
はてなキーワード:古代ギリシアとは
あら、そのご質問、とっても興味深いですわね!✨
「井戸に毒を入れる」なんて聞くと、まさに時代劇や戦乱の世のイメージが浮かんでくるのよ。
結論から申しますと――井戸や水源に毒を入れることは、日本だけでなく世界中で「戦争・抗争・迫害」の手段として古くから見られたのですわ。ただし、実際に広範囲で行われたかというと、実例はかなり限定的ですのよ。
世界の事例
ペスト流行時に「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」との流言が広まり、 pogrom(虐殺)の口実になりました。これはほとんど事実無根でしたが、井戸毒殺のイメージは非常に強烈に残っていますわ。
敵の都市を攻める際に、水源を汚染(死体を投げ入れるなど)して疫病を広める戦法が記録に残っています。
中国の戦乱期
兵糧攻めや籠城戦の中で、水源を奪ったり汚染する行為は普通に考えられていたようです。
13世紀にクリミアのカッファを攻めたとき、ペスト感染者の死体を投石機で投げ入れて水や空気を汚染したと伝わっています(いわゆる「生物兵器」の初期例)。
戦国時代でも「敵城の井戸に死体や毒を投げ込む」といった記録は残っていますわ。ただし、当時の毒物(砒素や植物毒など)は扱いが難しく、実際にどこまで実効性があったかは怪しいですわ。むしろ「水源を奪う・枯らす」ほうが現実的な戦術だったのよ。
面白い問いですね。
いただいた文に沿って、私なりに答えてみます。
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まず、日本語を使ってて困ることを、
「誰がやったの?」「誰に向けて言ってるの?」が文脈依存で、
(曖昧だからこそ空気で察して譲歩したり、言わずに済む文化もあるので一長一短だけど)
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次に、役割語や語尾について。
だから英語圏の作家は口調より行動や比喩で個性を出すことが多い。
⸻
「強敵(とも)」みたいにルビでツッコミ入れるのは日本語独自の遊びですね。
英語だと Strong enemy (friend) とか書いても面白くない。
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「この服を、買いまーーーーーせん!」
⸻
でも逆に困るのは、
「論理をまっすぐに積んで説明する」のが苦手になりがちな点かもしれません。
・主語が抜ける
・遠回し表現が多い
・「言わずに分かって」が多い
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最後の問いに答えるとしたら、
「何語なら ‘女の子を怒らせず服のダサさを伝えられる?’」
It’s not reallyyour style,maybe?
英語も Myloveis deeper thanthe ocean とか言いますね。
発した瞬間に「不可逆」になる、という意味では近いです。
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結論としては:
人間がうまく使い分けてるんでしょうね。
⸻
他にも気になったら言ってください。
↑は、この匿名日記の2個前の匿名日記anond:20250628235025 に着想を得て、Gemini 2.5Flashと会話しながら作ったエッセイのようなものだったのだけど、これをさらにチャット型AIに読ませてみたら、各AIサービスごとに見事に差が出てビックリした。
それぞれでDeep Research をさせた結果を載せるね。
8つの主要主張について、原典と学術資料に基づく厳密な事実確認を実施しました。古代ギリシャの政治哲学から現代アメリカの世論調査まで、幅広い分野の主張を検証した結果、大部分は正確である一方、重要な不正確性も発見されました。
| 正確な主張: 6件 | 不正確な主張: 1件 | 検証不能: 1件 |
古代の政治哲学に関する主張は全て正確で、現代の統計データも概ね正確でした。しかし、アメリカ独立宣言の引用において重要な欠落が発見されました。
検証結果: 正確
プラトンは確実に民主政を理想国家の堕落過程における最終段階として位置づけ、僭主政への移行を警告しています。『国家』第8-9巻の原典から、「民主政は自然に僭主政を生み出し、最も極端な自由から最も極悪な形の僭主政が生まれる」との記述が確認されました。
プラトンの政体堕落論は、貴族政→名誉政→寡頭政→民主政→僭主政の順序で展開され、民主政の「際限のない自由への欲求」が秩序を破壊し、デマゴーグを生み出すことで僭主政に至ると分析しています。
検証結果: 正確
アリストテレスの『政治学』第5巻は、民主政の不安定化と崩壊について詳細な分析を提供しています。原典では「民主政はデマゴーグに支配されるとき最も転覆しやすく、デマゴーグが富者に対する十字軍を率いるとき」との記述が確認され、実際にアテネ等の具体例も挙げられています。
検証結果: 正確
ポリュビオスの『歴史』第6巻に記述されたアナキュクロシス(政体循環論)は、主張通り王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政の循環を提示しています。この理論は数百のギリシャ都市国家の観察に基づいており、後のアメリカ建国思想にも大きな影響を与えました。
検証結果: 正確
学術的コンセンサスと一致する内容です。紀元前133年のティベリウス・グラックス暗殺から27年のアウグストゥス即位までの危機過程における政治的暴力、軍事的強者による内戦、経済格差の拡大、制度的破綻などの要因分析は、現代歴史学の標準的見解と合致しています。
最も重要な発見は、アメリカ独立宣言の引用における重大な欠落です。
主張された引用文:
国立公文書館による正確な原文:
「我々は、これらの真理を自明のものとして受け入れる:すべての人間は平等につくられており、創造主によって、生命、自由、幸福の追求を含む、ある種の不可侵の権利を与えられている」
この欠落により、独立宣言の哲学的基盤である「自明の真理」という概念が失われ、文脈的意味が大きく変化しています。
検証結果: 正確
機密解除されたCIA文書と1975-76年の教会委員会報告書により、イラン(1953年)、グアテマラ(1954年)での政権転覆工作、プロパガンダ活動、心理作戦の実施が確認されています。モッキンバード作戦による報道機関への浸透、MKウルトラによる心理実験なども含まれます。
2022年4月実施の調査(n=10,156)で、アメリカ成人の39%が「人類は終末の時代に生きている」と信じていることが確認されました。主張の「約4割」は統計的に正確です。調査は全国代表性を持つ手法で実施され、宗教的・人種的背景による大きな差異も記録されています。
指定されたYouTube動画へのアクセスができないため、具体的な主張を検証できませんでした。ただし、2022年1月の退任発表では、アメリカを「進行中の実験」と表現し、民主主義制度への楽観的な信念を表明していることが複数の信頼できる報道で確認されています。
このエッセイは古代政治哲学の引用と現代統計データにおいて高い正確性を示しています。特に、プラトン、アリストテレス、ポリュビオスの古典的政治理論の記述は、原典と学術的コンセンサスに忠実です。
ただし、独立宣言の引用における重要な欠落は修正が必要です。この修正により、アメリカ建国思想の哲学的基盤がより正確に伝わるでしょう。
推奨修正:
独立宣言の引用部分に「我々は、これらの真理を自明のものとして受け入れる:」を追加し、思想的文脈を完全に保持することを推奨します。
全体として、このエッセイは学術的に信頼性の高い内容を提供していますが、一次資料からの引用については、より慎重な検証が必要です。
承知しました。このエッセイ全体を対象に、歴史的・政治的主張や引用に事実誤認がないか、またその解釈や論拠に不正確さや誤解を招く表現がないかを、批判的視点から検証します。
確認が済み次第、主要ポイントごとに整理した上でご報告いたします。少々お待ちください。
このエッセイに述べられている歴史的・社会的な論点は、概ね史実や資料に基づいており、大筋で正確です。古代ギリシアの哲学者による民主政への批判(プラトン、アリストテレス)やポリュビオスの政体循環論、ローマ共和政の崩壊原因、アメリカ独立宣言の理念と冷戦期のCIAの秘密工作、現代アメリカの「ディープステート」陰謀論、福音派の終末論的世界観とイスラエル支持、さらに第二次大戦期のファシズム台頭の教訓など、多岐にわたる主張が展開されています。**これらの主張のそれぞれについて、史実との照合を行った結果、エッセイに明らかな虚偽は見当たりませんでした**。以下に、各ポイントごとに根拠となる事実関係を検証します。
エッセイの説明はこのポリュビオスの理論と一致しており、\*\*「民主政が衆愚政へと堕落する過程」\*\*についての記述(個人の自由が公共の利益を損ない無秩序と暴力に陥る)は、ポリュビオスが説いた民主政から無政府状態への移行と同じ現象を指摘しています。したがって、この点も史実に沿った主張です。
以上の歴史は、**どれほど堅固に見える政治体制でも、極端な経済格差や権力闘争(安定した政権交代の仕組みがないこと)が内部矛盾となって崩壊しうる**ことを示しています。エッセイの記述はこの歴史的経緯と一致しています。
人類の歴史において、民主主義は常に理想と現実の狭間で揺れ動く「壮大な実験」であり続けてきた。古代ギリシアの賢人たちは、その脆さと可能性を早くも見抜いていた。
プラトンは、その著書『国家』において、理想国家の堕落の最終段階として「民主政」を挙げ、それが「僭主政」へと移行する危険性を指摘した。彼は、自由を過度に追求する民主政が、最終的には無秩序と放縦を生み出し、大衆の感情に訴えかける扇動家(僭主)の台頭を許すと警告した。アリストテレスもまた、『政治学』第5巻で、民主政が貧富の対立や扇動政治家による民衆の操作によって不安定化し、崩壊に至る多くの実例を詳述している。
そして、ポリュビオスは、政体が「王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政」というサイクルを繰り返す「政体循環論」を提唱した。民主政が衆愚政へと堕落する過程は、個人の自由が過度に尊重されるあまり公共の利益が見失われ、最終的に無秩序と暴力が支配する衆愚政治に陥るというものであり、古代の知見が現代にも通じる普遍性を持つことを示している。
古代ローマ共和制は、これらのギリシア哲学者の懸念を現実のものとする一例だった。その成果は、法の支配、市民の権利、抑制と均衡のシステムに見られたが、広大な領土の獲得に伴う経済格差の拡大、軍人政治家の台頭、そして内乱の激化は、最終的に共和制を帝政へと移行させる原因となった。これは、いかに強固な体制であっても、内部の矛盾と「安定した政権交代ができない」という弱点を抱えることで、崩壊の道を辿ることを示している。
長く続いた暗黒のヨーロッパを経て、米国はリベラル・デモクラシーの旗手として世界の舞台に登場した。その理念は、自由、平等、人権、そして民主主義の普及にあった。米国の独立宣言は、まさにその理念の表明であり、「全ての人間は平等につくられ、創造主によって、生命、自由、幸福の追求という、ある種の不可侵の権利を与えられている」という、新しい世代へと夢を託す壮大なビジョンを示している。
しかし、冷戦という特殊な国際情勢下において、米国は理想と現実の厳しい矛盾に直面した。ソ連とのイデオロギー的対立の中で、米国は「リベラル」な信条と相反する「リアリスト」な態度を国際社会(外交)において求められることになった。その結果、CIAなどの諜報機関は、他国の政権転覆、心理作戦、プロパガンダといった秘密情報活動を大規模に展開した。これらの活動は、当時の米国の国益を守るためとされたが、介入を受けた国々に米国に対する根深い猜疑心と不信感を植え付けた。リベラル・デモクラシーを標榜する国家が、その理想とは裏腹に、他国の内政に干渉し、世論を操作する行動に出たことは、その後の国際社会における米国の信頼性にも影を落とすことになった。
皮肉なことに、この「他国を貶める」ために行われた情報操作の「刃」は、時を経て米国自身に向けられることになる。米国社会で広がる「ディープステート」論は、かつてCIAなどが他国で行ってきたような「見えない権力による操作」への根深い不信感が、今や自国のエスタブリッシュメントに向けられている現象と見ることができる。リベラル・デモクラシーの擁護者であるはずの米国が、自らの行いが原因で、その理念自体に疑いの目を向けられている現状は、まさに過去の行動の「しっぺ返し」と言えるだろう。
現代の世界、特に米国の影響を色濃く受ける日本や西ヨーロッパの人々も、同様の「終末観」にとらわれているかもしれない。ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、米国では成人のおよそ4割が「人類は終末の時代に生きている」と信じている。特に福音派の多くは、この信念が強く、キリスト再臨を心待ちにする彼らがイスラエルを強く支持する姿勢は、その信仰が地政学的な問題にまで影響を与えていることを示している。https://www.pewresearch.org/short-reads/2022/12/08/about-four-in-ten-u-s-adults-believe-humanity-is-living-in-the-end-times/
一見、これまでの古代のデモクラシー批判や戦後の情報活動の議論と、現代の終末論的心理は繋がりがないように見えるかもしれない。しかし、リベラル・デモクラシーにおける社会心理や社会不安は密接に結びついている。
第二次世界大戦を経験した我々は、過去に生活苦や経済難から排外主義などを煽られ、ファッショを生み出した経験を持つ。ファシズムは、大衆の不満と不安を吸収し、明確な「敵」を提示し、感情的に扇動することで、個人の自由を奪い、国家を肥大化させていった。 この歴史は、民主主義がいかに容易に大衆操作によって変質し、その結果がどれほど悲劇的になりうるかを示す重要な教訓である。
私たちは、民主主義の脆さ、そしてリベラルの理想が時に傲慢さや矛盾をはらむことを知っている。知っていてなお、前向きに新しい世代へと夢を託していかねばならないのだろう。
なぜなら、人類はこれまでも、数々の困難な時代を乗り越えてきたからだ。古代の政体循環や、近代のファシズムの台頭、冷戦期の情報戦といった過去の経験は、私たちに民主主義が直面する試練の本質を教えてくれる。それは、生活苦や経済難から生じる不満が、社会構造や外部の敵ではなく、「内なる敵」へと転嫁され、徒党化することで、自身の体制を内側から破壊するという、デモクラシーの最も脆い側面である。
しかし、その脆さを知ることは、同時に「同じ目には遭わない」ための知恵となる。私たちは過去の過ちを繰り返し、民主主義の理想を失ってはならない。それは人類の英知であり、私たちに課せられた「壮大な実験」の継続と成功への責任である。
最高裁判事を退任するブライヤー判事が、アメリカを「自由とすべての人間は平等であるという命題に捧げられた国」であり、その理念が長く続くかどうかは「実験」であると述べ、その成否を若い世代に託した表明は、私たちに勇気を与えるものである。https://www.youtube.com/watch?v=Lv7WkW7z4hQ
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17世紀、ドイツの錬金術師ヘニッヒ・ブラントは大量の人尿を蒸発させる実験中に、夜光を放つ不思議な物質を偶然取り出しました。これが元素「リン(黄リン)」の発見です。ブラントは「賢者の石」を求めて尿に含まれる未知の物質を探していましたが、その過程で思いがけずリンに辿り着きました。当時は元素概念すら確立されておらず、尿から得られた発光物質は人々を驚かせました。その後、リンはマッチや肥料、発煙弾など幅広く利用され、化学の発展に寄与しました。初めて人類が人為的に発見した新元素として、科学史に残る画期的発見です。
張衡が発明した地動儀の復元模型(国立科学博物館の展示より)。内部の倒立振子が揺れ方向を検知し、龍の口から玉が落ちる仕組みになっていた。
今から約1900年前、後漢の科学者・張衡(78–139年)は世界初の地震計「候風地動儀」を考案しました。酒壺のような青銅製の容器の周囲に8匹の龍、その下に8匹の蛙を配置し、地震動の方向によって対応する龍の口から玉が落ちて蛙の口で受け止める仕掛けです。132年、この装置は都では揺れを感じない地震まで検知し、数日後に遠く離れた隴西の地震発生を的中させたと『後漢書』に記録されています。当時としては驚異的な精巧さであり、内部構造の詳細は文献から推測するしかなく、現代の科学者が再現を試みても完全には解明できていません。まさに古代中国の科学技術の粋と言える発明です。
技術水準との乖離:2世紀に既に地震の方向検知装置を実現しており、同様の概念が西洋で登場するのは1500年以上後。
19世紀末、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンは真空放電管の実験中に未知の透過放射線に偶然気づきました。1895年11月8日、暗室で陰極線管に黒紙を巻いていたところ、2m離れた蛍光板がかすかに光る現象を発見したのです。彼はこの正体不明の光線を「X線」と命名し、妻の手を写した世界初のレントゲン写真を撮影しました。X線は人体や物体を透過するため医学への応用(レントゲン診断)を飛躍的に進展させ、物理学にも原子や放射能の研究など新たな道を開きました。当時の常識では考えられなかった「見えない光」を発見したこの出来事は、まさに幸運と洞察が生んだ科学革命でした。
古代インドで生まれ、中世イスラム圏で広まった「ダマスカス鋼」は、波紋状の美しい木目模様と伝説的な切れ味で知られる名刀の材料です。炭素を多く含むるつぼ鋼から鍛造され、高硬度かつ靱性を両立したこの鋼は、当時の他の金属材料を凌駕する性能を示しました。しかし18~19世紀までにその製法は途絶え、「失われた技術(ロストテクノロジー)」の代表例となりました。現代の材料科学者や刀鍛冶が文献と顕微鏡分析を基に再現を試みていますが、完全に同じ構造・性質の鋼を作ることは依然困難です。近年の研究では、ダマスカス鋼中に炭化物ナノ構造が存在することが判明し、その卓越した性質の一端が解明されつつあります。とはいえ、中世の鍛冶職人が達成した奇跡の技を完全に再現するには、さらなる研究が必要です。
東ローマ(ビザンティン)帝国が7世紀以降に使用した秘密兵器「ギリシア火薬」は、水上でも燃え続ける恐るべき焼夷剤でした。粘性のある可燃性液体に点火して敵船に噴射するこの兵器は、帝国の海戦における切り札となり、数々の勝利をもたらしたと伝えられます。しかし当時の技術水準で如何にこのような燃焼剤を製造できたのかは謎で、製法は厳重な軍事機密として一子相伝され、帝国の衰退とともに14世紀までに失われました。松脂・ナフサ(石油)、生石灰、硫黄、硝石などを混合したのではないかとも推測されていますが正確な配合は不明です。専門家は「水面でも燃焼を持続し消火困難な点で、現代のナパームに近い化合物だったのではないか」と推測しています。このようにギリシア火薬は史上初の化学兵器とも称され、その実態は今も歴史家や化学者を惹きつけています。
エジプト・ギザに聳えるクフ王の大ピラミッド(紀元前2500年頃)は、古代世界七不思議に数えられる史上最大級の石造建造物です。230万個以上、重さ数十~数百トンの巨石ブロックを極めて精密に切り出し、隙間なく積み上げた構造は、現代でも驚異とされます。ピラミッドの各面はほぼ正確に東西南北を向き、高さ146mもの建造物を当時の人力と簡易な道具のみで築いたその技術力には謎が残ります。どうやって巨石を運搬・加工し、精巧に積み上げたのか、統一的な説は無いものの、直線傾斜路や螺旋状の内部スロープを用いた説、てこの原理や水を使った浮力輸送説など様々な仮説が提唱されています。近年の研究や実験考古学により一部再現も試みられていますが、それでも「完全には解明されていない」のが実情です。大ピラミッドは古代人の英知と膨大な労働力が生んだ奇跡のモニュメントと言えるでしょう。
1796年、英国人医師エドワード・ジェンナーは、牛痘にかかった乳しぼり娘が天然痘に罹らないことに着目し、8歳の少年に牛痘膿を接種してから天然痘ウイルスを植え付ける実験を行いました。結果、少年は天然痘にかからず、世界で初めて予防接種(種痘)が成功しました。この功績により天然痘ワクチンが開発・普及し、人類はついに致死的感染症であった天然痘を制圧、1980年には地球上から根絶するに至ります。興味深いことに、後年の研究でジェンナーが用いた牛痘ウイルスは実は馬由来の近縁ウイルス(馬痘)だったことが判明しており、この成功は偶然の産物でもありました。当時はウイルスも免疫も未知の時代で、民間伝承と大胆な実践から生まれた種痘法は、医学史上もっとも奇跡的な発見の一つです。
1928年、英国の細菌学者アレクサンダー・フレミングは培養中のブドウ球菌の寒天培地に偶然生えた青カビに気付きました。奇妙なことに、カビの周囲だけ細菌の発育が阻止されており、このカビ(Penicillium属)が細菌の繁殖を抑える物質を産生していると推論しました。フレミングはこの物質を「ペニシリン」と名付け発表しますが、当初は抽出精製が困難で実用化には至りませんでした。その後、第二次大戦下の切迫した需要もあって、フローリーらのチームが生産性の高いカビ株を用い大量生産法を確立し、ペニシリンは遂に人類初の抗生物質として実用化されました。これは敗血症や肺炎など多くの死病を治療可能にし、無数の命を救った医学の革命です。「偶然から生まれた最も重要な発見」とも称される所以です。
古代中国・唐代において、不老不死の霊薬を求めていた道教の錬丹術士たちは、硝石・木炭・硫黄を調合中に思いがけず激しい燃焼・爆発を起こしました。これが世界初の火薬(黒色火薬)の発明とされています。錬丹術の文献『丹経』(孫思邈による7世紀頃の著作)には硫黄などを調合する記述があり、「手順を誤ると爆発する」と警告されています。この記述が火薬誕生につながったと推定されています。発明当初、中国では花火や兵器に火薬が用いられ、やがてモンゴルを経由してイスラム世界からヨーロッパへ伝播し、中世後期以降の戦争の様相を一変させました。火薬の登場は兵器の火器化を促し、城塞や甲冑の概念を刷新するほど後世に絶大な影響を与えました。錬金術の副産物とも言える偶然の発明が、人類の歴史を大きく動かした例です。
ギリシャのアンティキティラ島の沈没船から発見された「アンティキティラ島の機械」の主残存部品(国立考古学博物館所蔵)。複雑な歯車が幾重にも組み合わさっている。
1901年、地中海の難破船から発見された錆び付いた青銅塊は、後に古代ギリシアのアナログ計算機であることが判明し、世界を驚かせました。紀元前後1~2世紀の製作と推定されるこの機械には、少なくとも37個の精巧な歯車が組み込まれており、太陽や月の運行、日食・月食の周期、オリンピア競技の開催周期までも再現・予測できる構造でした。解析によれば、ハンドルを回すことで内部の歯車列が天体の位置を演算し、文字盤に年月日や天文現象を表示したといいます。このような複雑な機械装置が再び歴史に現れるのは、それから実に千年以上後の中世後期であり、アンティキティラの機械は「古代のオーパーツ(時代錯誤的産物)」とも呼ばれます。当時知られていた天文学知識を凝縮し、高度な金属加工技術で実体化したこの機械の存在は、古代人の科学技術水準に対する見方を一変させました。現代の研究チームがX線断層撮影などで内部構造を解析し、復元モデルを制作していますが、それでもなお解明されていない点が残るほどです。アンティキティラ島の機械は、人類史上最も再現が難しい奇跡的発明として堂々の第1位にふさわしいでしょう。
給食のプリンがひとつ余っている状況を考えてください。食べたい人達がジャンケンで勝負をし、勝った人がプリンを食べられるものとします。
ここでジャンケンは手続きであり、手続きが機能しているとは、負けた人も含めてその結果を受け入れていることを指します。負けた人が暴力でプリンを奪い取ったとしたら、ジャンケンによるプリンの分配プロセスは破綻しています。
政治における手続きとは、要するにゲームのルールに則した行動です。
政治という営みは本来、生の現実における力関係(先の例だと腕っ節が強いとかですね)をいったん括弧に入れて、一定のルールに基づいた新しいゲームに登場人物を放り込む仕組みです。ゲームの外側には、暴力や財力、コネといったさまざまな力が存在しますが、そうしたものをフラットにし、ゲームによって物事を決めるのです。
なぜそうするのか?プリンを奪われた人は、今度は奪われないように体を鍛えたらいいのではないか?
それもひとつの考え方ではあります。でもそういうやり方ではえてして血なまぐさい世界になりがちです。また、勝者が勝ち続けられるわけでもありません。かつて勝者だったものが負けてしまうと、だいたい酷いしっぺ返しを食らいます。独裁者が晩年狂気に陥るのはそのせいです。
不安定で暴力的な世界を力で渡っていくよりは、誰にでも勝機のある世界で安定して暮らしたい。だからルールを決めて政治というゲームをやるのです。古代ギリシア以来の人類の知恵というものでしょう。このゲームの駒は基本的には言葉です。言葉は(建前としては)誰にでも平等だから。武力や財力と違って、言葉を独占することは誰にもできません。それによって均衡が維持され、破綻が回避されるわけです。
また、登場人物の力が均衡することによって、より創造的な問題解決がなされ、世界がより豊かになるという利点もあります。
そういうわけなので、政治においてもっとも重要なのは、このゲームが成立するように努めること、ということになります。たとえば権力者が自分の「生の権力」を用いてゲームのルールを歪めたら(例えばプリンを力で奪ったとしたら)それは叩き潰さねばなりません。そうなると学級崩壊へ一直線です。国の場合は戦争になり得ます。
言ってしまえば、政治というゲームは、民衆がその力(生の暴力)を「強者をゲームの土俵に乗せる」ことに(のみ)使うことによって成立する、と言えるでしょう。市民にはそういう態度が求められます。この「生の暴力」の一番穏当な例は投票行動ですが、ジャーナリズムや市民革命などの手段もあります。
選挙は行かなくとも、デモを組織したりロビーイングしたり自分で立候補したり、政治参加の方法はいろいろあるよな
選挙に行くことが道徳的な善であるかのように扱われる昨今の風潮はちょっと気持ち悪いなと思う
というか、選挙に行かない人間は悪人だからそいつの言うことが顧みられないのは当然だ、みたいなこと言って平然としているやつがいるとしたら、そいつこそ政治のなんたるかが全く分かっていない
善人と悪人、金持ちと貧乏人、権力者と被支配者、そうした現実上の力関係をいったん括弧に入れて、純粋に言葉の問題としてものごとを議論しましょう、というのが古代ギリシア以来の政治の概念なのだし
自分は選挙に行ったのだから行かなかったやつよりも政治上の発言権がある、と思ってる人間は、人間ではなく猿だよ。猿の世界で生きてることになる
SHOGUNが日本人俳優使って描写の時代考証に凝っているのもポリティカルコレクトネスのおかげという説がどーもX上で蔓延しつつあるけど、ぶっちゃけSHOGUNのマーケティング戦略の一貫じゃないかなあ?
そもそも本物らしさの追求や考証への拘りというのは強烈な宣伝文句になり得るもので、例えばみんな大好きアサシンクリードオデッセイは古代ギリシアの精密な時代考証による描写を売りにして成功したわけじゃん。
SHOGUNがそういう拘りを見せているのも同じく宣伝のためだとか、本物らしさが観客を引き付けて良い作品作りの土台になるからといった理由であって、コレクトネスを意図したわけではないんじゃないかあ。
タイトルのようなことをインタビュー(https://youtu.be/G2fobhbpdIc?t=645)で語ってたけどマジこれなんよ
一見すると古代ギリシアかローマあたりから綿々と連綿と延々と続いてきた年寄りによる最近の若いもん語りなんだろうけどさ
芸大作曲科卒の実力というかスゴいんやろなってのはまあわかるんよ
そりゃ技巧やら理論でイケる人にとっちゃそりゃ楽しいかもしれんけどもさ
そういう高見盛、これは予測変換で勝手に出たんだけどそういう「高み」に至って初めてイクんじゃなくてさ
単純にまっさらな原始の心の状態でなんも考えてない🧠に直接流れ込んで感情にブッ刺さりに来る音、減ったなってしみじみ思うよね
なんで?
最近だとゲームじゃないけどデジタルサーカスのメインテーマみたいなやつ。ああいうんでいいんよ。ああゆうんがマジで欲しい。
(追記)
おもいのほかトラバブクマあつまったな。いやまだそんなにか?まあいいやとりあえずみんなサンキュー
伸夫の威を借りてデジタルサーカスのメインテーマいいよねって話をしたかったワイの屈折を感じてくれたらなにより
以下、ワイが好きな昔のゲームのイイ曲を思い出した順番で発表していくので!準備はいいか衝撃に備えよ!
・FFT - Antipyretichttps://youtu.be/pZXW8haxNoM
・TO - Limitation
・世界樹の迷宮 - 桜ノ立橋https://youtu.be/yDFsHe2_VIA
・FF11 -聖地ジタhttps://youtu.be/smJrVboIOjA
・アンダーテイル - MEGALOVANIA
・ぷよぷよ - へっぽこ魔王最強伝説https://youtu.be/jB-tyCZ7Yek
・まもるクンは呪われてしまった! -YO-KAI Discohttps://youtu.be/A2ZoG_rBjBs
まだまだいっぱいあるけどとりあえずこんなもんやな。
(追記)
どうやらゲームの映像の進化に伴ってゲーム音楽は主張を弱めて「環境音」に徹するようになっていくみたいな流れがある、という見方があるみたいだな
まあそうなんだろうけど、でもあれだけ映像の主張が強い映画音楽の分野でも印象に残る音楽って今もいっぱあるのはなんでなんやろな?
映画とゲームで映像の微細化とかは結構似通った進化をしてると思うけど
曲が良すぎると操作するにあたって煩わしい?だとちょっと悲しいな
(追記)
あそうそうデジタルサーカスのメインテーマってのはコレね→https://youtu.be/H-AT42lYGBg https://youtu.be/9ov9DvOvjnE
ここまで読んだんなら絶対ヒマやろウソごめんね忙しいかもしれんけどまだ聴いてない人はもののついででいいから騙されたとでも思って聴いとけよ!?
(追記)
前半だけ読んで、デジタルサーカスのメインテーマを自分で検索して「いや、これじゃないな。なんか別のだろな」って思ったら、別のじゃなかった。これの何が良いのかわからんのは感性が死んでる?
90ブクマにして初めてデジタルサーカスのメインテーマに言及あったな。失望したぞはてな諸君!!
否定的だけど反応あっただけよかったわ。
べつに感性死んでない。誰にでもあるからnot for me(JPOP歌詞風)
でもさあ5か月で音楽だけで4694マン再生やからな!!!!?
(追記)
https://youtu.be/G2fobhbpdIc?t=645
件のインタビューはこれやな。本文にも追加。あと曲のリンクも何個か追加した!
Permalink |記事への反応(25) | 13:44
奈良時代から明治時代まで、日本人の、日本人による、日本人のための文章は漢文で書かれてたんだよ?
ローマ帝国が滅んだ後も学術語としてラテン語が使われてたのと同じように中国と断交してた時期ですら日本人はひたすら漢文で文章を残してた
古代中国語や現代中国語を学んだところで漢文の代わりにはならんのよね
あと現代語訳すればええやんみたいな話?
日本の漢文には1000年以上の歴史があって、そのすべてを口語訳するのは物理的に不可能よな
まあそういう話ではないだろうけどさ
それと役に立たないんだからいらんでしょみたいな話?
どの時代のどの地域の人類にとっても役に立つのはいわゆる理系的な知であって、文学も法も言語も歴史も、時や場所が変われば全く役に立たない
そういう意味では古文漢文どころか、日本の文学や日本の歴史すら、日本人くらいにしか役に立たないんだよね(日本人でも役に立ってねーよというツッコミはひとまず控えてほしい)
でもさ、だからこそ大切なんじゃないの?って思うわけよ
日本人くらいにしか役に立ちそうもない古文漢文だからこそ、日本人が学ぶ意味があるんじゃないのかね
まあそれでもいいかもな
でも一つ注意して欲しいことがある
裾野を狭めれば頂点は低くなるってこと
日本文学研究や日本史研究の最先端はもちろん日本の大学なわけだけど(だって他所の国は日本人ほど日本に興味ないし)
それでいいのかね?
日本人がフランス文学の研究するために第二言語でフランス語を習得したり、西洋哲学を学ぶために古代ギリシア語を覚えるのとはわけが違う
そこのレベルが下がってもいいんかね?
数の概念は文化や歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。
数の概念は哲学的な問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限は自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。
数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的な実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間の言語や思考に依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的な実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。
数の概念は数学の基礎付けにも関わる。数学の公理や定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデルの不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題が存在することを示した。
数の概念は、かつて客観的な現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的なものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。
自我や自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システムを表現する有効なツールであることは、どのレイヤー、スケールにおいても明らかである。
数の概念は私たちの知識や理解を拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。
数の概念は、私たちの世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)
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