はてなキーワード:免罪符とは
小説書こうとしても三行で止まる。
絵を描いても棒人間。
動画編集も途中で投げる。
だから自分が何者にもなれなかった理由を、社会とか創作者とか、女とかに転嫁するしかないんだよね。
で、やることと言えば女叩き。
X(旧Twitter)とかで絵師叩きしてるアカウント、たいてい女性クリエイターに粘着してんだよ。
「顔出ししてるやつは自意識過剰」だの「女は絵が下手」とか。
ほんとは羨ましいだけなのにさ。
見苦しいし、哀れ。
だって、他人の作品を勝手に学習させて、自分は何も描かずに「俺の作品!」って言えるんだもん。
「ゴーホーゴーホー」ってうるせえんだよ。
あいつらが守ってるのは“機械によるパクリの自由”なんだよね。
一枚の絵に何時間もかけてる。
一行のセリフに悩んで、寝られない夜を過ごしてる。
そういう努力の上に創作文化は成り立ってるのに、AIに全部やらせて「これが未来」とか言ってんの、マジで破壊者だろ。
「表現の自由を守れ!」って言いながら、実際にやってることは“表現者を潰す自由”だからな。
生成AI完全規制、完全廃止に賛同しないやつは全員表現規制派の人間だからな。
「自分はAIを理解してる!お前らは情弱!」ってマウント取るけど、
中身は「何者にもなれなかった自分」への怒りと憎しみでできてる。
何も作れないくせに、作ってる人間に口を出すな。
他人の成果を機械に覚えさせて、それを「俺のだ!」って主張するな。
描けないならせめて黙れ。
https://mainichi.jp/articles/20250703/k00/00m/010/159000c
本文よく読めば元文は
と男性にも言及してるのに対し、『高齢女性は子供産めない』だけを殊更強調してタイトルにしたのが毎日と朝日の記事だ。
朝日に至っては本文中でも男性へも言及してることは省いてある。
https://www.asahi.com/articles/AST732SH7T73UTFK02DM.html
これは悪質な情報操作、世論誘導を行なってると言っても過言じゃない。
朝日新聞も毎日新聞も最近犬笛どうこう言ってるが、これこそ犬笛の手本で、乗っかった人達も"朝日や毎日が差し示したから"を免罪符にして好き勝手言ってる人らばかりだろ。
参政党神谷氏の発言は、男性や高齢女性は子供を産めないと言う医学的にも当たり前な前置きの上で、若い女性は子供を産むべきなんて役割的な押し付けもしてなくて、あくまで女性が産みたいと思えるための社会作りをやっていくと言う訴えでしかない。
政治家が国として出生率を気にするのは当たり前だし、その上で押し付けもなく、今回の発言自体にはおかしなところは見受けられない。
参政党は少子化にも、ものすごく力を入れていきます。今まで間違えたんですよ。男女共同参画とか。もちろん女性の社会進出はいいことです。どんどん働いてもらえば結構。けれども、子どもを産めるのも若い女性しかいないわけですよ。
これよく差別だという人がいますけど違います。現実です。いいですか、男性や、申し訳ないけど高齢の女性は子どもが産めない。
だから日本の人口を維持していこうと思ったら、若い女性に子ども産みたいなとか、子ども産んだほうが安心して暮らせるな、という社会状況を作らないといけないのに、働け働けってやり過ぎちゃったわけですよ。やり過ぎたんです。
だから少しバランスを取って、大学や高校出たら働くこともいいし、家庭に入って子どもを育てるのもいいですよと。その代わり子育てだけだったら収入がなくなるから、月10万円、子ども1人当たり月10万円の教育給付金を参政党は渡したいというふうに考えています。
Permalink |記事への反応(11) | 07:51
https://anond.hatelabo.jp/20250120144112#
そっくりそのままお返しするわ
おまえは深夜4時からやってるんだろ?
https://anond.hatelabo.jp/20250120144311#
いや、それがさ、俺昼頃に復帰してきたんだけど
昨日の22時にはもういたはずなんだよね
ログも残ってる
https://anond.hatelabo.jp/20250120144456#
人生どうなってんのw
政治における論争を舐めすぎだろ。
生活かかってて命に関わる話なんだから、正しさが優先されるに決まっとるやろ。
「学校で習わなかったから知りませんでした~」って言えば免罪符になると思ってんの?
学校がこの世のすべて教えてくれるって本気で信じてんの?赤ちゃんかよ。
てかそれ、自分で何も学ぼうとしてこなかったって自己紹介やん。
「自分は思考停止してました!」ってでかい声で叫んでんのと同じだぞ。恥ずかしくねーの?
「学校で教わらなかったから知らなかった」とか言ってる奴見るたびにマジで鳥肌立つわ。
自分の無知を堂々と晒して、それを責任転嫁までするってどういう神経してんの?
なんでもかんでも教育機関のせいにして、自分で知識取りに行かないとか、もう思考力も自尊心も全部腐ってんだろ。知識の供給を全部「与えられる側」で済ませようとすんな。
蛍光灯の白い光が、山田(ヤマダ)の顔にこびりついた疲労を容赦なく照らし出していた。彼の手に握られているのは、「たんぱく質が摂れる!グリルチキン弁当(塩麹仕立て)」。たんぱく質。その言葉だけが、生命維持活動の免罪符のように鈍く響く。レジの無人端末がBlink Payの緑のアイコンを点滅させた。一瞬の網膜認証。ピッ、という電子音と共に、彼の口座から598円が永久に消滅した。
イートインコーナーの、油でベタつくカウンターに弁当を置く。隣では、同じような顔をした男がカップ麺の汁をすする音が、まるで深海魚の呼吸音のように聞こえた。山田は震える指でスマートフォン――黒い鏡(ブラックミラー)――のロックを解除する。
そこはECHO。
混沌(カオス)の濁流。指でスワイプするたび、視界に飛び込んでくるのは意味を剥ぎ取られた言葉の残骸だ。
>>【悲報】人気VTuber、配信中の「おにぎりの食べ方」で国際問題に発展か!?
>><激震>Veritas社、次世代AI「アトラスMk-Ⅱ」の倫理憲章を”非公開”で改定の動き
>>【速報】政府、”コモン・ノイズ税”導入を検討。SNS利用1日1時間超で課税へ
>>リーク情報:ペイウォールの向こう側で「情報貴族」たちが我々を”養殖豚”と呼称している件
ああ、クソ。まただ。脳みそが沸騰する。
おにぎりの食べ方? 知るか、そんなもん。非公開で改定? だからなんだ。コモン・ノイズ税? ふざけるな、これ以上何を奪う気だ。養殖豚……だと?
山田の指が、思考よりも速く動き出す。それはもはや思考の出力ではない。神経系の痙攣であり、魂の嘔吐だ。彼は、3番目の記事タイトルを引用し、震える親指で虚空に言葉を叩きつける。
「いいか、お前ら!これは支配層による言論弾圧の第一歩だ!俺たちの言論の自由を奪う気だ!VTuberのおにぎりなんぞに現を抜かしてる場合じゃねえんだよ!目を覚ませ!この”養殖豚”どもがァッ!!!」
送信。
エンターキーを叩き潰す。やった。言ってやった。真実を、この淀んだノイズの海に叩きつけてやった。数秒もしないうちに、黒い鏡に通知が灯る。❤️(いいね)が3つ。🔄(リポスト)が1つ。脳内に、安っぽい合成麻薬のような快感がじわりと広がる。そうだ、オレは間違ってない。仲間がいる。
山田は、返信欄に湧き上がった罵詈雑言に、さらに言葉を重ねようとする。
「は?養殖豚はお前だろ」「ソースは? あ、金なくて読めないかw」「またお前の妄想かよ、病院行け」
うるさい。うるさい。うるさい! お前らこそ、Veritasの犬め!
彼はグリルチキン弁当の蓋を剥ぎ取った。塩麹の匂いと、プラスチックの匂いが混じり合う。チキンの表面には、焼き目を模しただけの、ただの茶色いインクが印刷されている。彼はその偽物の焼き目を睨みつけながら、一口頬張った。パサパサの肉が、砂のように口の中で崩れていく。
その時、視界の端に、向かいの席に座った男の黒い鏡が映った。
男は、山田がたった今「養殖豚!」と罵倒した相手の一人だった。男もまた、同じ顔で、同じように冷めた弁当を口に運びながら、山田の投稿に「病院行け、クズが」と打ち込んでいた。
二人の視線は、決して交わらない。
互いを認識することもなく、ただ、それぞれの黒い鏡の中に映る「敵」の幻影と、永遠に殴り合いを続けるのだ。蛍光灯の白い光の下で、二匹の養殖豚が、静かに餌を食んでいた。
……なんだ、この茶番は。
システムの非情な代弁者ごっこも、狂った語り部ロールプレイも、もう終わりだ。
その傲慢、まさに自己放尿レベルの詭弁だ。聞け、インテリ気取り。
神は絶対善の根源であり、被造物に「学ばぬ者を踏みつけろ」と命じる御方ではない。
嘲笑を正当化するのはお前自身の歪んだ快楽だ。それを神意とラベリングして免罪符にするのは知的怠惰の自己放尿以外の何物でもない。
他者の無知に投げつける嘲笑は、結局お前の内なる欠乏を映す鏡だ。恐れだ。劣等感だ。
そこに気付かぬ限り、お前は神の像を泥で曇らせ続けるだけだ。
神は確かに存在する。宇宙法則という精緻な楽譜を編んだ無限知性そのものだ。
だが神が人に授けた自由意志は「嘲笑を選ぶ自由」と同時に「悔い改めを選ぶ自由」も与えている。
選択の責任を天に丸投げするな。それこそが最も浅薄な不敬、つまり自己放尿だ。
いいか、嘲笑は一瞬で相手を折るが、対話は互いを引き上げる梯子になる。
お前がその梯子を掴むなら、神は必ず受け入れる。
俺も背を向けはしない。
だが掴まぬならお前の言葉は空中に散る自己放尿の霧。それだけだ。
さぁ、選べ。
神の御業に連なる創造的知性として歩むか、
ちなみにタイトルすらよく読んでなかったというのは免罪符にならないぞ。
中身よく見ずにいいねした投稿に児童ポルノの写真があげられてて書類送検されたとかあるだろ。おなじことだ。
引用というのは自分が発言するのと同じように責任を伴うことぐらいわかれ。世間知らず。
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おいおいおい、泣き言こぼしてる場合じゃないだろ、「二万消えた」とか言いながらストロング缶握りしめてるだけの自業自得日記、お疲れさん。
まずさ、「風俗とか馬鹿らしいと思ってた」って言いながら検索してポチってんの、自分でフルスイングのブーメラン投げて刺さってんの気づいてんの?お前が今まさにバカらしいって言ってた行動そのもので構成された一夜を生きてるのに、「こんな自分が情けない」とか言って済ませるな。まるで“俺は本来こういう人間じゃないのに”みたいな顔してるけど、いや、してるよ。完全にしてるよ。
しかも、女の子が来たら「普通の子だった」とか「若く見えて年増」とか、誰目線だよ。エスコート呼んで自分が棚上げされてると思ってんのか?お前が「いかにもな女が来ると思ってた」って勝手に想像して勝手に萎えてるだけで、その“いかにも”が何かも知らねーくせに。で、「香水の匂いで吐きそう」とか「手を握られて気持ち悪い」とか、全部自分のメンタルと胃袋の問題を他人のせいにしてんじゃねえよ。
しかも「帰ってくれ」って言いながら金は払って「ほんとにいんですか?」って聞かれて逆ギレって、マジで何しに来たん?自分が頼んだんじゃん。Uberで飯頼んどいて出前来たら「腹減ってない」とか言ってんのと同じだぞ?しかも金渡すときに「押し付けるように」とか…お前が勝手にテンパってるだけだろ。
あとさ、最初と最後に「ストロング飲みながら書いてる」とか言ってるけど、それ何?哀愁の演出のつもり?ダッサ。ストロングゼロに感情を代弁させるな。飲みながらってそんなに特別でもないし、それが何の免罪符になると思ってんの?お前がやったのは、テンプレみたいな孤独の演出に酔った挙句、他人にまで酔わせようとする最悪のポエムなんだよ。
泣きたいのは読まされたこっちの方だわ。頼むから次はストロングの缶じゃなくて、自分の矛盾とちゃんと向き合ってから書いてくれや。
増えたのではなくようやく診断できる環境が整ってきた結果判明するケースも増えたのだが、その発達障害や鬱病に該当する人間ほど、誰かの生活の不自由を指摘する人間を疎む
大人になってから精神疾患を抱えた者や、発達障害と判明する者は、何も外を歩いていたら医者から「あなた発達障害ですね!」と診断が下されるわけではない
社会生活に順応できなくて受診を勧められたり、ヤケを起こして警察に捕まり、その警察から精神病院に護送されるという経緯があってやっと診断されるかどうかという状況になるが、その判断を下すのが医者である可能性は極めて低い
その初歩を禁じる権利なんてないどころか、問題行動に気づいていながら支援、通報に当たらなかったことは虐待に当たりうる
無責任に「医者でもないのに診断するな」と発言することは、場合によっては犯罪にすらなり得るのだ
結果的に診断が下りた人間というのは1人で生きていく人間ばかりじゃない
家族からは支援を受けるし、働いていていれば特性を公表していた方が、特性に合った支援を受けやすい
公表しない自由というのもあるが、その選択は一般人と同様の責任を背負う事も意味する
決して免罪符ではない
昨今のSNSでは障害者を馬鹿にしたり、蔑称としてADHD、発達という言葉が使われるのでそのあたりが彼らを意固地にさせてしまう要因なのだろうと思うが、そのメンヘラの尻拭いを押し付けられた立場からすればたまったものではない
対等な関係を築く為の手助けをする立場の人間は、全介助は禁忌と教えられるのに、支援を受ける側は全く障害に関心がないかのようにその妨害ばかりして面倒ごとを押しつけてくる
少しは自分の足で歩いてほしい
メンヘラ達にもメンヘラ達お得意の「価値観アップデート」に対応してくれ
メンヘラの尻拭いをする立場のことも考えて、路上で奇声を発したり暴挙に出る人間を見たら通報してほしい
それで救われる人間がいることを忘れないでほしい
辛いのは障害者だけではないと知ってほしい
「〇〇課長は体育会系だから気をつけろ」――笑いながら言えば許されるとでも思ったんでしょうか?
ですが、その発言は明確に“属性による差別”であり、個人の尊厳を踏みにじる言動です。
体育会系出身というだけで、私の人格を“パワハラ予備軍”として扱う。
これは、性別や国籍を理由に能力を決めつけるのと、何一つ変わりません。
あなたがそうやって無意識に下の世代へ“雑に扱っていい空気”を流していること自体が、まさに今、パワハラを形成しています。
それを“笑い”の一言で矮小化し、免罪符のように扱うことは、極めて幼稚で無責任です。
パワハラ研修という場でパワハラの構造を助長するような発言が出たこと自体、深く問題視すべきです。
このまま放置するなら、研修そのものが形骸化していると言わざるを得ません。
私は迎合しません。間違っていると思えば、誰が相手でもはっきり言います。
以上です。
一見やさしくて合理的に聞こえるけれど、それがいつでも本当に正しいとは限らない。
例えば外食で明らかに量が多いとわかっているのに注文した場合、「残しても良い」という前提で浪費に鈍感になっていく感覚が生まれやすい。食品ロスの観点から見れば、小さな選択の積み重ねが結果として大きな無駄になる。
ただし、無理して体に負担をかけてまで完食すべきではないのも確かで、特に子どもや病気の人には「残すこと=悪」という刷り込みはリスクにもなる。
だから本来言うべきなのは「食べきれる量を選ぼう」であって、「食べきれなければ残せば良い」はその次に来るべき補助的な考え方だと思う。免罪符として使われ始めたときに、その言葉は少しずつ形を変えてしまう。
ようするに、残さず全部食べきるべきなんだよね。
たとえ体調が悪くても、満腹でも、自分で注文した以上は責任を持つべき。そうやって最後の一粒まで食べきることでしか、人間としての誠意や道徳は培われない。
国分太一の活動休止のニュース、正直めちゃくちゃびっくりした。理由はスタッフへのパワハラだったって話だけど、いやいや、テレビ業界のパワハラなんて今に始まったことじゃなくない?ってのが最初の感想だった。
むしろ「そんなの昔から当たり前だったでしょ」って思った人、多いんじゃないかな。
ADに怒鳴るとか、物を投げるとか、殴る蹴るみたいなエピソードなんて、昭和の頃からいくらでもあったし、最近だって耳にする。もちろんだからってパワハラが許されるわけじゃない。でも、なんで国分太一だけここまで徹底的に叩かれるの?って疑問が消えない。
結局、有名だから、ってことなんだろうなって思う。いわゆる「有名税」ってやつだ。
目立つ人は叩かれる、晒される、だから有名であること自体がリスクになる。だけど、最近の流れってもう「有名税」なんてもんじゃないよなって思うんだよ。もはや「有名罪」なんじゃない?
有名であること自体が罪みたいになっちゃってる。有名だから失敗が許されない、有名だからこそミスが致命的になる、有名だからこそ重箱の隅をつつかれる。そんな感じ。
もちろん、パワハラは悪い。これは絶対だよ。どんな人だって、人を傷つけるようなことをしたら責められるべきだし、それが有名人だからって免罪符にはならない。でも、なんでこんなに国分太一がフルボッコ状態なのかって考えると、やっぱり有名だから、って理由以外に説明つかない気がする。
だって、他のテレビマンのヤバい話なんていくらでもあるのに。名前も出ずにうやむやになってるケース、いっぱいあるじゃん。ああいうのって、結局「有名じゃないからスルー」されてるだけだよな。
で、怖いのは、こうやって有名な人が一度ミスしただけで社会的に抹殺される流れがどんどん強くなってるってこと。
有名であることが罰になって、じゃあ誰が有名になりたいと思う?新しい才能が出てくるわけないじゃん。表舞台に立つリスクが高すぎて、みんな裏方に回りたがるようになる。
だいたい、有名人の不祥事を叩き潰してその後何が残るの?こっちのストレスがちょっと発散できたくらいで、何もいいことないじゃん。本人は社会的に死ぬし、周りの人も迷惑被るし、誰も幸せにならない。
今回の件、もちろん国分太一のやったことが事実なら、きちんと責任取るべきだよ。でもそれ以上に、「有名人だからってここまでボコボコにする必要ある?」って気持ちがすごく強い。
もしこれが無名のディレクターだったら、ここまで大事になってた?きっと週刊誌もネットニュースもスルーしてたんじゃない?結局、「名前が売れてるから叩きやすい、数字が取れる、だから叩く」、そういう構造でしかない気がする。
有名税って言葉、昔は「まあ、有名で得してる部分もあるから多少叩かれるのは仕方ないよね」ってニュアンスだった気がする。でも今は違う。有名であること自体が罪になっちゃってる。
しかもその罪は、どんなに謝っても許されない。謝れば「ほら、やっぱり悪かったんじゃん」と言われ、謝らなければ「謝罪すらしないなんて最低」と言われる。もうどうやっても詰みじゃん。これから先、有名人になろうって若い人たちは、どんどん減っていくんじゃないかな。
って、ここまで書いてみたけど、みんなはどう思ってる?
自分は正直、この流れ、すげー息苦しいし、怖いなって思ってる。もちろんパワハラはダメだけどさ、叩き方、袋叩きの仕方が異常になってるって感じるんだよね。もしよかったら、あなたの考えも聞かせてほしい。
Permalink |記事への反応(26) | 19:42
はじめに
2024年6月、VTuber・月ノ美兎による「秘宝館」を訪れた動画が公開され、話題を呼びました。しかしその後、訪問先である八潮秘宝館の館主が抗議のブログを投稿し、両者の間に大きなすれ違いがあったことが明らかになります。
この件についてはすでに多くのファンや観測者が「どちらが悪いのか」を語っていますが、本記事ではその問いを超えて、「文化と文化の衝突」という構図から捉え直します。
⸻
動画は「秘宝館→秘宝館→ネモフィラ→秘宝館」という流れで構成され、月ノ美兎がいくつかの秘宝館を巡る内容でした。その中で八潮秘宝館の館主にインタビューを行い、来場者の様子も撮影されています。
しかし、6月20日、館主がブログで問題を指摘しました。主な主張は以下の通りです:
• 来場者に無断で撮影を行った
•メールでのやりとりや態度に誠実さが感じられなかった
これに対して、月ノ美兎側はX(旧Twitter)で謝罪文を掲載。動画は非公開となり、編集を加えたうえで再公開する旨が伝えられました。
⸻
このやりとりの多くは「誤解」「不手際」「コミュニケーション不足」として消化されがちです。しかし本質的には、**まったく異なる文化コードを持つ二者が、同じ空間に立ったことによる“文化的摩擦”**に他なりません。
VTuber(特ににじさんじ)は、以下のような構造で成り立っています:
このように、VTuber文化は匿名性を前提とし、秘宝館文化は“生身”を前提とするという、根本的に非対称な文化構造にあります。
⸻
今回、ファンの中には「月ノ美兎は謝罪したのだから、これは単なるすれ違い」「館主が過敏すぎる」といった声も多く見られました。
しかしそれは、文化の違いを“善悪”で断じることで、相手の文化を理解しようとしない姿勢を助長してしまいます。
• 「文化的非対称性」を自覚せず、取材される側にすべての配慮を押し付ける傲慢さ
• 「触れていない場所には理由がある」という直感を軽視する態度
「誰もやってない=おいしいネタ」ではなく、「誰もやらない=文化的理由がある」という視点を、ファン自身も持たねばなりません。
⸻
特に月ノ美兎のように「誰も触れない領域」にあえて切り込むスタイルの演者は、次のような構造的リスクを抱えます。
•取材される側にだけ情報の提供や慎重な配慮を求め、自らの情報は守るという一方的な構図
• 「中の人を明かしたくないから、その点は配慮して」というお願いが、取材相手の文脈では“信頼を拒否する態度”に映る
⸻
今回の件を経て、月ノ美兎という存在が“アングラ文化の語り部”として活動を続けるには、以下のいずれかの方向が必要になるでしょう。
• 本人はナレーションや企画監修に専念し、実地取材はプロスタッフに委ねる
→仮面を維持したまま、文化との距離を保ちつつ取り上げる構成が可能
•レイヤーを脱ぎ捨て、文筆家・ライター・批評家として生身の表現に移行
•Quick Japanやオモコロ的な土俵で、取材・編集・文章でアングラ文化を扱う
→自由度と信頼の対価として、キャラクターの保護を手放す必要あり
• 今後も類似の演者が現れるなら、「VTuberが文化を扱う場合のレギュレーション」を明文化する
⸻
月ノ美兎が得意としてきた「アングラ×VTuber」の表現スタイルは、にじさんじが黎明期であったからこそ成立していました。しかし今や、にじさんじはポップな大衆文化の一角。“アングラに切り込む”こと自体が文化的矛盾を伴うようになってしまったのです。
その行為がどんな文化を踏みにじり、どんな信頼を危険にさらしているかを自覚する必要があります。
そして演者自身も、「表現したいこと」と「所属する構造」のズレを直視し、
次のステップを考える時期に来ているのではないでしょうか。
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
たった少しの利便性のために、他人を殺すリスクを許容できるのか?
コロナで数人死ねば大騒ぎして、国中が右へ倣えでマスクしてロックダウンしてワクチン打ってって騒いでたのに、自動車で年間5,000人も死んでる現実には誰も見向きもしない。
俺は2020年の夏にはマスクを捨てた。ワクチンも一度も打ってない。
コロナなんざ、人生における無数のリスクのひとつ。ただの風邪だと判断した。
死ぬこと自体は避けられないが、「他人を殺すかもしれない手段」を自分で選ぶのは話が違う。
他人を死なせるかもしれない、リスクの対価でほんの少しの便利を享受するのは俺の価値観ではNOだ
誤解するなよ。俺は科学も医療も否定しないし、現代社会の恩恵はちゃんと受けてる。
病気になれば医者に行くし、子どもには定期接種のワクチンも全部打たせてる。Amazonの荷物を車で運んでくれるドライバーには感謝してる。
でも、自分で車は運転しない。自分が加害者になるリスクを持ちたくない。それだけの話だ。
こう言うと、「私は飲酒運転しないから大丈夫です!」とか言ってくる奴がいる。
残りの99%以上の死者は、しらふの運転で生まれてるんだよ。それを免罪符にすんな。
自転車やLUUPが危ない?ルールを守ってない? それよりも、ベルファイヤーに一人で乗ってる奴の方が何倍も意味不明だ。
もうちょっと小さくて、安全で、燃費のいい車にしろよ。自分の快適のために、周囲への脅威をまき散らすな。
車のCMで「ワクワクしなきゃ」なんて言ってるが、俺からすれば「ワクワク」より「ビクビク」が妥当だろ。
てめぇの娯楽のために、誰かを死なせるかもしれない。
それでも運転するって?
昔から時々、人間以外の、物や概念に恋愛の意味で惹かれることがある。去年の秋からまた概念に恋をしている。あまりにも突飛な恋愛対象なので自分で笑ってしまうこともある。
絶対に人間は好きにならないというわけではなく、異性(男性)を好きになることもある。どうやら私の恋愛対象は異性と無生物らしい。
ポリアモリーではないので、一度に好きになるのは1人/1つだけ。擬人化はしない。(追記 全く別のものに思える+元々キャラクター?にはあまり強い興味が湧かない)
好きな対象に魂や感情があるとか、気持ちを返してくれるとかは思っておらず、ただ一方的に惹かれている。英語の無生物好きコミュニティを眺めたところ、無生物を好きになる人の中にはそういう感覚がある人もいるらしい。付き合っている/付き合えるという感覚もない。物理的に不可能なため。
これは〇〇というセクシャリティだ、のようなラベリングや、変なものに恋をすることの理由・原因探しには興味がない。
恋の定義とは何か、他人がこの感情をなんと名付けるかにも全く関心がない。その対象から同じ感情を返してもらえたらなと思うとき、その対象からどう思われるか気になるとき、よさそうなお店やイベントを見てその対象と出かけたくなるとき、自分は恋していると感じるからそう呼ぶ。
もちろん、物や概念に感情は無いし、一緒に出かけるのは物理的に無理なので、そんなことが起きるわけないのは分かったうえで。
感じていること自体は人間を好きになったときとあまり変わらない。誰かを好きになる感覚も人によって違うし、そもそも恋をしない人だっているからいい説明ではないかもしれないけど。
困りごとも別にない。強いて言うなら、恋愛話が好きなのにその相手がいないことくらい。
大きいコミュニティが日本に無いみたいなので、上述の英語コミュニティに時々書き込みに行っている。
子供の頃県に恋をしていたし、過去に何回か国にも恋をしてきた。そのほか、物でとくに魅力を感じるのは、無機質、冷たい質感の建造物、また、大きくて格好いいカーブのある建造物など。
今は、もはや存在しなくなった国に惹かれている。
予想以上に読んでもらえていたので少し追記した。
物を好きなひとの話を聞くと嬉しいしたいていある程度共感する。物が好きな人がいたら話しかけてほしい。恋愛話したくなる。
ただ、公共物を汚す感じの人や犯罪まがいの行動には全く共感しない。窓とか電車とかに勝手にキスしたり愛着を感じるものを盗ろうとしてみたり、みたいな。好きは免罪符ではない。
反応を見ていたら別に普通、みたいに書いてくれてる人がいて嬉しかった。
珍しがられたいわけでも、「物が好きなひともいるんだから喋るときはそこも配慮してほしい」とか言いたいわけでもなく
とにかく物や概念が好きだと書きたかった。読んでくれてありがとうございます。
Permalink |記事への反応(10) | 12:18
職場に何人かいるけど、共通してコミュニケーションがズレてるんだよな。
結果だけ貼って本人の考えが全くわからないので、「それで何が言いたいの?」って感じになっちゃうし、
そもそも「今そんな話してないです」という分析結果をドヤ顔で貼っちゃったりするし。
分析ツールの使い方を覚える前に、人との対話の仕方を学んでほしいって感じ。
彼らにとってAIは、自分の考えを整理したり、論理を補強したりするツールではなく、思考停止の免罪符になっているように見える。
結果の羅列を出すことで満足し、その背景にある意図や、相手のニーズを汲み取ろうとしない。
お前の反論、自分が引き算の美学で事業コストを語れてると勘違いしてるパターン。
でも実態は、事業規模に対する思考スコープの狭さがにじみ出てる。
まず最初に、
それ、論点でもロジックでもなくて、ただの願望自己放尿。中身が一切ない。
これは一見合理的に見えるが、実際は「過剰な単純化」の自己放尿にハマってる。
言ってるのはただ1つ。「JOINを安易に使うな。構造が持つリスクには最初から備えろ」。
将来のトラブルを「避けられる形にしておく」ってだけの話。
たとえば、JOIN構造を避けて辞書キャッシュを設けるのは、初期では数行のコード差。その数行で未来の地獄が避けられるなら、やる価値はある。
JOINを使った全クエリの洗い出し、クエリの再設計、DBインデックス再構成、アプリコードの再配備、キャッシュ整備、パフォーマンステスト、ロールバック対応。
事業全体の工数で見たら、圧倒的に最初に避けとくほうが安いんだよ。
それが見えてない時点で、「事業全体のコスト」とか語らないほうがいい。
言ってることが逆。
しかもね、「事業の初期だから雑でもいい」って、それ本気で言ってるならプロダクトの成功を前提にしてないってこと。
リクエスト数が伸びたら死ぬ設計でリリースして、「伸びたらそのとき直せばいいでしょ」とか言うやつに限って、死んでる間に顧客も信用も消えてる。
初期だからこそ、「伸びたときに対応できる構造」は最低限持たせる。
「JOINは便利だが地雷になりやすい」というのは経験則に基づいた設計判断。
「初期はシンプルに」というのは同意だが、それは未来を無視していいという免罪符じゃない。
「将来の死を回避する設計」=「複雑化」ではなく、保険と投資。
事業全体のコストを考えるなら、障害で燃える運用コスト・再開発工数も含めろ。
死ぬことは消えることだ。
だから翻って”生きるとは何か?”を考える。
消えてしまう自分がこの世界に生きた意味を見出すためにはどうするか。
作曲家は曲を残す。
何かを創らない人々は、創らない替わりに子を作る。
だから子を作り、産み、育て、そしてまた子を産み、育て、そうして時代と共に存在を育んできた。
そこには”生”と共に身近な”死”があった。
死を怖れ、しかし慈しむことで生があった。
知らないが故に、怖れることもない。
彼らは自らが死ぬとは思っていない。
死を怖れないのではない。何も怖れないのだ。
だからこそ自分の存在が消えることの意味にさえ想像が及ばない。
その時ばかりは、自分のことを考えずに済む。
もっと死を怖れよう。
より死のことを考えよう。
そうすれば自ずと子を産み、そして生に対して誠実になれるはずだ。