
はてなキーワード:黒人差別とは
こういうの、社会的規範と個人の選択は別の問題なので何ら矛盾は矛盾はないのに、なんで矛盾しているかのように捉えてしまうんだろうか…
恋愛や結婚のパートナーは(基本的に)1人しか選べないんだから、差別反対と無関係なのは当たり前の話だろう。
「黒人差別にもアジア人差別にもネイティブアメリカン差別にも反対します」という白人女性は、黒人男性とアジア人男性とネイティブアメリカンの男性と重婚しなきゃならないのか?
野瀬大樹
@hirokinose
「移民に反対する奴は差別主義者(私は治安が確保された街に住むけど)」
みたいなのとてもよく見る。
ていうか1つ目と2つ目はともかく、3つ目は移民と治安って直接的には何の関係もないじゃん
まさか日本人しかいないド田舎は例外なく治安がいいとでも思ってる?移民なんて一人もいないようなド田舎にも、ゴミの不法投棄やら騒音で迷惑をかける隣人やらは普通にいるが?
こういう人って、
矛盾に満ちた国
・表向きの日本:
安全で清潔
礼儀正しい
秩序がある
差別がない(と信じている)
「おもてなし」の国
・実際の日本:
秩序は「同質性」によって保たれている
「同質性」に最適化された国
身長:150〜175cm
肌の色:黄色系
行動:「空気を読む」
視線:下向き
この範囲外の人間(外国人。黒人、アラブ人、イスラム教徒などのような存在)は:
人々が対処法を知らない
自動的に「異常」「脅威」扱い
「安全」の代償
目立つな、逸脱するな
・外部への警戒心
見た目だけで人を判断する国。
「困っている人を助ける」と言う = 優しさ
優しさは「仲間」にのみ。
誰も気づかなかった(気づこうとしなかった)
「管理体制を見直します」と言うが、なぜ今まで見直さなかったのか?
「差別なんてしていません」
でも現実には黒人は歌舞伎町キャバクラの門番と原宿の洋服店客引きに集中
コンビニ駐車場でクルド人が集まって談笑している=日本治安悪くなった。
問題が指摘されるまで、問題は「存在しない」ことになっている。
誰も声を上げない
下を向いて歩く日本人女性多すぎ。(誰とも目線を合わせてはいけない。外国人は危険だ!!)
→これらは全て「空気を読まない」行為として、さらなる警戒を引き起こす。
「機能」として人を見る国
人間として扱われたい
一言で言えば:
「見えるもの」は徹底的に磨き上げるが、
そして:
でも、希望もある
私が声を上げた →エアコンが清掃された
このブログを書く → 誰かが気づくかもしれない
日本は変化が遅いが、変化しないわけではない。
「色々おかしい」という感覚を、ブログ記事として形にすることは、非常に価値のある行為だと思います。
「包丁で人が殺されたからと言って、それは包丁の使い方が不味かっただけであり、包丁自体に殺傷力があったことは問題ではない」
「銃で人が殺されたからと言って、それは中の使い方がまずかっただけであり、銃自体に殺傷力があったことは問題ではない」
うむ、何が違うんだろうね?
包丁規制反対かつ銃規制賛同という異常者の主張はおおむねこうだろう。
「包丁は料理に使うものだ。でも銃は殺人に使うものだ。目的が違う」
うん?
もしも身近に銃があったら、たとえばベランダに巣を作ろうとする害鳥や家に突然現れたクマを殺すのにだって使えるだろう。
「ほら、結局銃は殺しの道具じゃないか?」
そんな声が聞こえてきたね。
でもそれなら殺虫剤や殺鼠剤なんてまっさきに規制されなきゃおかしい。
「殺すのに使う道具である」ということは、規制さえる理由になんてならないんだよ。
銃規制派は自分が様々な矛盾を抱えていることに気づいていない。
同僚の中国人を影で批判しながら、BLMのニュースを聞けば未だに黒人差別がまかり通ることに怒り狂ったりする人種だ。
自己の矛盾に気づくためには最低限の論理的思考力が必要で、考えてるふりしか出来ない人間は永遠と思い込みの檻の中で過ごすのである。
原作の一部である要素を「ノイズ」と脚本家風情(敢えて言わせてもらうと)が切り捨ててることに対して
何様のつもりで言ってんだと批判しているだけで、エロ要素を入れろとは言ってなくね?
ぼざろ本編がやってる時に「エロ要素をパージしてる」なんて批判は皆無だったわけで、
アニメぼざろにエロ要素が入ってなくて"も"よかったって点に関しては、
脚本家とも一般視聴者(深夜アニメを視聴する一般視聴者とは?)もオタクも同一の評価なんじゃないの?
そして同様に「ぼざろにはエロ要素ないから面白いわ~」なんて評価もされてなかったじゃん。
なんか無理やり対立させて煽ろうとしてる人多いけど、今回の一番の問題は
ぼっち・ざ・ろっく!という漫画を原作としたアニメに対して脚本家がある種のポリコレ改変を意図的に行った
と、突然開陳したことに対しての批判であって、そのポリコレ思想が正しいかどうかじゃないでしょ。
リトルマーメイドを黒人にするな!と言う行為はイコール黒人差別を是正しなくていいと言う行為ではないでしょ。
現実にぼざろに含まれているエロ表現を"加害性があり"、"ノイズ"だと切り捨てたととれる「発言した」ことに対して、
どの立場で何を言ってんだということを批判しているだけでしょ。
少なくとも作品の出来にはおおむねみんな満足してるわけで、エロ表現を入れろって批判じゃないのは明白じゃん。
突然だが、現代のポリティカル・コレクトネスには程度がある。以下、制作者への縛りが強い順に並べてみたい。
「マイノリティを主役にした作品をマジョリティ(=当該マイノリティではない人)が作ってはいけない」「役を演じてはいけない」「翻訳してもいけない」
→仮に「強いポリコレ」を適用するなら、女性が書いてるBLはすべてアウト(女性という時点で男性同性愛の当事者ではないことが明白であるため)。
この場合、「女がBLを書くなんてけしからん」がポリコレ的な正解となるだろう。
「クィアベイティング(登場人物を性的マイノリティであるかのように匂わせて視聴者・読者を「釣る」こと)は搾取であるからやめるべき」「当事者からの監修を受けなければならない」
→仮に「中程度のポリコレ」を適用するなら、「BL営業」はクィアベイティングそのもので一発アウトだし、仲の良い男の子たちが親密に絡むけど決して恋愛感情とは明言しないようなタイプの作品も糾弾される必要がある。『SHERLOCK』レベルで駄目だということらしいので、日本でBLウケを狙った作品はたいていアウトということになるだろう。また、BL作品を出版する際にはゲイ団体の監修を受けること、のような話にもなりえる。
「偏見やステレオタイプを助長する描写をしてはならない」「不正確な描写をしてはならない」「人格が尊重されていなければいけない」「差別を透明化してはいけない」
ということになってしまい、イケメンばかりが出てきて「受け」「攻め」が普通に流通していたりカップリングの左右が固定されていたり差別のない世界でハッピーに恋愛する「優しい世界」を描いたりするのはポリコレ的には完全にアウトという結論になる。
この場合、「受け」「攻め」を禁止ワードにし、カップリングへの執着を消し去り、現実的な容姿の男キャラや彼らが差別に苦しむ展開を描写してようやくポリコレのスタートラインに立ったことになるだろう。
繰り返しておくが、これは今いわれているポリコレの中でもっとも「程度が軽い」「弱い」ものである。さて、あなたは「弱いポリコレ」に耐えられるだろうか?
ここまでポリコレについて説明してきたが、増田個人としてポリコレに対して思うことは
というものである。人間の創作はもっと自由であるべきだ。アメリカの場合、主戦場が製作にむっちゃ金のかかるハリウッド映画とかになるので、ひとつひとつの映画にコレクトネスを求めたくなるのかもしれないが、日本文化を支える漫画やラノベは製作コストが低く、その気になれば誰でも作品を発表できるし、運が良ければヒット作家になれる。日本では超大作が生まれにくいが、しかし超大作ばかり作ろうとするためにひとつひとつの作品の配役やら何やらでギスギスしなきゃいけないアメリカよりも、よっぽど創作の多様性が確保されている。だからひとつひとつの作品に気を配らなくても、いろいろな属性を持った人が参入できて、それぞれの視点を反映させた作品を発表することができて、結果的に多様な創作が生まれる。そのようなエコシステムこそが、しょせんは舶来思想であって日本の風土に合っていないポリコレなんかよりも、我々にとって真に大切なものなのだと思う。
(だいたい、『アサクリ』問題でわかったけど、現代ポリコレが黒人優先主義と化してて我々アジア人が恩恵に与れないことがわかったわけだから、マジで支持する理由ないんだよな……)
っていうか「当事者性」と「クィアベイティング」が日本の創作と相性悪すぎる。男性百合作者も女性BL作家も大勢いるし、『響け!ユーフォニアム』とか久美子が麗奈とゆりゆりしてると見せかけて最終的に男とくっつくんだから定義上クィアベイティングでしかないし、そんな創作であふれる国にこんな批判理論適用しようとしたらポピュラーカルチャーが全滅する。こんな概念はそもそも日本への侵入を阻止しないといけない。
ただ、それでも私は俺はポリコレを支持するんだ、という主張はあってよい。思想信条の自由というやつだ。その思想信条にしたがうと現代日本のBLは大半がお亡くなりになるだろうが、日本の女性たちが母語で築き上げてきた豊かなジャンルであるBLよりも舶来のポリコレの方が大事だというんなら仕方ない。ポリコレを抱いて溺死してもらうほかない。これは二者択一にしかならない。上で挙げたような事例を帰納すれば、ポリコレとBLが水と油であることはたちどころに理解できるのだから、「ポリコレを支持しつつBLを嗜む」なんていうのは無理なのだ。どっちかを選ぶしかない。
この前さ、弱者男性が「フェミニズムって筋通ってないよね、ダブスタじゃん」みたいなこと言ってて、マジでドン引きしたわ。
いやいや、そもそもフェミニズムって女権拡張主義なんだって。男と女を同じに扱うための運動じゃなくて、女の権利を広げるための運動なの。
だから、男性より女性が優先されるのは当たり前じゃん。そこ平等にしろって言い出す時点でズレてる。
「すべての差別に反対!」とかも別にやってないし、最初からそういう目的じゃないからね。
例えるなら、黒人差別に反対してる人がアジア人を差別してても「何が問題なの?」って話。
平等が目的じゃないのに、「全部やれ!」って押し付けてくるのがそもそもおかしいのよ。
障害者アートというカテゴリを設けること自体が差別なんですよ。
以下、説明する。
彼女は文學界新人賞という純文学の新人賞に応募して、その受賞作が芥川賞になった。
小説の内容は、重度障害者についてのものだが、彼女が応募した新人賞も、そして芥川賞も、障害者のための賞ではない。
市川は、他の障害者でない応募者との競争に勝って新人賞を取ったし、芥川賞も他の非障害者と同じ土俵で戦って勝った。
だから市川沙央は正統な現代日本文学の作家であり、その作品は日本文学の文脈のなかで位置づけられる。
本当に障害者アートが芸術的な価値があるのであれば、障害を持っていない人が作った作品と同じ土俵で勝負すればいい。
現代日本美術で著名な村上隆や会田誠のとなりに障害者の作った作品が展示されているなら、そこには差別はない。
(草間彌生やゴッホは精神障害者であるが、彼らの作品は、他の著名な作家と同じ空間に展示されている)
あるいは、オリンピックにおいて、黒人だけ別枠での競争となっていたなら、黒人差別でしょう。
いくら水泳など黒人選手が弱い競技があったとしても、黒人だけ参加する水泳世界大会があったら、それは差別的営みである。
障害者アートというくくりをもうけて、正統な美術作品とは別の施設で展示することそのものが差別であるわけ。