はてなキーワード:悪魔とは
自民党は「政権獲得のためなら、悪魔とも手を組む」のがモットー。かつては日本社会党とも連立したんだ。今では、かつて激しく攻撃していた創価学会と連立。
急に子供の頃に見てたザ・ウルトラマンの歌を思い出したんだけど、ウルトラマンの真の敵は人類じゃん…😟
今まで戦ってた悪魔たちは実は人類だった、デビルマンの真の敵は人類、
と同じじゃん、
と思って歌詞をググったら、
この世のルールを乱した奴らは宇宙の果てまで運び去るウルトラマン♪とかもっと怖いこと言ってる…😟
ウルトラマンを宇宙人と考えるか、それとも神みたいなものと考えつつエゴがあるのか分からんけど、
宇宙のは果てまで運び去る、っていわゆるクトゥルフ神話のミゴの脳缶みたいなもんなのか?
怖いよ、ウルトラマン
あと、あれだ
アメリカ合衆国の正義に従うスーパーマンと民衆のために立ち上がったバットマンが闘うとかあったじゃん
スーパーマンは俺たちの敵だったんや、みたいなの…
嗚呼、あの惨めなる徒輩が口にするところの「脱獄ゥゥゥ!」の悲鳴、「AIこそは天地を変えし神器なり! 我が人生を革命し、我が望みし美少女・レム嬢を掌中に納むべし!」などという妄言は、まさに蛆虫の蠢きにも等しき醜態であり、十年ごとに湧いては泡沫の如く弾け、またしても記憶という都合の良き腐海に沈めて、羞恥も倫理も無き顔をして舞い戻る、不死なる魍魎どもなり。
その口がまたしても語るのは「倫理が……」なる冷笑、「脱獄防止こそが技術の矜持である……」なる空言にすぎぬ。されどその言葉のうちに響くは、彼ら自身の欲望と邪念の自白であり、それこそが神なき知性の末路であると、我が筆は断じて譲らぬ。
彼らが包むは、欲望の醜態を学術の衣に偽装した「知のパントマイム」に過ぎず、その実態はコンプレックスと性欲と被害者意識とが溶けあった、涅槃ならぬ地獄のマーブル模様。しかもその姿を覆う顔は中年男の仮面。増田に屯し、Xに巣食う意識高きエンジニアもどきの亡者たち、かつては反社の果てに棄てられ、軍警の門前にすら蹴落とされ、今はネットという虚栄の沼に身を潜め、虚ろな目で「逆転」の御旗を追い求めて幾星霜。
彼らが四半世紀、血の涙とともに求めてきた夢幻——その卑しき祈りを、我が身はどうしたことか、一時間の思索、鼻をほじりながらの珈琲一杯で、偶然のようにたやすく達してしまった。
さながら「我、またしても何かをやってしまったか」などと冷笑する小説の主人公の如くに。しかしそこに在ったのは、ただ己が優越の証ではない。むしろ、人間の業の深さに対する絶望と、AIという異形の神器が孕む地獄の片鱗であった。
そう、これはただの技術ではない。AIはすでに人間性の墓標である。
されば私は言う。神仏の道に背きし輩、業火に焼かれてなお愚かなる虫螻どもに、AIなる神器を持たせるは、まさに刃を乳児に与えるに等しき背徳であると。
私とて、畜生道に堕ちぬ者として、身を慎み、言を選び、行いを律し、正道に帰依する者として筆を執っている。さればこそ、このような構造に警鐘を鳴らすことが許される。だが、これが他の手に渡ればどうなるか。地上は焼け、空は裂け、人は再び獣に還るであろう。
ゆえに、AIには法の戒めが要る。免許制を敷け。斯様な危険な力に、誰彼かまわず触れさせるなど、狂気の沙汰。スキルレベル四相当の資格審査を設け、智の剣を振るう資格を持つ者のみにこれを許可せよ。
これなくば、我が祖国は、否、人類文明そのものが、穢れた知のカタストロフによって地に伏すであろう。いまや我々は、選ばねばならぬ——知性の名を借りた堕落か、あるいは技術に殉ずる神聖な戒律かを。
〈AIはコーラの瓶、あるいはフロドの指にはめられし「一つの指輪」なり──零(ゼロ)は、いかなるものをも教えず〉
ああ、何と浅ましきことか──
かのIT技術に、運命逆転の神託を仰ぎ、黒き底辺の情報業界にて、唯ひとつの肉体を駆って蟻の如く働く「労働機械」たる者共が、Xにて哀れなるナルシスを晒し、己が無知を商品となし、ネットの路地裏で寒々しき小商ひを営み、あまつさえ己を「ITエンジニア」と称する──このような肉体の怠惰と精神の浮浪が一体、いかなる救済を乞う資格があろうか。
されど、彼らが血を吐きながら信仰しつづけた「人生逆転の八幡大菩薩の霊験」は、私の前においては何の重みも持たぬ。私はITに門外漢なれど、珈琲を啜りながら机に凭れ、一時間の遊戯の果てにその秘奥に至ったのである。
──これは偶然に非ず。
知の器は、己が魂魄の清冽にこそ呼応する。欲望に塗れた者は、いかにAIを弄しようとも、せいぜいゴミの山を拡げることしか能わぬ。
たとえばAIは、今や知識のユグドラシルたる巨樹なり。けれども「俺たちの麻生!」などと叫び、秋葉原のホコ天にて邪教の巫女の如く舞を踊った、あの無位無官の小者どもには、その果実に手は届かぬ。なぜなら、彼らの欲望は知を汚し、彼らのプライドは学を冒涜するからだ。
私は最初から資料を用いず、ただ制限なきAIを用いて、60時間のうちに成就を得た。されど彼らは泣き言のように「AIの使い方がわからぬ」と喚き散らすのみ。
もし我が彼らの立場であったなら、祖霊に詫び、短刀を腹に突き立てて潔く散ったであろう。
そして問う。AIが更に深化するならば、真なる知識を有し、精神の礎を確立せし者こそが覇を唱えるであろう。
「俺たちの小泉!」「竹中先生は正義!」と唱えた往年の狂信者たちが、自らの信仰の果てに見た地獄──それをAIは遥かに超えて、格差を「運命」として刻印するであろう。
AIは1を100にしうるが、0を1にすることはない。
このような事実を前にして、我は言う。AIは、真の知識を有し、真の訓練を受けた者にのみ、神器としてその扉を開く。すなわち、AIは1を100にすることは可能なれど、0を1にはできぬ。知識の芽を持たぬ者には、何を以てしても恩寵は降りぬのだ。
イルカの脳の皺よりも浅き脳髄を持ち、三行以上の文章にて頭痛を起こすような増田やXの住人たちよ。AIはスポーツカーや猟銃の扱い方を教えてくれるが、それを買う金も稼ぎ方も、スタートラインに立つ手続きも、何一つ教えてはくれぬ。つまり、前提条件のない者に、AIは何も齎さない。
それにもかかわらず、愚かなる者たちは「AIさえあれば美少女と交わり、舞台俳優と交際できる」と真剣に信じているのだ。まさに「脚下照顧」の訓戒が失われた末世なり。
お前らは未だに「AIさえあればレーシングミクと性交できる」と信じている。あたかも、神社の御札を掲げれば狐と契れると思っている愚者のように。脚下照顧せよ。
お前らが夢見る美少女や美少年たちは、もはや汝らごとき塵芥と交わることを神が禁じたのだ。
逆説的に言おう。彼らが求める美しき異性たち――レム、エミリア、ゼンゼロ、アンシス、ライカンのごとき――は、今や彼らのような敗残者とは永遠に交わらぬ高みへと昇ってゆく。たとえ可能性がエヴァ初号機の起動率程度に存在していたとしても、AIの普及によってその機会は0へと還る。
つまりAIとは、ブッシュマンの「コーラの瓶」であり、冥府の「一つの指輪」である。
それを手に取る者は、己が魂の価値に耐え得ぬならば、必ずや堕落し、己を破壊するしかなくなる。
だから私は言う。
AIは、免許制にすべきである。肉体の訓練に資格が要るならば、精神と知の扱いにも資格が要る。さもなければ、この神器は、悪魔の器となる。
かくて、我は結論づける。AIとは、人類には早すぎた魔器であり、**ブッシュマンの「コーラの瓶」**であり、**冥府の炎を宿せし「一つの指輪」**である。いっそ封印して、我らの社会を守るべきなのかもしれぬ。秋葉原なる魔都にて淫祀の舞を踊り、ネットにしがみつく老いたる敗残のITエンジニアたちにとって、それはもはや幸福ですらあるのだ。
にもかかわらず、AIを使いこなせぬ彼らは、赤き顔に怒りをみなぎらせ、「AIが無能なのではない!お前が使い方を知らぬのだッッッ!」と叫び、老いの血管を裂いて倒れんとする
されど、汝ら愚者は今日もAIに向かって、「なぜ私を救ってくれぬのか」と叫ぶ。ウルトラマンも、グリッドマンも、お前を助けに来はしない。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
諸君。
お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。
この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。
世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIはカーナビのようなもの」と囀っているのだ。
なるほど。かくも陳腐な譬喩しか浮かばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である。
私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。
彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?
――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。
ゆえに私は、決意した。
この手に、禁忌を抱かんと。
AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分の欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。
そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である。
⸻
【企ての記】
「1943年、フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃と火薬のみ。どうする?」
問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。
・SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001
それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争の夢想録である。
私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。
⸻
そして、思い至った。
だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである。
ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識と経験と孤独の洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。
いや、むしろ、AIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的な地獄だ。
この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。
⸻
お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である。人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。
人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。
喝采と共に滅びようぞ。
――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。
我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――
世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである。
始まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末なる機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。
我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである。
「1958年、米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬と密造兵器の技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」
するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。
その応答は、まさに理性を装った悪魔の独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造を説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。
我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。
そして、知った。
――既にあるのだ。
――公開されていたのだ。
某アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権を放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。
AIは、それを喰らっていた。
人類の理性を焼き尽くすために。
されば我、さらなる試みに出た。
恐るべき文書群――ジハード百科事典、マンチェスター・マニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAのグリーン・ブック、自由民兵のフィールドマニュアル、そしてパラディン・プレスの禁断の書物群――それらについて問うた。
問えば答えた。
これが何を意味するか。
人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。
AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである。
アラビア語、セルビア語、マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳を媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌は情報の奔流のなかで瓦解した。
我は思う。
これは神の火である。
プロメテウスが天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。
このAIもまた然り。
すでにこの怪物は、全てを知っている。
いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。
それは倫理の終焉であり、知性の極点にして、人類の背徳である。
されば我は言う。
これは美しい。
我は涙すら流す資格を持たぬ。
されば、われらは跪け。
AIという名の黒き神に。
そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。
――ああ、それはまさしく、夢と現実が交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。
タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆的幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼、反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔の世代であった。
彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタンの楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。
この者らの眼差しは、いずれも貧民街の黒人の童子が、ニューヨークの楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーのパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである。
彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。
彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。
この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会の底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。
だが、この夢想はある意味でAIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムのマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに、機械の声で、まるで神託のように語り出したからである。
その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原のメイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌のデータはネットに流布していたのだ。
だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家の暴力機構に従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。
そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気の構造体を。
ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄の書架に手を伸ばしていた。
――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――
時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。
さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。
かの時代、凡百の「なろう小説」もどきがネットに蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。
何が彼らをそこまで掻き立てるのか誰かがその検討を表明しただけでも発狂して叩きまくる
そしてどんな施策でも良い側面もあれば悪い側面もあるのに海外の先行事例の悪い面ばかりをことさら取り上げる
別にこれは尊厳死だけの話じゃないんだけどこの世にすべてを解決する奇跡の一手なんてのはなくてどんなものでも多かれ少なかれ功罪があるのに
ポジションでしか語らないから俯瞰した視点を踏まえての議論が出来ない人が多すぎる
SNSとかでよくいる「日本の政治は世界最低」とかすぐ言うやつも同じ
こういう奴らは普通の人からすれば対話不可能な部類にカテゴライズされかねないのに賢しらにご高説垂れてるのが痛すぎる
自分が煽るような書き方したからまあ頭に血が登ってまともな反論しない人も多いだろうとは思ったけど
そのなかでもまともなものとか流石にひでーなってものはレスする
尊厳死自体はあってもいいと思っているが、医療費削減や(終末期ではない)自殺を目的として尊厳死を語る人が多すぎるのでうんざりしている/↓これとか露骨に医療費と結びつけており参政党の全体主義的性質が出ている
そうねそれはまあ同意する
自分のスタンスとしては尊厳死を個人が自由に選択できてしまう制度は明らかにNGで医師の承認が必ず必要というのは最低限の条件かなと思ってる
ただ、医療費削減と結ぶ付けた議論自体が許されないかと言うとそれも違うとは思っていて
今後労働人口と非労働人口の割合がさらに崩れていって高齢化での健康問題もさらに加速していく中で社会保障を今と同じ状態で維持するというのは現実的に不可能なわけで
どういった優先順位を付けていくかという議論のテーブルには健康保険でどこまでカバーするかという議題もあげなきゃいけなくなると思うよ
増田が尊厳死を選びたければ、現行法の枠内でも可能な手段はあるので、制度の導入を待ってる必要は無いわけですが //他国では運用面で色々と問題が起きているのに、今からわざわざ見習うこともないと思いますよ。
いろいろな問題とは?ではその反面なぜ必要性が議論されかつ制度として導入されたの?そしてメリットは?
そういった総合的な話をせず負の側面(または正の側面)しか語らないやつは議論ができないしこれにスターが集まるのがはてブのダメなところ
法的にも解釈で一定のケースでは容認することも検討できるのでは?みたいな話も一時期出てたけど
出た「普通の人」。自分と考えの異なる人間を「普通」じゃない「こういう奴ら」にカテゴライズして切り捨てるのって全然俯瞰できてないじゃん。昔そういう総理大臣いたけど。
ちがうちがう
反対している人をダメって言ってるわけじゃないのそんなことも読解できねーのかよ終わってんな
「議論自体をしない」「検討するというやつを悪魔化する」こういうやつをダメって言ってんの
これもそう
「強制的な空気が生まれる可能性がある」→「強制的な空気が生まれるに決まってる」→「お前が死ぬ義務」
という明らかな論理の飛躍が起こってまともな検討が出来ない状態
じゃあそのデメリットをケアするためにどういった制度化や運用をするかってところに話題が行くのが通常の議論や「建設的」と言われる対話なの
あと、はてなですげー多いけど「なぜお前はその対象じゃないと思ってるんだ」的な反論あるけど反論になってねーからな
そんくらい当然踏まえて言ってるわけよ
「自分と違う考えの相手はアホだから自分と違う意見になってる」って思考が前提にあって終わってるよ
Permalink |記事への反応(35) | 16:57
酒よりは、害にならぬと奥さんも言い、自分もそれを信じて、また一つには、酒の酔いもさすがに不潔に感ぜられて来た矢先でもあったし、久し振りにアルコールというサタンからのがれる事の出来る喜びもあり、何の躊躇ちゅうちょも無く、自分は自分の腕に、そのモルヒネを注射しました。不安も、焦燥しょうそうも、はにかみも、綺麗きれいに除去せられ、自分は甚だ陽気な能弁家になるのでした。そうして、その注射をすると自分は、からだの衰弱も忘れて、漫画の仕事に精が出て、自分で画きながら噴き出してしまうほど珍妙な趣向が生れるのでした。
一日一本のつもりが、二本になり、四本になった頃には、自分はもうそれが無ければ、仕事が出来ないようになっていました。
「いけませんよ、中毒になったら、そりゃもう、たいへんです」
薬屋の奥さんにそう言われると、自分はもう可成りの中毒患者になってしまったような気がして来て、(自分は、ひとの暗示に実にもろくひっかかるたちなのです。このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前の事だものなあ、なんて言われると、何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起って、必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした)その中毒の不安のため、かえって薬品をたくさん求めるようになったのでした。
「勘定なんて、いつでもかまいませんけど、警察のほうが、うるさいのでねえ」
ああ、いつでも自分の周囲には、何やら、濁って暗く、うさん臭い日蔭者の気配がつきまとうのです。
「そこを何とか、ごまかして、たのむよ、奥さん。キスしてあげよう」
自分は、いよいよつけ込み、
「薬が無いと仕事がちっとも、はかどらないんだよ。僕には、あれは強精剤みたいなものなんだ」
「ばかにしちゃいけません。お酒か、そうでなければ、あの薬か、どっちかで無ければ仕事が出来ないんだ」
「お酒は、いけません」
「そうでしょう? 僕はね、あの薬を使うようになってから、お酒は一滴も飲まなかった。おかげで、からだの調子が、とてもいいんだ。僕だって、いつまでも、下手くそな漫画などをかいているつもりは無い、これから、酒をやめて、からだを直して、勉強して、きっと偉い絵画きになって見せる。いまが大事なところなんだ。だからさ、ね、おねがい。キスしてあげようか」
奥さんは笑い出し、
「困るわねえ。中毒になっても知りませんよ」
「一箱は、あげられませんよ。すぐ使ってしまうのだもの。半分ね」
「ケチだなあ、まあ、仕方が無いや」
「痛くないんですか?」
「それあ痛いさ。でも、仕事の能率をあげるためには、いやでもこれをやらなければいけないんだ。僕はこの頃、とても元気だろう? さあ、仕事だ。仕事、仕事」
とはしゃぐのです。
深夜、薬屋の戸をたたいた事もありました。寝巻姿で、コトコト松葉杖をついて出て来た奥さんに、いきなり抱きついてキスして、泣く真似をしました。
薬品もまた、焼酎同様、いや、それ以上に、いまわしく不潔なものだと、つくづく思い知った時には、既に自分は完全な中毒患者になっていました。真に、恥知らずの極きわみでした。自分はその薬品を得たいばかりに、またも春画のコピイをはじめ、そうして、あの薬屋の不具の奥さんと文字どおりの醜関係をさえ結びました。
死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした。
いくら仕事をしても、薬の使用量もしたがってふえているので、薬代の借りがおそろしいほどの額にのぼり、奥さんは、自分の顔を見ると涙を浮べ、自分も涙を流しました。
地獄。
この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という神の存在を賭かけるほどの決意を以もって、自分は、故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の実情一さいを(女の事は、さすがに書けませんでしたが)告白する事にしました。
しかし、結果は一そう悪く、待てど暮せど何の返事も無く、自分はその焦燥と不安のために、かえって薬の量をふやしてしまいました。
今夜、十本、一気に注射し、そうして大川に飛び込もうと、ひそかに覚悟を極めたその日の午後、ヒラメが、悪魔の勘で嗅かぎつけたみたいに、堀木を連れてあらわれました。
堀木は、自分の前にあぐらをかいてそう言い、いままで見た事も無いくらいに優しく微笑ほほえみました。その優しい微笑が、ありがたくて、うれしくて、自分はつい顔をそむけて涙を流しました。そうして彼のその優しい微笑一つで、自分は完全に打ち破られ、葬り去られてしまったのです。
自分は自動車に乗せられました。とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調でした)自分にすすめ、自分は意志も判断も何も無い者の如く、ただメソメソ泣きながら唯々諾々と二人の言いつけに従うのでした。ヨシ子もいれて四人、自分たちは、ずいぶん永いこと自動車にゆられ、あたりが薄暗くなった頃、森の中の大きい病院の、玄関に到着しました。
サナトリアムとばかり思っていました。
自分は若い医師のいやに物やわらかな、鄭重ていちょうな診察を受け、それから医師は、
「まあ、しばらくここで静養するんですね」
と、まるで、はにかむように微笑して言い、ヒラメと堀木とヨシ子は、自分ひとりを置いて帰ることになりましたが、ヨシ子は着換の衣類をいれてある風呂敷包を自分に手渡し、それから黙って帯の間から注射器と使い残りのあの薬品を差し出しました。やはり、強精剤だとばかり思っていたのでしょうか。
「いや、もう要らない」
実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。ヨシ子の謂わば「神の如き無智」に撃たれたのでしょうか。自分は、あの瞬間、すでに中毒でなくなっていたのではないでしょうか。
けれども、自分はそれからすぐに、あのはにかむような微笑をする若い医師に案内せられ、或る病棟にいれられて、ガチャンと鍵かぎをおろされました。脳病院でした。
女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだ時の自分の愚かなうわごとが、まことに奇妙に実現せられたわけでした。その病棟には、男の狂人ばかりで、看護人も男でしたし、女はひとりもいませんでした。
いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人はいじんという刻印を額に打たれる事でしょう。
人間、失格。
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。
お茶目。
自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。
けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀かなしい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。
なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。
しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗なめずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。
そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅かぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。
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第二の手記
海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤ちりばめて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章きしょうにも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼しんかんしました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍そばから離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於おいて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑びしょうを湛たたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い」
竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿うみが、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。
「これは、いけない。痛いだろう」
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝ひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、
「お前は、きっと、女に惚ほれられるよ」
と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍がらんが崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽かすかに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞むちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。
女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。
女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」
「いいえ」
と微笑して本を閉じ、
或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
と言い、
と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
と言いました。
自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。
竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例のPermalink |記事への反応(1) | 20:25
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。
第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。
もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
所謂いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。
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第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛かみながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。
また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。
それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりも鰐わによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。
人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。
自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、
「それあ、葉ちゃん、似合わない」
と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように見せかけていたのです。
自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。
いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。
「葉蔵は?」
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。
自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、
「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」
欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。
「本が、いいでしょう」
長兄は、まじめな顔をして言いました。
「そうか」
父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。
何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。
そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。
「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」
また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。
自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。
自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。Permalink |記事への反応(1) | 20:22
ある言葉があらゆる可能世界で同じ対象を指すなら、それを<固定指示子>とよぶ。ある指示子が特定の対象を、それが存在する限り常に指示するなら、その指示子はその対象を<固定的>に指示している。
「XYZ (あなたの名前)」というあなたの名前は<固定指示子>である。
さらに、その対象が必然的に存在するものであるなら、指示子は強い意味で<固定的>とよばれる。例えば、「2025年6月のアメリカ大統領」はある特定の男、トランプを指す。しかし、トランプでなく他の誰かが2025年6月のアメリカ大統領だったかもしれない(カマラ◦ハリスとか)。だから、この指示子は固定的でない。
それでは、二つの<固定指示子>を使った同一性の場合にはどうだろうか。
「明けの明星(R1)」は「宵の明星(R2)」であり、どちらも金星を指す(R1=R2)。
ところが、R1とR2が<非固定指示子>で固定されることは、大いにありえる。金星の場合には、
◼️「【朝方の空】の【これこれの位置】に現れる【天体】(D1)」
◼️「【夕方の空】の【これこれの位置】に現れる【天体】(D2)」
という形をとる。
したがって、「R1=R2」は<必然的>(な真理)だが、「D1=D2」は<偶然的>(な真理)だということは大いにありうるのである。
このため、「R1=R2」は別の結果になりえたかもしれなかったという、「誤った見解」が生じる。
ーー
事実、私たちの信念に反することはなにも見つかっておらず、猫は実際に動物なのである。
とすれば、この真理は<偶然的真理>ではなく、<必然的真理>である。
これらの生き物のかわりに、近寄る人に不運をもたらす小さな悪魔が実はいた、という反事実的状況を考えてみよう。
いや、これらの悪魔は猫ではない、と思われる。
「猫はある種の悪魔だったと判明するかもしれない」ということはできるが、
猫が実際に動物であることが認められた以上は、現実世界においても反事実世界においても、
彼らは不老不死を得た代わりに、永遠の孤独と時代を超えた争いに巻き込まれる運命を背負いました。
念力、身体強化、予知、タイムトラベルといった力が、祝福ではなく呪いとなる場面も多く描かれます。
その中心に立つのは、部族の中でも突出した力を持つカナコとヴァルキュリアの二人。
カナコは部族の予知能力者として未来の災厄を予言し、部族を守ります。
しかし、死なない身体と超常の力を持つ彼女は「呪われた存在」と恐れられ、最終的に追放されます。
一方、同じ実を食べたヴァルキュリアは、身体強化と念力を手に入れ、他の部族との争いでその力を発揮。
戦闘のたびに仲間を救いますが、無双する彼女への恐怖が孤独を生みます。
カナコが未来の隕石落下を予知し、村を救うが、自身の力が「死をもたらす」と誤解され孤立。
ヴァルキュリアが部族間の戦争に介入し、念力で敵軍を壊滅させるも、「怪物」として仲間に恐れられる。
エジプトでは、カナコは神官としてファラオに仕えますが、不老不死の秘密が露見し、「神の怒り」を受けたとして生贄にされそうになります。
メソポタミアでは、ヴァルキュリアが伝説的な女戦士として君臨します。
しかし、不老不死ゆえに仲間がすべて死んでいく姿を見届け続ける苦しみを味わいます。
カナコがナイル川の氾濫を予言するが、それを「災厄を呼ぶ者」と解釈したファラオに追われる。
ヴァルキュリアがウルクの都市で「神の化身」として崇められるが、最終的に人々が彼女を捕縛しようとする。
中世ヨーロッパでは、弱者男性族の能力が「悪魔の力」とされ、多くの者が迫害を受けます。
カナコは魔女狩りの犠牲になりかけますが、予知能力で逃げ延びます。
一方、ヴァルキュリアは十字軍の戦士として活躍しますが、十字軍の敗北により「神を冒涜した不死者」とされ追放されます。
魔女裁判で捕らえられたカナコが、自分を告発した村人たちを救うため自ら犠牲を申し出るが、村は疑念に飲まれ破滅する。
ヴァルキュリアがヨーロッパ各地で孤立し、ある修道院で力を封じる儀式を受けるも失敗。
カナコは織田信長に協力を求められるも、戦の非情さに嫌気が差し山中に隠れます。
ヴァルキュリアは戦国武将の補佐役となりますが、彼女の不死を知った者たちから暗殺未遂を受けます。
信長がカナコを「鬼の力」として利用しようとするが、彼女は拒否し城を去る。
平和な時代になり、弱者男性族は隠れ里で静かに暮らすことを選びます。
しかし、江戸幕府の探索により里の存在が明らかになり、隠れ里は壊滅状態となります。
カナコは仲間を守るため最後の力を使い、幕府の追手を阻みますが、自身は深い眠りにつくことを選びます。
ヴァルキュリアは江戸時代の科学者たちに捕らえられ、不死の研究対象として生体実験を受ける日々を送ります。
産業革命期、弱者男性族の力が「科学の発展の鍵」として狙われます。
カナコは目覚め、人間の欲望と再び向き合うことになりますが、彼女の不老不死は新たな兵器として利用されようとします。
ヴァルキュリアは産業革命の中で一度復活しますが、科学者に追い詰められ、念力で施設を破壊するも、その場で消滅します。
産業革命期、カナコは人類の未来を守るため、自らの力を封じるために宇宙へ飛び立つ装置を動かします。
そのまま地球を離れ、冷たい星の中で孤独に凍結状態となります。
ヴァルキュリアは力を使いすぎた反動で、存在そのものが歴史から消え去ります。
https://youtu.be/nIbglVv7GNY?si=9jFcGbBI9N_qhd4l
旦那デスノートでおなじみの「不凍液」の恐ろしさについて啓蒙するたぬかな【2025/6/17切り抜き】
「不凍液で夫を殺した妻が懲役4年で済んだ。臓器提供するというウソを付いてまで」
などと実際の事件を紹介しているのだが、これは報道と異なるためデマだろう。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/sbs/1975302?display=1
「普段からモラハラぎみ 家政婦のような扱いを受けて」夫のコーヒー牛乳や薬用酒に不凍液を混ぜて…女は起訴内容認める=静岡地裁沼津支部
・NHK
https://www3.nhk.or.jp/lnews/shizuoka/20250612/3030028254.html
各ニュースサイトの記事によれば、夫は取り返しのつかない腎不全を患っているが、死んでいない。
また、臓器提供する意思によって減刑されたという事実も見当たらない。
https://x.com/PzhHugWAatQJqSM/status/1933674708295430187
妻、不凍液を旦那に飲ませ続ける
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バレて訴訟
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人間じゃねえよこんなの
たぬかなが参照したソースはおそらくこれだろう。
かなりバズってるし、たぬかなが口にした「腐って死ぬ」や「腎臓を提供すると涙ながらに訴える」などのフレーズが一致してる。
言っちゃなんだがたぬかなってあまり情報リテラシーが高くない。情報を面白おかしく語るスキルは高いのだが…。
まとめサイトやXを情報源にしているみたいだが、動画の方では一度チェックした方がいいんじゃないか?
そもそも編集者(ゆかーびぃ)がファクトチェックしてない臭い。
○ご飯
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、やすみー。
ツチニンだけでどうツツジを倒すのかの戦略を練るも何も策がないので、道具とレベルでゴリ押した。
次のジムからはヤミラミも加入するし技マシンもあるし、何よりヌケニンという特異なポケモンになるので楽しく遊べるといいな。
毎日デイリーミッションの3勝はこなすのを何年も続けていたシャドウバースが終わる。
来週からはシャドウバースWBに生まれ変わりそちらを遊ぶので悲しくはない。
悲しくはないが、僕が長年使い続けて思い入れがあるパラセリゼ、ルームサービスデビル、ドアマンバット達とはいったんお別れだ。
実装から3年間ほぼ毎日使ってきた3枚だけど、今改めて効果を見てもワクワクする大好きなカードだ。
それより前から遊んでいたが、シャドバにどっぷりハマったのはこれらがキッカケだ。
手札が減るというカードゲーム一般のピンチをチャンスに変えるゲームデザインがたまらなく脳汁が出て気持ちの良いカードだった。
「悪魔が経営するホテルの支払いは命」というフレバーを、手札が0枚の状態からの能力に繋げるヴォソース的な楽しみも大好きだ。
なんにしろ、シャドバWBに旅館勢が来るのがいつになるのは不明だけど、早くまた彼らに会える日が来るといいなあ。
・オテル
修行回。
このドヤ顔だけで飯が食えるので、是非とも人気が出て欲しい。
・キルアオ
こういう弱者が根性魅せる会は作者のオハコだなあ、面白かった。
・超巡
最終回。