
はてなキーワード:新書とは
ルポや新書的な内容など事実を説明した内容なら活字媒体よりも漫画になっていたほうが、たとえ興味がない人間でもまだ読むのに苦痛がないというイメージを持ってる人がいると思うが、それは間違いだと思う。
嫁姑の読者投稿みたいな内容は発言小町で読むほうがまだ耐えられる。
なんとかさゆみが表紙の漫画雑誌やぶんか社の作品はそのターゲット以外の多くの人にとって、そのキャラのことごとくが視覚的に生理的嫌悪感を呼びおこす醜い人相というか画風になっているというのが個人的な感想。
端的に言えばページに映る全てが汚物のようだ。だから漫画を読めというほうが見る刑罰に値する。
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その「女性の解放運動」の思想的な後ろ盾は何なのか?ってのが問題なんよ。
ただ単純に「女性の権利を拡大したいんで拡大しろ(お気持ち権利要求主義)」という主張であれば、「フェミニズムは男のための運動じゃないんだよ」でもなんの問題もなかったのね。まぁ思想的に問題はないんだけど実現は難しかった。具体例でいうと、世界の諸国で女性参政権がない時代において、「政治的多数決で女性の権利向上するかどうかきめましょう。なお女性に投票権はない」って状態で、権利向上がほいほい推進されるかって言えばしないでしょ? いくら喚いたって政治的発言権無いんだから。事実長い間女性の権利は一向に向上しなかった。
この路線じゃまったくどうにもならんってわけで、女性の権利拡大、解放運動の思想的な背景に人権思想をくっつけたわけ。それがすなわち男女同権であり弱者救済ね。
「全ての人間は等しい権利を持っている(人権思想)ので、当然その一部である女性も男性と等しい権利を持っているはずである。その正しい社会を実現しよう」という理路でもって女性の解放運動は推進されたわけ。その理屈だからこそ、男性しか投票権を持たないような前世紀の社会においても「社会正義のためなら」ってことで女権が拡大されてきたわけよ。
つまり、フェミニズムは人権思想や男女同権や弱者救済ってのを前提に推進されてきたっていう歴史があるのね。そんなのそれ系の新書の一冊でも読めば分かる程度の、当然の浅い歴史であり前提なわけよ。
それに対して、女性参政権が認められた現代女性がXだのツイッタだののしたり顔で「そもそもフェミニズムは女性解放運動で男性の権利や弱者男性とか関係ない」っていうのだとすれば、「はーそうなんすか。つまりは人権思想はもう用済みっすか?お気持ち多数決で権利剥奪OKの戦場に再ログイン上等って話ですね?」ってなっちゃうわけ。まぁ有り体に言えば思想的な大後退ですね。
狭い視界でみたらオタクだのおっさんだの醜くて目障りかもしれないけれど、広い始点でみれば彼らも女性も、社会的には弱者であり、富裕層でも上級層でもないのよ。広い始点の権利闘争のなかで、本来的には同じ側の人間を目障りだっていう理由で人権思想を否定して背中撃ちするのならば、まぁ、思想としても社会運動としても袋小路になってしまうというだけの、それだけの話しなんだけどね。
日本語に関する本でちょくちょく南伸坊ってやつのコラムがぶっこまれてるのあったけどもっと支離滅裂な文章だったけどな。
新書読んでていちいちどの本だったか覚えてないほど慣用句の誤用も見てきてるしあんま文章の粗って問題じゃないんだと思うんだがなあ。
「求人応募専用ダイヤル」なんてポスターが出回ってるあたり社内の文章担当も結構杜撰な日本語力でもなれるみたいだし。
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つまり粗突いて問題になる程度のことで仕事が来ないってわけではないってこと。
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これを言っている人間が日本語を知らないと他人を笑ってるとなんのギャグなのかと思ってしまう
「読書」なんて言うものはそんな高尚なものじゃなくて、ただ「本を読む」ことであり「情報を得る」」行為の一形態でしかない
私の立場を明確にしておくと、そもそも「教養」という言葉自体かなり嫌いだ
もっと正確に言うなら「教養」という言葉を人に対しての殴り棒に使う人間が嫌いだ
「知識」
「常識」
「人格形成をするための基盤」
「社会を動かすための力」
このような感じで専門家の中でもこれが差す意味や目指すべきところの解釈が立場で違ったりする
「教養」というものは単なる「知識」という使い方をしている人もいるが、おおよそ含意として「人格形成の基盤」「社会を動かすための力」」という意味で使っている人が多いだろう
言葉を知らないのは確かに「知識」が足りないかもしれない。だが「教養」を振りかざしてそういった知識のない人間を叩くことは、果たして「教養」ある人間の行うことだろうか?それこそ「教養」を知らない人間の仕草ではなかろうか?
そんな人間が読書というものを過度にありがたがっている様をみると何とも哀れで仕方がなく、同時に読書というものの価値を貶めているとすら見えてくる
自分も読書は好きだ。純文学、ミステリー、SF、ラノベ、新書で知識を得るのも楽しいし(最近は地理とか地学の新書が好きだ)、エッセイもよいものだ。たまに詩歌の本を読むのもいい。
それはこの情報媒体が多様化した時代においては情報の受け取り方でしかなく、コンテンツの一形態でしかない。そこに高尚さもありがたさもないのだ
(もちろんそのコンテンツの特性、それでしかできない面白さや受け取りやすさはあれども)
私は読書が好きだし、好んで様々な本を読んでいる
でもそれは決して「教養」を得るためではなく、「知らないものを知る」「見たことないような景色を見たい」からそれを行っているだけだ
それは他人を殴るためではなく「自分が楽しむ」ために行っている行為だ
だからこそ、自分が楽しんでいる行為を他人を殴るために使っているのを見るにつけ、とても不快に感じてしまう
・その能力には、専門領域の能力だけでなく、領域横断のイベント仕切り能力も含まれていた
・そしてそれらの能力をいかんなく発揮し、件の配信プラットフォームで稼いでいた
・あずまはそんなつじたの能力を買っていた
・ゲ社がつじたを、門外漢なテーマな乱暴な座組みのイベントに放り込んだのは、それらが背景
(あずまが「つじたにやらせればいいんじゃね」と言ったか、あずまのそんな態度を忖度してゲ社社員がつじたをぞんざいに扱ったかは定かではない。あるいは両方かもしれない)
・しかし、つじたは個人事業者として独立独歩の気風を旨としていた
(イベント仕切りは余技に過ぎず、言われればできるけど、やりたくてやるものではない。そんなの自分のキャリアにならない)
(毎回毎回いつもこれが失敗の原因。そんなの存在しないって自分でもわかってるくせに。自分が楽になりたいからって、都合良く後継に押し付けられるわけないじゃん)
・しかし、つじたは自分のキャリアにならない、つまらない座組みは拒絶した
・あずまやゲ社が531以前について「つじたは断ってばかりいる」と言ってるのはたぶんこのことではないか
(この点における、つじたの「同じ座組みじゃつまんないじゃないですか」は意味不明。同じ座組みで定期的に実施してグラデーションさせるのも立派な企画だと思うので)
・あずまは、自分の身銭を切ってやっとこさこしらえたプラットフォームで、自分がこころよく思わないかたちでの金稼ぎに憤懣やる方なし
(これもいつもの失敗の原因。女性売り云々事件も結局これ。「自分がこころよく思わないかどうか」基準。しらんがなってみんな思うし、そんな不安定なところにコミットできんと思うのも仕方なし)
・以上の結果、あずまが531に及んだ
・720あずま逆ギレ。どうせ俺が悪いんでしょ!でもぼくがつじた切れるわけないじゃん!だって稼いでるんだもの!それをぼくが表明してなにがわるい!とかなんとか
・ついでに「あんまり売れなかった新書(でも一般的には結構売れた新書。でも三宅香帆とかには勝てない程度の規模)」についても、疑心暗鬼の被害妄想でつじたが熱心じゃないと非難
・今のまま会って話しても、ぼくはつじたに悪口を言ってしまうとおもうから、今は会いたくないの!それくらいわかれよおまえら!バカなのか!とかなんとか
(しらんわ)
・でもつじたからしたら531がよっぽど重要。とても重要。プラットフォームの中立性、安定性こそ、自身の活動、キャリアにとって重要。自身の学術的・社会的信頼、ひいては経済的基盤の根源
・それにもかかわらず、あずまはともかく、ゲ社としてもなんらの反応を示さないことへの不信感、不快感
・以上の結果、現在の状況に至る
「押し付けたい(それによって楽になりたい、自社を儲けさせたい)」あずまと、「そんなの知らんがなこっちは個人事業者っすよ」のつじたの対立の構造という理解でおるよ。
「謝らない人」は
「タフ」なのか、ただの「バカ」か?
第1章 何があっても「謝らない人」が増えてきた
・ミスを指摘されると謝るどころかキレる人
・平気で見え透いた言い訳をする人
・自分ではなく、いつもまわりのせいにする人
など
・「謝らない人」は、じつは自信がない人
など
など
第4章 ほんとうの謝罪ができない人の胡散臭さ
など
第5章 ウソ、屁理屈、論破自慢、「謝らない日本人」はなぜ増えた?
など
第6章 「謝らない人」とどうつき合うか
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B0F93SS338/ref=tmm_kin_swatch_0
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では、このような輩にどう対すればいいのか?著者は次のようにアドバイスする。
2. 「謝らない人」に対してはなんの「期待」も持たない
模試とかテストに出てくる、一部を引用して出題されてる本を後で探して全部読むのが好きだった。教科書に一部しか載ってない本も全部読んだ。
受験の模試だと、面白い!と思っても試験なので出典を覚えられなくて探せなかった本もある。今だに探してるけど見つからない。
社会人になると、偶然に出会う本みたいなのがなくて寂しい。小説も新書も多分知らない面白い本がたくさんあるんだろうな。
ちなみに見つけられない本の内容は、人は困難が立ちはだかると、乗り越えられるレベルなら努力するけど、明らかに乗り越えられないレベルになると妄想を始めるみたいな内容。もし分かったら教えてください。
>人は自分の本音がよくわかってないし、聞かれたなりの「正解」を選ぼうとしてしまう。
元のこれを突き詰めると、最近新書とかでよく出てる脳科学の説では
行動が先に決定して後から理由を脳が作り出してる(要約というか雑まとめ)みたいなところ思い出す
(自由意志の有無みたいなものと絡んでくるから東洋系の人は諦めてて、西洋系がキャンセル権は自由とかで粘ってる 閑話休題)
反射みたいに即動くというのは大前提で、質問に答えるとかも基本反射でできる(疲れてる時、酔ってる時、慣れた質問)
そこに訓練で一旦保留して考えるという処理を割り込ませることは可能(キャンセル権と似たようなもの)人類はこれであれ
常にこれをやってて疲れるという人が結構いることが可視化されてきてるしできないじじいなども相変わらず
本音なんて行動というところではその場の得をとるのが野性というか本質で、次にその行動が未来に及ぼす影響を考えて(利己)、周囲の目を気にして(結局利己、そのうち利他検討も入ってくるが)……みたいに自制がどれだけできるかで変わって
行動するのではなく聞かれたケースだと時間に余裕があるし緊張状態でとか、慣れてない、しっかりしようとする意識があるとかで普段やらない(人はやってない)ルートでの回答を出してる(自分なりの正解)から実感とはほどとおいものが出力されるんだろうな
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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この1週間のオープンチャットは、教育と経済負担、AIと倫理、食と文化を中心に展開し、生活感のある小話(ペット、紛失物、誕生日)と社会的な問題意識(税務署、法律、環境、格差)が交錯する内容だった。
全体としては、日常のささいな悩みや楽しみを共有しながら、未来への期待と不安(子ども、仕事、AI社会)を語り合う、等身大の生活と社会の交差点が浮かび上がった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
○ご飯
朝:カシューナッツ。昼:そば。いなり。夜:人参と白菜とキノコのスープ。トマト。ギョニソ。豆腐、納豆。目玉焼き。ヨーグルト。バナナ。間食:アイスクリーム。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは残業ー。
スパバハ、ムゲン、アガスティアの三つの内入れるのを周回してる。
人がいないのか、三つも枯れることもあるのでジークも周回かなあ。
・シノビゴト
修行で身に付けた必殺技が武術や暴力じゃなく「考え方」だったの、独特な味になっててすごく面白かった。
少年漫画というより新書かよって感じだけど、主人公は実力は最強だけどメンタルが不安定という連載開始時からの課題が前に進んでるので、この漫画らしくて好きだ。
・キルアオ
所謂伏線回収でひっくり返すタイプの仕掛けっぽいけど、どうなるのか気になる。(別荘編でノレンの母親の写真がそっくりすぎるみたいなエピソードがフリになってるハズ?)
連載開始時からの疑問点、中年男性と女子中学生の恋愛はキツいを解決する展開にもなりそうだし、期待度上がってきた。
・オテル
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
美術品をどれだけ見たかとか、都心のお洒落な店だとか、お薦めの本は新書だとか
・MARCH以上の大学に行ってマクロ経済学とミクロ経済学の本買って理解する(テストで合格点取れるくらい)事
・パソコン自作、自作プログラム(すごい簡単なのでいい)、自作ホームページ(自宅サーバとHTML直書き)
・簿記3級、できれば2級。経済の仕組みがちゃんと分かるようになる
要するに現代社会の仕組みを根幹から理解したり、創造の土台になるようなものなんじゃないかな適当だけど
特にピアノとかヴァイオリンとかはやったことないからその辺は適当ふかしてる可能性が高い
MARCHのどこかの経済学部卒なので経済に関してはある程度合ってると思う
ネット人間達の経済の語り口がめちゃくちゃを通り越してめちゃくちゃなのが散見されるので、まず全国民が土台知らんと無理じゃないかなと
つーか書いてて思ったけど、こち亀の両さんこそが本当に教養が豊かな人なんじゃないかな、ワイが間違ってたわ
遊びも流行も超広く程よく知ってて実践もしてて、ワイが上に挙げた堅苦しい学びに関しても時々スイッチ入ったり実利の為に学んで使ってるし