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はてなキーワード:必然とは

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2025-12-15

anond:20251215155420

三行文化批判しながら10行かけても穴だらけの反論もどきしか出来んアホが何か吠えてらぁ

> どう考えても文脈的後者である

→お前の中ではな。AIタクシー操縦の運営を例え話レベルでも想像するなら、末端の運転手さんの裁量だけで導入できるわけがない、必然経営判断システム開発者、ハードの整備者の責任のことにだって普通は”思い至るだろうよ。

お前のおつむが雑頭で横文字英語が嫌いなのは結構だが、それで用法混同したゆるふわ仮定ぶっこいて、突っ込まれたらその話はしてないってゴールポストずらして居直り

それこそ説明責任”を放棄して読み手が悪いんだあああああだ、っておっかぶせようとしてるだけの逃げじゃねぇか。頼むからバカ公共電波を使って発信する前に黙っててくれないか???

Permalink |記事への反応(0) | 17:50

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2025-12-14

和人主義が反対されて良かった

 昨今売れたり流行ったりした人文系の発信者をひとくくりにして主義としてまとめても、大衆人気が出るための条件が列挙されるだけの空虚概念になるのはわかり切ったことだった。提唱者の谷川さんは、自分の頑張って書いた本が沢山売れて良かったからこれからも頑張って少しでも社会のためになるような本を書いていきますと言えばそれでよかった。それを時代必然の中に位置づけようとしてしまったのではないかと、あくま個人の感想として思う。教養という言葉マウント系の良くないニュアンスを醸すのはその通りたが、まさにそのことによって教養などというものはどこにも流行っていないのだから存在しないものに対抗概念を作ってしまっている。存在するのは人文の新たな潮流ではなく、消費社会の中にある娯楽の種類の拡大で、その中のごく一部から熱心に本を読むようになる人が出てくるとか、そんな程度の話だと思う。読書によって人格陶冶するということに疑いを持っていると書いておられたが、なら発信する側も享受する側も人文によって道徳的に良くなることは何も期待されていないことになり、目的は消費的な楽しみくらいのものしかないのだと自分で言ってしまっていないだろうか。

Permalink |記事への反応(0) | 21:58

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タキシスが圧倒的有利にもかかわらず、なぜ世界を完全に支配できなかったのか

1. 神々の間の「誓約」と「ルール」の制約

第三次ドラゴン戦争での約束

タキシス世界を完全に支配できなかった根本的な理由は、古い約束にあります

第三次ドラゴン戦争Age ofDreams)で、騎士フーマ・ドラゴンベイン(聖槍を持つ英雄)がタキシスに聖槍で傷を負わせました。

その結果、タキシスは以下の誓約強制されました

「二度とクリーン界に侵攻しないこと」

この誓約は、タキシス個人を直接拘束する、魔法的に強制力のある契約でした。

しかし、タキシスは「ルールの抜け穴」を見つけた

ここが重要です。タキシスは、誓約を「形式的に」守りながら、その「精神」を破ろうとしました。

具体的には:

直接的な「侵攻」ではなく、秘密裏の準備

タキシスは、世界に直接現れるのではなく、クレリックドラゴンを通じて間接的に活動しました。

大厄災による「世界の変化」を利用

大厄災後世界が混乱していた状況を利用して、タキシスは「技術的には侵攻ではない」方法勢力を拡大しました。

善神たちの不在を最大限に活用

善神たちが世界を完全に離れている間に、タキシス活動する「余裕」があったのです。

2. 「神的バランス」と「高神(ハイゴッド)の法則

善悪バランスの維持

しかし、タキシスが完全に世界支配できなかった最も重要理由は、「神的バランス」という宇宙法則にあります

「Gods are bound to their natures, soshe's unable to see pasther ambition that the Highgod's decree of balance would meanshe's not going towin.」

まり

高神(ハイゴッド)が宇宙基本法則として『善悪バランス』を定めた

タキシスは野心的すぎて、この法則存在を軽視していた

結果として、彼女が力を増せば増すほど、善側も必然的に力を増す(応答する)ようになっていた

善神たちが「応答せざるを得ない」状況

実は、善神たちは、タキシス世界支配しすぎると、高神の法則によって「対抗せざるを得ない」状況に追い込まれるのです。

言い換えれば:

タキシスが強くなりすぎる→ 高神の「バランス法則」が働く → 善神たちが世界に戻らざるを得ない →ゴールドムーンの出現など、善側の起動も必然化する

3. タキシスの致命的な欠陥:自らの性質への盲目

野心が大きすぎた

タキシスの最大の弱点は、彼女が「完全な支配」を目指しすぎたことです。

タキシス本質支配欲、支配権への執着、「自分がすべてを支配したい」という執念

しかし、この本質が実は彼女破滅に追い込む**:支配が強くなりすぎると、神的バランスが働いて、善側の対抗勢力が現れる

実は、タキシスが「善神たちが世界にいない間に、ゆっくりかに支配を進める」戦略を取っていれば、バランス法則に引っかからなかったかもしれません。

しかし、タキシスは「全部支配する」という欲望に駆られて、急速に征服を進めたため、バランス法則が働いてしまったのです。

4. 善神たちのクレリック活動継続

シャカルの秘密活動

実は、善神たちは「完全には世界から消えていなかった」という説もあります

シャカ女神は、秘かに信者たちに癒し魔法を与えていました(タラダス地域での事例)

パラディンは、秘かに導きを与えていました

まり、善神たちも「形式上世界を離れた」が、「実際には秘かに接触していた」のです。

この秘密活動のため、タキシスが「完全に支配する」ことは難しかったのです。

5.人間たちの予期されない抵抗

圧倒的に不利な状況でも、人間は戦った

タキシス世界支配できなかった理由の一つは、人間たちの予期されない抵抗にあります

最初の2年間、ドラゴン軍団は次々と領土征服し、人間たちはほぼ防戦一方でした

しかし、やがて人間たちはホワイトストーン評議会形成し、団結した抵抗組織した

青い結晶の杖の発見により、善神たちが世界に戻ってくるという「希望」が生まれ、それが人間たちの士気を大きく高めた

まり、タキシスが「勝つ瞬間」が訪れたはずなのに、その直前に善神たちが戻ってきたのです。

6.メタレベル理由:神的バランスの不可避性

高神の法則絶対

最終的に、タキシスが完全に世界支配できなかった理由は、「高神が定めた宇宙法則バランス』が、タキシス支配自動的に阻止した」からです。

タキシスは、自らの力に自信を持っていました。彼女は、「善神たちが世界にいない間に、自分が全部支配すればいい」と考えていました。

しかし、彼女は「バランス法則」という存在過小評価していました。

タキシスが力を増せば増すほど、以下が起きました:

1. 高神の「バランス」が働く

2. 善神たちが応答する必要が生じる

3.ゴールドムーンという「信仰象徴」が現れる

4. 善神たちが世界に戻ってくる

5. タキシスクーデターが失敗する

結論:タキシスは「自分の野心に自滅させられた」

タキシスが圧倒的に有利にもかかわらず、なぜ世界を完全に支配できなかったのか。

その答えは:

「タキシス性質である支配欲』が、実は彼女の最大の敵だったから」

野心が小さければ、秘かに活動を続けることができたかもしれません。しかし、タキシスは「すべてを支配したい」という本質から逃げられず、その結果、高神の「バランス法則」を発動させてしまったのです。

これは、ドラゴンランス世界根底的な教訓でもあります

「Good redeemsits own, andevil turns uponitself. Both good andevil must exist in contract.」

まり、「悪が大きくなりすぎると、善も必然的に起動する」という、宇宙的な仕組みなのです。

Permalink |記事への反応(0) | 18:03

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2025-12-11

ポピュリズムこそ歴史必然

だれでも(虚実とりまぜて)情報を入手でき、

一方、(虚実とりまぜて)情報提供が金になるなら、

ポピュリズムは実現する。

Permalink |記事への反応(0) | 09:47

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2025-12-08

anond:20251208111741

学んだ結果、少子化必然であり人類は滅んで当然という結論に達しました

Permalink |記事への反応(0) | 11:19

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2025-12-07

お笑いがわからない

年に一度、M1グランプリだけでお笑いを見る(他に見る方法を知らないから)

なかなか笑えるコンビが出てこないが面白いとき面白い

最近だとぺこぱバッテリィズが良かった

でもそれっきりだ

お笑い芸人自体テレビでよく見る

でもネタやるわけじゃないし

バラエティ番組の賑やかし、驚き屋みたいな人しか見ない

アイドル番組の司会やってるの見ても芸人がやってる必然がわからない

この人たちは何を持ってして支持されているのだろうか

俺にはお笑いがわからない

Permalink |記事への反応(0) | 05:29

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2025-12-05

日本竹馬連合会」って「カルト宗教」のメタファーだったのでは?

生活を圧迫する

・苦しいのに辞める発想が出てこない

・日頃から他人を上から見下ろしている

目線の高さを維持するために不自由暮らしをしている

うん。

間違いねえな。

偶然は2つまでと言うが、今回は4つだ。

ここまで来たら必然だろう。

アレは告発だったんだな

Permalink |記事への反応(1) | 23:31

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2025-12-04

証明者――父と私、そして「存在しなかった」ものたち

春の陽射しが網戸を通して差し込む。父親がレール部分を指さす。「ここが出っ張っているから削ってくれ」。私は黙って見ていた。

彼の指さす先は、網戸の可動部分そのものだった。削れば機能しなくなる。彼は「ちょっとした困難」にすぐ人を頼る。

この癖が、彼の人生を、そして私との関係を、ゆっくりと確実に蝕んでいったのだと、今ならわかる。

水に沈むラジコン

私が小学校六年生のときの話だ。何週間もかけてラジコンカーを組み上げていた。

完成間近になった夜、父は「見せろ」と言った。暗がりの中、私は車体の最終調整をし、父に送信機を渡した。「触らないで」と念を押した。

彼は触った。いや、いたずらした。車体はバックし、深い水たまりにまっすぐ入った。

防水ではない。私は固まった。父は笑っていた。彼は私がキャンキャン騒ぐのを楽しんでいた。

子どもの反応をおもちゃのように弄ぶのが好きな男だった。

後日、母の叱責で父は謝罪した。窓を開け、寝ている私に投げやりに「悪かった」と叫んだ。

謝罪というより、恥辱の表明だった。何も伝わってこなかった。

この瞬間、私は「父」という存在を、一個の「人間」として測り始めた。そして、その測定結果は惨憺たるものだった。

父は幼い子ども特に五歳くらいまでの子に強い興味を示した。無理難題を言って反応を楽しむ。

しかし、子ども自我を持ち始め、「嫌なものは嫌」と言い出すと、彼の目は瞬く間に曇り、興味は失せた。

彼が求めたのは「思い通りになる関係」だった。それは存在しない幻想だ。だが彼は、その幻想依存し続けた。

春の朝暴力と、秋の出向

春になると、父は特別なことをした。早起きして私を叩き起こすのだ。

冬はない。春の陽気が、彼の中の何かを騒がせるらしい。「五分で着替えてグラウンドに出てこい」。それができないと、真っ赤な顔をして殴ってきた。

彼は「猶予を与えないこと」が得意だった。自分が起こされるときは、そんなことは一切ないのに。

時は流れ、父は会社で「懲罰人事」と呼ばれる社外出向を命じられた。

当時はリストラ時代ではない。彼は「出向イコールクビ」と二度繰り返し、絶望した。

青森かどこかへ行かされ、そこでは何もせず、無為時間を過ごし、苦しんでいたと後で聞いた。

不思議ものだ。同じ「出向」という境遇に、私は後に立つことになる。

だが私の感覚は違った。「落ち込んでいたけど、日々の出勤があるからね。なんかできないかなー」そう思った。

二万円のパソコンと、当時としては画期的低価格ソフトを買い、独学で使いこなした。

そして自作の便利なコマンドを作り、部署のみんなに入れてあげた。面白がられた。

そこに、大手IT企業から来たという男がいた。LANケーブルのこともわからず、私に頼ってきた。仕事から逃げる人だった。

「こんなダメ人間がいるのか」と思った。肩書と実力の乖離。父が会社でやっていたことも、おそらくこれに近かったのだろう。

暴力で言うことを聞かせ、逆らうと政治をする」。そんな男が、組織の本流から「放逐」されるのは、必然の成り行きだった。

網戸と算数問題集クラシック音楽

網戸の掃除の一件は、彼の人生の縮図のように思える。

自分で見て、考えて、ためしてみる――この最も基本的プロセスを、彼は常に他者に投げた。

その癖は、家庭の隅々に染み出ていた。

一緒に旅行に行こうと言い出したかと思うと、電車の中で突然言った。「お前は算数問題集を持ってきてやる」。

アホかと思った。旅行という非日常空間に、日常課題を持ち込む。

彼の頭の中には、私という人間感情欲望存在せず、あるのは「教育する父」という自分自身の役割に没入したいという欲求だけだった。

別の日、彼はテレビクラシック音楽番組を楽しそうに見終わると、手元を指さして言った。

ハイ、ここに三十分くらいクラシック音楽」。突然の指令である。私はレコードプレーヤーを持ってくるよう命じられ、むしゃくしゃした。

だって番組を楽しんでいたのに。彼の「いい気分」は、周囲の人間を突然「自分情緒体験の延長」として召喚する許可状になった。

ゴルフ指導もそうだった。一挙一動に大声で口を出し、完全に夢中になる。

彼が夢中になっているのは、私の上達でもない、親子の時間でもない。

指導者としての自分」に酔いしれる感覚のものだった。

水泳でも「それいけ!」とプール中に響く大声を出した。

それは私のためというより、自分自身の熱狂演出するパフォーマンスだった。

「胸がいっぱいです」と、存在しない相手の家

母方の叔母の話をしよう。彼女の息子は三十五歳でようやく結婚式を挙げた。

その場でマイクを握り、「私は胸がいっぱいです」と泣きながら言った。

私は意外だった。ふつう結婚式来賓を労うものだと思うからだ。

だが、これが母方の家系の特徴なのかもしれない、と後になって気づいた。

その叔母もまた、自分の息子が結婚した際、相手の家が存在しないかのような振る舞いを繰り返したという。

母も父と「同じ」だった。私の感情意思を、一個の独立したものとして尊重するという基盤が、初めからそこにはなかった。

母方の家系には、内輪の感情に強く没入し、その外側の他者を軽視する傾向が流れているようだった。

私は、父方の「支配幻想」と、母方の「没入と無視」という、二つの異なる「他者不在」のシステム交差点に生まれ落ちた。

からこそ、私は両方のシステムから自由な、「外部の観察者」となることを運命づけられていたのかもしれない。

高校生背中と、親戚への言いつけ

高校生のある日、私はついに父に「やり返した」。長年の理不尽暴力への反撃だ。

だが私は、顔面は避け、背中から押し倒すという「優しさ」すら守った。

彼は私を殴り返さなかった。代わりに、親戚中に電話をかけ、「息子が父親暴力をふるった」と言いふらした。

そこで私は、彼の「卑怯」の本質を見た。力の論理で負けるやいなや、たちまち「世間体」や「情の政治」という別の土俵に持ち込む。

会社で「逆らうと政治をする」というのも、まったく同じ手口だったに違いない。

家庭という密室では通用たこ手法が、会社というより広い社会では通用しなくなり、彼は「懲罰人事」という形で社会から排除されていった。

死の間際の「息子、息子」

父が死の床に就いた時、彼はひたすら「息子、息子」と考え続けていたと聞いた。その話を聞いて、私はなお一層、痛々しい気持ちになった。

なぜそこまで、自分を脱することができないのか。なぜ「最初から存在しなかった幼児」への依存から、一生抜け出せないのか。

彼が求め続けた「息子」は、私ではなかった。自我を持ち、意思を持ち、彼の支配を拒絶し、一個の人間として彼と対峙たこの私ではなかった。

彼が恋い慕ったのは、彼の心の中にだけ存在した「言いなりになる幻想幼児」だった。私は、その幻想体現できない「失敗作」として、彼の人生に居続けたのだ。

「生まれてこさせてもらって感謝」という問いの空虚

世間では「生まれてこさせてもらって感謝しなさい」と言われる。だが私は思う。最初から存在していないなら、生の苦しみも何もない。

まれる前の「私」に、生まれることの恩恵不利益もない。問い自体意味をなさない。

父や母は、「子どもを作った」という事実をもって、何かを成し遂げたと思っていたかもしれない。

だが、生物学的な子作りは猫や犬にもできる。なにも偉くない。

本当に難しいのは、その子どもを一個の独立した人格として尊重し、その人生を見守ることだ。

彼らにはそれが決定的に欠けていた。だから感謝」を求めること自体が、服従要求に感じられる。

私もうつ病になり、三十年近く貧しい生活を続けてきた。その中で気づいたのは、生きて給料を得ることすら、ある種の犬や猫が「できること」に過ぎないということだ。

社会はそれを「偉さ」の基準にするが、それができないからといって人間価値がなくなるわけではない。

逆に、それができたからといって、その人が他者尊重できる人間になるわけでもない。父がそうだったように。

理想化された対象と、網戸のパーツ

から私は思う。父のような人は、理想化されたホステスさんに、自分理想女性を「乗り移らせ」て、ぼーっと依存するほうがよほど健全だったのではないか、と。

対価を払い、時間区切り無辜他者を傷つけずに、自分幻想と向き合うことができるのだから

彼はそうしなかった。代わりに、逃げ場のない家族を、自分幻想支配欲の捌け口にした。

網戸のパーツを「出っ張り」と誤認し、削るよう命じたように、彼は現実を歪めて認識し、それを修正する責任他者押し付けた。

私は彼の「人生証明者」である

彼が家庭という密室で、そしておそらく会社という社会で、いか他者尊重せず、いか自己幻想依存し、いかにして孤立排除へと向かっていったかを、誰よりも詳細に証明できる存在だ。

同時に、私は彼の「反対の証明」でもありたい。出向先でパソコンを学び、コマンドを作って笑いをとったように。

網戸のパーツを削るように命じられながら、その誤りを見抜いたように。春の朝暴力に、「背中から落とす」という自制の反撃で応えたように。

彼が「懲罰」と見た場所で、私は「自分が伸びる材料」を見た。彼が「クビ」と絶望した処遇を、私は「日々の出勤があるから」と現実として受け入れた。

彼が「息子、息子」と幻想にすがった最期とき、私は「なぜ自分を脱せないのか」と、彼の孤独を見つめていた。

証拠はすべてここにある。水に沈んだラジコン春の朝グラウンド。網戸の誤認されたパーツ。親戚に言いつけた電話

青森での無為な日々。そして、私の中に残る虚しさと、それでも尚、現実能動的に関わろうとする、かすかな手応え。

子どもはすべて知っている。思う存分にやったことを、一つ一つ覚えている。

私は父の、そして母方の家系の、その「思う存分」の人生の、生きている証明なのだ

この証明書に刻まれ文字は、時に怒りに、時に哀れみに、時に深い虚無に染まる。

だが、それが私という人間の、否定しがたい一部であることも、また事実である

私は、彼らの「不在」の証明であることと引き換えに、少なくとも自分自身の「存在」の証人ではあり続ける。

Permalink |記事への反応(0) | 17:06

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2025-12-03

anond:20251203143044

ライフハッカー系が微妙だなと感じる理由論理的に整理するとこういう構造になる。

まず本来ライフハックという概念は、思考・行動・環境最適化によって、同じ仕事量をより少ないコストでこなすという、アーリーIT時代ミニマリズム効率思想だった。

ところが、今のライフハック系メディアの大半はその逆方向、つまり効率化を口実にした消費サイクルの量産装置になっている。これは構造的に起こる必然でもある。

広告収入が落ちた時点で、記事の中心は役立つ考え方から買ってくれたら媒体が儲かるリンク集に変質する。

すると生活を軽くするではなく、商品紹介を生活改善偽装するようになる。

結果、ライフハックの名の下に増えるのは情報ではなく物品。

思考を変えるとか習慣を作るのは時間がかかる。

だがこのガジェット人生が変わるというのは即効性があるように見えるし、シェアされる。

媒体インセンティブに忠実なので、浅いハック+高いアフィリンクが横行する。

ミニマリズムは買わない・減らすが本質

広告メディア本能は見せる・増やす

この二つが同じ屋根の下に共存しようとすると、ミニマリズムを語りながら物量主義を煽るという倒錯したコンテンツ生まれる。

ライフハック記事本来、内的改善の助けになるべきだが、今は改善したいという人間の弱さを財布を開かせる導線として扱ってしまう。

まりあなた違和感を覚えるのは正しい。

今のライフハッカー系はハック(工夫)ではなく、ハック風味の消費促進コンテンツからだ。

そして効率化という言葉広告の包装紙として悪用している。

本来ライフハック、行動最適化環境設計認知負荷の削減を求めている人間からすると、あれはもう完全に別の生き物になっている。

Permalink |記事への反応(1) | 14:33

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2025-12-02

やっぱりフェミニズム外国人排斥は結びつくよな

まあフェミニズムっていうかミサンドリーなんやろうけど

その辺の境界曖昧

女性不安に徹底的に寄り添っていけば、外国人が怖いか排除したいって思想へと変化していくのは必然よな

Permalink |記事への反応(2) | 13:24

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2025-11-28

anond:20251127092945

ここまで左派に極力寄り添っている増田でもダメだってのがなんかもうキッツイなこれ……('A`)

右や中道立場はどうあれ

特に認める必要はない、はてサの正しい部分」

を主張してくれてるのに、トラックバックブコメはてサはこれを無碍にしてる……('A`)

なぜ、特に認める必要は無いかというと……

高市発言自体特に間違っているわけではない

高市発言自体にこれといった誤りが含まれるわけではなかったし、

なんなら旗色を明らかにした後も国民からの支持が高いことと相俟って

日本の対米姿勢を明確にできていて、実は追い風が吹いている。

ここで撤回なんかしたら寧ろ

アメリカ有事日本は出ませんよ」

って誤ったメッセージを送ることになるんだから言えるハズも無い。

……だからこそ発言撤回させたいって人が居るなら、それは普通にスパイか何かだよね。

それこそ高市政権支持率も落ち込むことでしょう。

政治的老獪さは批判で育てるものじゃ無い

政治的な老獪さは外野から石を投げられて学ぶもんでは無い。

そもそも、石が飛んでる時点で手遅れなので、そうなる前の対処必要

となれば、期待するとすれば自民党内のノウハウ共有による、

より適切な立ち回りを伝授して貰うところにあるわけで、

それは対応する既に動きがあるため一々言わなくて良い。

問題認識していることを知られる必要が無い

スパイに弱点はここですよーと喧伝する必要性が絶無。

さも問題が無いかのように振る舞うことで、逆に左派失言を拾えている。

実際このザマ。

というわけで、最後最後に書いたものすごーく肝心な部分について、

増田は親切にも教えてくれているというのに、このザマなわけですよ。

なんなら、中国みたいな侵略軍事国家に利するばかりで

国益につながらない発言党派性叫び続けるようなヤカラを批判できてすら居ないなら、

「お前ら一体どこの国の立場で話してます?」

となるのも必然しかない……

これがブザマじゃなきゃ何がブザマなんだかなのですよー。

Permalink |記事への反応(3) | 01:03

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2025-11-27

気になったのでヒグマ vs.ライオンAIシミュレートさせてみた

anond:20251126200837

🏟️シミュレーションヒグマ vsライオン 🏟️

舞台は直径30mの円形闘技場。観客は総立ち。

🏟️ 開幕

石破茂「えー、まず定義確認しなければならないのであります。闘技場とは何か。これは単なる円形の空間ではなく、闘争の場であり、秩序と混沌が同居する極めて特異な環境であるわけであります。直径30メートルという数字も、偶然ではなく、必然であります。なぜ30なのか、これは人間認識において、距離感と緊張感を同時に生み出す数値であると考えざるを得ないのであります。」


第1ラウンド:様子見

• 🐻ヒグマ:巨体を揺らしながら低い唸り声。闘技場の中央を陣取る。

石破茂ヒグマとは何か。これは単なる熊ではなく、北方の森において生態系の頂点に位置する存在であります。その筋肉量、体幹、そして爪の長さ、これらは偶然ではなく必然産物であります。」

• 🦁ライオン:俊敏に円を描くように走り回り、隙を伺う。

石破茂ライオンとは何か。これは単なる猫科ではなく、サバンナにおける社会性の象徴であります。群れを形成し、役割を分担し、秩序を維持する。単独で戦う場合、その定義が揺らぐのでありますしかしながら、その俊敏性はヒグマの巨体に対抗しうる唯一の資質であると考えざるを得ないのであります。 」

• 💪アニマル浜口:「気合だーッ!!!」と絶叫しながら両手を振り回す。観客席が一瞬どよめく。

石破茂「そしてアニマル浜口氏。人間とは何か。これは理性と感情のせめぎ合いであり、浜口氏の場合は『気合』という形で顕在化しているのであります果たして動物相手通用するのかどうか、これは極めて難しい問題であります気合とは何か、これは物理的な力ではなく、精神的なエネルギーの表出であり

まして…(延々と続く)」


第2ラウンド:最初接触

• 🦁ライオンヒグマの背後に回り込み、前足で軽く引っかく。

石破茂「飛びかかるとは何か。これは単なる移動ではなく、攻撃意思を伴った身体の加速であります意思とは何か、これは生物環境適応するための選択でありまして…」

• 🐻ヒグマは振り返り、前足の一撃で地面をえぐる。ライオンは間一髪で回避

石破茂「えぐるとは何か。これは破壊であり、破壊とは創造の前提条件であります。つまりヒグマの一撃は破壊であり、同時に新たな秩序の創造であると考えざるを得ないのであります。」

• 💪浜口はその隙に「気合だー!」と叫びながら両者の間に割って入るが、風圧で吹き飛ばされる。


第3ラウンド:迫真応酬

• 🐻ヒグマライオンを正面から捕らえ、組み合いに持ち込む。

• 🦁ライオン必死に噛みつき反撃するが、体重差で押し切られる。

• 💪浜口は背後から気合だー!」と叫びながらヒグマ背中に飛び乗る。

• 🐻ヒグマは一瞬驚くが、振り落とそうと暴れる。ライオンはその隙に再度噛みつき

石破茂三者入り乱れての攻防、これはまさに混沌のものであります浜口氏の気合が、ライオンに一瞬のチャンスを与えた、そう言えるのではないでしょうか。」


クライマックス・・・

• 🐻ヒグマが最終的にライオンを地面に押さえ込み、勝負あり

• 💪浜口はなおも「気合だー!オイー!オイー!」と叫び続け、観客からスタンディングオベーション

石破茂結論として、ヒグマの圧倒的な体格と力が勝敗を決したわけでありますしかしながら、浜口氏の気合は観客の心を大いに揺さぶった、これは間違いない事実であります。」


だいどんでんがえし

石破茂「えー、ここで極めて異例の事態が発生しているのであります勝敗が決したと思われたその瞬間、浜口京子氏が闘技場に乱入しておられるのであります乱入とは何か、これは秩序の外から新たな秩序を持ち込む行為でありまして…」

👧京子:「気合だーッ!!!」と父に呼応しながらリングイン

🐻ヒグマ勝利の余韻に浸っていたが、突如背後から組み付かれる。

👧京子:得意のタックルからローリングクラッチホールドを繰り出す。

🐻ヒグマ、巨体を揺らしながらもバランスを崩され、地面に押さえ込まれる。

💪アニマル浜口は場外から気合だー!京子ー!京子ー!オイーオイー!」と絶叫し、闘技場全体が共鳴

石破茂 「これはまさに、人間技術精神力が自然界の猛獣凌駕する瞬間であります技術とは何か、これは知識経験の体系化でありまして、浜口京子氏が父の気合を受け継ぎ、レスリングという体系をもってヒグマを制したのであります。」


トゥルーエンド

• 🏆 勝者:アニマル親子(👧浜口京子+💪アニマル浜口

• 観客は総立ち、涙と笑いが入り混じる。

• 🐻ヒグマは「ぐぅ…」と唸りながらも、完全に抑え込まれ試合終了。

石破茂結論として、勝敗とは必ずしも体格や筋力だけで決まるものではなく、技術精神、そして親子の絆が奇跡を生み出すのであります。これは極めて示唆に富む事例でありまして、我々はこの勝利を単なる娯楽ではなく、人間存在定義のものとして受け止めるべきであると考えざるを得ないのであります。」

Permalink |記事への反応(2) | 12:01

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2025-11-26

anond:20251126111106

その定義は完全に嘘だぞ

登場する要素はすべて必然役割をもたないといけない(雰囲気付け程度ではいけない)

っていうのがチェーホフの銃で

異質なものだけに限るなんてのはない

Permalink |記事への反応(1) | 11:20

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2025-11-25

anond:20251125150256

殆ど報道モラル善意良識でおこなうものではなくて経済活動から、儲かるほうに流れるのは必然

Permalink |記事への反応(0) | 15:06

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2025-11-24

【なぜ働くと本が読めなくなるのか】一番売れた新書への違和感

「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書からキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程論理の飛躍があるからだ。

加えて、三宅書籍モヤモヤするのは、彼女著作問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。

論理構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。

問題は、その本が社会構造分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論ジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書社会人の近代史パート(9章くらいまで?)

はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人感情物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。

さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまり無視している。映画花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。

現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロインちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。

一般的労働者が週5日・フルタイム構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。

その社会構造自体おかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービス享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。

そうした現実に目を向けず、都市部の特権けが享受可能理想論大衆に説く。ここにはグロテスクしか言いようのない欠陥構造がある。

また、三宅が語る「批評文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したか批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)

批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズム批判が担っていたのは理路整然の文章大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。

これは批評民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推し言語化するツール批評が成り下がると、推し肯定する言説しかまれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツ音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者感情におもねる批評でいいのだろうか。

出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。

批評論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級現実曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。

批評共感同調を求めるものではない。徹底した差別化と切り離しの営みだ。

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【なぜ働くと本が読めなくなるのか】一番売れた新書への違和感

「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書からキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程論理の飛躍があるからだ。

加えて、三宅書籍モヤモヤするのは、彼女著作問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。

論理構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。

問題は、その本が社会構造分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論ジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書社会人の近代史パート(9章くらいまで?)

はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人感情物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。

さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまり無視している。映画花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。

現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロインちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。

一般的労働者が週5日・フルタイム構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。

その社会構造自体おかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービス享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。

そうした現実に目を向けず、都市部の特権けが享受可能理想論大衆に説く。ここにはグロテスクしか言いようのない欠陥構造がある。

また、三宅が語る「批評文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したか批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)

批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズム批判が担っていたのは理路整然の文章大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。

これは批評民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推し言語化するツール批評が成り下がると、推し肯定する言説しかまれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツ音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者感情におもねる批評でいいのだろうか。

出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。

批評論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級現実曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。

批評共感同調を求めるものではない。徹底した差別化と切り離しの営みだ。

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2025-11-23

anond:20251123133739

金銭的には一人暮らしすることはできるけど、恥ずかしながら生活力があまりなくて、安定しない。

かに一人で鬱だったころよりは今のほうが安定してる。

からまた家をでていくってなったらモメまくるのは必然なので、その気力はないな、というところ。

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2025-11-22

映画ランボーラスト・ブラッドを見た

映画単体としてはいい出来とはとても言えないがランボー映画の最終作としては嫌いになれない。

59点。

 

この作品がどんな作品かを、めっちゃ簡単に言っちゃうならランボー怒りの96時間、もしくはイコランボー96時間イコライザーランボーでやってみました、という映画

悪い所はこの2作をランボーでやったことで起きてるし、いい所はこの2作をランボーでやったところで起きてる。

この2作、てかこれ系の作品は元特殊部隊員が大事存在を害されてその敵をせん滅する話なので、その元特殊部隊員をランボーに置き換えるというアイデアはありだと思うし、むしろ普通作品では「なんかしゅごいやつだったらしい」くらいのエッセンスとして描かれる特殊部隊時代の話がランボーでは4作かけて積み重ねている分、有利ですらある。

しかし。

 

まず悪いところ。

他の主人公たちが恐らく諜報系の特殊部隊員であり過去コネクションを強く持っているのに対して、ランボーはおそらく前線で戦う兵士系の特殊部隊員であり仲間は全滅し頼れるトラウトマンも死んでしまった孤独戦士であること。

その結果、頼れる諜報仲間がいないからヒント出す以外に何の意味もない女ジャーナリストを出さなきゃいけなかった。こいつの存在ホンマノイズ。100人92人くらいこいついらんなぁ~って思ったはず。

そして「ランボー」をやる必要があるということが無意味しか見えない展開を生んでいるのもめっちゃマイナス

誰もがハァ?って思ったランボーノコノコ、無策でギャングシマに乗り込んでいってボコボコにされてほっぺ切られる展開。これ、普通に考えたら絶対にありえない展開だけど、これって2のオマージュなのは明らかじゃん。敵地に乗り込んでいって捕まってほっぺ切られる。このことで平和ボケしたパパランボーは「ランボー」に戻る。

ということを表しているんだろうなぁと思うんだけどもっとうまいことできんかったか

ここまでボケてるようには見えなかったからさすがに違和感過ごすぎてやりたいことを素直に受け入れられないレベル

 

次、いいところ。

この作品ランボーだってところ。

ランボーは旧友の孫のガブリエラを娘のようにかわいがってたんだけど、その父親クズ中のクズで会いたがるガブに対して「人は変わらない」と言う。「おじさんは変わった」というガブに対して「蓋をしているだけだ」と答え、上で書いたように2の儀式を経て「蓋が開き」「変わっていないこと」を示す。

「人は変わらない」ってセリフも非常に凡なセリフだけど4作付き合ってきた身からすると「変われんかぁ……!」という気持ちになるよね。まぁ、今作のランボー、4の最後で返った牧場地下道を延々と掘ってて「カウンセリング行く?だいじょぶそ?」って感じなんだよね。この辺は重みが出てて結構よかった。

そして他の作品だとイコライザーホームセンターシークエンスをパク、拝借した?と言いたくなる最後地下道での決戦だけど、ランボーだと別の意味を持つ。見ればわかるけど、やってることってランボートラウマであるトコンそのもなんだよね。徹底したゲリラ戦。残虐ホームアローンも、愛するものを喪って1の前どころか、彼が抱える悪夢のものになってしまったランボーと考えると哀しすぎる。

そう考えると冒頭のシークエンス観光客?を鉄砲から救おうとするも3人中1人しか救えないシークエンスも「救う男」になりたいというランボーと「救えない男」でしかないランボーの両方を表しているように思えてよかった。じゃなきゃ普通に全員救える展開にしてもいいんだし。

でも5作やったスタローンの中でのランボー結論がこれかぁって寂しい気持ちもある。まぁ4でランボーを「殺す者」と定義してしまった以上、こうなるのは必然だったのかな。最終的にトラウマに飲み込まれ戦場に戻ってしまった男。

イコライザージョン・ウィックブライアン最後安息を手に入れたのに。

彼らには過去の仲間がいて、新しい友人もいる。ランボーには誰もいない。

「一人だけの軍隊」それがランボー本質だったという結論は哀しいながら美しい。

 

ただ、このへんの高評価ポイントも正直、そこまで考えて作ってるのか?っていうのがかなり疑問になるくらいには作品としてはガタガタ。とても褒められた出来じゃない。ただ、「FirstBloodから始まったランボーシリーズの最終作「Last Blood」として一定のケリをつけたことは評価したい。

後、敵のボス吹き替え武田真治だったんだけどヘタクソすぎてキレそうだった。プロを使えよハゲ

 

ランボーお疲れ様

なんか最後お馬さんに乗ってシェーンやってたけど、カムバックはするな。

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anond:20251122151914

年々下がるのが必然だよな

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2025-11-20

anond:20251120141841

店の暖簾をくぐったとき、油の匂いが、すでに一つの運命のように私を包み込みました。鼻腔の奥で重たく揺らめくそ芳香は、庶民的でありながら、どこか儀式めいた厳粛さを帯びていますカウンターの向こうでは、白衣の男が黙々とロース肉に衣を纏わせ、油の海へと沈めてゆく。その所作はもはや調理ではなく、供犠に近いものでした。

鍋の中で、とんかつゆっくり自我を失い、豚という生の記憶を断ち切られ、黄金色の鎧を与えられてゆく。油が弾けるたび、こまかな泡が肉のまわりにまとわりつき、まるで最後祈りのように、静かに立ち昇っては消えていきます

やがて皿の上に据えられたそれは、ひとつの完結した建築物のようでした。端正に揃えられた断面——淡い桃色をわずかに残した肉の芯を、きめ細かい衣が取り囲み、その外側には、無造作を装いながらも計算され尽くしたキャベツの千切りが、小さな庭園のように添えられている。

まずは何もつけずに、一切れ。箸を入れた瞬間、衣がわずかに抵抗し、次いで、驚くほど容易く音もなく裂ける。その小さな手ごたえが、すでに美味の予感を告げていました。口に運ぶと、衣は「サクリ」というかすかな音を立てて崩れ、すぐさま脂の甘みが広がる。豚肉という素材が、本来持ちうるはずの野卑さをどこかに置き忘れてきたかのように、驚くほど上品な旨味だけを残して。

噛みしめるたび、肉汁がじわりと滲み出て、舌の上でゆっくりと溶けていく。だが、それは決して軽薄なジューシーさではなく、刃のようにすっとした輪郭を持った味わいです。塩をひとつまみ振れば、脂の甘さと肉の香りが、急に焦点を結び、世界が一瞬くっきりと輪郭を取り戻す。

次に、店自慢のソースたっぷりと纏わせてみる。濃密な褐色の液体が、衣の凹凸をゆっくりと埋めていくさまは、どこか退廃的でさえある。その一切れを口に含んだ瞬間、ソースの酸味と甘味が、先ほどまで端正だった世界に一抹の破壊衝動を持ち込む。とんかつはもはや単なる揚げ物ではなく、甘美な暴力となって、容赦なく味覚を叩きのめしてくる。

キャベツを箸でつまみドレッシングを絡めて口に運ぶと、それは一転、冷たい風のような清冽さで、さきほどまでの熱と脂の宴を一度リセットする役目を果たす。シャキシャキとした歯ざわりが、乱れた感覚を律し、ふたたび次の一切れを求めさせる。こうして人は、熱と冷、濃密と淡白破壊と救済のあいだを、何度も往復させられるのです。

白飯は、ここでは脇役にとどまることを拒んでいました。ひと口、とんかつを頬張り、すぐさま米を追いかけると、粒だった炊き加減が脂をやわらかく受け止め、とんかつの豪奢さを静かに受容する。丼の中でただ白く在るだけの米が、この瞬間だけは、確かな必然としてそこにいることを悟らされるのです。

味噌汁を啜れば、揚げ油で高ぶった心拍が、少しだけ落ち着く。出汁香りと、具材の素朴さが、先ほどまでの濃密な世界ほのかな陰影を与え、食卓という小さな舞台は、ようやく終幕に向かってゆきます

気がつけば、皿の上にはパン粉の小さな欠片と、キャベツの断片、そしてうっすらとソースの跡が残るばかりでした。それらは、つい数分前まで一つの完璧な形を成していたとんかつの、静かな残影です。

とんかつとは、実に不思議料理です。豚という、どこまでも日常的で、ありふれた肉が、油という媒介を通して別の存在へと生まれ変わる。その変容は、単なる調理の域を超え、小さな劇として、食べる者の前に立ち現れる。

皿を下げにきた店員が、何気なくありがとうございました」と言ったその一言で、私はようやく、この小さな劇が終わったことを知りました。店を出ると、外はいつも通りの街の雑踏。けれど、胃の奥でまだ熱を保ちつづけるとんかつ記憶けが、しばらくのあいだ、私の中で静かに燃え続けていました。

Permalink |記事への反応(0) | 14:21

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なんでこんな死にたいのか考えてみたけど解決しなかった

近頃、とにかく死にたい

毎年10月から11月はこういう感じになるので、季節のせいであることは分かっている。12月になる頃にはだいたいなんかなんとかなってるから大丈夫

でも年々ひどくなっている気もする。それに、毎年ウワーッとはなるにせよ、そもそもなんでこういう死にたい感情に襲われるかがよく分からなかったので、何か直接的な原因がないものか、人生についてちょっと考えてみた。



仕事面白くないが、面白くないだけだ。

元々社福祉とか一次産業とかインフラとか配送業かに憧れがあった。誰かの生活を支える、縁の下の力持ちってかっこいい。でも増田危機管理能力がない。忘れ物は多いし、ケアレスミス死ぬほどするし、どんなに我慢しようとしたって余計な改善をしようとして結局改悪してしまう。保守運転とか一番苦手な分野だ。トラックどころか自分の体一つだって乗りこなせない。事故を起こさないため、誰かを殺さないため、そういう職業にはつかないほうがいいと思って生きている。

からから金を搾取することだけを考えているカスみたいなサービス下請けで、自分一人を養えるだけの端金をもらって、犯罪を起こしてないからそれでいいのだと必死に言い聞かせている。上手く出来なくてもカスの弊社が困るだけだからいくらミスしても罪悪感はない。

だがこれは直接死にたい原因ではない。やっとることはカスサービス形態ではあるが、ある程度転職にも使えそうな汎用的な職能の成長は出来るし、上司や同僚は増田の手助けや活躍を褒めてくれるし、そういった点でやりがい的なものがないわけでもない。業務自体はそこそこ向いてると思えるし、人間関係は良好と言って良いだろう。金額面も、自分一人を養えるくらいの金額は稼げているし、それによって欲しいもの我慢したり、望んだ生活を手放さなければならないほどではない。元々欲は薄い方だ。少ないながら貯金もしているし、いざとなれば親や友人を頼れば金がなくても多少の間はなんとかなる。労働自体は憎むほど忌み嫌ってるわけではないから、生涯現役でも全然構わない。

金銭や将来の不安職場人間関係悪化などがあって死にたいわけではない。

友人関係も悪いわけではない。

かにたびたび「人間じゃない」とか「常識的気遣いが足りない」とか「普通考えれば分かることがどうして出来ないのか」とか言われたりもするが、それでも根気強く付き合いを続けてくれる友人ばかりだ。何も言わずに去られるより全然マシなので、そういう耳に痛い言葉も言ってくれるだけでありがたい。一度も傷つけたことのない、あるいは傷つけられたことのない友人は確かにいないのだが、それでもみんな大事な友人だ。

そういう大事な友人にご迷惑をおかけすることで罪悪感で潰れそうになることはあるが、例えば無茶な振り回し方をしてきたり、金銭を貸せとやたらたかって返さなかったり、そういうガチトラブルに発展するような友人諸兄ではないし、増田もそういうことをしないよう、礼節を忘れないように重々気をつけている。それでもたまにうっかり日々の会話で地雷を踏んで怒らせることはあるものの、友人同士が「それは言い過ぎ」とか「お互い様」とか仲裁してくれるので、増田自身尊厳も守ってもらえていると思う。友人とボロカス喧嘩をして死にたい夜もないことはないが、それは大抵一時的ものだし、直近はそういう感じで険悪になってる相手はいない。

家族関係も悪くない。

父も母も理屈で話せば分かる人であるし、親戚一同もなんだかんだ元気に暮らしている。不謹慎ニュースを見て爆笑する叔父や、身の回りの世話を全部してあげないと心配で夜も眠れない叔母、とにかくプライドが高く他人を見下したり注目を集めたりしないと気がすまない従兄弟信仰押し付けはないもの新興宗教にどっぷり献金している祖父母など、アクが強くはあるが、こちらに実害はないので可愛い範囲で収まるものだ。肉親に怒鳴ったり、暴力を振るったり、金銭トラブルを持ち込んだり、結婚強要したりする人はいない。

まあ、両親に恨みがないと言えば嘘になる。幼稚園の頃に甘えようとすり寄ったら「は?鬱陶しい、ひっつくな」と引き剥がされたり、小学生の頃いじめられていた時に増田の言い分を一切聞かず「あなたにも悪いところがなかったかよく考えてみよう?」と3時間近く諭してきたり、愛着の面では問題があったのは確かだ。しかしそれは増田に対して愛情がなかったというよりは、それが彼らの愛着限界なのだ。飼っているウサギすら、部屋の中で凍死しかけていることに気づかなかった両親である。それを思えば、衣食住を保障してくれたのは事実だし、危険なことは叱ってくれた。大学まで学費も出してくれたし、両親の行きたいところにではあるが旅行にもそこそこ連れて行ってもらっていた。彼らにしてはだいぶ努力していたのだろうと今なら分かる。

から半年に一度程度は顔を見せに帰省しているし、それがめちゃくちゃ苦痛というわけでもない。全ては過去のことであり、無、凪、平熱、そういった単語がふさわしい関係性だ。これもまた、直接の原因ではない。

恋愛関係はないし、それを後ろめたくも思っていない。

増田Xジェンダー、リスロマンティック、アセクシャル三拍子揃った人間だ。その上、それでもどうしても起こる性欲の発散方法は「対象年齢・性別を問わないリョナ創作」と来た。絶対に世に出してはいけない、リアル人間に向けるなんて以ての外という嗜好をしている。

幸いなことに、告白されたことも、したいと思うほど惹かれた人も人生にいない。誰かを傷つけてしまうくらいならそれでいいと思っている。「恋愛理解できないのは正常ではない」と思って恋愛小説恋愛漫画を読んでは、イーッ!分からん!と一人で暴れていたこともあるが、それは「普通人生を送ること」に固執していたからであって、もう普通じゃなくていいやと開き直った今は、一人で生きていく覚悟がとっくに出来ている。

から恋愛ができなくて人生つまんなくて死にたいというわけでもない。

趣味はある。

増田創作が好きだ。物語を書くのが好きだ。随筆も、批判も、絵も、彫刻も、歌も、踊りも、とにかく何かを表現することが好きだ。それは自分の中にある感情思考を(作品に限らずこういった文章などでも)表し、発散することで一時的な沈静が見込めるからだ。だから誰かのために書いてるわけじゃなく、褒められるために書いているわけでもなく、ただひたすら自分衝動を、犯罪ではない範囲で発散できることに喜びを感じている。

また、他人のそういう一面を見るのも好きだ。孤独ではない、と、他のどんな娯楽よりも、どんな脳内物質の分泌よりも、最も確かに感じられるし、癒されるからだ。みんな苦しくて孤独なのだと実感できるからだ。そしてそれらを十全に納得のいくまで突き詰めようと、他人創作物をしゃぶりつくしたり、自分表現を究めたりしようと思うと、百年に満たない短い人生を食いつぶすには、十分すぎるくらい時間がかかる。

これも死にたい原因ではない。むしろ趣味のことを考えれば、死んでいる場合ではないのだ。

これと言ったトラウマもない。

いや、ないことはない。小学校の頃は確かに治安が悪かったし、その中で最も低いカースト層にいたのは確かだ。靴箱に砂を詰め込まれたこともあったし、掃除の時はちりとりに集めたゴミを引き出しにそのまま流し込まれたこともあった。濡れた雑巾を頭に投げつけられたこともあった。ドッジボール執拗ボールをぶつけられることもあった。体育の二人一組ではいつもハブられていたし、仕方なしに増田を組まざるを得なかったやつは、増田の触れたところを校庭の土でこすって払った。まるで土のほうが汚くないとでも言いたげに。

クラスメイト全員敵だからいるわけがないのに、脅迫的に好きな人を聞き出され、最もいじめてきた回数が少ない人の名前をあげたら、翌日からそいついじめられ始めて、他人を好いてはいけないと思い知ったこともあった。給食着やテーブルクロスを、本当は持ち回り当番なのに毎週持ち帰らされて、親に「じゃんけんで負けた」「牛乳こぼした責任で」と嘘をついた。もちろんああいう感じの親なので「あんたはどうしてそうなんだろうね」と気づかれもしなかった。

「視界に入るな」「半径2メートルに近づくな」「菌が伝染るから学級文庫・机・プリント・日誌・配膳皿などに)触るな」あるいはもっと直球に「死ね」も全部日常的に言われていた。学級崩壊でまともに授業が受けられなくて教育機会を損失して、その頃に本来学ぶべきだった分野は今でもちょっと苦手意識がある。毎年劇をやるはずの発表会では制御不能判断されて、ペットボトルでお米を育ててみましたといううっすい内容を、誰がどこを喋るかまで一言一句ガッチガチに固められて発表させられた。自主性なんて言葉は死んでいた。若い新卒教師毎日授業で泣いていて、その頃にはとっくに泣き疲れて感情に蓋をしていた増田は、その涙を「煽るだけなのに」と冷ややかな目で見ていた。

カースト中の下だった傍観者クラスメイト大学で再会して、一緒に「小学校の思い出」とかいうクソみたいなグループワークの授業を受けざるを得なかった時、給食の班机で菌が伝染るからとやられていたみたいに1cmあけて机を組まれた瞬間、増田の心にヒビが入り、割れ目が出来て人格が四つに分かれしまい、今も元に戻らなかったりしている。そういう意味では、たしかトラウマと呼んでもいいのかもしれない。

それでも直接的な殴る蹴るという暴力は振るわれなかったからマシな方だったと信じている。記憶があり、はっきりと思い出せて、これだけの内容を泣かずに書けるようになっただけかなり寛解してきている。それに、当時の自分だって箒で殴り返すなどそこそこやり返したり、いじめっ子と同質になって増田よりもっとカーストの低い支援学級の子に対して、自分にされたことをそのままやり返すみたいにしていじめたりだってしていた。当時飼っていたハムスター憂さ晴らし虐待していた。弱いものさらに弱いものを叩き、ブルースは加速していた。そういう感じでなんだかんだ適応して元気にやっていた。

それらへの後悔に苦しみながら、同時にその延長で今も友人にライン超えの発言をしたり、逆に踏み越えてはいけないラインを踏み越えられてもその場では分からなかったり、自覚がないままキレ返してしま制御不能に陥ったり、暴力脅迫支配を伴わない合意の上での性行為では興奮できなかったり、記憶は共有しているもの人格割れしま解離性同一性障害まで秒読み状態だったりと、後遺症は色濃く残っている。

けれど、でも犯罪をしないで済むくらいの範囲で誤魔化しきれているし、それ以上を望んだりもしない。だからこれもまた、今の増田をむしばんでいる死にたさの原因ではない。その時期はとっくに乗り越えてあり、過去過去、今は今として整理がついていて、そういう自分のあり方を受け入れている。



仕事趣味、友人、恋愛家族趣味過去

人生構成するだいたい全部に、人並みの不満や後悔はあれど、満足していないわけでもない。人間関係にも金銭にも将来にも不安はない。上を見ればきりはないが、下を見てもきりがない。自分人生自分のものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

増田には確固たる自己があり、誰にも侵食されていない。

私は私だ。

なのに何故こんなにも死にたいのか。

胸を打つこの衝動は何か。

線路に飛び込め、七階から落ちろ、溺れて死ね、とにかく死ね、そう囁き続ける声が内側に蔓延るのか。

思春期という言葉を藁のように握りしめて、この衝動的な嵐が、年齢を経れば終わってくれると、ただ若さなのだと、そう信じてしがみついてきたのに、どうしてアラサーになってもまだ衰える気配がないのか。

自己不安定な時期など、とうに過ぎていると言うのに。

自己、ああ、そうだ。この自己だ。

この衝動こそが死にたさの原因であり、結果だ。

この自己こそが死にたさの真の原因ではないのか。

本当はやりたい仕事を諦めて現状に甘んじている?

友人と上手く付き合うことが出来ない?

両親の愛着が足りなかった?

恋愛が怖くて最初から諦めている?

趣味が実質逃避になっている?

過去に嫌なことがあって未だに引きずっている?

幸せになろうとすること全てにブレーキをかけてしまっている?

全ては結果に過ぎない。

最初存在しているこの「自己」こそが引き起こした、必然の結果に過ぎない。

死にたいのは、嫌なことがあったのが原因じゃない。

嫌なことを引き起こすような自分に全ての原因があるということから、いよいよ目を逸らせなくなってしまたからだ。

増田はずっと、衝動、癇癪、叫びのような化け物を心に飼って、共に生きてきた。

こいつを野放しにしたら、とてもじゃないが人間社会では生きていけない、というかまず肉体が耐えきれなくて崩壊するような、触れるもの全てを敵と認識する、爆発的なエネルギーけがひたすら渦巻いている、自壊を厭わない衝動の化け物。

その化け物を飼い慣らすことだけが増田の今の全てを形作っている。

仕事や友人の選び方、楽しめる趣味思考、行動、言葉、その全部全部が、この化け物を静かに眠らせておくことだけに全力を注ぐように構成されている。

そしてそれが漏れ出てしまった瞬間、必ずトラブルが起こる。嫌なことは全てそうやって起きている。

全ての嫌なことに原因は、増田自身だった。

そう、気がついてしまった。

両親、友人、そして過去の思い出は、一般的社会に溶け込める人間たちが、その化け物を目の前にした時の、ごくありふれた正常な反応に過ぎない。

全ては結果なのだ

思えば最初から物心ついた時にはもう、そいつと一緒に生きていた。

その場の思いつきで突拍子もないことをして、危険危険だと分かっていながら飛び込まずにはいられない、じっとしてはいられないという性質を、持て余していた。

両親が増田のことを「あんたのことはよく分からない」と困惑して言った日のことをよく覚えている。

友人が「増田人間じゃなくて増田という生き物なんだね」としみじみ言った日のことも。

増田いじめて泣かせたクラスメイトが「だっての子最初に嫌なことをしてきたんだもん」と言ったことも。

先生が「どうしてそんなことしたの?」と泣いている増田を問い詰めたことも。

「泣いていたら分かんないよ。先生悪くないよね?なんで先生のこと怒るの?」と寄り添いのかけらもない態度をとったことも。

そして増田はただ、嫌がらせをしようとすら思ってもいなくて、そうすることしか出来なかった、それ以外のやりようがあるなんて考えつきもしなかっただけなのだと、説明出来なかったことも。

よく覚えている。

それらは全部、増田おかしかっただけで、みんなはただ、当たり前に困っていただけだ。

そして増田自身も、困っていた。

ただ、それだけだった。

よく分からないものは愛せない、未知は排斥する、ああ、そうだろうとも。それにしたって、みんなの方にだってもう少し上手くやりようがあるようにも感じるけれど、でも、人間完璧じゃない。上手く出来ないことだってあるし、それを責めたってどうにもならなくて、仕方がない。

からみんな、距離を取る。うん、まったくもって正しい。あなた自分を守るために、増田人生破壊されないために、必要距離だろうとも。

でも、増田だって、こんなのと一緒に生きていくのはもううんざりなんだ。

私は私と一緒に生きていくのが疲れた

そして私は、その内側の化け物から距離を取れない。

みんなみたいに、そっと距離を取ることができない。

ずっと近くにいる。

ずっと隣にいる。

剥がしようもなく側にいる。

趣味だって、ただそうすれば抱えた癇癪がマシになるからやっているに過ぎない。こいつから逃れられないから、仕方なく好きにさせてやってもいい場所を作っているに過ぎない。

本当は絵や文章なんか書かなくても気分が晴れるならそれが一番楽なはずだ。誰も傷つけずに、安心して一人で好きなだけ打ち込めるというだけの、苦しみから逃れるために必要なだけの、ただの麻酔だ。

文章を書いたり、絵を描いたりで努力できるのはすごいね」と褒めてもらえることもあるけれど、違うんだよ。それをやらないとあなた危害を加えてしまいそうだから仕方なくやっているだけなんだ。全然立派でも何ともない。犯罪者予備軍が犯罪をしないためにギャンブルや酒に溺れているのと一緒なんだ、これは。

依存で、中毒で、全然褒められたようなものじゃない。

厄介な人をあしらう術に長けた者たちだけが、周りに残っているのがその証左だ。

衝動性を逃がす以外のモチベーションはないから、創作で食っていこうとしてもクオリティにムラがあって仕事にならないのがその証左だ。

自分は化け物だ。

人間じゃない。

人間になんかなれっこない。

必死に身につけた人間性の全てが、衝動の化け物が眠る上に構築してあるというただ一点を理由に、崩れていく。

その眠る化け物が少し身じろぎするだけで、目覚めるまでもなく、増田の積み上げた全てを崩壊させる。

人間になんか、最初からなれっこなかった。

増田は自らの意思人生選択したのではなく、選択できる範囲の中で選ばされるしか出来なかった。

好きなもの一つ、「自分」の意志では決められない。化け物を起こさないようにごくごく慎重に、刺激しないものだけを選んでいる。

全部全部こいつのせいなんだよ。

化け物を一番殺したいのは増田なんだよ。

私の人生を全部めちゃくちゃにしてきて我慢ばっかりさせるような化け物を、一番憎んでいるのは私自身なんだよ。

両親を困らせたくなかった。

クラスの子と上手くやりたかった。

いじめられたくなかった。

ハムスターだって死なせたくなかった。

恋愛が怖いと思いたくなかった。

趣味だって昔は運動が好きだったはずだ。

仕事だって人の役に立つ誇らしい仕事がしたかった。

友達を傷つけるようなことなんて、今だって一個も言いたくない。

なのに全部できない。

全部全部、壊すのは増田だ。

私なんだよ。



死にたい

もう、こいつと一緒に生きていくことに疲れてしまった。

何もかも破壊して、めちゃくちゃにして終わらせたいという衝動が、朝も昼も夜もずっとずっと苛む。

増田にできるのは、この化け物を思い通りにさせず、誰をも傷つけることなく、自らの死以外の罪をこの肉体に起こさせないことだけなのではないか、という気分になってくる。

どんな声かけも慰めも麻酔も、虚しいばかりだ。

それよりも、慰めてくれた誰かに牙を剥きたくない。

恩を仇で返したくない。

そんな気持ちのほうが、ずっとずっと大きく膨らんでいってしまう。

無理に結婚子育てをしていなくて良かった。

死んではいけない理由を作ってしまっていなくて良かった。

それは誰かを不幸にするから

愛されないまま死んで忘れられることだけが増田にできる唯一の社会貢献だ。

せめてそれだけはさせてほしい。

許してほしい。

ごめんなさい。

まれてごめんなさい。

Permalink |記事への反応(2) | 00:01

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2025-11-19

anond:20251119125235

不良セクタ以下のゴミデータネットにまき散らしてご満悦なんだろうけど、全部間違ってるからな。

まだこういうバカネットにいるのかと思うと暗澹たる気持ちだが、よそで恥をかかないために無料アドバイスしてやろう。感謝しろ


から「女が男に厳しくしても許されるのに男が女に厳しくするのは差別」みたいな現象が起きるのは、制度上の矛盾じゃなくて必然なんだわ。

構造的に強者側(男)が弱者側(女)に同じことをしたら、それはただの差別として認定される。

でも弱者側が強者側に向けてやる場合は、歴史的背景を踏まえた「補正」であって、そこに対等性を持ち込むのは筋違い

これやってダメだったのがラディフェミ

ラディフェミは「女性」っていう大きなカテゴリで「弱者vs強者」の図式を作って運動を先鋭化させて「男は加害者、女は被害者」っていう図式を強く押し出した結果、社会的な支持を失って孤立していったんだけど、その孤立に並行してあったのが、さらなる弱者運動からパージなんだよ。

なにかっつーと、「女性」の中にもさらに抑圧されてる層がいるわけじゃん。黒人女性障害者女性貧困層女性とか。

で、ラディフェミ論理って「女性男性に抑圧されてる弱者から補正必要」っていう構造なのに、その論理さらに内側に適用されると自分たち強者側になるわけだ。

そうなると、黒人女性が「白人女性中心の運動だ」って批判するのとか、障害者女性が「健常者女性視点しかない」って指摘するのに対して、「弱者の声を優先すべき」っていう自分たち論理否定できないから、運動が分裂して内ゲバになったんよ。ラディフェミ論理で戦ってると、いつか弱者属性カードゲームになるからな。ネットのツイフェミがそうしたクソゲーを延々と遊んでるからわかるだろう。


ラディフェミが死んだあとに頑張ったリベラルフェミニズムがそこから一定の成果を上げられたのは、「性別関係なく能力に応じた機会を」っていうジェンダーを問わない、誰も表立って否定しづらい原則を掲げたからで、それで法改正制度変更を引き出せた。

納得できねえだろうけど、社会ってそうやって変えてくもんなんだよ。メンタルとオツムがクソガキだからからねえだろうけど。

運動の成否って、正しさだけじゃなくて戦略問題なんだよ。どんなに理念が正しくても、攻め方を間違えると同じナイフ自分が刺されて死ぬ。だからラディフェミは研ぎすぎた自分ナイフで刺されて死んだし、リベフェミは扱いやすサイズナイフをうまく使って攻め切った。

お前みたいに「差別されてきたから分け前をよこせ」なんてバカ主張がクソ真面目にされてたら、フェミは何一つ成果を上げられなかっただろうな。

Permalink |記事への反応(0) | 22:52

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ジェンダー平等意味男女平等だと勘違いしていませんか?

なんかさ、最近ジェンダー平等って言うなら〇〇はいいんですか~?」みたいな当てつけコメントめっちゃ見るんだけど、あれ本気で言ってるのか疑うわ。

いやいや、「男女平等」と「ジェンダー平等」を同一視してる時点で論外なんだけど。

まず前提として、ジェンダー平等って「すべての性が、歴史的構造的な不平等是正するための枠組み」なんだよね。

まりゼロからスタートラインを揃えるんじゃなくて、そもそも格差があるから補正してるだけ。

から「女が男に厳しくしても許されるのに男が女に厳しくするのは差別」みたいな現象が起きるのは、制度上の矛盾じゃなくて必然なんだわ。

構造的に強者側(男)が弱者側(女)に同じことをしたら、それはただの差別として認定される。

でも弱者側が強者側に向けてやる場合は、歴史的背景を踏まえた「補正」であって、そこに対等性を持ち込むのは筋違い

そしてこれ、フェミニズムめっちゃ共通してるんだよね。

フェミニズムって男女平等主義じゃなくて、あくまで「女性立場改善するための思想」だし、ジェンダー平等もその延長線にある。

なのに「女が〇〇するのはいいのに男がしたら叩かれるのはおかしい!」ってキレてる人、完全に前提を誤読してる。

ジェンダー平等は対等ごっこじゃないんだよ。

歴史的に不利だった側に補正をかけて、ようやくバランス取ろうとしてるだけ。

それを理解せずに「男女平等じゃねえの?」って言ってるやつは、ズレてるってことにそろそろ気づこうな。

Permalink |記事への反応(5) | 12:52

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2025-11-18

今日からダイエット

毎日毎日帰りのスーパーで半額の揚げ物2パックくらい買って食べながら帰っちゃうのが原因なのは明らかなので、

この衝動いかに抑えるかだけがこの作戦の成否を分けると言っても過言ではない

しかし朝食7時、昼食12時、とくると17時に飯を食いたくなるのは必然であるので

ここの空腹をいかに誤魔化すかという工夫が必要

 

朝食と昼食は同じもの食べてて

P:40g 160kcal

F:15g 135kcal

C:50g 200kcal

計:約500kcal×2で1000kcal

 

夕食はやや適当

P:30g 120kcal

F:30g 270kcal

C:80g 320kcal

計:約710kcal

 

サプリ

P:30g 120kcal

 

1830kcal

 

現在

身長179cm

体重:86kg

週4でジムに通っててフリーウエイトメインの筋トレをしてる

3カ月(2月末まで)に最低でも80kgくらいまでは落としたい

Permalink |記事への反応(0) | 10:41

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左翼主張中国軍強力戦争開始日本支配必然

左翼主張日本台湾肯定中国激怒

観光客激減製造業壊滅戦争虐殺三択

高市総理失敗日本土下座推奨

増田失笑

憲法九条無意味

左翼矛盾阿呆

Permalink |記事への反応(1) | 08:41

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