
はてなキーワード:帆船とは
1571年、レパントの海戦。オスマン帝国の無敵艦隊を、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊が撃破したあの日は、ヨーロッパにおける「旧秩序の最後の勝利」として記憶されている。だがそれは同時に、火薬と風帆の交錯する時代における“過去の戦い方”の終焉でもあった。
そして、2025年の『PokémonLEGENDS Z-A』――これもまた、ゲーム業界におけるレパントの海戦である。
任天堂とポケモン社は、革新を標榜しながらも、その本質は“帆船の艦列戦”に固執する連合艦隊だ。巨大なIPの威光を盾に、数値と懐古の煙幕でプレイヤーを包み込む。だが、海はすでに変わっている。Steam、Epic、モバイルの潮流は、帆ではなく蒸気と電力で駆動する――それが現代の“海戦”だ。
ポケモンZAが選んだのは、その新海域を航海することではなく、旧式のガレー船を金箔で飾り、再び出港する道だった。
確かに、レパントの海戦ではオスマンの拡張を止めた。しかし、あの勝利は一時の幻影に過ぎず、やがて地中海の覇権は沈黙のうちに移り変わった。同じく、ポケモンZAも短期的には話題と売上で勝利を収めるだろう。だがその勝利の背後で、ゲームの「航海技術」は停滞し、革新の風は他の海原へと流れていく。
“伝統”の名のもとに惰性を正当化するその姿勢は、まさにガレー船の鎖に繋がれた漕ぎ手のようだ。美しく整った列を組みながら、どこへ向かうのかを誰も知らない。
レパントの海戦は、旧世界の最後の勝利であり、新時代の前夜であった。
ポケモンZAもまた、ポケモン帝国の最終的な「勝利」であり、同時に「終わりの始まり」なのかもしれない。任天堂がいまだに風を読み違えるなら、その船団は次の嵐で、二度と帰港できないだろう。
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
近江一郎の著書で、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、下記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。卒業生には海軍関係者が多かったようで、特に奥田喜久司とは親しそうな書き方がされている。内容としては、笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
紹介するね!
1位:Octopus Card(オクトパスカード)
【香港】
• 由来は「タコ=8本足=どこにでも行ける」かららしいけど、
• でも香港では超便利で、コンビニ、マック、電車、全部ピッてできる最強カードだから、
**「香港ではタコ様が支配している」**って言われるくらい浸透してる 笑
•シンプルだけど**「T(トランスポート)」+「Money(お金)」**をくっつけただけ!
なんかポケモン感ある。
「ティーマネー!」って叫びながら改札通る外国人もいるとかないとか。笑
3位:Myki(マイキー)
• **「Mykey(私の鍵)」**を縮めたらしいけど、
初見は「誰やねん」ってなる。
ローカルジョークで「マイキーにマイキー取られた」とか言われる。
• 実際、現地でも「なぜハサミ?」って言われる。
•ちゃんと調べると、19世紀の速い帆船から取った名前らしいけど、誰もそんなこと知らん。
• 「珍しくてキレイ=価値がある乗車カードだよ」って意味らしいけど、
ただただ
「宝石で改札通る」
• たまに観光客が「本物のオパールと関係あるの!?」って聞いて困らせる。
おまけ:
• 「PASMO」(パスモ)→「パスモンスターの略」っていう都市伝説があったり
• 「ICOCA」(イコカ)→関西弁で「行こか!」っていう超軽いノリだったり
けっこう自由にネーミングしてるんだよね。
つまりまとめると、
私はベーコンエピの美味しさに最近気付いていくつかのお店を買い漁ってベーコンエピの旅をしているのよ。
ここ3店舗の買ってみた私のテリトリーの買えるお店3店舗での印象。
1つ目のお店は、
コスパは良くハードパンの割りには柔らかめカチカチを期待するほどでもないしっとりとした感じのパンって感じ。
2つ目は
1つ目のお店の値段は倍するけれど存在感ありのハードパンよろしくカチカチの風味良いパンでベーコンも効いているわ。
そんで3つ目のお店。
外側のパンのハードさがカリっとしてサクッとして中がふんわりと、
だいぶ夜の時間帯に買って出来立てから時間がたって多少くたびれているとはいえ、
外観のパリッとしたカチカチの様相と囓ったときのパンのカリッと感が一番強かったのは3つ目のテンポ。
でも本格派を名乗っているだけあって、
堅いのよね。
でも美味しいのよね。
ランキングにしていると
1位2つ目のパン屋さん。
2位3つ目のパン屋さん。
3位1つ目のパン屋さん。
つってごめんごめんこれじゃ何も伝わらないわよね。
みかんの花咲く丘公園前駅の駅前商店街にもパン屋さんあるっけ?
今思い出したわ。
そこまだ開拓していないので、
いわば
未踏の地!
そのまだ見ぬ遙か彼方に望むベーコンエピの山峰にベーコンエピの帆船で期待と帆を膨らませながらそのベーコンエピ大陸に臨むのよ!
ただのフランスパンだと
あのハードパンに合うほどよいベーコンのベーコン感に加えて口の中いっぱいに広がるベーコンの風味!
とはいえ、
パン要素がパンパンに全振りだとこれってベーコン入ってなくない?
って思われちゃうかもしれないじゃない。
なので、
日々暮らしている中で新たなべーコンエピがあれば
試してみたいところよ。
1つ目のテンポのは
コスパは良いんだけど、
パンの固さが軟弱なので、
その次らへんの2つのお店の店舗のベーコンエピはカチカチで食べ応え抜群のグンバツに美味しい香る小麦って感じ。
3つ目のお店のはさすが本場の欧州仕込み!
カッチカチなのよ。
カチカチすぎるわ。
私はこっちのカチカチのお店のベーコンエピにするかも。
だから
2つ目のお店と3つ目のお店はなかなか私的にはいまのところ良い勝負ね!って感じ。
とちらも甲乙付けがたいのよね。
でも私が立ち寄れる時間帯の夜の主に閉店間際のシャッターが閉まる瞬間にインディージョーンズが
遺跡の罠に引っかかって突然閉ざされる石の扉みたいなにぎりぎりでスライディングしてセーフ!ってする感じ。
閉まる瞬間に手だけが出てきてパッと帽子も無事回収!ってやつを地で行くみたいな感じで、
2つ目のお店は閉店時間19時半。
3つ目のお店の閉店時間は21時。
遅いけれど、
私の立ち寄る時間ころにはベーコンエピがあったりなかったりなかったりあったりとするので、
昨日はたまたま若干あったので
19時半に閉店して閉まるお店も、
閉店間際だと私が飛び込み前転をして入店している間に売り切れちゃいそうなぐらい最後の1本ってところが多くって、
ここも売り切れ御免なのよね。
食べたいときにはだいたい売り切れなの。
落合博満記念館に本人在館中!って書いてあるけどあれって絶対うそよね?って思うぐらいちょっとガッカリするのよね。
つーか、
あの在館中って切替の看板、
ここ最近切り替わったそのスライドさせる在館中か在館中じゃないかを現す表示が
随分しばらくスライドして切り替わってない感しっかり出てるから
そもそもとして、
あの在館中!ってサイン本当なのかしら?って思うのよ。
そのぐらい閉店間際に行ってベーコンエピがなかったらガッカリなのよね。
でも、
まだ私のベーコンエピの旅は始まったばかりよ!
この期待膨らむ
新しいベーコンエピに次どんな美味しいのに出逢えるか楽しみよ!
うふふ。
あれはルービーとかハイボールとかと一緒におつまみで食べるのが私は好きかもしれないわ。
なので
あれはおつまみ感覚といっても過言ではない言い過ぎじゃないところよ。
決してそうではないからね!
昨日はマーケット寄れたのでマジレモン買ってきてママレモンじゃない方のマジレモンのレモン果実を
1つ皮を剥くのは面倒だったので、
冷たい水をボトルに詰めて果汁をマジ搾りして入れた
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
俺の頭の中には、まるで宇宙の星々が散りばめられたかのように、色んなアイデアや感情が渦巻いている。
例えば、朝起きたときに感じるあの爽快感、まるで新鮮なトマトをかじったときのようなジューシーさだ。
だけど、その一方で、通勤電車の中で体験するあの息苦しさ、まるでサンドイッチに挟まれたハムのような窮屈さもある。
そして、何よりも言いたいのは、「ケツプリプリ語」だ。
この言葉は、一見すると意味不明に聞こえるかもしれないが、実は深い哲学が隠されている。
ケツプリプリ語とは、心の奥底から湧き上がる感情を表現するための特別な言語であり、それを使うことで、人間関係やコミュニケーションがより豊かになると信じている。
例えば、友達とカフェでおしゃべりしているとき、「今日はなんだかケツプリプリだね!」と言えば、その瞬間に場の雰囲気が和む。
なぜなら、この言葉には「楽しい」「嬉しい」「ちょっとおかしい」という多様な意味が込められているからだ。
もちろん、その場にいる人々がこの言葉を理解していることが前提だけど。
例えば、仕事でストレスを感じたとき、「今はちょっとケツプリプリモードに入っているから、後で話そう」と言えば、自分の気持ちを正直に伝えつつ、相手にも配慮できる。
これによって、お互いの理解が深まり、より良い関係を築くことができるんだ。
また、ケツプリプリ語は創造性を刺激する。絵を描くときや文章を書くときに、この言葉を思い出すことで、自分自身の内面にアクセスしやすくなる。
まるで色とりどりのクレヨンを使って自由に描くような感覚だ。だからこそ、俺はこの言葉を大切にしている。
結局のところ、俺が言いたいことはシンプルだ。「ケツプリプリ語」を通じて、自分自身や他人とのコミュニケーションを楽しむことができるということ。
豊臣秀吉の死後、徳川家康による天下統一が「鎖国」へと傾くことなく、逆に世界への積極的進出を是とした場合――いわば「海禁令なき日本史」――をSF的視点で思考してみましょう。
関ヶ原合戦後、徳川家康は中国・朝鮮半島・東南アジアとの通商を制限するどころか、秀吉の「唐入り」を反省材料としつつも、戦略的な海上拠点の確保と国際交易の自由化へ舵を切る。その背景には、ヨーロッパ勢力(ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス)との接触から得た「大洋航行技術」や「新型火砲技術」の獲得、さらにはインド洋の交易網へ参入し莫大な富を得ることが狙いとなる。
17世紀前半、日本は大量の木材と熟練した船大工技術を駆使し、当時としては極めて進歩的な大型遠洋帆船「泰和丸(たいわまる)」型を量産する。これらの船は紅毛人(欧州人)らがもたらした航海術や天文学的知識を吸収し、独自改良を加えた航海儀器(和算と干支暦に基づく天測計測装置)を搭載。日本は東アジア・東南アジア・インド洋にわたり、広大な貿易ネットワークを確立していく。「天下布船」を掲げる海上商人連合は幕府公認の下、香辛料、絹、銀、鉄砲、陶磁器、各地の工芸品の交易を増幅させた。
17世紀後半には、欧州から取り入れたガリレオ式望遠鏡、オランダ医学、幾何学書などを独自発展させる動きが加速する。商人・学者・職人が一体となり「長崎天文局」を設立。ここで彼らは暦改革や大洋航海ルートの正確化に努め、さらには海上風力と地磁気を活用した新型羅針儀、果ては初歩的な蒸気機関をも視野に入れた研究を進める。これが18世紀以降の「テクノ・徳川」時代の幕開けを告げた。
日本海軍は急速に巨大化し、艦隊は琉球や台湾、フィリピン方面へと進出。現地の政権との婚姻同盟や商館設置で軋轢を抑えつつも、海洋ルート上の要所を押さえ、いわば「アジア海洋連邦」の中核を成した。この連邦は言語や宗教が多様な中で、文禄・慶長の役以降、「他者理解」を標榜する儒学者・神道家・キリスト教徒が集い、相互通訳機関、翻訳院の設置などを推進。また欧州列強は日本との交易を重視し、オランダ商館が江戸湾に拡大設置され、ヨーロッパ科学や印刷術、初期産業革命技術が流入。結果、日本製の「機巧船」や「からくり式自動航海補助装置」が発明される。
こうした流れで19世紀に突入すると、「蒸気機関搭載外輪船」や「初歩的電磁通信機(エレクトロ・のろし台)」が欧州からの技術供与と国産研究から生まれ、幕府と諸藩はこれを積極導入。日本は環太平洋からインド洋、さらにはアフリカ東岸まで交易範囲を拡大、アジア・アフリカ航路の安全と通信網を独自整備する。世界的には英国・仏蘭西・スペイン・ポルトガルなどが植民地競争を激化させる中、徳川幕府はあくまで「海の道」を軸に、中立的商業帝国としての地位を確立。これにより、東西の知が日本国内で混在・再構築され、画期的な「日欧中印」四極学問交流体制が成立する。
この歴史線上では、蒸気船から電気船、そして反重力航行理論(ヘリウム浮揚型船舶技術を経て、電磁的浮揚技術が20世紀初頭に確立)へと進化が続く。バイリンガルの学者・技術者集団が江戸に集い、「空中商館」と呼ばれる浮遊式交易拠点がインド洋上に浮かぶ架空都市として計画され、極東から中東、地中海まで「日出づる国」発の浮遊艦隊が航行する。「サカイ(境)なき海」の概念が生まれ、海はもはや境界ではなく、文化と技術が結合し、東西が日常的に交差する舞台となる。
このような世界での日本は、着物を纏いつつ背中には多言語翻訳デバイスを装着し、和算と西洋数学が融合したアナログ計算機や、唐絵・南蛮絵・和様が混ざり合う新美術様式を輸出する文化的強国となっている。歌舞伎は遠洋船団上でも上演され、オルガンや琵琶、シタールが融合した奇妙な海洋音楽が世界各地の港町で流れる。
海禁令なき日本は、内向きな封鎖社会を回避し、知と技術・文化・交易を絶えず世界から摂取し再構成する「海洋型多文化テクノ文明」へと進化した。SF的想像を許せば、21世紀には重力制御船団が太平洋上空で静止し、国際宇宙航行同盟の創設に日本が深く関わるシナリオも考え得る。つまり、豊臣秀吉以降の日本が海禁を選ばずに世界へ雄飛した場合、それは単なる列強模倣の帝国ではなく、海上をインフラとした知的交差点として、「海洋を舞台にしたグローバル・ルネサンス」の中心となっていたであろう。
明治時代を思わせるレンガ+木造の庁舎でPC入力系の仕事をしている。オブラ・ディン号的、保険調査員のような。己はハンチングとツイード上下のレトロな洋装をしている。取り立てて何かの事件は起こっておらず、「問題無く正常」であることのチェックと入力。
場面転換。海沿い。通勤中だろうか?車線自体がない、あるとしたら片側3車線の計6車線分くらいの幅がある広いアスファルトの道路、地平線まで道が続いているようだ、そこをチャリで通っている。右手が海、上には青空。
目線の先、上空にぼんやりと虹が出ていた。やがてその虹は2つになり、3つになり、呆気に取られているうちに更に天頂に円形の虹が現れる。唖然としていると、虹の手前に、灰色という意味ではない、文字通りの真っ黒い雲で出来た分厚いアーチが、前触れもなく突如として次々に発生する。青空に3連の虹と円虹、そして重なった黒雲の弧、自分はその下を自転車で潜っていく。すると右手の洋上にいつの間にかオブラ・ディン号的巨大帆船が現れている、甲板では洋風のきらびやかな衣装を身に纏った人々が集う催し物が行われている模様、自分は理由も無くひとりの壮年将校に目線が向いており、彼の方を目掛けて速度を上げ猛烈なスピードで自転車を漕ぎ出し、岸からそのまま自転車ごと海へとジャンプして、夢だからだろう、船に飛び移って居る。将校と己の目線が合った次の瞬間、将校は撃たれ衝撃で甲板に倒れる。上がる悲鳴の中、駆け寄り出血箇所を布で抑え強く圧迫する、あたりで記憶は終わり。その後何が起こったのかは分からない。
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なんか定期的にセールやってるよね
ダウンロードコンテンツやそれらがすべて開放されたデラックス版はセールしておらず、全部含めると結局高くなるわね
ボタンを押して膨らんで、離して突進!相手をトゲに押し当てろ!
2人では展開が大味なので3人以上で遊ぶ機会があるご家庭は是非
ここまでを全部買っても3000円にならないはずだ(たぶん)
今だけ!今買え!
色んな発明が出ている時代なら良かったが、ネット、スマホ、デジタル中心になり、
投資資金も人もそちらに流れるようになってからというもの、必要な物が発明されてない気がしてならない。
例えば、「国際海運のCO2排出、2050年実質ゼロ」は、輸出入に頼る日本には本来なら切実なはずだ。
帆船、凧揚げをした船といった、見た目が怪しい扱いになっているが、そうでもしないとクリア出来ない。
AIによって自動化が進み、将来人手が余るだろう、なんて言われているが、リアル空間で物を動かす技術は全然だ。
絵がかけるAIについてだと、既存のプロのワークフローを無視して完成品だけ出力するので効率化に貢献出来ておらず、
どちらかというと問題ばかり起こった1年だった。
高齢者が多い日本は、そちらに投資が増え技術革新が起こるだろう、なんて言われていたが、
そんなこともなかった。
originalstoryas writtenbyHans ChristianAndersen から リトルマーメイドになった時点では欧州大西洋(北部)の話だったみたいだが、2023版はカリブ海あたりに舞台が移されている
そこでは、ご当地風味の演出として民衆が出てくるミュージカルシーンで楽器「スティールパン」によって曲が演奏されている
「BGMにスティールパンの音がする」ではなく、明確に人間族がスチールパンを叩いている映像が見られる
スティールパンは白人の奴隷抑圧、から生まれた楽器なのは譲るとして
「トリニダード・トバゴはイギリス領となりましたが、黒人奴隷たちの待遇は相変わらず最悪なもので、しばしば植民地の政府や警察相手の暴動が発生。
その発生は「カーニバル」の時期に決まって起こっていました。
キリスト教の謝肉祭の文脈と、アフリカの楽器を用いた祝祭の伝統が融合してできたものなのですが、興奮して盛り上がりすぎて日ごろの鬱憤が全部出てしまい、暴動に発展するケースが多々あったのです。1880年、イギリス植民地政府は「カーニバル暴動」を取り締まるため、金属の棒を用いるパーカッション音楽を全面禁止にしてしまいました。
黒人たちは、竹の棒を使ってフライパンやドラム缶を叩いて音楽を楽しみ始めました。それをタンブー・バンブーといいますが、しばらくしたらそれすら当局によって禁止されてしまいます。」
「1939年、ウィンストン・スプリーという人物がボロボロになったドラム缶を叩いて直そうとしたところ、凹んだ箇所によって異なる音が出ることを発見。スティールパンの元となる楽器を偶然生み出し、一躍黒人の間に広まります。
これが有名になったのは1941年。」「このような発展から「20世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明」と呼ばれており(要出展)」
スティールパンが存在するのは、本来ならば20世紀以後。現在も職人の高度な技術によって製造されている。
馬車と帆船が移動手段なのにスティールパンが存在するリトルマーメイド世界は、幕末にシンセサイザーを演奏する武士がいる江戸みたいな世界だということになる。(BGMにシンセサイザーの音が聞こえる映画ではない)(自動車は19世紀には実用化されている)