
はてなキーワード:霊魂とは
自由で奔放なヒロインとSFがいいなって思って、それで一冊だけ買ったのだけれど、どうしても続きが読みたくなるほどにはハマらなかった。
鶴田謙二の作品もそうだが水と女性というモチーフは私は大好きで、ついでに人魚も好きなのだが、理由はよくわからない。
初当時のときのヒロインの姿がかっこよかったので買った(裸じゃなくてスポブラなのでかっこいい)。スポーティーな姿って刺さる。
アルファケンタウリからの帰還後、コールドスリープから目覚めたら地球が見当たらない。どうも地球が重力を無視して内惑星の軌道を突っ切って太陽に接近するように移動していて、人類の生存が絶望視されていた。こういうハードな設定もいいし、健気なAIも好き。ただ、山海経モチーフのモンスター退治に話がシフトしつつあり、今後の展開が自分の好みになるかどうかはわからない。
ゆっくりとした時間の中で、いろんなものをアーカイブ化していく穏やかな世界に見えるんだけれど、霊魂の定着技術があったり、肉食文化が途絶えていたり(卵や鶏肉は植物から採取され、常にTAMAGO、TORINIKUとローマ字表記される)、設定がきちんとハード。どうも死の概念が忘れ去れているようで、人がいなくなるのは感染性(?)の樹木に変じる病による。ただ穏やかなだけでもなく、暗鬱なだけでもなく、バランスがいい。一気読みしたのだが、後数巻でたらまた一気に買って読むかも。
珍しく広告につられて買ってしまったのだが、夏のノスタルジーとちょっと性的な少年少女の話だった(感傷マゾ持ちにハマりやすそうな話である)。全体的に夏、水辺、裸体がモチーフで、野外や大自然で裸になるパターンが多く、ぐっさりと刺さってしまった。男性女性を問わず、笑顔で裸になっている人間は幸福に見えるし、だから男性の裸体彫刻や水浴図とかも結構好き。
著者本人がアラレちゃんに影響を受けて書いたと言っている通り、SFなんだけれども宇宙に巨大な魚が浮かんでいるような何でもありの世界を舞台にしたピノキオ。
この人の漫画はどういうわけか好きで、昔「機動旅団八福神」を買ったのだが、今回のが良かったので「少年少女」を一気読みした。
福島聡の描くヌードって、理想化され過ぎていないというか、服を脱いだ時の人間の身体の間抜けっぽさが出ているから好き。
大森望あたりが編集した日本SF年間ベスト傑作選にこの中の作品があったので買った(八木ナガハルとか市川春子とかこのアンソロジーで知った。前者は以前地球温暖化に懐疑的な発言をしていたので最近読んでいないけれども。粟岳高弘もここで知ったような気がするが別ルートだったかも。この人は商業でも同人でも自分の欲望に素直なので好感が持てる)。
亡夫の遺骨を納めに地球にゆっくり向って行く話なのだけれど、主役の女性が実はスーパーハッカーで、そのあたりも話にからんでくる。ちょっと何でも出来過ぎやしないかと思わないでもない。
滅茶苦茶印象に残ったわけじゃないんだけれども、何となく好き。ただし、同じ著者の本をまた買うかどうかはよくわからない。
恋愛じゃないけれども男性同士の重い感情は好き。それを言ったら、フィクションは架空の人間の重い感情を楽しむ側面が結構あるので(他には架空世界の不可解さを楽しんだり、異常心理をのぞき見るような面もあるとは言えるが)、表題作は印象に残った。
ヴィレッジヴァンガードで昔売っているのを見た。
好きなんだけれども、初期作品だからちょっとわかりやすすぎるなってプロットも結構あった(表題作はサヴァン症候群の扱いがちょっと雑じゃないかって思った)。
求めていた初期弐瓶勉フォロワーだ(弐瓶勉は初期の味わいが好きだけれどその色彩をすっかり失ってしまっている)。ただし説明はゼロではなく適度にある。建築物の絵も繊細でとても良い。
何となくポストアポカリプスものを連続して読んでしまった(我ながら安易な趣味だと思う)。二人の女性の物語だが、一方的に助ける関係ではないのがいい。
太腿の太くてかっこいいハイレグレオタード(ガーターベルト及び羽織るもの付きで、ときどきレオタードのお尻がちらちらする)などに作者の趣味が出ているか。
表紙のバニーガールにつられてしまった(ほかにバニー坂や森薫の拾遺集もバニーガールにつられて買ってしまった)。あちこちの作品でモテない人のメンタリティが良く出ている気がするし、そのほうが面白い。モテる人の話を読んでもあまり面白くないのである。あと、夜のお店で働くヒロインのバニーガール衣装の安っぽさがちょうどよかった。ちゃんとしたバニーガール衣装って採寸するからか、透明な肩紐がいらないんだよね。
温和な漫画を描いている人がダークファンタジーを書いているのが好き。基本的に芸風というは引き出しの多い人のほうが面白い。ただ、漫画を電子化して以来、何気なく手に取って再読することが減っており、昔と比べて漫画のコマを記憶する力が落ちている。
画風に惹かれ、絵を楽しんだ。ロングスカートのメイドさん好き。
こういうぼんやりしている、いい人だけれど別にモテそうではない、けれども好感を持つ人がいるかもしれない、嫌じゃないと言ってくれそうな人がいそう、くらいの人のほうがリアリティあると思うのだよね、私は。
アマゾンのポイントが余っていたので一巻だけ買った。冒頭だけ読んで、ヒロインの造形がかわいいんだけれど、これまたこういう子と青春したかったという感傷マゾ的な思いが浮かんできそうなので、読み進めていない。
活字ならともかく、多分長編漫画を読む体力がないのだろう。単純に漫画を読む訓練不足かもしれず、そもそも長い漫画を一気読みしようとするのが間違っている可能性もある(連載されていた時のペースで読むべきか)
結局漫画を買うかどうかって性癖に刺さるかどうかなのだろうが、だからと言って性癖や属性だけで選んでもピンとこないことは多々ある。漫画を探すのって難しいね。これが活字だとかなり直感が働くんだが、漫画だと読みこなしてきた冊数が少ないので直感が鈍い。
というか、刺さるのが欲しければ量を読まないといけないし、性癖で選ぶならエロ漫画を買えという声が聞こえてきそうである。
逆に、何となく買ってしまった漫画で思いがけなく性癖に刺さってしまったときのほうがぐっさりと刺さる。サービスシーンのタイミングって難しい。あと、是非はともかく、ストーリーでダレてきたシーンで裸が出てくると意識が集中するのは確かだ。Save the catとかの脚本術の本で説明シーンにギャグを入れて集中力をそぐなとか言ってるあれ。
以前投稿したメモ書きにはラブコメ漫画をいくつかリストアップしたが、よくよく考えてみればラブコメはそこまで好きではなかった。読んでいるとさえなかった学生時代を思い出して辛くなるし、こういう青春が送りたかったと悶々とし、感傷マゾで時間を無駄にしてしまう。そういう人生の過ごし方はしたくない。SNSで投稿されがちなほんの数ページのいちゃつきくらいなら我慢できる。
ところで、それで思い出したのだが、漫画もプロモーションで面白そうなのをtwitterで見ても一章だけ読んで満足してしまうことが多々あり、買うことは稀。ウェブ連載でも、一話見れればそれでいいかと飽きてしまいがちだ。これだけフィクションが飽和しているからかもしれず、そもそもドラマとかも一話だけ見てみるみたいな楽しみ方をしている人が結構いるものなのかもわからない。
性的テーマを扱うな漫画が含まれていたのは、サブカルをこじらせてエロティクスfとか太田出版のとかばかり読んでいたからだ(あとは作家つながりでfellows!とかハルタとか楽園とか。少しでも早く大人になりたくて/大人の世界をのぞき見たくてそういう漫画ばかり読んでいたけれども、かえって拗らせが深まったばかりである(どうせ少年誌やラノベではではラッキースケベ程度だと決めつけて、本番がありそうな活字に行った側面もある)。
アクション漫画もそこまで好きではないのだが、ジョジョはなぜか読み続けている。
そんなこんなで次に何を読むのかを考える。
今のところまだ揃えていないウスズミの果や伽藍の姫の最新刊が欲しい。
ピッコリーナはバニーガールだけれどラブコメっぽいし長くなりそう。
ハイレグが見たいならウチのムスメに手を出すな! か。三巻くらいで完結してるし。
アクションだとニンジャスレイヤーとか女子攻兵とかか(後者は変な世界観ということで)。
SFや別世界の面白さでいえば堕天作戦かヘテロゲニアリンギスティコか。ヨコハマ買い出し紀行とか少女終末旅行とかも気になっているが、人類がほぼ絶滅しているSFが続いたし、間を開けよう。あまり希望のない終わり方をする作品には飽きてきているし。
なぜかダンジョン飯にピンと来ていない。あの人の短編集は結構好きだったんだが(画風をわざとシンプルな画風の子育てエッセイ漫画のように変えてメタフィクションっぽくしたり、人狼の存在する世界を表現したりと、自分がどんな表現をしているかを自覚的にできるところが優れている)。異種族レビューアズはちょっといろいろひどすぎる(褒め言葉)か。でも、イマジネーション凄いよね。
もやしもんみたいに雑学が増える漫画が好きだったので鬼灯の冷徹は気になっていたのだが、いかんせん長い(全部買う義理はないけれどね)。
進撃の巨人くらい読んでおくべきかと思いながらも、長いのになかなか手が伸びない。ちょっとかって気に行ったら書いてしていけばいいのにね、なぜか大人買いをしたがってしまう。漫画って完結する前に買うけれど、活字って(少なくとも古典文学は)全部揃っているってところがあって、そっちの習慣が抜けきらない。でもテルマエ・ロマエとかプリニウスとかは徐々に買い足していった。
と、ここまで書いてきて段々整理できてきた気がする
今朝、目が覚めたとき
満足できそうですか?
今いるところが、こよなく大切だと思いますか?
すぐに「はい、もちろん」と
いえなかったあなたに
これを読んだら
まわりがすこし違って見えるかもしれません。
もしそれを100人の村に縮めると
どうなるのでしょう。
100人のうち
52人が女性です
48人が男性です
30人が子どもで
70人が大人です
そのうち7人が
お年寄りです
90人が異性愛者で
10人が同性愛者です
70人が有色人種で
30人が白人です
61人がアジア人です
13人がアフリカ人
13人が南北アメリカ人
12人がヨーロッパ人
33人がキリスト教
19人がイスラム教
13人がヒンドゥー教
5人は、木や石など、すべての自然に
24人は、ほかのさまざまな宗教を
信じているか
あるいはなにも信じていません
17人は中国語をしゃべり
9人は英語を
6人はスペイン語を
6人はロシア語を
これでようやく、村人の半分です
しゃべります
いろいろな人がいるこの村では
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です
また、こんなふうにも
考えてみてください
村に住む人びとの100人のうち
20人は栄養がじゅうぶんではなく
1人は死にそうなほどです
でも15人は太り過ぎです
すべての富のうち
6人が59%をもっていて
みんなアメリカ合衆国の人です
74人が39%を
20人が、たったの2%を分けあっています
すべてのエネルギーのうち
20人が80%を使い
80人が20%を分けあっています
75人は食べ物の蓄えがあり
雨露をしのぐところがあります
でも、あとの25人はそうではありません
財布にお金があり
家のどこかに小銭が転がっている人は
いちばん豊かな8人のうちの1人です
自分の車をもっている人は
豊かな7人のうちの1人です
村人のうち
けれど、14人は文字が読めません
もしあなたが
なにかをし、ものが言えるなら
そうではない48人より
もしもあなたが
おびえていなければ
そうではない20人より
1年の間に、村では
1人が亡くなります
でも、1年に2人
来年、村人は
101人になります
もしもこのメールを読めたなら、
これを送った誰かがいるだけでなく
けれど何より
昔の人は言いました
巡り往くもの、
また巡り還る、と
深ぶかと歌ってください
のびやかに踊ってください
心をこめて生きてください
たとえあなたが、傷ついていても
愛してください
まずあなたが
愛してください
この村に生きてある
ということを
もしもたくさんのわたしたちが
この村を愛することを知ったなら
この村を救えます
きっと
○ご飯
朝:バナナ。昼:おにぎり。おそば。カスタードパイ。夜:トマト。ギョニソ、人参、玉ねぎ、しめじのスープ。冷奴。納豆。目玉焼き。バナナ。ヨーグルト。間食:ラムネ。アイス。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、むむむむー。
○ポケットモンスター銀(あくポケモン旅)
シジマを倒すところまで。
ニューラとヤミカラスが技がなくてめちゃくちゃしんどいし、イーブイはブラッキーに進化しないしで、ここ最近のポケモン旅で一番辛いかも。
15億のゴムーン貰うところまで。
疲れたのでメデューサ引けるに違いないとガチャ回したらめっちゃ普通に天井だった。周年あるのにヤバいですね。
来月のTSローテはリナクロかあ。
最近、英語教室に通ってるのだけどイギリス人の先生から会話に主語が抜けていることを何度も指摘され、後で気になってChatGPTに壁打ちしたら面白い文章が導けた。
先生はきっちりしたイギリス英語を教えてくれる人で来日当時に日本人が頻繁に主語を省いて話すのですごく困ったそう。
授業中にその理由について先生と雑談レベルで考察していて、自分は日本語では名指しをすることがどこか失礼に感じてしまう、またはアミニズムの影響があるのでは?と何となく伝えたんだけどChatGPTが自分が思ってたようなことをうまく言語化してきたのでそのやりとりをここに放流します。
日本語は「文脈依存性」が非常に高い言語です。会話の中では、誰が話しているのか、何について話しているのかが文脈や状況から自然に理解されるため、主語を省略しても意味が通じやすいです。たとえば、「食べました」とだけ言っても、「誰が食べたのか」は話し手や状況次第で分かります。
日本文化では、明確に言い切るよりも、あいまいさや相手に察してもらうことが重視されることがあります。このため、主語をはっきり言わない方が柔らかく、礼儀正しい印象を与える場合もあります。
日本語には敬語があり、相手を尊重する表現が重要です。このため、自分を主語にした「私が~」という言い方を控え、相手や行為そのものに焦点を当てる傾向があります。
日本語では、主語がなくても動詞だけで文が成り立ちます。例えば「行きます」と言えば「誰が行くのか」が文脈から判断できるため、主語を必ずしも明示する必要がありません。
英語は文法的に「主語+動詞」の構造が基本で、文脈だけでは意味が通じない場合が多いため、主語を省略することができません。たとえば、「Iate」と言わなければ、誰が食べたのかが伝わりません。
主語を省略する日本語と、省略できない英語。この違いを意識して英語を学ぶと、日本語とは異なる言語の構造に慣れる助けになるかもしれませんね!
その通りだと思います。
アニミズムの影響を考えるのは非常に興味深い視点です!確かに、アニミズム(万物に霊魂が宿るという考え)は日本の文化や言語に深く根付いており、主語の省略や曖昧さに影響を与えている可能性があります。
人間中心でない視点アニミズム的な世界観では、自然や物体、現象すべてが生命や意志を持つと考えます。そのため、日本語の表現でも「人間中心」の主語を明示しない傾向があります。たとえば、「雨が降る」という表現には、雨そのものが主語となり、「自然が自律的に動いている」という感覚が含まれます。
一方で、英語では「Itis raining」という表現が使われ、「it」という形式主語を明示します。これには、英語が明確な主語を必要とするという文法ルールが関わっていますが、日本語にはこうした「形式主語」の必要性が薄いのです。
行為そのものへの焦点アニミズム的な考え方では、「誰が行ったか」よりも「何が起こったか」や「どういう状況か」が重要です。たとえば、「花が咲いた」や「風が吹いた」という表現では、主語は自然現象や物であり、人間ではありません。このように、行為そのものに焦点を当てる傾向が、主語の曖昧さや省略を可能にしているとも考えられます。
暗黙の了解を重視する文化アニミズムの影響を受けた文化では、「言わずとも伝わる」という感覚が重要視されます。すべてがつながり合い、調和の中に存在しているという意識が、あえて主語を強調しない日本語のスタイルに影響を与えているかもしれません。
日本語にはアニミズム的な考え方が反映された表現がいくつもあります。
自然現象を主語にする:「月がきれいだ」「山が泣いている(霧が出ている)」など。
人間以外を主体にする:「扉が閉まる」「橋が崩れる」など、人が関与せずとも「物」が自律的に行動するように表現される。
アニミズムの影響は、日本語だけでなく日本の文化全般に見られる深い特徴です。この視点を意識することで、日本語の主語の曖昧さが単なる言語構造ではなく、世界観に根ざしていると理解でき、さらに面白さが増しますね!
アニミズム的な考え方が反映された表現で自然現象を主語に、人間以外を主語にする、とありますが、英語でこのような表現はあまりしないということでしょうか?
はい、その通りです。英語では、日本語に比べて自然現象や人間以外のものを主語にする表現が少ない傾向があります。これは、英語が主語を必ず明確にする必要がある言語であること、そして西洋文化において人間中心主義(anthropocentrism)が強調されてきた影響が関係しています。
英語では、自然現象を表すときに「it」という形式主語が用いられることが多いです。これにより、自然現象が自律的に起こるというニュアンスは薄れ、人間視点で状況を説明しているように感じられます。
日本語の例:
ここでは「雨」「風」「雷」そのものが主体ではなく、「状況」を伝えるための形式的な主語が使われています。
日本語では、人間以外のもの(物や自然)が主体として動作を行う表現が多く見られます。一方、英語ではこのような表現が少なく、人間が意図的に何かを操作しているかのようなニュアンスが含まれることが一般的です。
日本語の例:
"The door opens."(文法的には正しいが、通常は "Someone opened the door." のように人間の行為を明示することが多い)
"Flowers bloom."(自然に起こることを表すが、日本語ほど主体性が強調されない)
"Thetreeis swaying."(こちらも状況を説明する形)
英語では、西洋文化における理性や科学的視点が強く、自然現象や物には魂や意志が宿っているという考え方があまり言語表現に反映されていません。そのため、以下のような日本語特有の表現は英語に訳しにくい場合があります。
日本語の例:
英語に訳すと、どうしても説明的になったり、「詩的」だと感じられたりすることが多いです。
もちろん、英語にも詩的な表現や文学的な場面では自然や物に意志を持たせることがあります。このような手法は「擬人法(personification)」と呼ばれます。
しかし、これらはあくまで特別な表現であり、日常会話では使われないことがほとんどです。
日本語はアニミズム的な影響から、自然や物が主体として動作する表現が多い一方で、英語は人間中心的で、主語を明確にしつつ状況を説明することが一般的です。この違いを理解することで、英語と日本語の間の文化的・思想的な違いをより深く学べますね!
「虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められています。しかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります。日本語の表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手の家族やファンに配慮する意味で、もっと一般的な表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。
ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ちも理解できます。
「虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります。哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります。
こうした表現の適切性は、文化や個人の感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族の感情、そしてコミュニティの文化的背景を考慮することが重要です。
芸能人の訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。
由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペットが虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます。
広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に、家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福を祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります。
故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。
親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちがストレートに伝わる。
一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。
芸能人という公の立場の人物であるため、よりフォーマルな表現が求められる場合もある。
故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。
故人の宗教観や家族の意向: 故人や家族が宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観に配慮した表現を選ぶべきです。
発信する場の雰囲気:プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります。
周囲の反応:自分の言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。
まとめ
「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。
もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現も検討できます。
安らかに眠ってください。
「虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。
補足
この件に関して、より深く議論したい場合は、以下の点について考えてみると良いでしょう。
スピリチュアル関係をいろいろ読み漁ってたら予言とか都市伝説が大好きになっちゃって、来年7月何か起きる気がして仕方ない。やっぱり隕石衝突なのかな? むしろこういう大災害でアッサリ死ねなかったらどうしようと思い始めてる。年々夏は暑くなるし、貧富の差は広がるし、中国は戦争始めそうだし……。このまま生きていたくない要素が多すぎる。
今後何が起きるのかわからないけど、生きるか死ぬかの場面になったら手持ちの資源を若い人に譲って潔く死にたい。醜く争ってまで生きる意味はない気がする。霊魂の世界があるらしいから気になるし。この世に生まれてきた目的は個人の幸福追求ではなく、助け合うためらしいよ。嘘だって笑う人が多いけど、私はなんか信じちゃうんだよね。自分にできるちょっとしたことをして相手が喜んでくれるのを見たとき、ホッとした気分になるんだよ。なんかあれが人間本来の姿のような気がする。今は何でも有料サービス化されてるから、親切のつもりでタダで引き受けちゃうと営業妨害で怒られそうだけどね。
「肉体の傷・個人の心の傷・社会的な扱いの傷、それぞれ分けて考えたほうがいい」は本当にそう。
魂という語の扱いを間違えてるし、正確な表現にすべき。
魂/魄(たましい)
1 生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。霊魂。たま。「—が抜けたようになる」「仏作って—入れず」
3 それなしではそのものがありえないくらい大事なもの。「刀は武士の—、鏡は女の—」
4 (多く「…だましい」の形で)そのもののもつ固有の精神。また、気構え。「大和 (やまと) —」「負けじ—」
5 思慮。分別。
「いみじう—おはすとぞ世人に思はれ給へりし」〈大鏡・道隆〉
| 文末!増田 | なんとなく元気が出る!ふざけてる感も良し! |
| 興味ないクラウド | 嫌味でしかないけどクラウドが増田みてると思うと楽しくなる! |
| 再投稿は甘え増田 | 甘えかどうかはさておき、単純接触効果で「今日も活動えらい」と思う! |
| しゃーない、ワイ増田 | だいたい斜め上のしょーもない慰め方をするキモおじさん! |
| "○○"約xx件増田 | しょーもないアナグラムを他の人が思いついてないかにご執心! |
| なんつってぷぷ増田 | しょーもないオヤジギャグしか言わない、逆にこれ美少女なのでは?! |
| 前田君 | 単純接触効果でいると安心する!たまに絡んで来るけど言葉の意味は分からん! |
| シコって寝る増田 | 何でシコってるかは教えてくれないけど熱心で偉い!どすこい! |
| 性欲強太郎 | こないだ聞いたらオカズはガチケモと判明してドン引きよ!!(※全ジャンルらしい) |
| アニメに救われてる増田 | なんかすぐ死にそうだけど生きてて偉い! |
| 今夜もカレー | カレーって何の隠語なの……? |
| しにたい増田 | ひらがなだから実は死にたいじゃなくて死に体だと思うんだけど、どうなん? |
| 死んでる設定のワイ | どうやって書き込んでるん……? |
| 身代わりに死にたがるワイ | 殺意を読み取ると横からやってきてグエーってなるやつ! |
| 右斜め下から参上するワイ | シュバッ! |
| パンティー増田 | パンティーって言いたいだけね!でも買い集めてるガチな人だった気が! |
| pre記法でAA増田 | 唐突に2ちゃんねるの風が吹く! |
| レインボー増田 | 文字色レインボーで綺麗!主張は汚い! |
| みつを | 人間だからしょうがない! |
| 突然歌い出す増田 | ここってミュージカルの舞台だっけ?! |
| ○○見てるんだけど増田 | いつも古いロボアニメ見てるよね?! |
| ホヨバ増田 | たまにすごい熱量で力説しててすごい! |
| ガジェット増田 | リンク貼りまくってめっちゃ沼にしずめようとしてくる! |
| eスポ一家言増田 | 日本は遅れてるんだよね!しらんけど! |
| パチ肯定増田 | パチが嫌われるの許せないんだよね!しらんけど! |
| しらんけど増田 | しらんよな!わかるわかる! |
| RJxxxx増田 | もっとおすすめを教えてくれてもよくない?!性癖をシェアしよう! |
| 成仏してクレメンス | 増田にはッ!迷える霊魂が多すぎるッ! |
| 働いたら負け増田 | 引きこもりが最適解だよな!わかるわかる! |
| 宇宙スケールで考えだす増田 | 人類なんてちっぽけだよな! |
| 絵文字だけ増田 | 10秒くらい考えちゃう! |
| カニバリズム増田 | 食人の波動に敏感₍₍⁽⁽🦀₎₎⁾⁾! |
| 波打ち際に毛球あり増田 | 何て? |
| 僕は死にましぇん増田 | 古ない?! |
| 橋本環奈だいすき増田 | だいすきクラブ会長に任命しよう! |
| ❌⭕増田 | パリコレじゃないけど! |
| [増田マッチングサービ] | え、こわない? |
| なんたら高校校歌 | 歌っていいものですよね!夜はなんたら音頭で盆ダンス! |
| たし🦀 | Exac🐦(その🐦でございます)! |
| プレミアムフライデー増田 | 風化させまいとする強い意思を感じる! |
| すいすいすいようび | 水曜日じゃないよねえ!ホッツウォーター! |
| お嬢鯖部 | めっちゃ中部圏の博物スポット回るじゃん! |
| シュバッ!…ではさらばだ!増田 | ヒーローじゃん! |
| 礼には及ばんでござる増田 | オートリプライ助かる(?) |
| いいってことよ増田 | 勝手に赦すこと菩薩のごとし! |
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「ThreeCoins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「HeavenCartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrastwith traditions of Calvinism, Phelps'sversion ofheavenis corporeal where the dead have "spiritual bodies",live in houses, raise families, and participate in variousactivities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
18世紀~19世紀の米英のキリスト教史を調べないともうちょっと正確な認識ができるのだろうけれど、それは今後の宿題だな
西洋世界の文化史とキリスト教の歴史は不可分だから体系的に勉強したい
Permalink |記事への反応(15) | 09:34
「死んだら無になる」って誰が言いだしたんだろう、と思い調べ始めたが……思ったよりも大変だなこれ
『近代日本人の死生観』という論文……国士舘大学の講演会資料?……に以下のような記述がある
一九〇一年、死を宣告された政治思想家の中江兆民は、間近に迫った自己の死を強く意識しながら、『一年有半』、『続一年有半』を著しました。そこでは身体(駆殻)こそがすべてで、精神などというものの実在を想定する必要はない、死とともに個人の存在は終わるのだというさっぱりとした考えがけれんみなく提示されています。
へぇ~、明治のころにはもう最近の日本人がしばしば言いがちな「死んだら無になる」って考えを持った人がいたんだなあ
じゃあこの「死んだら無になる」って考えはどの時代までさかのぼることが出来るんだ?
「神」の存在は否定しても「霊魂」の存在は否定しない考え方もあるようなのだ
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。
まさしく「死んだら無」の考え方
しかし、この仏教の断見という考え方が現在日本の「死んだら無」という考え方に直接つながっているわけではおそらくないだろう
こうした考え方が広がっていく背景には、近代科学が前提とする唯物論的な世界観の影響があるのは確かです。しかしまた、現世を尊ぶ儒教や神道、また霊魂の実在ということを否定する仏教の伝統が影響を及ぼしていると見ることもできます。
じゃあ唯物論について調べるか……と思ったがここで調査打ち切り
なんか唯物論の西欧での歴史をざっくり眺めてると、神の存在は否定していないように見えるんだよな……ここらへんキリスト教の知見が足りないのかもしれない
そしてなぜか途中から共産主義の話になる、わけわからんくなってしまった
キリスト教の歴史について書かれた初学者向けの本を先に読むべきかもしれない
もともと私は幕末~明治の日本人の宗教観を調べていたのだが、面白そうなテーマがあってつい脱線してしまった
2002年刊行の『死と唯物論』という本が面白そうなのだがすぐには入手できなさそうだ
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Wikipediaの「無神論の歴史」のページの記述で関係ありそうなところをピックアップしておくか
「チャールヴァーカ」の項
パーリ経典によれば、紀元前6世紀のアジタ・ケーサカンバリンが仏教徒と議論をして「身体が滅びるとともに、賢者も愚者も等しく滅する。彼らが死後も存在するということはない」といったことを既に説いている[3]。
江戸時代の日本の「浮き世」の考え方(=現世利益)ととても相性がいい
「死んだら無」とはすなわち祖先もまた無になったということになるので受け入れ難いか?
これも「死んだら無」の論理だったが先祖を敬うことは推奨する思想になっていたのが上手いところ
流行りはしなかったようだが
エピクロスは「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」という語録も残しているようだ。原子論的(唯物論的だ)な考えから導き出された思想か
西洋の啓蒙時代まではキリスト教の影響が大きすぎて無神論の考え方は全然育たなかったみたいだ
ざっと見た感じ現世利益と唯物論の合わせ技で生まれる発想みたいね
誰が言い出したんだという話からはズレるが、現代日本で「死んだら無」って言ってる人は漫画の影響とかありそうな気もする、知らんけど
という話になるのかな?
UFOとかネッシーとか雪男とかが、いると思っている人がいたとするじゃない。
俺たちはそういう人を見ると、
その人は間違っている、と決めつけるだろ?
それが当たり前だ、という感覚を身につけている。
その一般的な現代人の感覚が広く一般に普及したのがいつくらいからか?という話だよな。
と信じている人を現代に連れてきて、
現代社会の中に紛れさせて暮らさせても、
ある種の教育を与えない限り、
心、とか。誰も心なんて見たことないけど、心はあると信じてるじゃない?
でも、そういうものの存在が科学的に証明されない限りはそれは存在することにはならない。
と思い始めるには何が必要となるんだろう?
という話だよな。
別の日記でもつぶやいたんだけど、なんとなく異世界転生に違和感があったんだよね。何だろうって考えていたら、自分の中でメジャーだったのは二種類の魂が同居する物語だったんだなと
そもそも異世界転生に詳しくはないから頓珍漢なこといってるかもだけど、何個か見ていると大体「死んだ人が別の世界の人間として生を受ける」というのが昨今は主流だと思う
その手法は様々だけど、基本的に転生した人が別の生き方を模索するってのは俺の中では意外と斬新だった
何でかって言うと、例えばシャーマンキングや遊戯王や電王ってのは、別の霊魂や怪物が他の人間の肉体を借りて戦うんだが、あくまでも主体は元の持ち主なんだよね
で、遊戯王とかがわかりやすいけど結局はその霊魂とかが役割を終えて離れていったり、元の人格と共生したりというのが20年くらい前から続く一種の伝統だった気がする。
けど異世界転生って基本的に肉体の主導権とか記憶を取り戻したら元の人の人格とかがなんか有耶無耶になっているように思うんだよ
ある日記憶を取り戻したら異世界の人として生きていた、とかだと「じゃあ今まで生活していた人格ってなくなったの?」って感じていた
勿論そういうところにスポットあてる作品だってあるんだろうけど、俺の中でメジャーだった「一つの魂に何種類かの魂が入り込んだり肉体の主導権争いをしたりする」ってのがあんまりない気がする。
九尾の狐とかホロウとか、違う存在が一つの肉体の主導権を争ったり共闘したり、主従関係を結んだり分かれたりってのが少年誌あたりではとても多かった印象
そういう昔からのオーソドックスなファンタジー設定からすると、異世界モノは呪術廻戦でいう「受肉」に等しく、元の人格を乗っ取ったり融合したりして一つになった存在として生きてるから結構違和感があったんだな
とはいっても呪術廻戦自体は主人公と宿儺が入れ替わったりするからちょっと違うかもだが
なんかとなく、こういう受肉に近いのは侵略者のやる行為で主人公サイドがそれをするのが自分の中では斬新
逆に今まで触れてきたファンタジーって意外と亜流だったのかもしれないなーと最近思ってる
というか異世界モノって一人の人格のやり直しモノなんだから、そんな肉体の主導権とか面倒なことしてても面白くないんだろうな
まあそこは詳しい人が勝手に話してくれるか
https://mainichi.jp/articles/20230819/k00/00m/040/080000c
有料部分は読んでないけど、学術的論拠に基づいた正確な情報に難癖つけるのは報道の敗北みたいなブコメがトップコメだった
科学的にほぼ真水と変わらないレベルに薄まった糞尿下水があります
たまった下水を処理するためにこれをあなたの家の庭で常時スプリンクラーで撒きます
これを以前バキュームカーで事故を起こして糞尿をあたり一帯にぶちまけた業者と行政が言ってきました
これに科学的に正しいのだったら存分に撒いてくださいって皆が皆言えるかといったらそうではないでしょう
科学的に問題なくても元うんこは絶対に飲みたくないし自分の敷地には撒かれたくないって人は大勢いるよ
ここにあるのは「穢れ」への忌避感だ
科学的に得体がしれないから拒否してるのではなく、放射性物質に感じるのはそうした「穢れ」の感情であり、そういう感情を持つ人にとっては科学的正しさのみで帰依はできない
霊魂はいないと分かってても死んだ祖母の入る墓を邪魔だからという理由だけでなぎ倒せるかって話ですよ
そして、社会生活を送る以上そうした人たちと好む好まざるに関わらず共存するしかないのです
科学的正しさで帰依できないのはおまえが馬鹿だからだと分断を煽ってどうするんですがねえ
今後の処理水放出で風評被害は起こるし、デマをまき散らす人もでるでしょう