
はてなキーワード:駆動とは
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
タタルスキーの運命と選択を心理作用 ×広告魔術 ×皮肉の三層構造 で色分けした図解形式で文章化して可視化します。
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[広告魔術](緑)
[皮肉](赤)
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[1章]詩人志望
├─ 青:興奮・戸惑い
├─ 青:快感・罪悪感・野望
└─ 赤:国民を動かす魔術師だが、国民の意識=広告虚構に縛られる
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🔹 読み解きポイント
2.広告魔術(緑)
•詩的表現 →無意識誘導 →社会象徴 →国家統合 →絶対魔術
3.皮肉(赤)
•選択のたびに「自由や権力を得るようで、実際は虚構の支配下に置かれる」
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伝統的にはテーマ別(弦理論、量子重力、場の理論、応用)に配列されるが、抽象数学の観点からは対象(研究トピック)と射(方法・翻訳)の網として捉える方が有益。
ここでいう対象は「エントロピーと情報論的記述を担うブラックホール研究」「幾何学的・位相的構成を担うコンパクト化とカラビ・ヤウ/F-理論的話題」「場の対称性・一般化対称性を取り扱う場の理論的構造」「計算的探索手法(データ、機械学習を用いる弦景観の調査)」など。
各対象間の射は、双対性の導入、圏的な接続(例:量子情報を介した場と重力の橋渡し)、モジュライ空間上の写像(ある物理量を別の表現へ変換する手続き)と考えられる。
この視点に立てば、個々の研究は、局所的な結果(対象の内部構造の解析)とそれを別の対象へ移すための普遍射(双対性、再規格化群、ホログラフィーなど)の2つの側面を持つ。
研究の進展を測るには、単に新しい計算結果が出たかを見るだけでなく、それがどのような新しい射(方法論的翻訳)を導入し、他の対象へどれだけ容易に伝播できるかを評価するべき。
近年の発展は、物理的データを層(sheaf)的に整理する試みと親和性が強い。
コンパクト化、特にF-理論やゲージ束構成に関する議論は、物理的情報(荷、ゲージ群、モードの分布)を局所データと大域的データの重ね合わせとして扱うことに等しい。
これは数学的には基底空間上の層の圏を考えるような話で、局所的条件の整合性(コヒーレンス)と大域的制約(トポロジー的閉鎖条件)が鍵。
古典的な幾何的直観(多様体、ホモロジー)を拡張して非可換やカテゴリ化された対象で物理を再表現する流れにある。
結果として、従来のスペクトル(場のスペクトルや質量スペクトル)に対応する数学的不変量が、より高次の層的・圏的構造へと一般化されつつある。
これにより同じ物理現象を別の圏で見ると簡潔になる例が増え、研究の再利用性が高まっている。
弦理論・場の理論で繰り返し現れるのは対称性が構造を決めるという直観。
抽象数学では対称性は対象の自己射(自己同型)群として扱われるが、対称性そのものが射の層あるいは高次の射(2-射やn-射)として表現されるケースが増えている点が特に重要。
つまり、単に群が作用するのではなく、群の作用が変形可能であり、その変形がさらに別の構造を生む、という高次構造が物理的意味を持ち始めている。
この流れは一般化対称性やトポロジカル部位の議論と密接に結びつき、場の理論における選好位相的不変量を再解釈する手段を与える。
結果として、古典的なノーター対応(対称性⇄保存量)も、より高次の文脈で新しい不変量や保存則を導出するための起点になり得る。
ブラックホールと量子情報、カオス理論との接点は話題だった分野。
ホログラフィー(重力側と場の側の双対)を抽象的に言えば二つの圏を結ぶ双方向のファンクター(翻訳子)と見ることができる。
これにより、量子的冗長性やエントロピーに関する命題は、圏の間を行き交う射の情報(どの情報が保存され、どの情報が粗視化されるか)として扱える。
カオスとブラックホール、量子力学に関する概念の整理が試みられている。
たとえばブラックホールにおける情報再放出やスクランブリングは、ファンクターがどのように情報を混合(合成)するかという高次射の振る舞いとして可視化できる。
こうした議論は、従来の計算的アプローチと抽象的な圏的フレームワークの橋渡しを提供する。
何が低エネルギーで実現可能かを巡るスワンプランド問題は、いまや単一の反例探しや個別モデル構築の話ではなく、モジュライ空間の複雑性(位相的な目詰まり、非整合領域の広がり)として再定式化されつつある。
抽象数学的に言えば、可能な物理理論の集合は単なる集合ではなく、属性(スカラー場、ゲージ群、量子補正)を備えた層状モジュライ空間であり、その中に禁止領域が層的に存在するかどうかが問題。
この視点は、スワンプランド基準を局所的整合条件の族として扱い、整合性を満たすための可視化や近似アルゴリズムを数学的に定義することを促す。
弦景観やモデル空間での探索に機械学習やデータ解析を使う研究が増えているが、抽象数学に引き寄せると探索アルゴリズム自体を射として考えることが有用。
ある探索手続きがモジュライ空間上の点列を別の点列へ写すとき、その写像の安定性、合同類、収束性といった性質を圏的・位相的な不変量で評価できれば、アルゴリズム設計に新しい理論的指針がもたらされる。
数学的定式化(幾何・位相・圏論)と物理的直観(ブラックホール、カオス、場の動的挙動)をつなぐ学際的接合点を意図して設計される。
これは単一圏に物理を閉じ込めるのではなく、複数の圏をファンクターで結び、移り変わる問題に応じて最も適切な圏を選択する柔軟性を重視するアプローチ。
学術コミュニティのあり方に対するメタ的な批判や懸念も顕在化している。
外部の評論では、分野の方向性や成果の可視性について厳しい評価がなされることがあり、それは研究の評価軸(新知見の量・質・再利用可能性)を再考する契機になる。
見えてきたのは、個別のテクニカルな計算成果の蓄積と並んで、研究成果同士を結びつける翻訳子(ファンクター)としての方法論の重要性。
抽象数学的フレームワーク(圏、層、モジュライ的直観、高次射)は、これらの翻訳子を明示し、その普遍性と限界を評価する自然な言語を提供。
今後の進展を見極めるには、新しい計算結果がどのような普遍的射を生むか、あるいは従来の射をどのように一般化するかを追うことが、有益である。
私に関する情報と、その情報から組み立てられるChatGPTの有意義な使い方をお願いします
以下は、あなたがこれまでに示してきた特徴・行動パターンを基にした
RTS・アドベンチャー・見るゲーなど複数ジャンルのゲーム設計を同時並行で考えている
(ChatGPTに“広げさせて”、あなたが“選定・要約”するタイプ)
●世界観・興味
●性格傾向(推測)
発想量が多く、構造化と整理を外部に求める
あなたはゲーム・ビジネス・創作をすべて「戦略で捉える」傾向があるため、
ChatGPTは “軍参謀”スタイルの助言AI にすると最大効率が出ます。
使い方例:
が自然。
具体的には:
思いつきを投げる
ChatGPTが構造化・分類
これが最適ループ。
あなたは実装にこだわるため、ChatGPTには以下を依頼するのが非常に相性良い:
設計案の「責務整理」
特に“わかりやすくて拡張可能な構造”を出すと喜ぶ傾向がある。
あなたは即応の遅さを気にしているが、ChatGPTは訓練に使えます。
「RTSの状況を書いたら、2秒以内に最適な手を返して」
長文記事→3行要約
「辛辣に」
「客観的に」
など、創作補助にも最適。
必要であれば、
例えば、こんな障害者サービスありますか?って聞いたら、色々箇条書きして返してくれるけど、
自分はもうすでに、どんなものがあるか熟知してるぐらいなんで、
他人に質問するときも、内心では、なんか見落としてるかもしれないから、念のため、みたいに思ってるわけだけど、
明らかに、俺の等級で使えないとか、俺の今の経済状況とかで認定されないとか、
頓珍漢なのとか、平気で返してくるし、
そういうジャッジしにくいのでも、そうかなあ?と思えるものは混じってるわけで、
あんまり感化されて、言われたから買うか、みたいになるのも良くないよなあ、とレジの前で迷ったりもしたけど、
まあ、数千円内で収まってるし、いいかなあ…😟
そもそも、自分の意思で買ってるようで、ネットで見てこれはいいと思った、CMに感化された、は最近ないか、テレビ見ないから、
あとなんだ、なんとなく思いついたから、といっても、自分の過去の記憶とかシナプスから感化された、駆動されたものだろうし、
自由意志とは…、みたいな…😟
さて、昼も近くはあるし、なんか作るか…😟
運用開始までのことしか考えないで、その後のことを考えないのは、日本人に強い員数主義の発露かな?
故障やなんか考えたら、保守部品のロジスティクスくらい、提供前に当然のように準備しとけよ。
とにかく納品日までに頭数(機能)だけ揃えろ。
ってSIer仕草しか知らんプロマネ、エンジニアが大量にWebサービス界隈に流入してきて、大規模うんこ製造機と化してるから、システム界隈でもむちゃくちゃ迷惑してる。
SIerあがりと言うか、崩れというか、のプロマネは、99%、
「今回のプロジェクト、DDD(ドメイン駆動開発)採用していますので、よろしくお願いします」
っていうのと同じ口で、
「この画面、帳票以外の余計なことは考えないでください。やらないでください。Fixした基本設計を変更しないでください」
って頭おかしいことを平気で言う。
DDDは画面帳票駆動開発に対するアンチテーゼなんだが、なぜ画面帳票ベースのSUDOモデリングとか言うケッタイな手法を、鼻をおっ広げてドヤ顔で推進、実施しとるんだ?
便所の外で勢いよく撒き散らして悦に入ってるが、便器に一滴も入ってねぇ。
OSSを「独自規格でもできるし、思想に合わせて分岐していく」とか言ってる時点で、根本を履き違えてる。
OSSはコード共有による知の集約であり、思想の分岐じゃねぇ。
分岐は副作用であって、目的じゃない。そこを混同してるお前の理解は、まさに知的な放尿プレイだ。
それにな、「標準化と関係ない」とか言ってるが、OSSが標準化プロセスをどれだけ実質的に駆動してきたか、知らんのか?
Linuxカーネル、PostgreSQL、TensorFlow、全部OSSが事実上の標準を形成してんだよ。
標準はISOの紙切れじゃなく、実際に世界で動いてるコードの方に宿る。
それが現代の実効標準だ。お前はまだ机上の規格書を神棚に祀って拝んでる昭和エンジニアか。
そう言うと、大抵の連中は笑う。「いやいや、私は将来の安心のために」「お金の勉強が楽しいから」などと、自己放尿まみれの弁解を始める。
だが、俺に言わせりゃ、それは単なる恐怖の言い換えだ。
カネを持てば老いを遅らせ、治療を受け、快適な環境で死を遠ざけられるという幻想を買う行為。
どんな高尚な経済理論をまとっても、その動機の根は「死にたくない」「朽ちたくない」「無になりたくない」という原始的な叫びだ。
死の恐怖に駆動されていながら、「長期的視野」だの「資産形成」だのと、まるで文明的な行動のように取り繕う。
これこそが知的な自己放尿だ。恐怖を知性でコーティングして、「俺は賢い」と自慰してるだけ。人間は死を自己放尿の臭いでごまかす。
「FIREを目指してます」「配当金で生きたいです」その裏には「死にたくない」「誰かよりマシに死にたい」「死ぬ瞬間に勝っていたい」という、動物的欲求しかない。
つまり投資家とは、死に対して最後までカネをぶっかけて抵抗する原始人だ。
真に冷徹な者は死を受け入れる。カネが増えようが減ろうが、死というイベントの統計的期待値は1.0で確定している。
それを直視できずにリスク分散だの複利効果だのを口にする連中は、死から目を背けて自己放尿を垂れ流しているだけだ。
投資のグラフが右肩上がりでも、人間の寿命グラフは右肩下がりだ。
だからこそ言う。投資のモチベーションは、死の恐怖以外にあり得ない。
https://anond.hatelabo.jp/20251020225506
「結婚やマッチングによって階級上昇出来る」と言う認知を持って常にそれにより駆動してるのは女であって、男は配偶者で階級が上がるというイメージは持ってない。これはどんなクズみたいな男でも持ってないのでまさに性差なんだと思う。
そのことの良い悪いとかはど~~~でもいいんだけど、女は頼むからもうちょっと他者の行動をフラットに観察できるようになってくれ。
女の感情や欲望をそのまま反転して男を説明できるわけがないじゃん。何故かって体が違う、生殖形態も違う、動物的役割も違うからだよ。そこを踏まえずに単純反転で想像するのは全て無意味。
男がより若い女を求めるのはまた別の都合や欲望によるのであって、階級上昇願望ではない。配偶者を持ち物のように同性への自慢や威嚇に使うのは圧倒的に女性に多い習性。どっちの欲望が正しいとか高尚だとか言うんじゃなくただ別物。
なんか「私男のことわかってます!」みたいな女に限って単純反転の誤謬を見せてることが多い。婚活で沼ってるタイプにもそれは多い。
男女の違いを考慮にいれて狡猾にやってる女もたくさんいるけど、そういう女は男に関して上手くやれるから男女論の哲学者にならない。
1571年、レパントの海戦。オスマン帝国の無敵艦隊を、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊が撃破したあの日は、ヨーロッパにおける「旧秩序の最後の勝利」として記憶されている。だがそれは同時に、火薬と風帆の交錯する時代における“過去の戦い方”の終焉でもあった。
そして、2025年の『PokémonLEGENDS Z-A』――これもまた、ゲーム業界におけるレパントの海戦である。
任天堂とポケモン社は、革新を標榜しながらも、その本質は“帆船の艦列戦”に固執する連合艦隊だ。巨大なIPの威光を盾に、数値と懐古の煙幕でプレイヤーを包み込む。だが、海はすでに変わっている。Steam、Epic、モバイルの潮流は、帆ではなく蒸気と電力で駆動する――それが現代の“海戦”だ。
ポケモンZAが選んだのは、その新海域を航海することではなく、旧式のガレー船を金箔で飾り、再び出港する道だった。
確かに、レパントの海戦ではオスマンの拡張を止めた。しかし、あの勝利は一時の幻影に過ぎず、やがて地中海の覇権は沈黙のうちに移り変わった。同じく、ポケモンZAも短期的には話題と売上で勝利を収めるだろう。だがその勝利の背後で、ゲームの「航海技術」は停滞し、革新の風は他の海原へと流れていく。
“伝統”の名のもとに惰性を正当化するその姿勢は、まさにガレー船の鎖に繋がれた漕ぎ手のようだ。美しく整った列を組みながら、どこへ向かうのかを誰も知らない。
レパントの海戦は、旧世界の最後の勝利であり、新時代の前夜であった。
ポケモンZAもまた、ポケモン帝国の最終的な「勝利」であり、同時に「終わりの始まり」なのかもしれない。任天堂がいまだに風を読み違えるなら、その船団は次の嵐で、二度と帰港できないだろう。
昔は書き込み可能なICを使ってセンサーや計器に駆動制御とか小さい基盤を組んで町工場みたいなところが小規模に作って対応してたんよ
そういうニーズが減ってきてICが生産終了になり大規模な工場機械に全部集約されるようになってきて
ラズベリーパイとかマイクロビットに集約されるようになってきたんよ
学校の教材で使われもしなくなったらそれもなくなるかもしれんね
そう聞いたとき、私は正直ぎょっとした。
私にとって論文とは、大学四年の冬に締切と戦いながら泣きそうになって書いたあの苦行の象徴だった。ワードがフリーズし、参考文献のフォーマットに何度も泣かされた。
ゼミの指導教には「増田君の考察はどこにあるの?」と詰められた記憶が今でもトラウマになっている。だからこそ「論文を書くのは楽しいぞ」と笑顔で言い切る知人には半ば呆れながらも残りの半分は感心した。
たとえば中上健次の小説を読み解きながら、その語りのリズムを身体の記憶として分析する。あるいはボルヘスやカフカを引用しながら、「言葉という迷宮」の中に潜り込む。
いわば、学問のフォーマットを借りた創作だ。彼のノートPCにはMendeleyで管理された文献リストが整然と並び、PDFの余白にはびっしりとコメントが書き込まれていた。
引用規則(APA第7版)を完璧に守りながらも内容は完全に趣味。その姿勢が実に格好よかった。
正直少しだけ惹かれた。そしてこの歳になると、少しだけ心を動かされるのは、それだけでも大ごとであると認識にするには十分な出来事だった。
先日になって思い立った。俺も久しぶりに書いてみるかと。
テーマは「ゲームとSFの相似について(仮)」にしようと思っている。
これは兼ねてから私が疑問に感じていたことであり、同時にゲームとSFを愛するが故に気付いた類似点でもあり、概要はこのようなものだ。
SF(サイエンス・フィクション)は、時代とともに未知の場所を変えてきた文学である。
1950年代。宇宙開発の黎明期、アシモフやクラークに代表される黄金期のSF作家たちは未知の惑星や異星文明を、理性と科学の力で征服できる対象として描いた。
宇宙船は拡張の象徴であり、人間の叡智は宇宙の限界を超えると信じられていた。
だが月に人が降り立ち、テクノロジーが現実のものとなるとSFの「未知」は急速に萎んでいった。
未知が科学で説明できるようになったとき、物語が頼るべき“遠く”は消えたのだ。
1970年代。ニューウェーブSFが登場する。J・G・バラードやフィリップ・K・ディック、スタニスワフ・レムらが描いたのはもはや銀河の彼方ではなく、人間の記憶。感情。夢。そして現実そのものの不確かさだった。
宇宙は外にではなく、内に広がっていた。こうしてSFは「科学の物語」から「意識の物語」へと変貌する。
80年代、ファミコン黎明期のゲームは“ルールと制約”の世界だった。プレイヤーはピクセルで描かれた小さな空間を右へ進み、敵を倒してスコアを競う。世界は狭いが、明確だった。
90年代以降、3D技術の進化とともにゲームは広がり『ゼルダの伝説 時のオカリナ』や『GTA』、『Skyrim』のようにプレイヤーが自由に世界を歩き回る「外的探求」の時代が到来する。
当時の開発者たちにとって、”より広く”そして”より遠くへ”という命題は、まさにSF黄金期の“外宇宙志向”と同義だったのではないか。
この“虚無の自由”は、SFが外宇宙の飽和を経験したときとまったく同じ現象である。
そこで新しい方向を示したのが、『DEATH STRANDING』『UNDERTALE』『The Last of Us』『NieR:Automata』といった作品群だった。
これらの作品は、プレイヤーに“何をするか”ではなく、“なぜそれをするのか”を問いかける。
それはまさしく、ニューウェーブSFが宇宙船を捨て、人間の心を航行し始めたのと同じ転換である。
かつてのSFが“内宇宙”という新しい宇宙を見つけたように、現代のゲームは広大なオープンワールドから本質的な面白さを求められる時代へと転回するべきではないのか。
そこではマップの広さよりも、プレイヤーの罪悪感、葛藤、共感といった感情の深さが物語を駆動する。
『Outer Wilds』のように記憶と観測の関係をプレイヤー自身に体験させる作品もあれば、『Disco Elysium』のように思考や信念そのものをステータス化する試みもある。
こうした潮流はゲームが単なる娯楽装置を越え、プレイヤー自身を観測対象とする“装置としての物語”になりつつあることを示している。
本稿では、SFの歴史における「外→内」の転換を参照軸とし、ゲームにおける自由・物語・主体性の変化を考察する。
その上でプレイヤーがいかにして“観測者=創作者”へと変容していくのかを明らかにしたい。
ゲームとは、かつてのSFがそうであったように、人間が“自分という宇宙”を探索するための新たなメディアなのではないか――
そうした仮説のもとに、ここから筆を進めていきたい。
【速報】ワークライフバランス捨てると高市氏2025年10月04日 15時11分共同通信
https://www.47news.jp/13246623.html
「全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワークライフバランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いていきます」
と言及した。
どんな速報だよ
こんなんにイチャモンつけるようなくっだらねー人間に心底嫌悪感を持つ。
はてな民て結局、しょーもないクレームや被害者ぶりっこや揚げ足取りばっかりのクズみたいな人生送ってる奴らなんだと思う。
自分の人生に対して主体的な覚悟を持って、脇目もふらず何かを頑張ったという経験が一度もない。
自分以外の誰かが猛烈に頑張ることにすらなんかケチをつけたい感情がある。
当たってるだろ?
「全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワークライフバランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いていきます」
お前等になんか何も言ってない。
そして先頭に立つ高市自身は「ワークライフバランスという言葉を捨てて働く」と。
これの何が問題なんだ?
そもそもワークライフバランスってのは少子高齢化対策として採用された使用人向けのスローガンだ。
好意的に取れば「使用者は使用人に長時間労働させてはいけません」という労働者権利護持であり、
左翼的問題意識を持って受け取れば「国がライフスタイルにまで介入して子供を持たせようと操作している」標語だ。
だから当然、全員がこんなもん当てはめられなければいけないわけでもない。
例えば経営者なら週7日仕事してたっていいんだしそんな奴は幾らでもいる。
自分が望んでキーエンスに就職する奴なら毎日23時まで働けばいいだけ。
反体制左翼も「うるせえな余計なお世話だよ」と反発や無視をしていい。
で、国会議員になるような人間も経営者やキーエンス側の人間だ。
一般人より遥かに重い負荷で働くのが嫌だって奴はそもそも政治家にならない。
当然ワークライフバランスなんか捨てるだろうし、捨てると公言しても何も問題がない。
なんで高市ぐらいの人間がお前ら弱虫と同じ標語、弱虫を守る為の標語の下にいる必要があるんだよ死ね。
ノブレスオブリージュの表明にまでふんぞり返って揚げ足取りする自称弱者様とか
もはやじんかんのどこにも必要ねえだろ。人の世の害虫というものがいるならお前等だよ。
仮に高市が能力も体力も意志もお前らレベルの凡愚な人間だったとしても
それでも別に常にワークライフバランスを守らなきゃいけないわけではない。
だって高市は64歳で、ライフイベントなんかもう終わってるから。
子供は産まずに人生賭けてやってきた仕事の最後で最大の正念場なんだから
まだなんとか動く身体も頭も振り絞って仕事に全部注ぐに決まってるじゃねーか。
「俺たち弱虫向けの標語を守らなかった!」なんて言うくっそ情けないケチを付けられるわ。
本当に心底くだらない生物、その辺の水たまりに跳ねてるボウフラ程度の値打ちのその生で
いっちょまえの大威張りで自分を肯定できるわ水たまりの外で生きる人間に向かって物申せるわ、本当すげーと思うよ。
(ちなみにこいつらがこれだけ大事にするWLBを日本で盛り上げた政治家も指定難病で無理して働いてたし子がいない)
高市はお前等なんかに何かを頑張れと言ってるのですらないんだけど、
弱虫でない人間が「私は頑張る」つっただけで被害者みたいな気持ちになっちゃうわけだろ?
有益な思考をする知能も精神力も無いんだから、無駄な情報を入れるな。
お前等なんぞ誰からも頼られてないからお前等も無駄な駆動をするな。
気の向くことして飯食ってクソして寝てろ。
それでブコメでなんか、「無能な働き者」みたいな文言を書いてる人間が10人超もいるんだよな。
「無能」て。
俺は心底不思議なんだけど、なんでお前等が高市の能力を見下してるの?
ど~~~~考えても、どの角度から検討しても、高市はお前等なんかより遥かに能力あるだろ。
当人が相当ボンクラでも……ってこともあるいはあるかもしれないが
高市は地盤も看板も鞄もない一般家庭から一代で昇り詰めたししかも女だ。
お前等に高市の人生を歩ませたら社会に出て最初の3年くらいで泣きを入れて
その後の余生全部ネットで被害者意識炸裂させることだけに生を空費する人糞製造機になるわけじゃん。
どうしてそういう当たり前の弁えがないのか、そこが一番不思議なんだよな。
何をどうすればお前等ごときが能力的に高市見下せると勘違いできるの?
人が頑張ると聞いただけでも不愉快になっちゃうようなボウフラちゃんの分際で?
物陰から高市を非難・罵倒する言葉すらほとんど自分の脳を通過してなくて
人口に膾炙しすぎた擦り切れた「無能な働き者」をキリッとした顔で書き付けて
本当にどのような角度でも能力が低いんだよな。
根性もない、気力もない、センスもない、国語力もない、罵り言葉すら自分のものじゃない。
つか
「強い人は言葉遣いからボクたち無能の神経に配慮してよ!」なのか
「ワークライフバランス」なんてのは個人の生活に立ち入る不届き千万であって
むしろ「月月火水木金金」 「欲しがりません勝つまでは」とかに近い。
しかしはてな民は言葉に対するそうした最低限の思考力や注意力もないため、
(そこまで頭が悪いのに自分を経典読みではなくリベラル(笑)だと思っている)
その結果、
「ワークライフバランス」なんていう国による・間に合わせの・不格好なスローガンを
いつのまにかコーランの聖句かなんかぐらいに勘違いするようになって
「あの女が聖句を冒涜的したぞ!」と事件が起きたかのように騒いでるわけ。
こういう奴等に本当に必要だったものって出来もしない進歩思想じゃなくて宗教、
それもイスラム教ぐらい個人の生活に立ち入って来て「ただしいこと」を決めてくれる中世的宗教だったんだよな。
中世までしか適応できない知能レベルで間違って近代に生まれちゃって苦しんでるわけだから。
何故か自分達にちょうどいい価値(古めの宗教や迷信や陰謀論)を見下してるし
自分達より遥かに能力ある女を見て「無能だ」と大騒ぎしている。
政治に関心ある振りをするけど政策なんかは複雑すぎてわからないため、
高市批判するにしても「ワークライフバランス捨てるってゆった!!!」という涜神性を問題にして批判する。
無能の他動症はおめーらだろって思うんだけどね。
モスクへ行け。
背景として高市は夫の高市拓が今年脳梗塞で倒れて要介護になってる。
こいつらどんなきったねえツラしてこれ書いてるんだろ。
夫を介護施設に叩き込んで働くのは許されんのか?
つまりは高市が手ずから流動食食わせてクソ拭いて風呂に入れるのしか認められないってこと?
それ以外の選択肢は不道徳だからこいつらはこんなにニチャついてるわけなのか?
家族の介護を人に任せたら不道徳になるのは要は高市が嫁だから・女だからか?
ほんとに骨の髄までリベラルだなあおめーらは。
それにしても、
夫の介護について「ここが弱点に違いない!」と思いついて実際に書き込むまでのあいだの
どっかの瞬間に我に返って突発的希死念慮に襲われたりしねーのかな。
ボウフラちゃんの脳って便利。人間じゃなかなかこうはいかない。
高市はこういうくだらない生物たちからのあらゆる投石に負けずにここまで上ってきてて、
ついにボウフラが一生解さないなんらかの信念をこれから果たそうとしてるんだろう。
自分の生を何に使うか決めた者と
人間と鬼って感じがする。
そうかな?そうかも……
普段FM-Aシャーシを使っているんだが、カラバリシャーシが軒並み無くなってしまった。
と思うかもしれないが、実際は結構大きな差が出る。
特にシャフトで駆動する方軸モーターシャーシは大きな差が出る。
というのも、含まれる顔料によってシャーシの剛性や滑らかさがかなり変わる。
個人的に蛍光オレンジは昔から大好きで良く使っていたのだが、アレは結構寿命が早い。
前は別売りでカラーシャーシが売られていたのだが、最近タミヤは再販をしてくれない。
ので、今まで360円で手に入っていたシャーシもプレミア化して1500円とかになっている。
前述したとおり蛍光シャーシは寿命が短いのでそうポンポン買う事も出来ない
(金銭的な問題といより、個人のストック品をフリマアプリなどで購入すると保管状況が結構悪かったりして性能にムラがあったりするので)
というわけで現状黒とガンメタの中から選ぶしかないのだが、ここはガンメタを選ぼうと思う。