Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「魔女の宅急便」を含む日記RSS

はてなキーワード:魔女の宅急便とは

次の25件>

2025-09-26

anond:20250926135920

魔女の宅急便とかも、いろんな西洋が混ざってどこの国なんだよって感想になるらしいね

多分洋画日本のシーンでドラ鳴らしてるし中国風の建築みたいな雑日本な感じなんだろうな。

Permalink |記事への反応(0) | 14:01

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-09-04

まじょたく

魔女の宅急便って、「まじょたく」っていうんだ。知らなかったよ!

ポニョ とか、 風ナウ とか、聞いたことないので、びっくりした。

Permalink |記事への反応(2) | 21:36

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-31

anond:20250831230222

女性でいいなら、弱者男性の具体例は

魔女の宅急便の「あたし、このニシンパイ嫌いなのよね」の娘が該当すると思う

Permalink |記事への反応(0) | 23:29

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-27

anond:20250825150220

食べ物小道具にするシーン、美味そう以外の感情喚起されるのだと魔女の宅急便ニシンパイインパクトかい

Permalink |記事への反応(3) | 16:33

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-22

anond:20250822083112

増田が書いてあることが魔女の宅急便の全てで、ただの成長物語なんだけど、何が疑問でどうして投稿しようと思ったのかが分からない

Permalink |記事への反応(0) | 08:34

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

魔女の宅急便のジジって急に疎遠になるけどさ

魔女の宅急便』公開時のトークショーの際、「なぜジジの言葉をキキは分からなくなってしまうのか」と質問され、次のようにコメントされています

「ジジの声が聞こえなくなった理由は、ジジが変わったからではなく、キキが変わったかであるそもそもジジの声はもともとがキキ自身の声であって、キキの成長に合わせてジジの声が必要なくなってしまったのだ」

というのが真実だとしたら

家を出てから話せなくなるまでの期間、ジジがキキと家族みたいに仲良く接してくれていたこ自体

キキがそうであってほしいという希望視点で見ていた世界なんじゃないか

元々、ジジはキキと話せなくなった後の「なんか普通の猫」くらいの距離感だったんじゃないか

という疑惑が生まれるんだよな。

実在するペット存在を元にイマジナリーフレンドを生み出して会話していたが

人間の仲間との出会いと成長の末にイマジナリーフレンドは解消されて、実在ペットけが残った。

みたいな。

Permalink |記事への反応(3) | 08:31

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-17

魔女の宅急便パンチラ回数を数えた人はいない

Permalink |記事への反応(0) | 15:16

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-04

好きな映画挙げるからおすすめ映画教えてください

好きな映画

スタンドバイミー(少年4人のやつ。青春ものが好き)

きみに読む物語(まっすぐな恋愛ものが好き)

マディソン郡の橋不倫ではあるが同上)

ジュマンジ(見てて飽きない)

天空の城ラピュタ冒険活劇、ボーイミーツガールが好き)

ルパン三世カリオストロの城クラリスが好き)

君の名は青春ものファンタジー恋愛が好き)

何かある?

AIに聞いたら魔女の宅急便とか、ワンダ君は太陽とかを挙げられた。いいんだけどなんか惜しいんだよ)


追記

みんなコメントありがとうブコメは一つ一つ返事かけないけど、調べてみます

フォレスト・ガンプニューシネマパラダイスLIFE!(2013)、レオンなどは見たことあります

ライフイズビューティフル、グーニーズグッドウィルハンティングも見てます

Permalink |記事への反応(27) | 23:55

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

Permalink |記事への反応(0) | 20:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-09

anond:20250609095828

大半の人はアニメ勢じゃん?どんな作品も。

漫画でも小説でもドラマでも、原作勢は常にマイノリティ

魔女の宅急便なんて原作存在すら知らない人が大半だと思う。

Permalink |記事への反応(1) | 10:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-04-19

ジブリ映画ランキング

Sランク

Aランク

Bランク

  • 該当なし

Cランク

  • 該当なし

Permalink |記事への反応(1) | 18:43

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-04-06

2歳娘、魔女の宅急便のジジを助けてくれた大きい犬を見て「こわい」と言うので「この犬は優しい犬だよ」と教えると「お父さんのほうがやさしい、YouTubeみたい」と言われたのでYouTube見せてあげました

Permalink |記事への反応(1) | 10:20

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-30

anond:20250330095628

けっこうな割合90年代じゃないのが混ざってるのはなんやねん

 

エイリアン1979年公開

となりのトトロ1988年公開

魔女の宅急便1989年公開

 

他にもたくさんあるけどめんどくさいのでやめる 

Permalink |記事への反応(0) | 10:02

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-12

anond:20250312002342

ちんこルージュの伝言は繋がりある

まず、ルージュの伝言元ネタエイズメアリーなんだよ。

そして、エイズって男性同性愛者が多かった。

まり魔女だと思ってセックスしたら実はおちんこが出ていていた男でエイズ感染させられてそれをルージュの伝言で翌日に洗面所で見つけた…魔女エイズ宅配していた「魔女の宅急便」ってわけよ。

Permalink |記事への反応(1) | 00:31

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

魔女の宅急便

あの映画意味するところを考えて、さっぱりわからなくなった。

糸井重里コピー「おちんこでたりしたけれど、私は元気です」。正しくは「おちこんで」だよね。

主人公のキキはつらいことをとにかく我慢する。マゾ宅急便

最初に出てきた魔女は、赤い風車の町に降りていく。痴女宅急便

点と点がつながらなくて、よくわからない。ユーミンの「ルージュの伝言」の歌詞も変だ。

「おちんこ」の謎がわかれば、腑に落ちるんだけれど、そこがわからない。

ほうきにまたがっているから、ほうきの柄がちんこに見えなくもない。

時間考えて、全然、わからなかった。だれか、教えてほしい。

Permalink |記事への反応(2) | 00:23

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-11

美人奇行をしても映える

あれはもう20年近く前だけど、当時勤めていた会社新入社員としてすごい美人が入ってきた。

佐々木希さら美人にしたような感じ。

あの頃はまだ佐々木希デビューしてなかったけど、佐々木希の鼻筋を北川景子と交換した感じ。

整った顔もだけど、腰まで届きそうな黒髪が目立っていた。

工場みたいな中で着替える職場で、化粧禁止だったので入社式翌日からはいつもすっぴんだったけど、まったく同じ顔だった。おまえはマネキンかってくらい完璧な顔。

今だと黒髪も珍しくないけど、当時は黒髪率が今より低くて、すごいインパクトだった。

そして、翌日にショートにしてきたこもびっくりした。

なんていうか、注目を浴びるツボをよくわかってたのだと思う。

一度も髪を染めたことがないとか、ピアスを開けたこともないとか、嘘かもしれないけど、美人がいうとすごいインパクトだった。

腰までロングとか、いきなりショートとか、美人がやるとある種の奇行も映える。

服装基本的に地味なのに、時々、靴だけ真っ赤なエナメルだったり、突然大きなコサージュをしてきたり、ファッションも目立ってた。

普通女の子がしたらひくようなアイテムも、彼女が身につけると誰もが息を呑む。

きっと昔から美人で、魔女の宅急便のような大きなリボンとかも彼女だったら許されてたのだと思う。

容姿って大事

Permalink |記事への反応(0) | 15:37

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-05

押井守イノセンス」:The CulminationPointクリエイタースタイルが頂点に達する瞬間

クリエイター確立したスタイルが頂点に達した後、芸術的方向性が劇的に変化する作品たちについて。

スタイル極致現象

芸術家自分の特徴となる独特のスタイルを発展させると、そのスタイルが最も凝縮され洗練された形に達する点に到達することがよくあります

この集大成の時点は、しばしば創造的な転換点となり、その後彼らの作品は新しい方向性を取るようになります

押井守イノセンス

村上春樹スプートニクの恋人

富野由悠季機動戦士Vガンダム

宮崎駿千と千尋の神隠し

などは、この現象を興味深い形で例示しています

押井守イノセンス」:哲学的ジャパニメーションの頂点

押井守の「イノセンス」(2004年)は、彼の初期作品から発展してきた哲学的アニメ作品美学の頂点を表しています

現在、前作「GHOST IN THE SHELL /攻殻機動隊」と共に4Kリマスター版の劇場公開で20周年を迎えた「イノセンス」は、

押井思索的なペース配分、

哲学的対話

・そして見事な視覚構成論理的な極限まで高めました。

イノセンス」が特に重要なのは

押井テーマ的な関心事

人間機械境界意識本質、そして技術的な世界における魂—

を最も凝縮された形で蒸留している点です。

映画の美しくも疎外感を与える視覚効果や濃密な哲学的参照は、同じフレームワークの中ではこれ以上進化できないところまで彼の特徴的なスタイルを押し進めました。

村上春樹の「スプートニクの恋人」:孤独消失結晶

スプートニクの恋人」(1999年)も同様に、村上主題的関心を最も結晶化した形で表現しています

小説は馴染み深い村上テンプレートに従っています男性の語り手(「僕」)、彼の片思い女性、そして現実自己についての疑問へと導く謎の『失踪』。

この小説には村上典型的な要素—孤独、謎めいた失踪片思い、そして現実曖昧化—が全て、ほとんど自己参照的とも言えるほど凝縮された形で描かれています

タイトル自体村上孤独への関心を反映しています;「スプートニク」はロシア語で「旅の同伴者」を意味しますが、衛星は一人で旅をします。

それはまさに彼の登場人物たちが、互いに隣り合いながらも分離されて人生を進んでいくようです。

富野由悠季機動戦士Vガンダム」:暗黒の集大成

機動戦士Vガンダム」(1993-1994)は、クリエイター確立したスタイル限界点まで押し進めた最も劇的な例を表しているかもしれません。

当初は子供向けの「楽しいロボットアニメ」として構想されたこシリーズは、代わりにガンダムシリーズの中で最も暗い作品の一つとなりました。

スポンサーからプレッシャー強制的な変更に直面した富野は、観客の期待を完全に打ち破るよう設計されたかのような、非常に暗く妥協のない作品を作ることで応じました。

このシリーズ前例のないレベルキャラクターの死と深く悲観的な世界観を特徴とし、富野自身も後に「Vでガンダムを本当に破壊たかった」と認めています

この意図的な極端さは富野の一つの創造的段階の終わりを示し、その後の作品では新しいアプローチ必要となりました。

宮崎駿の「千と千尋の神隠し」:形式の極地

千と千尋の神隠し」(2001年)は、「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「もののけ姫」などを通じて発展してきた宮崎テーマ的・視覚的な物語集大成を表しています

その細部まで行き届いた精神世界成長物語環境テーマ、そして強い女性主人公を持つこの作品は、観客が「宮崎映画」に期待するようになったすべてを統合しています

日本で最も興行収入の高い映画となり、アカデミー賞を受賞するという前例のない成功は、実際、宮崎にとってジレンマを生み出しました。

彼の認識可能スタイルを完成させたことで、

崖の上のポニョ」のような彼のその後の作品は、

意図的に異なるアプローチを取り、

より単純なアニメーションスタイルと、

彼のそれまでの傑作の複雑な世界構築とは異なる物語の語り方を受け入れました。

スタイルの枯渇による創造再生

これらのクリエイターを結びつけるのは、彼らが集大成の地点に達したというだけでなく、この集大成創造的な再生必要としたという点です。

イノセンス」の後、押井は「スカイ・クロラ」のような作品に移り、依然として哲学的でありながらも、異なる視覚的・物語アプローチを取りました。

宮崎の「ポニョ」は、それまでの作品よりも意図的に単純で、より子供らしい美学を取り入れました。

富野の「Vガンダム」以降の作品は、トーンとアプローチの顕著な変化を示しました。

このパターン創造進化について深遠なことを明らかにしています芸術家は時に、本当に新境地を開く前に、一つのスタイル可能性を使い果たす必要があるということです。

彼らの特徴的なアプローチ論理的な極限まで押し進めることで、これらのクリエイター本質的に、別の創造的章を開く前に一つの創造的章を閉じたのです。

時間によって形作られる視点

アーティストの「特徴的なスタイル」を構成するものについての我々の認識は、避けられなくそ作品出会った時期によって形作られます

これらのクリエイタースタイルの転換点の後に発見した人々は、何が「押井的」または「宮崎的」な作品構成するかについて、全く異なる概念を持つかもしれません。

この時間的な視点は、芸術的アイデンティティが静的ではなく進化するものであり、特定作品がその進化における重要な変曲点として機能していることを思い出させます

ここで説明された現象普遍的ではありません—すべてのクリエイターがそのような劇的な集大成の地点やその後の転換を経験するわけではありません。

それにもかかわらず、これらの例は創造的発展における興味深いパターンを示しています。そこでは芸術家が真に新たな始まりを迎える前に、確立されたスタイルをその究極の結論まで持っていく必要があることがあります

Permalink |記事への反応(0) | 08:11

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-21

anond:20250221203518

魔女の宅急便は?

Permalink |記事への反応(0) | 20:42

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-19

anond:20250219235044

Uber魔女の宅急便コラボしないのマジで舐めてるわ

マクドナルドコラボしたのに。

Uberはだから嫌い

Permalink |記事への反応(0) | 23:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

ニシンパイ届ける樹木希林

あれ今考えたら魔女の宅急便じゃなくて増田のUberEATSやな

Permalink |記事への反応(1) | 23:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-18

anond:20250218152755

絵が動いているものは全部アニメーションっていうんだよ

オタクアニメというのはオタクさんがファンになっているアニメ作品のことでしょう?

原作コラボ作品など何もない、単発のCMアニメーションはどんな絵柄でどんな表現をしていても「オタクアニメ」には絶対にならないの

反対に、例えば「魔女の宅急便」のキキがそばをすするアニメCMなら、オタクアニメCMと呼んでも受け入れやすいよ

Permalink |記事への反応(1) | 15:33

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-07

anond:20250107190018

宮崎監督は多分シリーズ物嫌いだから作らないだろうけど

死んだ後にどっかのアニメ会社ナウシカ完全版作るかもね。

ドラえもんも作者死んだ後に随分前緩くなったし、

スターウォーズディズニー権利売ったあとはめちゃくちゃになったし。

魔女の宅急便なら今からでも行けるだろうけどナウシカはもう、はやく宮崎駿に死んでもらうしかいね

Permalink |記事への反応(0) | 20:03

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-04

anond:20250104111156

おっさんwww

世界知名度なら魔女の宅急便ネコより有名だよwww

恥ずかしい奴www

Permalink |記事への反応(1) | 11:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-10-27

日本漫画史上最も重要漫画10

週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ20anond:20241012181121

週刊ビッグコミックスピリッツ史上最も重要マンガ5選anond:20241014232424

週刊ヤングマガジン史上、最重要漫画10anond:20241016182953

月刊アフタヌーン史上、最重要漫画10anond:20241017235116

月刊コロコロコミック史上、最も重要漫画10anond:20241018225514

漫画アクション史上、最も重要漫画10anond:20241020163403

週刊少年サンデー史上、最も重要マンガ10anond:20241021181149

モーニング史上最も重要マンガ10anond:20241023001913

ビッグコミックスペリオール史上最も重要マンガ5選anond:20241024031536

ヤングサンデー史上最も重要マンガ5選anond:20241024163903

鳥獣戯画12世紀13世紀

日本最古の漫画とされる文字通りの国宝800年この宝を守り残してくれた高山寺感謝しよう。

果たして現代漫画原画800年後も無事に守り伝えられているであろうか?

手塚治虫酒井七馬新宝島1947年

手塚治虫長編デビュー作。諸説あるものの当時にして40万部を売り上げたとされる革命的な作品

この漫画に衝撃を受け、多くの若者漫画家の道を志したとされ、藤子不二雄などもその偉大さを強く伝えている。

後に繋がる進化連鎖大元の要となる最重要作品

酒井七馬との共作であったため、それに伴うトラブルからその出来を手塚自身は認めていなかったとされ長らく封印されており、完全に書き直したバージョン存在する。現在ではオリジナル版が復刊され電子書籍でも手頃な価格で読める。これはよほど状態の良い初版から丁寧におこしたらしく非常に鮮明な素晴らしい出来だぞ。

(ただオリジナル版は印刷の都合上、手塚の絵を職人が手でトレースして出版したものらしいので筆使いみたいなものを論じる意味はないぞ)

手塚はここから本格的に出発し、約40年間で15万ページの漫画を書いたという。

辰巳ヨシヒロ「黒い吹雪1956年

最初長編劇画とされる作品

手塚治虫トキワ壮グループカウンターになるようなシリアス表現を極めていく劇画の礎となり、漫画表現の幅を大きく広げる道を作った。

当時の劇画としては、白土三平の「忍者武芸帳 影丸伝」が傑作として名高く今読んでも抜群に面白いが、パイオニアとしての黒い吹雪地位は揺るがない。

劇画黎明期の様子は、同じく辰巳晩年に描いた「劇画漂流」という漫画に詳しい。

また辰巳海外での評価が非常に高く、例えば「黒い吹雪」もWikipedia日本語版はないのに英語版存在している。

劇画といえば手塚との対立面白おかしく語られがちだが、劇画の始祖辰巳中学生の時から手塚の自宅に出入りし、終生手塚敬愛して二人でフランスを訪れたりもしていたことは覚えておいてくれよな。

藤子・F・不二雄ドラえもん1969年

藤子不二雄が、おばけのQ太郎に始まり手塚治虫とはまた違う新しい読者層を開拓していった活動の頂点に位置する作品短編大長編を合わせて膨大な作品群を形成し、その影響は漫画界よりもその外部に大きく広がり、多くの人の人生や、現代に溢れるkawaiiキャラクターものにまで現在進行形で強く力を与え続けている。

いまだにアジアで愛され続けるそのレガシーの大きさはとても一言では表せないが多くを語る必要はないだろう。

萩尾望都ポーの一族1972年

旧来の少女漫画が描いていたステレオタイプを打破する作品を矢継ぎ早に発表した萩尾望都出世作

少女漫画誌に次々と新しい手法で圧倒的な画力文学性を持ち込み、後の多様性形成の礎となった。

世界の中で少女漫画市場現在でもきちんと維持されているのは日本だけであるとされるが、その中興を成した作品の一つである

萩尾望都は花の24年組というくくりで呼ばれることが多いが、近年出版した自伝で当時のトラブルを語り、萩尾先生自身はこの名称には肯定的ではないようなので、令和の漫画読み諸氏はアップデートしていこうぜ。

鳥山明「Dr.スランプ1980年

体感漫画らしさを融合させた絵作りで後世に多大な影響を与えた鳥山明出世作

第一話の扉絵を見ただけで、当時別次元漫画であったことが分かると思う(ジャンプ+で今すぐ読めるぞ)。

鳥山明の登場は手塚以降で最も衝撃的であったという事はプロアマわず多くのものが口を揃えて語っている。

鳥山明においては、Dr.スランプドラゴンボールどちらを選ぶのか好みが真っ二つに分かれるところであろうが、世界的な評価やバトル漫画への影響を重視する人は遠慮なくドラゴンボールに入れ替えてくだされ。筆者も個人的にはドラゴンボール思い入れがある。

大友克洋童夢1980年

鳥山明に並び、並外れた表現力で後の漫画界のレベルを一気に引き上げた大友克洋代表作。

漫画における超能力描写を完全に塗り替えた事はつとに名高い。

フランスに生まれメビウスという天才漫画家の開拓した表現大友を通して日本漫画界に合流し発展することにもなった。

後に大友が連載する「AKIRA」においては連載途中に、作者自身監督として超一流のアニメーターを集め、巨額の予算をかけ同名のアニメ映画を作り、そちらも歴史に残る大傑作になったのはご存知の通りである

童夢ではなくAKIRAを選びたい場合は遠慮なく(以下略

ちなみに大友AKIRAに書いた最後最後の言葉はなんだったか知ってるかな?答えは、『そして、手塚治虫先生に…』だったんだぜ。

現在大友作品は、電子書籍版が出版されず現代若者に対しての間口が狭いのが少し残念であるが紙で読んでくれということなのだと思う。

宮崎駿風の谷のナウシカ1982年

独自出自を持つ作品であり、日本一のアニメーション監督が全盛期に描いた本気のファンタジー漫画として、ナウシカの前にナウシカなし、ナウシカの後にナウシカなしという唯一無二の完成度の高い作品

途中に「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」の映画制作を挟み、全59回の連載を15年かけて終わらせた。時間節約するため連載第2回目からしばらくはペン入れをせず、鉛筆で仕上げた原稿掲載したことは語り草となっているが、画力限界突破しているので読んでも違いに気付かないぞ。

100年後も古典として読み継がれているのはこの作品ではあるまいかと思わせる風格を漂わせている。

井上雄彦「SLUMDUNK1990年

連載当初はダイヤの原石であったが、6年間の執筆の中で画力構成力の凄まじい向上を見せ、人気絶頂のまま連載終了した伝説作品

従前から繰り返された「天才」たちの活躍という題材ではあるが、漫画表現リアリティという点で飛躍的な進歩を示してみせた。

大きな流れで見ると、手塚治虫平成元年、すなわち1989年、60歳でその生涯を閉じた翌年に、時代を大きく動かすこの大傑作が連載開始した形であり、新しい元号とともにさらに大きく発展を遂げていく漫画新時代象徴となる作品となる。

東アジアでの人気は凄まじく、アニメ版聖地巡礼鎌倉を訪れるものも未だ後を絶たない。

諫山創進撃の巨人2009年

突然変異的に登場し、それまでの漫画常識を覆した2000年以降最大の問題作

少年漫画天下一武道会以降繰り返してきた自己模倣を打ち破り、新たな可能性を存分に示した。

この漫画は終わらないだろうという世間心配をよそに、諫山は数々の伏線を回収しつつ、一度も休載せず堂々と完結まで導いた。そういった点でも未完のまま停滞した名作たちが越えられなかった壁を打ち破り、その名声を比類なきものにした。

実は諫山は福岡専門学校マンガ学科出身であることをご存知だろうか?その授業の一環として、生徒が東京出版社に持ち込み旅行をするという企画があり、19歳の諫山がいくつかの出版社を周った際に、講談社で当時新入社員の川窪慎太郎進撃の巨人原案を見せたことが巨人物語を始めたとされる。

少年ジャンプはなぜ進撃の巨人を逃したのかという点ばかりセンセーショナルに語られがちだが、社会人生活4ヶ月目にして諫山の才能を見抜いた川窪の目には一点の曇りもなかったことをただ賞賛すべきだろう。

おまけanond:20241027152458

Permalink |記事への反応(9) | 14:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-09-16

anond:20240916122038

マジで宮崎駿の初期ってどこまでが初期なんだろうな?

世代によって変わるのか?

ある人にはパンダコパンダまでだし

ある人には魔女の宅急便だろうし

ある人にとってはもののけ姫かも

なにせキャリアが長すぎてワイが生まれる前からバリバリ第一線で活躍してる化け物やから

Permalink |記事への反応(1) | 17:48

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp