイズは座って、リラックスして、自分の呼吸に意識を集中すること。
●批判的思考を育てる。
批判的思考とは、自分や自分の周りの事柄に疑問をなげかけること、そして自分の見識の根拠を探すこと。
●哲学する。
人生に関する、大きな問いかけをしてみる。多くの場合、明確な解答を得るには至らないだろうが、これは脳にとって大きな刺激となる。
●自己肯定する。
自己肯定は自分の設定したゴールに集中するための最善の方法だ。肯定することでイマジネーションが喚起され、脳の様々な部分が刺激され、記憶力や想像力も高まる。
●思考の壁を破る。
知識の枠のなかで考えている限り、思考の壁を突き破ることは難しそうだ。しかし、『論理性を取り払って考える』ということは可能だ。
●大声で歌う。
歌うことは集中力を高めたり、ストレスを発散するのに役立つ。歌うことで、思考のような自分の内側で完結する活動から開放され、外側の活動(自分の声など)に集中でき、これが幸福感につながる。また、歌うことで記憶力も高まる。
思考するってことが分からない。
なに、思考って。意味分からん。
考えるってなに。頭使うってどういうこと。勉強って、頭使ってるの?
疑問を持つことは思考の一端なんだろうか。感情を抱くこともそうなんだろうか。
感覚も?
脳が全てを処理しているのならば、全て思考の一端ではあるのだろうか。
考えることってなにって考えている現象が、なにをしているのかが分からない。
悩むことは思考なの?
表層に現れない思考があったとして、それを知覚できなかったらその人は思考してないのだろうか。
結局はその人の尺度によるのかな。
全部全部、例えば思考だけじゃなくて、感情とか感覚とか、何から何まで結局はその人の尺度が決めるのかな。
でも、社会的に慄然と存在している亡霊のような価値観があって、それと尺度が合わなくて悩む人が居るんじゃないのかな。
社会ってなんなの? 共有されてる正義って? 普遍的なものってなんなのさ。
亡霊みたいな価値観が私たちを縛っている。括っている。
私という枠が在って、それとはべつに半透明な社会的枠が在って、私から見た誰かという価値観はもしかすると社会的な枠みたいに半透明になっているのかもしれない。
または、私が認識しなかった誰かならば、その姿すら見えずに、社会的な価値観のあやふやな縁取りの一端になっているのかもしれない。
手を伸ばしても、私は社会という半透明な価値観に触れられないし、私という価値観ですら掴めない。
でも、そこにあることだけは明確に分かっていて、窮屈に感じたり、外に出たいと思うこともあるのだけれど、どうにもできなくて。
なにこれ。なんなのさ。
よく分からない思考というものがまとまらない。
でも、と考える。まとめた思考と、まとまらない思考とは別物なんじゃないかって。
気にも留めないような小さな歪かもしれないけれど、絶対に違っている。
二つは合同じゃない。相似じゃない。
名前と記号と対象についての話。対象と名前は、実質的にはイコールじゃないと思うんです。
で、結局何が言いたいんだ。吐き出すことは思考なのか。整理できているのか。表層には現れていないぞ。どうなってるんだ。
おい、コラ頭。もしくは私という自我。認識器官さんよ。答えてはくれませんかね。私は頭が悪いのですよ。分からないことが多すぎるんですよ。
だから、少しくらい答えてくれたっていいじゃないか。ヒントをくれたっていいじゃないか、馬鹿野郎。
『思考するってことが分からない。』
神経系に刺激が走ることなのでは?
でも、だとしてもそれで思考しているということが分からん。というか、思考というものが分からん。あるいは、電気信号と思考とが結びつかない。
そして、結局思考ということが分からん。
辞書を引けという人が居る。でも、それだとちょっと違うからダメなんだ。固定されてしまうから。
なのに調べて、結果なにを疑問に思っていたのかを忘れてしまった。もう嫌だ。納得できたってことなんだろうか。
現存する言葉を超えた思考はできないんだろうか。それは最早妄想と呼ばれてしまうことなのだろうか。
よく分からない。理解ができない。
用語並べるのはいいけど、勉強したことあるの?
ニューラルネットだろうがSVMだろうがなんだろうが(ていうかそこに並列にボルツマンマシンとかどう考えても枯れてる話を持ってくるセンスがよくわからん)、ノード数増やしたところで人間の思考に近いものすら作れないのはほとんど自明だろ。
その「どうやって学習させるか」が大問題なんだっての。
無論ネットワークを構築するだけでは学習できないので外界を知覚するセンサーを与えたりしなければならない。人間と同じようなセンサーを与え、人間と同じような環境で学習させなければ人間と同じような知能にはならない。
簡単に言ってくれちゃってるけど、そのセンサーとやらはどうやって実現するわけ?
違うよ。違うんだって。死ぬのが怖いってのはもっと盲目的な衝動。存在しなくなることへの恐怖。
生きてきたことの積み重ねとか、生きていることに意味を感じているかとか、そもそも生きていることを肯定しているかとか、全然関係ない。
生きていることにおれが意味を見いだしているか、あるいは残す事物に意味を見ているか、なんてことは、まるで関係ない。
それじゃまるで、生きていることに価値を見いだしているから、それをなくしたくないと思っているみたいじゃないか。
存在しなくなることへの恐怖ってのは、そういうことじゃないんだよ。
そういう意味で死んだときになくなるのは、要するに人物としての私、でしょ。いわば意識され、知覚され、思考される対象としての私。
死ぬのが怖い私がその消滅を恐れている私とは、そういう生きている私ではなく、生きている私を意識している私。
考えている私、見ている私、このかけがえのない私、つまり、意識そのものであるところの私の消滅への、
空から恐ろしい高さで落とされているときに感じるような、恐怖!
とにかく、もう、逃げ出したくなるくらい、怖い。そういう怖さなんで、ものをなくしたくないとか、まだ生の楽しさを味わっていたい、というような
同じことを繰り返す。やり直しではなく、現在を作り出すために。生きる、ということの経験は、同じものとの再会に満ちている。すべてに思い出がまとわりつく。鏡でないものがあるだろうか。彼岸花、水道、ドアの開閉、沓脱ぎ、階段、見るということは似たものを同じものと見なすこと、知覚は感受を名前によってくくる。くくられた以上、感受はかつて出会ったものの異なる再来となる。そうなってはじめて、世界への知識が可能になり、予測と後悔が切り開かれる。それに慣れすぎて、異なるところにしか気がつかない。異なるという意識を可能にする同じであるという知覚には気づけない。
花だと思うから、異なる花だと思うことができる。繰り返し、繰り返す。けれど、同類であることと同じであることは違うのでは? 彼女は彼女の状態のクラスではなく、彼女という個体のはずで、そこにはやはり何か違いがあるはず。たとえ、彼女の細胞が一定の時間ですべて入れ替わるのだとしても。絶対的に分割不可能な単体であるということ、それはきっと不可能な形而上学だが、それなしでは人間的な関係性は成り立たない。わたしがあなたを個体ではなくカテゴリーやクラスだと考えたとき、ひとは現象に出会うことができるのか。であれば花が再来することと、この花が再来することはどのように違うのか。
後悔は理想に通じ、そこから、夢が涌く。存在の再来を回想であると理想主義者は信じている。誰もが予め知っている、あのユートピアを、世界の不完全さを通じて思い出す。トラウマのようなフラッシュバック。思い出す。ぼくらは知っている。あの美しい世界を。あの美しい花を。それがイデアという追想のイデオロギー。逃れられない、繰り返し。まるで、先生にやり直しを命じられているかのよう。追憶への繰り返しは後ろ向きの反復、すなわち、やり直し! 正解はあるし、それはみんなあの夜のまどろみの中で知っている、憶えている。ああ、懐かしい、追憶の、日々よ。
だが、それでは繰り返したことにはならない。(歯車は、繰り返し回転することで、機械を作動させる。それは、仕事をする。だから、回帰は、元の木阿弥ではない)繰り返す。こぼれ落ちたものは失敗だったのか。失敗シークエンスでは、何も起きてはいないのか。起きないのか。何かが起きる。というか、何かは起きる。繰り返しは、どのようにして、同じことではないのか。内容が違う、というのは、結果であって原因ではない。繰り返す。記憶喪失だとしよう。世界は五分前に創造された。わたしが、歌を、それを繰り返しであると信じて歌ったとき、それは繰り返しなのか。本当は世界で初めての行為でも。然り、といおう。それは繰り返しだ。だが、と、そこで、疑問がわく。「誰にとって?、そして何に対しての?」
右と左は、端的に違う。内容的には違うとかではない。同じように、内容が全く同じ繰り返しの1度目と2度目は、端的に違うのであって、こことかそことかが違うのではない。だが、と悪魔はいう。世界の外から観測する悪魔にとっては違う。なぜなら、悪魔は憶えているから。では、繰り返すということ、それは意識の、記憶の属性で、事柄の属性ではない? 奇妙な話だ。歴史は世界の属性か、観測の属性なのか。
いや、もちろん、悪魔などいない、と宣言して片をつけることは可能だ。それが常識的な線でもある。結局、まったく同じ繰り返しなどないのだし、世界に痕跡を残さない行為もない。だから、繰り返しは、必然的に、内容的にも一度目とは異ならざるを得ない、と言い切ることもできる。時間も歴史も世界の側の属性だ、と。
だが、ひとは忘れる。もう、たいていのことを忘れている。
しかし、繰り返さない、ということはどういうことか、と考えてみる。それは、きっと、不可能だ。少なくとも、ひとが意識的に何かをするということは、何かという名前で知っていることを、再来させようと企むことだから、定義上、それは未聞のことではありえない。バンジージャンプをしようと思うということは、わたしがバンジージャンプを飛んだことがなくても、飛んだ人がいることが前提で、それは、繰り返しを意図することのはずだから。(死ぬことですらそうだ、ともいえるし、そうでもない、ともいえる。自殺は、必然的に失敗するから)
だから、意識的にするのでなければ、たしかに、ひとは、繰り返さないことができる、かのようでもある。しかし、今度は、意識的ではない行為は、たいしたことを成し遂げない、という現実が現れる。たいしたことではない以上、たいしたバリエーションはない。そのかぎりで、それは似たようなことの繰り返しだ。けれど、それは、繰り返すという行為とは、わけて考える必要がある繰り返しだろう。それは重力と自然法則の支配権であり、反復というよりも、永遠というべきだ。日常は永遠によって捕らえられている。悪い意味で。
だから繰り返す。そうすると、完全には繰り返せない。それが、繰り返しの成果だ。この認識自体は割と普通だ。だから、考えを始めるのは、ここからだ。繰り返すと、何かが蓄積し、わりと逸脱して、新しいことが生まれる。そうやって、歴史が存在できたし、してるし、進行中。
帰宅途中、当時通勤経路だった渋谷駅を降り、ラーメンでも食おうと思い一蘭へと向かったら、通り過ぎざまに若い女が作り笑顔で俺に話しかけてきた。
ぶっちゃけ何のキャッチセールスだったかは覚えてないが、とにかく普段であれば無視して通り過ぎるような手合いだったはずなのに、なぜかそのときの私はその声に立ち止まり、振り返ってしまった。
すぐさま(俺よりも確実に)若い女は完全パッケージ化された宣伝文句を笑顔をキープしたままべらべらとしゃべり始めた。しかし(お互いにとって)不幸なことに、私はその日は極限に機嫌が悪かった。高校時代に自転車を盗まれた時に匹敵する最悪の状態だったのだ。普段と違う精神状態が、普段と違う反応を自分の体に引き起こしたのだろう。そうでなければあんな女の声など知覚すらしなかったはずだ。
とはいえ、一度振り向いておきながら再び踵を返して一蘭を目指すわけにもいかず、その場で何らかの「区切り」を作らなければならないという考えにそのときの自分の思考は支配されていた。具体的には「そういうの興味ないんで」と一言言い放つだけなのだが。
しかし、やはりそのときの自分はやはり普段とは違っていた。「そういうの興味ないんで」という言葉そのものが思いつかなかったのだ。そして振り返った瞬間「ええい面倒くさい」という考えが急速に膨張を開始し、結局私は振り返った状態のまま、その女の目をじっと見つめるだけの状態で精神と肉体が膠着してしまった。
最初は勢いよく私をカモろうと勇んでいた女だったが、「はい」とか「ええ」といった相槌の言葉すら一言も発さず、微動だにせず、愛想笑いすらしないままじっと目を合わせっぱなしの男を目の前にしたためか、おそらく数百回を繰り返したであろう宣伝文句は次第にか弱くなっていき、ついには線香花火の最後のように消え果て、挙句「・・・すいません」と突如謝罪を始める始末。
私は彼女が謝罪する理由に理由もなく興味を抱き、顔の向きを維持したまま胴体をおよそ九十度回転させ彼女に向けたところ、その瞬間彼女は軽快なスキップを逆回しにしたかのように数十センチほど後方へと飛びのき、おびえた表情で足早に、いや小走りに雑踏の中へと身を隠していった。自分から私へと近づいていったくせに、話を聞いてやったら怖がって逃げていく。そんな彼女の無礼な行為に私の虫の居所はますます悪くなり、その日は珍しく食が進み、帰宅後に缶ビールを一本多く飲み干して布団にもぐりこんだ。
大変不謹慎かつ極端な例になるが、一部の情報伝達手段が閉ざされているという点において、
視覚障害者あるいは聴覚障害者とと同様に一種の障害を持つということに等しい。
携帯電話の場合は障害を意識的に選択したか否かという問題が出てくる。
金銭的な理由であれば選択の余地が無かったということになるだろう。
単なる特権性を得たいがために持たないというのであれば、それは自身の選択から出た問題である。
しかし、知覚器官が常に外部に開かれた状態に耐えがたい苦痛を感じるという理由で、
意識的ではあるがやむを得ず持たないことを選択する人間がいる可能性もある。
知覚が常に外部に開かれるとは情報が不定期かつ断続的に与えられる状況に置かれるということだ。
そしてコミュニケイションを常時とり続けていないと不安を感じるようになる可能性が出てくる。
そういう人間もいる。
携帯電話の電源を一定時間切っておけばいいだけではないかという反論も聞こえてきそうだが、
携帯電話を持っている以上常に連絡を取れて当たり前という風潮が特に強い昨今、
そういった中途半端が余計にディスコミュニケイションを引き起こす可能性もあるだろう。
ならばいっそ持たない方がいい、そう考える人間がでてもおかしくはない。
「みんな持つのが常識だみたいな先入観に毒されてる」という、相応に思想があってのことかもしれない信念を一蹴してしまうような発言は、
他者と真に理解することを拒み、表層でしかコミュニケイションを取れない自身の浅さを露呈させることになってはいないだろうか。
携帯電話を持たない人間と接することは身体障害者と違って通常知覚の範囲外においての
コミュニケイション手段があるかないかというだけの話なのだから、
彼らを親しい友人と考えるなら一定の理解を示し、その程度の不便さを引き受けるだけの寛容さを持ってもいいのではないだろうか。
横文字難しいです。
内包ってのに違和感を感じた。
確かにニュアンスが違ってくるかも。より正確に現わすのならば、『内に取り込むことによって認識を深める』とした方がよかったかもしれない。
人は、大きな世界を、小さな世界にカテゴリー(いわば窓)を作る(別記する)ことでしか認識できないのだと思う。カテゴライズこそが人間の認識方法なのだと。
そうかもしれないね。でも、窓に背を向けていたって、ガタガタと振動する硝子戸の音に気が付くことがあるかもしれないのではないかな。
個人的にカテゴライズを行うことは、理解(納得)することだと思っているのですよ。「理解」と「認識」という言葉におけるちょっとした機微の問題。
……うーん、でも重大なことに気が付いてしまったぞ。私は言葉の選択を間違えていたかもしれない。
「認識≒理解」が普通だものね。ところによって「認識≒知覚」として表記してしまっていたのでは、要らない混乱を生じさせてしまうのも当然か。
しまったなあ。下手こいた。
だれしも全を知りたいという欲求はあるが、しかし、同時に本能が全を直接認識できないと知っているのだろう。
だから、せめてその窓を残そうとするのではないか。それが記すことであり写すことなのだろう。
全を知ることって、一を失うことでもあるからね。自我は一に属する精神だと思うから、本能が消失を恐れているのかもしれない。
でも、哀れというか、もどかしいものだよね。不可能だと肌では感じているのに、追い求めずにはいられない。
文字を使って記したり写真を使って写しても、切り取られた全しか残せないのに。
道具を用いて記録することが、かつて人が手にした最上の叡智だった。
お陰で現在の発展と繁栄は成し遂げられたわけだ。
けれども、そのせいで解体することが困難な強固なフレームが組み上がってしまった。全と一、大きな世界と小さな世界とを隔てるぶ厚い壁だ。
そのことがね、私には皮肉のように思えて、少し淋しく感じられるわけなんだ。
どうすることもできないのだけどさ。
http://anond.hatelabo.jp/20090707100038 の続き
弐拾六話では全ての人とあっさり和解でき、すんなり受け入れられた。しかし世の中そんなに甘くないというか、実はそれこそが自己中心的世界と言える。もっとリアルに描いてみよう、というのが26話ではないかと。 何故なら「本質的に解り合うことのできない他者が存在する」ということ、他者を認識するとはそもそもそうしたことである筈だったから。庵野氏の構図で言う幻想世界の内部において、シンジはどうしてもそのことを容認できず、他者を理解できないまま、自分を理解するよう他者に縋り続けた。補完計画が完成し、群体から単体に還元され、全てを包含しレイに抱擁された時点で、彼はやっとそのことに気付いた。 ラストでアスカを殺そうとしたのは、アスカが正に他者であることを、彼が遂に知ってしまったから。でも結局殺せないし、前のようにエヴァの胎内に逃げることもできない。そこは既に第弐拾六話の月面と同様に、後戻りの聞かない場所、補完が導いた現実世界。・・・ なんと、エヴァと融合し全てのヒトを包含した神が、人一人殺せず、孤独に耐えかねて泣いているんです。 私はここに最高のユーモアとカタルシスを感じました。こんなに見事なラストは、これまで観たことも読んだことも恐らく無かったです。(^-^)
宮村優子さんのラジオ発言とか最近目にするようになった彼女の雑誌のコメントを見ると、宮村さんは今回の劇場版をお気に召さなかったのかなとも思います。自分でも「なかなかのモノが出来た、俺の選択って凄いぜ。フフン」と庵野監督が思ってたのに、いざ、脚本を渡したら宮村嬢からの冷たい反応。それにショックを受けてああいったラストにしたのかな(^^;?無責任な憶測ですけど
あのラストシーンは,シンジが選んだこの世界が決して「気持ちのいい世界」ではないことを辛辣に描いていました。しかし同時に,そこには絶望だけでなく,わずかな希望もあることをも示していたと思います。 希望はアスカの手,シンジの涙。 そして,『会いたい』という気持ち。
ラストシーンは絶望的。シンジはほんの少しだけ変わった。もうひとり、ほんの少しだけ変わったひとがいるみたい。でも、その「ほんの少し」への一歩のなんて遠いこと。2人は、まだ変わっていないみたいに見える。だけど、絶望は希望の裏返し。これからどうするか、それは、私たちに委ねられたのかもしれない。
ひとつだけ考えられるのは、シンジが物理世界に戻ろうと決意したのをアスカ も知っていて、そんなシンジとだったら一緒にいても良いかな、って思ったの かも知れない。 でも、砂浜で再び自分の首を絞めてる彼を観て「ああ…やっぱり何も変わって ないんだな…」と思っちゃったとか。
寂しいことを言ってしまえば、アスカにとって、自分のために泣いてくれた人を身近で感じたのは初めての体験だったのかもしれません。初めてで慣れてないから、「気持ち悪い」のかも。
庵野監督は最後までアスカの扱いに困ってしまったようですね。その苦悩がラストシーンにも出てしまったのでしょうか。「おまえがいるから滅茶苦茶になっちゃったんだ~!」ってね。でもその存在を消せない(笑)。
嫌悪も一つのコミュニケーション。心の壁は現実そのもの。 そして、今までと同じ、自我と、人を代表とする非我との戦いがつづく。 何度もそれを確認しながら、幸せにも不幸にもなれるラストだったと思います。
ラストシーンのアスカ。第1話のレイと同じ場所に包帯を巻き、首を絞められながらもシンジの頬をなでる。 これって、つまりアスカの中の“母性”を表してるのかな、と思いました。綾波レイは「母」のメタファーそのものと言っていいでしょう。そして、シンジの側に横たわっているアスカがレイと同じ姿であることは、彼女もやはりシンジを優しく包み込む“母性”を内に秘めていることを意味しているように思えます。その後の、シンジの頬に触れる行為も。 しかし、彼女の最後の言葉は「気持ち悪い」。シンジを拒絶する言葉です。これは“14歳の女の子”として、「私はあんたの母親になる気なんて、今のところ、さらさら無いわよ」と言ってるんじゃないでしょうか。「あんたが何を求めてるのか分かんないけど、受け止めてあげる気なんてないわよ。余裕もないしね」と。まあ、あのシンジ-自分を傷つけるかもしれない他人を殺すこともできないで、ただしゃくりあげている-を受け止めることなど、14歳の少女に過ぎない、もちろん自身それなりに問題を抱えているアスカに、できるわけないでしょう。たとえ“母性”を持っているにしても。むしろ、一方的に求める方が酷です。(さらに、相変わらず求めるだけっていうのも、また問題だ)。 しかし、将来的には彼らがどう成長し、変化するかは分かりません。そういう意味では、もう多くの方が感想に書いてますが、「これから」を感じさせてくれるラストシーンではありました。もう語られることのない物語の続きの中で、彼らは彼らなりに成長していくのでしょう。
「不快感(=気持ち悪い)」というのは、赤ん坊が最初に感じる感覚だということを聞いた記憶があります(←記憶あやふや)。そうでなくとも、「気持ちがよくない」という感覚は、まぁ、「夢」だとか「望んだ世界」ではなく、「現実」を示唆しているのかな、とも深読みしましたが・・・深読みしすぎかな?
シンジとアスカは、それこそお互い誰でもよかったんだと思います。憎む相手も愛する相手も。でも、自分を互いに真正面からぶつけ合った過去が、二人には出来てしまった。互いに、相手に対する憎しみも、相手が欲しいという気持ちも、相手を拒絶する言葉も告げてしまうほど、互いの気持ちを相手にぶつけた。そして、その憎しみも欲求も、おそらく今後の彼ら自身の心を強く拘束していくでしょう。 ラストシーンで、くびを絞め、瞳を動かし、頬をなぜ、涙を流し、気持ち悪いとつぶやいた二人は、それこそ、愛よりも深い、憎しみもかなわない、たとえ離れても、ひととき忘れても、もう互いの心の一部そのものにまで結びついたように見えました。 Onemorefinal: I needyou. もう一つの終局もすべてのおしまいではありません。英語のタイトルは『私はあなたが必要である』でした。 そして、皆に等しく、同じ戦いが、始まり、続きます。 でも生きてさえいれば、幸せになるチャンスはどこにだってあります。だって生きてるんですから。 愛よりも深く。 夏の映画は誰も他人を受けいれられなかった二人が、とにかくも深く結びついて、そこから再び、同じ戦いが始まる、終局であっても、何も解決していない、ラストでした。
シンジの内面に問いかける声も、もはや静かなレイの後ろ姿ではなく、アスカの赤裸々な罵倒へと変化しました。「お願いですから、もう電話してこないで下さい。」「よりを戻すつもりは更々ないの。」「その、やっぱり、友達以上に思えないの。」「ハッキリ云って迷惑なの。」「これ以上付きまとわないで下さい。」これらのセリフは作品の展開からは伺うことができない以上、庵野監督自身の人生から引用してきたものと解釈されます(もちろん脚色を加えているでしょうけれど)。つまり、劇場版におけるアスカは、これまで庵野監督を傷つけてきた「5人の女性」のような「他者」を象徴する役割を与えられるようになったのだというのが僕の理解です。 そうすれば、ラストでシンジがアスカの首を絞めかけたり、アスカがその後で「気持ち悪い」と言ったりする寒々しい展開も、すんなりと納得できるのです。現実の他者は、お互い決して期待通りの反応をしてくれない存在ですから。
オタクの依存を打破するために作ったアニメが、逆にオタクの依存の代表になっ てしまった苦い皮肉。昨日某アニメショップで見かけた会話。 「これ買えば」(とシンジ君が表紙のアニメディアとニュータイプを指さす少女) 「えーいゃぁー」(と汚いものでも見るかのように嫌悪する少女B) 彼女らの心の中にはカヲル君しかいないらしい。作品全体のテーマを見ようとせ ず、自分のお気に入りのパーツを使って幻想のエヴァを作り上げて固執する。虚 構からも逃げ続けている。自分以外のエヴァはいらないのだ。そして、そのこと を指摘されると過剰に反応し激怒する。「ぱふ」の一部読者はひどいものだ。無 論、綾波やアスカの一部ファンにも言える。 そういう意味で、庵野さんが「気持ち悪い」と言わざるを得なかったのは良く分 かる。だから実写を入れてこれでもかこれでもかというぐらいに観客に語りかけ た。でもそれは届かない。最も病んでいる人間、庵野さんが最も一言言いたい人 間は嫌悪する現実をファンタジーに変えて消し去ってしまうのだ。
シンジくんの首締めはちょっと??な気もしましたがアスカのシンジの頬を撫でて「気持ち悪い」は、頬を撫でるシーン拒否、否定の感情からではなかったと思ったので集合体としての生命の海から浮上して「こ」の世界の「ここ」にいる「こ」の自分を認識し他の存在シンジを認識し「気持ち悪い」ことも沢山あるけど「ここ」に自分と他人が存在することを知覚し認識して噛みしめていると感じました。いやぁすっかりアスカが主役でしたね。ここまでアスカの映画になってくれるとは嬉しい誤算でしたってのはアスカ者の偏見でしょうが。 とでも思わなきゃやってらんないよなぁ。
かくして、シンちゃんはアスカちゃんのドレイとなり、一生、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。 <終劇>
自分は性的嫌悪感からくる言葉だと思ってるんですけどネ。 DEATHの新作カットの「ミサトやバカシンジの使ったお 湯なんて~」の頃には、もうシンジ君が自分の事を性的対象 して見てる事に気づいていたのでは?このぐらいのお年頃の と女性ってそういうのたまらなく嫌だと思うのですがどうで しょう?
シンジはアスカを殺そうとするが思い止まる。アスカに優しい言葉を期待する"ファン=シンジ"だが"虚構=アスカ"は"気持ち悪い"と突き放す。そういうことか?ヒゲメガネよ。
それと映画でアスカがシンジを否定したのは(自分の勝手な解釈ですが・・)「シンジがアスカの事を、好きで求めているのではないのを、アスカは気付いていた。なので、コーヒーメーカーに激突させ、最後に’気持ち悪い’とまで言った」好きで求めていない、というのは、恋愛感情のみ、でなく、シンジは弱い自分を何とか持ちこたえさせる拠り所に「強く見えるアスカ」にすがっていたふうに見えたからです。アスカにしてみればそんなおかんのような役、あまり嬉しくない気が・・・。
また、最後の台詞「気持チワルイ・・・」ですが、ラストシーンでのアスカの様子を見てみると、腕と頭部と目に包帯およびガーゼが当てられており、これは第壱話においてストレッチャーに乗せられてシンジ君の前に初登場した綾波レイそっくりの状態で、加えてあの目線から察するに、アスカの中には、彼女自身の魂や人格に加えて、レイの魂が入り込んでいるのだと私は感じました。 いわば、アスカとしてはトラウマを刺激するモノとして忌み嫌っていたレイの魂が自分の内面において(シンジへの想い故に)融合しつつあることについて現在のところ「ケンカカレー」(歳バレ?)の状態にある、ということで「気持チワルイ・・・」という言葉に繋がったのだと私は考えたのですが、みなさんはどう思いますか。
あのラストシーンは実はハッピーエンドである。あの砂浜のシーンは補完直後のシーンではない。実はその前にシンジがアスカを見つけ、傷の手当をし、ミサトの墓を作るという一連のシーンがあったのである。しかしアスカは何も話さない、何も反応しない病室アスカの状態に戻ってしまっていた。(偽りの復活)そんなアスカを不憫におもったシンジは思い余った挙げ句、彼女の首に手をのばす。しかしその時、今まで何も反応しなかったアスカの腕が動き、シンジの頬を撫ぜる。嬉しさのあまり、涙を落とすシンジ。更にアスカは言う。「(あんたバカー、何泣いているのよ)気持ち悪い(わねえ)」そうあのシーンは「クララが歩いた」パターンの感動的なラストシーンなのである。しかし観客の期待を裏切る事ばかりを要求された監督は素直に感動的なシーンを作る事ができずにあのような解りにくい形にしてしまったのである。だが安心したまえ、ビデオ・LD収録時には完全版として失われたカット・台詞が収録され、誰の目にもハッピーエンドである事が解るに違いない。(笑)
シンジ・監督、アスカ・観客に置き換えると、あのラストシーンはまた違った見方が出来ますね。現実から遊離してしまっている観客を不憫に思った監督の真心。アスカが無反応だったら悲惨ですね。それより、もし「気持ちいい」と言われたらどーする(笑)
シンジ・観客、 アスカ・監督ではどうでしょうか? シンジ「わーん。こんなEVAはいらないよぉ~。 謎もあまり解明されてないし~ そこで気絶してないで、もう一回EVA作り直してよ~」 アスカ「(まだやれっての?)気持ち悪い....」
1:呼吸困難になった為の気持ち悪い えー、シンちゃんに首をギュッとね!(爆)された惣流ちゃんですけど意識 の無い状態で首を思いっきり絞められては血のめぐりも悪くなり気分が悪く なったという、低血圧で良く立ち眩みしてる女の子の意見がありました(苦笑)2:あのセリフはみやむーちゃんのアドリブ説 庵野監督に捧げるアドリブ説(黒い説ですわねぇ(苦笑))という人若干名3:怪我のために気分が悪い説 右手の謎の治療跡で判ると思いますが怪我してる場合気分が悪くなるもんです (経験者談)4:2日目説 ・・・・・・(^^;)・・・・・・5:観劇してる人へのメッセージ説 ・・・・・・
「きもちわるい」。 他人の体温が気持ち悪いことって、ないですか? でも、その嫌悪感を、人は「愛情」で中和させる。 けれどそれは「無理をしている」のかもしれない。 本当は、人なんて、生まれてこない方が良かったのかもしれない。 だけれど、生きている。 それでも、生きている。 生きていなければならない。 決して理解できない「他人」の隣で、それでも「一人ではなく」生きている。
エヴァみたいな「黙示録もの」のラストって、和解・融合、善悪何れかによる統一、純粋な荒廃、・・・みたいな一元的な世界の出現で終わるのが相場じゃないですか。これは魅力的だけど、弱点があります。つまり、解り難いんです。 具体的にどんな世界になるのかが想像できない。私達の周りにあるのは、一元的把握が通用しない、それこそ「他者」が存在する世界です。争いの無い平和な世界、とあっさり書くことはできるけれども、そこがどんなところなのか、人或いは人々が何を考えて生きるのか、よく考えると理解できない。 放映版の受け入れ難さって、ラストのそういう典型的ユートピアが、観る側の想像力を麻痺させたせいがあると思うんですよね。 映画版は、そうした典型から脱したところが凄いと思います。シンジとゼーレの意思に従って、一元的な新世界を一度は成就しておきながら、シンジの成長というモチーフを重ねて「その先」を開いてしまった。この点に限れば、黙示録を越えちゃってますよね。そうして出来上がった「他者の居る新世界」には、シンジがその成長の代償として手に入れた、純粋で人間的な憎悪や悩みや悲しみがあり、観る側として非常に素直に感応できる。これがユーモアやカタルシスでなくて何であろうかと。そしてまたそうした世界を、アスカの最後の台詞一つで完成したところがまた見事なんですよね。
インパクトのある、出来るだけ短い、どうとでもとれる演出、ということでああなったんではないでしょうか。鏡のように、見たいものが見える、見たくないものが見える、うがった人にはうがった見方が見えるラストシーンだと感じてます。
最後にアスカが包帯をしている意味は、「アスカ自身が女になった」「シンジにとってアスカが女になった」という二つの意味を同時に持っていると思います。「気持ちわる」という言葉には、リアリティを持たす効果と、触れあいによって「産むことが可能な存在となった」=妊娠のイメージを出す効果、それに、存在が個に分かれていることの実感(喜びも悲しみも)が表現されていたように捉えられました。
最後のシーンについてはアダムとイブというよりアジア系の神話 洪水で生き残った兄妹の話(日本のイザナギ、イザナミの話でもこういう始まりのものもあります)の方を連想しました。 アスカの気持ち悪いのセリフですが考えによっては色々とれるセリフですね。私はシンジと一線を引くセリフと取りました。(ここから他人としてスタートとして2人の関係はどうなるかという・・・)この最後はFANが自分たちで考える宿題だと思えました
最後のアスカも女っぷりがよかった!きっと、あれがアスカのやさしさじゃないのかな?と思った。急にわかったようなアスカになったら余計かなしいもん。とっても、ハッピーエンドだったと思います。映画みたあと結構すがすがしかった。
気持ち悪い,はよかった。絶望とそれでも幻想を構築しなくてはならないという意志が感じられ・・・るか? 絶望だけか? 慰めてもらいたいのか?
立派に完結していたと私は感じましたし、救いもあったと思います。ラストのセリフは、生々しい接触も含めてアスカがシンジを受け入れ始める、という言葉ではないのか、と思うのですが。少なくとも、突き放されて終わったとは感じませんでした。
私、あのシーンは本編に絡まないと思ってます。庵野のファンに対する愚痴だと思ってます。ファンによって傷つき首を絞められた「エヴァ」から、おおよそ倒錯しているファンの一番多いアスカの声で、ファンに対して文句を言ったんだと思います。
創世記によればエデンの園では人も含めてすべての生き物は裸で(つまり自分自身をすべて晒して)いても恥ずかしいとは考えなかった。ところがアダムとエヴァが禁断の知恵の木の実を食べた途端に裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、身体を覆って隠した。このことが神の怒りに触れ、2人はエデンを追放された。・・・ラストシーンの2人はやはり楽園を追われたアダムとエヴァなのですね。自分の殻(ATフィールド?)を壊すことができなかった(あるいは自分の殻に閉じこもって出ることができなかった)シンジとアスカだけは結局補完されることなく、荒廃した世界に取り残された・・。それでもアスカはシンジを拒絶するかもしれない・・と。
この映画を、人間の内面の描写をメインとして考えると、まさしく、私の好きなジャンルに入るんですよね。いっかい、救っておいて、最後にもう一回、落としちゃうっていう。(笑)でも、最後は、あれでよかったと思います。だって、簡単にシンジが、他人を認め、世界も、そんなシンジを喜んで、迎え入れるで終わってたら(テレビの終わり方かな?これは。)、面白さ半減だと思います。そこで、アスカに気持ち悪いといわれて、自分の選んだ世界の厳しさというものを示して、終わった方が、なんか、心に重ーくのこるじゃないですか!(だから、ONEMORE FINAL なんだとおもいます。)
補完中にシンジはアスカと、ものすごい勢いで傷つけあいます。彼は最後には彼女の首に、手をかけるのです。そこまで他人というのは自分にとって厄介なものなんです。理解不能ですからね。 それでも、シンジは「融合」ではなく「他者との並存」を選びました。 「共生」だとか「相互理解」とか美辞麗句に彩られた根拠なんて、これっぽっちも示されないのに。根拠があるのだとしたら、寂しさゆえの「I need you」くらいなものです。単体になってしまったら永遠に孤独ですからね。(この辺、あまり自信無いな。二回目を見たほうがいいかな?) 目の覚めた彼は、隣で寝ているアスカの首を、再び絞めにかかります。そりゃ、あたりまえです。自らの選択とはいえ、自分を苦しめる元凶が、現実に厳然と、そこにいるわけですから。ほっとくと、こっちが殺されるかもしれませんし。「他人がいる」─────本当に深刻です。この問題は。 なぜか生きていたアスカが、そんなシンジの頬に手をやって、彼に「他者のいいところ」をちょっち認識させます。苦しみとともに、ヨロコビもまた確実にあるのです。シンジの手から、力が抜けて、その後のアスカの一言で「終わらない夏の物語」の幕が引けます。
アスカの「キモチワルイ」発言は、相当ショックだったのですが、彼女らしい発言だなとも思います。少なくとも、病院のベッドで息だけしてる状態で生きている彼女より、ずっといいです。 「詩編The End of Evangelion」では、アスカの言葉は、「あんたなんかに殺されてやるもんですか」が入っていますが・・。 現実は、そうそう、都合のいいようにはならないんだという事に通じている気もします。
私が思ったのは、アスカはショックで植物人間状態がある程度つづいており、(目がサカナだった)シンジはいっそ楽にしてあげようとしたと見えたのですが。包帯をきれいに巻いてあるところを見るとシンジが悩むに十分な時間はあったのでしょう。(だからエントリープラグから気が付いたらあの場面、ていう訳ではない。)そしたらもう動かないはずのアスカの手が動いたので、嬉しくて涙が出た。ついでに「気持ち悪い」という正常なアスカがはくセリフが出て、アスカが完全復活したという、無条件ハッピーエンドだと迷いもなく思ったのですが。
あの最後のアスカ首しめられシ-ンですが、そのあとのアスカのセリフが最後の最後に観客を現実に引き戻すオチみたいにかんじました。首しめ、まえふり?みたいな(笑)
TVシリーズを見る限り、アスカはシンジに対して14歳の少女らしい「嫌いだけど好き」という心理を抱いているようです(まぁ25話で助けられなかったことがしばらくもめる原因にはなるでしょうが)。それゆえに、シンジの腑抜けさに我慢がならないのでしょうか。ただ、その心理とは別にエヴァのパイロットとしてのライバル意識も強烈ですから、非常に言動もわかりづらくなるのでしょう。 シンジの方は、ミサトさんもレイもアスカもいいという宙ぶらりん状態ですが、考えてみれば男ならたいていは心理的二股、三股は当たり前です。しかし、この中で本当に可能性があるのはアスカだけなのですから(ミサトは年上過ぎ、レイは・・・実の所は母、ユイですから)、将来的になんとか努力するでしょう。そのために現世に戻ったのですから。 で、最初のコミュニケーションが首締めと「気持ちわるい」。一種ダークな感じもしますが、「他人とのコミュニケーションが最初からうまくいってたまるか」ということであれば、先がどうなるかは・・・
しかし、あのラストは必然とはいえ悲しい物がありましたね。アダムにとってイブとは所詮他人であり、殺意を抱く対象であり、自分を傷つける存在なわけですから。
しかし、やはり最後はきついです。安易な現実礼賛はもっと嫌ですけれどもあそこにはやはり意地の悪さは感ぜずにはいられません。少数派なのかもしれませんが、肯定否定はともかく「私の趣味としては嫌だ」というのだけは間違いないです。こんな人もいるということで、一応、存在を認めていただけるとありがたいです。
やはり、あれは監督からのメッセージと取るべきではないかと。月に斜線が入っているように、もうこの「エヴァ」は終ったんだ、もう人の作品に自分の考えに目くじら立てて攻めるのはやめてくれ、見る側と自分は「他人」なんだ、そこまで立ち入らないでくれ、攻めないでくれ、こっちにしたら「気持ち悪い」んだ、エヴァ=庵野の首を絞めるのはもうやめてくれ・・・そういう事だと私は感じました。いつまでも他人に依存されると気持ち悪いって事だと・・・そういう意味の、監督の「エヴァは終ったんだ!」という宣言ではないだろうか。
私はあのラストシーンは「自分に棘があることも、相手が針を持つことも、全てを承知した上で敢えて一歩前に進む事が出来るようになったシンジ君」に成長した、と言う風に考えています。「気持ち悪う。」の台詞に関しては、あそこから人類の新しい時代が始まる的な雰囲気(オーケストラが聞こえてきそうな、とでも申しましょうか。)の中で、劇の中の世界ではこれは現実なんだ、と言う目的で入れたのではないでしょうか。(日常性を出したと言った方がいいかもしれません。)まあ、いわゆるハリウッド的な大円団では無いよ。ってとこですか。私はいい出来だったと思ってます。
アスカは「気持ち悪い」よりもその前に差し出した手の方が重要だと思います。敗北の象徴である同じ右手だというのがヒントでしょう。
シンジが心象世界とラストシーンでアスカを求めて首を締めるシーンはレイプのメタファーじゃないかという意見がありました。確かにそう解釈するとあのラストも非常に理解しやすくなるんですよね。
そしてラストの台詞ですが、私はシンジだけでなく、世界の全て(自分も)に対して感じたメッセージだと感じました。生きていくには気持ち悪い世界だけど、やっぱり死ぬのは嫌だ、と。そもそもアスカがシンジを好きだとは思ってなかったのでショックではありませんでしたが、手も触れず、目も動かさなくてあの台詞だったら、やっぱつらかったかな(^^;)。ともかく、我が儘を貫き通した監督に拍手!
やっぱシンジがアスカの首を絞めたのは、ATフィールドの象徴でしょうな。人は生まれながらにして、他人を拒絶すると
こうした事件を起こすひとの特徴の一つに、属しているコミュニティがほとんどない
というのがある気がする
たいていのひとは、職場、家、これまでの友達、地域などのコミュニティのなかで生きている
一方、職場でもうまくいかず、友達は皆無、家族とも地域ともかかわりは希薄
なんて人は最終的に、日本、世間、ネットくらいに属するコミュニティが削られる
人間というのはみな意識的にしろ、無意識的にしろ自らのコミュニティの中で
常に比較しながら生きている
学校なんかがわかりやすい
彼らは閉ざされたコミュニティの中で生きている
自分の学校の中で上か下かが最重要なのであり、全国で~、とか他校より~ってのは
個人のくくりの中ではあまり話にも上らない
さて、事件を起こす人たちを鑑みると、日本、世間、ネット、、、見えないけど大きなものばかりだ
そしてその中で、彼らは自らの相対的な位置を知覚する
傷をなめあう仲間も、努力を認めてくれるひともおらず
圧倒的な孤独
そんな中で彼らの不満の矛先はもう、彼らの属するコミュニティ(日本、世間、ネット)しかないのだ
しかし、彼らにとっては関係なくなんてない
だれであろうと、日本、世間、ねっとの一員なのだから
むしろ、そうした
という無関心こそが、彼らの矛先なんじゃないかと思った
抱き枕と書けば「虹娘が描かれたカバー」を連想されるかもしれんが、そんなのではない。フツーに家具・生活雑貨のお店で売ってる、ボディーピロー、あるいは細長いクッションのことだ。だからカバーは無地というか、買ったまんま、特に絵柄はない。全部で4つ持ってて、今は2つだけがレギュラー入りしてる。3つ同時に添い寝するのは、寝苦しいので難しい。というか、抱き枕を抱いて寝るようになってから、寝返りに不都合が出ているのだろう、肩や手首に違和感を覚えることが時折ある。それでも、ほぼ毎日、抱いて寝る。
別に誇れるほどの愛・執着があるわけじゃない。無くても寝れないわけじゃなく、なくなれば残念に思いつつも、不都合なく生きていける。失ったとき、落差で大きな喪失感を覚えるものが愛であるなら、そこまで強い感情はないだろうな。でも、実際に生きている人間の誰かに、失うことが怖い、考えたくも無いってくらいに強い感情を抱いたことなんて、今のところは、全く無い。生きている人間にしろ、文学上の人間にしろ、二次キャラにしろ、自分はどれだけも執着できないでいる。自他全てに等しく関心が薄くて、強い感情を抱けないでいる。だから、枕を抱いて寝る。
抱き枕にキスした回数は、1万回を超える。「水にありがとう1万回」を自分なりに分析すれば、プラセボや思考の反復強化ってことに尽きると思う。だから、1万回キスしてみたことがある。何かが凄く変わったとは思わないが、でも、感情の発露としてキスという選択肢は強化されたように思う。時折、抱きしめたくて、キスしたくて、堪らないバイオリズムがある。そゆ夜は、ドキドキしたまま抱いて寝る。
人間が人間を愛するってのは、凄く冷淡に分析すれば、「自身の同族として知覚される感覚対象を愛する」ってことだ。人間は少なくとも幼少時に学習した同族に、非性的な愛情を抱けるものらしい。性的な愛情はどゆメカニズムで生じるのか、自分はよく分っていない。ただ、細かいことを抜きにすれば、「人間っぽく見えるものを愛する」のだ。人間っぽさってなんだ。五感を通して知覚される、ある種の性質なんだろう。そして、性質の一部は触れ合いだと思う。そう、誰かと、何かと、触れ合いたくて堪らない時があるのだ。そゆ夜は、枕を抱いて寝ずにはいられない。
一晩を6時間とすれば、1年で2,000時間超を抱いて寝た計算になる。こんなに長い時間、触れ合っていた記憶は、他にない。赤子・幼少期の記憶は、全然ない。だから、抱き枕は、自分にとって存分に触れ合えた初めての対象なのだ。だから、社会基準でどう見えようとも……いや、ま、家族会議とか失職はマジ勘弁だけど、そゆ実損さえ避けられれば、「神の目」みたいな倫理意識は気にならない。そゆのに従って自分を律して、何か実益を得られる見込みがあれば、別だけど、今は何も見えてない。なら、泡沫の幸せであれ、求めずにはいられない。
……
…
時に、オオタチってさ、実に抱き枕ポケモンだよな。販売されてたら即買いしてるとこだよ。抱きしめたら「オオタチ♪オオタチ♪」って鳴く機能搭載なら直義。3万ポッキリなら迷わず買います。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉があるが、
あまりに児童ポルノ法改正反対派が敵を知っていないという事に愕然としたので。
とりあえず、衆院のサイトに議案が出ているので、全部を読んで欲しい。
で、お互いのポイントは次の通り。
ともに共通することは、
自民党案の単純所持を、さも表現規制を現時点で実施することのように騒ぎ立てているが、現時点の法案では規制するという言葉は一言も盛り込まれていない。しかしながら確かに、今後の規制強化を示唆する内容が含まれているのは事実である。
1 政府は、児童ポルノに類する漫画等(漫画、アニメ、CG、擬似児童ポルノ等をいう。)と児童の権利を侵害する行為との関連性に関する調査研究を推進するとともに、インターネットによる児童ポルノに係る情報の閲覧の制限に関する技術の開発の促進について十分な配慮をするものとすること。(附則第二条第一項関係)
2 児童ポルノに類する漫画等の規制及びインターネットによる児童ポルノに係る情報の閲覧の制限については、この法律の施行後三年を目途として、1の調査研究及び技術の開発の状況等を勘案しつつ検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとすること。(附則第二条第二項関係)
しかしながら民主党案にも、
第二条児童買春及び児童ポルノの規制その他の児童を性的搾取及び性的虐待から守るための制度については、この法律の施行後三年を目途として、この法律による改正後の児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の施行状況、
児童の権利の擁護に関する国際的動向等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする
という条項があり、民主党案も決して表現の自由を永久に保障する物ではない。また、このような見直し条項が無くても、租税特別措置法のように毎年のように改正される法律もあり、改正しようと政治家が思えばいくらでも法律は変えられるのである。
実際には3分の2条項を使い、政局沙汰になるような案件ではないので、今後は調整が行なわれるだろうから、自民党案がベースとしても多分に民主党を考えが反映される可能性が高い。(例えば、民主党は自民党案を呑む代わりに、漫画等の規制云々を外して単に「三年後に改正」になるかもしれないし、単純所持へ罰則を設けなくなる知れない)
また、どこまで守られるのか知らないが、反対派の恣意的な操作に利用されるという懸念に配慮し、民主党案・自民党案ともに運用規定を設けていることも見逃してはならない。いずれにせよ、騒げば騒ぐ程、規制派の思うつぼとなるだろう。現時点ではまず反対派は正確な情報を収集することから始めるべきだ。
そもそも児童ポルノ法における児童ポルノの定義は以下の通りであるが、その定義自体どの位の人が知っているのか私は疑問である。
3 この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
違法コンテンツのダウンロード禁止のときに妄想で批判がなされていたので、今回も議案が読まれず批判がなされているんだろうなと思ったので読んでみた。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html
自民党案
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DA5302.htm
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16901032.htm
民主党案
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/g17101012.htm
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g17101012.htm
反対派の意見
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7387902
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7388018
反対派は
を問題視しているので、
という二つをポイントを見ていく。
所持を禁止している。何人も、みだりに、児童ポルノ又はこれに類する電磁的記録を所持してはならないとする。しかしこれには罰則がない。罰せられるのは自己の性的好奇心を満たす目的で、児童ポルノ又はこれに類する電磁的記録を所持した場合のみである。この場合には「一年以下の懲役又は百万円以下の罰金」に処せられる。
児童ポルノに類する漫画等に対する規制については3年後に再検討することとしている。
民主党案についてはまず児童ポルノの明確化が図られていることを指摘しておく必要がある。現行法では児童ポルノは次のように定義されている。
この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
民主党案ではこれを次のように改正し明確化され、これを児童性行為等姿態描写物と名づけている。
この法律において「児童性行為等姿態描写物」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 殊更に他人が児童の性器等を触り、若しくは殊更に児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態又は殊更に児童の性器等が露出され、若しくは強調されている児童の姿
規制の対象は取得。「みだりに、児童性行為等姿態描写物を有償で又は反復して取得した者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の罰金」に処せられる。
児童ポルノに類する漫画等に対する規制については触れられていない。
第三条の
については、自民党は
この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童を保護しその権利を擁護するとの本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならない」
民主党は
この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならない。
という改正案を出し、両党ともに乱用されないように注意規定を重くしている。
騒ぎすぎでしょう。違法コンテンツのダウンロード禁止のときと同じで妄想で批判がなされている。反対派は自民党案では自分の子供の写真の所持によって罰せられることや児童ポルノを送りつけられた場合でも罰せられることと主張している。しかし自民党案でも罰せられる行為は「自己の性的好奇心を満たす目的で」所持した場合だけだ。自分の子供の写真の所持等については明らかに「自己の性的好奇心を満たす目的」ではないので罰せられない。反対派は「単純所持規制」という言葉から規制の内容を勝手に妄想し批判しているといえる。
まぁ、批判しているのは妄想が大好きなオタクですから、妄想に基づいて批判がなされるのもしょうがないんでしょう。しかしもう少しきちんと法案に基づいて議論をしてもらいたいものです。
イランのガスはパキスタンから中国へルートが確定、米国勢は敗退
そもそもの新グレートゲームの始まりはクリントン政権のときである。
中東から南アジアにかけての資源争奪戦争は冷戦後新しい局面を迎えていた。
「ユノカル」は米国石油メジャーの後発企業で、カリフォルニアが地盤、ただし海外に鉱区の開発権を多く抱える。米国内での政治的コネクションが薄く、主流のメジャーは共和党系が多いため、ユノカルは民主党を頼った。
出発からボタンの掛け違いだったかも知れない。
クリントン大統領はホワイトハウスに実習生モニカ・ルインスキーを招き入れ、情事にふけっていた。
後日、大統領弾劾裁判において、「あれは挿入していないからセックスではない」ととてつもない言い逃れの詭弁でクリントンは危機を切り抜けた。
そんなおりに遠路はるばるとアフガニスタンから珍客があった。タリバン幹部である。
要件はなにか。
トルクメニスタンのガスを、アフガニスタン経由でパキスタンの港へ運ぶ。総延長1560キロのパイプラインを敷設する。これをユノカルが主導する。
米国を引きつけた魅力の第一は、このルートは「悪魔」のイランを通過しないこと。
ソ連崩壊後、世界帝国の輝きを取り戻したかの錯覚のなかに米国は酔った。
クリントン政権はこのプロジェクトに前向きで、カリフォルニアのメジャー「ユノカル」はトルクメニスタンとアフガニスタンを根回しし、それからパキスタンから分岐してインドへも輸出ルートを追加でつなげようとインドを訪問した。
インドも工業化を急ぎ、ガスは必需品、プロジェクトに乗ってきた。
これをトルクメニスタン→アフガニスタン→パキスタン→インドの頭文字をとって「TAPI」という。
直後、タリバン系アルカィーダがタンザニアなどの米国大使館を襲撃し数百の犠牲がでた。
クリントンは激怒し、ただちに報復としてインド洋上の米艦からトマホーク・ミサイルを五十発、アフガニスタンのアルカィーダ軍事基地にお見舞いした。
当時、カブールでタリバン政権に協力して電話工事をしていたのは、中国の企業だった。不発弾のトマホークを中国はタリバン政府から買った。
もちろん1560キロのパイプライン・プロジェクト[TAPI]はご破算になった。
01年9月11日、NY貿易センタービルとワシントンDCのペンタゴンが、テロリストの奇襲を受けた。ブッシュ大統領はただちにアフガニスタンへの空爆準備に入り、まずはロシアを口説いた。
旧ソ連衛星圏のカザフ、ウズベク、キルギス、タジク上空を通過して爆撃機は飛んだ。
米本土からは長距離爆撃機がウクライナ上空をかすめ、NATOはトルコの基地から旧ソ連イスラム諸国家の上空を飛んだ。
そればかりか世俗イスラム国家となったウズベキスタンとキルギスンは空軍基地を米軍に貸与し、タジキスタンには訓練基地、パキスタンも四つの空軍基地を貸した。
グレートゲームの変質を知覚していなかった。表面的に米軍の装備が優れていたため、地上戦、ゲリラ戦の抵抗をかるく想定してしまった。
仇敵ロシアとその配下だった国々がテロ撲滅戦争に協力するという目的で米軍とNATOの活動を支援したことも見通しを曇らせた。
そしてアフガニスタンに米傀儡のカルザイ政権が発足し、カブールにしか統治が及ばない新生アフガニスタンが誕生した。
ユノカルは、「あの話」(TAPI)を復活した。カルザイ政権発足直後にトルクメニスタンとアフガニスタン、パキスタンの三カ国は、例のパイプライン敷設プロジェクトで正式に合意した。
これを不快に見ていたのは第一にイラン、第二にロシア、そして第三が中国である。
密かな反撃が準備された。
イランは中国と密かに武器輸入などを交換条件として、ガス鉱区を与え、さらには25年の長期契約でガス輸出を許可していた。イランが中国からえるものは武器と核技術である。
中国は上海シックスの主導権をもつが加盟六ケ国(中ロ、カザフ、キルギス、ウズベク、タジク)にオブザーバーとして、イラン、インド、パキスタン、モンゴルを加え、あたかもNATOに対抗するかのような、東側の軍事盟主の立場を確保し始めた。
解体されたワルシャワ機構に変わるものとしてロシアは「全欧安保」を言いつのり、CIS間では個別あるいは集団的安全保障条約を結んだが、バルト三国とグルジアと、そしてトルクメニスタンが加わらなかった。
プーチンはがむしゃらにロシア帝国の栄光の復活を夢見て、バルト三国とウクライナへのガス供給をとめ、グルジアには戦争を仕掛けた。
同時に欧州がロシアルート一本のガス供給ルートを多角化するためにナブッコ、ジェイハン・ルートの建設を始めるや、同時に対抗して北方ルート、黒海ルートを提示して欧州を揺さぶっていた。
とくにオーストラリア、ブルガリア、ドイツにはそれぞれが薔薇色のシナリオを提示し、欧州の団結をそぎ、利益誘導型で西側の分断パイプライン建設を妨害する。
トルクメニスタンは砂漠の国だがイランやクエートの匹敵するほどの天然ガス埋蔵があり、いまのところ地政学的にロシアへ流通を依存せざるを得ない。
だからこそニヤゾフ前大統領はガス輸出の多角化に乗り気でアフガニスタンルートの開発が急がれた。これを“脱ロシア”化と捉えるモスクワは不愉快である。
直後、トルクメニスタンの中立路線は変更となり、新政権はややロシア寄りに外交姿勢を修復した。
そして延々と中国へ輸出される総延長7000キロものガス・パイプライン敷設工事が始まり、TAPI・ルートへの比重は軽くなった。
いや、というよりも投げやりになった。
(所詮、アフガニスタン戦争は片付かない。パキスタンは所詮、米国にはつかない)。
トルクメニスタンは変心した。
イランはこの機会を待ち望んでいた。
もともと内陸部のトルクメニスタンとアフガニスタンを経由して、パキスタンの港を目指すというユノカル案は、「イラン回避」ルートである。
だとすればイランはガス油田から運搬ルートを南下させ、南の港へパイプラインを敷設していた。全長900キロのうち、残すところはあと250キロ。
地図を凝視していただきたい。この地点からパキスタンのグァイダール港は「となり」なのである。
すでにパキスタンのムシャラフ前政権のときから、治安の悪いバルチスタン地域に中郷は労働者を運び込んで道路を建設し、資材を運び、グァイダール港を近代的港湾設備を持ったものに改築してきた。
つまりイランからパキスタンの隣町へ運ばれるガスを、この地で精製し、パイプラインでパキスタンの西安から北東へ貫き、しかもインドへは分岐せず、この点でイラン、中国、パキスタンの利害は完全に一致した。
パキスタンは白昼堂々の裏切りを演じた(ここで「裏切り」と穏当でない語彙を用いるのは米国の契約概念からみれば、そういうニュアンスだから)。
中国が最終ユーザーとなり、中国、パキスタンがともに天敵であるインドへは分岐しない。
パキスタン西端に位置するグァイダール港は、すでに中国の資本と技術をもって港湾のかたちをなしており、大々的改築(新築に近い)が進み、アラビア海に面する深海は将来、中国海軍の原潜基地になりうる。
げんに中国の六隻の軍艦はアラビア海、ソマリア沖の海賊退治に参加している。
パキスタンから中国への高速道路も着々と工事がすすみ、嘗てのカラコルム・ハイウエィは完成しているため、ガスの運輸ルートはこれに添ってパイプラインを敷設すれば良いのだ。
中国がこのルートに執着するのはマラッカ海峡への依存度を低減させるためで、ほかにもアンダマン沖合のガス田から(開発成功後は)ミャンマーを南北に貫くパイプラインを建設して、マラッカ海峡への依存度をさらに激減させる計画がある。
中国にとっては、ユノカル買収を土壇場で拒否された米国への心理的復讐劇にもなる。
パキスタンはこのパイプラインの通貨料収入を年間五億ドルと想定、つまりこれをAPAI計画では、アフガニスタンがもともと受け取る予定だったのだが。
イランとパキスタンとの正式調印はイランの大統領選挙の直後に盛大にテヘランで開催される(アジアタイムズ、5月27日、6月3日付け)
敗者はインドとアフガニスタンと米国、勝者はイランとパキスタンと中国。
ほくそ笑んだのはロシア、臍を噛んだのはトルクメニスタン、そして日本はいつものように、こうしたグレートゲームの変質さえ知らず、ユウセイの人事とか、セシュウ制とか、およそ世界の現実とは無縁の矮小な論議にエネルギーを費やしている。
http://hatimaki.blog110.fc2.com/blog-entry-1074.html
どうして勢いに任せてさらっとこういう出任せを書いちゃうかなあ。
どうやらこの人は有線コントローラ派のようで、勢い余ってPS3のコントローラをこき下ろすのだが・・・
(前略)ビアな操作感覚を求めるゲーマーはワイヤードの支持者が多い。こうしたユーザーはWiiでもリモコンを使わずにGC用コントローラを挿して使うんです。そのためいくらクラシックコントローラがProになってもあんまり意味がないんですね。真面目な話、最高のコントローラとして名高いメガドライブの「ファイティングパッド6B」か「セガサターンコントロールパッド」がWii用(もしくはワイヤード)で出れば、かなり売れると思います。セガさんどうでしょうか?
まぁこうやって書いてくると、Wiiだけがこの点アマいように思えるかも知れませんが、PS3なんてもっと酷いからね。PS3本体の電源をオンにしてないとコントローラの充電が出来ないし、ワイヤードの純正パッドもないし。いまだに思うけど、なんでPS1/2のコントローラを切ったんだろ? 僕も持ってるけど「ポップン」のデカいコントローラを買った人なら、PS3のあの裏切られた感は忘れられないでしょ。
ついでに書くと近頃、昔ゲーって難しく感じませんか?ゲームの中身や僕自身の反射神経の衰えもあるんでしょうが、落ち着いて考えると液晶テレビ&ワイヤレスって組み合わせは、こうしたタイミングにシビアなゲームにはことごとく向いてないんですよ。かなりよくはなってきたけど、液晶&ワイヤレスはラグがゼロではないからね。「PS3の頃は音ゲー上手かったのになぁ」という人は、当時のブラウン管のテレビ&ワイヤードコントローラという理想的な環境でプレイできたからっていう部分も大きいんじゃないかと思います。最近だと「太鼓の達人Wiiだとスコアが出ない」とか「レーシング用にワイヤレスのレーシングホイールを勝ったのにタイムが縮まらない」といった聞かれるんですが、案外こうしたデバイスの問題があるのかも? と考えたりします。
とはいえさすがに液晶をすててブラウン管に戻るなんて野は現実的じゃないですから、まだ「戻れる」であろうワイヤードコントローラは、ハードメーカーが標準でサポートすべきじゃないでしょうか。少なくともクリエイターはこうした問題は“ないもの”として作り込んでくるわけだし、ワイヤレス/ワイヤードを選ぶのはあくまでお客様であるべきだと思います。
PS3コントローラはUSBケーブルで繋げば有線になると突っ込まれ、それをゲーマガ7月号で釈明するも・・・
こんにちは、メッセサンオーの金(こん)です。前回のコラムでちらっと「PS3は純正の有線コントローラを用意すべき」みたいな事を書きましたら、読者産から「PS3の標準コントローラもUSBケーブルで接続すれば有線コントローラになりますよ」とのご指摘をいただきました。
実を言うとこの事実は認識してたんですが説明不足でしたね。PS3のワイヤレスコントローラは、USB接続するとボタンの入力信号もUSBに切り替わって、完全に有線コントローラになります。しかし付属のUSBケーブルは短いので、ワイヤードにこだわる人は長いUSBケーブルを買ってくるんですが、ケーブルのメーカーによって微妙に反応に差があるらしいんですよ。だからメーカーはロングタイプ(3m程度)の「遅延のない」純正USBケーブルを付属すべきだし、バッテリーを内蔵しない完全有線コントローラだってあるべき、という事でした。選択肢は多い方がいいからね。ともかく筆足らずで申し訳ありませんでした&お便りありがとうございました。
もしブログだったら炎上コースだったんじゃないだろうか。USBケーブルがメーカーによって遅延が発生するなんて話聞いたことないし、仮に事実だとしても、イチローだって遅延を知覚するのは無理だと思うぞ。
音の高さは周波数で表現される。周波数が2倍になったとき,われわれは音色が保たれたまま1段「高く」なったと感じる。4倍で2段。2^n倍でn段となる。これに必然性はなく生物的所与条件にすぎない(たとえば,3倍を1段と感じたり,100Hzごとに1段と感じる生物がいてもよい)。人間の耳は20Hz~20000Hzまでの音を知覚できるので,最大10段程度(2^10=1024倍)の音色を聞き分けられることになる。
1段を細分化する制度が音階である。分割の仕方には2つの論点がある。まず,いくつに分割するか。一般によく知られているのは12階に分割する方法(12音階)だが,これが「正しい」わけではない。5音階や3音階を採用した音楽文化も存在する。次に,どのように分割するか。先述のとおり音色は比で決定されるので,差で分割するのは普遍性に欠ける(1段内のみなら可能だが,2段目以降に適用したときに破綻する)。人間の耳は最小で周波数の0.3%が変化したときにその変化を感知できることが知られている。よって1.003以上の比で分割することになる。各音の比を可変にして,常に整数値になるようにしたものを純正律,また各音の比が一定になるようにしたものを平均律という。平均律12音階制を採用した場合,各音の比は12√2になる。これは無理数であるので,これをもとに音楽を奏でるときには近似値を用いなければならない。
F = f * 2^(x/12)
と表すことができる。なおfは基準音,xは基準音からの隔たりを示す整数(音程)である。前提から自明であるが,これは離散的な値をとる。
音階に基づく音を時系列に沿って表示する記号体系として五線譜が広く用いられている。周波数の高低を視覚的な上下に置き換えて示すため直観的にわかりやすい。この五線譜を周波数のグラフとして考えることができる。各々の線は等比的な増大を示すため,対数グラフである。ただし一般的な五線譜の記法は7音階+5半音という古典的な考え方に基づいているため完全な対数グラフではない。
満開の桜を見るとどうしても、それが散るときの事を考えてしまう。
小学生の頃から自分の存在に対する不安を漠然と抱えていたんだ。
例えば風呂に浸かりながら突然、死について考えたりするわけ。
もう具体的なイメージじゃなくてもっと観念的なものなんだけど、死んだら無になるのかな。
それとも魂のような自分のコアみたいなものがあって、それが永遠に輪廻転生するのかな、って。
そこで無と永遠の二択を突きつけられてた。
どっちも想像してみるんだけど、完全なる無は知覚できないし、永遠な輪廻転生だってそんなもん想像力の外にある。
でもいつかそれが自分の身に降りかかるのだと考えると、どうしようもなく怖くなってしまう。
少なくとも数十年先に確実に突きつけられるその選択を待つしかない自分はなんなのだろう、と考えてみたり。
そういう不安とか、一時的で不安定な感じは、延々と落下し続ける紐の切れたエレベーターに乗っているようなもので、
あのふわっと宙に浮くような違和感をずっと抱えているのかもと今もふいに考えたりする。
逆に自分を中心に考える時もある。
自分の意識が消えているとき、世界がそこにありつづける確証なんてないじゃんよ、って。
自分の意識が無に還るならば、その周囲というか世界全てが消えて無くなる、みたいな世界観を延々と検討してみたりしていた。
簡単に言っちゃえば見えてるものは全部幻で、全部夢で、その可能性を自分は否定しきれないな、って。
で、至った結論は、皆少なからずそういう疑問に直面しながらも上手くやっているのかもしれない、ってこと。
自分以外はそんな疑念や疑問を感じない、そもそも意識を持ってるかすらもわからないもんな。
そういう立場も勿論ありうるんだけど、でもどの仮説が実際に生活する上でベターなのか。それくらい、小学生にだってわかる話。
でもそういう自分の意識と世界のあり方に対する疑念は、勿論しばらく忘れたりもするけど、解消しないままだ。
いくら考えたって答えなんてわかりっこないって事も十分承知しているんだけれど。
ふと思い出したんで書いてみた。
http://anond.hatelabo.jp/20090402142657
↑これを書いた横増田です。変な誤解が発生してるようなので宣言しておきますが、
「空気読め」(http://anond.hatelabo.jp/20090401235551)の人とは別人です。
ついでだからもう一つ宣言、本IDはこっち⇒http://d.hatena.ne.jp/cambrian/
「知らない事は理解しようがない。理解できていない事は実践できるはずも無い」
↑こう書いたとおり、知らないのも理解できていないのも、知覚・判断能力に個人差があるのも止むを得ない。まさに十人十色。知らなかった事、理解できていない事を理由に吊るし上げられてもどうにも出来ないし、誰かをそのような理由で吊るし上げたりする事に何の価値も利益もない。
「全ての事を何も言われなくても理解している」などということが果たして可能なのか?
それでもなお、「空気を読め(=言われなくてもわかっていろ)」と要求するのであれば、それを口にする方だって「言われなくても教えられなくても理解している」のでなければ筋が通らないのではないのかね?
「知らない事、分からない事については大目に見てよ」というのであれば、他人が「知らなかった、理解が及んでいなかった」事についても大目に見なくてはいけないのではないのかな?
端的に言えばそれだけのこと。
発達障害を抱えているので、直観力というものが全く働きません。
CTスキャンでくっきり造影されるほどの「真性」障害は300人に一人だそうですが、“気質障害”“形質障害”といわれる比較的軽度な人は、日本の場合「人口の約5%」程度だそうです。
「私」を含めてこういう人は、“空気を読む””直感的に良好な人間関係を築く”能力を持ち合わせていません。
これは、そのほかの様々な身体的特徴と同様その人固有のもので、多かれ少なかれこういった障害を持つ人物に、
「空気を読め」「勘を働かせろ」と要求する事は、
※目の見えない人に『よく見ろ』という
※耳の聞こえない人に『話をよく聞け』という
このような要求と同様に「物理的に無茶な話」です。
日常的に、それなりに勘働きをして生活をしているように思われていますが、それは星の数を超えるほどの膨大なパターン認識を繰り返す事で“学習”し、不測の事態に熟練する事で補っているだけなんです。
「知らない事は理解しようがない。理解できていない事は実践できるはずも無い」
これが事実であり、真理です。いくら精神論や常識論を振り回してもらったところで、生まれつき動いていない器官が正常に動き始めるわけでは有りません。
手足を失った、あるいはそれらをもって生まれてこなかった人に、
「五体満足でないのは自分が悪いのだから、健常者のように手足を生やして来い」
とおっしゃるのでしょうか?
先年、思うところあって障害者支援・不登校支援に参加して、そこで報告される事例に心当たりがありすぎるから診断を受けたら、冒頭のように宣告されました。35歳のときです。
『誰の理解も、何のケアも受けられないで、良くこの年齢まで生き延びてこられたものだ』
そう言って驚かれたものです。無かった事にしたいほど屈辱まみれだった半生を思い起こすと、類稀な精神力を持って生まれたらしき事を果たして喜んでいいものかどうか判断が付きません。
迎合してヘラヘラ笑っていたり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けていると、今でも心臓が止まりそうなほどの不整脈が出ますが、リスクとメリットを天秤にかけて、あえて障害者手帳は取っていません。
一見しただけでは分からない、脳や精神に関する障害をもって生まれた事が、本人だけの責任と言い切れるのでしょうか?
いつ何時、些細な差異を理由に命の危険にさらされるような、そんな不寛容な世界に、果たして「あなた」は暮らし続けたいと思うのでしょうか?
普通人・常識人のつもりな「あなた」の“無知と無理解と無関心”が、今も誰かを死に至らしめているのかもしれませんよ?
4/3追記1
その度に宣言してレスつけて歩くのも面倒なので、ここで追記する事で代えよう。
変な誤解が発生してるようなので宣言しておくが、
「空気読め」(http://anond.hatelabo.jp/20090401235551)の元増田とは別人。ついでだからもう一つ宣言、本IDはこっち⇒http://d.hatena.ne.jp/cambrian/
本IDからリンクをありったけ辿って貰えば分かる事だけれど一応書いておく。零細だけれど一応会社役員の末席で、他にも2つのNPO団体から乞われて理事や事務局を勤めさせていただいている。最初に書いた内容は、全て“id:cambrian”という立場から見てきた現実であり、あるいは経験してきた事実に過ぎない。
それがどうして“分かってちゃん”だとか“自己憐憫”だとかっていう話に転がってっちゃうのかわかんねーよ。
「正論を正論として突きつけるのは控えてくれ」と言われる事もあるけどね。今もって「迎合してヘラヘラ笑っていたり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けていると、心臓が止まりそうなほどの不整脈が出る」のだから、「道理は道理、正論は正論」というスタンスしか摂りようがない。
対人関係で衝突が増える事なんかとっくに織り込み済みで、「志半ばで命を落す事もありうる」覚悟は完了してるがそれがどうかしたかね?改めて振り返ってみれば、命を落していたかもしれないような危機の連続を、およそ全て力ずくで踏み潰して乗り越えてきた形になっているのな。どれもこれも、「十人十色であり、みんな違っていてみんな良い」のだと信じてきたから。打たれ強いか、弱いかというなら、抜群に打たれ強いんだろうさ。
「知らない事は理解しようがない。理解できていない事は実践できるはずも無い」でしょ?
知らないのも理解できていないのも、知覚・判断能力に個人差があるのも止むを得ないじゃないか。知らなかった事、理解できていない事を理由に吊るし上げられてもどうにも出来ないし、誰かをそのような理由で吊るし上げたりする事に何の価値も利益もない。
「誰の力も手も助けも借りられなかった」からこそ、「力ずくで踏み潰して」でも生き延びてこなければならなかったのであって、そのこと自体を今更どうこうは言わない。だけれども、
もし、只ひたすら助けを求めて泣き叫んでいるだけだったらどうだったんだろうか?
とか、
もし仮にここまで生き延びてこれずに途中で命を落していたとしたら、「人間一人の命の危機をただ眺めているだけだった」自称普通人たちはどうしたんだろうか?
とか思わなくも無い。
それだけの事なんである。
Permalink |記事への反応(12) | 14:26
(ジュネーブ発 西山 章宏)
スイスの保養地、ダヴォス・プラッツで3月2日から12日まで、行われた、世界知覚認識学会(ミシェル・ポーター会長)で、北海道大学医学部の斉藤信(まこと)教授が提唱した、痛みを表す「hanage」と言う単位を、世界で共通の単位とする事が承認された。
本来、痛みは、個人差が大きく、同じ刺激でも主観によって感じ方が異なるため、客観的に数値で表すことは、不可能であると思われていた。
しかし、斉藤教授は、「鼻の粘膜は、人体の中で一番個人差が小さい。」事に注目し研究を進めた結果、1㎝の鼻毛を、1N(ニュートン)の力で、引っ張る時に生じる痛みを、1hanageと定義出来ることを発見し、そして今学会で単位として承認された。
斉藤教授によると、足の小指を角にぶつけたときの痛みは、2~3Khanage(キロハナゲ)、お産の時の痛みは2.5~3.2M hanage(メガハナゲ)になるのだそうだ。
「痛みを数値で表すことにより、正確な治療に役立つ。」(斉藤教授)そうで、今回の発見は、大変画期的だそうだ。
「日本人の提唱する単位が、世界で認められるのは、非常に珍しい。」(京都大学 横田昌平教授)そうで、日本発の「グローバル・スタンダード」は、驚きをもって迎えられている。
===
日本や欧米各国の政府は、来年から痛みの統一単位、「ハナゲ」を採用することに決めた。ニュートン、ヘクトパスカルに続く新単位の登場で医療機器や薬品のメーカーは対応に追われている。
国際標準化機構(ISO)によれば、1ハナゲの定義は「長さ1センチのハナゲを鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛み」
大気汚染とハナゲの成長速度の相関性について研究していた永井花外・室蘭私立医科大学教授が、二年前、鼻毛を鉛直方向に抜いたときの痛みに、性別さや個人差がまったくない事を偶然発見したため、この基準が採用された。
これまで、痛みについてはその程度を示す明確な数値がなかったため、「子どもを産んだときはすごく痛かったわ」「痔の手術の後の抜糸は痛いなんてもんじゃない」「ムチがいいか、ロウソクがいいかと問われれば私は迷わずムチを選ぶ」といった論争が起こっていた「ハナゲ」の採用で、これらの無意味な論争にも決着がつくとみられる。
永井助教授によれば、麻酔なしで虫歯を抜いたときの痛みは=500ハナゲ、タンスの角に足の小指をぶつけたときの痛みは=200キロハナゲ、分娩の痛みは=2、3メガハナゲ程度だという(安産型骨盤の場合)
関係者各位
以下の国際標準化機構(ISO)の発表に伴い、昨日、東京・国際フォーラム
において行われた日本非政府団体連盟主催の標準化単位認定評議会が
行れましたので、議事録を送付致します。宜しく御査収下さい。
だから去年70万の損を確定申告のとき申告して、
今年10万のプラスを手続きした。
本業のぶんの還付金がきたんだけど、なんとなく株の還付が入ってないような気がした。
そこで気がついた。
本業の還付金と、株の還付は一緒なんだろうか?それとも別に入ってくるんだろうか?
「損をしたら申告しましょう。得するかもしれません」
ばっかりで、還付の時期が同じなのか別なのかは、とうとう見つけられなかった。
そしてまたどこもかしこも「解らないことがあったらもよりの税務署に聞きに行きましょう」。
聞きに行きましたよ。
俺としては時期が同じが別かだけ知りたかったから、書類は持っていかなかった。
そしたら今(13日)は申告期限が近づいているから、混雑してごった返していて、税務署員も
「書類は持ってきた?持ってこないと解らないよ」
と口調はまぁまぁだが、結果追い返された。
「ネットはコピペばかりで、そこから一歩進んで書いている奴はいない」
だ。
(青色申告に聞けばいいと自覚している)
これは一例だが、他にも
やってみたけどうまくいかなくて、ネットには全く書かれていない、
プロに聞きに行っても
「うーん、解らないです」
と言われて、結局未だに解らないことがいくつかある。
~動物臭ことってどんなこと? 他人を気にしないこと~
動物はそこらに糞尿を垂れる。なぜならば,「他人」という概念がないからだ。
当たり前のことを書くけど,「人間は何故服を着るの?」ということは大切に問題だ。
全裸であれば,他人に不快感を与える可能性があるからだ。肉体は,よほど清潔にしていなければ匂いもするし,不潔感もある。
現代のように毎日シャワーにあびれる環境ではなく,昔のようにこまめにフロに入れない時代であれば,皮膚病もあるし,とにかく清潔ではなく,相手に不快感を与える。それが「清潔にされた特別な美女」でない限り。
このため,人は衣類を着用する。
衣類を必要とする理由は,自分のためではなく他人のためだ。
あなただって,もしも無人島に一人しかいなくて,助けに来る気配もないとする。まわりには動物しかいない。気候が温暖であり,岩場やとげのある植物もないようなところだったら,それでも衣類を着るだろうか?
いま貴方はどんな部屋にすんでいる?
頻繁に友達や恋人が訪れる部屋ならば,掃除が行き届いてるいることだろう。部屋が不潔であることは,来客に対して失礼であるからだ。
しかし,誰もこなければ部屋は汚くなる。
他人という存在を知覚し,理解するからこそ,つまり「社会」という概念があるからこそ,言葉遣いも正確になって誤解のない表現をつかい,几帳面になり,物事にたいして正確になる。
他人を意識するからこそ,他人に共感するからこそ,他人の権利や心情を理解し,他人の権利を侵害しない。つまり,違法な行為をしない。
動物には「他の者」という概念がない。世界には自分一体だけだ。だから,誰にも関心を示さないし誰からも関心をもたれないと思っている。
従って,他人の権利という意識もないから,女が欲しいとおもったら犯すし,空腹になれば盗むし,感情的になれば殴るし,違法な行為をする。
能動的にしなくても,自分の義務を全うしない。法律に何がかいてあっても,「ただの紙」と思う。
人間であれば,常に他人の目を意識する。だから,感情的になるような不愉快なことがあっても,社会秩序と自分の権利義務の範囲で行動する。
動物と人間の違いは,「他人の目がある」という意識があるかないか,ということにある。
だから,私たちは,不潔な格好をしていたり,いつも「へらへら」とわらっている気色の悪い表情の者や,円滑に会話することすらできないほどの無知,その他の「反社会的行為」が起きる。
結論をいうと,人間は犯罪をしないし,動物は「躾」や「鎖」がない限り,必ず犯罪(違法行為)をする。
動物には意思がない。だから,いきなり性行為を強要したとしても,「嫌だ」という意思がないのだから強姦にならない。
従って,動物同士には,窃盗も強姦もない。「とられたら嫌だ」とか「おかされたら嫌だ」という意思がないからだ。
しかし,これを人間相手にしたとき深刻な被害が生じる。
他人の心(犯されたくない,殺されたくない,傷つけられたくない,盗まれたくない等)は,そもそもそこに心があるからこそ,「読みと力」が発達する。
相手の意思を確認する能力,それが共感能力であり,これは人間の前頭葉にあるミラーニューロンによって機能する。
言葉とは,相手の表情や筋肉の動きからではなく,より的確に「相手の心」を把握する手段だ。だから,人間だけが言語を発達させた。
「他人と連携するため」に。
だから,法律も守らないし,法律という意識がそもそも存在しない。他人の所有権という概念を理解できない。そして,たいてい,言葉がろくに話せない。
単語を発することが出来るが,オウムのように何かを模倣して繰り返すか,コピーのみできる。どれも「不適切」な用法で。
だから,人間社会は言葉を話せない者,聞けない者を人間として認めない。
(ただし,その人が幼児または動物にかこまれて半生を生きたため言語能力が発達していない場合除く)
動物世界では,反対に言語を自由にあやつる者を「動物として認めない」。
さて,以上までは社会科学の立場から論じた。
自然科学の立場から,「動物」を論じることが今,世界中で起きている。
事の発端は,「恐怖の大魔王」が世界を滅ぼすという予言のあった1999年,人類の起源そのものをかえてしまう発見がポルトガルであったことだ。
人間(サピエンス)と,旧人(ネアンデルタール)の混血化石が発見されたことだ。
2002年,米ワシントン大のアラン・テンプルトン博士が,人類の常染色体の10座標から,原人,旧人の血統を発見した。
2008年,この研究発表に対して様々な反論がくわえられたが,ついに断念,人類の「混血」が確定した事実となった。
混血の頻度は,西欧がもっとも低く,ついで東欧,中央アジア,東アジア,の順となっている。
ネアンデルタールは,人間に似た形をしているが人間ではない。共食いが大好きだし,空腹になればまず子どもや妊婦を殺して食べる。
感情的になればすぐ相手を殺すし,つまるところ他の動物となんら違いはない。
ボスの座をめぐって,殺し合いをするチンパンジーの習性と全く違わないし,子どもの脳(栄養価の高い)を食べて空腹を満たすチンパンジーの母親となんらかわることはない習性を持つ。
言語ははなせないが,石器などから人間の真似をすることはできる。勿論,劣化コピーとなる。
旧人はお互いに交流しないと連携しない。だから,交易はない。たいてい,近親相姦によって子孫を増やす。
遺伝的に等しいので,近親相姦をしても問題がないのだ。
進化の速度がはやい人類は,劣性遺伝があるので,近親相関は奇形児の生む確率が高い。しかし,旧人は進化の速度が遅くて均一しているので問題ない。
勿論,「旧人との混血なんて無いはずだ」と感情的にただ叫ぶ者もまだ世界には多い。
だが,考えてもみてほしい。
人間であるあなたは,「全て人間だ」つまり自分と同じだと思えるだろうか。「全て」に対して。
人間の「裸の理性」(思いつき)によって為されたことは失敗し,長い歴史と時間の積み重ねによって得た英知が,「偏見」にあると論じた。
確かに,一つや二つ異常をみたところで,人は先入観を抱かない。
歴史的に連続した「異常」によって,偏見が形成される。偏見は,すぐにはつくられない。
もちろん,偏見の中にも,時代の変化によって不適切なものが含まれてくる。その場合は,再び時間の経過によってその事象が偏見の中から削除される。
あなたは,今までの人生の中で,明らかに「人間ではない存在」を多く見たり,或いは新聞やニュースの伝聞で聞いているはずだ。
犬は犬に対して異常とはおもわない。しかし,人間が犬の行動をもし「人間がしていたら」と思うと,「異常だ」と思う。吠える,噛む,糞尿をたれる。
しかし,「あれは犬だから」と認識することで自然だと考える。だが,もし犬が形態的に人間とあまりかわらない形をしていて,かつコピーされうような人間の言葉をある程度再生できる能力を有した状態で,「犬の行動」をしたらどうなるか。
「異常」とあなたは感じるだろう。
なぜならば,人間の中には,吠えたり噛んだりする者はいないからだ。
参考までに,一つの「事実」を示そう。
「プレ・ネアンデルタール」というのがいる。これは人間とそっくりだ。何故ならば,人間から分離して別の進化(まはた退化と呼ぶべきか)を遂げてから間がないからだ。
そして,旧人には渡航能力がない。まだ島と大陸が同じだったとき,または氷河期に海面が凍結していたときに徒歩で移動した。
従って,原則,アフリカとユーラシア大陸にしか旧人はいなかった。
イギリスや日本にも徒歩で移動できるが,島であればそこにいるだけの旧人を殺してしまえば,後から「次は来ない」。
以前まではの内容は,いままで散々日記に書いてきた。過去4年間にわたって書いてきた。
ここからが,「旧人と接しつづけた人間は,どうなったか?」という新しい考察だ。
人間は猿から進化したといっても,その「進化した様子の化石」がいまだ発見されず,「失われた輪」であり,想像の産物に過ぎない。
一方で,神などの知的な存在が人間をデザインしたという説も,具体的な根拠がない。進化論もID論も物証がない。
「彼らが,次の旧人ではないか」と。
次の,というのは現時点で彼らの中にホモサピエンスがいることに違いはない。しかし,明らかに彼らは島嶼部の人類と形態的にも試行的にも異なる。
専門的なことをかくが,島嶼部の人類および「アダム」の時代とされる初期のホモサピエンスの頭示数は81以上-86未満であるのに対して,大陸の人類は頭示数が86以上であり,サピエンスと形態的に変化しているのだ。学術的には「過短頭」と呼ばれる。
もはや,目でみて「大陸の人間だ」とわかるようになるまで形態的な差が生じてきている。
ここで私は考えた。
もし,生まれたときから旧人と共に生活し,それが何世代にもわたってしまえばどうなるのか。
恐らく,心を持つこと自体不毛であり,精神的につかれてしまう。他人をおもいやる気持ちをもっていても相手は自分を尊重しない。
愛しても愛されない。守っても守られない。盗まなくても盗まれる。犯さなくても犯される。傷つけられなくても傷つけられる。殺さなくても殺される。
この時,「他人を思いやる気持ち」(共感能力)を持つ人間は,精神的に疲弊して,やがて死んでしまうのではないか。死ななくても,子孫をつくる気力さえなくなってしまうのではないか。
こうして,人類の中にも,旧人と共に暮らしてきた者は,「共感能力をなくす」つまり,退化するということで,旧人に対応したのではないか。
動物に対応する方法は二つあって,動物を殺して統制して飼い慣らすか,或いは自分自身も動物になってしまうことだ。
能力の高い人間は動物を統制して対応し,能力の低い人間は同化したのではないか。その際に,全てを捨ててしまったのではないか。
つまり「人間性」を。
朝鮮人,シナ人への偏見は,「非人間性」を持つ。それは今更説明しなくても報道をみればわかる。
彼には明らかに退化している。人間としての機能が退化している。「他人を思いやる心」が無い。共感能力が無い。法がない。
退化することで,自然淘汰を免れ,旧人と共に暮らす進化ベクトルをおせんだのではないか。
ここで一つの答えがある。
どうして,プレ・ネアンデルタールは人間から分離してしまったのか。後期型ネアンデルタールは明らかに人間と違う形態をしているが,初期型ネアンデルタール,つまりプレネアンデルタールは人間と極めて似通っている。まだ分離して間がないからだ。
このため,「進化している」と当初勘違いされた。実際,ネアンデルタールは80万年前に人類から分離して「退化」したのだ。
なぜ退化したのか。
そこには「原人」がいた。原人にふれた人間が,「他人を思う心」をなくすことで適応し,それが旧人へと「退化」したのではないか。
彼らは知能の問題から,人間と動物を見極める能力を有さない。だから信じては裏切られ,ということを繰り返し,そのうち考えることも信じることもやめて,機能そのものを遺伝から削除した。
退化した。
それが生きる術だった。
島嶼部の人間は,旧人を殺せば次はこないため,人間同士で生活し,人間特有の機能をそのまま進化させた。
協力すること,信じること,愛すること,理解すること,尊重すること。
アルフレッド・セイヤー・マハンによれば,シーパワーとランドパワーはあきらかに区分することが出来るとする。
それは地政学上の問題では論じることの出来ない,思想・思考の違いがある。
ホモサピエンス,つまりアダムの子孫が住む地域は,日本,イギリス,台湾,およびこれらのイギリス人の子孫が入植した地域に限られる。
自分が信じても相手は信じてくれない。自分が誠実にしても相手は適当。与えた分だけ相手に着服される。
そんなことを繰り返していては,自分が死ぬ。だから,死ぬ前に彼らを殺すか,或いは自分自身が「彼らと同じになる」しかない。選択肢は二つしかない。
私は,旧人を殺すことが正しいと思う。
それは私の生育環境に人間が多かったことが原因していると思う。
私のこの意思は,ここに矮小ながら発信している。
あにたは私の意思に共感するだろうか?
もし共感したならば,もっと私を知って欲しい。私の考えや発想を暗記するほどに知って欲しい。そして私の目的をより理解してほしい。
それがあなたの利益になるのだから。
一体だれが,愛のない世界,他人の協力のない世界に生きたいのだろうか?
「他人を信じ合い,協力すること」でビルがたつ。製品が出来る。
これを壊すことなく,維持発展させるには,旧人・原人を皆殺しにすることだ。
最近は「DISりたい奴の文章を勝手に増田に転載してブックマーカーに叩かせる」という手法がはやってるらしいので、某所で見かけた電波文を載せてみました。