
はてなキーワード:ライブとは
※誰かを攻撃する意図はありません。自分自身の整理と今後、誰かが同じ状況になった際の判断材料として記します※
※「」内に関しては発言を書き起こしたものではなく、そういう趣旨の発言であったものになります※
そのインフルエンサー(以降「A」とする)がどんな人かと言うことをざっと並べると、
・当時推しの名前をXで検索すれば、そのインフルエンサーの投稿がトップの方で表示される
そして
推しと出会う以前・以後のビフォーアフターを写真付きでかなり赤裸々に明かしていた
…といった感じ。
影響力の大きい人だというイメージはあったけど、
Aはある日を境に
「ライブチケットで良席を得て、推しからファンサをもらえたのは“引き寄せの法則”を利用したから」
といった投稿を始める。
※引き寄せの法則とは、
今自分の手元にない欲しいものを“すでに持っている”ものと意図して生活していたら、
思いがけない形でそれを得ることができちゃうよ〜みたいな法則(ざっくり)※
その頃くらいから、
引き寄せの法則にまつわる発オンライン講座を少額(ワンコインほど)で複数回開催し始める。
当時の講座も受けたことがある。
AはSNSで見る姿と変わりなくよく喋るが、面持ちからは緊張を感じた。
講座自体もしっかりした作りで、私はAに人間味を感じ、さらにAを信頼することになる。
講座を受けた人たちの引き寄せたものの実績もみるみる積み上がっていった。
ほどなくしてAは、
長期かつやや高額(型式が古くて5万キロ強走行した中古車なら1台は買える額)
な講座を主宰することになる。
そこにいる人々の様々なビフォーアフターも講座宣伝よろしくタイムラインに流れていく。
“それなりの幸せで満足しなくていい、もっと私たちは欲しがっていいんだ”
『もしかしたら私も変われるかもしれない』という気持ちは膨らんでいく。
だがいかんせん、値段が高すぎる。
興味はあるけど、参加は見送るつもりでいた。
某日、Aが
「講座自体はとてもいいものになっているのに、思ったより集客が伸びない」
というような弱音を吐いたことがあった。
記憶はかなり朧げなので内容は正確ではないが、
その時点で絆された私は、飛び込みで講座の受講を決定。
契約書もろくに読まず記名し、受講料を払った。
これで人生変わるんだ、と本気で思った。
『私なんかが…』と遠慮して受け取れなかった様々に手を伸ばせるようになった。
この機会じゃなきゃ出会えなかった人と、
そこに対してはAに感謝している。
ただ、この話はここでは終わらない。
ある講座生(Bとする)が Aに対して声を上げた。
「私は提出した課題に対して、Aさんからフィードバックをもらいたくてこの講座に入った。
それがないならここにいる意味がない。引き寄せを勉強しようと思うなら、本を読めばいい。
そうではなく、Aさんから学ぶことに対してもっと意味のあるものにしたい。なんとかならない?」
講座生は各々課題を提出するわけだが、Aからのフィードバックは無かった。
Aが提出された課題に添削して、その添削が見える環境にしてしまうと、
講座生同士で提出した課題に関して意見交流してもらうのを優先しているためだった、
Aの主張も、Bの主張もわかる。
私はBと同じく消費者として、
この流れに期待感を持っていた。
しばらくそのやりとりは続き、Aのある発言で空気がガラッと変わる。
「けど私からのフィードバックがないと意味がないって思うのは、Bさんの課題なんだよ」
「買い手としての一意見が、私の精神的な許容量の問題って言いたいってこと?」
Bは声を荒げ、Aは「そういう意味じゃない、間違えた」と切り返そうとするが、
A本人から個人のキャパの問題だと一蹴され、なあなあに決着をつけられてしまった。
この一連の流れに、私は事業者としてのAに不信感を抱くようになる。
その後も、
講座生に向けた講義とは別の配信でAがBに対して苛立ちをぶつけるような場面
・Aのオープンハートとも取れるが、見方によっては講座生に対する雑な扱い
・私欲を満たすために講座生たちが払ったお金を使われたのち、
講座受講期間中にAから「金策に困っている」というような発言を何度も聞いたこと
などの出来事も重なり、
私は特に「お金がない」という話を聞き続けた結果、精神的に疲労してしまった。
講座を履修したら継続で入れるサロン(月額も決して安くはない)があったが、
退会を決め、Aの事務局に申し出るも、申出から退会の受理までの対応に1ヶ月以上かかるなど、
退会を申し出てからの1ヶ月分のサロン月額料金は請求されなかったことから、
これを機会にAから離れ、学んだこと以外は忘れたように過ごそうと思っていた。
しかし、
ある時のタイムラインでAの過去の投稿について、糾弾するアカウントを見かける。
著しく良識に欠けていて、推しの人権を侵害しているという趣旨の発言と、
インフルエンサーとして好感を持った側面でしかAを知らなかった私は、
どうやらとんでもないことに首を突っ込んでいたらしいとようやく気づく。
ただ、講座を修了している以上、できることはほぼないに等しいのも安易に予測がつく。
悩んだ末、ネットで調べた情報をもとに、地域の消費生活センターに相談してみることにした。
になる。
同じようなケースの人がここにたどり着いた時のために記載しておくが、
消費生活センターの窓口相談を利用するには電話予約が必須なので気をつけて欲しい。
私は電話口で説明できる自信がなかったので、窓口相談を利用した。
契約書や、 Aの事業用のHPなどをかき集めて相談した結果の見解は、以下の通りになる。
代表者氏名が未記載であることから、事業者としての信用性は極めて低く、悪質性は高い。
・決済手数料の扱い
支払い方法によっては、規約外である手数料が上乗せされていることも問題である。
・返金対応
最初に説明されたカリキュラム通りに講座自体は進行していたことから返金は求められない。
また、通信契約の特性上、契約書の規定が優先されるため、返金を求めることはできないという結果。
(契約書にいかなる理由でも返金には応じないといった趣旨の記載)
説明された内容と実際の講座内容に明らかな乖離ががある証拠がない場合は、返金は厳しい。
無いに越したことはないが、同じケースに鉢合わせた場合は、不信に感じたその時に相談して欲しい。
センター自体に強制力はないが、今後Aに関しての相談件数が増えた場合は指導が入る可能性はある。
消費生活センターとしては、本件は“霊感商法による被害”という位置づけになるらしい。
誰でも被害者になりうるというお話も相談員の方からお伺いした。
困っている人がいたら、ぜひ電話でも窓口でも相談してみては、と思う。
被害者に限らず誰でも申し出は可能だが、金銭トラブルの解決は目的としていない。
契約書上の“この契約は消費者契約法や特定商取引法の適用を受けない”という記載に対して、
“法律(強制法規)が優先されて効力を持たない”という意味では、法律違反にあたる可能性がある。
(本件を具体的に相談した結果ではないので、あくまで可能性という結果にはなる)
という感じだった。
・現品を見て買えないものは、買う前にとにかく情報を集めましょう。
・良い口コミばかり出てくるものはめちゃくちゃ疑った方が良いです。
・そのインフルエンサーのことが好きでも、
・同じ買い物をした人たちが同じように消費者として傷ついていたら、
もし勇気があるなら手を取り合って、声をあげてください。
でもその人から買い物する時は疑って欲しい。誰かが私と同じように傷つく必要がない。
勉強代としては決して安くはなかったが、
“信頼と契約は別物”という教訓をこれだけ大騒ぎして得られたのは、
まぬけではあるが。
Aは今でもどうやら、講座を主宰しているらしい。
私はもう離れてしまったけど、
Aなりに楽しんで推し活するんだろう。
チャーミングな人だった。
ようやくこれを書き上げた。
この件に対してのモヤモヤをここに置いて、
もっと身軽にやりたいことを楽しむつもりだ。
うん、悪くない響きだ。
これ以上、この件については
追求することはありません。
ただ、いつかの誰かにこの記録が
役立てばこれ以上のことはありません。
B含む講座生のみんなにも、
あの時タイムラインで見かけた投稿者の方にも、相談員さんにも、
そして、 Aにも。
ありがとうございました。
ばいばい。
モチーフ腕時計とかネクタイとか男性向けのグッズはあるけど、それはライブTシャツみたいな感じで作品のファンであることを示す印みたいな位置づけだとおもう
女性向けのグッズってもうちょっとキャラの存在とか作品世界をイメージさせるようなものが多い
「推しキャラの上着を模した椅子カバー」ってグッズがあって、あたかもそのキャラが自分の家で上着を脱いで椅子に引っ掛けたように見えるってのをウリにしてた。
男性向けなら抱き枕とか直接的に触れるように作るところ、女性向けはそのキャラの存在を頭の中で完結させる作りになってたりするのは面白いなと思った。
ダンサーの池松壮亮とタクシー運転手の伊藤沙莉が出会って付き合って別れてその後の話。
あらすじにも書いたけどぶっちゃけ特別なことはほとんど起きない。
まぁ、池松のバイト先の水族館に無断で侵入して急に盛り出り、会社から許可が出なかったタクシーの無断使用したりとこいつらモラルないなってイベントが定期的に挟まってイラッとさせられることはあるんだが基本的には何か人が死んだり(死ぬけど)はしないし三角関係も起きない(起きるけど)、何の変哲もない恋愛模様が描かれる。
ほな、この映画の一番の面白ポイントなにかっていうと、6年分の池松の誕生日を逆順に辿っていく作劇手法。
2021年コロナ禍の7月26日からスタートし、2020年、2019年と同じ日の2人を遡っていく。
その性質上、いろんなシーンで池松と伊藤を対応させて撮影している。例えば序盤に家で音楽にあわせてダンスのストレッチ運動を一人でしている池松のシーンがあってカットが切り替わるとタクシー会社で洗車しながらラジオ体操をちょっとだけやっている伊藤のシーンになったりする。
そして時が遡って2人がラブラブだったときには、朝チュンした後に池松と伊藤が並んでダンスのストレッチ運動をしているシーンが入ったりして、あぁ、この時はもう失われてしまったんだなぁとしんみりしたりする。
こうして、別れた後からスタートしてどう別れてどうラブラブでどうそうなってどう出会ってと、終わりから逆に見ていくことで、表現が難しいんやけど「別れる」という結果がわかっていてもその過程にも意味があったんやなって思えるような映画。
でもその過去を過度に美化しないで「ちょっと思い出しただけ」で日常は続くという終わりも嫌いじゃない。
冒頭、コロナ禍のタクシー運転手の伊藤(かわいい布マスクをしていて医療リテラシーゼロ)が尾崎世界観を乗せて池松が働いている劇場に立ち寄るところから話が始まり、その2年前足の怪我でダンサーの夢を絶たれた池松が照明係として働き始めたライブハウスでライブをやっているのが尾崎世界観で、その4年前2人が池松演出の舞台で出会ってエスケープした先の商店街でストリートミュージシャンをやっている尾崎世界観の演奏をバックに2人で踊る。
2019年にスタッフとして尾崎と再会した池松は尾崎に「どこかでお会いしましたっけ?」と聞くが当然尾崎は知らない。そして最後に2021年に戻り、トイレから出てきた尾崎と池松がばったり出会い尾崎は「どこかでお会いしましたっけ?」と聞き、池松は「えぇ、何度か」と答える。今作が尾崎世界観が作った楽曲にインスパイアされて作られた映画だということを考えれば、人生における"音楽"ってそういうもんだよなと思う。転換期に、そういえばあの時もこいつの曲聴いてたなってついつい思い返してしまう。そんな感じ。
2人の恋愛とは全然関係なく出てきてずっと公園のベンチで妻を待ってる永瀬正敏がいるんだけど、冒頭ではその奥さんはもう死んでてそれでもずっと同じベンチに座って待ってる。でも時を遡って奥さんが生きてた時もずっとベンチで奥さんを待ってるんだよね。時が経って環境が変わっても変わらないものの象徴として、時が経って変わっていく2人というテーマのアンカーとしての役割を果たしてたと思う。
バーのマスターの國村隼がずっとジェンガしてるのもジェンガの「下の方の木を抜いて上に積み上げていく」というこの映画の作劇と合っているし、人生というものはただ積みあがっていくものではなく過去を積み直していくものでもあるし、いつかは崩れたとしてもまた積み直せるものだということなのかなとも思ったり。
あと池松がダンサー時代は髪が長くて照明の仕事をするって決めたときに髪を切って、2021年にはまた髪が伸びてるんだけど映画の最後で冒頭で照明の仕事場のステージでダンスしているシーンに戻ったときに、まぁ人生ってそんな簡単に割り切れないよなっていうリアリティを感じて切なくなりましたよ。文字通り後ろ髪引かれてんやなって。あとモップ掛けした後のステージではだしで踊ったら意味ないからまたモップかけとけよと思いました。
そんなこんなで特別なことが起きるわけではないのだけれど、これ以外にもいろいろと考えさせられる要素や考え尽くされた要素が多くてちゃんと作られたいい映画だなぁと思いました。まぁ俺は定期で言ってるけどドカーン!っていう映画が本来好きなので、そういう映画が好き!何も起きない地味な映画嫌い!って人にはあんまおすすめできないかな。逆にそれ以外の人はオススメ。
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。陰謀論や根拠のない政治的確信に対して、直接「それは嘘だ」と指摘するのではなく、「どうすればそれが真実だと知ることができるか」を共同で探求するスタンスを取る。
オンライン上のトローリングや攻撃的なコメントに対しては、マーシャル・ローゼンバーグのNVCを応用した「脱エスカレーション・ループ」が有効である。
このプロセスは、相手の「攻撃」を「満たされていないニーズの悲劇的な表現」として再定義し、敵対関係を協力関係へとシフトさせる構造を持つ。
個人の対話スキルを向上させるだけでは、社会全体の分断は解消されない。SNSのアルゴリズムが増幅する情動的二極化に対抗するためには、デジタル空間の特性(アフォーダンス)を理解し、ネットワークレベルでの介入を行う必要がある。
政治的コミュニケーションにおいて、左派と右派には「美的非対称性(Aesthetic Asymmetry)」が存在する。歴史的に、左派は壁画やプロテストソングのような「参加型」で「構成的(Constitutive)」な芸術――コミュニティの結束を高め、希望を共有するための表現――を好んできた。一方、現代の右派(特にオルタナ右翼)は、ミームやシットポスティング(Shitposting)のような「道具的(Instrumental)」で「武器化されたユーモア」――相手を嘲笑し、混乱させ、分断を煽るための表現――に長けている。
この非対称性が意味するのは、左派的な「真面目で、説明的で、道徳的に正しい」コンテンツは、ミーム戦争においては圧倒的に不利であるということだ。ミームは文脈を剥ぎ取り、瞬時に情動(特に嘲笑や優越感)を喚起することで拡散する。
対抗戦略:脱分断ミーム(Depolarizing Memetics)
反発を招かないデジタル拡散のためには、以下の原則に基づいた新しいミーム戦略が必要である。
ネットワーク分析の研究は、SNS上の世論形成において、著名な「インフルエンサー(発信者)」以上に、「マルチプライヤー(拡散者)」と呼ばれる層が決定的な役割を果たしていることを示している。マルチプライヤーは、特定のイデオロギー・クラスター内で情報をキュレーションし、リツイートによって可視性をブーストする「ゲートキーパー」である。彼らは高い「整列スコア(AlignmentScore)」を持ち、陣営をまたぐことは稀である。
批判的メッセージを拡散させるためには、インフルエンサーを説得するのではなく、このマルチプライヤー層が「リツイートしたくなる」コンテンツを設計する必要がある。そのためには、前述の「道徳的翻訳」が不可欠である。保守系マルチプライヤーは、リベラルな正論は無視するが、「言論の自由」や「エリートへの懐疑」というフレームで語られた批判(例:「真の愛国者は、大統領であっても盲信しない」)には反応する可能性がある。クラスターの境界を浸透できるのは、そのクラスターの言語で語られたメッセージのみである。
X(旧Twitter)等のアルゴリズムは、「怒り」や「恐怖」といった高覚醒の情動を引き起こす投稿を優遇する傾向がある。冷静な対話は「退屈」とみなされ、表示順位が下がる。この構造的ハンディキャップを克服するためには、「怒り」以外の高覚醒情動、すなわち「驚き(Awe)」「好奇心(Curiosity)」「感動(Kama Muta)」を利用する必要がある。
以上の理論と技法を、一般市民や草の根活動家が実践可能な形に落とし込むためのマニュアル(ハンドブック)の設計図を以下に提示する。この構成は、米国の草の根運動ガイド『Indivisible Guide』の成功モデル(段階的習得、具体的アクション、テンプレート化)を参照している。
目的:実践者のマインドセットを「論破」から「影響」へとシフトさせる。
本報告書で提示した戦略は、短期的な選挙勝利のための戦術ではない。サイモン・シネックが言う「無限のゲーム」――すなわち、対話が継続可能であり、社会システムが崩壊しない状態を維持すること――を目的としている。
情動的二極化という「内戦」状態において、最大の勝利は敵を倒すことではなく、敵を「対話可能な競争相手」へと戻すことである。そのためには、批判者自身がまず武装(道徳的優越感)を解除し、相手の認知フレームの中に降りていく勇気を持たなければならない。この「戦略的共感」こそが、分断された世界をつなぎ直す唯一の現実的なエンジニアリングである。
戦略的共感と認知的安全保障:反発を招かない政治的批判のための包括的枠組み
現代の政治空間は、政策の不一致(イデオロギー的二極化)以上に、対立グループに対する嫌悪や恐怖といった感情的拒絶反応(情動的二極化)によって支配されている。この環境下において、伝統的な「批判」の手法――事実の提示、道徳的糾弾、論理的論破――は、その機能不全を露呈しているだけでなく、逆効果をもたらしていることが多くの実証研究によって明らかになっている。批判対象者の信念を強化してしまう「バックファイア効果(Backfire Effect)」や、批判者を存立危機的脅威とみなす「アイデンティティ防衛機制」が作動するためである。
本報告書は、心理学、認知科学、政治社会学の最新知見に基づき、政治的対立者に対して反発(バックラッシュ)を招かずに影響力を行使するための戦略的枠組みを提示するものである。ここで目指すのは、単なる「中道的な妥協」や「礼儀正しさ」の推奨ではない。人間の認知アーキテクチャの脆弱性と特性をハッキングし、相手の道徳的・感情的防御壁を迂回してメッセージを届けるための、エンジニアリングされたコミュニケーションプロトコルである。
報告書は大きく三つのフェーズで構成される。第一に、なぜ従来の批判が失敗するのかを脳科学的・心理学的メカニズムから解明する理論編。第二に、その防御壁を突破するための具体的な対話技法(ディープ・キャンバス、ストリート・エピステモロジー、NVC)を体系化した実践編。そして第三に、これらの技法を個人のスキルから社会運動へとスケールさせるための組織論と普及戦略である。
効果的な批判戦略を設計するためには、まず人間の心がどのように政治的情報を処理し、拒絶するかというメカニズムを理解しなければならない。政治的信念は単なる情報の集合体ではなく、個人のアイデンティティや所属集団への忠誠心と融合した「拡張された自己」の一部として機能している。
近年の政治心理学における最も重要な発見の一つは、情動的二極化(Affective Polarization)の実態解明である。これは、対立する政治グループのメンバーに対して「好きか嫌いか」という感情的温度差が極端に開く現象を指す。研究によれば、情動的二極化は対人関係の悪化だけでなく、個人の心理的幸福感(ウェルビーイング)の低下、社会的支援の減少、ストレスの増大といった「個人内損害(Intrapersonal Harm)」をも引き起こすことが示唆されている。特に、リベラル層において高い情動的二極化とストレス、健康悪化の相関が見られることは、政治的怒りが批判者自身をも蝕むことを示している。
この情動的二極化は、脳内で一種の「信頼のファイアウォール」として機能する。アウトグループ(外集団)から発信された情報は、その内容の真偽にかかわらず、自動的に「悪意ある攻撃」としてタグ付けされる。扁桃体が脅威を検知し、前頭前野が論理的推論ではなく「反論の生成」のために動員される「動機づけられた推論(Motivated Reasoning)」が作動するためである。この状態にある対象者に正論をぶつけることは、火に油を注ぐ行為に等しい。
バックファイア効果とは、誤った信念を訂正しようとする試みが、かえってその信念を強固にしてしまう現象である。このメカニズムには、自己肯定感の維持と集団への所属欲求が深く関わっている。批判を受け入れることは、過去の自分を否定すること(自己の一貫性の喪失)や、仲間を裏切ること(社会的死)を意味するため、脳は全力でそれを回避しようとする。
さらに、批判のフレーミング(枠組み)が、受け手のイデオロギーとミスマッチを起こしている場合、説得効果は皆無となるばかりか、抵抗を強める結果となる。例えば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策におけるメッセージングの研究では、リベラル層が「利得フレーム(マスクをすれば命が助かる)」と「損失フレーム(マスクをしないと命が失われる)」の双方に敏感に反応し、コンプライアンスを高めたのに対し、保守層はこれらのフレーミング効果に対して強い抵抗を示したことが明らかになっている。これは、問題が高度に政治化された文脈においては、一般的な行動経済学的介入(ナッジ)さえも、イデオロギーのフィルターによって無効化されることを示唆している。
批判が受容されるための極めて重要な、しかし見過ごされがちな因子として「知的謙虚さ(Intellectual Humility:IH)」がある。IHとは、「自分の知識や信念が間違っている可能性を認識する能力」と定義される。最新の研究は、対話において自身の知的限界を認める態度が、相手の情動的二極化を低減させる強力な緩衝材となることを示している。
特筆すべきは、IHが「相手からの好意(Target Liking)」を媒介して、対話への「接近行動(Approach)」を促進するというプロセスである。批判者が「私は絶対に正しい、お前は間違っている」という道徳的マウンティング(Moral Grandstanding)の態度を取ると、相手は「回避行動」をとる。逆に、批判者が「私も確信はないのだが」「複雑な問題で迷っているが」という不確実性を提示することで、相手の警戒心が解け、対話の土俵に乗る可能性が高まる。知的謙虚さは、相手の武装解除を促すための「白旗」ではなく、心理的防衛壁を通過するための「通行手形」として機能する戦略的資質である。
政治的対立の根源には、事実認識の相違以上に、道徳的直感の相違がある。リベラルと保守は、異なる「道徳の言語」を話しているにもかかわらず、自身の言語で相手を説得しようとするため、コミュニケーション不全に陥る。本セクションでは、道徳基盤理論(Moral FoundationsTheory: MFT)を応用し、批判を相手の価値観に翻訳して届ける「道徳的リフレーミング」の技術を詳述する。
ジョナサン・ハイトらが提唱した道徳基盤理論は、人類の道徳的判断が以下の5つ(または6つ)の生得的な基盤の上に構築されているとする。
実証研究が一貫して示すのは、リベラル層が主に「ケア」と「公正」の2基盤に強く依存するのに対し、保守層は5つの基盤すべて(特に忠誠、権威、神聖)を重視するという非対称性である。
多くの政治的批判が失敗するのは、リベラルが保守に対して「それは弱者を傷つける(ケア)」「不平等だ(公正)」というリベラル特有の語彙で攻撃するためである。保守層にとって、これらの価値は「忠誠」や「権威」よりも優先順位が低いため、批判は響かない。逆に、保守がリベラルに対して「伝統を破壊する(権威)」と批判しても、リベラルはそれを抑圧としか捉えない。
反発を招かない批判のためには、自身の主張を相手の道徳基盤の語彙を用いて再構成(リフレーミング)する必要がある。これを「道徳的合気道」と呼ぶ。相手の道徳的エネルギー(価値観)を利用して、相手の姿勢を崩す技法である。
以下の表は、主要な政治的争点において、従来のリベラル的批判(バックラッシュのリスク大)を、保守的道徳基盤に翻訳した戦略的フレーム(受容可能性大)に変換したものである。
| 争点 | 従来のリベラル的批判(高リスク) | 戦略的リフレーミング(低リスク) | ターゲットとする道徳基盤 |
|---|---|---|---|
| 環境保護 | 「地球温暖化は弱者や未来の子供を苦しめる。」(ケア) | 「我々の国土と美しい自然は神からの授かりものであり、汚染から守り抜く義務がある。」 | 神聖/堕落、忠誠/背信 |
| 同性婚 | 「誰を愛するかは個人の権利であり、平等であるべきだ。」(公正) | 「結婚は社会を安定させる伝統的な制度であり、同性カップルもその責任ある関係に組み込むべきだ。」 | 権威/転覆(社会秩序)、忠誠 |
| 軍事費 | 「軍事費を削って福祉や教育に回すべきだ。」(ケア/公正) | 「無駄な軍事支出は国家の財政を弱体化させ、真の国防力を損なう背信行為だ。」 | 忠誠/背信、権威 |
| 政治腐敗 | 「富裕層ばかり優遇するのは不公正だ。」(公正) | 「私利私欲のために公職を利用することは、国家への裏切りであり、高潔な職務を汚す行為だ。」 | 忠誠/背信、神聖/堕落 |
| 移民問題 | 「難民を助けるのは人道的な義務だ。」(ケア) | 「秩序ある移民受け入れは、国家の活力を維持し、アメリカンドリームという伝統を守るために必要だ。」 | 忠誠、権威(秩序) |
研究によれば、保守層に対して環境保護を「神聖さ」や「愛国心」の文脈で語った場合、リベラルな文脈で語った場合よりも支持率が有意に上昇することが確認されている。重要なのは、主張の内容(環境を守る)を変えるのではなく、その理由付け(なぜ守るか)を相手の言語に翻訳することである。
批判は通常、「現状のままでは悪いことが起きる」という損失フレーム(Loss Frame)で行われることが多い。しかし、損失フレームは恐怖や不安を喚起し、防衛的な反応を引き起こしやすい。これに対し、「ゲイン・フレーム(Gain Frame)」を用いた批判は、望ましい未来像を提示し、その実現を阻害する要因として現在の問題を指摘する手法である。
例えば、政治家のスキャンダルを追及する場合、「彼は嘘つきだ(損失フレーム:信頼の喪失)」と攻撃するのではなく、「我々は正直で高潔なリーダーを持つに値する国家だ(ゲイン・フレーム:尊厳の回復)」と主張する。このアプローチは、批判の対象を「個人」から「規範の維持」へとずらし、相手の「権威への尊重」という道徳基盤を刺激しつつ、攻撃性を緩和する効果がある。研究は、特にリスク回避傾向の強い層に対しては損失フレームが有効な場合もあるが、イデオロギー的に対立する層に対しては、ゲイン・フレームや道徳的適合性の方が「聞く耳」を持たせる効果が高いことを示唆している。
理論を実践に移すためには、具体的な対話スクリプトと手順が必要である。ここでは、異なる文脈(対面、オンライン、深い対話)において効果が実証されている3つの主要なプロトコルを詳述する。
ディープ・キャンバスは、戸別訪問(キャンバス)において10〜20分の深い対話を行うことで、トランスジェンダーの権利や移民問題などの二極化した争点に関する態度を変容させる手法である。従来の「事実の弾丸」を撃ち込む方法とは異なり、「脆弱性の交換」を通じて相手の情動的反応を書き換える。
研究によれば、ディープ・キャンバスは従来の説得手法の約102倍の効果を持ち、その効果は数ヶ月持続することが確認されている。
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。Permalink |記事への反応(1) | 11:19
北海道出身のクリエイターは目に留まりやすい、しかも面白い、地域性の話もできて面白くてずるい。フォロワーも面白いのは北海道出身が多い。北の大地で育まれる、独特の感性でもあるのか?
的なやつ
大幅に改変してるし、多分自己解釈も入ってるから元ツイートにはもうどうやってもたどり着けない
確かになと思った
当時、オフ会で会うくらい仲良くなった友達も北海道だった。わざわざ飛行機で本州に来てくれた
すごい尖っててすごい面白くて、なのに思慮深くて大好きな友達だ
Vが好きでよく見てる
みんな大好き荒川弘
恭一郎、キヨ
書き連ねるとそう多くもないな
でも、なんか、北海道のじゃがいもと聞くと美味しそうに思う感じで
タイトルの通り。
私は奢られなくていいと思って今まで割り勘論争を見ていたが、アプリの世界では残念ながらランチやカフェ程度を奢れない人は、奢ってくれた人よりも魅力が少なかった。
奢られなくていいと思っていたが、いざ割り勘にされると、そのお金を払ってまで会う必要がこちらにあったのか?と考えている自分に気づいた。
「恋人として考える可能性はゼロ、こちらからも願い下げだ」というのであれば割り勘をすればよい。
しかし、割り勘にしたらそれが最後、よっぽどの他の魅力または一目惚れのようなものがない限り、会いたい理由は生まれない。
そのお金をだして知らない人に会うのであれば友達と会う方が楽しいと思うからである。
結論はない。
ただ、私は、今後割り勘をしない人を優先的に選ぶだろうと心で決めている。マッチングアプリという物件検索的な設計の中では、「例外のいい人」を探すために100人と会うことはヘルシーでないのである。
多めに払うとしながら割り勘の人も多いのだというのも学びになった。
割り勘してくる人、
・社会人歴が1年しか変わらないのにセンパイっ!と言って、お酒の頼んだ量が違くても半分要求(会社の先輩ではないです...3回目まで誘われたけれどお喋りなら友達の方が楽しいんです)
・どうしてもと残してしまった濃厚ソースが絡まるパスタを僕が食べますよと言う(初対面で生理的に辛くなんとか阻止)
・私から今後誘うことはないと明言しても共通の趣味かもしれないライブはいいですか?と伝えてくる(私のメリットがわからない)
・居酒屋の会話の時点で、アプリの人とたちと会うだけで赤字だ、お金ないと話される(無理して会われても嬉しい訳がないのである。少なくとも割り勘の場合正当な対価を食事に払っているだけである)
など、言動もあまりにスマートでない方が多かったです。相関するとは言わないが、やはり経験則として奢ってくれた方々はこの辺の不快さはなかったです。
追記1:
相手が学年として1歳でも下の場合「多めに支払う」としていても割り勘になることが多かった(それなら書かない方がましではないかと思う。払われることを期待しているわけではないが、不一致を感じてしまった)。
年下と会う場合の割り勘率は、60-70%、同学年は半々(サンプルが少ないため懐疑的)、年上になるとほとんどの方がランチ代は出してくださった。
年下と言っても最大3学年差で、会社員歴は相手の方が長いパターンや同期も多かったため、そうなると「何がフェアか」は正直悩んだ。会社員歴まで下の方は1人だけだった。
追記2:
割り勘された方はみな20代後半で700-1000万円というおそらく世間的には比較的給料や学歴が一定安定している層なので大変驚いた。
とはいえ、ずっと奢れと思っているのではなく、付き合ってから適宜割り勘等にしていけばいいのではと考えている。2000円だせば、次また気持ちよく会える可能性が上がるのにそこをケチる理由は分からないかも知れないという話である。高飛車と言われるのであればそれは価値観の違いとして受け入れるが、経験則としてタイトルの感想なのだ。
■シナリオについて
・なんで配信してるのか?
→現代の若者に配信する理由はそこまで必要ありません。大人世代がご飯の写真を撮るくらいの気軽さで配信します。
・歌/推しに救われた
→現代の若者は余白がありません。情報爆発が起こってる今、それに追いつき追い越すため日々学んでいます。
結果として、原始的な行動である歌や踊り、美しさに惹かれるのです。
■キャラクターについて
→ハイスペばかりのキャラクターたちですが、各々欠けているものがあります。
カグヤに家を与え育てたことで、イロハは資金を得て、ヤチヨは失った身体を得ました。
■「世の中への舐め」
これは真逆かと。超かぐや姫!では、物語の中心にずっと「お金」が存在しています。
お金に振り回されながら、苦しみ、楽しむ。
いくらハイスペであろうと、資金が無ければ摩耗し、満足なパフォーマンスを発揮できない。
その問題を身近な手段で解決すると、自ずとインフルエンサー/配信者になるわけです。
あのライブは、客のためではありません。カグヤたちのためのライブです。
レベルとしてはtiktokのダンス動画に近いかもしれません。
例外もありますけど、かなりゆるめのダンスで、途中友達とふざけたりもします。
カグヤたちはアイドルではありません。ヤチヨはともかく、まだまだ一般人のひよっこ配信者です。
制作陣は、ライブの完成度よりも、彼女らの「楽しい」を伝えたかったのではないでしょうか。
だから笑うし、ふざける。身内感がある。
■総論
超かぐや姫!は、シビアな現実を、キャラクターをハイスペに設定することでエンタメ化して伝えている。
映画全体のテンポ感等々から見てわかる通り、明らかに若者向けの作品です。
・お金があれば大体なんとかなる。無ければハイスペであっても苦しい。
・頼れる人がいれば頼り、どうにかなるうちになんとかしよう!
ということを伝えたかったのではないしょうか。
いろいろとダイジェストだったり勢い任せなところはありますが、主軸はここな気がします。
本当にこれがメッセージだったとしたら、推しや配信、ハイスペキャラ、ライブ等でエンタメ化しないとあまりにも重苦い。
重い話が好きな人には刺さりそうですけど、本来のターゲット層に伝わらない可能性があります。
ライブの身内ノリ感も、「なんとかすればこんなに楽しくなれるんだよ!」ということかもしれませんね。
決めるだけで叶っているのはデフォルメ化であり、主軸は別。
超かぐや姫!最高!
増田が言ってるアイドルとかvtuberって乃木坂AKBハロプロとかホロライブにじさんじとかだろ
女の中から選りすぐりの人材が選ばれる人気コンテンツばかり触れてるとその人材が「デフォルト」の女に感じられて「女に産まれただけでこんなに人気になるんだ、ズルい」って思うようになるが人気商売で日の目を見るのって激戦を掻い潜った猛者だからな
色んな要素の上澄み部分を散りばめて、「あなたたちはこういうのが好きでしょ?」と差し出されているような気持ちになった。
主人公の日常に破天荒なヒロインが舞い込んできて非日常に変化→その非日常を疎ましく思いつつも少しづつ楽しむ主人公
→なんらかの理由でヒロインが去って日常が戻るが、やはり非日常が恋しくなり、ヒロインと非日常を取り戻すために奔走
古来から無限にあるボーイミーツガールなテンプレをガールミーツガールにただ変換して、バーチャル世界、Vtuber、神作画のライブ…みたいなZ世代が喜びそうな要素をちりばめた作品だと感じた。
ていうか書いてて思ったけど展開がまんま「涼宮ハルヒの消失」じゃん。みんなリバイバル上映行った方がいいですよ。
例えばこれが、バーチャル世界とかVtuberとかボカロとかSFの要素とか、もっと言うと竹取物語自体に、
制作陣の並々ならぬこだわりや愛情、リスペクトを感じられたら面白く思えたかもしれない。
2時間で一切こだわりや愛情、リスペクトを感じられないどころか、
むしろバーチャル世界とかVtuberとかボカロとかSFの要素を消費させてあげてるんですよ~ありがたがってくださいね~くらいの
浅ましさを感じてしまった。
ジークアクスが流行ってたのは、カラーの連中が年季の入ったガノタで
そいつらが作ったジークアクスという作品からこだわりや愛情、リスペクトを感じられたからだと思う。
あれもテンプレをマチュとニャアンというガールミーツガールに変換させ、クランバトルという今どきな設定を盛り込んでいるが
「BEYONDTHE TIME」が流れてニヤニヤできたのは、それまでの展開や文脈が一致していたからであって、
ぽっと出で急上昇して優勝したチームが超大手ライバーとのコラボライブで「世界で一番お姫さま」と歌うのは
(しかも真剣に歌うのではなく、キャッキャッしながら歌うというノリ)
文脈が通ってないように感じる。
オタクに対して「お前らが好きなワールドイズマインだよ~嬉しいだろ~」って思って使ってるだけだろ絶対。
気合い入ってるなと思ったし映画館で見たら迫力も感じられると思う。
でも内容を絶賛している人たちは何をもって評価しているのだろうか。
面白いとか面白くないとかあんま関係なく、ただ1番BLだった人が優勝するライブ
16:45OPEN17:00〜18:15LIVE
¥1,500(1drink付)
出演:ミニスター山川、lil高山、サウダージ中川、ぐんそう、タカ、凸撃隊、毒ダンス、北浜レトロ株式会社、浅山北山、チャームビート、インパ君、リーチ
あと俺の伝え方が悪かったんだろうけど、
そんなもん例えば仮にも周囲に気を遣いすぎて現状をブレイクできない(それがまず描けてやいけど)彩葉に対して
かぐやは破天荒でそういう日常を壊すキャラ…って枠組みだけど、それ出来てねーじゃん。
なんでかっていうと視聴者を少しでも不愉快にさせられないから、コンプラ破るような行動を排除してるからだよね。だからキャラにも魅力がなくなってる。というのは、まあ言い訳だよね。コンプラ守りながら描写もできるよね。でも怠ってるよね、何故なら製作陣が無能か怠惰、その両方だからだよね。
そんでそういう舐めた作品を許容するカスが視聴者だからだよね。
そういう意味で、この作品褒めてるクリエイターは信用できないよね。
そりゃそうだよな、こういう作品売れてた方が都合がいいもん。
小説まで読んだ上で製作陣がキャラクターの精神を軽んじてるのはもう明白だけど、
この作品ってとことんメカニズムやエンジニアリングを軽んじてるじゃん?
(それでSFです笑みたいな面してるのもムカつくが)
VRまわりの小道具もカスだし(ガイドブックにその辺の設定まるでないのがマジでビックリしたわ)まあコンタクトでいいじゃん、みたいな。「こんなもんでよかんべ」という。
加えてライブにしろ義体にしろ配信にしろ「目標をどう実現するか」というエンジニアリングを「お前ら馬鹿だからどうせこういうのつまらないっしょ笑」みたいな舐めで省略しだす。
で、ワールドイズマインもアレなわけじゃない?歌のことも舐めてるわけじゃん?
精神を軽んじて物理を軽んじて文化を軽んじて、何なら軽んじてねえの?マーケティング?
で、そういうコストかかるものをやらない作品でいいや、って客多い方がいいもんなクリエイターは。
客には馬鹿であってほしいよな?
サボって作ったもので馬鹿が喜んで小銭投げてくれた方が都合いいもんな。計算で作ったものが計算通りウケる世の中であってほしいんだよ怠惰だから。
だからこの作品褒めてるやつは客を馬鹿にしてるとかじゃなくて、客に馬鹿であってほしいというスケベ心があって、それを表明してる。
そういうのに乗せられんなって言ってんだよな。
駅前で「山本太郎がんばれー」って、ちょっと楽しそうに手振ってた人たち。
同じ顔ぶれ。
同じテンション。
違うのは政党名だけ。
最初ちょっと驚いたけど、よく考えたら別に不思議でもなかった。
「この人が日本を変えてくれる気がするのよ〜」って、それだけ。
ライブ会場が変わっただけで、やってることはずっと同じ。
インターネットのネトウヨも、たぶん構造は同じなんだろうなと思った。
正しさじゃなくて、参加してる感じが欲しいだけ。
なんかもう笑うしかない。
ライブについては……なんだろう、つまり卒業ライブが「かぐやの帰還=悲劇の象徴」みたいになっているので、そこから復活ライブすることでこの話はいよいよ喜劇になったんですよという演出かな。
よくわからないです。
竹取物語は親子愛でこれはそれをなんか知らんが恋愛にしてるから歪になるんだろ
というのは置いといて
別に愛をロジカルに描け(いや描けよ)って話じゃなくてさあ、そもそもラストハッピーエンドなんか?なんで?
こいつらが何をしたら喜ぶ生物で何をしたら悲しむ生物なのか全然わかんねーんだわ。
主役たちの情動が描けてないじゃん。いや小説は読んだよ?読んだ上でね。
つか「もうお婆ちゃんです」みたいな台詞あったけど、これってやっぱもうメスとしても人としても電子生命体としても共に歩めない存在になってしまったってことだろ?
それに対して無量空処食らって同じような超精神になったからある程度一緒に歩める、竹取の翁と竹取の媼になり新たにかぐやを迎えることで
ハッピーエンドになるって構造なのはまあわからんでもねえんだよ、いや描写がヘッタクソでわかんねえけどさ。
そうじゃなくてむしろキャラクターの感情的なものをその竹取物語を通じて描けてないんだよね。説得力がないんだよね。
そんでライブになるわけじゃん?身体を得てライブをするわけじゃん?は?ってなるわけですよ。当たり前だよなライブってこいつらにとっての何だったの?
そもそも生や階級制への無常や男女搾取の無情を皮肉ってた竹取物語の本歌取り全然できてねーじゃん。何がしたかったんだこの作品?
だから2時間20分ってお前もののけ姫より長いんやぞ、140分あって限られた尺とかいうのは甘えなんだわって話。
テメーが言ってるゴミみたいな愛がちゃんと描写できてねえっつってんだよ。そういう普遍的感情に着地するための描写が散逸してて出来てねえって話をしてんの。
で、そのエモいライブシーンってなんのためにあるの?自分達のため?それともそれを見てる客のため?
ライブのためのライブになっててライブ自体に意味がないって言ってんの。それのどこに真の意味でのエモがあんの?ねえよな?
https://anond.hatelabo.jp/20260207025626
なんでや!サマーウォーズはおもろい方やろ!
といいつつ、超かぐや姫!のシナリオはかなり特徴的なので、こういう意見もわかるっちゃわかる。
というのも超かぐや姫!のシナリオ、あまりにもライブ感がすぎる。途中で振り返ると「あれ?なんで今こんなことやってんだっけ?」ってなる。
序中盤の話の流れとしては、
③ヤチヨのライブに夢中な彩葉を見てヤチヨに対抗心を燃やし、ヤチヨカップに参加
④ヤチヨカップで優勝するために人気バトルゲームでトップチームと戦うことに
こうして後から冷静に考えてみれば複雑なことは何もないのだけど、その冷静に考えるの部分、正直中年にはしんどい。映画見ながら、ふと疑問に思った時に情報を遡ってしまっては、目の前の画面で起きてることに集中できない。
そもそも話の繋がりが最低限不自然でないことは、脚本の出来がいいこととは関係がない。
特に①と④に因果がなさすぎて、②-④の展開は「たまたま超かぐや姫!がやっただけで、別に他の作品でも出来た」という、竹取物語をベースとしたと銘打ったにしてはあまりにも独自性・唯一無二感のないものになっている。
中盤までのゴールとして設定されたヤチヨカップに見事優勝し、ヤチヨとコラボライブが出来たことで一旦目標達成ということになるが、ここの目標は正直なんでも良かった筈である。
要は、「かぐやと彩葉が協力して困難を乗り越え、見事目標達成を果たしたことで互いの絆が深まった」が出来れば、物語上の役割としては恐らくなんでも良い。
この部分がおそらく元日記で『シナリオになっていない』と評されたシナリオの不連続性の面であるのではないか。
このシナリオを楽しむには、今画面で起きていることに100%集中し、流れている映像や音楽の世界に没頭する必要がある。
今この時代にこれだけのハッピーエンド作品を描ける事の嬉しさは、間違いなく存在する。
ボカロ文化や配信、vtuber文化を特別に捉えすぎ無い方がいい。それらは現代の人々の暮らしにただ根付いているし、オタクをただ照らしてくれている。本当に何も特別な事は無い。インターネットはここにあるし、今もどこかで誰かが配信をしているし、新しいボカロ楽曲はアップロードされて、世界を彩っている。超かぐや姫!でもそうであったように。
作中の百合を思わせる描写も、時代に即した形だと思う。ただそこに好意があり、添い遂げたいと思う人間が居ただけだ。パッケージングされた言葉よりももっと先に、世界はそれを愛と呼んでいる。
人物の描写が足りていない、脚本が薄っぺらい、エモの表面をなぞっただけ、足りない描写は視聴者に保管させている、これらの批判は批判たり得ていないのでは無いかと思う。
2時間20分の尺の中で、足りていない描写を補完する為に視聴者の体験を想起させる手法は、表現の中でも最上級のものでは無いかと思う。超かぐや姫!では我々に馴染み深いカルチャーが扱われていることだし。
脚本は十二分に伝えたい事を伝えてくれている。人物の描写も同じくだ。「伝わってこない」という批判は、同時に「伝わってきた」という称賛が存在する時に扱いが難しいなと思う。少なくとも、超かぐや姫!はファンブックや監督のインタビューを見なくても、そこで語られている情報や意図が映画から十分に伝わってくる出来だと感じる。
超かぐや姫!がこれほどにハッピーエンドのその先を描く作品である以上、作品の外で諍いが起こる事も心苦しい。
「お前ら本当に超かぐや姫!の事分かって褒めてンのかよ?!」という趣旨で、フワッとキマシタワーを乱立している百合のオタクや、どこからともなく現れて、したり顔で超かぐや姫!推しなんですって言ってる配信者にキレているというのなら気持ちは分からなくも無いが、超かぐや姫!そのものにそこまで批判出来るポイントは無いだろ!というのが素直な感想だ。
添い遂げたいと想い合う二人がいる時に、その障害を取り除く不思議な技術や情熱があって、誰になんの不都合があるのだろうか。キャラクターの生活の延長にあるエモいライブシーンを描いて、それを見て喜んでくれる人達がいるのなら、それを描かない理由があるのだろうか。
若者を舐めていない作品とはそもそもどのような作品をさすのか。(マッシュルは若者を舐めていた)
彼女ら、彼らの行動原理が分からないのは、単にあなたの人生にそのような行動を引き起こすほどの出会いや動機が未だ発生していないだけでは無いのか。本当に人生が存在していないのは誰なのか。