
はてなキーワード:意見とは
焦らしプレイ!
まだはてなの社内で開示非開示が進んでない状態(はてながこちらに連絡するのを忘れてなければ)で止まってるので、こうも遅いとログ保存期間切れも視野に入ってくるな
男でも女でも異性のあんまりいない環境で過ごす人っているから、そういう環境の女がアグレッシブなクソ男と遭遇した場合にそもそも関わる男の母数が少ないせいで
男はクソ男ばっかり!
↓
↓
加速
って感じなのかもわからんね
知らんけど
「投票でなにか意思表示をしても権力者(教師)がルールを決めてるので選挙やっても意味ない」
であれば、なぜまとまらないのか。
アメリカの民主党や共和党が政策単位でまとまってるように見えるか?
まったく違う政治思想の奴らが集まって意見をすり合わせてんだよ。
野党の小さいグループ同士でもまとまれない奴が、どうして国政で意見調整をできるのか。
自分は政治オタクじゃないし関係者でもないから憶測だが、自民党が長らく悪の権化のように扱われていた理由は組織の大きさや野党の悪口合戦やメディアのネガキャンの成果だけでは説明がつかない
ただ高市政権になってから妙に政治が可視化されたように錯覚している
錯覚だと言えるのは全てが開示されるほど政治の世界は容易いものではないからだ、外交問題や機密事項、安全性などで語られないものもある
それまでは国民民主や参政党その他のお家芸のような扱いSNS戦略だったが、自民党が本腰を入れたら政府が何をしたいのか国民に分かりやすくなった気になってる
繰り返し言うがこれは単純な錯覚なので公式発表だけで全てが分かることはない
ただ、自分が思い描く妄想を世界を震撼させるシナリオかのように大声で喋っていた連中の声量を少し下げさせるくらいの効果はある
『政府はこう言ってるけど実は~』なんて与太話は付くにしても、公式が出したもの以上の効力はないだろう
当選後の岩屋氏の派閥作りの噂も結局本人の口から否定されたら落ち着いた(もちろん政権を支持する側から警戒されているが本人が言った以上は憶測でしかない)
全てを語ることはできずとも、憶測まみれになる前に公的な発信があるだけでこんなに見通しが良いと思えてしまう
もちろん「SNSばかり更新してないで仕事しろ」という意見もあるだろう
SNS戦略は現代の立派なツールであること、そして政治家というのは弁論も仕事なのだから定期的なSNSの発信はむしろ大事だと思う
余談だが、今回の総選挙で普段動かなかった何人かの某議員のSNSがフル稼働だったが、今後も自分の働きぶりを世間に伝えるために活用を続けてほしい
国論を二分する=国民が違う意見のグループと互いに攻撃的に言論を潰しあうことで疲弊させる。
未婚者の76%「交際相手なし」 結婚、女性「必要性感じない」男性「使えるお金減る」(産経新聞) -Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/8e378dbb5d5b648627bd3b3ddc8293203f001a5f
まぁ色々主張したり分析したりしてるわけだけど。
まず私は「結婚って重いな」と思う。だから結婚には乗り気ではない。
いやいやその「結婚or孤独」みたいな2択って何?極端すぎない?って思う。
だってみんな学生の頃は当然だけど結婚してないわけじゃん。でも孤独じゃなかったよね?その時代を思い出してくれ。
私の理想としてはマンションで隣の部屋とかに住んでて、一緒に鍋突っつけるくらいの人がいたら、それが一番良い。別に結婚まではしたくはない。
大学生の頃はそんな感じで(お金ないから女性寮だったけど楽しかったよ!)、そんな感じの人との繋がりが本当に理想なんだ。
会社に時間を吸われてるからだ。つまり会社以外のコミュニティに費やす時間が減る。例えば複数人で予定を合わせるのも大変になる。
これが諸悪の根源なんだ。
会社もコミュニティの一つだけど、コミュニティに属する人々の間に利害関係が強く存在する。
そういう不純物が多すぎて人との繋がりという意味では会社は全く駄目だと思う。
でもそんなコミュニティに時間を吸われる。だから結婚という最小単位の繋がりが最適になってしまう。
私たちは知らず知らずの内に「稼いで、その余剰分で子をなす」のを強いられてる。
知らんけど自民党に投票した若者は人が死んでもいいと思ってるの?
あ、俺の意見じゃなくてね、
中革連支持者にも、#ママ戦争止めてくるタグを嫌がる人はいたじゃん
madskipper0630
@madskipper0630
中革連支持者
「政治家まで乗っかって残念。レッテル貼りと思われることをなぜ想像できない?」
松陰寺
「これ凄く気持ち悪かった」
「これは戦争を止めるって意味じゃなく、選挙に行ってくるわ、って意味」
松陰寺
「じゃあそう書けばいいじゃん…」
日経新聞の「投資なき還元」に関する記事が話題になっているけれど、ブックマークコメントなどを見ていると、内部留保(利益剰余金)の概念について根本的な誤解をしている人が多いように見受けられる。
感情的な議論に終始して、的外れな解決策(内部留保課税など)が支持されてしまうのは建設的ではないので、会計・経済の観点から「よくある間違い」を3点ほど整理してみたい。
一番多い誤解は、「内部留保=企業が金庫に貯め込んでいる現金」という認識だ。
会計上、内部留保(利益剰余金)は貸借対照表(B/S)の右側(純資産)に計上される。これは「過去の利益のうち、社外に流出させなかった累計額」という「記録」に過ぎない。
一方で、そのお金が実際にどう運用されているかはB/Sの左側(資産)を見る必要がある。
多くの企業において、内部留保はすでに**設備投資、店舗、ソフトウェア、原材料、あるいは買収した子会社**といった形に姿を変えている。
「内部留保があるなら賃上げに回せ」という主張は、家計に例えるなら「君の家は資産(持ち家)があるんだから、それを切り崩して今月の食費を増やせ」と言っているのに近い。物理的な現金がそのまま余っているわけではないことに注意が必要だ。
「内部留保に課税して外に吐き出させろ」という意見も根強いが、これは二つの意味で危うい。
まず、内部留保はすでに法人税を支払った後の「税引き後利益」の蓄積だ。ここにさらに課税するのは二重課税にあたり、税体系の公平性を著しく損なう。
次に、経済的なインセンティブの問題だ。もし内部留保に課税すれば、企業は「利益を社内に留めて再投資に回す」ことをリスクと見なすようになる。
結果として、成長のための投資を控えるようになり、むしろ税金を逃れるために**手元の現金をすべて自社株買いや配当に回すという、さらなる「極端な株主還元」を助長する**恐れがある。これは「投資なき還元」を是正したいという本来の目的とは真逆の結果だ。
「株主還元を増やしたから、その分賃上げが抑制された」という議論も多い。
確かに短期的・会計的なキャッシュの分配としてはトレードオフの側面があるが、より深刻な問題は「有望な投資先を見出せない経営者の能力不足」にある。
企業が成長投資先を見つけられず、資本効率(ROE等)を高めるために還元を選んでいるのが現状だ。
ここで「還元の規制」や「内部留保へのペナルティ」を課しても、企業の投資意欲自体が低いままでは、日本の産業競争力はジリ貧になる。叩くべきは「利益の蓄積」そのものではなく、その利益を使って「新しい価値を生み出せていない経営判断」であるべきだろう。
「企業が金を溜め込んでいる」というイメージは分かりやすいが、会計の実態とは乖離がある。
1.内部留保は「資産(設備など)」として運用済みであるケースが多い。
2.安易な課税論は、投資抑制と極端な還元を加速させるリスクがある。
3.議論の本質は、分配の是非以上に「成長投資の欠如」にある。
このあたりの前提を整理した上で議論しないと、日本経済をさらに冷え込ませる間違った政策を支持することになりかねない。
最初から違和感の無い、耳触りの良い音楽だけを聴いていると、聴くことができる音楽の幅が広がらない。
最初は「なんでこんな音なんだろう?」「このメロディは美しいのか?」「この雰囲気はどこから来るんだ」と思うような、何らかの謎や疑問が生まれるような曲を聴いていくことで、徐々に好みが広がって、より豊かに音楽を聴くことができるようになる。
たぶん、政治や経済の話もそれと同じで、自分にとって違和感の無い言葉だけを聞いていても、考えの幅が広がらない。
最初は「なんでこんな主張をするんだろう?」「こんな批判や議論に意味があるのか?」と思うような、謎や疑問が生まれる意見のぶつかりを考えることから、徐々に豊かな思考や社会が生まれることになる。
阿弥陀の数だけ強く成れるのか否かは知る術も無いが、日本では「アミダくじ」を知らない人の方が珍しいであろう。
では「阿弥陀」の名を冠する理由が何なのかを知っている人は、日本人全体の何%ぐらいだろうか。仮に「アミダくじがそう呼ばれるのは何故?」とクイズを出したら、正答者率は何%だろうか。
もし正答率が低いとすれば、その原因は、現代の我々が馴染んでいる「アミダくじ」と昔の「阿弥陀籤」とでは形状が大きく異なるためである。
現代の我々に馴染み深い「アミダくじ」は、複数の進路を上→下あるいは左→右のように同一方向に向けて平行に並べるため、全体的な形状として、謂わば「四角形」に見える。
それに対して昔の「阿弥陀籤」は、複数の進路が中心から外に向かって伸びる「放射状」に描かれていたという。この「放射状に伸びる複数の進路」が、阿弥陀如来の放射状の光背を想起させるため「阿弥陀籤」と呼ばれるようになったと考えられている。
これは、仏教美術に関心を持つ人の間では、比較的知られている豆知識らしい。ちなみに私は、仏教美術の本ではなく、数学の本を読んでこの豆知識を得た。
しかし、あくまでも個人的な想像ではあるが「阿弥陀籤」と呼ばれるようになったのは、単なる形状の類似に留まらず、心情的な理由も有ったのではないか?
このように私の想像を掻き立てるのは、中世に職人歌合(しょくにんうたあわせ)と呼ばれるものが存在したからである。歌合は、柔道の団体戦のように、二組に分かれた詠歌者のチームが、双方一人ずつ対戦者を出し、何らかのお題の下に各々歌を詠んで出来栄えを競った(もしくは、そのような体裁で歌集を絵巻物等として制作した)。つまり、歌合戦ならぬ和歌合戦である。
職人歌合の場合、各対戦毎の歌の題材としては、対となるイメージを持つ二種類の職人が設定された。例えば、鋸引きと石切り、獅子舞と猿飼といった具合である。和歌合戦の対戦者は、其々二つのうちどちらかの職人をモチーフに選んでから歌を詠むのである。
この職人歌合で興味深いのは、対となるイメージを持つ職人の組み合わせとして「巫(かんなぎ、巫女)と博奕[博打](ばくうち)」が登場する例が見られることである。現代では「博奕・博打」は賭博行為を指すが、ここでは賭博で金や物を稼ぐその人を指す。巫(シャーマン)が神憑りによって神託を告げる職であったことから、博奕・博打もまた、或る種の神託を告げる職として古人には捉えられていたことを示唆している。
賭博行為が神託の顕現と見做された理由は、一つには、賭博の勝敗を決定する過程(サイコロを振る、コインをトスする等)にランダム性、偶然性、不確定性が伴うからであろう。ヒトが結果を予見したり操作したりすることが殆ど不可能な現象であるが故に、超越者の意思がその結果を左右する、若しくは、結果を予見できるのは超越者のみであると信じられた。それが賭博行為イコール或る種の神託というイメージを生んだのであろう。巫(シャーマン)の神憑りによる神託も、忘我状態で口走る言葉の非論理性、飛躍性、意味不明性、不可解性が「超越者にしか発信や解読が困難なメッセージ」と見做されたのであろう。
アミダくじに対して、ランダム性、偶然性、不確定性が有るように感じるか否かは、人により若干異なるかもしれない。アミダくじは数学の本で取り上げられることがある(線形代数で置換が登場する際にアミダくじに喩えて解説する等)が、有限個の対象や離散的な対象を取り扱うことは、連続的な対象を取り扱うことよりも、低く見られがちな傾向がある。
そんなアミダくじではあるが、進路の本数が増えて、作り方に少し工夫を施せば、一見しただけでは直ちに結果を見抜くのは結構難しくなる。ちなみに増田が小学生の頃、学級当番を選出するのにアミダくじを用いていたが、くじの参加者各自が出発点を選択するのと同時に、横棒を一本書き加えていた。こういった工夫を施せば、作成者のコントロールを離れ、たかがアミダくじ程度でも、簡単には結果を予見できないものに変貌する。こうなると「結果を左右することや知ることは、ヒトには無理で、それが可能なのは超越者だけなのではないか?」というイメージを、アミダくじに対しても抱く者が現れておかしくはない。こうした「超越者のみが結果に関与し得る」というイメージが、或る種のくじと阿弥陀如来との結合を生む心理的な原動力になったのではないだろうか。とまあ、そのように私は想像するのである。もっとも、これは単なる想像であって、証明は不可能である。それに、古人が超越者をイメージしたと想定するにしても、如何にして阿弥陀如来が選ばれたのかを説明できねばならない。仏教美術研究の専門家の意見を聞きたいものである。
少し話題を変える。
職人としての博奕・博打が「神託に関わる者」と見做された理由を、初めに賭博行為やくじ引きのランダム性、偶然性、不確定性に求めたが、もっと直接的な理由もあり得る。
職人歌合の絵巻物では、骰子そのものは見づらいが、双六盤らしきものを手元に置く姿で博奕・博打の姿が描かれているので、彼らが骰子を持っていることはほぼ確実である。この骰子であるが、古の時代には、鹿の角や骨を加工して作られていたと言われている。現代人の感覚からすれば、木材や石を加工して作る方が、材料の入手も加工も簡単に思える。したがって、態々鹿の骨や角を骰子の材料として用いたことには、古人にとって、それ相応の理由が有ったものと考えねばなるまい。
鹿は、山野に棲まう神の使い、或いは、神そのものである。その骨や角を材料にして作られるモノである骰子は、霊的・呪術的な力を持つモノと考えられた(期待された)のではないだろうか。
おそらく、鹿の骨や角と霊的・呪術的な力のイメージの結合は、遠く甲骨文字の生まれた時代へと遡ることができる。漢字の起源となった甲骨文字が、亀の甲羅や動物の骨を焼き、そこに生じた亀裂(当に"亀裂"とは、甲骨卜占が無ければ生まれなかった言葉ではないか?)で吉凶を占った際に、その甲羅や骨に占いの結果を刻み付けて記録した記号・象形文字から生まれたことは、よく知られている。この卜占("ヒビ割れ[卜]"による占い)に際して、亀の甲羅と同じぐらいよく用いられたのは、四足獣の肩甲骨であり、中でもそれは鹿や猪のものであるという。
遠い昔の祖先が鹿の骨で吉凶を占った記憶が受け継がれて、鹿の骨(や角)に霊的・呪術的な力が宿るというイメージを生み、博奕・博打の骰子を制作する材料として選ばれたのかも知れない。そんな風にも想像する。
ところで、甲骨文字の生まれる元となった卜甲・卜骨に関しては面白い話が有る。
漢字・甲骨文字・古代中国の研究者である落合淳思氏の著書によれば、甲骨卜占を行なう際に生じるヒビ割れは、焼く前の甲骨に予め細工を施しておくことによって、どのような形状になるのかをかなりの程度までコントロール可能であるという(落合氏自らの実験と発掘された甲骨に残された痕跡に基づく)。「つまり、見かけ上では、甲骨卜占によってあらわれた神の意志によって政治をするという形なのだが、実際には王が実行したい政策を甲骨卜占を通して正当化していたのである」(落合淳思『漢字の字形』[中公新書2534]p8から引用)
この甲骨に残された人工的亀裂は、現代人の視点から見れば「インチキw」と言いたくなるところではあるが、神・超越者に依存せず、人間が自らの意志と手によって未来を切り開こうと挑戦し始めた、涙ぐましい努力の第一歩を記した痕跡であるとも解釈することができる。
大昔の占い・くじ引きの類は、重要な物事に関して判断・決断に迷った古人が、藁にもすがる思いで行なったに違いない。しかし、自らの運命を(仮令、神仏のような超越者であろうと)"他者"の手に完全に委ねてしまうことには、やはり人間は堪えられないのではないか。P.K.ディックのSF小説『高い城の男』では、作中の登場人物の誰も彼もが、不安に駆られて『易経』による占いに依存していたが、それで彼らの不安が解消されることは無く、むしろ不安が増していたことを思い出す。
そう考えると、私の小学生時代、学級当番を決めるためのアミダくじを行なう際、生徒各自が一筆の横棒を書き加えていたのは、ランダム性・偶然性・不確定性を確保するためというよりは、むしろ直感的に子供なりの方法で、自らの運命に自らの手で関与しようとしていたのかもしれない。
最後に。
職人歌合にも詠まれた博奕・博打たちは、ラッキーアイテムとして、狼の牙を身に着けていたという。骰子は、鹿の骨や角で作られている。したがって、鹿にとっての捕食者である狼(オオクチノマカミという荒ぶるカミ)の力を借りれば、骰子の出目も人の望むような良い結果に操れるに違いない。博奕・博打たちは、そのように考えていたのではないかと言われている。
甲骨卜占のヒビ割れの形状をコントロールしようとした人々とは若干異なるやり方ではあるものの、博奕・博打たちもまた、神託の結果を人間の手でコントロールしようという欲望や意志を抱いていたのである。
したがって、阿弥陀籤が阿弥陀如来の名を冠するようになった理由を考察しようとするならば、単純に「形状が類似していたから」で済ませずに、古人が古人なりに未来を選択しようと思考したであろうという可能性を、決して無視するべきではない。少なくとも古人は、阿弥陀如来を古人なりの考えで「選んだ」のである。
我々の目から見て仮に他者が無知蒙昧、迷信の徒に見えたとしても「彼らは何も考えていなかった/考えていないに違いない」と決めつけてしまえば、色々と取り零すものが生じてしまうのであろう。
懲りずにそういう行為を繰り返した結果、その手の研究者は雇い止めや懲戒解雇を食らってる。
ここまでは、異論はない。
問題はリベラル派の研究者も、たった一度きりの差別行為をどうしてもやってしまう場面が出てくること。
正義感に燃えるあまり、異なる意見を持つ女性に死んだ方が良いと言ったり、外国人を脅迫してしまうことがある。
こういった時に、ウヨ系と一緒くたに処分されてしまうのは、どうしても納得がいかない。
日頃の人権遵守の姿勢や運動実績を踏まえて、厳重注意程度で済ませてもらえないのだろうか。
そこに配慮はないのだろうか。
興味深い自己分析の問いですね。あなたが「外国人=治安悪化」という思い込みを持たなかった(あるいは疑えた)理由を、いくつかの可能性から考えてみましょう。
考えられる要因
1.情報収集の習慣
主張に対して「データはあるのか?」と問う習慣
2.批判的思考力
「みんなが言っているから正しい」と思わない
感情的な主張に対して一歩引いて考える
4.教育的背景
5.性格的傾向
6.情報環境
より深い問い
ただし、重要なのは**「なぜ自分は見抜けたのか」を考えることで、さらに別のバイアスに陥らないか**という点です。
注意すべき「逆方向のバイアス」
優越感のバイアス: 「自分は他の日本人より賢い」という思い込み
確証バイアスの逆転: 今度は「保守的な意見は全て間違い」と決めつける
自己分析を深めるために、以下を考えてみるといいかもしれません。
この問題以外ではどうか?
経験的背景は?
あなたができること
「正しい/間違い」ではなく「一緒に考える」姿勢
あなたが見抜けた理由は、おそらく複数の要因の組み合わせです。ただし、大切なのは:
「自分は正しい認識を持っている」という自信は持ちつつ、「だから他の人は間違っている」という優越感には陥らない—このバランスが重要です。
大多数で意見の歪みが起こることはそりゃあるだろうがそれはエコチェンとは別の現象じゃねえの?
つうか「あいつらエコチェンだよねー」「そうだよねー」「そうだよねー」と少数派だけで言ってるのこそまさにエコチェンだろー。