
はてなキーワード:ベストセラーとは
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ホッテントリ入りしてたので読んだけど、なんか反論おかしくないか?
「読書習慣がある人」は統計的な定義として、「月3-4冊読む」と定義付けされてるけど
読書習慣があると回答した人の平均値が凡そ月3-4冊とのことだけど
その意味でいえば、月3-4冊読む人だけにフォーカスして続く議論の材料にしているけど、これ月3冊以上で3-4冊以上読む人も話に加えないとおかしくないか?
更に月平均3-4冊勢読む人が労働期間中(生産年齢)に数値が底を打ち、退職後に回復するという仮説を立てているが、これもなんか論拠としてあやふやに思える。
60歳以上は20-59歳に比べて月3-4冊読む人の割合は確かに高い。ただこれが元々読書習慣があった層とは断言できない。
それまで読書習慣がなかったけれど、定年後に本を読み始めたという場合も想定できる。
また労働時間から解放されて余暇ができた、という要因以外に、高齢者であると体力に限界ができたり、付き合いが減ったり、年金暮らしで現役よりお財布も厳しいので
図書館などで本を借りるということも増えるのかもしれない。
そもそも月5-6冊、7冊以上読む人についていえば、指摘するようなU字カーブは起きていないし、反論としてやや短絡的な印象は受ける。
著者は京大出身のベストセラー作家で大学で教鞭も取っておられるお方みたいだが、
その割には統計的解釈が明らかに恣意的に思え、一瞥しただけで首を捻ってしまった。
増田は私文のあっぱらぱー学部卒なので統計学などわからんので、本当は著者が言うことが合っているかもしれないが、何だかもやったので殴り書きしてみた。
ロシア作家ヴィクトル・ペレーヴィン(Victor Pelevin) の小説 『ジェネレーションP』(原題:Generation «П»、1999)は、
1990年代ロシアの資本主義化・メディア化・消費社会の到来を、ブラックユーモアとポストモダン的手法で描いた作品です。
ペレーヴィン作品の中でも特に世界的評価が高く、現代ロシア文学の代表作の一つとみなされています。
以下、あらすじ・登場人物・テーマ・構造・象徴性などを総合的に詳説します。
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■ 1.概要
ジャンル:風刺小説、ポストモダン文学、サイバーパンク風味の社会批評
主題:
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■ 2. あらすじ(ネタバレを最小限にして要約)
彼は市場経済化によって地位を失い、広告代理店でコピーライターとして働くことになる。
ヴァヴァは広告の仕事を通して、メディアが人々の欲望・価値観・現実そのものを「創造」する様を体感していく。
巨大な操作システム(政治・ビジネス・芸術の混合した虚構装置)
に触れていく。そして最終的に、国家のイメージ操作を担う存在へと昇華していく――。
小説は、
「広告とは何か」「現実とは何か」「アイデンティティとは何か」
という哲学的・宗教的問いを、ユーモアと皮肉で包みながら展開する。
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● ヴァヴェノス(ヴァヴァ)
• 詩という「真実の言語」を捨て、広告という「虚構の言語」へ
→旧ソ連のインテリが、90年代の資本主義社会に適応して変質する象徴
●広告代理店の面々
● 霊的な存在・神々
•作品の後半には、古代メソポタミア神話(イシュタルなど)が絡む
というテーマを強調
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■ 4.主題の詳説
社会の価値観・政治制度・人間の欲望すら構築する技術として描かれる。
へとイメージが連鎖し、人はそのイメージを信仰するようになる。
ペレーヴィンはこれを
と捉える。
という混乱期にあった。
として描く。
物語が進むにつれ、広告と政治が一体化していることが明かされる。
いわば
を先取りした構造になっている。
と比喩する。
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•パロディ
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■ 6.国際的評価と影響
•映画化(2011年, Viktor Ginzburg監督)
• 「消費社会」「情報操作」「ブランド宗教化」というテーマが普遍的で、21世紀のメディア文化を先取り
特に、
は現代のSNS時代と強くリンクするとされ、西欧でも研究対象として扱われる。
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■ 7. まとめ
『ジェネレーションP』は、
という構図が、ユーモラスかつ哲学的に展開され、
たぶん「別に何も変わらないよ」と言う人が大半だろう。 でも「いや、けっこう決定的に何かがズレる」かもしれない。
授賞式のあと、記者会見で村上春樹は、たぶんいつもの調子で、少し照れながら、淡々とした英語でステートメントを出す。
猫とか、走ることとか、ジャズとか、そんな話題がちょっとだけ混ざる。
スウェーデン語、英語、中国語、アラビア語、スペイン語、いろんな言語で彼の言葉が翻訳される。
「村上春樹」という固有名と、「ノーベル賞」という単語が強く結びついたことで、アルゴリズムが「この人の言葉は、特別な重みを持つ」と判定してしまう。
その結果、彼のインタビュー記事だけ、ほんの少し「やわらかく」翻訳されるようになる。
本来なら “I justwrite what I canwrite.” と訳されるはずの文が、別の言語では「自分にできることを、ただ静かに続けてきただけなんです」と、余計なニュアンスを帯びてしまう。
でも、世界中の翻訳メモリの中で、「誠実な揺らぎ」とでも呼ぶべき偏りが、じわじわと蓄積し始める。
棚を整理していた店主が、ふと「ノーベル賞作家コーナー」を作ろうとして、手を止める。
新潮文庫の『風の歌を聴け』を手に取って、ドストエフスキーやカミュの横に置くか、それとも日本文学コーナーに残すか、悩む。
たいていの店主は、日本文学棚から一冊だけ抜き出し、「ノーベル賞」のプレートの下に、さりげなく並べる。
その瞬間、棚全体の「重心」が、ほんの数センチ動く。
カミュの『異邦人』の隣に『ノルウェイの森』が来る店もあるし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の脇に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が差し込まれる店もある。
知らない誰かが、そこで一冊を手に取る。
「ノーベル賞作家なら読んでみようかな」と思って買う人もいれば、「高校のとき挫折したけど、また読んでみるか」とレジに持っていく人もいる。
その「もう一度読んでみる」という行為が、実はけっこう世界を変える。
ひとつの物語を、異なる年齢で読み直すことは、人生の時間軸をちょっとだけ折り曲げるからだ。
遠くない未来、日本のどこかのワンルームで、小説を書いては消している人がいる。
それまでは、締切のたびに「どうせこういう文体はもう古い」と思って、原稿をフォルダごと消していた。
けれども、ニュースで「村上春樹ノーベル賞受賞」という文字列を見た夜、指が止まる。
「時代遅れ」と心のどこかで断罪していた「一人称で、ちょっと距離のある語り口」や、「よく分からない井戸」や「耳の形の描写」を、もう一度だけ許してみようと思う。
その人は、削除済みフォルダから原稿をサルベージして、改稿し、応募する。
数年後、ひっそりとデビューする。その作品は大ベストセラーにはならないが、誰か一人の人生を確実に変える。
それを読んだ別の若い誰かが、「こういう小説を書いてもいいんだ」と思う。
この連鎖が続いた結果、20年後の日本文学史の片隅に「ポスト春樹的な何か」という、名前のつかない小さな潮流が記録される。
ノーベル賞受賞後、世界中の出版社は、村上春樹の作品をさらに多言語に翻訳して売り出す。
その新しいデータが、大規模言語モデルの学習コーパスに流れ込む。
従来のAIなら、「休息を取りましょう」「専門家に相談しましょう」といった、正しいけれど味気ない答えを返していた。
しかし、そのモデルは、学習した村上春樹的なリズムをうっすらと真似て、こう返す。
「ひと晩だけ、よく眠れる街に行ってみるといいかもしれません。
コインランドリーと古いジャズ喫茶があって、誰もあなたの名前を知らないような街です。
そこで洗濯機が回っているあいだ、お気に入りの音楽を一曲だけ聴いてみてください。
世界は、それだけでほんの少しだけ、違う顔を見せることがあります。」
それを読んだ人が、「なんか、分からないけど少しだけ楽になった」と感じる。
たった一人の気分が、5ミリだけ上向く。
バタフライエフェクト的には、それで十分すぎる。
村上春樹の受賞は、「売れている作家」「広く読まれている作家」が、必ずしも軽んじられるべきではない、という前例になる。
それまで「実験的すぎて一般には読まれない」ことが価値とされていた傾向が、ほんの少しだけ揺らぐ。
「世界中で読まれていること」と「文学性」が、必ずしも対立概念ではないのかもしれない、と誰かが言い出す。
その議論の延長線上で、今までは候補にも挙がらなかったタイプの作家が、リストに入る。
その人はインタビューで「十代のころに、村上春樹がノーベル賞を取ったニュースを見て、『あ、こういうのでもいいんだ』と思ったんです」と語る。
村上春樹の受賞は、別の誰かの受賞の「前提条件」に化ける。
バタフライの羽ばたきが、遠い未来の別の嵐の「初期値」になる。
仕事の帰りにコンビニに寄って、スポーツ紙の一面を見て、「マジか」と小さく笑う。
家に帰って、本棚の奥から、大学生の頃に読んだまま放置していた文庫本を取り出す。
ページをぱらぱらめくると、線を引いた覚えのない箇所に、うっすら鉛筆の跡がある。
「この一文に、あのとき引っかかっていたんだな」と、昔の自分に少し驚く。
今読んでみると、当時は気づかなかった別の箇所が刺さってくる。
たとえば、こんな感じの一節:
「世界というのは、だいたいいつも、わずかにバランスを崩しながら、それでも何とか立っているようなものなんです。」
(これは架空の文だけど、春樹っぽさは伝わると思う)
読み終わったあと、あなたはスマホを手に取って、誰に送るでもないメモを書き始める。
それを翌朝読み返して、「案外悪くないかもしれない」と思う。
消さずに残しておく。そのメモが、数年後、何か別の形――ブログか、小説か、子どもへの手紙か――に変わるかもしれない。
村上春樹がノーベル賞を取ったことで、あなたの中の「書いてもいいかもしれない何か」が、ほんの少しだけ動き出す。
世界規模から見れば誤差だけれど、あなたの時間軸にとっては、十分に大きな揺らぎだ。
7.世界はそんなに変わらない、でも「読み方」は変わる
戦争が止まるわけでも、景気が劇的に良くなるわけでもない。
満員電車は相変わらず混んでいるし、会社の会議は相変わらず退屈だし、洗濯物は相変わらずたまる。
でも、「世界の読み方」は、少しだけ変わるかもしれない。
そんなふうに、日常の現実に、うっすらと「物語のレイヤー」が重なる。
「世界を物語として読む人」が、ほんの少しだけ増える出来事なのかもしれない。
そして、バタフライエフェクトというのは、
日本の電子書籍は高くないか?コストがかからない分安くなるべきではないか?海外でも同じなのか?と思っていたが、海外でもまぁ同じ状況のようだ。
ヨーロッパ、特にドイツやフランスでは、電子書籍の価格を紙の本と同じく定価に保つことが、法で定められている。
70〜90年代にかけて、欧米では大型書店や量販店が力を持ち始めて、「ベストセラーを35%引き!」みたいな価格競争が起きた。そうすると当然、小さな本屋がつぶれまくる。フランスでは「書店が消えたら文化も死ぬ」と作家や知識人が猛反発して、1981年に「ラン法」という「本は全部定価で売りましょう」という法ができた。ここで、書店を守る=文化を守る、という価値観が確立した。
背景には「本は文化財」という考え方がある。値引き競争を放置すると、売れる本しか出なくなるし、哲学書・詩集・専門書みたいな、儲からないけど大事な本が消える。だから「市場原理だけに任せると文化的多様性が崩れる」という危機感が強い。さらにフランスやドイツは地域の本屋がコミュニティの核で、日本みたいにコンビニやAmazonだけでどうにかなる構造じゃない。だから「書店網の維持」が政策目標になってる。
制度の目的はシンプルで、「書店の多様性を守る」「出版社の多様性を守る」「全国どこでも新刊が買える」「本を文化商品として扱う」の4つ。EUでも広く共有されている価値観らしい。
ではなぜ、電子書籍にも定価縛りがかかったのか?
理由はほぼ「Amazon対策」。Kindleが普及し始めたとき、Amazonが値引き攻勢をかければ、電子書籍市場を独占 →出版社も書店も逆らえない →Amazonが値上げする、という未来が現実味を帯びていた。これを防ぐため、フランス(2011)、ドイツ(2016)で「電子書籍も紙と同じく定価販売」を適用した。
しかも、電子書籍が激安になると出版社の収益が崩れて、学術書や専門書が維持できなくなる。紙が売れないと出版文化全体が弱るから、それを避ける狙いもある。電子書籍市場でも独立書店や出版社が参入できるように、価格でAmazon一強になるのを防ぐという意味も大きい。文化省は「電子書籍は紙と同じ書籍」だと定義していて、だから法律の対象になる。
対して日本は、電子書籍に法的な再販制度はない。紙は再販制度があるけど、電子は出版社の自主判断。理由としては「流通が取次中心で、法律で守る必要が薄い」「Amazonの台頭が遅かった」「書店文化保護の政治的圧力が弱い」「出版社が自主的に紙とほぼ同じ価格にしていた」など。
Kindleのようなプラットフォーマーが大きめに手数料を取ることで、印刷や流通、保管のコストと同等のコストが常に生じるし、プラットフォームによる値下げ圧力・安売り競争の促進があると、電子書籍ユーザーにとっては一時的に良くても、長期的に著者や出版社の利益が脅かされて、本というものの文化がやべーよっていうことかね。
超ベストセラー小説シリーズ「すべての恋が終わるとしても―140字の恋の話―」(シリーズ累計60万部)
帯に「30秒で泣ける」と書かれてるんだけど
このシリーズってだいたい平均120字程度で書かれているので毎秒4文字弱読む計算になってる。
小学校低学年の平均が大体1秒間に5文字、小学校高学年で8文字、それ以上なら10文字程度
とされてる。
※学習塾に通うような子は小学生から毎秒10文字くらい読むという調査もある(14000人以上対象の調査)
毎秒4~5文字ってどんだけアホが読む想定になってんだよ。
村上春樹がノーベル文学賞に手を伸ばせずにいるのは、本当に皮肉な話だ。
彼の本は、全世界を魅了しているのに、選考委員の文学観にはどうも刺さらないらしい。
ネコが出てきたり、深夜のジャズ喫茶で心が揺れ動いたりするあの世界感は最高に心地いいけれど、
個人の内面遊泳に徹する春樹作品は、どうしても軽やかすぎると見なされてしまうんだ。
でもノーベル選考委員は、「文学の最前線で新しい実験をしているか」を重視する。
平易な文章でグイグイと読み手を引き込むスタイルは素晴らしいけれど、
だから、文芸界のアカデミックな厳粛派からは「村上春樹は大衆作家」というレッテルを貼られてしまう。
さらに、英訳には申し分のないクオリティがあるにもかかわらず、ノーベル文学賞の選考は陣営戦略も大きい。
新鮮味を欠くと判断されがちだ。つまり、翻訳品質以前の「選考バイアス」が存在する。
あと、村上春樹の物語は普遍性の光を帯びていると言えば聞こえはいいが、
選考委が欲している「全世界を覆う重厚な社会批判」という観点では、どうしても「足りない」と映る。
孤独や胸の高鳴りではなく、人類の根源的苦悩を描かないと、ノーベル文学賞の舞台には上がらないというわけだ。
村上春樹は世界中の読者の心を掴んでいるのに、ノーベル文学賞という舞台では「大衆文学の王」に留まる運命らしい。
イスラエルの高出生率について「超正統派が産みまくるから~」と雑な話しかないのは気になるな
イスラエルは歴史的にアラブ人口への対抗から出産奨励されてたので世俗派の女性でも「子供は3人欲しい」がデフォ観念。それがプレッシャーになって病む女性も出て「母親になって後悔してる」なんて本がベストセラーになった
最近でも世俗派・リベラルの出生率が下がってるといっても2前後ある
あとイスラエルはアラブ人より人口を増やすという国是で国外からユダヤ人移住者を受け入れもしててユダヤ人口増やしている
そのイスラエルも出産奨励の一方で育児支援は充実していないようで、OECD調査の子どもの貧困率は日本よりも上回っている
https://www.oecd.org/en/data/indicators/poverty-rate.html#indicator-chart
18歳になると超正統派以外は兵役義務があり優秀な子供はここでエリート部隊に選抜されることで将来が約束されたりもする
(超正統派は戒律縛りの生活なので徴兵なくても自由な生活送るわけではない(それでもガザ戦争で「不公平」という声が出て超正統派も徴兵できる法改正が進む))
厨二病引きずり編 覚書
タイ映画。名門校を舞台に、優秀だが裕福ではない主人公と裕福だが賢くはない同級生たちがカンニングのビジネス化を企む。
胸糞要素ややあるが、緊迫感がピカイチでのめり込めた。実話がベースとの情報もあるけどソース薄いので創作っぽい。リメイクあり
天才ハッカーの主人公が自ら警察に出頭し、自らの半生と出頭した目的について語り出す。アノニマスを意識してそう。
ハッキングをわかりやすく表現した演出と、音楽のセンスが好み。ラストも好き。視聴者に委ねるラストだけど後味が悪い訳ではなく心地よい
RUN/ラン
生まれながらに糖尿病や下半身不随を患って車椅子で生活をする主人公は自立すべく大学受験を目指しているが、夢を応援し生活をサポートしてくれているはずの母が持ってきた薬に違和感を見つけ、逃亡を企てる。
車椅子での逃亡劇と、サラ・ポールソンの怪演に見応えあり。これもラスト好きだった
フランス映画らしく皮肉が効いていて、嫌味な登場人物が多い。過激なヴィーガンに店を襲われた肉屋夫婦が原材料:ヴィーガンなハムを販売したらバカ売れ!
かといってヴィーガン批判ではなくて、強要は良くないよねって感じなのが気楽で良かった
大人気ミステリー小説の最終巻を世界同時に発売するため集められた翻訳家たちが、発売前の流出を徹底的に防止すべくセキュリティ万全にされた地下で作業をするさ中でネットに小説が流出し始める。賢い人にはつまらないらしい?
一応データ屋の端くれとして、ちょっと調べてみたことがあるんだけど、結論としては「日本の書店数、市場規模に対して大杉。しばらくは減るのは仕方が無い」というところでした。
で、フランスやアメリカは実際言うほど書店数そもそも多くないので、逆に早期に保護が必要で底を打つのも早かった、と言う言い方が正しいと思っている。
得にフランスは早く保護しなきゃ消滅しかねないので公で手が入った。その結果、実用的なお店というより文化施設というカテゴリになった。社会文化施設の一種扱い。
一方で日本の場合はまだそこまで到達してないと言えるかと。まだまだ書店は実用的なお店扱いなんだよね。スーパーやコンビニと同じ商業施設のまま。
どこかで市場が均衡して維持されるフェーズになるか、本当に落ち続けてどこかで産業保護が必要になるフェーズになるかまでは縮小傾向が続くと思う。
で、増田の仮説に対して言うなら
どうよ?
以下データ編。
国際比較してみると以下の事が言える。
いずれも10万人あたり
購買力平価のドル換算で、為替の影響を取り除いています。電子も含む。
日本は多い方でもなく平均的。しかし、実はフランスの金額は少ない。これは再販制度の影響もあるかも。フランスと日本は再販制度のおかげで本が安いのだ。
日本とフランスが多い。金額ベースで見ると本の価格が安い事がわかると思う。
ただし自費出版や電子書籍など含む含まないなど、色々な基準があて統計の品質には差がある。
日本は取次の情報を元にしているが、他国は納本制度の対象になった物をカウントしていたりする。
昨夜、たまたま癌で亡くなった大学生のXアカウントを見かけた。
今まで死を意識したことなんてなくのほほんと生活してたけど、自分が若くして病気や事故で死ぬ可能性は0じゃない。
そりゃ病気にならず、事故にも遭わず、結婚して子供も生まれて、仕事も順調で部長とか区長とか局長とか副市長になって、定年退職して外郭団体の役員とかやって、子供も全員自立して、自宅のベッドか病院のベッドで子供や孫に囲まれて心不全で寝るようにしぬならいいよ。
それが確約されてるなら全く死は怖くない。
でも、若くして死ぬのは怖い。
独身のまま死ぬのは怖い。親より先に死ぬのは怖い。子供を見る前に死ぬのは怖い。孫を見る前に死ぬのは怖い。
だから和了る前に死んでも後悔しないよう、自分の人生を死の間際で誇れるように、今のうちに何かを成し遂げたいと思った。
そんで色々と自分が成し遂げたいと思えることを考えたんだけどさ…
「これなら死んでも後悔しない!」と思える成し遂げたいことはこんな感じです。
・民間のロケット開発会社と電気自動車メーカーを作って億万長者になった!
・多体問題を取り入れたSF小説を書いてベストセラー作家になった!
などなど。
芸能人や歌手になりたいわけではないので、ただ単に「有名になりたい」というわけではない。
また、イーロン・マスク、ビル・ゲイツ、ロバート・ノイスには憧れるが、ウォーレン・バフェット、ジェフ・ベゾス、柳井正、三木谷なんかには憧れないし、前澤社長には嫌悪感すら持つので単に「金持ちになりたい」というわけではない。
文芸や芸術でも、「三体」の作者の劉慈欣には憧れるが、純文学作家や漫画家には憧れない。
お前らはプロジェクト・ヘイル・メアリーを名作だと思ってるだろうが、あれは完全な駄作だ。
断言する。あの小説を読んで感動したとか言ってるやつ、お前らの読解力と審美眼を疑う。
作者のアンディ・ウィアーは、情報の小出しとサスペンスを演出するために、主人公から記憶を奪った。でもこれが完全に作為的で不自然だ。なぜ科学的知識だけは完璧に覚えていて、個人的な記憶だけが抜け落ちてるんだ。選択的記憶喪失にしても不自然すぎる。
しかも記憶が戻るタイミングが、ストーリー展開に都合の良い瞬間ばかり。読者が疑問に思った瞬間に、パッと記憶が戻って解決する。これを緻密な構成だと思ってるやつ、小説を舐めてる。
お前らはあの異星人との交流に感動したって言うが、あれのどこが深い友情なんだ。言語の壁を乗り越えて心を通わせる過程が、あまりにも表面的すぎる。
ロッキーの人格や価値観の描写が浅い。彼の種族の文化的背景も説明不足。ただの便利な相棒キャラでしかない。真の異文化交流を描くなら、もっと根本的な思考の違いや価値観の衝突があるべきだろう。
そして科学考証の甘さ。
ウィアーは火星の人で科学的リアリティが売りのはずなのに、この作品では科学的な無理がありすぎる。
まず、アストロファージの設定が破綻してる。太陽を食べる生物が、なぜ地球の生態系に壊滅的影響を与える程度で済むんだ。太陽の出力が下がったら、地球の軌道も変わるし、重力バランスも崩れる。氷河期どころの話じゃない。
それに、主人公が一人で宇宙船の全システムを把握して操作できるわけがない。現実の宇宙船は何十人ものスペシャリストが分業で運用してる。一人ですべてをこなせるスーパーマンなんて、リアリティの欠片もない。
記憶を失った科学者が宇宙で目覚めて、地球を救うミッションを思い出す。異星人と出会って友情を育み、協力して危機を乗り越える。最後は地球を救って帰還する。
これのどこに意外性があるんだ。プロットが教科書的すぎて、読んでる途中でオチが見えてしまう。真のSF小説なら、読者の予想を裏切る展開があるべきだろう。
そして一番致命的なのが、感動の押し付けがましさだ。
作者は露骨に読者の涙腺を刺激しようとしてる。ロッキーとの別れのシーン、地球への思い、科学への信頼。全部計算づくで、人工的な感動を演出してる。
本当に優れた小説は、感動を押し付けない。読者が自然に感情移入できる深い人間描写があって、初めて真の感動が生まれる。
主人公のグレース以外のキャラクターが、完全に道具でしかない。ストラット博士もヨー博士も、単なる情報提供装置。人間としての深みがない。
優れた小説なら、脇役にも血の通った人格がある。でもこの作品は、主人公以外は皆んな記号的な存在でしかない。
科学の力で危機を乗り越えるというテーマは分かりやすいが、それだけ。人間とは何か、文明とは何か、生命とは何か。そういった根源的な問いかけがない。
真のSF小説は、科学技術を通じて人間の本質を描くものだ。でもこの作品は、単なる問題解決小説でしかない。
お前らはベストセラーだから、評判が良いからって理由で名作だと思い込んでる。でも売れることと優れていることは別だ。
大衆受けする要素を詰め込んだ商業小説と、真に優れた文学作品は違う。プロジェクト・ヘイル・メアリーは前者だ。
もちろん、娯楽小説としては及第点かもしれない。読みやすいし、分かりやすい。でも名作と呼ぶには程遠い。
本当に優れたSF小説を読みたいなら、フィリップ・K・ディックを読め。アーシュラ・K・ル・グィンを読め。スタニスワフ・レムを読め。彼らの作品と比較すれば、ウィアーの浅薄さが分かるはずだ。
お前らがプロジェクト・ヘイル・メアリーに感動したなら、それはお前らの読書経験が浅いからだ。もっと多様な作品を読んで、本物の文学に触れてみろ。
図書館は何よりも、公的に資料を保管し万人に提供するのが仕事であって、貸本屋ではない。なのに、無料貸本屋のように扱って「ベストセラーの新刊を買え」と騒ぐ人々のせいで、2年もたたず誰も読まなくなるような新刊本を何十冊も購入するような事例が頻発している。(図書館の評価指標として「利用人数」とか「貸出冊数」みたいなクソ指標を採用する木っ端役人のせいも大きい。)このため、地元でしか発行されない貴重な資料本などを購入する予算が無くなったり、「貸出が少ない」というだけの理由でそれらが廃棄されたりする、ダメ事例が起きている。
正直なところ、新刊の購入は1冊、使用は閲覧のみとし、貸出は規制するとした方がよい。図書館が貴重な資料の購入もできない上に、新刊本の著者の利益を損なう存在だと言われ始めたら、存在価値がないどころか、社会にとって有害と成ってしまうのだから。現にこういう勘違い増田がはびこっているくらいなのだから。
開幕1秒から
ナレーター「2020年10月、一本の動画がYoutubeにアップされた」
ナレーター「翌年には長編小説として書籍化。170万部を超えるベストセラーとなった」
ナレーター「今からご覧いただくのは謎に包まれた『変な家』に多くの関係者が」
ナレーター「それぞれの解釈と思いを載せて作られた全く新しい『変な家』である」
雨穴「私の描いた本は全4章構成でした映画は例えるなら第5章だと思います」
雨穴「小説と映画、二つ合わせてはじめて『変な家』が完成します」
ドゥーン(効果音)
いやこれ、これさ、映画『変な家』公開記念特別映像かなんかとして
雨穴とか配給会社の公式Youtubeチャンネルかなんかにアップする映像だろ
今からホラー映画見ますよってタイミングでその映画作る経緯の説明する?
これがモキュメンタリー系の映画で「冒頭の説明からして一つの仕掛け」とか
「とある凶悪犯罪の犯人が撮影したとされるビデオテープが発見された」みたいな
単に「変な家って動画がヒットして~書籍化もして~それを基に作ったんです~」って説明、映画のド冒頭にする?
マジでこのパート本編内のあらゆる事象に一切関連してないからね
これ本当に要る?
もしかしてアマプラオリジナル要素で劇場ではこれなかったとかなんかな?
アマプラって本編再生押すと別の映画のCMがはいることがあるじゃん
俺最初それだと思ったもん
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