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はてなキーワード:魯迅とは

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2025-11-26

阿Q正伝平成ギャルが要約してみたよ!

ぶっちゃけ、アタシが超テキトーにまとめるね!😂✨


ちょー古い話なんだけど、マジでヤバい「アQ」ってオッサン主人公なの。

てか、名前本名も超適当っていうか、フワフワしてて「阿Q」でいいんじゃね? って感じの適当キャラすぎウケる🤣🤣🤣

アQは家ナシ職ナシで、土穀祠(おいなりさま)に住んでるマジポンコツなんだけど、

自分だけは「昔は超ゴージャスだったし、マジでイケてる」って信じ切ってるのが最高にエモい


この人、ぶっちゃけケンカとかでフルボッコにされるのね。

しかも、趙太爺(チョーテェーヤ)に「お前なんかが趙(ちょう)姓なわけねーだろ!」ってチョッパリビンタ)されて、罰金まで取られちゃうっていう、マジでサイアクな展開なんだけど…

ここからがアQの神テク

彼は「マジで負けてないし!」って言い張るために、

精神勝利法っていうヤバすぎる考え方を発動するの!

①「アタシを殴ったやつが、もし息子だったら、息子がオヤジを殴ってるのと同じじゃん?ウケる!」ってムリヤリ脳内変換

②「殴られたアタシはアタシじゃない。アタシは自分自分を殴ってるの。てか、アタシが勝ったし!」って、自分自分ビンタして勝利確信するの!

ごめん!意味不明でマジやばい

マジでどんなに負けても、「心のテンションだけはアゲぽよ⤴️」なの。

彼は自分世界で一番「自らを卑しめるのが上手い人」って思って、それで満足しちゃうっていう、もうね、思考回路が別次元なんですけど!

そんなこんなでアQがいつも通りテキトーにイキってるうちに、時代革命でちょーざわつくの。

彼は「革命ってヤバくね? アタシも参加しちゃおうかな!お金持ちの家から色々ぶんどっちゃおう!」ってノリで参加しようとするんだけど、周りからは「お前みたいな雑魚ダメだろ」って完全にシカトされちゃうの😢

結局、アQはなぜか盗みの罪を被せられちゃって、誰からも助けられずに死刑なっちゃうんだよね。

てか、アQの人生って、マジで精神勝利法」で全部やり過ごそうとしたけど、結局現実には全然勝てなかった、「ザ・負け組」って感じじゃん?

でも、どんなにボロボロになっても「アタシは勝ってる!」って思い込む、そのイキり方は、マジで伝説ギャルマインドだよね!超リスペクト!✨

はい、おつかれサマンサ!✌️💖

これだけ読んで「おもんない!」と思ったアナタ

ぶっちゃけ、この話はただのオッサンの一代記じゃないの。

作者の魯迅(ろじん)が、当時の中国社会辛亥革命!)のヤバい問題点ガチ批判するために書いた、超シリアス風刺文学なんだよね!

からムズイは当たり前!マジで考えさせられる!🤔

Permalink |記事への反応(0) | 22:04

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2025-06-15

インターネット阿Q正伝――“声がでかいだけ”の人と、振り回される

※思ったことをそのまま書き殴っています。気分を害したらごめん。

ネットを眺めていると、やたらと声が大きい人間がいる。発言ボリュームも頻度も桁外れで、タイムライン風向きを一瞬で変えてしまう。ところが、実際に彼らの発言に振り回される当事者の声は――ほとんど聞こえてこない。

なぜか? 彼らは「声を上げられない」のではなく、「声を上げても誰も拾わない」からだ。

影響力 ×時間的余裕 = “干され力”

日本ネット空間で「影響力が強い人」というと、かつての実績に支えられた元○○が多い。現役バリバリなら忙しすぎて四六時中ポストする暇はない。

まり、実績があって時間が余っている = 半ば干されている。

この “干され力” が最大化すると、承認欲求自己防衛が混ざり合い、最後の輝きを放つ。タイムラインはその残光に包まれ、眩しさゆえに周囲は目を細める。

浮かびも沈みもしない人々

声が大きい人に対し、振り回される側は二種類いる。

浮かびかけて沈む人

反論や補足を試みるが、一瞬で潰される。

そもそも浮かびもしない人

スレッドを読みはするが、最初から発言を諦めている。

後者の声は可視化されない。だからネットには「被害者の声がない」ように見える。存在しないのではなく、“沈黙ごと無視されている” のだ。

阿Qタイムライン

魯迅の『阿Q正伝』を思い出す。失敗と屈辱内面勝利宣言ごまかす男、阿Q

タイムライン上の“声がでかい”人々も、誰よりも早く「私は勝った」と叫び自分物語を確定させる。

その瞬間、周囲は「阿Q今日も元気だな」と苦笑いをしつつ、いいねを押すかミュートするかの二択を迫られる。

結論めいたもの

ネットは 「影響力 × 暇」 の掛け算でできている。

“干され力” が高いほど、声は大きくなる。

浮かびもしない人の沈黙カウントされない。

からこそ、私たちタイムライン喧騒を「世論」と勘違いしてはいけない。

阿Qが掲げる勝利宣言は、しょせん彼の内的世界の話であって、社会の総意ではない。

追記

阿Qって誰?」という若い人向けにリンク貼ろうとしたが、検索すれば一瞬だったのでやめた。

本文中の“干され力”は商標登録していない。自由に使ってほしい。

以上、インターネットの片隅より。

Permalink |記事への反応(1) | 00:46

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2025-05-16

三国志人物名の出し方

三国志人物名を記憶してないIMEを使うことを想定。

から基本的に1文字ずつ変換していくわけだが、変換はできるだけスムーズに行いたい。多くの候補から選ぶことは避けたい。

もし常用漢字でない場合ググることやウィキペディることも辞さない。

曹操 軍曹操る

劉備 玄米徳島から玄徳を抽出してググる。またはliu beiでググる

孫権 孫権利

諸葛亮 孔雀明るいか孔明抽出してググる。または諸君葛切り平均から諸葛均抽出してググると「諸葛亮の弟」と出る

司馬懿 仲良し達人から仲達を抽出してググる

周瑜 周囲太郎から周郎を抽出してググる

劉禅 劉備坐禅

劉封 劉備封印

関羽 関係羽毛

張飛 膨張飛

趙雲 子龍でググる

黄忠 黄色忠義

馬超 馬 超越

龐統 武士元気から士元を抽出してググる

徐庶 徐行庶民

馬良 馬が良い

馬謖 泣いて斬るでググる

魏延 魏志倭人伝延長

法正 法律正しい

伊籍 伊藤戸籍

厳顔 厳しい顔

尹黙 藤原行成Wikipediaで見つかる藤原伊尹もしくは近衛前久Wikipediaで見つかる近衛信尹+黙

関平 関係平和

関興 関係興味

曹丕 曹叡ググる。または曹 文帝でググる

曹叡 軍曹比叡山

曹植 軍曹植える

曹彰 軍曹表彰

曹仁 軍曹仁愛

荀彧 文若でググる

郭嘉 奉る親孝行から奉孝を抽出してググる

賈詡 膨張決済から張済を抽出してWikipediaを見ると張繡が見つかるのでそこからたどる

程昱 連立方程式から程立を抽出してググる

陳羣 陳列長文から陳長文を抽出してググる。または九品官人法のWikipediaを見る(学校世界史に登場する数少ない三国志人物)

夏侯淵 夏王侯貴族深淵。または妙才でググる

夏侯惇 夏侯淵ググる。または元気に譲るから元譲を抽出してググる

張遼 文遠でググる

許褚 許可儀式から許儀を抽出してググると「許褚の子」と出る

典韋 辞典満腹から典満抽出してググると「典韋の子」と出る

徐晃 徐行公明党から公明抽出してググる

張郃 張り合いbから張合bを抽出してググる(誤り)

楽進 楽に進む

李典 李白辞典

于禁 単于禁止

龐徳 令和明治から令明を抽出して馬超 令明でググる

文聘 文豪招聘

田疇 田んぼ範疇(田疇は普通に熟語らしい)

楊修 爪楊枝修行。楊脩の場合は楊修でググる

孔融 孔雀融合

何晏 何進Wikipediaで「孫は何晏」と出る。もしくは老荘思想Wikipediaで「何」で検索する

孫堅 孫 堅固

孫策 孫 策略

張昭 膨張昭和

張紘 膨張八紘一宇

魯粛 魯迅粛清

呂蒙 風呂蒙昧

陸遜 陸謙遜

黄蓋 黄色い天蓋

程普 程度普通

太史慈 太い歴史慈悲

周泰 周囲安泰

甘寧 甘くて丁寧

丁奉 丁寧に奉る

凌統 凌駕統一

徐盛 徐行盛岡

董卓 呂布Wikipediaから見つける。または童卓でググる(誤り)

呂布 風呂

陳宮 陳列宮殿

高順 高い順

袁紹 紹 本初でググる

田豊 田んぼ豊か

沮授 田豊Wikipediaで「授」で検索

辛評 辛口評価

郭図 郭(くるわ) 図

審配 審判心配

顔良 顔が良い

文醜 文が醜い

袁術 術 公路でググる

袁胤 袁術落胤

張勲 膨張勲

劉表 劉備

劉璋 劉備終焉から劉焉を抽出してググると「劉璋の父」と出る

張魯 膨張魯

馬騰 馬 沸騰

韓遂 韓国完遂

公孫瓚 公孫続でググると「公孫瓚の子」と出る

陶謙 陶芸謙遜

司馬昭 司令 馬昭和

姜維 生姜維新

鄧艾 姜維Wikipedia蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士掲載から士載を抽出してググる

鍾会 姜維Wikipedia蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士季節から士季を抽出してググる。もしくは鍾繇体(書道の分野に登場する三国志人物)から鍾繇抽出してググると「鍾会の父」と出る

陸抗 陸抵抗

羊祜 陸抗Wikipediaで「羊」で検索。または辛口憲法英語から辛憲英を抽出してググるWikipediaを見る

杜預 杜甫預金

王渾 王 渾身の一撃

毌丘倹 文+仮装大賞ググると出る欽で文欽を作り、文欽のWikipediaを見る

孫峻 孫峻別

王子服(おうしふく) 王子

吉本(きつほん) 吉本

Permalink |記事への反応(0) | 00:27

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2025-03-27

anond:20250327051311

魯迅故郷

Permalink |記事への反応(0) | 07:38

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2025-03-19

バカ魯迅オーウェルも読んだことなしに誰かの口真似で精神勝利だのイングソックだの言い出すの嫌いやわ

たまたま合ってりゃいいがたいがいわかってないしな

Permalink |記事への反応(0) | 11:26

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2025-02-12

anond:20250212171117

まぁ魯迅さんみたいな前例もありますしお🍣

Permalink |記事への反応(0) | 17:13

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2024-12-17

俺たちは虎ではない。本泥棒の汚いオヤジだ。

インターネット教養」と嘲笑されるものの一つに中島敦の『山月記』があることは、インターネットばかり見ている皆さんはご存知だろう。

教科書掲載されているという普遍性中二病心をくすぐる文体、人が虎になるというファンタジー性、そして何より繊細な青年挫折譚への共感、どれをとっても「インターネット教養」として共有される理由にふさわしいし、もちろん文学作品として完成されている。

しかし、無教養で意地の悪い私はどうしてもそれが気に入らない。

なぜか。それは、インターネット民にとってこの作品イメージ「虎」として共有されているからだ。

もちろん、「それは中国説話に由来していて~」、「文学的表現として~」とかいう話をしている訳ではない。

「『山月記』に出てくる「虎」は美しい。だからこそ、良くないのだ。

山月記』が優れているのは、若者自意識やナルシズムを美しく描き、それらから解放も描いていることだ。

しかし、それでも「虎」イメージ漢文調の文体は、最後まで李徴を悲劇の中に美しく取り残す。

結果的に、授業を聞き何となく感動した我々は、いつしかインターネットの中で、自分を李徴に例える。

「俺もこんな時期があったなあ…李徴は若いころの俺だよ」

違うだろ。

お前は今も新たなナルシズムを生きている。

そして、お前は何もなしていないし、何にもぶつかっていない。

そして、李徴は友人袁傪が聞き手になったが、お前の話は誰も聞き手にならない。

李徴は科挙に受かった知識人だが、お前は何もなしえていない。

お前は虎でもないし、山に帰って一人で生きていくこともできない。

お前は過剰な自意識過去のもののように言っているが、それは今も同じだろう。

山月記』を悲劇ポルノとして消化して、ナルシズムオナニーに使うのをやめろ!!!

やめてくれ!!

★★★

中学校で『山月記』並みにメジャーな題材に魯迅の『故郷』がある。

その魯迅短編『孔乙己』は、中国では教科書にも載っている有名な作品だ。

日本語訳青空文庫にあるが、訳が古すぎてよくないので、岩波文庫光文社古典新訳に収録されたもの本屋図書館立ち読みしてほしい。10分とかからないはずだ。

舞台近代中国の、小さな町。

「孔乙己」は、汚いおっさんだ。しかし、この時代には珍しく読み書きができる。

それもそのはず、おっさん科挙のために学問をし、何十年も勉強していた読書なのだ

しかし、おっさん、いや、青年孔乙己は科挙入口の最下級試験にすら受かることはなかった…

それでも、彼にはプライドがある。他人とは違う、俺は勉強もした。読書人だ!

から知識人服装をして居酒屋に出向くが、通されるのは労働者が集うカウンターだ。

そこで仰々しく喋る彼は、支払いこそまじめにするものの、周りの労働者子供番頭みなに馬鹿にされる。

彼は本泥棒におちぶれてしまっていたのだ。

彼には彼独自理論がある。

本を盗むことは読書階級のなせる業で犯罪ではない!というのだ。

しか世間には通用しない。彼は最終的に袋叩きにされ町を去り、人々から忘れ去られてしま・・・

魯迅中島敦のような美文も、ファンタジーも用いない。

淡々と、社会の中にいる弱者を描き、同情を与えない。

冷徹描写の美しさはあるが、自意識過剰でプライドの高い孔乙己と言う人格は醜く、滑稽で、寂しく、情けないものとして描かれる。

孔乙己が自分語りをしたくても、それを聞く袁傪はいない。

★★★

インターネット教養」はなぜ嘲笑されるか。

それは体系的な知識も持たず、ただインターネットの内輪の中で義務教育レベルのもの教養とありがたがるのが滑稽だからだろう。

そうした何者でもないインターネット民は、『山月記』をイメージとして消費し、「自嘲する虎」になったつもりになる。

そして、誰にも顧みられない自分物語を、袁傪ではなくそこらの関係ない人に押し付けて話す。

実際は、型通りでここにでもいる自尊心の高い汚いおっさんしかないのに。

我々のロールモデルは『山月記』の李徴ではない。孔乙己だ。

何者でもない、プライドけが残った、汚いオヤジだ。

誰にも顧みられなく、醜い。

から死ね、というのではない。人は生きなければならない。

ただ、自分を美化するのはやめよう。これ以上自意識肥大化させるのはやめよう。

等身大自分を、等身大に生きて、判で押したようなインターネット教養を離れて自分人生を生きよう。

自嘲風の自慢をやめよう。こじらせるのもやめよう。

我々は、いや、僕らはこじらせても虎にはなれないし、帰る山もない。盗人になるだけだろう...

ここまで、偉そうに長々と書いたが、ここで私が話しかけていた「お前」は私自身だ。

私の文章に、私の気持ち悪い自意識やナルシズムを感じた人は『孔乙己』を読まなくてもいい。

ただ、それを感じなかった人は、ぜひ、明日にでも読んでほしい。

きっと、『山月記』を読んだ時の私のように涙を流すことができるから

Permalink |記事への反応(3) | 21:15

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2024-12-09

anond:20241209201621

ぼくは魯迅のほうが好き

Permalink |記事への反応(1) | 20:19

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2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fineart) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OURMAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


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2024-05-31

anond:20240531202216

「水に落ちた犬は打て」は、中国作家であり思想家でもある魯迅が「既に打ち負かされたがまだ降参していない悪人(敵)を更に追い打ちをかけてやっつける」という意味で使った言葉です。

この言葉中国では「打落水狗」と言われ、中国の古い故事「不打落水狗」(水に落ちた犬は打つな)を逆にしたものです。

しかし、この言葉朝鮮半島でも広く使われています

そのため、「水に落ちた犬は打て」は中国起源言葉ですが、韓国でもよく知られていると言えます

ただし、この言葉がどのように解釈され、どのような文脈で使われるかは、文化や個々の理解によります

Permalink |記事への反応(0) | 20:25

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2024-04-13

それでは実際に文字量の多いコンテンツ入力した例を見てみよう。

 今回は青空文庫から魯迅の名作「阿Q正伝」をダウンロードして使ってみることにする。

https://ascii.jp/elem/000/004/190/4190060/

夏目漱石とか芥川とかじゃないあたり、中〇人っぽいツルっとした顔なんやろなと画像検索したらその通りでワロタ

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2024-01-31

anond:20240130160759

オペラエフゲニー・オネーギン 」

ロシア文学の父プーシキンの偉大な原作をないがしろにした台本に観客からは不評の嵐

プーシキン日本でいえば夏目漱石 中国でいえば魯迅にあたる国民文豪

映画ティファニーで朝食を

原作とかけ離れた展開にカポーティ激怒

オードリー・ヘップバーンは全く原作ホリーのイメージとは違う

映画Wの悲劇

原作作中作にしてしまうという蛮行

夏樹静子スタジオ見学をしたがどこを撮影しているのかわから困惑した

映画魔界転生

山田風太郎は「あれはならんです」とバッサリ

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2023-10-07

人権思想を相対化したり絶対ではないなどと抜かす不届き者は無知で愚かな冷笑ネトウヨらしいですけど、ニーチェって人権についてなんか言ってたのかな。神蘇ってますけど。

あと現代文魯迅だか丸山眞男だかの評論絶対ではないからこそ注意してないと終わっちゃうよねみたいな事書いてた気がするけど、人権絶対異論は許さないみたいな人ってその辺どう思ってんだろう。

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2023-10-03

なぜ男性は炊事場に立たないのか、みたいな常識を問うことは割と良しとされても、人権とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、みたいな疑問については混ぜっ返し、拗らせ、人類の叡智の否定、野生への回帰歴史勉強不足、愚行と断じられるのってなんか茶番っぽさを感じる。

もちろん人間の半分を占めてる女性を抑圧しかねない規範疑問視するのと、ごく一部の強者欲求を抑圧して大多数の弱者恩恵をもたらしてる(と少なからずの人が思っている)規範とでは話が違うんですけど。

自然法則神様が決めた絶対ルールであって、誰が何を思おうがリンゴが地面から枝に戻っていく事にはならない。でも規範は誰が何を思うかそれ次第、というかそれが全て。時間が流れて考えが変われば常識も変わって法律だって変わる。正しさを見出したのか単に考えが変わったのか、それは答え合わせのしようがない。その口から絶対の真理が告げられる神様でも連れてこなければ、どちらの捉え方が間違っているとも正しいとも、断言のしようはないと思う。

人権思想とて数ある思想の中の一つだ。

なんて言おうものなら烈火の如く怒り出す。人権お気持ちなどではなく絶対です。異を唱えるのは勉強不足でバカネトウヨ冷笑系です。

みたいな人はネット床屋政談で割と見かける。

人権歴史的に形成された世界レベル合意

いつどこで何時何分地球が何回回ったとき私が合意しました?

誓約書を書いた覚えも、同意しますと言った覚えもないんですけど。それとも世間一般の人はそういうのやってるんですか?

そんな事を言ってるオマエだって人権利益享受してるだろって?

それは話がすり替わってますよね?私が人権利益あやかっているのと、人権が本当に合意であるかどうか、絶対的な価値であるかとは論理的に繋がらない。

いくら人権がもたらす利益を並べ立てたところで、人権思想を広める有用さを示すには十分だけれど、人権絶対かという問いからはズレてる。

疑問を挟む奴は人権剥奪のような言いようではまるで異端審問会ではありませんか。

他人を無闇に害してはならない。ムカつく奴を殺したい。これは根拠を辿れば等しく快不快問題になる。どちらも論理だけでその考えの正当性を示す事はできない。論理と言うより、どちらかと言えば共感問題だ。

意見とは価値観や感情を土台にしてそこから論理を積み重ねていくものだけれど。人権思想は根源的な感情論理を乗せたというよりは、感情多数決のものではなかろうか。

とは言っても人権思想が多くの人にとって都合が良いというのはまあ確かなのだろうし、多くの人は「多くの人」に包括されるのだから別にそれでいい。論拠などよりも肝心なのは得られる結果なのだし。

別に論拠なんかなくても快不快多数決で良いじゃんというか、そうする以外にないと思うのだけれど。

人権「真実」に目覚めたバカ共と違ってこちらは論理的な話をしているが?みたいな感じで、その実さしたる論拠はない所が、なんというか不誠実だよねって思う。ナイーブといえばそれまでだけど。

人権の何たるかについて厳密に議論する事と人権が相対化され果ては軽視される危惧とを秤にかけて、後者を選び取った上で自覚的絶対的なものだと喧伝しているのかもしれないけどね。

まあ絶対的なものではないけれど、いやないからこそ、不断努力によって維持せねばならない。高校の現文の魯迅だかの評論でそんなような事を言ってた気がする。当時は理屈レベルしか今はまあ肌感覚でそうかもねって思う部分もある。

……人権を相対化したからにはこうやって結ばないといけない感じなのもなんか茶番っぽいよなって思う。まあ実際、普通ならそういう結論になると思うけど。

普通」ではなくて、別にそう思わない人がいた所でそれは単に価値観の相違だろうし、それを否定するには「や、まあ……一応世の中そういう事になってるらしいんでどうぞここは一つ……」って多数決で突っぱねるしか無いんじゃねって思う。というか実際そうされてるだろうし。

みたいな事をバイト中の暇潰しに考えてた。こんなつまらない事ではなくて、もっとくだらない事を考える脳みそにしていきたい。

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2023-09-24

20230924[アタック25]Next2023年9月24日 #79グルメ好き大会 2023-09-24結果

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

日曜日の本放送だけ1時「25」分から

BS1からボタン2回(今だけ?)とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある人物名前]彦摩呂 ひこまろ

・02 ぶた(肉

・03星野仙一 ほしのせんいち

・04鶴瓶《つるべ》(落とし

・05白馬 村 はくば むら

・06ラランド

・07 [すべて][4答]ブラジルベトナムインドネシアコロンビア

・08江ノ島 電鉄(江ノ電

・0910

10 [近似値]62(個

11強風)オールバック』

12足利尊氏あしかたかうじ

・13クマドリ(カエルアンコウ

・14デコルテ

・15 [3択]30(通り

・16 [ふるさとクイズ][山口県萩市]駅

17 [共通漢字]花

・18リコピン

・19為末大 ためすえだい

20 [3択]2(番

・21 5(円硬貨

・22 [AC]魯迅 ろじん

23 MISAMO みさも

24 [3択]24(チーム

・25 ロカ(岬

・26 C

・27eフランソワーズ・サガン

・xx [ある都市名前]豊橋市

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2023-09-08

人間嫌いが加速している

幼少の時分から太り気味で運動神経が悪く、頭も知的障害とまではいかなくても平均以下、顔立ちも極端に不細工では無いがお世辞にも褒められたもんでもない。

家族自分を愛してはくれたが自尊心を高める様なコミュニケーションは取っておらず、寧ろ優れた所は無く何かと不利な目に合う事が多くともそれに負けず生きていけるタフな心を養わなくてはいけない、そういった教育意識付けを行う人達だった。

そんな出自なので自分無意識の内に他人に対して劣等感を抱いていると思われる。それ故に自分アイデンティティー身体や知性に依らない、純潔価値観思想に有ると考えている。

その結果、他人の振る舞いや思想に対して非常に潔癖な性格が身に付いてしまった。それだけが理由ではないが、それが大部分の理由友達恋人も居ない。

やたらと卑下する文章を書いてしまったが、自分が嫌いかと言えば全くそんな事は無い。寧ろ愛している。

先述した様に他者劣等感を抱き、且つ毛嫌いしがちな人生を歩んでいる為、愛したり信頼したりする対象を見つけられておらず、結局自分自身が一番理想とする生き方思想実践出来ている存在だと思っている。

井の中の蛙であろうが、それもまた致し方の無い運命だと思いたい。

こんな浅はかな文章を長々と書いて何をしたいのかと言うと、最近自分他者動物の類だと思っているんじゃないかと思ったからその考えを記録に残したい為だ。

さっきから他者への嫌悪感をつらつらと書き連ねている訳だが、人の居る場所が嫌いと言う事も無い。但し、自分に関わる人間が居るのは嫌だ。

まりイベント事など知らない他人が集まる場は寧ろ好ましい。連れ合いも居ない癖にお祭りが有るとフラフラと出掛けたりする。自分は誰の眼中にも入っておらず、盛り上がっている人達を観るのは楽しい

だが、その輪の中に自分が入れられると考えるとゾッとする。グループに入れば他者価値観に合わせなければいけない、有限である人生の一部を自分自身のアイデンティティを崩した状態で過ごさなければならない。

それが嫌で嫌で堪らないのだ。

恐らく今までの人生において、他者との関係で得られた利益が少な過ぎたのだと思う。だから自分価値観の中で他者とのコミュニケーションで得られる幸福感が著しく低いランク位置付けられたのだ。

その結果どうなったか利益をもたらさな他者存在自分の中で自分と同価値とならなくなっている。動物園で動物を観るのは楽しい、だが家の中に動物園の動物が居たらどうだろう?ハッキリ言って邪魔なだけだ。

その上、他の動物よりも権利の主張に喧しいとくる、成すべき義務に関しては素知らぬ振りをする癖に。躾けたり愛玩でも出来れば良いが、愛護団体が五月蠅い。

こんな面倒臭い存在、もう情報だけで良い。まぁ我ながら非常に勿体無い考えではあるが。

そんな中でもどうしても関わらなくてはならないのが同僚や上司。これらに関しては言い方が相当過激になってしまうが、正直言って最早家畜の類に見えているんだと思う。

生活の糧を得るのに必要仕事をしてくれるだけの動物相手畜生から価値観が合う事など無い。それでもそれ等の存在無しには生きていけない。

から彼らの習性理解し、上手く誘導するべく努める。ウンザリするが畜産家の皆様はもっと大変な思いをされている事だろう。自分我慢しなくてはならない。

そしてココにこそ、自分業務中は愛想笑いで応対出来るのに飲み会は死んでも行きたくないのかが分かる。なんで家畜と飲まにゃならんのだ。

君達と過ごしているのは生活の為で有って、対等な存在だと思っているからじゃない。

良い商品となって貰う為に日中家畜愛情込めて世話をし、さぁ家に帰って本来自分に戻ろうと思った時に家畜から、『有難う!良かった飲みに行こう!』って誘われたどう思う?

いや…確かにお前が喜んでくれる様には努めたけどそれは業務からで有って、なんでお前と対等に飲まにゃならんのだ。と思うんじゃなかろうか。

まぁ余り倫理的な考えではないかもしれんが、もう身に付いてしまったものから仕方ない。

誤解しないで欲しいが自分は決して他者を劣った存在と思っている訳ではない。身体能力知能指数はきっと相手のが上なんだと思う。

でも自分価値観思想に有る、その意味で信頼がおけると感じた相手殆ど居ないから対等な存在と思えないだけである

なので逆に他者からしても自分の事を家畜だと思って欲しい。単に生活の糧を得るのに利用する必要のある存在だと考えてくれる相手自分にとって信頼のおける相手なのだ

からこそ、少なくとも最初はお互いの事を家畜だと思い合える相手こそ理想。そこから互いの価値観シンパシーを抱き、徐々に打ち解けられて初めて信頼がおける。

じゃあ雑に仕事押し付けてくるだけの同僚や上司理想なのかと言えば全然違う。先述したが、自分他人家畜なのだ

虐待紛いの振る舞いをする奴が良い畜産家か?愛情を込めて飼育する人こそ良き畜産家だろう。少なくとも家畜にとっては。

そしてヒトなる家畜にとって重要な世話とは礼儀距離感相互理解気遣いなどのグルーミングの事を指すんじゃなかろうか。

何時の日か良き飼育員に出会えた時、初めて他者人間だと思えるのだろう。まぁこんな偏った思想をしている奴にそんな日は訪れないだろうが。

一度文章を見直すと何だか魯迅阿Qみたいだ。精神的勝利法とは空しい。それとは違うと信じたいけど…。

まぁそれでも自分自分が好きだ。だから今こう感じた事も何時か読み返して自分自身を愛でたい。その為に備忘録としてココに残す。

Permalink |記事への反応(11) | 21:36

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2023-08-12

弱者男性主人公にした作品

阿Q正伝魯迅中国

弱男度:★★★★★

悲惨度:★★★★★

弱男文学界ラスボス貧乏ブサイクで字も読めない性格も悪い主人公阿Q(仮)が、何の救いもなく転落していく話。

精神的勝利法」という思考法も阿Q(仮)を弱男たらしめている重要要素。底辺なのにプライド人一倍高い。

金持ち女中に言い寄ろうとして逃げられ村八分になり、盗みを働くようになる。

革命に便乗して騒いでいたら、最後頭が悪いせいで冤罪処刑される。

何が悲惨かというと、死んで悲しまれないどころか死自体冤罪無意味なところ。

ノートルダムのせむし男ヴィクトル・ユゴーフランス

弱男度:★★★★☆

悲惨度:★★★★★

阿Q正伝東洋の弱男文学代表だとしたら、ノートルダムのせむし男欧州代表

主人公カジモドは見た目がキモいという理由で親から捨てられて幽閉されて育てられる。

自分に優しくしてくれた美少女に恋するけど、美少女はカジモドに怯え、チャラ男騎士(既婚者・クズ)に恋をする。

美少女自分に振り向くことな処刑されて、カジモドも追いかけるように死ぬ

カジモドは阿Qほど性格が悪いわけではないので、弱男度は少し下がる。

方舟さくら丸(安部公房日本

弱男度:★★★★☆

悲惨度:★★☆☆☆

「豚」というあだ名自称「もぐら」は、名前通り豚のように太っていてモグラのように穴蔵にこもって生活している。

穴蔵は地下の採石場跡でシェルター。そのうち起こる核戦争に備えて「方舟要員」にふさわしい人間を探している。

そしてインチキ昆虫を売る元自衛官サラ金取り立て屋、結婚詐欺女を選出する。

そんなこんなしているうちにジジババ清掃隊やらDQNグループシェルターに入り込んでくる。

この主人公もぐらは見た目がキモいだけでなく、結婚詐欺女の放尿音を聞き耳を立ててたり色々キモい

ただ阿Qやカジモドと比べて、まだ人間扱いされているのと、他の登場人物ももぐらと変わらず全員クズ悲惨度は低め。

詐欺女には鴨にされているフシが有るけど。

よだかの星宮沢賢治日本

弱男度:★★★☆☆

悲惨度:★★☆☆☆

よだかは兄弟は美形なのに自身ブサイクなせいで嫌われていて、終いには「鷹」と名乗るなとまで言われてしまい、故郷出奔する。

その内自分以外の生命を食べて生きている事自体嫌悪感を抱くようになる。

いっそ焼け死んでもいいと太陽に近づくけど「星のところにいけ」とあしらわれ、

星のところに行っても相手にされない。どこにも居場所がなく飛び続けて最後は青く燃える星となる。

一見するとかなり悲惨だが、阿Qや豚と違いむしろ人柄は高潔最後は星になっているので弱男度・悲惨度はやや下がる。

弱男も高潔な魂を持てば星になれるよ…。いや、現世で何とかしてくれよ。

追記

弱者男性であることと性格の悪さは関係ない」というコメントが有るけれど、

性格人間社会生活をする上で重要パラメータなので無関係ではない。容姿年収健康と同じぐらい重要

ブコメに上がっている「寅さん」は、ダメ人間だけど憎めないところがあって、

おそらく困窮してもさくらタコ社長が助けるだろう。そういう意味で弱男度はかなり低くなる。

のび太もだめな子だけど、しずかパパが「人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人」と称賛するぐらいの人柄で弱断度は低め。

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2022-10-18

田舎公立中学校出身者にとって、魯迅故郷」がどれだけ身に染みる話であるかをいつか文章化したい。

Permalink |記事への反応(0) | 12:23

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2022-01-04

課題しんどいからすこし悲しい思いを吐き出させて

自分のこれまでの学生生活を振り返ると、間違いなく中学時代が一番楽しかったと思う

けどなんか今中学同窓会があったとしても、悲しいことにそこまで参加したいって気持ちにならない

理由としては思い出は思い出のままにしておきたいってとこもあるだろうし、今の自分に自信がないってとこもあるだろう

今は難しいかもしれないけど社会に出て、少しでも自分に自信が持てたらその時はぜひ参加したいが、果たして自分がそうなっているかなんてわからないし、もしかしたら仲良かったあの人が参加できない状態いるかもしれない

成長するにつれて、みんながある程度希望を持ってたあのころには戻れないことを痛感する

こういうことを考え出すと魯迅の「故郷」とoasisの「fadeaway」がすごく胸に刺さる

とまあつらつら胸中の思いを吐き出したので再び課題に戻る

Permalink |記事への反応(0) | 02:58

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2021-08-25

何故に医師新型コロナウイルスの件で国民に訴えるのか?

Q.そもそも医療リソースが圧迫して困るのは誰か?

医者です。今まで国民が信じていた「医師は命を救える」という嘘がバレるからとても困っています


Q. 国はなぜ動かないのか?

そりゃ、日本国医師は「医師国家試験」に合格する必要がありますので。日本にいる医師は「国から厚い補償を受けてきました」のです。そのため、国は「今まで美味しい思いわさせてきたから、テメーらでどうにかしろ」と思っています。なのに、民間医療機関は「なんにもしないで」いたのに都知事が「新コロを受け入れない医療機関」を公開するといった瞬間に、ベッド数が増えたのは「そういうこと」です。例えば、自衛隊が「北が攻めてきたのに、何もしていないで逃げ出した」ら、非難するでしょ?国は「なんとかしろよ、でないと歯科医師のように点数でイジメるぞ!」と思っています。変わるべきは、医師です。

Q. 国は当てにできないのですね?

はい

Q.社会学者経済学者の主張はどうですか?

ゴミですね。本当に、社会ゴミですね。医師が「PCR という検査手法はヌケがあると重々いってきたのに、その上でPCR してみては?」と言った瞬間に、この国の医療人は社会学と経済学への信用を無くしました。お陰様で、社会学者経済学者は「社会で使えない人たちの集い」だと認知されました。この際、文科省大学卒業案件に「経済学法学会計学」といった社会学部の卒業センター試験のようなものを課すべきですね。

Q. ふむふむ、医師は大変ですね。そんでもって、国民はどうすべきですか?

まぁ、最悪の場合は俺たちがなんとかするけど、死ぬときそばにいてやるよ。

Q. 今読むべき図書は?

魯迅の「藤野先生」です。東北大学医学部留学した魯迅が「自分たち必要もの医学ではなく、なぜなら医学では中国を救えぬと気がついた」という諦念を、日本国民が再認知するべきなのです。

Q. さて、本題です。何故に医師新型コロナウイルスの件で国民に訴えるのか?

シンプル治療法がないからです。

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2021-08-15

魯迅絶望抵抗

人生で一番苦痛なことは、夢から覚めて、行くべき道がないことであります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。」(「ノラは家出してからどうなったか」)

賢人と馬鹿奴隷

奴隷は結局のところ相手を探してぐちをこぼすにすぎません。そうしたいだけで、またそれしかできないのです。ある日、彼は賢人に出会いました。

先生!」彼は悲しそうにいいました。涙が糸を引いて目尻から流れおちます。「ご存知でしょう。わたし暮らしはまったく人間暮らしではありません。食事は一日に一食ありつけるかどうか、その一食だってコーリャンカス、豚や犬さえ食わないような代物で、しかも小さな茶碗に一杯きり……」

「それはほんとうにお気の毒な」賢人は痛ましそうにいいました。

「そうなんです!」彼はうれしくなりました。「それでも仕事は昼も夜も休みなし、朝は水くみ晩は飯炊き、午前はお遣い夜は粉ひき、晴れりゃ洗濯降れば傘役、冬は炉の番夏は煽ぎ屋。夜中には白きくらげを煮込み、賭場へ主人のお伴をし、てら銭のおこぼれにありつくどころか、ときには鞭まで食らう始末……」

「それはそれは……」賢人はため息をついて目の縁を赤くし、今にも涙をこぼしそうです。

先生! これではやっていけません。なんとかしなければなりません。しかしどんな手がありましょう? ……」

「思うに、いまによくなるよ……」

「そうでしょうか? そうだといいのですが。でも先生わたしの苦労をお話しし、同情し慰めていただいたおかげで、もうずいぶん楽になりました。やはり天は人を見殺しにはしませんね……」

 しかし幾日もたたないうちに、彼はまた不満になり、またぐちをこぼす相手を探しにでかけました。

先生!」彼は涙を流しながらいいました。「ご存知でしょう。わたし住まいはまったく豚小屋にもおよばないのです。主人はわたし人間あつかいしてくれません。飼い犬の狆のほうが何万倍も大事にされて……」

くそったれ!」相手は大声でどなり、彼をびっくりさせました。その男馬鹿でした。

先生わたし住まいは一間きりのぼろ小屋で、じめじめして暗く、トコジラミでいっぱい、寝るとすかさず刺してくるのです。臭気が鼻をつき、四方には窓ひとつなく……」

「主人に窓をひとつ開けてくれとはいわんのか?」

「めっそうもない……」

「じゃあ、おれを連れていってみせろ!」

 馬鹿奴隷のあとについて彼の小屋の外に着くと、すぐその土壁を壊しにかかりました。

先生! 何をするのです?」彼は仰天していいいました。

「おまえに窓をひとつあけてやるのさ」

「いけません! 主人に叱られます!」

「知るか!」彼はそのまま壊しつづけます

「だれか来てくれ! 強盗がおれたちの家を壊しているぞ! 早く来てくれ! 早く来ないと穴をあけられてしまう!……」彼は泣き叫びながら地べたをのたうちまわりました。

 一群の奴隷が出てきて、馬鹿を追いはらいました。

 叫び声を聞きつけて、ゆっくり最後に出てきたのが主人でした。

強盗わたしもの家を壊そうとしましたので、わたしがまっさきに大声をあげ、みんなで追いはらいました」彼はうやうやしく、得意そうにいいました。

「よくやった」主人は彼をこうほめてくれました。

その日、大勢の人が慰問にやってきて、賢人もその中にいました。

先生。この度はわたしが手柄を立てたので、主人にほめられました。この前、先生はいまによくなるとおっしゃいましたが、ほんとうに先見の明で……」彼は希望に満ちているようにうれしそうにいいました。

「そうとも……」賢人もうれしそうに答えました。


賢人による救いは、奴隷主観における救いである。つまり、呼び醒まさないこと、夢を見させること、言い換えれば救わないことが、奴隷にとっては救いである。

奴隷主観からいえば、奴隷が助けを求めること、そのことが奴隷奴隷たらしめている。

から、このような奴隷が呼び醒まされたとしたら、かれは「行くべき道がない」、「人生で一番苦痛な」状態、つまり自分奴隷であるという自覚状態体験せねばならない。

「行くべき道がない」のが夢から醒めた状態なので、道があるのはまだ夢が続いている証拠である

奴隷が、奴隷であることを拒否し、同時に解放幻想拒否すること、自分奴隷である自覚を抱いて奴隷であること、それが「人生で一番苦痛な」夢から醒めたとき状態である

行く道はないが行かねばならぬ、むしろ、行く道がないからこそ行かねばならぬという状態である

かれは、自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが、魯迅においてある、魯迅のものを成立せしめる、絶望意味である

絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗絶望の行動化として現れる。

それは、状態としてみれば絶望であり、行動としてみれば抵抗である

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2021-07-23

魯迅の「狂人日記」という短編があって

自分以外の人間人肉食をしていると思いこんでいるキチガイの書いた手記という形式をとってるんだけど

もしかして自分も知らない内に人肉を食べていたのではないだろうか」と気付いて絶望するところで話が終わるんだよね

なんか最近キャンセルカルチャーとその無茶な擁護を見ててなんとなく思い出した

Permalink |記事への反応(1) | 01:58

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2021-03-05

anond:20210305130341

魯迅だっけ?

Permalink |記事への反応(0) | 13:29

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2021-02-12

必読書コピペマジレスのやつのパクリ海外文学

パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317

だって楽しそうだったから...(自分文学的教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)

ネタバレありだけど、ちゃん確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。

ホメロスオデュッセイア

オデュッセウストロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通おっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチ理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?

旧約聖書創世記

途中で読むのをやめた記憶がある。

ソポクレスオイディプス王

エディプスコンプレックス父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対シェイクスピア悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね

唐詩選』

タイトルすら知らないやつ、その1

ハイヤーム『ルバイヤート

いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。

ダンテ神曲

地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代詩人だか哲学者かに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿

ラブレーガルガンテュアとパンタグリュエルの物語

確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャララブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。

シェイクスピアハムレット

シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットシェイクスピア戯曲の中でも登場人物精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。

セルバンテスドン・キホーテ

パルケエスパーニャにいた。

スウィフトガリヴァー旅行記

巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセス存在しないので無限無為を繰り返してた。

スターントリストラム・シャンディ』

タイトルすら知らないやつ、その2。

サド悪徳の栄え

「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。

ゲーテファウスト

最強天才ファウスト博士悪魔契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士普通精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。

スタンダールパルムの僧院

面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人若者恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。

ゴーゴリ外套

うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気ナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。

ポー盗まれた手紙

タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。

エミリー・ブロンテ嵐が丘

主人公女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン主人公)やヒースクリフ主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリック意味不明言動キャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。

メルヴィル白鯨

クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船物語体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーン映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。

フローベールボヴァリー夫人

間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...

キャロル不思議の国のアリス

ディズニー映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニー子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。

ドストエフスキー悪霊

ドストエフスキーノイローゼ死語患者独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。

チェーホフ桜の園

由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄り使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分チェーホフ戯曲より小説のほうが好き。

チェスタトンブラウン神父童心

タイトルすら知らないやつ、その3。作者名も知らない。

プルースト失われた時を求めて

5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。

カフカ審判

読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカ基本的キャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話自分には楽しめないのだな、と思った。

魯迅『阿Q正伝』

読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。

ジョイスユリシーズ

読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。

トーマス・マン魔の山

結核患者の療養施設であるところのサナトリウム生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物精神性についてバリエーション豊かで不思議リアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。

ザミャーミン『われら』

タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。

ムージル特性のない男』

タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。

セリーヌ『夜の果ての旅』

このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手自分定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分感情もっとわかりやす説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。

フォークナーアブサロム、アブサロム!

このお話はすごい好き。南北戦争前の南部黒人バリバリ奴隷として使われてる時代地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさん人生全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ短編から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレから後に回すのがおすすめ

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4

サルトル嘔吐

そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。

ジュネ『泥棒日記

読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。

ベケットゴドーを待ちながら

なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。

ロブ=グリエ嫉妬

タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5

デュラス『モデラートカンタービレ

読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹小説登場人物の行動を感情的にしたような感じ。

レム『ソラリスの陽のもとに』

タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学研究者なのにSF全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。

ガルシア=マルケス百年の孤独

ラテンアメリカ文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議リアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人感性日本人ヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリー意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないか個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。

残り全部

詩はたしなまいから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。

終わり

ちなみに、「哲学思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。

Permalink |記事への反応(1) | 21:32

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必読書コピペマジレスしてみる・海外文学編(2)

(1)はこちら。anond:20210212080317

キャロル不思議の国のアリス

好き。ただし、当時の人にしかからないパロディジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代読書サークルは楽しかったなあ。

ドストエフスキー悪霊

ドストエフスキー小説基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身ギャンブル依存症ユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。

登場人物基本的自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライド無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。

ぜひとも増田ロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜からおすすめロシア文学はいいぞ。

ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛自己嫌悪の衝突を必死プライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。

チェーホフ桜の園

こっちはスマートなほうのロシア文学一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞い金貨を上げちゃう現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ

実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ

チェスタトンブラウン神父童心

未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。

プルースト失われた時を求めて

誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないかなのだが、実は無職マザコン自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。

しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件ネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。

ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。

カフカ審判

不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説チャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。

読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げビジネスマン想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ

魯迅『阿Q正伝』

最高のダメ人間小説精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。

ちなみに自分ダメ人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。

ジョイスユリシーズ

さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子スカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。

これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランド空気活写している。それだけではなく小説の様々な実験手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石芥川文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。

上記説明ドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。

トーマス・マン魔の山

結核療養サナトリウム小説北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公運命いかに! 「ノルウェイの森」で主人公京都山中精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。

ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ

はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。

ザミャーミン『われら』

洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピア概念現実社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。

ムージル特性のない男』

未読。長すぎる。

セリーヌ『夜の果ての旅』

未読。

フォークナーアブサロム、アブサロム!

文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部人種差別主義者自分帝国を作るために理想女性結婚するが、その女性黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性結婚することから始まる、二つの家系因縁なのだが、時系列しっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

未読。

サルトル嘔吐

読んだがよくわからなかった。うつ状態ときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫サルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。

ジュネ『泥棒日記

未読。

ベケットゴドーを待ちながら

短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生結構意味不明だよね、みたいな感じか。

ロブ=グリエ嫉妬

未読。「消しゴム」は数年前に読んだが理解できなかった。

デュラス『モデラートカンタービレ

未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。

どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。

レム『ソラリスの陽のもとに』

レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星描写は古びない。

SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから

最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。

ガルシアマルケス百年の孤独

初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。

慣れてきたら、これが不条理しか言いようのない南米歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガスリョサに、ドノソに出会うことができた。

一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしかさない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

インド独立の瞬間に生まれ子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。

主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。

インドパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインド歴史ちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。

ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。

ブレイクブレイク詩集

独自神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?

ベルダーリンヘルダーリン詩集

未読。

ボードレール悪の華

卒業旅行パリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全から眺めていただけだったが。

ランボーランボー詩集

同じく卒業旅行パリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーフレンチカンカンは見に行っていない。

エリオット荒地

未読。

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集

未読。

ツェランツェラン詩集

未読。詩をあまり読んでいなくて申し訳ない。

バフチンドストエフスキー詩学

ドストエフスキー作品カーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキー作品爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。

ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。

ブランショ文学空間

未読。

以上

疲れたので続編をやるかは不明日本文学哲学思想海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。

皆様も良い読書ライフを。

Permalink |記事への反応(1) | 08:04

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