
はてなキーワード:気づきとは
ぶつかりおじさん」ってよく話題になるけど、あれ、意図的にぶつかってくるやつだけじゃなくて、そもそも女を避けない男が多い問題もあると思う。
女同士だとすれ違うときお互いちょっとずつ避けるじゃん。でも男の中には、こっちが避ける前提で突っ込んでくるやつがいる。
■ 男友達に聞いてびっくりした話
前に男と話してて衝撃を受けたんだけど、「自分より体格がでかいやつ、喧嘩して負けそうなやつには自然と萎縮する」って言うわけ。
いや、女にはその発想ほぼないんだわ。
女同士でもいじめはあるけど、「こいつ殴り合ったら勝てそう」みたいな基準で相手を値踏みしたことある女いる? 少なくとも私はない。実際、体格の小さい女が大きい男をいじめるパターンもあるし。
・自分より小さい女 → 避けない、譲らない
要するに**「舐めてる相手には道を譲らない」という無意識のルール**で動いてる。
一方、女はそもそもその序列意識を共有してない。だからすれ違いざまに「なんで避けないの?」となる。
避けないだけならまだ「歩き方の癖」で済むかもしれない。
でもぶつかった後に謝らないのはどう説明するの?
女同士でぶつかったらほぼ100%お互い「すみません」って言うじゃん。でも男→女だと無言で去っていくやつ、めちゃくちゃ多くない?
同じ男でも、ガタイのいい男にぶつかったらちゃんと謝るんじゃないの?
■ まとめ
「ぶつかりおじさん」現象の内訳
2. 「弱そうな相手には譲らない」序列意識で動いてるやつ(これが結構いる)
2の存在に女側が気づきにくいのは、女同士ではその序列意識が働かないから。
男に聞いてみて。「体格いいやつには萎縮する?」って。結構「する」って答えると思う。
それ、女には意味わかんないんだわ。
もう、一年以上だと思う。
別に、喧嘩をしたわけではない。妻が明確に「やめてほしい」と言ったわけでもない。ただ、自然と、そういう時間が消えていった。
誰が悪いわけでもなく、ただ、いつの間にか距離ができていた。 <h3>o- **</h3>
長男が生まれてから、セックスの頻度は減った。そりゃそうだ。妻は、寝不足だし、体力も消耗している。子どもを産む過程で、身体も傷ついている。
僕も、その時点では、理解していたつもりだ。
「しばらくは、セックスの頻度が減るのは仕方ない」
そう思って、我慢していた。 <h3>o- **</h3>
だが、長男が3歳になっても、変わらなかった。
その時点で、妻に「そろそろ、セックスしたい」と言ってみた。
妻の反応は、冷たかった。
「え、何で」
その一言に、すべてが詰まっていた気がした。
「え、何で」というのは、「なぜそんなことを言うのか、理解できない」という意味だったのだと思う。 <h3>o- **</h3>
抱きつくと、体が固くなる。キスをしようとすると、避ける。
確かに、妻は疲れているのかもしれない。育児、家事、仕事。すべてを一人でやっているようなものだ。
だから、僕も、それ以上は言えなくなった。 <h3>o- **</h3>
妻は、別に「セックスが嫌い」なわけではなく、「僕とのセックスが嫌い」なのではないか、ということだ。
なぜなら、妻は、友人と話をするときは、楽しそうにしている。子どもと遊ぶときも、笑顔がある。
ただ、僕に対してだけ、その笑顔が消える。
その態度が、セックスのときに特に顕著になるのだ。 <h3>o- **</h3>
昨日、思い切って、妻に聞いてみた。
妻は、少し考えてから、答えた。
「そんなことはない」
だが、その声は、説得力がなかった。 <h3>o- **</h3>
その後、妻がぽつぽつと話してくれたことは、以下のようなものだった。
「それに、あなたは、セックスをしたいだけで、私のことを見ていないような気がする」
その言葉を聞いて、僕は、何も言えなくなった。 <h3>o- **</h3>
実は、妻の言葉は、当たっていた気がする。
妻のことを「愛している」と思っているが、その愛情は、セックスをしたいという欲望と、どこまで分離されているのか、正直なところ、わからない。
妻は、それを感じ取っているのかもしれない。 <h3>o- **</h3>
セックスを嫌う理由を、単純に「疲れている」「体力がない」と説明することは、簡単だ。
妻は、単に「セックス」を嫌っているのではなく、「セックスを通じて見える、僕の本当の姿」を嫌っているのではないか。
セックスのとき、僕の中の「欲望」が露わになる。そして、妻は、その欲望を見て、「あ、この人は、私のことを『個人』として見ているのではなく、『性的な対象』として見ているんだ」と気づいてしまうのではないか。 <h3>o- **</h3>
最近、僕は、セックスをすることより、妻の心を取り戻すことの方が大事だと感じている。
妻は、セックスを嫌うのではなく、僕の「本当の気持ち」を見たいのかもしれない。
セックスの中に、愛情があるのか、それとも単なる欲望があるのか。
その区別を、妻は問い続けているのだと思う。 <h3>o- **</h3>
答えは、簡単ではない。
僕は、妻を愛している。ただ、同時に、妻とセックスをしたいとも思っている。
その二つが、完全に一体なのか、それとも分離しているのか。
その問いに対して、僕は、まだ、答えを持っていない。
ラインハルトは、病名すら特定されなかった「皇帝病」で崩御したとされています。公式発表は「過労と持病の悪化」ですが、これはあまりにも曖昧で、歴史上の権力者の急死を糊塗するための常套句に聞こえます。
ラインハルトは戦争終結まで戦場に立ち続け、精神力で病状を抑え込んでいたとはいえ、宇宙統一という目標達成後、あまりにも急速に衰弱し、崩御しました。
新銀河帝国には、当時の人類最高の医学力が集結していたはずです。にもかかわらず、治療不能な「奇病」として処理されたことは、病の背後に人為的な要因(=検出不可能な毒物)が隠されていた可能性を強く示唆します。毒殺が実行された場合、検視や病理解剖が行われても、皇后の権力によって結果が捏造されるのは容易であったはずです。
暗殺を成功させるには、「機会(チャンス)」と「アクセス(対象への接触)」が不可欠です。病床のラインハルトに対し、これを満たせる人物はただ一人、昼夜を問わず看病にあたった皇后ヒルダ以外にいません。
病気のラインハルトは、誰にも気付かれず毒を摂取させるのに最も都合の良い環境にありました。食事、飲み物、そして何よりも薬の調合や投与。これらの全てを管理・監督できるのは、最も近しい存在であるヒルダだけです。
病状の悪化に伴い、ミッターマイヤーやロイエンタールといった外部の人間はラインハルトから遠ざけられました。たとえ彼らが面会を許されても、飲食物に細工を施すことは不可能です。
毒殺が実行されたとするなら、それは看病という最も神聖な行為の裏側で、ヒルダの献身的な愛の行為を装って行われた、極めて周到な計画だったと断じるのが順当です。
ヒルダは単なる皇后ではなく、優れた政治家であり、ラインハルト亡き後の帝国体制の構築を深く見据えていた人物です。彼女にとって、ラインハルトの早すぎる死は、悲劇であると同時に「政略的チャンス」でした。
ラインハルトが長く生きれば、彼は再び戦火を求めるか、あるいは自ら政務を執り続けるでしょう。しかし、彼が今死ねば、わずか生後数ヶ月の息子、アレクサンデル・ジークフリード大公が皇帝に即位します。
ヒルダは、その幼帝の「摂政」として、新銀河帝国という巨大な艦の舵取りを名実ともに掌握できます。彼女は、夫の遺志を継ぐという大義名分のもと、いかなる反対勢力もなく、実質的な最高権力者として帝国を統治し、自身が理想とする平和で安定した統治体制(ローエングラム王朝の永続)を確立することが可能になります。
ラインハルトは過労で弱り、病床に伏すという醜態を、最も嫌っていたでしょう。
ヒルダのラインハルトに対する愛は、彼の「偉大さ」に対する畏敬の念と不可分でした。彼女は、ラインハルトが「全宇宙を統一した直後」に、病という自然の摂理に打ち克てず崩御するという、「完璧な悲劇の英雄」として歴史に刻まれることを望んだかもしれません。
病で苦しむ姿を晒させず、理想の頂点で幕を引かせること。これは、愛する夫を「歴史」という永遠の舞台に立たせるための、恐ろしいまでの「慈悲の暗殺」だったとも解釈できます。
パウル・フォン・オーベルシュタインの死は、この毒殺説の補強材料となります。
オーベルシュタインは、ラインハルトの病状を把握していた数少ない人物であり、その容態の不自然さ、そしてヒルダの動機を誰よりも深く理解できたはずの、冷徹なリアリストでした。彼こそが、ヒルダの企みに気づき、彼女を脅かし得る唯一の人物でした。
彼は、ラインハルトの最期の瞬間に、地球教徒を囮にするという彼自身の策でテロの標的となり、爆死します。この「殉死」はあまりにも劇的で、真相を知る者への口封じとしては完璧すぎる幕引きです。彼の死は、ラインハルトの崩御と時期を同じくして、「不都合な証人」を消し去るためのヒルダによる最後の「工作」であった可能性を排除できません。
『銀河英雄伝説』の物語の背後には、愛と政略が交錯した究極の陰謀が隠されていたと結論づけられます。ヒルダは、最高の機会、最強の動機、そしてその後の歴史を支配する能力を持っていました。
これまでの成功者、人生における勝ち組は「金持ち」だったと思う。
なぜならこれまでの「金」は「信用」の裏返しだったが、
犯罪で得た「金」は「信用」の裏返しじゃないということに、
現に、今、日本人の何%が給料が振り込まれた後、給料日に現金を全額下ろしに行っているだろうか。
PayPayをはじめとするQR決済や、Suicaをはじめとする交通系ICなど、スマートで便利な世の中で、スマート人間の行動はすべて記録されている。
Amazonの購買履歴や、LINEギフトの履歴をたどれば、どれだけ「他人に対して」お金を使ったかがわかる。
これからの時代は「他人に対してどれだけ貢献できたか」が人間の真価になっていく。
信用のスコア次第でその人が使える「金額(与信枠)」が変わっていく。
なぜなら日本円の価値が下がっているのではなく、貨幣という意味での金そのものの価値が下がっているから。
現にコンビニ一つ取ったってそうだ。
ローソンのアプリでは、dポイントやPontaポイントで格安で商品と交換できる。
ファミマのアプリでは、無料で商品をサンプリングしたりしている。
同じ100円のものを何円で買うかは人によってもう違うのだ。
気づいた人から行動し始めている。
現金のない人はキャンペーンに乗っかってどんどん節約・ポイ活しよう。
未来は明るい。
自分のために使うのも、巡り巡って他人のためになる。(税という仕組みがあるから)
自己破産は望ましくないけど、
世の中のメンクリサイトや本を読むと、精神疾患の説明ってだいたいこんな感じで書かれている。
•うつ病:
「何をしても楽しくない」「体が重い」「朝起きられない」「自分を責めてしまう」
•パニック障害:
「急に死ぬかと思うほどの不安」「心臓がバクバクする」「息苦しい」
• 「奇妙な言動」
• 「不自然な表情」
これ、本当に良くないと思っている。
少なくとも、私はこの説明文だけ読んでいたら病識には絶対たどり着かなかった。
⸻
Twitter で「統合失調症の“まとまりのない行動”の典型例」として流れてきた動画がある。
エレベーターの前で、誰もいないのに外を何度も覗き、身を隠したり出たりしている人の映像だった。
それについて「思考のまとまりがない」と説明されていたのだけど、
私にはどう見てもエレベーターの外に“いるはずの誰か”を本気で警戒して、
• 本人の内側では
「そこに敵がいる」「監視されている」っていう一本筋の通ったストーリーがある
だから本当は、統合失調症って「まとまりがない病気」じゃなくて、
この世の雑多でバラバラな出来事を、無理やり“一本の意味のある物語”に
普通の脳は、世界の9割9分を「どうでもいいノイズ」として捨てている。たまたま聞こえた音、
全部忘れていく。
• 捨てるはずの雑音にまで意味をつけ始める
世界が「ただの雑多な世界」ではなく、全部が自分に関係のあるサインで埋め尽くされている世界に変わる。
外から見ると「話が飛んでいる」「行動が支離滅裂」に見えるけれど、本人の中ではむしろ過剰に筋の通った世界になっている。
⸻
統合失調症の症状としてよく挙げられるのは「幻聴(誰かの声)」だ。
• 壁のシミや模様がぐるぐる動き出したり
そういう形で世界が変わっていった。
「覚醒剤様症状」と勝手に呼んでいるが、本当にそんな感じだった。
•多幸感で満ち溢れる
そういうモードが、家の中を歩いているだけで突然オンになる。
さらにひどくなると、作為体験(させられ体験)が重なってくる。
• 首が勝手に振れる
• そのポーズで「丸・バツ・祈り」みたいに妄想上の相手と会話が進んでいく
• 外壁に腕を擦り付ける、自傷行為になる
• 防御もせずに後ろ向きに倒れて、実際に脳出血まで起こした
このへんの詳細は別で書いたけれど、とにかく体がマリオネット化した。
そのときの私は、「世界中が諜報している」「自分の思考が漏れている」みたいなストーリーを、本気で本気で信じていた。
今振り返れば完全に病気の症状なのだけど、そのときの内側では、
世界はバラバラどころか、あまりにも鮮明で、意味だらけで、一本の物語として完璧に“まとまりすぎていた”。
⸻
こういう体験をしたあとで、一般向けの統合失調症の説明文を読むと、だいたいこう書いてある。
• まとまりのない会話
• 奇妙な行動
• 誰かに操られていると思う
いや違うんだよ、と思う。
• 「操られている“と思う”」じゃなくて、実際に体が勝手に動くレベルまでいったりする
• 「まとまりがない」のではなく、本人の中では過剰に筋の通った世界になっている
• その結果だけ切り取るから、「よく分からない変な人」の説明になってしまう
私は母親が統合失調症なので、一般の人よりは多少知識があるつもりだった。それでも、
なんて、どこにもちゃんと書いていなかった。
だから、世に数多あるメンクリサイトの説明文だけ読んでいたら、私は病識にたどり着けなかったと思う。
「私はここまでぐちゃぐちゃじゃないし、まとまりもあるし、声も聞こえないし」
で、終わっていたはずだ。
実際には、
かなり危険なところまで行ってから、ようやく「これはさすがに現実じゃない」「病気だ」と気づいた。
もっと早く、「中身の感覚」から書かれた説明に出会っていれば、と思う。
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理想の統合失調症の説明は、こんなふうに始まってほしいと思う。
・些細な音や出来事が、自分に向けられた“サイン”に感じられる
・ニュースや看板、広告、SNSの文字が、「自分への暗号」に見え始める
・頭の中のストーリーが勝手に組み上がり、なんでも自分と関係づけてしまう
・自分の体が、自分の意思ではない何かに動かされているように感じることがある
そのうえで、こうした「中身の変化」が続くと、外から見たときには
・話が飛んでいてまとまりがない
・奇妙な行動に見える
といった姿として現れます。
と説明するならまだ分かる。
でも現状は、「外から見た変な行動」だけが症状として切り出されていることが多い。
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自分のケースだけ見ても、
だからこそ、「変な人の特徴一覧」ではなく、
むしろ、雑多でバラバラな世界を、ぜんぶ自分に関係のある“一本の物語”にまとめすぎてしまう病気と表現した方が、当事者の体感には近い。
私自身、
を書き始めたのは、
「教科書どおりじゃない統合失調症」でも、「これは病気のせいだ」と気づいていいんだよ
というのも、私自身が「自分は統合失調症だ」と気がつけたのは、
教科書にあるようなぼんやりしたものではなくはっきり見える幻覚について書かれた体験談を、
なので、こういう話が、誰かの「違和感」や「もしかして」に届いて、もう少し早い段階で治療につながるきっかけになればいいなと思っている。
この次の日、実物を持ってきてくれました。
うん、全然セーフ! お忙しい中、ご対応ありがとうスンマセン。
(ブコメを読んでいて)
以前はライオンの猫砂は使ってた。それは破れてた事はなく、いま使ってるのはアイリスオーヤマの砂→https://amzn.asia/d/2EkReX5 (レビューを参考されたし)
要因のひとつに袋が7L入り~で、ライオンのより大きく扱いづらいからではないかという気づき。
それからクロネコの拠点ではないかという指摘と、ベルトコンベアの体験談。
そうやって送られて届くのかー、知らなかった。
ともあれ猫砂の宅配は本当に助かっているので、
タイトルのまんまなんだけど、猫のトイレ砂(猫砂)をネットで買っている。
猫砂は重いので、同じような人はそこそこいると思う。
で、いったん経験すると楽なので定期購入へ流れる人もそれなりにいる。
それ位には需要がある。
「猫砂、よく破れてるよね」
「原因、梱包だよね」
うちの場合Amazonで毎月(4袋入り1セット)。ストック用を年に数回、楽天やヤフーショッピングで購入している。
まーよく破れている。
ちょい破れだとガムテが貼ってある。
思い切った破れだと、なんか赤紙みたいのが貼ってあった。
置き配指定しているのだけど、配送の方が「どうしましょうか」と受け取るかどうか確認に来られる。
Amazonはここ2ヶ月破れもなく完全形で届いている、驚きだ。
まーだってさ、店頭で見るあの重い米袋みたいなの(外袋もただのビニール袋)を、さして丈夫でもない紙製のロット袋(正式名称不明。メーカーが何個かごとにまとめていれてる袋)に荷札を貼り付けただけなんだもん。
何かにぶつける、ちょっとひっかける、落とす等で破れちゃうよね、科学と物理の力でさ。
もう細かいことは気にしていない。
そもそも重い物を持ってきてもらえるって事がありがたい、だからネットで買ってる。
ただ運送会社さんは気になさる。
そんなこんなで「運送途中で破れた猫砂をどうしましょうか」の連絡待ちのため、休日を家で待機している。
まあ、しょうがない。
もしかすると、これは「同人誌」か、あるいは「パロディ」だったのではないか?
察しのいい人なら、もうお気づきだろう。
おそらく、「浦島太郎」の原型となる本当の物語は「島太郎」だったのではないか。
助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、やがて地上に戻ってくる——筋書きはほぼ同じだ。
だが、その「島太郎」には、もっと納得のいく結末があり、きちんとした“教訓”が添えられていたのだろう。
人が善行を積めば報われる、あるいは欲を抑えることの大切さ。
そうした昔話らしい道徳が、そこにはあったはずだ。
その「島太郎」は、人々に広く親しまれた普及版寓話となり、語り継がれていった。
「なあ、本当の“島太郎”って、実はこんな感じじゃったんじゃないか?」
こうして、“裏の島太郎”、すなわち『裏島太郎』(のちの「浦島太郎」)が生まれたのではないか。
「裏島太郎」は、原作『島太郎』を知る人々にとって、笑いと風刺に満ちた逸話だったのだろう。
亀を助けても得をせず、むしろ玉手箱を開けて老人になってしまうという結末。
本来なら報いがあるはずの展開を、あえて逆転させた不条理さが、当時の人々には痛快に映ったのかもしれない。
だが今では、肝心の「島太郎」そのものが忘れ去られてしまった。
だからこそ『浦島太郎』を読むと、なにか“狐につままれたような”不思議な感覚を覚えるのだ。
本来の寓話をパロディ化し、教訓を脱臼させた——それが、私たちが知る『浦島太郎』という不思議な物語の正体なのかもしれない。
『島太郎』を知る者なら、その構造のユーモアに思わず笑ったことだろう。
結果として、“原典不明のパロディ”が“正典”として君臨することになったのだ。
案外、この仮説、間違っていないような気がしてならない。
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
辛い。
人生を戦う準備を整えることが出来ないまま人生が引き返せない所まで来てしまった。
たまたまアスペ気質の両親からそれを受け継いだ状態で生まれた時点でもう半分詰んでたんだと思う。
更には3月後半という最悪すぎるタイミングだったのもエグい。
生まれてからずっと「人より一歩出遅れているのが自分にとっては当たり前」という感覚で生きてきた。
その感覚は根強く、大学受験の時に一浪して生まれたタイミングによる遅れを周回を変えることで取り戻してもその感覚は変わらなかった。
染み付いた週刊による複利のようなものが積み上がっていたんだと思う。
就活でも見事に出遅れ、色々と引き伸ばしながら、この年になってようやく事務職としてそれなりに安定した人生を手に入れた。
いや、手に入れてなんていない。
事務職しか出来ないままアラフォーの壁を超えてしまったんだから、不安定な職歴のまま常に詰みと隣り合わせで生きる人生のレールに乗っているだけだ。
まともな職歴がない。
マクロもロクに使えないし興味のある分野もない事務職のオッサン。
そして学生時代に1/4が。
35歳までにどこで何をするかで1/4が決まる。
俺の積み上げてきた3/4は、出遅れたアスペが、十二分な学歴もなく、まともな職歴もないまま年だけ取った、そんなかなり酷いものだ。
犯罪歴はない。
重い病気もない。
結婚歴がないのは最悪を想定するならある意味で幸福かも知れない。
かなり悪いが、最悪ではない。
10段階で3ぐらいの所にいる自覚がある。
この人生があと50年続く。
人生は頭の方に重要なことがやってきて、それから先はその複利で回る。
俺はそれに失敗した。
苦しい。
こういう話をすると「チャップリンは~~~」何て言う人がいるけど、勘弁して欲しい。
それを無視してスターとして光り始めた年齢だけを語る無知な連中は本当にクソッタレだ。
積み上げてねえんだよ俺は。
でも積み上げてこなかったというだけで「はい。お前の人生残り50年ゴミね」と言われて受け入れられねえんだよ。
辛いよ。
こっからどうしたらいいんだろうな。
なんかもう全部忘れて気楽に生きるか。
たとえばインターネットにいるアホ共みたいに生きるか。
よっしやるぞ。
はぁ・・・
それまで楽しく会話していた友人が、話の内容とはまったく関係なく、急にものすごいしかめっ面をして口を閉じてしまった
ビビりつつ、どうかしたのかと聞くと、友人は顎で増田の背後を示しながら、小声で
「クチャラー」
と短く吐き捨てた
あからさまにならないよう慎重に後ろを確認すると、中年の男性が一人で食事していた。よく耳を澄ませてみると、たしかに咀嚼音が通常より大きい。世間的に“クチャラー”と呼ばれる範疇だろう
クチャラーの存在を確認したので俺は、ああ、クチャラーだね。嫌だね。と素直に言った。正直、それで話は終わりだと思っていた。
ところが友人は、その後の食事が終わるまで、クチャラーがいかに全人類にとって有害な存在なのかを延々と語り続けたのだった……
たしかにクチャラーは不快だ。俺だって、なるべく清潔感のある空間で食事をしたい(クチャラー=不潔ではないかもしれないが、問題はあくまで“清潔感”のほうだ)
だが今回に限って言えば、どちらがより不快だったかといえば、明らかに友人のほうだった。
俺が気づきもしなかったクチャラーの存在を、わざわざ指摘して咀嚼音を認識させてきた(そもそも、より距離が近いはずの俺が気づかない音に反応してしまうあたり、敏感すぎる)
さらに不機嫌な態度を隠そうともせず、クチャラーの話を引っ張り続け、目の前の相手との会話を楽しもうとする努力を放棄していた
こういう人と一緒に食事をするのは、無駄に不快な気持ちになるリスクが高すぎる
そして、偶然クチャラーに遭遇するリスクは避けようがないが、過敏な友人と食卓を囲むリスクは避けることができる
まだ縁を切るところまではいかないが、この友人とは二度と一緒に飯を食いたくない
Permalink |記事への反応(11) | 19:55
⸻
第6章は、タタルスキーが広告の力を社会的・政治的文脈で意識し始める章 です。
⸻
◆ 1. 新しいクライアントの登場
タタルスキーの代理店に 大規模なクライアント が登場します。
•外資ブランドではあるが、ロシア国内向けの政治的・社会的メッセージも含む
この時点でタタルスキーは
⸻
タタルスキーは単なる文章ではなく、広告キャンペーン全体を設計する任務を負います。
•商品の機能や利点ではなく、消費者の心理的・感情的反応を操作
世界を改変する道具だ。」
ここで、タタルスキーは広告と社会操作の相似性に気づき始めます。
⸻
• どのイメージが購買欲を刺激するか
タタルスキーは、詩人としての直感を駆使して無意識を“読み解く”。
• これまでのコピーは単純な文章だったが、今や「人間心理を操作する設計図」となる
⸻
ここでペレーヴィンは、広告の**「現実超越的な力」**を象徴的に描写します。
⸻
第6章の後半で、タタルスキーは初めて政治的権力と広告の接点 に触れます。
• 「ブランド=国家イメージ」の同一化という概念が暗示される
タタルスキーはここで、
広告の才能は単なる消費社会だけでなく、国家規模のイメージ操作に応用可能
⸻
• これまでの詩的直感が新しい力として具現化
3. 野望の芽生え
⸻
◆ 7. 第6章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント 高度な広告戦略に携わり、政治的応用の兆しを掴む
物語的役割 タタルスキーが“広告→社会→政治”の拡張を初めて意識する章
⸻
第6章は、
タタルスキーが個人消費の魔術師から、社会的・政治的魔術師へと意識を拡張する重要な章
です。
⸻
第5章は、タタルスキーが広告コピーライターとしてのスキルを活かし、初めて“消費者だけでなく政治・社会”に影響を与える可能性 を感じる章です。
⸻
広告代理店での仕事は順調に進み、タタルスキーは次第に自信をつける。
⸻
“売上が落ちている高級飲料” がある。
• タタルスキーはコピーだけでなく、広告キャンペーン全体を企画することに
具体的には:
• 「消費者に“自分が成功者であるかのような錯覚”を与える」
⸻
• タタルスキーは初めて、自分のコピーが個人の購買だけでなく、社会全体に影響を与える可能性を知る
これが後に、タタルスキーが国家プロジェクトに関わる伏線になる。
⸻
• 人々は「物語」を信じることで行動する
•広告は商品を神格化する手段であり、現代の“新しい宗教”のようだ
⸻
代理店での仕事に慣れてくると、タタルスキーは金銭的な快感を覚える。
•社会的地位が少しずつ上がる
⸻
3.未来の予感
•広告技術は個人消費だけでなく、政治や社会操作にも応用できる
•自分の才能が“国家レベルのイメージ戦略”で試される日が来るかもしれない
⸻
◆ 7. 第5章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント タタルスキーが広告の現実操作力に気づき、政治的応用の可能性を意識する
物語的役割 タタルスキーが“個人消費から社会・政治操作へ”視野を広げる章
⸻
第5章は、
広告の魔術的力を自覚しつつ、政治や権力に接続する兆候を掴む重要な章
です。
第1章の超詳細解説です。
(※章分けは代表的な版の構成に基づいています。版により細部がずれる場合がありますが、タタルスキーの物語の最初の区切りとして扱います。)
⸻
🟥 第1章:タタルスキーの転落と“資本主義の匂い”との最初の接触
⸻
◆概要
タタルスキーがソ連から資本主義ロシアへ放り出されて生き残りに苦しむ様子が描かれる章。
彼が広告業界に足を踏み入れる“きっかけ”がここで与えられる。
物語全体の導入として、
・新世界への戸惑い
が非常に濃く提示される。
⸻
•毎日ただなんとなく過ぎていく
彼は“旧イデオロギーの残骸”を引きずるまま、新しい価値観に適応できない。
「Vladimir Ilyich Lenin」の略 =ソ連の遺物
• それが今、何の役にも立たない
旧ソ連の精神が、資本主義ロシアで役に立たないという象徴がこの章の基調。
⸻
◆ 2. タタルスキー、知人と再会
物語の転機は突然訪れる。
タタルスキーは偶然、大学時代の知人であるゴリンスキー と再会する。
• 良い服
• 太った財布
• 余裕のある態度
を身につけている。
この再会は、タタルスキーの“観念の崩壊”をさらに加速させる。
⸻
彼が困窮していることを察すると、こう言う――
「コピーライターをやってみろ。
• とにかく広告が足りない
•給料は今の何倍にもなる
⸻
この章のクライマックスは、タタルスキーがゴリンスキーと座る店の描写。
タタルスキーはそこではじめて、
を肌で感じる。
この「世界が広告になる」という感覚は、後半で国家レベルのメディア操作へ発展していく伏線。
⸻
• 興奮:言葉を使って金を稼げるかもしれない
タタルスキーは、
⸻
◆ 6. 第1章まとめ(象徴的整理)
項目 内容
タタルスキーはこの章で、
これが全編を貫くテーマの萌芽となる。
第1章の超詳細解説です。
(※章分けは代表的な版の構成に基づいています。版により細部がずれる場合がありますが、タタルスキーの物語の最初の区切りとして扱います。)
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🟥 第1章:タタルスキーの転落と“資本主義の匂い”との最初の接触
⸻
◆概要
タタルスキーがソ連から資本主義ロシアへ放り出されて生き残りに苦しむ様子が描かれる章。
彼が広告業界に足を踏み入れる“きっかけ”がここで与えられる。
物語全体の導入として、
・新世界への戸惑い
が非常に濃く提示される。
⸻
•毎日ただなんとなく過ぎていく
彼は“旧イデオロギーの残骸”を引きずるまま、新しい価値観に適応できない。
「Vladimir Ilyich Lenin」の略 =ソ連の遺物
• それが今、何の役にも立たない
旧ソ連の精神が、資本主義ロシアで役に立たないという象徴がこの章の基調。
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◆ 2. タタルスキー、知人と再会
物語の転機は突然訪れる。
タタルスキーは偶然、大学時代の知人であるゴリンスキー と再会する。
• 良い服
• 太った財布
• 余裕のある態度
を身につけている。
この再会は、タタルスキーの“観念の崩壊”をさらに加速させる。
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彼が困窮していることを察すると、こう言う――
「コピーライターをやってみろ。
• とにかく広告が足りない
•給料は今の何倍にもなる
⸻
この章のクライマックスは、タタルスキーがゴリンスキーと座る店の描写。
タタルスキーはそこではじめて、
を肌で感じる。
この「世界が広告になる」という感覚は、後半で国家レベルのメディア操作へ発展していく伏線。
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• 興奮:言葉を使って金を稼げるかもしれない
タタルスキーは、
⸻
◆ 6. 第1章まとめ(象徴的整理)
項目 内容
タタルスキーはこの章で、
これが全編を貫くテーマの萌芽となる。
タイトルが強い言葉になってしまって恐縮ではあるが、現実的に障害者にマッチングアプリは厳しい。
筆者は男なので女性の場合は不明で申し訳ないが、少なくとも男性の場合はそうだと思う。
マッチングアプリを始めた経緯:
歳も歳であるし前々から結婚したいと思っていたが、直近で好意を寄せていた女性に振られた。
そこで漸く結婚相談所に入る決心をつけたが、私的な事情により今年中は入ることができないため、お試しで一ヶ月やってみることにした。
無論遊び目的ではないし、彼女ができたのであれば真剣に付き合うつもりではあった。
利用したアプリ:
with
著者のスペック:
性別: 男
年齢: 32
学歴: 旧帝院卒
年収: 800万円
身長: 160cm
体型:スリム
顔: チー牛の系統だが最低限の毎日のスキンケアや眉毛サロン等は済
活動内容:
自分のスペックは身長・病気・実家暮らしの部分で他の男性会員と比較して劣後しているため、選ばれにくい状況ではあると推測。
競合の少ない(=いいねの少ない)女性会員を中心にいいねとメッセージ付きいいね(ポイントにも限りがある為、こちらは特に好みの女性に絞って)を送信、巡回して足跡付け。
検索した際の女性の条件は27〜35歳、近辺の都道府県、子供なし、タバコ吸わない。
結果:
マッチ0。
調べたところによると足跡の平均は筆者の地域×男性で40程度であるし、確かに他の同性会員より多めとアプリ上で表記がなされている。
プロフィールを盛ることも一瞬考えたが、筆者は嘘をつけない性分な為にせず、自己紹介文や写真も色々変えてみたがすべて空振り。
彼女は過去3人おり、それ故コミュ力はそれほど悪くないと自負していたが、そこまでのメッセージのやり取りできる土俵にすら立てなかった。
雑多な感想:
マッチングアプリはハイスペ恋愛強者のためにあるというのはどうやら正しいらしい。
結婚するだけなら結婚相談所に行ったほうが近道ではあるのだろう。
ここまで辛辣に書いてきたが、逆に良い面もあった。
女性の検索条件を設定する上で、自分がお相手に対して本当に求めていることを見出すことができたし、プロフィールを表現する中で自分でも気づきは多く、また男女問わず友人たちにアドバイスをいただき、自己を客観視することができた。
自己認知を行うことができるという点では素晴らしい物であると思う。
さぁ〜頑張ろ(笑)
すべての者に幸あれ…!
【追記】
建設的なご意見いただいた皆様ありがとうございます。
女性には選ぶ権利があり、相手の素性や内面も分からない、殊マッチングアプリではリスクがある人を避けるのは自然な行動かと自分も思います。
タイトルは注目を引いて様々な意見を頂戴するために粗暴な言葉を使用しましたが、内容はすべて事実です。
個人的には障害者が恋愛をするならリアルな世界で行うのが一番だと思った次第でございます。
Permalink |記事への反応(14) | 23:09
ポリティカルコメディの佳作。増田政治クラスタは見たら笑ったり怒ったりできると思う。72点。
衆議院解散直前に地盤ガチガチの大物議員が倒れ急遽娘、宮沢りえを担ぎ出すことに。10年秘書を務める窪田正孝は政治の世界も世間も知らない素人娘のサポートにてんやわんや。なにもかもうまくいかない選挙活動を続ける中お互いの心境変化があって……
というお話。
個人的に若干ノイズだったのが宮沢りえの役が「バカ政治家」をカリカチュアしすぎていて現実感が薄いこと。
作中でどうやら父親に金を出してもらってネイルサロンを開いてそこのオーナーをやっているらしいことが示されるが、それ以外のパーソナルな情報をごっそり削ぎ落とされているので「そういう存在」として突然生み出されたような違和感がある。
政治家の娘でずっと秘書をやっていたので世間のことがわかっていない。はわかる。
政治家の娘だけど政治に関わっていなかったので政治のことがわかっていない。もわかる。
政治家の娘だから世間のことがわかってないし、政治に関わってないから政治のこともわからない。
は、そんな奴おるかなぁ……?になってしまう。
いちおうネイルサロンで従業員雇ってお商売やってるわけじゃん。いろんな人と話するわけじゃん。たぶんワイドショーとか好きじゃん(偏見)。世間一般的な炎上政治家リテラシーは備わってるんじゃないかなぁと思うのは、もしかしたら自分が所属するレイヤー以外を俺が甘く見すぎてるだけかもしれないけど。
それくらい宮沢りえは過去のバカ政治家炎上事件タスクを次々こなしていく。まぁそれが楽しいんだろと言われれば、確かに笑いましたけど!?と逆ギレするしかないんだけど、一方でこんなことするかなぁという気持ちもあったというお話。
ただ宮沢りえが自体はバカで無神経で甘やかされて育ったお嬢様を溌剌と演じていたし、政治の世界の波にもまれてワールドイズマインだった自分が崩れていくさまを細やかに演じていてよかった。
例えば、爆笑エピソードとして記者に「少子化問題について一言お願いします」と問われた宮沢りえが「結婚してないのに子供を産まないのは怠慢ですよね!」と答え、それを日本国旗アイコンが絶賛するというシーンがあるんだけど。これ実際に2025年に参政党の神谷が街頭演説でやってて反応もその通りで笑っちゃう、2022年の映画なのに。
また、途中で目的が変わって意図的に炎上しに行く展開になるんだけどその中で、敵対陣営の街頭演説中に乗り込んでいって拡声器で怒鳴りたてて妨害するというめちゃくちゃしよるシーンがあるんだけど、これも2024年の補選でつばさの党がやって大問題になったことと類似する。
気になる人も多いと思うけど逆にそれが面白いと思ったのはこういうズレを笑うタイプの作品に登場しがちな「世間の目」役のキャラが今作では登場しない。
地方議員も後援者も選挙事務所の面々もみんな政治の世界にどっぷりのアウトローたちだし、そこに紛れ込んでくる異分子である宮沢りえは世間感覚ゼロのヤバ女。アウトローたちは普通の感覚で見ればおかしいことを言ったりしたりするのを宮沢りえが「それってマジ?」とツッコミ、宮沢りえが政治的におかしなことをするとアウトローたちがツッコむという構図が楽しかった。
そういう意味ではこの作品では世間の目で見てまともなことはほとんど行われない。
また非常にシニカルにかつ現実的に政治の世界を捕えていて、賄賂の分配は非常にロジカルに単なる業務として行われているし、なによりフフってなったのは公示日に新人秘書に「当選しますかね」と聞かれた窪田が「するよ。世論調査の結果もらってるし、見てない?」と答えるところ。既に圧倒的地盤があるので、それをひっくり返されるだけのトラブルがなければ当選することは最初から決まっているという地方政治のある種の冷たさ。シビれるね。
後半の展開としては父親の政治スキャンダルが報じられさらにそれが事実で他の政治家のように秘書が尻尾切りされてシャンシャンになるところを目撃したり、実は父親の意向ではなく擁立で利害が対立した地方議員たちが「全員で操って各自の利権を最大化するためだけ」に自分が選ばれたことを知ったりして、すっかり政治の世界に嫌気がさした宮沢は落選することを決意する。
また窪田も病院で自分の生き方を振り返っていた宮沢の父親から「お前の考える自分の娘の幸せはお前が自分の幸せを押し付けているのではないか。もし(窪田の)娘がお前が考えるのと違う道を行こうとしていてもそれを受け入れてやれ」と言われ"選挙"の正しさを見失っていた自分に気づき宮沢に協力し共に落選を目指す。
ここから政治スキャンダルの証拠を暴露したり、さらに自分でもスキャンダルを起こしてそれを拡散してどんどん炎上しようとするのだが、そのたびに別の大きな社会的問題が発生し話題はかき消え、スキャンダルは別方向から評価されむしろ評価が上がって行ってしまう。
このあたりのドライヴ感はめっちゃ楽しい。こんな都合良くいかんやろ~とも思うのだけれど、小泉内閣の後半に支持率が下がりそうなタイミングでなんか別の大きなトラブルが起きてそれの対応に奔走しているうちにまた支持率が持ち直して、みたいなことが実際あったよなぁとも思ってしまう。政治という大きなうねりの中では個人の意思など問題にならないのだ。
そして最終的に宮沢は当選する。秘書の一番偉い人はこう言う「投票率低いからね」。そう、最低得票数が決まっている以上、投票率が下がる=浮遊票が減れば公示日に「当選する」と言われていた通り何もしなくても看板議員は当選する仕組みになっているのだ。言外のメッセージとして非常に強いものを感じる。
特筆してなかったけど窪田正孝はいい役だった。達観しながら諦観していて"政治的"常識人でありながら一児の父としてかろうじてつま先を現実に残している。
特によかったのは宮沢が選挙の裏側の汚さをマスコミに暴露すると騒ぐシーン。
宮沢に対して「たぶんメディアは相手にしない」と告げつつも「仮に報道されてもこちらとしては把握してないとリリースを出すし、本人に問題があるので信頼できる情報とは言えないとしてこちらが把握している過去のあなたのスキャンダルをどんどん出していくことになる。そうなった場合、仮に落選することができても貴方のその後の人生にも多大な影響を与えることになる」とめちゃくちゃ申し訳なさそうに腰を低く脅迫する。
こいつ終始腰が低いのにデリカシーないしズバズバだしめっちゃいいキャラなんだよな。
宮沢との共闘前の印象的なシーンとしては、ノンデリ発言で宮沢ともめた後に事務所の屋上から「みんなからの扱いが雑で許せない。政治の世界もおかしい!改善されないならもう辞める!」と訴える宮沢に対して屋上に向かい「いまさらやめられない、そういうもんだ」と政治のうねりの中にいる人物として言外にシステムの冷徹さを示し、宮沢をビルから突き落とし(下には緊急用マットが敷いてある)、その後自分も飛び降りるシーン。
最後に自分も飛び降りるところで「こいつはなんだかんだ自分も渦中に寄り添える奴なんだな」と言うのが示されていてこういう人物描写好き。他人にやらせるだけのやつじゃないっていう。秘書の鑑。
全体的に静かなトーンで進行して敢えて面白おかしく描こうというよりも世間の常識は永田町の非常識という言葉があるようにそのズレがコメディとして成立していると確信して作られている強度が高い。真面目に作られているからこそ笑えるコメディ。
自分がAIイラストを描くようになったのは、一昨年くらいからだ。
Stable Diffusionを使って、LoRAを追加して、ControlNetも入れて、MidjourneyやNovelAIも試した。
出力されるイラストを見る都度アートだと思っていたし、創造だと信じていた。
でもある日、ふと気づいた。
これ、突き詰めたら全部データじゃね?
じゃあ数字で絵って描けるんじゃね?
思ったら試したくなるタイプなんだ。
使ったのは HxD。
画像を開くと――
そこに出てくるのは、色でも形でも影でもなく、
とか、
でも調べると全部意味がある。
89 50 4E 47 →PNGのヘッダ
IEND → 終端
一個ずつ追っていくと、
全部、0と1の変換でしかない。
そこで、自分で書き換えてみた。
目の色を変えてみたい
すると、青い目がボルドーっぽい赤に変わった。
線画を太らせたい
コードだけでいく。
線が、太った。
ペンを使って描いたわけじゃない。
ブラシで塗ったわけでもない。
影を深くする
これだけで影が落ちる。
画像って「絵」じゃない。
それに
・ガンマ補正をかける
・ベクトル変換をする。
“色を塗っている”んじゃない。
そう気づいた瞬間から、絵を描くのが楽しくなった。
だって、ペンを握ってるんじゃなくて数学を握ってる感覚なんだ。
最近は好きな音楽をFFT解析して、その周波数スペクトルを画素に変換して、色を割り当てて絵を生成することもある。
だから今日も、ディスプレイの前でコードを走らせながら微笑んでる。
絵は美しい。
そしてそれよりも、数字は美しい。
最近、よく聴いているポッドキャストがある。スタートアップの経営者がホストを務めるもので、その内容はビジネスや経済に関するものではなく、彼の個人的な視点からとある人文系のジャンルについて語られるものだ。
ビジネス畑の人のラジオなんてと思って、正直言って最初はあまり期待していなかった。しかし、聴いているうちに彼の語り口にどんどん引き込まれていった。
最近、彼が別のビジネス系のポッドキャストにゲストとして出演し
「年収3000万以上はいらない。正直3000万くらいで全然いい。それ以上貰っても不幸にしかならない」
というような趣旨のことを言った。
一瞬、耳を疑った。
年収3000万って、私にとっては信じられない金額だ。普段の生活圏内でそんなお金を得ている人なんて見たことがない。
友人、親戚、夫の親戚、クラスの子供の保護者すべてを含めても、だ。
そんな私にとって、年収3000万という額は別世界の話のように感じられる。ましてや、それを「それくらいでいい」と言える感覚が、まったく理解できなかった。
1000万とか1500万じゃないんだ?
3000万で十分だという感覚が理解できない自分が情けなくなるほどだ。
これが金銭感覚が狂わない範疇だと感じる人もいるんだなと改めて思い知らされた。
多分、はてなでもこういった価値観を持っている人はいるんだろうな、とは思う。
経済的に豊かで、自己肯定感も高い人たちの中には「3000万で十分なんて謙虚だね」と思える人もいるんだろう。
しかし、私は地方に住む庶民として、この金額がどれだけ異次元のものなのかを実感として理解している。
この金額に「それくらいでいい」という発言が出るということは、その人たちのいる世界が、私の世界とは完全に違うということだ。
今まで聴いてきた彼の話は、自分にとっては気づきや刺激を与えてくれるものであり、尊敬の念を抱いていた。
しかし、年収3000万が「それくらい」と感じる感覚が彼にあると知って、私はそれまでの彼の話が一気に色あせてしまった気がした。
もちろん、彼の言っていることを批判したいわけではない。むしろ、そういった感覚を持つことができるほど彼は安定した経済基盤や、物質的に豊かな生活を手にしているのだろう。
私が楽しんで聴いていた彼のポッドキャストも、もしかすると、私が想像している以上に「別世界」の人々に向けたメッセージだったのかもしれない。
私が楽しみに聴いているその番組の内容が急に色褪せていく。
これまでは、彼の言葉が自分の現実にどこかでリンクする感覚があったが、その感覚が突然切り離されたように感じてしまった。
結局のところ、私は勝手に彼を自分と近しい感覚を持った人だと期待していただ。
そのポッドキャスターが完全に異次元の存在であり、私が考えるような生活や価値観とは全く違う世界の人だったことを、今回の一言で痛感させられた。
でも、こうした感覚のズレを感じることこそが、価値観の違いに気づくきっかけなのだと思う。
自分が持っているものの価値や、自分がどういう立場にいるのかを再確認できた気がする。
そして、今後はそのギャップをどう受け入れていくかが大切なのだろう。
モヤモヤという言葉ほど便利で、同時に無責任な言葉はないのだと、最近気づきました。
それはおそらく、朝起きて夜寝るまで、ずっと心の片隅に何かが引っかかったままの状態で生きてきたからだと思います。その何かを、「モヤモヤ」と呼ぶことで、あたかも自分がそれを認識して、向き合っているつもりになっていたのかもしれません。
でも、実際には、何も向き合っていなかった。ただ、その感覚をそのまま抱えて、毎日を過ごしていたのです。
昼間、仕事をしているときに、ふと「今、楽しいのか?」と思うことがありました。楽しいとも言えず、つまらないとも言えない。その中間のような、グレーのような何か。
友人と話しているときも、食事をしているときも、好きなものを食べているときも、その「モヤモヤ」はいつもそこにありました。
その感覚が何なのか、ずっと言葉にできませんでした。「なんだか気分が悪い」「なんだか疲れている」「なんだか不安」。そうした言葉を試してみても、しっくり来ないのです。
結局、「モヤモヤしている」という言葉だけが残りました。その言葉を使うことで、自分は「感覚を認識している」という錯覚に陥っていたのだと思います。
ある日、ふと気づきました。
そのモヤモヤの中で、私は何か大事なものを失い続けているのではないかということに。
朝起きて、モヤモヤしたまま会社に行き、モヤモヤしたまま帰宅し、モヤモヤしたまま寝る。その繰り返しの中で、日々が過ぎていきます。
その過程で、喜びも、悲しみも、怒りも、そのはっきりとした感覚が薄れていくのを感じます。全てが「モヤモヤ」という灰色で覆われていくような感覚。
そのときに思ったのです。
考えてみると、モヤモヤというのは、実はとても便利な感覚なのだと気づきます。
何かに直面しなくてもいい。何かに決断しなくてもいい。何かに行動しなくてもいい。ただ「モヤモヤしている」という言葉ひとつで、全てが説明できてしまうのです。
それは、麻酔のようなものなのではないか。痛みを感じずに済むので、その場は楽です。でも、その痛みを治療することなく、ずっと麻酔を打ち続けていたら、いつか身体は壊れていくのではないか。
そのような感覚を、何日も抱えたままでいたら、やはり人生は色あせていくのではないか。
そう気づいてから、私は、ほんの少し変わったような気がします。
朝、目を覚ましたとき。その瞬間に「今、私は何を感じているのか」と問いかけるようにしました。
悲しいのか、楽しいのか、不安なのか、望みをもったのか。そのはっきりとした感覚に目を向けるようにしました。
ずっと「モヤモヤ」という言葉で覆い隠していたのは、実はこうしたはっきりとした感情だったのかもしれません。
その時間を、モヤモヤという灰色の中で過ごすということは、本当にもったいないことだと思うのです。
一日一日が、本当に貴重な時間なのだということに気づくと、その時間を何に使うかが、今までとは違って見えてきます。
モヤモヤとともに過ごすのではなく、そのモヤモヤの正体を見つめて、それでも何かを感じることの方が、ずっと豊かではないか。
そう思えるようになってから、日々が少しだけ違う色で見えるようになりました。
まず共産主義は言いすぎで、「ポスト資本主義」が妥当かもしれない。
前提として、マルクスは高度に発達した資本主義は共産主義に転化すると問いたわけだが、AI技術革新によりその傾向が強まる可能性みたいなものは、理論上は考えられる。
まず日本って、もともと共産主義っぽいというか社会主義っぽいというか、そういう素地がちょっとある。
人材不足が深刻で、自動化の圧力がめちゃ強いし、工場のFAとかロボット技術は世界的に見ても厚い。
社会保障も「バリバリの自由競争!」って感じじゃなくて、中程度の再分配がすでに組み込まれてる。
鉄道・電力・通信みたいなインフラは半公共みたいな企業が多いから、生産手段の「半社会化」も実はやりやすい構造。
まず、AIが企業の中にガンガン入って、単純労働や事務仕事が真っ先に消えていく。
正社員は残るけど、非正規がまとめてしんどくなる。企業の利益は出るけど賃金は上がらず、格差は広がる。
このへんで「AI税」「ロボット税」「BIどうする?」みたいな議論が出るけど、一気に改革は無理で、リスキリングとか失業給付の強化くらいが関の山。
次に、AIがホワイトカラーにも本気で食い込み、働きたくても職がない層が固定化してくる。
AIや企業の超利益に対して「もうちょっと分けろよ」という空気が高まり、特別課税や最低所得保障が広がる。
このあたりから「労働で稼ぐ社会」から、「AIと資本の成果をみんなで分ける社会」へ、じりじりシフト。
さらに、AIそのものが電気・水道みたいな公共インフラになっていく。
巨大モデルを民間だけで維持するのが非効率になり、国や自治体が「国民AIクラウド」を持つようになる。
生活の基礎はほとんど低負担か無料に近づいて、労働は「生きるため」じゃなく「やりたいからする」に変わっていく。
マルクス的に言うと「労働が苦役じゃなく自己実現になる」方向。
既得権にすごく気を使うし、変化はちょっとずつしか進めない文化だし、世代間対立を露骨に表に出さない。(ちょっとその辺は現在進行形で変わっているかもしれないが。)
だからダイナミックなBIとかAI課税は、基本めちゃ抵抗される。
たぶん実際に進む順番は「行政効率化 →高齢者ケア支援 →年金防衛 →若者にも最低所得保障つけるね」みたいな、「高齢者の安心」を前面に出した形。
インフラやAIは半公共、生活の基本はほぼ無料、みんなが国民AI基金の受益者で、フルタイム労働は今より少ない。
でも看板上は「資本主義+民主制+福祉国家」のまま、という中身だけ変わった社会になりそう。
逆に、悪い方向に振れると、AIの実権を巨大企業と官僚が独占して超格差社会に突入し、アルゴリズム管理がキツい「テクノ封建制」になる可能性もある。
分岐点は、
このへん。