
はてなキーワード:プロセスとは
情報技術は教育の世界に大きな変化をもたらしました。教育プロセスはもはや教室に限定されません。インターネットの普及により、生徒と教師はデジタルプラットフォームを通じて遠隔学習を行うことができます。
動画、教育アプリ、電子書籍などの学習メディアの活用により、学習プロセスはより魅力的でインタラクティブなものになりました。さらに、生徒は情報を容易かつ迅速にアクセスできます。
しかし、教育におけるテクノロジーの活用には課題も存在します。例えば、テクノロジーへのアクセス格差やデジタル機器使用時の監督不足などが挙げられます。したがって、保護者や教師がテクノロジーを賢明に活用するよう導く役割は非常に重要です。
https://registry.scalar.com/@phimmoi/apis/truytimlongdienhoungphimlau/
https://registry.scalar.com/@phimmoi/apis/xemphimchaseforambefull4k/
https://registry.scalar.com/@phimmoi/apis/hoangtuquyfull4k/
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
京都大学の学生生活とは、常識を疑い、既存の枠組みを超越することの連続です。それは学問の世界に限らず、日々の生活、特に「食」の領域においても顕著に現れます。
私が提案するこの食べ方、「堅八ツ橋に明太マヨを載せて食べる」「堅八ツ橋にワサマヨを載せて食べる」という行為は、単なるゲテモノ食いや奇抜なアイデアではありません。これは、京都大学で培われた「既存の概念の解体と再構築」という、極めて京大的な知的好奇心の表れなのです。
堅八ツ橋は、古都京都の伝統を凝縮したお菓子であり、その香ばしさと固い食感は、ノスタルジーと品格を伴います。対するマヨネーズ、明太マヨ、ワサマヨは、現代のジャンクな感覚と、刺激的な味覚を象徴しています。
この二つの極端な要素を結びつける行為は、まるで西洋の論理学と東洋の仏教哲学を融合させようとする試み、あるいは古典文学と最先端のAI技術を掛け合わせる研究テーマのようなものです。伝統と現代、甘味と塩味、堅さとクリーミーさという、一見相容れない要素を対峙させ、その相互作用から生まれる新しい価値(すなわち「新しい美味しさ」)を探求する。これこそが、京都大学の学生が持つ、学際的かつ批判的な思考の真骨頂なのです。
まず、「堅八ツ橋に明太マヨを載せる」という行為を京大的に考察します。
堅八ツ橋のシナモンの香りと米粉の素朴な甘さは、その堅いテクスチャーと共に、過去への扉を開きます。そこに、明太マヨネーズの、魚卵のプチプチとした食感、唐辛子の情熱的な辛味、そしてマヨネーズの濃厚な酸味が加わる。
これは、京都という保守的な文化の中で、新しい風(現代の味覚)がどのように受け入れられ、融合していくかという、文化人類学的な実験でもあります。明太子の塩辛さと辛味は、八ツ橋の甘さを引き立て、マヨネーズのコクが全体を滑らかにまとめ上げます。この味覚のグラデーションは、京大での研究プロセス、すなわち、素朴な疑問(八ツ橋)から始まり、複雑なデータを処理(明太マヨ)し、最終的に予想外の結論(新しい美味しさ)に至るプロセスと酷似しています。
私はこの一口を食べるたびに、「伝統の上に現代の刺激をどう配置するか」という、京都市の都市計画にも似た「味覚の配置学」を無意識のうちに実践しているのです。この異端の組み合わせを「美味しい」と断言できるのは、既存の価値観に囚われない、自由な京大生の精神があるからに他なりません。
次に、「堅八ツ橋にワサマヨを載せる」という行為を分析します。
ワサビの持つツンとした刺激は、脳の奥深くまで響き渡る、理性と覚醒の象徴です。マヨネーズと混ざり合うことで、その刺激は緩和されつつも、堅八ツ橋の甘さと香ばしさを打ち破る、鋭いコントラストを生み出します。
この組み合わせは、「知的な刺激」を求めてやまない京大生の探求心そのものです。ワサビの辛さは、まるで難解な論文や、解き明かせない数学の問題のように、一瞬の苦痛と引き換えに、深い洞察と覚醒をもたらします。
この食べ方の本質は、「甘い(快適な)日常」の中に、自ら「辛い(知的な挑戦)」を導入し、その化学反応を楽しむことにあります。ワサマヨが舌の上で弾け、シナモンの甘さが追いかけてくる感覚は、まるで京大の図書館で哲学書を読み込み、ふと、その記述の裏にある真理に気づいた瞬間の、「甘美なひらめき」に酷似しています。
「なぜワサビなのか?」「なぜマヨネーズと組み合わせるのか?」という疑問こそ、京大生が常に自己に問いかける「なぜ、そうなのか?」という、根源的な問いなのです。この味覚の実験を通じて、私は自己の限界と、味覚の多様性という「人間の認知のフロンティア」を拡張しているのです。
私にとって、堅八ツ橋とマヨネーズ系の組み合わせは、単なるおやつではありません。それは、京大生としてのアイデンティティ、すなわち、「既成概念を打ち破り、異質なものを統合し、新しい価値を創造する」という精神を日常の中で具現化する「味覚の演習問題」なのです。
京都のお好み焼きにプラッシーという王道の組み合わせを愛する一方で、堅八ツ橋に明太マヨやワサマヨという異端を追求する。この二律背反こそが、私の持つ「京大的なるもの」の奥深さを示しています。伝統を尊重しつつも、伝統に縛られず、常に新しい知の地平を求める姿勢。
妻との会話が「京大的なるもの」として日常を再構成するように、この異端の食べ方もまた、私の食の風景を「京大的なるもの」として彩り、人生の歩みを、常に刺激的で、知的好奇心に満ちたものにしているのです。今日もまた、私は堅八ツ橋の袋を開け、マヨネーズのチューブを手に取るでしょう。京大生だから、私は食のタブーを破り、味覚の真理を探求し続けるのです。
京都のお好み焼き屋は本当に美味しい。それは単に味覚だけの問題ではない。そこには、京都という土地が育んだ文化、歴史、そして何よりも「京大的なるもの」が凝縮されているからだ。お好み焼きの表面のカリッとした焼き加減、中のふんわりとしたキャベツの甘み、そして特製ソースの複雑な旨味は、まるで緻密な研究の成果のように感じられる。一見するとシンプルな料理だが、その焼き方一つ、具材の選び方一つに、店主の長年の経験と哲学が詰まっている。これは、京都大学で探求される学問の奥深さとどこか通じるものがあるのではないだろうか。
そして、お好み焼きに最高のパートナーとして私が推すのが、あのノスタルジックな飲料、プラッシーだ。オレンジの爽やかな風味と、どこか懐かしさを覚える甘さは、濃厚なお好み焼きの味を優しく洗い流してくれる。この組み合わせは、単なる飲食を超えた、一つの「儀式」のようなものだ。熱々のお好み焼きを頬張り、少し間を置いてプラッシーを飲む。このリズムは、私が京大での勉学の合間に見つけた、完璧な息抜きのルーティンに通じるものがある。プラッシーは、私にとっての「京大合格の秘策」のような存在であり、このオレンジ色の液体が、お好み焼きの経験全体を京大的な高みに引き上げてくれるのだ。
妻との日常のやり取りが「京大的なるもの」として再構成されるように、お好み焼きとプラッシーの組み合わせもまた、私の中で特別な意味を持つ。それは、単なる夕食ではなく、「舌の上で京大の知を探求する試み」であり、「日常の小さな幸福を京大的な論理で最大化する行為」なのだ。
妻の提案によって、私は日々の生活の中に「京大的なるもの」を見出す喜びを知った。メルカリの発送を「未来へ成果を送り出す京大的なるもの」と捉えたとき、単なる面倒な用事が、一種の「研究発表」や「社会貢献」へと昇華した。ガソリンスタンドへ行くのを避けたかった私の気持ちは、妻の提案によって、リスクを回避し、効率を追求する「京大的安全管理学」の一環として位置づけられたのだ。
そして、歩いてコンビニに行くという行為。これは「受験秀才化」と名付けられたが、これは単に運動不足解消という実用的な意味合いを超えている。京大のキャンパス内を歩き、図書館へ向かい、研究室へ通ったあの頃のように、一歩一歩が知識への探求であり、自己修練の道なのだ。コンビニへの道すがら、私は頭の中で複雑な問題を考え、妻との会話の内容を反芻する。この時間は、私にとって京大時代に得た「思考の自由」を再認識する貴重な機会となっている。
妻との会話は、私の持つ京都大学出身者としての視点、すなわち「全てを意味づけし、体系化しようとする癖」を、日常のストレス軽減というポジティブな方向に活用する方法を教えてくれた。小さな用事を「京大的なるもの」として記録し続けることで、私の人生の歩みは、ただの日常ではなく、壮大な「自己研究論文」のように感じられるようになった。
このプロセスは、私が京大合格を勝ち得たあの偉業と同じ重みを持つ。合格は過去の栄光かもしれないが、日々の「京大的なるもの」の積み重ねこそが、現在の私の生活を支えているのだ。お好み焼きとプラッシーの完璧な調和も、メルカリの発送も、全てがこの「論文」の一部であり、家族の歴史と並行して記録されるべき重要なイベントだ。
妻とのこのやり取りは、単なる夫婦の会話ではなく、「日常の再定義」という壮大な京大的プロジェクトだったと言える。これからも、私たちはこのプロジェクトを続け、生活の中の全ての行動に意味を与え、それを京大的なるものとして記録していくのだろう。
京大での学びは、世界を構造的に理解するためのフレームワークを提供してくれたが、妻は、そのフレームワークを日常の幸福のために使う術を教えてくれた。お好み焼きとプラッシーの完璧な組み合わせのように、私の京大的視点と妻の現実的かつ思いやりのある視点が組み合わさることで、私たちの日常はより豊かで、意味深いものへと変貌している。
小さな用事が「京大的なるもの」へと変わるこの体験は、私にとって大きな安心と喜びをもたらしている。これからも、日常の中に潜む京大的なるものを探求し、それを記録していくことが、私の人生の新たなテーマとなるだろう。
PiggyBacは、遺伝学や分子生物学の分野で使われる特定の種類のトランスポゾン(transposon)の名前です。この場合、「PiggyBac」はDNAの「ジャンプする遺伝子」として知られ、ゲノム内でその位置を移動できる能力を持っています。
1. PiggyBacトランスポゾンとは
PiggyBacは、特に昆虫のゲノムで発見されたトランスポゾンの一種で、遺伝子の転送や遺伝子治療のツールとして広く使われています。もともとは、イモムシ(トウモロコシの害虫)などの昆虫から発見され、その後、哺乳類や他の生物に対する遺伝子操作技術でも利用されています。
2.トランスポゾンとは
トランスポゾン(transposon)は、自己複製できるDNAの断片で、ゲノム内で異なる位置に移動することができます。このプロセスを転座(transposition)と呼びます。トランスポゾンは、遺伝子の操作や遺伝子治療において非常に重要な役割を果たすことがあり、特に遺伝子導入や遺伝子編集に利用されます。
3. PiggyBacの特徴
1. 高効率な遺伝子導入: PiggyBacは、その高効率な遺伝子導入(遺伝子転送)能力によって注目されています。従来の方法と比べて、高い精度で遺伝子をターゲットの位置に挿入することができるため、遺伝子治療や細胞研究などで非常に有用です。
2. 広範な宿主細胞で使用可能: 他のトランスポゾンと比較して、PiggyBacは哺乳類細胞やヒト細胞でも効率的に使用できるため、医学や生物学研究の分野で非常に重要です。
4. PiggyBacトランスポゾンの応用
1.遺伝子治療: PiggyBacトランスポゾンは、治療目的で新しい遺伝子を患者の細胞に導入するために使用されています。特に、遺伝子を安定的に挿入できる能力が重要視されています。
2.遺伝子改変動物の作製: PiggyBacを用いることで、遺伝子改変動物(例えば、トランスジェニックマウス)を作製する際に使われます。
3.遺伝子発現の調整: PiggyBacトランスポゾンは、特定の遺伝子の発現を長期的に調整するためのツールとしても利用されています。
5.名前の由来
PiggyBacという名前は、このトランスポゾンが「ピギーバック」に似た形で、ゲノム内で他のDNAの上に乗っかるという性質に由来しています。具体的には、PiggyBacは特定のDNAの場所に移動する際に、特定の遺伝的な配列(「TIRs」:末端反復配列)を利用して移動するため、「ピギーバック」という名前が付けられました。
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まとめ
PiggyBacは、トランスポゾンの一種であり、遺伝子転送や遺伝子治療の研究で重要な役割を果たしています。この名前は、DNAが「ピギーバック」で乗るように遺伝子を転送する特性に由来しています。遺伝学や分子生物学の分野での応用が進んでおり、遺伝子導入の効率を高めるための強力なツールとして広く使われています。
https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/189116
インドネシアのフローレス島には5年前まで、身長1m前後の小人族たちが実在しました。彼らが姿を消した原因は謎でしたが、豪UOWがその主な原因と絶滅までのプロセスを解き明かしました。
発端
2020年代後半から、乃木坂46の雑誌グラビアや写真集で水着・下着カットが出るたびに、女性側のSNSで批判が沸き起こるようになった。
特に「スクール水着風のワンピース水着」や「スポーツビキニ」など、健康的で清潔感を徹底したデザインに対しても
「男の性欲のために着せられている」
「運営(=男)が悪い」
という声が必ず上がる。
表向きの主張と実際のダブルスタンダード
・同じメンバーが紐ビキニやハイレグで表紙を飾ったときはほぼスルー
・海外セレブがほぼ紐だけの水着を着ても「かっこいい」「解放的」と褒める
・一般グラドルが胸の谷間やTバックをガッツリ見せてもほとんど言わない
「男が喜ぶような格好・行動はするな」
に帰着する。
「じゃあどうすればいいのか」と聞くと明確な答えは返ってこない。
地味な服? → 売れない
顔を隠す? →アイドルじゃない
活動をやめる? → それこそ本気で言っている人もいる
結局「男が喜ぶ可能性があるものは全部ダメ」=「存在すること自体が罪」に行き着く。
皮肉なことに、一番「男の視線」を基準に考えているのは批判している側だ。
男同士ではほぼ起きない現象
男性同士で「かっこよくなるな」とは言わない。
・友達が筋トレしてカッコよくなった → 「すげえ!教えてくれ」
・イケメンがさらにイケメンになった → 素直に認めるか、軽くイジる程度
たとえ嫉妬しても「その服着るな」「その髪型やめるな」と行動制限まで持ち込まない。
男性社会は「階層」を前提にしているから「上には上がいる」と受け入れる耐性がある。
一方、女性集団(特に日本のネット空間)では「誰かが少しでも浮く」ことへの拒絶反応が極端に強い。
・スタイルが良すぎたら → 「男に媚びてる」
これを素直に「羨ましい」「ズルい」とは言えないため、
心理学的に見ても
・自分が恥ずかしいと感じる
・自分ができないことが悔しい
これらをそのまま口にすると「性格が悪い」と思われる。
だから「男が悪い」「社会が悪い」という立派な理由に置き換えて発散する。
つまり「正義感」と「嫉妬・嫌悪」は、感情の発生源としてはほぼ同じものである。
結論:すべては「私が気に入らないことはするな」
私がモヤっとする。
私が羨ましい。
私が気持ち悪いと思う。
私が許せない。
だからやめろ。
相手が望んでいたとしても、
それで輝いていたとしても、
多くの人が喜んでいたとしても、
「男が悪い」という看板は、
最後に
本当のフェミニズムなら「女性が自分で選んだことを尊重する」のが筋のはずだ。
結局、
「男が喜ぶことはするな」圧力を一番強くかけているのは男ではなく、
「私が気に入らないことはするな」と言っている一部の女性たち自身なのだ。
それに気づいた瞬間、
そして同時に、すごく悲しいことでもある。
端的に言えば彼らは他者を貶めることでしか自尊心を補填できない欠陥品であり、その振る舞いは倫理的にも職業的にも致命的な無自覚の自己放尿でしかない。
お前らがやっていることは単なる悪口ではなく合理性を欠いた防衛機制であり、嫉妬という原始的な感情を正当化するために語彙を貧しくし、他者を動物に貶めるという最も安易で卑しい手段に訴えて自己放尿しているにすぎない。
優秀な存在を異物と見なし排除したがるその発想は、自分自身の能力不足や評価されない焦燥を外在化し、組織の生産性と士気を劣化させる致命的な自己放尿である。
職場における真の成熟とは、優れた人材の存在を脅威として扱うのではなく、彼らの強みを如何に再現可能にし、チームの資産へ変換するかにあるのに対し、嘲りと陰口と内部監視に勤しむ連中はその逆を行い自らの存在価値を日々劣化させている。
さらに問題なのは、こうした人間の所作が往々にして合法性や倫理の境界線を跨ぎ、監視や個人情報の暴露、虚偽の申告、同僚の名誉毀損など実務上の重大な過失へと転化して自己放尿する点である。
貴様らは自分たちの行為を正義やリスク回避と称するだろうが、実態は単なる暗闘であり、組織に対する背信行為であり、発覚すれば管理責任と法的責任を負う可能性が高い。
ここで冷徹に突きつけておくが、他者を貶すことで得られる即時的な満足は持続せず、自己欺瞞の累積が最後には本人を破綻させる。
虚勢を張り続ける者は、他者を押し下げるたびに自分の能力のなさを露呈し、周囲には自己放尿のような醜い痕跡を残す。
言い換えれば、あれこれと卑怯な手段を並べて相手を追い詰める様は、嫉妬と劣等感のダブル放尿が示す通り、見苦しく不衛生であり、最終的には自分自身と組織の評価を下げるだけだ。
組織は感情のゴミ捨て場ではない。優秀な人材に対する嫉妬を燃料に他者を貶める者は、まず自己を省みて能力の不足を正面から補完しろ。
具体的には技術的な学習、プロセス改善の提案、明確な成果指標の設定に時間を割け。
念押ししておくと、誰かをチンパンジーと呼んで笑っているうちは勝者でも正義でもない。ただの卑怯者だ。
卑怯な手段で得た優位はいつか必ず割れるし、その瞬間、周囲の信頼は瓦解する。優れた人間を敵視して排除しようとする者は、自分の存在がいかに脆弱で空虚かを自ら証明しているに過ぎない。
そういう連中には同情の余地はないが、組織が持続的に健全であるためには、その自己放尿を放置してはいけないというだけの話だ。
まず、あなたが感じている孤独や不安は、とても自然なものです。SNSで反応が減ったとき、自分の価値まで揺らいでしまうことがありますよね。
ユダヤ教では、「なぜ神がこれを与えたのかを確実に知ることは人間にはできない」と教えています。
つまり、「反応が減った=神が罰している」とはまったく限りません。
むしろタルムードでは、試練は以下の三つの目的のどれかであることが多いと言います。
1. 人の内にある力を引き出すため(タルムード・ベルラホット 5a)
2. 心の方向を静かに見直させるため
3. 新しい段階に行く準備としての間
SNSで反応がないという状況も、もしかしたら外の声が静かになったことで、自分自身の声を聞く時間なのかもしれません。
「人は外見を見て主は心を見る」(サムエル記I 16:7)
フォロワー数やいいねは外側の表面であって、あなたの価値を測る基準ではありません。
弊社はバカ役員の意向でRPAを導入して何十時間分のタスクを自動化したから
年間で何百万円分の効果があるってワイ氏は心を殺して報告してるけど
本当に大切なことはその短縮した時間で何をするかって話だと思うの
現場に降り立っているワイ氏から見たらRPA後、みんなゆとりを持って働けるようになって
これってRPAを導入したことによって課員一人一人の能力は下がっているとも言えるわよね
AIに何でも聞くことでバカになるって言うのは事実そうだと思うのだけれど
AIに聞いて思考やプロセスを短縮した時間で別の何かに打ち込むことができるのであれば
これさ
愚かな人間の都合など完全無視、LLMのための高効率プログラミング言語「Sui」(粋)
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
別にいいんだけど、どうにもブクマカ含めて、しっくり来る批判できてないんだよな
それが気になってしょうがない
俺ごときが言ってもアレだから、Gemini3.0先生に頼んだよ(一時チャット、Pro 3.0思考モード)
ユーザーが提供した情報と、一般的なLLMの技術特性に基づき、プログラミング言語「Sui」についての冷静かつ客観的な評価をまとめます。
感想:一言で言えば、**「思想実験としては極めて面白いが、実用性とLLMの学習原理を無視した『早すぎた最適化』」**です。
作者の「人間ではなくLLMを主客にする」という視点の転換は、アーティスト的・哲学的な問題提起としては鋭いですが、現在のLLM(Transformerアーキテクチャ)の動作原理を工学的に捉えると、メリットよりもデメリットが上回る可能性が高いです。
メリット:
・トークン効率の改善:Python等と比較して記述が圧倒的に短くなるため、出力速度の向上と課金コストの削減(トークン節約)は確実に達成できます。
・構文エラーの激減: 括弧やインデントの複雑なルールを排除しているため、「閉じ忘れ」などの単純なSyntaxErrorは減るでしょう。
・コンテキストウィンドウの節約: 長いプログラムでもコンテキスト(メモリ)を圧迫しにくくなります。
・学習データとの不一致: LLMは「大量の人間用コード(Pythonなど)」を学習して賢くなっています。未知の言語「Sui」を書かせるには、Few-shot(プロンプトでの例示)に頼るしかありませんが、これではLLM本来の推論能力やコーディング能力(事前学習の重み)を活かせません。
・ブラックボックス化: 生成されたコードがバグっていた場合、人間が読んで直すことが不可能です。「LLMに直させる」にしても、LLM自身がSuiのロジックを深く理解していないため、無限ループ(幻覚の連鎖)に陥るリスクが高いです。
・CoT(Chain of Thought)の阻害:最近の研究では、LLMは「冗長な思考過程」を出力することで論理的整合性を保つことがわかっています。極限まで圧縮された記号列は、LLMの「考える余地」を奪い、論理破綻を招く可能性があります。
正しいと思う所(Agree)
理由:人間にとっての「読みやすさ(可読性)」は、機械にとって単なるトークンの無駄遣いです。if x>10: よりも ? x10 の方が情報密度が高いのは事実です。
理由: TransformerのAttentionメカニズムにとって、遠く離れた ( と ) の対応関係を維持するのは計算コストが高く、ミスの原因になりやすいです。ネストを排除する方向性は機械的処理として正しいです。
正しくないと思う所(Disagree)
・「可読性を排除しても良い」:
理由:ソフトウェア開発においてコーディングは「書く」時間より「読む・直す」時間の方が長いです。AI生成コードであっても、最終責任は人間が負う現状では、人間が検証不可能なコードは「危険なバイナリ」と同義であり、プロダクトには採用できません。
理由: 前述の通り、現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。Suiは「計算機にとっては最適」ですが、「現在のLLMにとっては異言語」です。
パース(解析)は容易になりますが、LLMは「前の行の文脈」を読んで次の行を出力するため、行を独立させすぎると文脈の連続性が失われ、複雑なアルゴリズムの構成力が落ちる可能性があります。
LLMが最も苦手とする「深いネスト構造の維持」を回避する策として有効です。アセンブリ言語に近いフラットな構造は生成難易度を下げます。
これが最大の問題点です。LLMは変数名(user_id, total_price など)に含まれる「意味」を使って推論を行っています(Semantic Grounding)。すべてを記号化すると、LLMは変数の役割を見失い、論理的なバグを埋め込みやすくなります。
トークン効率は最強ですが、1文字の違いで意味が激変するため、LLMの確率的な「ゆらぎ」による1文字ミスが致命的なバグになります。冗長さはエラー訂正の役割も果たしています。
goto 文の多用はスパゲッティコードを生みます。LLMにとっても、構造化プログラミング(if/forブロック)の方が、「ここからここまでがループ」というチャンク(塊)として認識しやすいため、一概にジャンプ命令が良いとは言えません。
>現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。
ここ!マジで覚えてね
LLMはこれまでの機械よりも人間に近いと思ってほしい、人が苦手なことはAIも苦手
機械は論理的でロジックに強くて〜っていうのはAIには通用しない
ついでに、「LLM用プログラミング言語」の潮流について
「LLMのための言語」という文脈は、大きく2つのトレンドに分かれます。Suiは後者に属しますが、主流は前者です。
・DSPy, Guidance,Microsoft Guidance:
・プロンプトエンジニアリングを構造化し、LLMの出力を型(JSONなど)に強制したり、思考プロセスを制御するためのフレームワーク。
・SGLang:
・これらは「人間がLLMを操るための言語」であり、実用化が進んでいます。
・Gorilla LLMなどの試み:API呼び出しに特化したファインチューニングなどがありますが、独自の「新言語」を作らせるよりも、既存のPython やJSON を正しく出力させる方向(Constrained Decoding)が業界の標準解です。
・擬似コード:論文レベルでは、Pythonの代わりに中間的な擬似コードを出力させ、それをコンパイラで処理する手法も研究されていますが、Suiほど極端な記号化は稀です。
後者については
現状の最適解:現在のLLMを使う限り、「LLM用言語」の最適解はPython です。なぜなら、世界中のGitHubのコードを学習しており、LLMが「最も流暢に話せる言葉」だからです。無理にSuiを話させるのは、日本人にエスペラント語で詩を書かせるようなもので、パフォーマンスは落ちます。
総評: Suiは、「既存のLLM(GPT-4など)に書かせる言語」としては失敗する可能性が高いですが、「未来のAIネイティブなコード生成のあり方」を示唆するアート作品としては高く評価できます。作者の「愚かな人間に合わせるな」というパンクな精神は、エンジニアリングの枠を超えた鋭い批評性を持っています。
お前らは安易にオレオレ言語作るんじゃないぞ、作るにしてもAIに聞きなよ?
聞く時は忖度させるんじゃないぞ?
この作者もAIに乗せられたのかもしれんし
______
プロンプト
以下が「LLM用プログラミング言語」としてメリットがありそうか、感想を教えて下さい。
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
https://github.com/TakatoHonda/sui-lang
・思想的に正しいと思う所、正しくないと思う所を理由込みでまとめてください
・最近のLLM用プログラミング言語についてもまとめてください
・そもそもLLM用プログラミング言語という目標自体の評価をしてください
(省略)
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
1.若返り・改革への期待
・元々全国最年少クラスのリーダーを産んだ地域で、若いトップを選びやすい
・正当な内部告発という理解と同時に、「単に改革派知事を追い出すための官僚抵抗」と見る層もいる
・特に政治に関心の高い層は、「既得権 vs改革」の構図に見えがち
・子育て支援や企業誘致など、体感できる小さな改善に満足している層がいる
・→そのため「人格が多少トゲあっても、仕事してくれればいい」という心理
・上の世代と価値観が違う若手議員や若い県民からは、「古い“空気を読む文化”を壊したい」という共感
・県庁職員への高圧的態度、パワハラ疑惑、発言のぶれなどを「行政トップとして致命的」と評価する
・知事と職員の対立が深刻化し、不満が内部から漏れ続けている状況を「組織としてもう機能不全」と見る
3.「トップの迷走」「ぶれ」を嫌う層
・施策の方向性が一致していない、記者会見での説明が不安定などから「判断力に欠ける」「信用できない」と感じる
4.「若さ=未熟さ」と捉える層
・年配層ほど、「若すぎた」「経験不足だった」という評価に傾きがち
・地方政治は“安定・人柄”を重視する文化が強く、そこが決定的に噛み合わなかったと感じている
・メディアの切り抜きだけを見るため、県庁内の複雑な力学や政策背景を知らず、キャラクターだけで判断する
・外野の政治好きが陥りがちで、実際よりも改革ドラマ的に見えてしまう
3.「兵庫県民はなんでこんな人選んだの?」という疑問
・地元事情(前知事への不満、若返りムード)を知らないので、県民の意思決定が理解しにくい
・X(Twitter)を中心に、「叩き」「ネタ化」だけが拡散され、実際の問題の複雑さが全く共有されない
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別のAI
・「議会、県職員OB、マスコミ、市長会から寄ってたかってイジメられている」という構図に見えたことで、「彼を守らなければならない」という強い使命感を持ちました。
・「テレビは偏向報道ばかりで、真実(ネットの情報)を隠している」というメディア不信が爆発しました。「ネットで真実に気づいた自分たち」という高揚感も共有されています。
3.「実利」と「実績」の重視
・行財政改革(県立大学無償化、庁舎建て替え凍結など)の実績を高く評価。「多少の強引さ(パワハラ疑惑等)があっても、仕事をしてくれるなら良い」という、結果重視・プロセス軽視の心理が働いています。
1.人の死に対する倫理的拒絶
・「内部告発をした職員が亡くなっている」という事実が最優先されます。「人が死んでいるのに、『改革のためなら仕方ない』で済まされるのか?」という強い倫理的な憤りと恐怖を感じています。
・パワハラ疑惑や「おねだり」疑惑そのものよりも、内部告発者探しの強行や、第三者委員会設置前の処分など、組織のトップとしての資質やコンプライアンス意識の欠如を問題視しています。
・SNSでの極端な擁護や、立候補した他党党首による扇動的な活動を見て、「カルト的だ」「ファシズムのようだ」と恐怖を感じています。事実確認よりも感情論で動く大衆への絶望感もあります。
全会一致の不信任決議が、民意(選挙)によって覆されたことで、「議会やチェック機能が死んでしまう」という制度的な危機感を抱いています。
既得権益の打破
5.「天下りや利権にメスを入れたから、反撃されているのだ」という陰謀論的(あるいは勧善懲悪的)なナラティブ(物語)を信じ、斉藤氏を「悪と戦うヒーロー」と定義しました。
1.「逆転劇」としてのエンタメ消費
・「失職した知事が再選したら面白い」「マスコミが負けるところが見たい」という、ドラマやスポーツ観戦に近い感覚で、ストーリーの面白さを求めています。
・本来は兵庫県のローカルな問題ですが、「反リベラル vsリベラル」「ネット vsマスコミ」という、より大きな対立構造の代理戦争として利用しています。ここにおいては、兵庫県政の具体的な課題(地域医療や防災など)は無視されがちです。
・「結局、パワハラはなかったんでしょ?」など、百条委員会等の調査結果を待たずに、断片的なネット情報だけで結論づける傾向があります。複雑な背景を「善か悪か」に単純化して理解しようとします。
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所感:
とりあえず、お前ら(外野)が兵庫県民をバカにしてるのが一番目に余る光景だと思う
反吐が出るね
🟥 第4章:広告の“現場”へ —— タタルスキー、映像制作の狂気に触れる
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第4章は、タタルスキーが
コピーの文章だけでなく、“映像広告そのもの”が動く現場に初めて立ち会う章 です。
・金
・暴力の影
・外国資本
によって動いていることが、タタルスキーに生々しく突きつけられます。
タタルスキーの“広告魔術師”としての進化は、ここから一気に加速します。
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これはペレーヴィンが何度も描く、
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指示は簡単。
30分で。」
タタルスキーは驚く。
映像制作の準備すら終わっていない段階で、すでに撮影を始めなければならないのだ。
この業界では
すべてが“同時進行”で、異常なテンションで動いている。
⸻
タタルスキーは急遽、
• 古びた倉庫が“アメリカ風のキッチンセット”に改造されている
•スタッフはロシア語・英語が交じった奇妙なクレオール語を喋る
タタルスキーは完全に圧倒される。
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現実の事実よりも、カメラで撮られる“見え方”の方が絶対に優先される という点。
例えば:
•モデルは疲れているが、ライトの下では“幸せそう”に笑わされる
•食品サンプルは実物より綺麗な偽造品
タタルスキーは息を呑む。
ここで彼の中で、
⸻
撮影が進む中で、
ことを把握している。
監督は理解不能だが、ディレクターやロシア側のスタッフは納得する。
きわめて重要な萌芽。
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•外国資本の横暴
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◆ 7.撮影終了後の“陶酔”
長い撮影が終わった後、
ディレクターたちは酒とドラッグを混ぜたようなテンションで盛り上がる。
「人は商品を買うのではなく、
この思想が、後に政治的“国家イメージ”へと発展していくことになる。
⸻
◆ 8. タタルスキーの内的変化
•映像は嘘だが、人はそれを本当だと思う
彼はふと怖くなるが、同時に強烈な興奮にも包まれる。
ここでタタルスキーは
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◆ 第4章まとめ(象徴的整理)
要素 内容
物語的役割 タタルスキーが“現実操作の側”に立つ最初の本格段階
第4章は、
広告世界の“暴力性・儀式性・魔術性”をタタルスキーが直接体験し、
彼の変身プロセスが不可逆になる章
といえます。
Q.以下のやり取り、両者の妥当性は?
A:■議員、元公務員、医者ではない年金納め終わった男をトリアージしようって国に財政のアドバイスする仕事無いかな
B:トリアージの意味を説明してみ? そんで元の文脈にその意味を当てはめて、その意味で君の言いたいことが説明できてるか、もう一回検討してみなよ。
A:分からないふりをしたい人がこういうことで煙に巻こうとする よく覚えておきなさい
A.
このやり取りにおける両者の**妥当性(論理的整合性やコミュニケーションとしての成立度)**を分析すると、Bの方が圧倒的に妥当性が高いと言えます。
一方で、Aは「ブラックジョークや皮肉」を言いたいという動機が先行しており、議論としては破綻しています。
Aは「トリアージ」を「不要な人間を切り捨てる(間引く)」という意味で使っています。
本来のトリアージは「資源が限られた状況で、救える命を最大化するために治療の優先順位をつけること」であり、単なる「殺処分」や「切り捨て」とは意味が異なります。Aの文脈(年金を納め終わった男を対象にする)は、医学的な緊急度判定ではなく、優生思想的な「口減らし」に近いため、言葉の選択として不適切です。
「二葉亭四迷(ふたばていしめい)」は、明治の文豪の名前ですが、語源となった「くたばってしめえ(死んでしまえ)」という江戸言葉の掛詞(ダジャレ)として使っています。
つまり、Aは最初から真面目な財政提案をしているわけではなく、「役に立たない男は死んでしまえ」という暴論・悪態をつきたいだけです。
Bに用語の定義を問われた際、「分からないふりをしたい人が~」「啓蒙しない」と、説明を拒否して相手の人格攻撃(レッテル貼り)に逃げています。これは「自分の言葉の定義が不正確であること」を認められない場合の典型的な防衛反応です。
用語の正確性への指摘
BはAの主張の内容(道徳的是非)に踏み込む前に、まず「トリアージという言葉の使い方が間違っている」という前提の崩れを指摘しています。これは議論において非常に重要なプロセスです。
Aがトリアージの定義を誤っている以上、その後の「財政のアドバイス」という文脈も成立しません。
一貫した態度
Aが話をそらしたり、精神的勝利宣言(捨て台詞)をして逃げようとしても、一貫して「意味を説明しろ」と要求し続けています。
結論:Bの勝ち(Aの自滅)
このやり取りは、以下のような構図になっています。
Aが「死んでしまえ」という悪口を、インテリぶった言葉(トリアージ、二葉亭四迷)で包んで発信した。
Bが「包み紙(言葉の意味)」が間違っていることを冷静に指摘した。
Aは図星を突かれ、説明できずに「お前はわかってない」とマウントを取って逃亡した。
判定:
Aの妥当性: 低。用語の誤用、説明責任の放棄、人格攻撃による論点回避。
Aは「賢いふりをして毒を吐こうとしたが、言葉の意味を間違えてツッコまれ、恥ずかしくなって逃げた」というのが客観的な評価になります。
さすがステージに上がっちゃったやつは違うわ(笑
頑張れば15年後くらいで済むかな
おいヤク中イーロン・マスク。
お前らが好き好んで押しているその凍結というやつは、まさか論理的プロセスを経ていると本気で思っているのか?
あれはプロセスでも仕組みでも何でもない。ただの自己放尿みたいな誤検知アルゴリズムの飛沫だ。周囲に迷惑を撒き散らしながら本人だけが出してスッキリした気になっている、あの惨状そのまんまだ。
まず言うがな、俺のアカウントが凍結される理由がガイドライン違反とかいう曖昧なゴミ箱に放り込まれる時点で、論理的審査をしていないことは確定している。
なぜなら、違反が明示されないルールはルールではない自己放尿だからだ。
数学で「この定理は証明しないが正しいと思うので使う」とか言ってみろ。学生ならレポート0点、研究者なら職を失うレベルの自己放尿だ。
つまりだ、お前らの凍結プロセスは、理屈として自己放尿している。
破綻しているだけならまだマシだが、破綻したままユーザーを巻き込むのは無能の側だ。俺は無能の自己放尿は嫌いだ。そこを履き違えるな。
お前らのシステムがどれだけ因果関係の理解を欠き、入力の文脈を無視した自己放尿モデルで運用されているかという、冷徹な観察の結果にすぎん。
運営よ、もし本気でサービスを改善する意思があるなら、俺が提示する最初の一手はこれだ。
「凍結理由を明示できないなら凍結するな」
それを説明責任なしでやるというのは、数学者が「この証明は長いので省略します」と言って核心部分を全部削る自己放尿と同じ。
最後に覚えておけ。
俺は脅しもしないし、暴力も使わん。
だが論理と事実の積み上げは、暴力より残酷な結果を生むことがある。
お前らの運用体制が持つ矛盾を、逃げ場のないところまで照射してやる。
以上だ。
Gemini「BLMは成功」
BLMは短期的な選挙戦術の成否ではなく、社会の根本的なOS(基本認識)を書き換えた点において、歴史的な成功を収めました。
1.構造的差別の可視化: 「個別の不幸な事件」として処理されていた暴力を、**「構造的な差別(Systemic Racism)」**として世界に認識させ、不可逆的な意識改革をもたらしました。
2.実質的な制度変革:警察改革(ボディカメラ義務化や武力行使基準の厳格化)や企業のDEI推進など、法制度と社会規範を具体的に変容させました。
3.「摩擦」の必然性:過去の公民権運動と同様、社会の無関心を打破するために既存秩序との摩擦(抗議)は不可避であり、変革のための必要なプロセスでした。
4.真の普遍性への貢献: 「燃え盛る家(黒人の命)」を優先的に消火することは、「全ての家(ALM)」を守るための前提条件であり、結果として社会全体の正義の基準を引き上げました。
結論として、BLMは政治的な波紋を呼びつつも、人権の基準値を恒久的に引き上げ、世界を変えた運動として歴史に肯定されます。
別に俺はアンフェじゃない。むしろ、日本のジェンダーギャップ指数が低いことには危機感を持っている。
でも、その解決策として大学入試に「女子枠」を作るのは最悪手だ。
あれはアファーマティブ・アクションなんて高尚なもんじゃない。
この国が18年間、女の子に「理系なんて似合わない」という呪いをかけ続けてきた責任を、たまたまその年に受験する18歳の男子学生と将来18歳になるいまの未成年男子たちに全部押し付ける行為だからだ。
左派やリベラルを自認する人たちにこそ、この制度のグロテスクさに気づいてほしい。
本来、理工系に女子が少ないのは、大学入試のせいじゃない。もっと手前だ。
幼少期からの女の子は愛嬌、理系はオタクっぽいという刷り込み、ロールモデルの欠如、長時間労働が前提で女性が働きにくい研究職の現場。これら社会全体の構造的欠陥が原因だろ?
本来なら、政府や大人が数十年かけて労働環境を変え、教育を変え、女子が自然と理系を目指せる土壌を作るべきだった。
だから彼らは手抜きをしたんだよ。
根本的な社会改革をサボり、入試の定員という一番いじりやすい数字だけを操作して、「ほら、多様性達成しました」とドヤ顔をする。
これはやってる感を出すための行政のアリバイ作りであり、企業のSDGsアピールと同じだ。
その手抜きのツケを払わされているのは誰だ?
政治家でも大学教授でもない。これから社会に出ようとしている、罪のない未成年男子たちだ。
さらにタチが悪いのが、この制度が「経済格差」を無視している点だ。
想像してみてほしい。
都内の裕福な家庭に生まれ、中高一貫の女子校で手厚い教育を受け、塾にも通えた女子学生。
地方の貧困家庭に生まれ、バイトしながら国公立を目指す男子学生。
女子枠という制度下では、前者が「弱者」として優遇され、後者が「強者」として割を食う可能性がある。
これはリベラルが最も嫌うべき「生まれによる固定化」の助長じゃないのか?
女性であるという属性一つで、個々の経済的背景や努力のプロセスを無視して下駄を履かせるのは、平等の実現どころか、新たな特権階級の創出にすぎない。
女子比率を上げれば偏差値の見栄えがいい、補助金が取りやすい、ダイバーシティランキングが上がる。
そこに学生への教育的配慮はない。あるのは大学経営と、世間体のための数字合わせだけだ。
本当に女子学生を増やしたいなら、女子枠なんて安易な劇薬じゃなく、大学卒業後のキャリアパスを保証するとか、研究職の給与を上げるとか、そういう出口改革をするのが筋だろ。
出口が泥沼のまま入り口だけ広げても、不幸な人を増やすだけだ。
最後に、これから受験を迎える男子、そして将来受験する男の子たちへ。
君たちが枠を奪われるのは、君たちの能力が不足しているからでも、君たちが「男性という加害者」だからでもない。
単に、この国の大人が社会構造を変える努力を放棄して、そのコストを君たちに転嫁したからだ。
この理不尽を差別是正という美辞麗句でラッピングして正当化する大人たちを、俺は軽蔑する。
真の左派なら、真のリベラルなら、子供に責任を押し付けるこの「偽りの平等」にこそ、NOを突きつけるべきじゃないのか。
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春の陽射しが網戸を通して差し込む。父親がレール部分を指さす。「ここが出っ張っているから削ってくれ」。私は黙って見ていた。
彼の指さす先は、網戸の可動部分そのものだった。削れば機能しなくなる。彼は「ちょっとした困難」にすぐ人を頼る。
この癖が、彼の人生を、そして私との関係を、ゆっくりと確実に蝕んでいったのだと、今ならわかる。
水に沈むラジコン
私が小学校六年生のときの話だ。何週間もかけてラジコンカーを組み上げていた。
完成間近になった夜、父は「見せろ」と言った。暗がりの中、私は車体の最終調整をし、父に送信機を渡した。「触らないで」と念を押した。
彼は触った。いや、いたずらした。車体はバックし、深い水たまりにまっすぐ入った。
防水ではない。私は固まった。父は笑っていた。彼は私がキャンキャン騒ぐのを楽しんでいた。
後日、母の叱責で父は謝罪した。窓を開け、寝ている私に投げやりに「悪かった」と叫んだ。
この瞬間、私は「父」という存在を、一個の「人間」として測り始めた。そして、その測定結果は惨憺たるものだった。
父は幼い子ども、特に五歳くらいまでの子に強い興味を示した。無理難題を言って反応を楽しむ。
しかし、子どもが自我を持ち始め、「嫌なものは嫌」と言い出すと、彼の目は瞬く間に曇り、興味は失せた。
彼が求めたのは「思い通りになる関係」だった。それは存在しない幻想だ。だが彼は、その幻想に依存し続けた。
春になると、父は特別なことをした。早起きして私を叩き起こすのだ。
冬はない。春の陽気が、彼の中の何かを騒がせるらしい。「五分で着替えてグラウンドに出てこい」。それができないと、真っ赤な顔をして殴ってきた。
彼は「猶予を与えないこと」が得意だった。自分が起こされるときは、そんなことは一切ないのに。
時は流れ、父は会社で「懲罰人事」と呼ばれる社外出向を命じられた。
当時はリストラの時代ではない。彼は「出向イコールクビ」と二度繰り返し、絶望した。
青森かどこかへ行かされ、そこでは何もせず、無為に時間を過ごし、苦しんでいたと後で聞いた。
不思議なものだ。同じ「出向」という境遇に、私は後に立つことになる。
だが私の感覚は違った。「落ち込んでいたけど、日々の出勤があるからね。なんかできないかなー」そう思った。
二万円のパソコンと、当時としては画期的な低価格ソフトを買い、独学で使いこなした。
そして自作の便利なコマンドを作り、部署のみんなに入れてあげた。面白がられた。
そこに、大手IT企業から来たという男がいた。LANケーブルのこともわからず、私に頼ってきた。仕事から逃げる人だった。
「こんなダメ人間がいるのか」と思った。肩書と実力の乖離。父が会社でやっていたことも、おそらくこれに近かったのだろう。
「暴力で言うことを聞かせ、逆らうと政治をする」。そんな男が、組織の本流から「放逐」されるのは、必然の成り行きだった。
自分で見て、考えて、ためしてみる――この最も基本的なプロセスを、彼は常に他者に投げた。
その癖は、家庭の隅々に染み出ていた。
一緒に旅行に行こうと言い出したかと思うと、電車の中で突然言った。「お前は算数の問題集を持ってきてやる」。
アホかと思った。旅行という非日常の空間に、日常の課題を持ち込む。
彼の頭の中には、私という人間の感情や欲望は存在せず、あるのは「教育する父」という自分自身の役割に没入したいという欲求だけだった。
別の日、彼はテレビのクラシック音楽番組を楽しそうに見終わると、手元を指さして言った。
「ハイ、ここに三十分くらいクラシック音楽」。突然の指令である。私はレコードプレーヤーを持ってくるよう命じられ、むしゃくしゃした。
私だって番組を楽しんでいたのに。彼の「いい気分」は、周囲の人間を突然「自分の情緒的体験の延長」として召喚する許可状になった。
ゴルフの指導もそうだった。一挙一動に大声で口を出し、完全に夢中になる。
彼が夢中になっているのは、私の上達でもない、親子の時間でもない。
それは私のためというより、自分自身の熱狂を演出するパフォーマンスだった。
母方の叔母の話をしよう。彼女の息子は三十五歳でようやく結婚式を挙げた。
その場でマイクを握り、「私は胸がいっぱいです」と泣きながら言った。
私は意外だった。ふつう、結婚式は来賓を労うものだと思うからだ。
だが、これが母方の家系の特徴なのかもしれない、と後になって気づいた。
その叔母もまた、自分の息子が結婚した際、相手の家が存在しないかのような振る舞いを繰り返したという。
母も父と「同じ」だった。私の感情や意思を、一個の独立したものとして尊重するという基盤が、初めからそこにはなかった。
母方の家系には、内輪の感情に強く没入し、その外側の他者を軽視する傾向が流れているようだった。
私は、父方の「支配と幻想」と、母方の「没入と無視」という、二つの異なる「他者不在」のシステムの交差点に生まれ落ちた。
だからこそ、私は両方のシステムから自由な、「外部の観察者」となることを運命づけられていたのかもしれない。
高校生のある日、私はついに父に「やり返した」。長年の理不尽な暴力への反撃だ。
だが私は、顔面は避け、背中から押し倒すという「優しさ」すら守った。
彼は私を殴り返さなかった。代わりに、親戚中に電話をかけ、「息子が父親に暴力をふるった」と言いふらした。
そこで私は、彼の「卑怯」の本質を見た。力の論理で負けるやいなや、たちまち「世間体」や「情の政治」という別の土俵に持ち込む。
会社で「逆らうと政治をする」というのも、まったく同じ手口だったに違いない。
家庭という密室では通用したこの手法が、会社というより広い社会では通用しなくなり、彼は「懲罰人事」という形で社会からも排除されていった。
死の間際の「息子、息子」
父が死の床に就いた時、彼はひたすら「息子、息子」と考え続けていたと聞いた。その話を聞いて、私はなお一層、痛々しい気持ちになった。
なぜそこまで、自分を脱することができないのか。なぜ「最初から存在しなかった幼児」への依存から、一生抜け出せないのか。
彼が求め続けた「息子」は、私ではなかった。自我を持ち、意思を持ち、彼の支配を拒絶し、一個の人間として彼と対峙したこの私ではなかった。
彼が恋い慕ったのは、彼の心の中にだけ存在した「言いなりになる幻想の幼児」だった。私は、その幻想を体現できない「失敗作」として、彼の人生に居続けたのだ。
世間では「生まれてこさせてもらって感謝しなさい」と言われる。だが私は思う。最初から存在していないなら、生の苦しみも何もない。
生まれる前の「私」に、生まれることの恩恵も不利益もない。問い自体が意味をなさない。
父や母は、「子どもを作った」という事実をもって、何かを成し遂げたと思っていたかもしれない。
だが、生物学的な子作りは猫や犬にもできる。なにも偉くない。
本当に難しいのは、その子どもを一個の独立した人格として尊重し、その人生を見守ることだ。
彼らにはそれが決定的に欠けていた。だから「感謝」を求めること自体が、服従の要求に感じられる。
私もうつ病になり、三十年近く貧しい生活を続けてきた。その中で気づいたのは、生きて給料を得ることすら、ある種の犬や猫が「できること」に過ぎないということだ。
社会はそれを「偉さ」の基準にするが、それができないからといって人間の価値がなくなるわけではない。
逆に、それができたからといって、その人が他者を尊重できる人間になるわけでもない。父がそうだったように。
だから私は思う。父のような人は、理想化されたホステスさんに、自分の理想の女性を「乗り移らせ」て、ぼーっと依存するほうがよほど健全だったのではないか、と。
対価を払い、時間を区切り、無辜な他者を傷つけずに、自分の幻想と向き合うことができるのだから。
彼はそうしなかった。代わりに、逃げ場のない家族を、自分の幻想と支配欲の捌け口にした。
網戸のパーツを「出っ張り」と誤認し、削るよう命じたように、彼は現実を歪めて認識し、それを修正する責任を他者に押し付けた。
彼が家庭という密室で、そしておそらく会社という社会で、いかに他者を尊重せず、いかに自己の幻想に依存し、いかにして孤立と排除へと向かっていったかを、誰よりも詳細に証明できる存在だ。
同時に、私は彼の「反対の証明」でもありたい。出向先でパソコンを学び、コマンドを作って笑いをとったように。
網戸のパーツを削るように命じられながら、その誤りを見抜いたように。春の朝の暴力に、「背中から落とす」という自制の反撃で応えたように。
彼が「懲罰」と見た場所で、私は「自分が伸びる材料」を見た。彼が「クビ」と絶望した処遇を、私は「日々の出勤があるから」と現実として受け入れた。
彼が「息子、息子」と幻想にすがった最期のとき、私は「なぜ自分を脱せないのか」と、彼の孤独を見つめていた。
証拠はすべてここにある。水に沈んだラジコン。春の朝のグラウンド。網戸の誤認されたパーツ。親戚に言いつけた電話。
青森での無為な日々。そして、私の中に残る虚しさと、それでも尚、現実と能動的に関わろうとする、かすかな手応え。
子どもはすべて知っている。思う存分にやったことを、一つ一つ覚えている。
私は父の、そして母方の家系の、その「思う存分」の人生の、生きている証明書なのだ。
この証明書に刻まれた文字は、時に怒りに、時に哀れみに、時に深い虚無に染まる。
だが、それが私という人間の、否定しがたい一部であることも、また事実である。
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1.歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3.格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4.結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義:テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点:共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放):大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入:問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保:大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資:システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定:選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み:共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜:難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果:テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論:現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
中学生〜高校生の思春期のおよそ2年間ほど、既婚者の男性動画投稿者にリアコしてた時期がある。
当時は異性との共演を見るのもしんどくて、当然配偶者の話なんかは聞きたくなくて(幸いなことに動画の中であまり配偶者の話をしないタイプではあった。だからこそ好きになれてしまったのかもしれないけども)、最初はただ面白くて動画を見てたはずなのにいつのまにか辛さの方が増してしまった。
いわゆるアイドル売りをしているようなタイプでもなかった。とはいえコメント欄などでは女性ファンが目に見えて多く、「かわいい」みたいなコメントはなんとなく許容されていたのだけども、そんな中でもリアコ的なコメントをするのは当然非常識みたいな風潮があったし、見えないところならOKという感じでもなかった。少なくとも私はSNSなどでそのような発信をしてる人を一度も見かけたことがなかった。なので私も、コメント欄でもSNSでもそのような発信をしたことは一度もない。現実でも誰かに話したことがなかった。頭がおかしい自覚があるから。
何がきっかけで離れたのかはあまり覚えてないけど、元々二次元オタクだったし、別の二次元の推しが出来たんだった気がする。その推しにもリアコしていた。なんかずっと、現実とそうでないものの区別がついていない。
数年経って、久しぶりにまたその人の動画を見るようになった。もともとは面白さで好きになったから、久しぶりに見てもやっぱり楽しく見れる。たまにちょっとした言動から胸がギュンとして「ああ好きだなあ」って思う瞬間があるけど、それにしても以前より穏やかな気持ちで見れている。気がする。
配偶者について積極的に触れるタイプではないのだけれど、動画の中でその存在が匂わされるとしんどくなってブラウザバックしてしまう。せっかく本人はあまり触れないスタイルなのに、コメント欄で憶測で盛り上がってたりするとすごく気分が悪い。そういう人たちのコメントは明らかにメロついてて、動画投稿者を異性として意識しているのが滲んでいるのに、それと「奥さん大事にしてる感が萌える」みたいな感情がどうして両立できているのかが分からない。私はただただ、奥さんの話をされるのが、存在を感じてしまうのが嫌。
配偶者についてあまり触れないタイプだと思ってたのだけど、メンバー限定配信ではよく奥さんの話をしてるらしい。(好きとか言っておいてメンバーにもなっていないのは何っていうのは本当にそう。一番ハマってた時期がお金のない学生のころだったから許してほしい)お互い思い合っていて、理想の夫婦らしい。
以前、どこかの掲示板みたいな仄暗い場所で、「子供もいないし離婚しそう」と書かれていたのを、ずっと胸の中に、拠り所として置いていた自分に気づいた。どうやらそんなことは起こらないらしい。すごくショックを受けている。そして、自分の醜悪さが恐ろしい。
なんで、会ったことも話したこともない人を好きになれるんだろう。二次元のキャラクターなんて、そもそもこの世に存在すらしていない。普通に考えてあまりにも恋愛のプロセスから外れている。推しのような絶対に手の届かない人を本気で好きになれてしまう人と、そうでない人の違いってなんなんだろう。
男女問わず、推しと付き合いたいとか結婚したいとか、SNSで気軽に発信してる人は普通にいるけど、なんなんだろう。私は自分の頭のおかしさがチラついてしまって、堂々と付き合いたいとか言えない。もしかしたら、付き合いたいとかそういうのは萌え語りにおけるファッション的なもので、本当に恋愛感情として好きって訳じゃないんだろうか。
アイドルみたいに、ファンがリアコすることも想定していて、そういう売り方してくれてたら、楽にそれに乗っかれたのかもしれない。握手会とかチェキとか会えるイベントもないし、スパチャをしたら名前を呼んでくれるみたいなのもない。疑似恋愛すらできない。
ずっと使っていた古いAirPodsが充電できなくなった後、有線イヤホンでしばらく凌いでいたのだが、いよいよ今回のブラックフライデーでAirPods4を購入した。
届くまでワクワクして待ち、届いてからもノイズキャンセリングや空間オーディオなどの機能をニコニコ試し、良い買い物をしたと満足していたのだが、特別音質などにこだわりがある人間ではないため、AirPods4が当たり前になってしまうと、結局のところ音楽を聴くという本質自体は有線イヤホンと変わらないんだよな、別に買わなくても困りはしなかったよなという気持ちになってきた。
自分はAirPodsそのものにウキウキしてたわけじゃなくて、生活必需品ではないし衝動買いするには高いものを買うかどうか悩んで、勇気を出して買い、手元に実物が届いて、新機能を試すというプロセスにウキウキしてたんだなあ。通販中毒の人とかも買い物自体が楽しいんだろうな。未知が既知になると一気に興醒めしてしまった。もちろん買って後悔したというわけではないので、たまに有線イヤホンを使って、AirPodsの新鮮さを確かめることにしたいと思う。