
はてなキーワード:森田療法とは
ちょっとした工夫で恐怖を感じなくなった、みたいな話を読んで、あまりにちょっとした工夫なので、
それは思い付かなかった、なるほど、と思ってしまった…😟
まあ、それでも大学や会社では対処できない可能性があるのだけど、
諦めていた症状を治す方向性も少しずつやっていこうと思ったのでした…😟
パニック障害っぽいものとか、広場恐怖的なのもそういう方向性が良いのかもしれない
そういえば、VRで歯科の台が出てくるだけのアプリを前に使ってみたのだけど、
自分も歯科に対する恐怖はある、治療するたびに冷や汗が出るのだけど、
人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。
実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。
しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。
妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。
AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。
この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。
統合失調症やら引きこもりやらの個々人の具体的なきっかけや原因は千差万別なので参考になるかはわからないけど、自分は弟さん(追記:早とちりしたけど、お兄さんの可能性もあるか)と似た症状で3年くらい引きこもったことがあったよ。以下は自分語り多目で恐縮だけど参考までに。
当時の自分は自分を不甲斐なく思っていて、その自分を「以前の自分を知っている人」に知られるのが嫌だった。例えば、元同級生と出くわしそうな場所へは出かけたがらなかったし、近所の人ともできれば会いたくなかった。もっとも親しい友人にさえ顔を合わせることができなかった。
弟さんが出来ること・出来ないことを読んでみると、その辺がもしかしたら自分と似てるかもしれないと思ったよ。
まぁ個別の事情が異なるにせよ、おそらく誰にでも当てはまる事は、
①臓器としての脳の機能が弱っている
②認知の歪みが大きい
この2点のかけ算が社会生活に戻るためのハードルになっているということ。
①については発話能力や筆記能力が顕著に落ちた。段取り能力も落ちた。これはそういう能力を使う作業をすれば徐々に回復する。
弟さんの場合、家事はするそうなので日常作業に関してはあまり心配いらないかもしれない。仕事するための段取り力は不明だけど、やらなければならない事に漠然と圧倒されて身動きが取れないようであれば、GTDを習慣づけるのが自分には効いた。
それから、あらゆることへのやる気も顕著に落ちるんだけど、これを短期間で劇的に回復させる処方箋はないように思う。はてブの某先生がお題目のように唱えるアレを続けつつ、できる範囲を徐々に増やしていくと、結果としてやる気も回復していく。
②については最初に提案したようなカウンセリングを相性の良いカウンセラーにしてもらうか、それ関連の本を読んで自分で自分をカウンセリングするかが有効だと思う。自分の場合は本を読んで自分で自分をカウンセリングした。
と言っても、当時認知療法や森田療法を知っていたわけではなく、たまたま仏教の本を読んだ時に、自分の認知の歪みとその原因に気づいたといったところ。
とりとめなく書いたけど、我が身を振り返ると、引きこもりから脱するのも、脱してから引きこもる前の水準まで力を取り戻すのも、どちらも数年がかりだったよ。
弟さんのこともあまりせっつかず、長い目で見てあげてほしいと思う。時々会ってあれをしろこれをしろと言われたり、これからどうするつもりかと詰問されたりするよりは、安心して気の置けない会話ができることのほうが嬉しいし、力になると思う。
勉強に気が進まないなら、気晴らしを兼ねて読書はいかが。物事の観方と読解力が両方手に入って、大学受験の気晴らしには一石二鳥。
何を読むかだけど、増田の状況であれば、自分で自分自身を理解するのと自分の考えを整理するのに役立つ本がいい。
・仏教は心の科学 アルボムッレ・スマナサーラ(仏教僧)
■生き方の参考にする
・素人のように考え、玄人として実行する 金出武雄(工学博士)
■考えを整理して計画し実行する
・ストレスフリーの整理術 デビッド・アレン(経営コンサルタント)
全部ほんとうにおすすめ。ざっくり順を追って読むといいけど、もし一冊だけ手に取るなら「森田療法」を勧めるよ。
後は、ペースづくりのために相談に乗ってくれる相手をつくること。例えば、メンタルクリニックやジョブカフェで相性良い人を探すといい。こちらが現状を打ち明けるのを批判せずに聞いてくれて、一緒に考えてくれるけど、最終的にどうしたいかはこちらにゆだねてくれる人(いわゆるコーチ的な振る舞いをしてくれる人)がいると心強いね。
神経症を森田療法で治した患者は、しばしば元患者として先生のようにふるまうらしい。そういう風に人格変える治療なんだけどさ。
鬱病もセロトニン不足を治療しちゃうもんだから、幸福感が戻ってきたら、そりゃそういう性格になっちゃうこともあるんじゃないかな。
鬱病なんて、1年で9割が治って、だいたい再発しないんだから、別にマイナスでもないでしょとしか思わないけどね。
1年どころか、3年たっても、鬱病が~って言うのは、「重症例の鬱病」っていう、1割のレアトピックスだから、そういう感じで元増田みたいに、「鬱病の患者っは~」と主語でかく語るのは、ちょっと違うって毎回思うわ。
これまでいろんな病院行ってみたんだよね。
最初の小さなクリニックでは「相手の考えてることがわかる」と言ったせいか、統合失調症とか診断されて、リスパダールとかエビリファイとか飲んでたんだけど、副作用がやばすぎてやめたし、そもそも自分が統合失調症ってのもなんかちがうなあって感じだった。
そのあとアスペじゃないかと思って、大人の発達障害を扱ってることで有名な病院に行ったんだけど(というのも、ネットでよくあるアスペ自己診断のテストでぼくは超高得点だったから)、アスペじゃないねと言われた。最近なんでもかんでもアスペって言われたりして、アスペじゃない人が自分はアスペだと言い張ってて、病院は困ってるらしい。
で、森田療法やってみるかって感じでそういうの扱ってる病院行ったんだけど、自分で勉強してみるとなんかちがうなあって感じでやめた。
で、今の病院に通い始めてもう3年になる。投薬治療とカウンセリング。先生はやさしくて話は熱心に聞いてくれるからわるい病院だとは思ってない。最初の診断で、複雑性PTSDかなみたいに言われて(そんな病気存在しないらしいけど)、でもまあいまはふつうに社交不安障害+うつ病ってことになってる。社会復帰のためにそういう施設でSSTとかやってるんだけど、まあなんかうまく行く気がしない。
大学卒業後、父親にはかなり怒られてパニックになったりしたけど、障害者手帳取ってからはなんか優しくなったので、そういう意味ではよかったのかなと思うけど、でもまあプリントアウツにたいした意味はないかなあと思う。
専門家でもなんでもないのでカウンセリングごっこになってしまうが、素人意見として読んでほしい。
長文なので、思いついた対処法を簡単にまとめる:
以下、それぞれについて説明する。
それはたぶん「予期不安」というやつかもしれない。(以下引用)
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1175/yokifuan.html
その他予期不安の説明↓
http://touch.allabout.co.jp/gm/gc/300233/
予期不安が襲ってきた時の対処法には、専門的なものがいろいろあるらしい。森田療法とか認知行動療法とか。カウンセリングや薬での治療ももちろんある。
増田はいろんな物事に具体的に対処しようとして一杯一杯になってるようだが、そもそも感じる不安の「量」が多すぎる状態に見える。つまり、過剰に不安になっている可能性がある。
とにかく、まずは今かかっている心療内料の医師に症状を説明して指示に従おう。説明がうまくできないなら書いた増田をプリントアウトして読んでもらう。
あと、「性格だから一生治らない」「自分は甘えているクズだ」「どうせ首になるし、もうだめだ」こんなふうに極端で強烈な言葉を自分に向けて言い続けるのは一旦やめよう。強い批判の言葉を休みなく浴びせ続けていると心が疲幣し、頭で考える力も体を動かす気力もなくなっていく。
あとで問題への具体的な改善策を考えるためにも、批判の声にはいったん遠くにいてもらって、今は心を回復させて落ち着くことに集中する期間だと考えよう。
考え方のポイントは、「自分を責めたくなる気持ちも分かる。でも、そこまで延々と強く言い続ける必要はない」。
医者やカウンセラーにまず相談するといいと思う。相談する人がいない、ということも含めて話を聞いてもらう。
医師に話して診断を受ければ、今の状態をどんな名前で呼ぶか判明するかもしれない。心の状態にはたいてい名前が付いてるから、それを教えてもらって「○○(名前) 相談」とかでググるとサービスはいろいろ見つかると思う。
あと自治体とかでカウンセリングサービスみたいなのをやってるところもある。自治体のウェブサイトとかで探せるし、問い合わせ窓口に電話してそういうサービスがあるか聞いてみることもできる。せっかく税金払ってるんだから利用しようぜ。
あと、会社の人や家族に相談するのは怖いかもしれないけど、「絶対に相談できない、してはいけない」みたいに思い込む必要はないよ。「今の自分はこんな状態だ」と報告するのは悪いことでもなんでもない。
繰り返すが専門家ではないただの素人なんで、あくまで判断は医師やカウンセラーにお願いしてほしい。(これは増田も同じで、「性格なんだ治らないんだ」と素人判断するのは危険。)
増田と同じく失敗や不安にとらわれやすい人間なんで心配になった。
長くなってごめん。少しでも楽になりますように。
集中力にはいろんな意味や側面があると思うんですが、ここで取り上げる集中力は「今取り掛かっていること以外のことをしたいと思う気持ちや行動を我慢する、抑制する力」とします
では、どうすればいいのか
そこで俺が提案するのが、タモリ療法です
精神療法には「森田療法」ってのがあります。有名ですけど、適当に説明します。
欝などで何も行動する気力が無い場合に、ひたすら何もさせないで寝かせておく。そうすると何かしたいという気持ちが湧いてくる。それでも何もさせないでおく。行動する意欲が強くなる。これが第一段階。次の段階では、とにかく行動する。行動しているうちにやる気が出てきて社会復帰というわけです
つまり、憂鬱な考えに「集中」して何もしたくないという段階から、「いろんなことをしたい」状態に持って行くのが、森田療法です
この逆を行こうというのが、タモリ療法です
集中できないのは「いろんなことをしたい」からですので、コレに対するやる気を潰して行き、目の前のことに「集中」させるクズ向けハックがあります
その方法は、「いろんなことを我慢する」です。イラッとしました? でも、もうちょっと納得できる形で説明します
我慢する=エクササイズととらえましょう
エクササイズにも難易度が高い項目と難易度が低い項目があります
難易度の大きな項目にいきなりチャレンジするからみんな挫折するんです
・コップの注いだコーヒーに口をつけそうになった時、一回だけ我慢する
・目や頭がかゆくなってもしばらくかかない
・お腹が減って何か食べたくなっても、5分だけ我慢する
・ネットサーフィンしたくなったら一回我慢する
・それでもネットサーフィンしたくなったら時間を設定する(漠然とサーフィンしない)
・扇風機やクーラーをいつもより弱くしてみる(一時間だけでもよし)
・汗を吹きたくなってもふかない
・蝿が停まっても動じない
このくらいなら難しくなさそうですよね。しかも一日にこなせる回数が多いので、そのたびに忍耐力が少しずつ鍛えられるというわけです。この制限回数や時間を徐々に増やしていけば良いのです
こうやって考えると、日常は修行の連続です。いつ何時でも修行は可能です
くりかえすうちに仙人レベルの忍耐力と集中力がつけられるはずです
がんばりましょう
ちなみに、何かに取り掛かるときは漠然と「集中するぞ」と思うよりも、「~と~を我慢するぞ」と、我慢する項目をイメージしたほうが効果的です
しかしそれは、肯定するということではない
ああ、自分にはそういう側面も居るんだなと思いたいということだ
そこの産みの苦しみがある
新しい自分を認め、産みたいのにそれには軋轢が生じる
私は、すまないという言葉が好きだ
済まないと書く、済まないだ
おれは捉えようによって、そしてそれを発言する時に込める意味によっては非常に多義的で含蓄があり、目の覚める納得を喚起する
一体何が「済まない」のだろうか
自分・相手の気分が終わらないのか、自分自身の未完成さを言うのか、失敗や責任は片付くわけではないという意味なのか
なにはともあれ、「済まない」自分がいて、「済まない」相手がいて、そこに付帯する色々な「済まない」事物がある
それをさらけ出して、認めるという意味が「済まない」という言葉にはある様に思える
それは、自分自身と相手とそこで起こってくる事に対して向き合えている事を表すのだろう