
はてなキーワード:博士とは
論文を書くような博士とかでも、8割近くが夫の姓に変更してるし
英語のジャーナルに論文を発表する非西洋出身の国際的な学者、特に若手の学者の多くは、イングリッシュネームまたは簡略化されたローマ字表記を含むビジネスネーム、ハンドルネームや旧姓etc.を使用しており、法律上の名前とは異なる場合があることは広く認識されてる。
dorawiiより
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dorawiiより
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インターステラーって、表向きは宇宙を舞台にしたSFなんだけど、よく見るとずっと「進め」「止まるな」っていう進歩主義的なメッセージが描かれている。
引用される「怒れ、怒れ」というディラン・トマスの詩も、本来は死に向かう父に向けた言葉なのに、映画の中では「衰退していく文明そのもの」に向けた叫びに変わってる。もう終わりだって諦めるな、科学を捨てるな、進歩を放棄するなと。
作物は枯れ、宇宙開発は否定され、過去の偉業はフェイク扱いされるあの地球の姿って、ちょうど現実が縮こまり始めた時代の空気と重なる。
重要な登場人物の「マン博士」は人類最高の英雄とされていたけど、実際には恐怖に負けてデータを捏造し、仲間を裏切り、使命よりも自分の生存を優先してしまう。あれは、理想を掲げてきたはずのアメリカが、いつのまにか内向きで独善的になっていく姿そのものにも見える。最大の希望の象徴であった国が、別のものに変質することの現れ。
そうやって見ると、インターステラーは、ただ未来に希望を託してるだけじゃなくて、かなり強い不安が同時に現れている。進歩を信じ続ける側に立つクーパーと、恐怖に屈して縮小へ向かったマン博士。その対比そのものが、ノーラン監督の中にある「このまま理想を失ったら、人類もアメリカも終わりかねない」という怖さと、「それでも進めばまだ未来はある」という希望の両方を背負ってる…と読んでみる。
そうすると、インターステラーは宇宙の話をしながら、実「文明と理想がどこへ向かうのか」を問い続けてる映画。「進歩しなければ絶滅してしまう」という脅迫的な進歩主義と、「理想を捨て孤立主義に陥ること」への恐れ、アメリカが変質してしまうことへの強い不安、いや怒り。
理想主義が捨て去られること、進歩が捨てられ停滞することへ「怒れ、怒れ」と呼びかける。
これはNASAの予算が縮小されている今現在のアメリカを予期して、ブラックホールの底の4次元空間から放たれた、ノーランの警鐘だったのかもしれない… (それらしい着地)
創作界隈だと、この手の我が道を行くタイプの人間はワンサカ描かれる
そういった人物は美形として描かれることも多く、周りが振り回される、ことがエンタメになる
そういうの見る度に、ASDを気にするんだろうか?
こういう話にケチをつけるとしたらば、ご都合主義だ、ではなくて
こんな美形にするな
であろう
ゲイのドラマが女子の間で話題になって、LGBTがどうの、多様性がどうのって話が出たときに
フザケンナヨって思ったもんだ
アイドルや俳優が綺麗な台本で絡むのをBLみたいに消費するのが多様性じゃなくて
ぶっちゃけドラえもんやコナンとかの絵が乗ってても割と似たような事少し思うんだよね自分は
特にコナンとか少年探偵団の子達やアガサ博士とかの初期キャラならともかく
その後に追加されたイケメンキャラとかぶっちゃけオタク臭さで言ったらあんまり変わらんし
そういう奴が公共に堂々と乗ってるのも大して変わんねえと思うんだよね
勿論コナンキャラは肌の露出は高い訳でない広告が圧倒的ではあろう
そこもコナンの広告全て知ってる訳じゃないし、京極さんが胸はだけた空手着の広告があるかもしれんし
まぁそれはともかく自分は肌の露出のある広告まで正当化をするつもりはないが
特にはてなの表現の自由大嫌い戦士の人たちとか単なるオタク絵柄ってだけで普通と違う反応するよね
もちろん、私がせっせと飼ってるこのカタツムリのことではない。
https://anond.hatelabo.jp/20251016075559
興味はあるものの、オーダーに至らないまま長い年月が経った。でも、幾度となくリニューアルを経ても残るメニューとなると気にもなってくる。
なおかつ、「にわかカタツムリ博士としては食べてみるべきなのでは!?」という気持ちもあった。
小松菜に付いていたカタツムリを成り行きで飼い始めて1年と数ヶ月。プリプリまるまる肉付きのいい我が家のカタツムリを見てると「ミニアワビ」感がある。確かに食べたら貝っぽいだろうなとずっと思ったので、とうとう本日試してみることに。
普段なら、サイゼリヤは旦那さんと2人で来て、メニューが到着するまで間違い探しをするのがセオリーだ。とんでもない量を食べる旦那さんの様子を眺めながらミラノ風ドリアとサラダを食べてるのだけど、この日はひとり。オーダーはイカ墨パスタに念願のエスカルゴとイレギュラー尽くし。
イカ墨パスタも長年頼んでこなかった長寿メニューのひとつだけど、コイツに関してはすでに昨年デビューを果たしている。美味しかったので、エスカルゴにも期待が高まる。
やめろ、メインを先に持ってくるな。
しばらくしてエスカルゴが到着する。
写真のまんま。さて、実食。
*
*
専用のお皿はたこ焼き器みたいにいくつか穴が空いていて、そこにエスカルゴやら香味野菜やオイルがたんまり入ってる。付属の小さなスプーンで穴をすくうと、エスカルゴがふたつ出てきた。
そう、ちょうど我が家のカタツムリはこんなもん。ティースプーンに乗っかるくらい。うちのやつは黄土色だけどこっちは黒い。第一印象がそれって。
気を取り直して、さっそく食べてみよう。おい、あの頃の友達よ、私は今からサイゼリヤのエスカルゴ食べるよ。
ふむ。別途パンを頼んでも良かったなという濃いめの味付け。私は割とアヒージョが好きなのだけど、まさにあんな感じ。舌が火傷しそうなほどアツアツなのもむしろ好みである。これまた頼んだことがないサイゼのワインにも合いそうだ。
食感はサザエに似てる気がする。アワビのようなコリコリ感はないが、弾力はそれなり。イカとかタコにも似たような。ふむむ。全体でかなり濃いめの味付けなので、エスカルゴそのものの味よりも歯応えを楽しむ感じだろうか。食材の名前を告げずに出されていたら、「マッシュルームかな」などと言いながら食べていた気もする。それくらいクセがない。食べやすい。
でも、どうしよう。
美味しく食べようと意識を全集中させても、ずっと「我が家のカタツムリと同じくらいの大きさやん」という気持ちが頭の大部分を占めてしまう。鼻にはいい香りが届くのに、そのせいで舌にうまく風味が絡まらない。
噛んでも噛んでも無限ループ。どうしたもんか。
…などと悩んでいたら、向かい側の席にいた男子高校生の集団が突然「チ◯コどすこい」と言いながら謎のゲームを始めだした。いや、ナニソレがすぎる。
急いでスマホで検索したけど、そんなゲーム出てこない。ますますナニソレ。私の友達の息子とかも、まだ喋んないけど将来ああなるのかな。
あ、いや違うな。きみたちは昔の私か。ミラノ風ドリアとドリンクバーで何時間でも。進路の話なんかより、実のない話が楽しくて仕方ないあの頃の私たちなのか。きみたちもエスカルゴをメニューで見て「何コレ」とはツッコミつつ頼むことはない感じかな。
キミたちなら、このエスカルゴもうまい下ネタに消化してくれそうだが。
などとよくわからんことを考えて、私はようやくイカ墨パスタを食べ始めた。
美味しかったかそうでなかったかと聞かれれば、「邪念が多すぎてそれどころではなかった」が正直な感想だ。でも、お酒にはすごく合うと思う。大人の味付け。
そういえば昔、父がどこぞの海から持って帰ってきた威勢のいい伊勢エビ。
あれを私はお風呂場で飼うつもりだったけど、数時間後には無惨にも茹で上げられていた。熱湯に入れられる瞬間を見て可哀想だと思いつつも、直後には美味しく食べたのをよく覚えている。あの程度の出会いと別れならうんともすんとも思わない。でも、そうか。1年以上も見てるとこんな感じか。
我が家のカタツムリは元気である。カツンカツンと天井から定期的に落ちながらも、今日もブイブイにんじんのうんちをしている。まさか、コイツと二度目の年越しを迎えることになるのだろうか。
というか、私はこれから先、エスカルゴを口にするとき必ず「うちのカタツムリより小さいな」などと無意識に比較してしまうのだろうか。なんかやだな。
幼馴染で同級生の毛利元就森蘭丸と遊園地に遊びに行って、黒田官兵衛ずくめの男の怪しげな取引現場を目撃した。
取引を見るのに夢中になっていた俺は、背後から近づいてくるもう一人の仲間に気づかなかった。
体が縮んでしまっていた!!
工藤静香が生きていると奴らにバレたら、また命が狙われ、周りの人間にも危害が及ぶ。
阿笠・メアリ・クラリッサ・クリスティ博士 の助言で正体を隠すことにした俺は、森蘭丸に名前を聞かれてとっさに、江戸川乱歩アーサー・イグナティウス・コナン・ドイルと名乗り、奴らの情報をつかむために、父親が探偵をやっている森蘭丸の家に転がり込んだ。
わかっているのは、そのコードネームがお酒にちなんだ名前であることくらいだ…。
そんな奴らの正体を暴くため、小さな探偵、江戸川乱歩アーサー・イグナティウス・コナン・ドイルの活躍が始まった!!
大学以降の内容の教科書に相当する本見ると何年生向けとか書いてあることあるけど博士習得後何年目向けみたいに書いてるのってなくない?
単純に博士以降の内容を扱ってるので単行本の形式になってるのがないからなのか、博士以降だと理解の進度が人によってバラバラだから何年目とか指定しても意味ないからなのか?でもそれ言ったら学部生の時点で進度は個人でも大学でも全然違うじゃんね
たとえば位相空間論は2年生で学びますって建前になっててもどれだけ深くやるかはバラバラでかたや商位相までは講義で扱われなくて知らないとかあるだろうし集合論でも整列定理までやるかコーエンの強制法までやるかで全然進度違うといえるし
dorawiiより
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そこで気になったんだが自分が知ってる本で前書きとかに何年生向けと明記されてるもので一番上だったのが「大学院初年級向け」だったんだけど。
ちなみにその本
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/1444.html
dorawiiより
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まさにギレルモ・デル・トロが撮るフランケンシュタインだった。
う~~~~~ん、54点?
まずデル・トロだから50点のハードルがめちゃくちゃ高いことに言及しておきたい。
美しく作りこまれた美術、実力派の俳優によるアンサンブル、物語を盛り上げる音響これは大前提になってる。そしてこの映画はその点に関して言えばほぼ100点出てる。そしてそこは100点取って当たり前(50点)の監督がデル・トロ。
でもなぁ、今これをデル・トロが撮る意味is何?って感じだったな。
もろちん、デル・トロといえばモンスター監督なのは周知の事実で――あ、モンスタークレーマーとかモンスターペアレンツとかとは違って、文字通りモンスター(怪物)を撮る監督って意味ね――その原点が「Frankenstein: or The Modern Prometheus」にあって、この作品を撮ること自体が彼が映画を作り続けることの意味だってことは分かるんだけども。
でも今あえて「人間のほうが怪物より怪物だよね」「生命を作り出すことの意味」「父と子の円環構造」っていう、100回見た話をあえてやりなおす意味って何なんだろうと思ってしまった。まぁ、こんな文学的なテーマなんぼあってもいいですからねって言われたらそりゃそうなんだけど……
2部構成になっていて1部がヴィクター・フランケンシュタインが怪物を作り出し放棄するまでの話。
2部が放棄された怪物がフランケンシュタインを追いかけ悲劇に至る話。
今作ではおそらく普通の作品では「フランケンシュタイン博士が怪物を作りましたよ」って感じで流されることが多い1部をかなりの厚さで書いている。特に作るまでの話がめっちゃ長い。
スパルタ気質の高名な医者の父に育てられるも母を病気で亡くし「父親=医学」に不信を抱くという初期衝動。母親と同じ顔をしたエリザベス(ミア・ゴスの1人2役)に惹かれるマザコン描写。
そして怪物が生まれてからはオドオドオタオタと面倒を見る新米パパから、こいつ俺が思った通りにならんなと思えば体罰を行い、こいつ俺の手に負えんなと思ったら殺害を試みる毒親オブ毒親描写。
たっぷりと人間臭いヴィクター・フランケンシュタインが描写される。
まぁ2部は大体みんなが知ってる目の見えない老人との出会いを経て怪物は知恵と人間らしさと生命の円環構造を学び、ヴィクターに「嫁作って♡」と訴えるもヴィクターは拒否。その過程でヴィクターは愛するエリザベスを殺害、ヴィクターVS怪物の戦いが今幕を開ける。
ここで父親が母親を(見)殺したと思ったところが初期衝動だったヴィクターが、母親と同じ顔をしたエリザベスを殺してしまうという引き継がれるカルマの展開は原作より良かったなと思った。
で、最終的に疲れ果てたヴィクターは原作通り船に助けられるが原作と違って怪物も乗り込んでくる。
そこでこれまでの話をそれぞれするのが第1部、第2部になっていて、それらが統合した最後にヴィクターは「自分が怪物の父親であること」を認め怪物に赦しを求め、怪物はそれを受け入れる。
ヴィクターが自分の父親にできなかった「許容」を獲得することで毒親の連環から抜け出し、怪物は一人静かに去るのであった。
こうやってまとめてみると普通にいい話で草。
特に「フランケンシュタイン」というタイトルに恥じない「怪物」ではなく「ヴィクター・フランケンシュタイン」を主役に据えしっかりと掘り下げ、フランケンシュタイン=ツギハギの怪物という印象そのままにフランケンシュタインこそが怪物だったという結論も見事だと思うの。
でもあくまで普通にいい話なんだよなぁ。俺の中のデル・トロ像が例えばマイベストアクションムービーのの一つである「ブレイド2」の監督だったり、旧ヘルボーイだったりパシフィックリムだったりするもんだからその大エンタメ監督が今撮る作品がこれかぁって正直思っちゃった。わかるよ、デル・トロの最近の真骨頂は怪物に対する愛のある視線でパンラビとかシェイプオブウォーターとかキノピオとかもちゃんと見たからそれくらいは分かるんだけどさぁ!
あ、そこ改心して終わりなんやっていう。最近、ジェームズ・ガン作品を多く見てたからっていうのはあるかもしれない。ガンだったら間違いなく怪物が反省しないヴィクターぶっ殺して森の目の見えない老人とエリザベスと一緒に新しい家族作って終わったもんな。
ただ映像としても物語構造としてもほぼ完璧に近い出来だと思う。