
はてなキーワード:チマチョゴリとは
これ知らないやつ多いんだな
韓国ドラマでは、床に座った女性が片膝を立てて食事をしているシーンが出てくることがあります。
これは日本人の目には行儀が悪い行為、マナー違反に見えてしまいますね。
実は韓国で女性が片膝を立てて座るのは、韓服(チマチョゴリ)を美しく見せる姿勢だからという理由があるんです。
片膝を立てることで、韓服の裾がふわりと広がって美しく見えるんです。
その時代の名残が今でも残っているんですね。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e6739b2fdce7fb34e91137b30d38a9c603610d14
「佐藤」とかそういう感じの平凡な名字で生まれた。分かりやすいように「佐藤(仮)」とする。
日本人と外国人が結婚しても名字は変わらない。夫婦同氏は日本人同士の場合だけだ。
私はこれまで通りの日本の氏名で生活してきた。むしろ夫が通称名として「佐藤」を名乗るようになった。生まれた娘の戸籍名も「佐藤」である。
29歳の時に夫が帰化した。
在日韓国人が帰化をしたら名字は自由に決めれる。夫は帰化後の名字に「朴」を選択した。
帰化をしたら日本人同士の夫婦になるので、同じ苗字を名乗らなければならない。
夫と相談をした。私は戸籍上の名字が「朴」になっても、私と娘は夫が今まで使ってきたように通称名で「佐藤」が使えると思いこんでいた。不安はあったが、夫の意思を尊重したいと思った。
私は朴になった。
想像以上に辛かった。
学生時代、在日コリアンの人がクラスメートにいた。日本名を通称で使っていたので在日コリアンであることを知らず、成人式で再会してその子がチマチョゴリを着てるのを見て初めて知ったくらいだ。
だから「佐藤」を通称名で使えると思っていた。しかし、この「通称名」制度は日本国籍の人には適応されない。
在日韓国人の「朴さん」は住民票に通称名「佐藤」を登録できるが、日本人の「朴さん」は通称名「佐藤」を使えない。ただ、旧姓併記の制度があるので、旧姓として佐藤を登録はできる。でも旧姓はあくまで旧姓。
まず日本人だと思ってもらえない。
外国人と日本人が結婚した場合、婚姻届を出すだけで名字は変わらないが、届出をすれば名字を変更できる。しかし在日コリアンと結婚した日本人女性は、ほとんど名字を変更しない。
もし夫がアメリカ人で私が「スミス花子」なら「国際結婚ですか?」と聞かれるが、「朴花子」の場合は「在日コリアンですか?」となる。
可哀想なのが娘である。親の都合で佐藤から朴として生きていくことになった。
通常は片親が日本人なら日本の名字になるはずなので、朴の娘は両親とも在日コリアンだと思われている。そして日本国籍なので通称名で佐藤を名乗れない。
娘のクラスメートには在日中国人がいるが、その子は通称名で「張本」みたいな感じの日本名を名乗ってる。娘は日本人なのに朴。
正直、朴として生きていくことがこんなに辛いと思わなかった。差別よりも、自分の日本人としてのアイデンティティを奪われてる感じが辛いんよ。
Permalink |記事への反応(61) | 23:23
ドイツに日本が勝って日本は大喜びのようだけど、そのせいでドイツ国内での日本車の売上が急落してるって聞いた。
一時の日本国民の快楽のために生活の基盤となる経済が揺らぐの、どう考えても割に合わないでしょう。もしこの先日韓戦になって日本が勝とうもんなら韓国市場で日本製品不買運動が起こるだろうし、逆に韓国が勝ったら日本では嫌韓ムードが高まって韓国雑貨店なんかは売上急落するだろう。下手したらまたチマチョゴリの制服が切られるかもしれない。
理性による感情のコントロールのレベルが低すぎる人類にとって、W杯という麻薬は強力すぎるんだわ。そのうちW杯の試合結果がきっかけとなった核戦争が起こるのではと危惧している。
ひとつ前向きな仮説として「現在の信者が過度なバッシングを受けることを避けるため」があると思う。
井戸に毒までじゃないけど、下手をすればチマチョゴリ切り裂きやウトロ地区放火みたいなことになるかもしれない。今はネットがあるから黙っていてもいつかはバレるのだけど、せめて大手報道くらいはいろいろ伏せようとしているという説。
もうひとつどうしようもない仮説は「政府は勿論のこと既にマスコミその他いろんなところに入り込んでいる」という説。報道できないのではなく、しないだけ。
単なる圧力ではなく、マスコミですら内側からじわじわ変革を狙っているのかもしれない。そうなるとちょっとやそっとではどうにもならないし、元々を考えると規制とかして何とかなるものでもないし、真面目に追い出すなら自衛隊を憲法に明記して内戦レベルの洗い出しまで必要になるかもしれない。どっちにしろ、この先ろくでもない事件がまだ起こるだろうと思う。
個人という単位で見ると、たとえば、安倍晋三は元内閣総理大臣であり衆議院議員であり有力な政治家という強者の側面と、同時に潰瘍性大腸炎の患者であり子供がいないという弱者の側面がある。
集団という単位で見ると、たとえば、男性の外国人は、男性と言うマジョリティという側面と、同時に外国人であるというマイノリティの側面がある。
表象という単位で見ると、たとえば、7枝の燭台は、パレスチナを強権的に支配するユダヤの象徴と言う側面と、同時にヨーロッパの反ユダヤ主義に迫害されたユダヤの象徴という側面がある。
今話題の大阪府のガイドラインについて考えた時に、問題になるのは、このインターセクショナリティである。
萌えキャラという表象は、文化的なマイノリティであるオタクの象徴という側面と、同時に女性のステロタイプ表現という側面があり、これが一体不可分であるがゆえに、これほど問題になるのである。
もともと、漫画やイラストの表現、あるいは萌え表現と言うのは、記号的な表現であり、記号とはステロタイプ表現である以上、イラストや萌え表現はステロタイプ的な要素を無くすことは不可能である。また、一枚のイラストで多様な人格を描くこともほぼ不可能だろう。仮に、裏で設定したところで、そんなのはぱっと見どうでもいい話である。
id:tikani_nemuru_M公共広告は好き嫌いのわかれる演出をしちゃあかんだろ。公共性の高い情報伝達というものは、原則的に全員にとって必要な情報であり、つまりはnot for meが許されない世界なんだから。
軋轢を生まないために、"not for meが許されない"ということになると、サントリーが水原希子を起用したことに、ネトウヨが激怒した件を批判できなくなる。
水原希子は人であって、表現様式やキャラクターではないというならば、チマチョゴリのような民族衣装だったらどうだろうか。民族の表象を好まない人がいるからと言って予め排除することができないならば、同じように文化集団の表象も好まない人がいるからといって予め排除することは妥当ではないということになるだろう。