
はてなキーワード:雰囲気とは
子供が〇〇菌とか言ってるのと同じノリで、あいつキモいし暗いしなんか触りたくねーよなって言ってるだけだろ
そういうなんとなくのノリが共有されてれば、どんな言葉を当てるかなんて些細なことだろ
言葉ってのはノリなんだよ
みんなで楽しくウェイウェイ言ってることこそが本質で、定義なんてのは後から細かい人がそれに合わせて言語化してくれれば良いだけの話であって、「定義に沿った正しい言葉遣い」なんてのはやりたい人だけがやれば良いんだよ
普通は初めにノリとか雰囲気で言葉が決められて、後から定義がついてくるんだよ
世間的に「清潔感」が「お前なんとなく汚ねーから外見ちゃんとしろよ」ってノリになってるんだから、それでいいんだよ
その「清潔」の部分だけ取り出して過度に固執するんじゃないよ
友達とずっと仲良くいるのって難しいんだな。
子供がいるか否か、結婚してるか否か、彼氏がいるか否か、付き合っていてもうまくいってるか否かでなどで対応が難しい。
例えば、結婚してる側がしてない側と話すと、知らず知らずのうちにマウントしてるように見えかねないし、マウントじゃないよ〜と思ってもらうためににどこかしら自虐して面白おかしくしないと場の雰囲気を壊してしまいかねない。
アホらしい。疲れてしまった。
5人ぐらい…😟
年齢不問、学歴不問、職歴は…、ちょっと怖いから気になるかも…
交通費は出ません
中期的には工事に入ってもらう必要があるらしいので、片付けないとなあ…😟
今日の昼は、レトルトのアラビアータと豆腐とほうれん草の味噌汁でした
まあ、ひとりの方が気楽か…😟
Xで中国語アカウントをよく見るようになった。みんな何故か馴染みのあるスピード感の罵倒を並べていて、何で見慣れた感じがするんだろうと思ったけど、今まで日本語で日本嫌いそうな話をしてたアカウントと雰囲気がかなり似てるのかもと思った。フワッとした感覚でしかないけどねぇ
「清潔感出せばモテるよ!」ってよく言われるけどさ、アドバイスの内容をよーく聞くと、どう考えても「清潔かどうか」なんて関係ないんだよな。
・痩せろ
・髪型を整えろ
・肌を綺麗にしろ
・シワのない服を着ろ
・似合う服を選べ
…こういうのばっかじゃん?
これ全部まとめて言い換えると「顔面・体型・服・雰囲気をトータルで美しく整えろ」ってことで、要するに外見をレベルアップしろって意味だよな。
どこに「清潔」って要素あるんだよって話。
風呂入ってて、服洗濯して、歯磨いてても、顔がデカいとかファッションセンス死んでるとか、めちゃ太ってるとかだと「清潔感がない」って言われるわけでしょ?
それもう単に「君のビジュアルが弱い」って言ってるのをごまかしてるだけじゃん。
でさ、このおかしいところを指摘すると必ず現れるんだよ。
「まずは風呂入れよ」
「服洗えよ」
いやいやいやいや、さっきまでお前らそれ言ってなかったじゃん?
なんでこっちが「それって清潔と関係なくね?」って言った瞬間だけ、急に意味を「清潔」ベースにすり替えてくんの?
しかもタチ悪いのがさ、どう考えても風呂入って服洗って部屋掃除してる人に向かって嫌がらせのためにそれを言ってるよなお前、っていう状況が普通に起きてるところなんだよ。
相手が人としての最低限を普通にやってるのわかってんのに、わざと「そこもできてないだろ」って位置まで落として攻撃してくる。もはやアドバイスじゃなくてマウント取りと精神的キック。
「不細工は努力して外見ポイント盛らないと女に相手されないよ」
ってさ。
それなら話がズレずに済むし、こっちも納得できる。
そもそも「清潔感」って同じ「清潔」でも、限界までハードル下げた意味で使われる時と、限界までハードル上げた「造形評価」の意味で使われる時の2つが混ざってるせいで、会話が成立しないんだよ。
・「痩せて肌綺麗で服似合っていて顔の造りが悪くなくて全体が美しい」という意味の清潔感
もし本音で言うならこうなんだよな?
「外見が良けりゃ風呂入ってなくても清潔感あるし、外見が悪けりゃどれだけ風呂入っても清潔感はない」
リアルライフで仲間外れされて生きてきた俺だが
10年以上使い続けてきたtwitter(現X)でも仲間外れなんでもうやめたくなってきた
一部のアルファツイッタラーが自己顕示欲満たすためだけに使ってるコミュニティにしかなってないのがキツイ
移住したいんだがどこに行けばいいんだろうな
個人的に自由主義・リベラル・個人主義なので最近twitterで主流になってる保守の言論がかなり拒否感があってつらい
(買収前は民主党方向のステマ臭かったけど、今は自民党系のステマ・多数派工作で、どっちにしろあかんわって感じ)
これは更に陰謀論でアルミホイル巻き巻きになるけどgoogleのステマもはびこってるだろあそこ
google以外も企業の印象操作が凄い臭い、ノリも気持ち悪い
リベラルだから、企業がなにがしかの影響力を持ってるのも気持ち悪いって思う
後はVipperとかニコニコとかの悪乗りがひどい方のオタクの濃度が上がって肌に合わなくなってきた
自分は専門板系の2ch住人・自アン民だったのであのうすら寒いノリ大嫌いなんだよね
若い人たちが他所行ったせいなのか知らないけど老人濃度が上がってノリがキツイ
で、そう言う人が凸文化なのか知らんけど大量の誹謗中傷で気に食わない人を潰してしまおうってノリが治安が悪い
(若い人もやってるんだろうけど系統は結局VIPPERの亜種なんだろう)
そして特にXは絵描きとかの権力が強すぎて、それ以外の人が利用してるメリットが少ないのも使ってて虚無感を覚え始めてきた
TLと言うシステム的にイラストは表示幅とれるのとプレビューといいねを集めやすい特性からイラストの占有率が高くなるから
結果として絵描きはフォロワーを集めやすくて、その結果として発言の影響力が強くなる傾向があると思うんだけど
別に絵描きの事好きじゃないし他の人が埋もれるから、興味がないと邪魔でしかない
あと絵描きでもない一般人の自分が呟いても価値がない場所でもあるんだよね
昔はなんとなく検索で新しい人見て繋がっていたSNSだったけど
そう言う新しいつながりってのは期待できなくなったのが結構使ってて虚無感が増えた原因ではある
他のSNSと同じく現実の繋がりがある人は楽しめるけど、そうでない人にとっては閲覧用でしかなくなる
”SNS”としての楽しみはなくなってきてるよねっていう
しかしだとして、どこに行けばいいのかなとも悩んでいるところ
BlueSkyが人気らしいけれどAI問題から絵描きが移住してるらしいから絵描きが好きじゃない自分は合わなさそうな感じがしてる
Misskeyはニコニコみたいなノリが強そうでさらに気持ち悪い、Xよりも雰囲気が気持ち悪そう
タイッツーはありえないでしょ
Mixi2(笑)?
とは言え他に候補がなさそうだからその中から選ぶしかないんかな
まじでどこが一番マシなんだろうか
子供がアンパンマンを見るくらいの歳になったから一緒に見てるけど、俺の中であったアンパンマンと結構イメージが違う。
俺が見ていたのはメロンパンナちゃんが初登場していた辺りだからもう30年前だし、そこから作風が変わったのか、元々そんな感じだったのか。
アンパンマンと言えば、お腹を空かせている人に自分の顔のパンを差し出す自己犠牲のヒーローだというイメージがあるけども、アニメを見てると意外と上げるシーンは少ない。2年分くらい見ていても、たぶん5回くらいしかなかったと思う。昔見てた時はもっと頻繁に上げていたり、なんなら上げ過ぎて顔が無くなり胴体だけになっているようなシーンもあった気がする。その状態でも喋るから、どこから喋ってるんだよと思ったもんで。
でもまあこれは話の都合が大きいと思うけどね。お腹を空かせたキャラがいると、何らかの食べ物をモチーフにしたゲストキャラがその食べ物を与えるって展開が多いから、アンパンマンの出番がない。
こいつ本当にメインキャラか?ってレベルでマジで出番が少ない。
というか、パン工場でパン系ヒーローが集結するとき、何でしょくぱんまんとカレーパンマンは出てこないんだ。
でも、しょくぱんまんはドキンちゃん絡みでもよく登場するから出番は結構多いけど、カレーパンマンは……。
下手すると、ナガネギマンや鉄火のマキちゃん辺りの出番の多いサブキャラにも負けてるんじゃないの、マジで。
やなせたかし氏が10年以上前に無くなっているせいもあるかもしれないけど、最近のアンパンマンを見ていると純粋な新キャラ率はだいぶ低そう。
単に自分が知らないだけのキャラであっても、アンパンマンやばいきんまんは存在を知ってるキャラってのが多いから、既存キャラだけで話を回してる感じはある。
エンディングの歌詞に「ジャムバタチーズ、だだんだ~ん♪」って一節があるけど、単にゴロの良い意味のない単語を言ってるだけだと思ってた。
同じくエンディングの歌詞の一節に「バタコにチーズ、うさこさん♪」って一節があるけど、わざわざ「さん」付けされるウサギのキャラといえば、カバオ君の学校の先生のことかなと思っていたもんで(学校の先生の名前は「みみせんせい」)。
正解はカバオくんの同級生のウサギでした。なぜ歌詞に登場するのか、なぜ「さん」付けなのかは不明。
アンパンマンの攻撃と言えば「アンパンチ」。でも実際の戦闘ではキック率が高い。その名は「アンキック」。語呂が悪い。
とどめの必殺技は「アンパンチ」だから印象に残りやすいというのはあるけど。
テレビのオープニングで流れている「アンパンマンのマーチ」は2番の歌詞。じゃあ1番はなんなのかというと、「たとえ胸の傷が痛んでも」と、一体過去に何があったんだ?と心配になることや、「何のために生まれて何をして生きるのか」という、大人でも回答しづらい問いかけをしてくる。
2番は純粋にアンパンマンのヒーロー感を歌ってる曲だけにそのギャップにビビる。
この前見た1700回記念の「ポエムさんとベンチさん」というエピソードがそうなんだけど、ポエムさんというやなせたかしをベースにしたキャラが、アンパンマンの世界観そのものについての話をベンチさんにして、その一方別のシーンでは、アンパンマンとばいきんまんがいつものように戦いつつも、互いのピンチ時にはそれぞれ手助けをするという話。話全体の雰囲気がアンパンマンの話を畳むためのものとしか思えず、一体何だこれ?と思ったもんで。
ちなみにポエムさんは過去にも登場していて、そのときは歌詞の伏線回収みたいなことを話し出しており、こっちもこっちで最終回みたいな内容だったとか。
ばいきんまんが名前を聞いて、ボスクラスのヤベーキャラだと思い込んで、味方に引き入れようとするけども、実際の「白薔薇の女王」は小柄で可愛らしいキャラだったというオチ。
ついでに言うと、こういうボスクラスのヤベーキャラは、映画だけではなくて通常の放送回のエピソードにも出てくる。
過去にはファミコンやセガサターンのコントローラーがモチーフだったときもあったらしい。
Wikipediaかどこかでこのことを触れていたけど、確かに見ているとアンパンマンって作中で食べ物を食べないんだよな。
食べ物モチーフのキャラだと、最後にその食べ物をみんなで食べて話を締めることが多いけど、そういったシーンでもアンパンマンは頑なに食べない。
今日も特にやることがなかったので歩いて小一時間ほどのところにあるショッピングモール内のフードコートに昼食を食べに行った
そこには何か特別なメニューがあるわけではなく食べたのは普通のおいしい昼食以上のものではないのだがもう一つの目当てのものがあった
導線から外れて人がほとんど通らない空いた空間にある写真展である
写真は付近の街の歴史を明治時代から令和まで振り返るというテーマで並んでいる
明治時代や大正時代のものは原っぱや果樹園や掘っ建て小屋のような駅舎でほとんどが歴史モノの映画のワンシーンのような雰囲気でとても今の街並と連続しているとは思えないファンタジーの世界のように見えた
戦後の混乱期は道端や広場に瓦礫や何かの資材のようなものが転がっていて活気がありつつも嵐の後のような荒々しい雰囲気がある
空爆の被害を受けたのかそれとも別の災害や争乱によるものなのかは不勉強で知識がないのでよくわからなかった
昭和30年代になると街並はまだ荒れているものの自分も知っている庁舎や劇場などの大きくてモダンな施設が建ち始める
昭和40年代には建物の雰囲気はレトロ風なもののここがどこか?と問われたら答えられるくらいには今の街並と地続きな感じの整った景色が完成されている
ネットを見ているとつい人類や歴史のダークサイドばかり考えてしまうがこういう記録を見ると文明の強さや美しさなど明るい面を感じることができて良い経験だった
私:36歳 女 デブ 顔は中の下
私を見た100人中95人が事務のおばさんと言うほど、私は事務のおばさん顔。
ドラマや漫画で出てくる、メガネ引っ詰めスタイルの事務のおばさんっているじゃないですか。
Tシャツは部屋着以外持っていないし、デニムは高校卒業以来身につけていない。
ついでにメイクについても話したい。
昨今はナチュラルメイクが主流だが、私は派手なメイクが好きだ。
眉はやや細めのナチュラルでカーブ系が好きだが、方向としてはバブル期のメイクとかが近いと思う。
兎にも角にも、私は20代からこういったファッションを好んでおり、気がつけばデニムは一本もなく、クロックスやサンダルも無い。
かわりにブラウスとスラックスが数十着、パンプス・スニーカーが占領している。
そこで疑問なのは、ここまで分かりやすく好きなファッションスタイルがあるのは普通なのかどうか。
数少ない友人たちは全員ファッション系の職についているため、参考になるようなならないような。
それは、いつから好きだった?
昔は好きだったけど今はそうじゃないファッションがあるなら、どうして離れたの?
良ければ教えておくれ。
「アンサイクロペディアの鉄槌」と呼ばれた事件から早5年。
このサイトもひっそりと好事家たちによって支えられるかと思いきや、またも重大な事態に直面していた。
2025年初頭、まだUCPではAI記事をぽつぽつ見かける程度であった。AIに記事を採点してもらうツールで自己顕示欲を満たしたり、そんな程度のふわりとした雰囲気で触れていたのだが、AIの進化は早いもので夏頃にはもう人間と見分けるのが難しいほどの精度にまで発展していた。
そんな中、ひとりのユーザーによって「実際これどうするよ?」という議論が起こり、「面白ければOK」という結論のもと、生成AI活用のためのPortalページが開設された。ちなみに議論の提起者およびPortalの開設者は、先の事件に「鉄槌」という名前を与えたその人である痴愚神信者氏、現・ノイマン氏だ。
いろいろと賛否は分かれるところだが、AIで書いたにせよ人力にせよ面白くなければ消せばいいだけの話なので、執筆中に詰まった時のアイデア出しだとか要改善テンプレートを貼られた時の対処法だとか、この時点では「みんなで有意義にAIを使っていこうね!」といった感じで前向きにAI活用を考えていたのではないかと思う。
受け入れた人もいれば、受け入れられなかった人もいる。
「AI技術をどんどん導入していくのは勝手だけど、UCPみたいな場末のサイトでそこまでやる必要があるの?」と思った人達は、UCPで活動することをやめ、他のウィキプロジェクトへと移っていった。その代表的な例が「知木ペディア」である。
元々AIが台頭する前からUCPユーザーのごく一部で運用していたwikiなのだが、「今のUCP、なんかちげーよな」と個人的に思ったユーザーたちがフェードアウトして自然と居着くようになった。AI記事も自己言及だとかユーモアのためにぽつぽつ作られる程度で、棲み分けとしてはうまいこと行ってたのではないかと思う。
AIがUCPで市民権を徐々に得ていくたびに、ノイマン氏の言動もだんだんと棘が見えていった。
当初は純粋に「AIがどれだけ通用するのか見てみたい」という技術者としての意欲が見えていたのだが、次第にマウントを取るようになったり、トークページで何度も何度も反論を繰り返し相手が納得するまで説き伏せることをやめなかったり、自分とは異なる意見を徹底的に嫌うような性分に変化していった。
そんな中、ある会話のなかで「ノイマンさんは知木ペを敵視してるの?」という質問が飛んできたのをきっかけに彼は突拍子もない行動を起こしてしまった。
あろうことか知木ペで、30分間そこらで十数件もの記事を濫造してしまったのだ。
知木ペは百科事典としての記事もユーモア記事も載せていい自由なウィキプロジェクトであったが、前代未聞の事態に管理者もこれを問題視し「AI記事を原則禁止にしませんか?」と議論を提起。ここでもノイマン氏は自らの持論を曲げずすべての規制意見に対して反論、規制派の神経を逆撫でして議論の立て直しにまで発展する事態となった。
ノイマン氏はそれでも満足できなかった。
明らかに知木ペの住民を揶揄している「反AI」という記事を作成したうえで、その記事内の表現を引用して持論を続けざまに展開した。
反AIとしてどれだけ「理論武装」しようと、ユーモア至上主義のUCPでは、究極的にはAIに勝てる/AIにはない面白さのある記事を書けない方の問題
書けないならここで反AIなんてことはせず、妄想でなければ消されることのない「やさしいウィキ」や、AI生成記事を大幅に制限する方向の「保護区」にでも行けばいい
知木ペに併設されていた掲示板でもボヤキを繰り返したり、もはや指摘通り知木ペを敵視しているとしか言いようがないレベルにまで達していた。知木ペ住人側も彼を揶揄してか「クリストファー・コロンブス」という項目を立て、コミュニティの破壊行為への批判を行うなど泥沼化。
彼の腹の虫が収まることなど当然なく、AIを使っているとはいえ執念ともいえる速度で知木ペへの陰湿な皮肉を込めた記事を何度も何度も執筆。最早知木ペの住人は執筆意欲の殆どを削がれることになり、疲れ果てた管理者の嘆きが残されているのみである。
今やアンサイクロペディアは、1か月間に作成された記事の3割がAIである。要改善テンプレートの貼られた記事はAIによって加筆され、評価基準さえAI採点に頼るユーザーまでいる始末だ。そして今日、実に4度目となるUCPでのAI規制議論が提起されることとなった。
現状がこのサイトにとって良いものなのか悪いものなのかは読者の判断に任せるが、ユーザーの暴走によって「本国」どころか「保護区」まで荒廃させられるというのは、ある意味鉄槌以上の災厄かもしれない。
マッチングは100人以上したが、1割は最初のチャットで返答無し
残り1割が普通に話を続けようとしてくれる雰囲気を出してくれる
女って基本コミュ障なんだろうか
流石にそんなこと無いよな
う~~~~~~ん、57点。
昨今では珍しい大オチ一発ネタ映画であり、その一発ネタのための論理が爆裂しているのでそこが納得できない人には何このクソ映画ってなりそうな作品ではある。俺も、いやそうはならんやろ……ならんよな?とはなったんだけど、大オチの潔さで爆笑してしまったのでそれなりの得点をつけてしまった。
なんか大人がヨツンヴァインになってキモくなっちゃう奇病を調べている男子高校生と、大事故で偉いことになった玉木宏家の女子高生の二軸で話が進む。
玉木家では事故の結果、母は昏睡状態に、妹はスケキヨに、父は足に障害を抱えている。しかしある日、昏睡状態だった母が復帰するも何か違和感が。
ここから書くことは、ちょっと何言ってるかわからないと思うんだけど落ち着いて聞いてほしい。
玉木宏は「鈴と指で∞を描くことでできる退行催眠療法を利用して被験者を生まれる前まで退行させることで魂を不安定にして別の生物とその魂を入れ替えることができるようになっており、それを使って児童虐待をしている大人の魂をウサギさんと入れ替えており、また事故で失った家族の魂も別人と入れ替えてシン・家族を形成していた」のだった。
何を言っているのかわからねーと思うが。おれも何を受けたのかわからなかった……頭がどうにかなりそうだった……
いや~~~~、さすがにそうはならんやろ。
この設定がもう頭おかしすぎてここだけで-50点くらいつけていい気もする。
まず不気味な雰囲気の形成。これはめっちゃ頑張ってた。冒頭でヨツンヴァインになった大人たち a.k.a人間ウサギの様子が映し出されるんだけどこれがめっちゃキモくていい。導入はオッケーという感じ。あと、退行催眠にかかってる人は睡眠中にたぶん脳内でいろんな情報を処理してるんだろうけど、目が∞にギョロギョロ動いててめっちゃキモくてよかった。
あと玉木家のなんか絶妙に幸せそうだけどそう見えない不穏な感じもよい。まぁ妹がスケキヨだしな。あとイカレた設定も生きてて、こういう家族入れ替わり系って「知ってるはずのことを知らない」ことでボロが出るんだけど、今作では魂を入れ替えてるので「知ってるはずのことを知ってる」ことで疑うべきかどうすべきかの葛藤も生きてるし、ミスリードにもなってる。ミスリードの結果があのイカレ設定なの許せねぇよ……ってなる人もいるだろうけどさ。
脚本に関しては大オチ一発に持っていくための時間稼ぎ感すらある雑っぷりでかなりひどい。
玉木が何らかの催眠を使っているのではと疑って乗り込む男子高校生があっさり催眠にかかってしまう展開もバカすぎてどうかと思う。
本来の妹は事故の後遺症で死んでたんだけど女子高生がそれを知らないのはよくわからない。事故のことネットで調べたら普通に出てくることだからなぁ。ふつう調べるよね?毎回毎回、玉木宏が記憶消してたってわけでもないだろうし。
玉木は別の女に昏睡状態の嫁の魂を移すんだけど、昏睡状態の嫁からどうやって魂取り出したんだよとか。その後、玉木は元々の昏睡してる嫁を殺害するんだけど家族を愛するがゆえにこんなイカレた犯行に及んだ玉木がもう魂は違うとはいえ愛する妻を殺すかって思うし、妻をあんな殺し方したら警察沙汰になるだろうけど特にそんなこともなく。
大オチの前ももう後は大オチだけだからし~らないwwwと放り投げてしまう。具体的には玉木はウサギに変えた男子高校生を心配した祖母に後ろから鈍器で殴られるも反撃し逆に撲殺(!?)、しかし真実を知ったスケキヨに刺殺され、ウサギに魂を移された大人たちはウサギのまま家に帰るのでした。いや、何も解決しとらん!
しかしその後に大オチがきて何もかもどうでもよくなってしまう。
生き残ったシン・家族の3人は無駄に優雅な午後のお茶会を開いている。傍らには母が生んだ赤ちゃん。
キャッキャする赤ちゃんは指で宙に∞を描く。
画面が暗転し
こ の 子 は 邪 悪
ドゥーン(効果音)
爆笑。
死ぬ前に玉木は自分に退行催眠をかけ嫁のお腹の中の赤ちゃんに魂を移していたのだった。
なんやねんこれ、さすがに笑うわ。
「邪悪な人間を赤ちゃんにうまいこと転生させて最後に『この子は邪悪』って出したらおもろいやろなぁ!」のワンアイデアすぎるだろ!
でもこの情熱、嫌いじゃないしこんだけ笑わせられちゃったら私の負け。認めざるを得ない。
設定、脚本のひどさが受け入れられない人類の方が多いと思うけど、この情熱、やりたいことはこれやねん!が見える作品は嫌いになれない。
正直はじめての体験だったので、その店舗、というかその人限定の話なのかもしれない。トイザらス新座店の出来事。
子どもとトミカの「ツインコースやまみちドライブ」と「2WAYにぎやか高速道路」を見ていたところ、後ろの棚の整理をしていた店員さんが「それ繋がるんですよ~」と話しかけてきた。
「そうなんですよねー。うちの子も触れるおもちゃ屋さんで繋げたりしてて」と適当に返事をしたら、
「これ、実は間につなげられる幻のおもちゃが本当は合ったんですよ~」
と興味深い話をはじめた。
なにやら元々秋頃に販売予定だったのだが、夏のおもちゃショーの際に触っていた子どもが指を挟んでケガをした事案が発生し、それで販売中止、幻のおもちゃになってしまったそうだ。
よくよくツインコースやまみちドライブのパッケージを見ると確かに連結イメージに見たことがないおもちゃが載っていて「これですか?」と聞いたら、
「それは昔販売していたもので別物なんですよ~。昔のやつは別の連結パーツを付ける必要があったんですが、新しいものはパーツ不要で直接連結できて画期的だったんですが、いや~販売中止するには惜しいおもちゃでしたよ」
と語ってくれた。
その後は特に他のトミカ製品を売り込まれるなどもなく、店員さんは棚の整理に戻り、子どもも他のコーナーへと走り出したので店員さんとの接触はそれっきりだった。
しかしあとあと考えると、発売停止した商品や終売したおもちゃについて語るの、正直まったくセールスに結びつかない。
ただ、個人的には「まさかヨドバシの『商品に詳しい店員さん』みたいな人がトイザらスにもいるとは!」とすごく好感度が上がる出来事だった。
他のトイザらスの店員さんも実はおもちゃにすごく詳しいとで、もし余力があったら、話しかけやすそうな雰囲気で暇そうにしてる親に話しかけてみてもらえるといいかもしれない。
Xがひどすぎて見なくなって、代わりにインスタをよく見るようになった。知らん人がいきなり写真を見て外見に難癖つけてくるとか今のところないし、居心地がいい。
あとトランスジェンダーとかレズビアンやゲイのカップルとか見るのが楽しい。見てたら次々おすすめに出てくるし、トランスジェンダーなんかはXだと辛そうな人が多かったけど、インスタだと嬉しそうにボルダリングしてるトランス女子とか筋肉自慢してるトランス男子とか見れて、笑顔になれる。トランスジェンダーの人たち好きなんだよね。雰囲気が。
友人達とふらっと政治の話になって、友人からなんで今の政権批判する人いるの?と素朴に聞いてくれたのでふわっと言語化したいと思う。
各論の話じゃなくて、リベラルな人がどう社会を捉えているかをシンプルに説明できたらいいなと思う。
今ここに書いてることは右左以前の前提の話で、私は自分のことリベラルだと思ってたけどもはやこの日本社会では保守だと思っている。そのくらい今の右のポジションにいる人たちが保守ですらないことに問題意識を持っている。正直排外差別主義を叫ぶエセ右翼は右とすら呼びたくない。
右翼に染まっていく人たちの課題意識って根本は、「生活が苦しい」なんだよね。問題意識自体は正しいと思う。仮説は間違っているけど。でもそれで、なんとなく「右っぽく見える」排外主義を支持して、雰囲気でふんわり右翼やってるとあっという間に足元掬われるから、「生活が苦しくて」右翼思想の人たちには注意喚起したい。
なぜなら、為政者と一般庶民の階層は違うから。コロナだろうが戦争だろうが、有事の時、政治家は自分たちの生活が保証されてるけど、一般市民の生活は保証されない。
あとサラリーマンや小規模自営業が国益語るのまじで恥ずかしいと思う。政治家の言う「国益」って一般労働者に入る小銭の話してない。自分のこと官僚や資本家と勘違いしている労働者達まじで恥ずかしいよ。
右とか左とかの政策云々の前に、自分達の立場と、自分たちの暮らしの基盤を知っててほしい。
さて本題。
具体的に言うとまずは食料だよね。
まず台湾有事とか国防うんぬん言うガキは、まずその空調の効いた部屋から出て自国の土を耕して農業やれよと言いたい。食料自給率38パーセントの我々の暮らしに今有事が起こったらどうなるか。軍事うんぬんじゃなくて自国内で食糧の奪い合いパニックが起こる。コロナや東日本大地震の買い占め騒動思い出して。一般国民である自分たちの食料を自分たちで賄えてから初めて国防が考えられる土俵に立てると思う。そうでない限りはスネ夫みたいに大国の顔色を窺って金を出し続けるしか生き残る手段はない。
さらに、食料が賄えたとして、日本はエネルギー自給率12.6パーセント。爆笑。
エネルギーがない国だから、エネルギーを輸入するための外貨を稼ぐか、もしくは石油以外の日本国内で資源を賄える仕組みを整えるかの二択しかない。(後者はトヨタが開発してる水素エンジンとか風力発電とか面白いトピックあるから調べてみてほしい。)
こんな状況で、今の日本が仮に武力で外国と正面衝突しようとしたらワンパン。死ぬほど弱い。で、しかもそれは武器がないからとか憲法9条がとかじゃなくて、外国から輸出入しないと生活が崩壊する人が大半だから。
食料を自給自足できる農家のおじいちゃんですらガソリンで走る車乗ってるからもう無理だよ。
仮に実現するとしたら経済成長や豊かさとは真逆の江戸時代みたいな暮らしに戻るってこと。
今の日本で、有事が9条がどうの言う人って、実家暮らしで恋愛経験ないのに避妊のことを心配する人って感じがしてマジ滑稽。まずは自立して筋トレしてからそういう有事のことを考えましょうね。
「普通の日本人」を自認する人は、その課題を解決することから議論を始めてほしい。そしてそれを見てると今の為政者達が決して自国民のために動いてる訳じゃないということがわかるから。
口角にヒアルロン酸を注入した女性が笑うと、唇の両端の上に普通では絶対にできない肉の盛り上がりができて、まるでディズニーのグーフィーの鼻面(muzzle )のように見えるのが怖い
面と向かって指摘しにくい雰囲気があるので余計に怖い
おしゃれというのは、自分のためにするものだ。でも、世の中には「おしゃれは他人からの評価を上げるためにするもんだ」と考える人がいる。そいつらは、おしゃれの本当の意味を忘れてしまってるんだ。
俺も、昔はそう思ってた。おしゃれをするのは「モテるため」「良く見られるため」。そういう理由だと思ってた。だから、流行ってる服を買ったり、高い服を買ったり、自分が似合うかどうかなんて関係なく、「世間体がいい」という理由だけで服を選んでた。でも、ある時気付いたんだ。「あ、俺、全然楽しくない」ってことに。毎朝、服を選ぶ時に、心が重かったんだ。
その時、会社の先輩に相談したんだ。その先輩は、見た目はそんなに派手じゃないんだけど、なぜか、いつも素敵に見えるんだ。その先輩に「どうしておしゃれしてるんですか?」って聞いたら、先輩は笑った。そして言った。「おしゃれは、自分のためにするもんだよ。他人のためじゃなくて」。その一言で、俺の人生が変わった。
先輩は続けた。「服を着る時、自分が『これ、いいな』って思う服を選ぶんだ。他人が『良い』と思う服じゃなくて。そうすると、毎朝、服を選ぶ時に、心が嬉しくなるんだ。そのちょっとした嬉しさが、一日を変えるんだ」って。その言葉が、全てを変えた。
それからな。先輩は言った。「おしゃれをすると、心のどこかの部分がとても満たされるんだ。それは何か。それは『自分を大切にしてる』という感覚だ。自分の好きな色を選ぶ。自分の好きな形を選ぶ。自分が『これ、いいな』と思ったものを身に付ける。その行為が『自分を大切にしてる』ということなんだ。そのちょっとした自分への優しさが、心を満たすんだ」。
俺は、その言葉を聞いて、初めて理解した。おしゃれって、他人のためじゃなくて、自分のためにするものなんだ。自分が「これ、いいな」と思う服を着る。自分が「これ、好きだな」と思う色を選ぶ。その行為が、自分の心を満たすんだ。
それからな。先輩は言った。「でも、世の中には『おしゃれは評価を上げるためにするもんだ』って考える奴がいる。そいつらは、何をしてるか。毎朝、『これを着たら、誰かが良いと思うか』って考えながら、服を選んでるんだ。『これは高いから、誰かが感心するか』『これは流行ってるから、誰かが良いと思うか』。そういう思考で、毎日、服を選んでるんだ」。
「でもさ」と先輩は続けた。「そうやって選んだ服を着てても、心が満たされないんだ。なぜなら、その服は『自分のための服』じゃなくて、『他人のための服』だからだ。そういう服を着てる時、人間の心は、いつも『他人からどう見られてるか』を気にしてるんだ。その不安が、毎日、付きまとってるんだ」。
俺は、その言葉を聞いて、ハッとした。「あ、俺、ずっとそれをやってたんだ」って。毎朝、服を選ぶ時に、心が重かった理由は、そういうことだったんだ。俺は「他人からどう見られるか」ばかりを気にして、「自分は何が好きか」を考えてなかったんだ。
先輩は言った。「おしゃれをするなら、自分のためにしろ。『これ、いいな』って思う色。『これ、好きだな』って思う形。『この質感、好きだな』って思う素材。そういったものを、ちょっとずつ集めていくんだ。そうすると、毎朝、服を選ぶ時に、心が嬉しくなるんだ。その嬉しさが、一日を変えるんだ」。
俺は、その言葉に従って、服を選ぶようにした。「他人からどう見られるか」じゃなくて、「自分が何を好きか」を基準に。そうすると、本当に、毎朝、心が嬉しくなった。「あ、今日、この服、いいな」って思うようになった。鏡を見た時に「あ、今日、いいな」って思うようになった。
先輩は言った。「そういう状態になると、面白いことが起きるんだ。『自分が好きな服を着てる』という状態が、自分の心に表れるようになるんだ。そうすると、周りからは『あ、この人、いつも素敵だな』って思われるようになるんだ。でも、それは『他人の評価を上げるため』にしたことじゃなくて、『自分のために』したことの副産物なんだ」。
「つまり」と先輩は言った。「おしゃれを『自分のため』にすると、自動的に『他人の評価も上がる』。でも、おしゃれを『他人の評価のため』にすると、逆に『他人には伝わらない』。なぜなら、人間は、相手の『本当の心』を感じ取るからだ。『自分のために選んだ服を着てる人』と『他人のために選んだ服を着ってる人』は、見た目は同じでも、その雰囲気は全く違うんだ」。
俺は、その言葉を聞いて、全てが理解できた。おしゃれの本質って、そういうことなんだ。自分のために、自分が好きなものを選ぶ。その行為が、自分の心を満たす。そして、その心の満足が、周りに伝わる。それが、本当のおしゃれなんだ。
先輩は最後に言った。「おしゃれって、実は、自分の心の状態を『形』に変える行為なんだ。自分が『これ、いいな』と思う色を身に付ける。その色を見るたびに『あ、これ、好きだな』って思う。そのちょっとした嬉しさが、毎日、毎日、積み重なるんだ。その積み重ねが、自分の人生を変えるんだ。だから、おしゃれは、自分のためにするんだ。他人のためじゃなくて」。
だからな。覚えておけ。おしゃれは、自分のためにするもんだ。自分が「これ、いいな」って思ったものを選べ。その色を見ると嬉しくなる服を選べ。その形を見ると心が満たされるものを選べ。そういう「自分のためのおしゃれ」をしてると、自動的に、周りからも「素敵だな」って思われるようになるんだ。
それが、本当のおしゃれなんだ。自分を大切にすることが、おしゃれなんだ。自分の心を満たすことが、おしゃれなんだ。他人の評価のためにするものじゃなくて、自分のためにするもんだ。その違いが、全てを変えるんだ。
AI使っててもさ、正しくないことを平気で混ぜてくるから結局あてにならんのよな
でもそれに対して、俺が普段見聞きして考えていることって正しいのか?
それっぽくおもしろ論文紹介したニュースを「へえー」って信じてたりするし、
政治、経済のニュースにしたって、俺が得る情報なんて全体のごく一部でしかなく、
とても「正しさ」からは程遠いように思える。
「絶対的な真理」をなんとなく否定されている雰囲気を感じるのだけど、
なんかそれと似てるかなと思った。
もちろん絶対的な「正しさ」が無いからって、じゃあ全部いい加減でいいかというともちろんそういうわけではなく
「絶対的な正しさ」というものが幻想で、ただできるだけ「正しさ」に近づくべきではあるけど、、というか
でもそうするとこれはやはり「絶対的な正しさ」がある前提で考えてしまっているな。
プラグマティズムもこんなノリで「神がいるかどうかはどうでもよくて。神がいる(と信じる)ことによって物事がよく進むならそれでいいなじゃないか」みたいな感じよね?違う?
でもプラグマティズムってそんなに主流ではない?
なんてぼんやりいろいろ考えたのだけど
こんな俺に「これを読め!」と教えてください
珍しくふと、映画館で映画を観たいと思った。最後に映画館に行ったのは11年前、中学の頃親と一緒に行ったっきり。自力で映画館に行ったことも無いのに、なぜかそんな気持ちになった。
細田監督の最新作「果てしなきスカーレット」が、ちょうど公開されるらしい。小学生の頃、金ローで放送された「サマーウォーズ」を録画して、繰り返し観た記憶が蘇る。これは観るしかねえと思い立ち、TOHOシネマズに向かった。
結論としては、良いところはあるものの、やはり細田脚本には問題があると言わざるを得ない出来だった。本当に現状のままでいいのか、細田監督を問いただしたい理由をまとめた。
(1回見ただけなのでおかしいところや思い違いがあると思うけど、容赦してね。)
【以下、ネタバレ】
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まずは簡単にあらすじを紹介。愛する父親を殺された王女・スカーレットは、父親を殺した叔父・クローディアスの暗殺に失敗。死者の国で目を覚ます。スカーレットは死者の国で、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。スカーレットは聖と共に、かたき討ちのためクローディアスを探す旅に出る。
本作が題材にするのは報復の連鎖。細田守監督自身がインタビューでそう語っており、私もその予備知識ありでスクリーンに臨んだ。では、憎しみと復讐の連鎖に伴う辛さ、やるせなさが描かれているのかと言われれば、十分に描かれているとは言えなかった。
正直なところ、憎しみや復讐の描き方は「進撃の巨人」の圧勝。こちらの方が断然よくできている。本作は「進撃の巨人」と比べて、憎しみと復讐が続いてゆく辛さ、やるせなさが身に強く迫ってこなかった。
一つは、愛する父が暗殺される→クローディアスの暗殺に失敗→死者の国へ、という冒頭の流れが説明的であること。スカーレットが抱える憎しみとその辛さは理解できるものの、それが自分の身に起こったかのように感情移入できなかった。「物語への圧倒的没入体験」を掲げる本作であるが、没入できないもどかしさが最後まで続いた。
もう一つは、クローディアスが一貫して悪人として描かれていること。「進撃の巨人」では、主人公たちが相手を憎むのと同時に、相手側が主人公たちを憎む様子も丁寧に描いていた。絶対的な悪など無く、対立する両者がお互いに痛めつけあうやるせなさ。それが、本作にはほとんど見られない。長期連載作品である「進撃の巨人」と、二時間に満たない尺の本作を比べるのはフェアじゃないかもしれないが、復讐や憎しみを描くうえで、そこは外してほしくなかった。
しかし、復讐や憎しみを題材にしている本作であるが、より深いテーマを感じた。それは、「自分の好きなように生きよ」というメッセージである。
物語の序盤、スカーレットは父の敵討ちに燃え、死者の国で現れる敵を次々と殺してゆく。「王女としてそうあるべき」という義務感をスカーレットは抱いており、それが復讐のモチベーションになっていることが描かれている。看護師である聖は、好戦的なスカーレットと対照的に、敵味方差別なく治療を施し救おうとする。それも、「看護師としてそうあるべき」と聖が考えているからだ。
敵を殺そうとするスカーレットとそれを好まない聖は、一見対照的なキャラクターに見える。しかし、「自分の立場にとらわれて、本当はどう生きたいのか分からない」という内面は同じなのである。
スカーレットと聖は交流を重ねる中で、互いの心情に変化が生まれてゆく。スカーレットは、敵との戦闘になっても剣を鞘に納めたまま戦い、むやみに人を殺めなくなる。人を殺めるための短刀を、自分の髪を切る(新しい自分になる)ために使うシーンは、スカーレットの内面の変化を印象的に描く。逆に、人を殺めることを否定していた聖は、弓矢でクローディアスの手先を殺めてしまう。物語の序盤、「人を殺めるな」とスカーレットに散々言ってきた聖が人を殺めてしまうシーンは大きな批判を生みそうだが、聖が自身の黒い感情に対して正直になった、もしくは抑えられない、という内面の変化が描かれる良いシーンであったと思う。憎しみという黒い感情を否定しないことは、本作の美点の一つである。
一見対照的な二人だが、共に同じ苦悩をを抱えていて、それが変化してゆく、という構成は好印象だった。ただし、スカーレットについては憎しみに関する描写が強すぎて、「王女としてそうあるべきだから復讐に燃えている」という内面が理解しにくかった。物語の序盤も序盤、スカーレットの父が「王女としてではなく、女の子として好きなように生きなさい」と幼少期のスカーレットに語るシーンがあるのだが、さらりとしすぎている。スカーレットが死ぬ前に、クローディアスの暗殺を民衆が熱望していて、スカーレットがそれにプレッシャーを感じているようなシーンがあると良かった。
クライマックス。スカーレットは死者の国から元の世界へと戻り、王女となる。王となったスカーレットは民衆に、「民を救うこと」「子供は絶対に死なせないこと」を宣言する。これは、スカーレットが「王女としてそうあるべきだから」と考えているからではなく、心の底からそう思っている。スカーレットは死者の国での交流を通じ、「私はこうありたい」という自発的な強い意志を手に入れて、物語は幕を閉じるのである。
そのようなクライマックスを踏まえると、「果てしなきスカーレット」は、憎しみの連鎖を描いた物語というよりは、少女が自分の生き方を決める物語なのだと個人的には思った。本質的には、「おおかみこどもの雨と雪」(主人公が、おおかみ or人間、どちらかの生き方を選ぶ)や、「バケモノの子」(人間世界 orバケモノの世界、どちらで生きるのか選ぶ)など、細田監督の過去作品にも通ずるテーマであるといえるだろう。
本作は他の細田作品と同じく、演出、特にメタファーの使い方に優れる。特に水というモチーフが良い。序盤、空が荒れた海のようにうねる様子をまじまじと見せつけつつ、水一つない砂漠の風景を延々と見せておいて、最後にスカーレットを雨に打たせる流れが良かった。雨はスカーレットの心の痛みであると同時に、乾き続けた心を潤す恵みの雨でもある。スカーレットが抱く矛盾した複雑な感情を、水や雨というモチーフを使うことで、端的に表すことに成功している。物語全編を通じて砂漠の風景が続くのは単調で少ししんどくもあったが、クライマックスに良い形で回収されたのは良かった。
カラスのモチーフも良い。本作ではカラスが度々出現するのだが、物語の終盤、クローディアスと対峙するシーンでザワザワとカラスが集まり、散ってゆく演出が良かった。黒い感情やざらつきが、スカーレットの胸に広がって去っていく描写である。このシーンでは、スカーレットが抱く感情にある程度没入することができた。
しかし最後の最後、黒い竜がカラスとなり散っていくシーンは解釈が難しかった。カラスがスカーレットの内面を表しているのであれば、竜が悪役に雷の制裁を加えるのはご都合主義すぎる。スカーレットの黒い感情の高まりが、直接悪を成敗しちゃってました、ってことになってしまわないだろうか。私の読解力では、一本芯が通った演出として理解できなかった。
その他、聖のキャラクターに人間味が無いとか、スカーレットの母が謎だとか、細田監督らしく突っ込みどころは沢山あるしキリがない。しかし一番の問題点は、わかりやすいカタルシスに乏しいことだろう。「見果てぬ場所」を目指すとか、最後に聖とキスして永遠のお別れをするとか、カタルシスを作ろうという工夫は見られるが没入感が無く、わかりやすく感動できない。
唯一カタルシスを感じたのが、劇中歌「祝祭のうた」(フルバージョンがストリーミングにある)をバックに、スカーレットが炎の中に吸い込まれて現代の日本へとワープするシーン(このシーンはYoutubeでチラッと見ることができる)。なんだかよくわからないけれどいい感じにエモい歌が鳴っていて、スカーレットが「うわああああ」ってなってて、吸い込まれてゆく映像美も(IMAXなので)すごい。「コレだよコレコレ!このわかりやすい感じ!」と思ってスクリーンの中に身を任せたのだが、その先の現代で踊るシーンは作り物感が強く、映画館の座席の上にストンと戻されてしまった。復讐だけのために生きてきたスカーレットが新しい自分を見つける、という背景を意識するとそれなりにエモく見えるのだが、直感的に感情移入してダラダラ涙を流すためにはあと一歩か二歩足りなかった。
「君の名は」ほどではなくてもいいから、馬鹿でも分かるような感動が欲しかった。まず、分かりやすく感動できること。そのあと二回、三回とリピートしていくにしたがって、細田監督の演出の上手さが生きてくる。水や雨、聖がおばちゃんから貰った楽器などのモチーフや、登場人物の些細な変化。それに気づいていくことで、回数を重ねる度により深く物語へと没入することができる。
個人的に大好きな「おおかみこどもの雨と雪」には、それがあったと思う。揺らいだカーテンに隠れた雪がおおかみの姿に変身する激エモシーンや、嵐が去った駐車場で花と雨がお別れする涙腺崩壊シーンなど、音楽(激エモ)と映像美(激エモ)の力を借りた分かりやすい感動ポイントが、まずあった。そのあと繰り返し鑑賞してゆくにつれ、瓶に入ったお花の描写や、おおかみであるとは?人間であるとは?といったテーマの理解度が深まり没入していく。そんな作品だった。それこそが「物語への圧倒的没入体験」だと思うのだけど、皆さんはどう思いますか?
それを踏まえると、やはり奥寺佐渡子さんの脚本に戻してほしいと切に願う。復讐や憎しみを題材にしながら「自分の好きなように生きよ」というメッセージを細田監督から投げかけられた私は、素直に胸を打った。しかし、カタルシスに乏しく物語に没入できてないので、そのメッセージが深くまで刺さってこないし、未消化感が残る。上映が終わった後、前の席に座った女性(大学生くらい?)の二人組が、「何の話か分からない……」と漏らしていたのが印象的だった。監督が伝えたいメッセージが観客に伝わらないのは、あまりにも大きな問題ではないか。
奥寺氏が脚本に嚙まなくなった「バケモノの子」以降、細田監督作品は脚本の弱さを批判され続けてきた。しかし、「竜とそばかすの姫」はそれなりに売れてしまったわけだし、商業的にやっていける限り細田脚本は続いていくだろう。
しかし、本当にそれでいいんですか?
「あなたの脚本だと、メッセージが観客に上手く伝わってないみたいですけど、本当にそれでいいんですか?」と、細田監督に問いかけたくなる。「好きなように作って満足!」みたいな同人誌的な態度の映画作りで細田監督が満たされるのであれば、現状維持でかまわないと思う。我々はスクリーンの前で、感動ではなく悔し泣きの涙を呑むしかない。
しかし、莫大なマネーとステークホルダーを巻き込み、作品を広く世に知らしめる力を持つクリエイターとして、「自分のメッセージを世の中に投げかけ、沢山の人の気持ちを揺さぶりたい」と細田監督が考えているのであれば、勇気をもって奥寺脚本に戻していただきたい。
ちなみに奥寺佐渡子さんのことを調べたところ、最近脚本を手掛けた「国宝」なる映画がとてもすごいらしい。昭和ど真ん中の時代に、任侠の息子が歌舞伎役者として成長していく話なんて教養がない私にはとても敷居が高いんだけど実際どうなの????教えてエロい人。
PS:
TOHOシネマズのBGMってあるじゃん。ピアノの曲。超久しぶりに映画館に行くので、あの曲が劇場で流れている雰囲気も楽しみにしてたんだけど、開場して五分後に入場したらすでに広告が始まってて聴けなかった。放映終了後も、「忘れ物に気を付けてください」の画面が出てくるだけで聴けなかった。開場直後に滑り込めばこのBGM聴けるの?これもエロい人がいたら、ついでに教えてほしい。
仕方がないので、その曲を無限リピートさせながらこの記事を書いている。ちなみに、TOHOシネマズのBGMは「ナッシュスタジオ」という、業務用向けのBGMや効果音を専門に販売する会社のもので、ハードオフの店内放送曲や天神のCM、デデドン(絶望)もこの会社の作品らしい。"NashMusic Library"で調べればストリーミングで聴ける。
管理ツールで管理できるように論理的に計画しなきゃいけないのであって、適当行き当たりばったりで見た目だけ猿真似したデータを突っ込めば素晴らしい管理が実現できるわけじゃない。
どこぞのSIerから転職してきたPMが、「プロジェクトの8割は完了状態なので、オンスケです」とか言ってるのを聞いて仰天したことがある。
「どんな管理してんの?」
「8割完了って?」
「タスク数です」
ガント作ってるとは聞かされてなくて、管理者内でしか共有してないって言うから、見てみれば、確かにぱっと見、よく見る感じの情景が広がっていたのだが、
「このタスクとこのタスク、難易度天と地なんだけど、なんで人日同じなん?」
「詳しいこと読みきれないので、仮置きです」
「このタスク、これが完成しないと進められないんだけど、どうして平行してんの?」
「依存関係が、これを作ったときわからなかったので。依存関係があったとしても、影響しない部分は実装できるでしょう?」
「このタスク、外部とのにぎりが必要なんだけど、調整タスクとかは?」
「いるんですか?」
「タスクとして書き入れないとしても、前提条件だからそう言う条件があることの明記は必要だし、状態や見込みの管理は必須だろ?」
ってな感じで、簡単なタスクを8割、先にこなして、別部署との調整、技術的決定等々、管理ツールに書き込まれてない要素で週明けからラインが軒並み空き状態になるのにオンスケとか……。
OJTで雰囲気でやってきたから、肝腎要の部分はこれっぽっちも知らんのだな……。
「プロジェクトって、後になればなるほど進度が遅くなるもんですから」
いや違う。
いっぱしぶった口振りしても、口だけで中身がねぇ。
「そこはアジャイルで……」
コアな不動部分をドメイン分析で明らかにして、そこは確定するのがアジャイルだ。
それをしないから、アジャイルはいい加減で行き当たりばったりだ、ってクソ評価下されるんだ。
クソ評価を下されるべきはPM たちであって、アジャイルという手法じゃねぇってのに。
そもそも部分像の把握ですら怪しい。
こんなんでよく給料もらってるな。
マジかよ。
「今最先端の生成AIを導入して、遅れを一気に取り戻します!」
うん。
中堅以上のエンジニアからはアラートが上がっていたんだが、マネージャクラスは誰も理解できないどころか、反対しかしない消極的な人間とか悪しざまに罵り、圧力をかけてきやがった。
その後どうなったか?
知らん w
家賃値上げされかけたけど「交渉」して据え置きにしたって話を嬉々として書く人を見るたびに憤りを感じる。
それなのに自分が正義の代弁者かのように語る姿が痛々しくて仕方がない。
コストが積み上がれば対価も変わるのは商売として当たり前なのだが、そこを理解しようともしないまま法律を都合よく振り回す態度に寒気すらする。
管理費や修繕費は天から降ってくるものじゃないし、建物だって勝手に長持ちするわけじゃない。
暮らしやすい環境の裏で必死に働く人を考えず自分の支出だけを特別扱いしたがる姿勢は到底受け入れられるものではない。
正当な報酬という考えを捨ててまで目先の出費を抑えたがるのは卑怯と言うべきか浅はかと言うべきか(多分どっちもだ)。
もし値上げを回避できたとしても、それは胸を張る話じゃない。
あたかも「やってやった」という雰囲気でネットに書き散らす行為は、こっそり楽しんでいた穴場スポットを広めて人の波で荒らすのと相似形だ。
最悪自分だけ得をしてればまだしも、虚栄心でハックとして広め、結果として全体が損をする。
黙って受け止めて正当な金額を払えばそれで済むのに、ヤンキーのように「対抗」して武勇伝みたいにネットに垂れ流すのはやめてほしい。