
はてなキーワード:ならず者とは
・加害する前に「お前表出ろ!」的な予告やコミュニケーションがない。武士の「やあやあ我こそは」的なそれが平成不良には全く欠落していた
・不良のなかで、自分らならず者たちの世界と非不良連中との世界との間に境界線がない。
それゆえに平成不良は見ず知らずの女性や子供や老人や障害者や街の小動物さえも当たり前に加害の対象だった
・加害行動が単なるレジャー。
平成不良の加害行動にはある種の人格障害的な突飛さがあった(例えば、青色の靴を履いて駅前を歩いている人間がいたら人気のないところへ連れて行ってタコ殴りにする、など。理由は「青色の靴を履いていたから」で、因縁つけるとき、暴行するときに怒って叫んだりとかは一切しない。)。
彼ら昭和50年代生まれ60年代生まれの平成不良を育成した親世代も人格障害揃いだったとか、あるいは現代基準だと極めて異常な子育てをしていたのではと睨んでる。
最近、参政党だの日本保守党だの、威勢のいいこと言ってる連中がいるよな。
「核武装が最も安上がり!」とか、「アメリカにみかじめ料払ってんじゃねえ!」とか、酒場でクダ巻いてるオッサンみたいなこと大声で叫んで、一部の連中から拍手喝采浴びてる。
まあ、景気のいい話は嫌いじゃないけどさ、その威勢の良さ、ただの無知から来てるんだとしたら、笑い話にもならねえよ。
俺たちが「国際社会のルールブック」だと思ってる国連憲章。ここに、とんでもない条文が亡霊みたいに残ってるの、ご存知?
これ、超ざっくり言うと、
第二次世界大戦で俺たち(連合国)の敵だった国、つまり日本とかドイツな。こいつらがまたぞろ「侵略政策の再現」みたいなヤバい動きを見せたら、国連安保理の許可とか待たずに、武力でボコってもOK!
っていう、とんでもない内容なんだわ。
つまり、日本が「核武装するぜ!」とか言って軍備を増強し始めたら、どこかの国が「おいおい、日本が侵略政策を再現しようとしてるぞ!」って言い出して、この条項をタテに軍事行動を起こす、なんてシナリオが法理論上は可能ってこと。
これ、保守派のセンセイ方が大好きな「自立」とか「主権」とかとは、真逆の世界だろ。
もちろん、政府とか外務省の役人は「いやいや、その条項はもう死文化してますからw」って言うよ。1995年の国連総会で「時代遅れだよね」って決議もされたし、心配いりませんって。
でもな、ちょっと待てと。
条文、まだ消えてないんだよ。
なんでかって? この条文を憲章から削除するには、国連加盟国の3分の2の賛成と、安全保障理事会の常任理事国5カ国(アメリカ、イギリス、フランス、そして中国、ロシア)全員の批准が必要だからだ。
わかるか?
中国とロシアがハンコ押さなきゃ、この条文は永久に消えないの。
あいつらが、日本の核武装を容認すると思うか? むしろ、この条項を政治的なカードとして手元に残しておきたいに決まってるだろ。
法的にはバッチリ生きてる条文を「死んでる」と言い張って、国民を騙しながら軍拡に走る。これって、ただの「欺瞞」じゃねえの?
それでも、日本の核武装なんて、現実的に無理ゲーなんだよ。保守派のセンセイ方は、こういう都合の悪い話は絶対にしないけどな。
日本はこの条約に入ってる。非核兵器国として「核兵器は作りません、もらいません」って世界に約束してるわけ。これを破って核武装したらどうなる? あっという間に国際社会の「ならず者」国家認定だよ。経済制裁食らって、今の暮らしが維持できると思ってるなら、相当おめでたい。
「持たず、作らず、持ち込ませず」。唯一の戦争被爆国として、これが日本の国是だろ。安倍さんとか高市さんあたりが「核共有」とか言って「持ち込ませず」を骨抜きにしようとしてるけど、それだけでも大騒ぎになる。ましてや「核武装」なんて言い出したら、国内がひっくり返るわ。
そもそも、日本が戦後平和でいられたのって、アメリカの「核の傘」のおかげじゃん。そのアメリカを差し置いて「自分の核、持ちます!」なんて言い出したら、アメリカはどう思う? 「ああ、もう俺たちのこと信用してないのね。じゃあ、さよなら」って、同盟を解消される可能性だってある。そうなったら、ガチで丸裸。中国、ロシア、北朝鮮に囲まれた極東で、たった一人でサバイブできるとでも?
もし日本が核を持ったら、隣の韓国が黙ってると思うか? 「日本が持つならウチも!」ってなるに決まってる。台湾だって黙っちゃいない。結果、東アジア全体が核地雷原みたいになって、偶発的な戦争のリスクが爆上がりするだけ。
結局、参政党や日本保守党が言ってる「核武装」論なんて、こういうリアルな問題を全部無視した、ただの願望、妄想、ポピュリズムなんだよ。
敵国条項を知らないなら勉強不足で論外。知ってて隠してるなら、国民を騙す悪質な詐欺師だ。
本当にこの国を守りたいなら、威勢のいい空論を叫ぶんじゃなくて、こういう複雑で面倒な現実と向き合うべきだろ。
転売行為そのものが悪ではなく、買い占めによって供給を止めているのが悪い と問題点を指摘する人もいれば
定価以上の値段を付けて販売する行為そのものについて問題視している人もいる
そもそも定価って今は書籍くらいしか存在しないだろ メーカーが出してるのは全部希望小売価格でそれ以上の値段を小売で出す行為は何ら違法ではない(むしろ値段を拘束させるのは独禁法違反になる)
結局さあ 「転売ヤーとかいうならず者が俺たちが必死に稼いだ金を簡単に奪い取って許せない」みたいなルサンチマンを必死に正当化してるだけなんだよ
今時500円でランチ出す町中華を素晴らしいと褒め称え人件費確保のために値上げしたチェーン店に文句を言うような金銭感覚が崩壊したバカがよお
人生が上手くいかない理由を転売ヤーに転嫁してるんじゃねえよこのニート貧乏が!
地球上のすべての主権国家を統合して、一つの統一政府にしたということだよね。
現実世界でそれを実現しようとすると、それだけで世界が崩壊すると思う。
北米や日本、欧州諸国がロシア・中国・インド・イスラム圏といった「ならず者集団」を武力で制圧して統一しなければならない。
当然核兵器の一発や二発、いや絶対それ以上は飛び交うだろうし。
両陣営とも共倒れになって、地球統一どころか北斗の拳の世界になるのでは。
仮に統一できたとしても、宗教や人種問題で分離・独立運動は常に発生するだろう。
アメリカ、ホンダどちらも、相手を助ける義理はなく、利害関係で助けるかどうかを決めているだけである
tach相手の国を侮辱しているのはどっちなんだよ? 自分がやってることを相手がやったとヒステリックに非難するのがトランプの常套手段のように見える。バンスもトランプも反吐が出るような奴らだな。
akutsu-koumi見出しだけ見ればゼレンスキーが侮辱をはたらいたように思えるが、会見を視聴した限りではむしろトランプとヴァンスの方が「支援に対して感謝が足りない」などと、最初からまともに協議するつもりが無いようだった。
turanukimaruトランプの妄想と少しでもずれたことを言うと斬首する暗黒皇帝なるものが現実に存在し得るとは。冒頭では良いディールだったって台本は用意してた様子だったのに。見てて辛くなる会談だった…。
digits_saならず者に襲撃され略奪、侵略行為と戦っている小さな村、その村長が"この世界の保安官"と言い伝えられてきた人物に会いに行ったら"秩序には興味のない狡猾な不動産屋"だった。
このように、ウクライナを助けることが当たり前で、破談になった原因を作ったアメリカが悪のように扱われている.
Fuggi いや内部昇格はありえない。既存役員は全員退任でしょ。業界他社からの出資を仰がないといけない経営状態なんて恥の中の恥だよ。業界全体の逆風でもなく、単純に自社の経営判断の誤りでしか無いんだから。
mlkwホンダが日産に内田をクビにしないと話きかんって言ったんだよ。日産が勘違いして対等な統合とか言ってるから、立場の違いをわからせたということ。
cardmics 「なんでこの俺が頭を下げてまで、そんな仕事をしなくちゃいけないんだ!」ってプライドが邪魔をし、ハロワでなかなか仕事が見つからないオッチャンみたいだわ。プライドじゃ飯は食えないのにね。
kukurukakara “今回の経営統合では日産のリストラの実現が前提条件だったのですが、出てきた案には工場閉鎖などはなく、ホンダ側は“踏み込み不足”ととらえたのです”日産がお願いする立場なのにっていうことなんだろ
繰り返すが、両者に救済する側という圧倒的立場の上の側と、救済される側という下の立場があり
救済される側はお願いして助けを請わないといけない状況であるのに
アメリカは、助けるのが当然。助けないのは失礼。上の立場ということを使用して偉そうに振る舞っていると叩かれ
日産は、助けてもらうならそれなりの態度を取れ、悪いのは日産だ、と叩かれている
お前らの頭の中は、トランプ政権=悪、日産=悪という、二元論しかなく
その善悪で叩く相手を決めており、なぜかウクライナ、ホンダを純粋な被害者と認定している
ウクライナはただの善良な被害者で、日産は自業自得のバカとでも思っているんだろうか
実際にはそんな単純な話でもないのに、どちらかの側を悪認定して叩くことばかりしている
時は西暦3023年。人類は、かつて「アベノミクス」と呼ばれた経済政策によって、一度は破滅の淵から救われたものの、その恩恵は長くは続かなかった。資源は枯渇し、環境は荒廃、人々は食糧と水を求めて彷徨っていた。
かつての繁栄を象徴する高層ビルは、今は朽ち果てた廃墟と化し、人々は地下都市や浮遊都市で細々と暮らしていた。しかし、人々の心には、かつて存在したという「アベノミクス」の果実への憧憬が消えることはなかった。
伝説によれば、アベノミクスによって生み出された「希望の果実」は、どんな傷も癒し、永遠の命をもたらすという。その果実は、かつて繁栄を極めた都市の地下深くに隠されていると言われている。
主人公の少年、アキラは、そんな伝説を信じて生きていた。彼は、荒廃した世界で生き残るために、日々食料や水を集めていた。ある日、彼は地下都市の図書館で、古びた地図を発見する。それは、希望の果実への手がかりが隠された地図だった。
アキラは、危険を顧みず、地図を頼りに地下深くに潜っていく。道中には、果実を求める他の冒険者や、果実を狙うならず者たちが待ち受けていた。数々の試練を乗り越え、ついにアキラは、希望の果実が眠るという洞窟に辿り着く。
しかし、そこには想像を絶する光景が広がっていた。希望の果実は、かつての繁栄を象徴する美しい輝きを失い、枯れ果てていた。その代わりに、洞窟の壁には、過去の記録が刻まれていた。
そこには、アベノミクスがもたらした繁栄の裏側で、人々が抱えていた様々な問題や、その後の衰退の過程が克明に記録されていた。アキラは、希望の果実を求める旅の中で、本当の幸せとは何か、そして人類の未来とは何かについて深く考えさせられる。
洞窟を出たアキラは、もうかつてのように希望の果実を探すことはなかった。彼は、自分たちの力で新たな未来を切り開いていくことを決意し、他の生存者たちと共に、荒廃した世界を再生するための活動を始める。
確かこれが初めて読んだビートニック文学の一つだった。車でアメリカ大陸の各地を巡っては行き当たりばったりの旅をする話で終わりも尻切れトンボ、「なんだこりゃ」とひっくり返りながら読んだ。だが、こいつら一生そのまま放浪するんだろうなという感じがあっていい。ちなみに、これ以降も細部には触れないとはいえネタバレをガンガンかましてくので嫌な人は読まないでほしい。あと、この文章は半ばが自分語りというか、酔っ払いが管を巻いているようなものだと思っていただきたい。そもそもこの感想だってほとんどが曖昧な記憶と印象を頼りに書いているのであり、いたっていい加減なものだ。そもそも、僕は正規の文学教育を受けていない、一介の理系のアラフォーのおっさん、文学少年崩れに過ぎないのである。
ところで、これを薦めてくれた友人は「ブローティガンを読むといい」と教えてくれた。文学サークルで村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の幻想パートをもとにした小説を書いていた僕に、その元ネタの一つだと言って手渡してくれたのが「西瓜糖の日々」だった。妙な世界なんだけれども向こうは完全に常識だと思っている語りがすごく好きだし、こちらの世界に存在する物事がいくつか欠落しているのもなんだかいい。
なお、厳密には池澤夏樹の文学全集ではなく文庫版で読んだのだけれど、訳者が同じだったのでここに記載する。そもそも全部順番に読んだわけじゃないしね。
年端もいかない少女と同棲したり酒を飲んでだらしない生活をしたりするゴーギャンとその祖母の過激派フェミニストの二人を主役に据えたお話。この二人が現実に同じ一族から出ているのがまず面白いのだが、自分が生きたいように生きたというかそういう風にしか生きられなかった点ではよく似ている。型どおりに生きられないのよね。
このゴーギャンの祖母フローラ・トリスタンは、作中ではどこにでも出かけては結婚制度の有害さで一席をぶったり、関係ないときにも社会改革の話をしたり、貴族の子弟が幼い少女の性を慰み者にしたと突然告発したりと、かなりアグレッシブな人のようにも書かれているのだが、当時の人権状況はそれ以上にヤバかったってのは頭の中に入れて置かないといけないし、彼女のキャラは作中の誇張もあるだろう。余談だけど作中で言及されるフーリエの空想的社会主義って輪廻転生や数万年後の未来史を含んでいて結構オカルトっぽいのね。
タイトルがまずかっこいい。
プラハの春・ソ連侵攻前後のチェコを舞台にした四角関係小説なんだけれど、いろんな人の現実に向き合う態度が批評されている。その中で全体主義に埋もれてしまう人間の弱点を指摘しているのだけれども、真摯というよりもどこか軽やかというかシニカルだ。ドイツのことわざにいわく、「一回やっただけではやったことにならない」。しかし、人生は一度きり。さて、それでは本当に生きることってできるのか? 屁理屈のようだが、深刻な問いだ。
時系列が入り組んでいるし、作者がちょくちょく顔を出してスターリンの収容所で死んだ息子とか関係なさそうな話をするもんだからちょっとややこしいんだけれど、浮気者の外科医が政治の嵐で一介の窓ふき職人として暮らしているっていう設定の恋愛劇、面白そうでしょ?
ちょくちょく出てくる作者の言葉、これは政治批判というよりも、人間の弱さや神の不在に対する諦念に近い。でも、例えば美しい理念に酔って自己満足に浸る「キッチュ」な態度をはじめとして、クンデラの作品でうまく言語化されていることは多い。個人的に純文学は基礎研究だと思っていて、みんな知っているけれども名づけていない(しばしば望ましくない)感情に名前を与えることがその役割の一つだ(余談だが、僕は政治的にはかなり左寄りなんだが、リベラルの人が正しさ競争というか、自分がどれだけアンテナと意識が高いかを鼻にかけてしまう瞬間に気づくことがあり、そんなときにたいそう居心地が悪いし、無数の人が実際に正しいかどうか自分の中で検討せずに「価値観をアップデート」していくのがプロパガンダみたいですごく怖い。まず自分の価値観・内面をどうするかは完全に個人の問題なのに、価値観や思想にまで触れてこようとするのが見知らぬ他人のベタベタした手がどこからともなく伸びてくるみたいだし、何も考えずにアップデートした人たちはバックラッシュが起きたときに結局それに流されて、下手すりゃ前よりも悪化してしまうだろう。たぶんリベラリズムが好きでもリベラリストはそうでもないんだ。閑話休題)。
作者の顔が割と見えるというか、虚構が虚構であると割り切っているところがあるのがクンデラのメタフィクション風の長編なのだけれど、芥川龍之介の「煙草と悪魔」を読んで以来、こういう語り口がすごく好きなのだ。そういうわけで、某創作講座でメタフィクションを書いたら「言い訳しながら小説を書くな」「このままでは一生成功はおぼつかない」とボロクソに貶されたことがある。悲しい。
あとは、登場人物が普通にモテるので、そういうのが気に食わない人にはあまりお勧めしない(というか、クンデラの小説のキャラってときおり人生における性的快楽の総量を最大化しようと行動している節がある)。僕がテレビドラマを見ないのもそれが理由だ。自分よりも顔のいい男がモテているのを、労働ですり減って帰って来たあとに見る気にはなれないし、ではモテていなければどうなるかと言えば、自分の不器用な振る舞いを指差して笑っていると感じるのである笑。
それはさておいてクンデラは面白かったので何冊か買ったし、再読もした。
これは読むタイミングがあまりよくなかったなと感じている。というのも、この本を読んでから数年後に、経済的には困っていないか、経済的には困っているのだけれども事態を解決しようとしない自堕落な貴族や金持ちの話を読むのが猛烈に好きになった時期があるのだ。たぶん金に困らない奴がうだうだする話が好きになったのはプルースト「失われた時を求めて」以来だ。「人間は暇になると恋愛遊戯に走るか、虚飾にまみれた儀礼を作るか、格付けや番付を作り始める」という趣旨の磯田道史「殿さまの通信簿」か何かの記述を思い出す。あらすじを調べると、上の感想とはかなり懸け離れてるのだが、読んだ内容と心に残していくものは若干ずれているものだ。
この話は基本的には悪魔が魔術・幻術で社会をひっかきまわすドタバタなのだが、冒頭の首ちょんぱがお好きならハマる。背景のイエス・キリストの実在とか彼の処刑にかかわったピラトの救済とか(を描いた劇中劇)はわからなくてもいい。勢いがすごい。ブルガーコフはこういうドタバタが多い。強烈なのは「犬の心臓」で、これは犬を手術で人間にしたらガラの悪い野郎になって人間の権利を侵害するようになるんだが、これはどう見ても革命に乗じてやりたい放題やっているならず者の風刺である。「運命の卵」は確か放射線かなんかを当てた卵からかえった動物が巨大化して街を襲う怪獣大行進である。
自分は悪魔の話が好きだ。ゲーテ「ファウスト」のように際限なく願いを叶えるのも好きだし、アシモフ「小悪魔アザゼル18の物語」のように、悪魔が契約を忠実に守るが穴があり、うまくいかず皮肉な結果になったりするのも好きだ。こういうアイロニーというか、破滅の運命を避けようとして逆にドツボにハマるのは、ギリシア神話やシェイクスピア「マクベス」なんかでも見られ、好物だ。
昨今の情勢からロシア文学が好きだとは言いづらいのだが、自分はまちがいなくロシア文学に命を救われている。ドストエフスキーの、激重感情で身が今にもはち切れそうな人々や、自分の狂気を強烈な理性で押さえつけてはいるものの今にもバランスを崩してしまいそうな人々の存在が、自分のことを受け入れることのできなかった二十代の自分を救ってくれていた。世界に平和が訪れたら、サンクトペテルブルクを流れる白夜のネヴァ川沿いを歩いてみたい。……とここまで書いて気づいたのだが、ブルガーコフはキーウ出身でゴーゴリと同じくウクライナ文学に分類されるじゃないか! 知識が古いままだとうかつなことが言えない。
残雪「暗夜」はカフカが好きな僕は楽しんだ。基本的に何かが欠落したよくわからない世界で、よくわからない理由で翻弄される人間の話が好きだ。これは偏見だが、共産圏は映画を含めてこういう不条理な作品がひたすらうまい。現実が同じくらい不条理だからかもしれない。それが理由で、共産主義時代の東欧文学や映画にハマった時期がある。当時は自分の周りのあらゆることが不条理に感じられていたのだ。とはいえ、カフカのところでも述べるが、これだけ人が苦しんだということは胸が痛い。当時の僕は自分の悩みと痛みのことしか考えられず、不条理なものを求めて東欧に接近していたのである。
バオ・ニン「戦争の悲しみ」はよくわからなかった。これを読んだのが二十歳を迎えるかどうかの頃で、戦争で傷ついた女性がなぜ相手かまわず性交渉を行うようになるかが作品から読み取れなかった。ただ、自分が文学から女性の性について学ぼうとし始めた遠因かもしれない。なんで文学から学ぶんだよというツッコミはしないでほしい。他に学ぶルートが無かった。だから偏ったサンプルばかりで、ある程度バランスの取れた、ハッピーな性生活を送っている人はどうなのかが全然わからない。だって極端な人じゃないとフィクションにするのって難しいからね。
続く。