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2024-12-31

はてな匿名ダイアリー投稿の思い出 2/5


11 鬼滅の刃がヒットした本当のところ

anond:20201103211322

2020年11投稿

こちらは私個人の感想です

当時、増田界隈では鬼滅の刃がヒットした理由考察する日記流行ってました。

遅ればせながら便乗しようと思った次第です。

その有名作がなぜヒットしたのか? ですが、一般的な答えがあります。一つ目は、作品自体面白さです。

日記中の引用にあるように、「読み手感情をどれだけ動かせたか?」「生き物同士の心の交流、繋がり、触れあいをどれだけ描けているか?」がポイントになります

残り一つは外部環境です。鬼滅の刃だと、ちょうどコロナ禍の頃に映画が完成したうえで、ほかに競合相手がいなかったことです。世間の人気を掻っ攫うことができました。

参考までに、『たまたま日常に潜む「偶然」を科学する』という書籍にあるのですが、ヒット作品というのは、一定以上のクオリティがあるうえで、後は純粋に運であることがわかっています

私も実は、若い頃に「小説家になろう」に投稿していました。柔道をメインに扱った教師ものでした。

特定ジャンルではランキング上位に入れたのですが、異世界転生や俺TUEEEE!!ジャンルの足元にしか及びませんでした。

今では、どうしてウケなかったのかを理解できます。当時は自分の描きたいものを描くので精一杯でした。

例えば、作中において人間同士の愛情の繋がりの描写が薄かったのは間違いありません。なろうで流行っているジャンルではなかった、というのが一番大きいですが。

この場を借りてプチ自慢ですが、私の小説の設定が『もういっぽん!』という柔道漫画で使われていました。作者のオリジナルとして昇華されたうえで。

私が作った教師キャラと同じ名前、同じ設定の人物2023年放送の同アニメ名前を呼ばれた時、びっくりした思い出があります



12 ニコニコ動画YouTubeで生き物を虐待している動画について 

anond:20201113210224

2020年11投稿

この当時、ニコニコ動画YouTubeにおいて、ネズミなど哺乳類が惨たらしく殺される動画や、

昆虫魚介類捕獲して面白半分に実験したり、トドメを刺した後に調理するタイプ動画流行っていました。

ニコ動の例だと、農場犬が畑内のモグラを食い散らかす動画や、ピラニア水槽ラットを落として食べさせる動画などです。

YouTubeだと、ヘビフロッグさんやホモサピさんやおーちゃんねるがやりたい放題やってました。

個人としては、生き物の命をいたずらに奪う動画が好きではありません。はっきりいって嫌いです。

ちょうどこの日も、ヘビフロッグさんの動画を拝見して、おそらく嫌な気持ちになっていました。その時の憤慨を日記しました。

やはり、その、害獣だろうと昆虫だろうとSAKANAだろうと、命はたいせつなものだと思うのです。



№13 会社員株式投資と向き合っていくために

anond:20201116213411

2020年11投稿

株式投資エントリを一度書いてみたいと思いました。それがこの日記です。

投資をやってみたいけど、最初は何をすればいいのか、そもそも投資をすべきなのかわからない――そんな人に向けて書きました。

株式に限らず、投資というのは長い経験必要です。その中で、自分にあったジャンル手法を身に付けていきます。人の数だけ正解があります

いま初心者の方に言わせていただくとしたら、①まずは有名本を2~3冊読んだうえで、②つみたてNISAiDeCoから始めて、③次は自分が好きな商品を作っている会社の株を買い、④さらに興味が出たら仮想通貨まで含めた専門銘柄に挑んでみるのがいいと思います

なお、信用取引FX代表されるレバレッジ取引は、ここでは投資に含めません。

あれは投機です。続けていれば、長期的には必ず一文無しになるゲームです。



№14 元転職エージェント公務員民間企業への転職について語る

anond:20201228205610

2020年12投稿

30才前後の頃はまだ、先に述べたように京都市内で地方公務員をしていました。

理想現実の間には耐えられましたが、自分はこのままでいいのか、30代半ばになったらもう転職はできない、今決めるしかないのでは? といった焦燥と戦っていました。

結局、転職活動をすることにした私は、転職エージェント登録しました。新卒で入った会社リクルート(求人情報誌営業)だったので、リク系以外がいいと思ってワークポート登録しました。

選択できる道筋は、思ったより多くありました。数は相当少なかったです。苦戦しました。

その中でも、半年ほど粘り強く私に付き合ってくれたエージェントの方に今でも感謝しています

最後は、公務員生活で身に付けたスキルを活かせる会社に送っていただきました。

公務員民間転職するコツですが、最初行政折衝や申請事務など、行政経験を活かせる仕事がいいと思います。いったん民間経験を積んだ後であれば、それ以外の民間企業に進む道が開けます

国家公務員現場で働く専門職であれば、地方自治体事務系に比べても転職やすいと思われます

なお、作中に出てくる転職成功者ですが、そういった方々の中で、私が特に知っている人を選びました。

公務員民間というルートを歩まれた方を少なくとも四人以上知っています



№15 社会人になったらどういう風に動画サイトを見たらいいの?

anond:20210204220458

2021年2月投稿

からニコ動派です。YouTubeも割と見るのですが。

この頃は、ニコニコ動画の楽しみ方がわからなくなっていました。

ニコ動が迷走期に入って相応の年月が経っており、変わり映えのしない動画サービスうんざりしていたこともあります

もっと早く、ドワンゴランサムウェア感染していたら、ニコ動ユーザー離れを防ぐことができたのではないでしょうか。ハッカー感謝を、と言いたいわけではありません。あくまタイミングです。

何人かの利用者から、よさそうな意見をいただくことができました。

コメントをいただいた方、本当にありがとうございました



№16 2.5流の大学を出て大手企業に入った自分を許せないでいる

anond:20210301212331

2021年3月投稿

私の実妹が主役です。

私の妹というのは、今にして思えば発達障害というやつだと思います

ASDとかADHDとか、私に診断する資格はありませんが、そういう傾向があったのは間違いありません。

空気の読めないところや、運動が苦手なところ、集中が続く分野が限られるといった特徴がありました。

ただ、彼女は私などに比べると相当マジメで、頑張り屋さんでした。勉強一生懸命やってましたし、学校の成績も学年で一番でした。

しかし……生来ドンくさいところ、要領の悪さが災いして、第一志望の大学不合格でした。合格圏内にはあったようなのですが。

私と同じ大学に行くのが、心の底では嫌だったのかもしれません。第二志望以下の大学に行くことになりました。

そんな妹が苦しんでいたのは知っています。私も妹も、大学には実家から通っていましたので。

私は途中から下宿になりましたが、彼女の頑張りは知っています。苦しい中でも努力を重ねていました。

相当の時間が経って、妹は生まれ変わりました。

社会人として経験を積んだ彼女は、仕事ができる風のオーラを身に付けました。凛々しい雰囲気だったのを覚えています。よりによって、私の新卒時と同じ会社入社しました。なんでやねん😭😭😭

人は変われるものだと確信した経験日記にまとめました。



17 あなた達の政治運動には迫力が足りない 

anond:20210312203939

2021年3月投稿

小学生の頃は、父の実家近くで暮らしてました。

部落解放運動が盛んな地域であり、大人になって知りましたが、ぶっちゃけ被差別部落でした。

集落中央には、それなりの河川が流れていて、鬱蒼とした竹林が茂っていました。住宅改良や道路河川工事痕跡が露わです。

全国部落地名総鑑なる書籍にも、私の生まれ故郷大字バッチリ書いてあります

その頃、いわゆる隣保館において、解放同盟主催する学習事業がありました。

その時に聞いた解放同盟設立の話や、子どもながらに地域単位でそういった政治活動役場の前でメーデーデモをする)に参加したことがあります

あの頃、私たちのことを主導していた解放同盟の人や、旧社会党メンバーの方々がどんなことを話していたのか、自宅にはどういうタイトル書籍等があったかなど、じわじわと思い出しながら当日記執筆しました。



№18 『底本』を教えてほしい

anond:20210331205556

2021年3月投稿

文系日記です。

みんなからアイデアを募るタイプ投稿大喜利のものを読む機会がありました。三大○○など。

私もやってみたいと思い、増田ブクマカの皆さまから意見を募りました。

なお、「底本」の意味が誤っているのは意図的ものです。

今生きている日本語という観点から本歌取り意味ではなく、元ネタになったコンテンツという意味で「底本」を使っています



№19 女性は可哀そうな存在だと思う

anond:20210402211311

2021年4月投稿

公務員時代の思い出です。

いわゆる女子会というものを間近で聞くことがありました。

同じ公務職場の、大人数の飲み会でした。広い居酒屋を貸し切っての若手主体飲み会があったのです。

その会に参加中、座敷でチビチビチューハイを飲んでいたのですが、真後ろから壁越しに公務員女子ガールズトークをしてました。

その時に聞こえた話です。とある女子職員がいて、意中の男性がいたのですが、気持ちに気付いてくれなくて、アタックすらされなくて「悔しい~( ;∀;)」というのが要約です。私がよく知ってる女子職員でした。

の子のことを、ほかの公務員女子がヨチヨチする恰好で慰めていました。あれこそが真のケアーなのではないかと感じました。

当時は、まだギリギリ二十代でした。女性にとっての恋愛の重みがわかっておらず、「へえ、そういうものなんですね~('ω')」と聞き流していました。

ただ、時間が経つごとにそういう恋愛事が気になっていき……この体験は、男女にとっての恋愛観の違いを考えるいいキッカケになりました。



20 市役所で働いていた子をITコンサルスカウトしたら指名停止になったことがある

anond:20210416221456

2021年4月投稿

こちらも公務員時代の話です。当時はふるさと納税黎明期でしたが、一部の市町村政令市県庁クラスはすでに参加を決めていました。

私が勤めていた役場にも、地域を盛り上げるような名称部署があって、とある女性職員が配属されました。日記主人公の子です。

の子は、正直仕事ができる子でした。高校を出て数年しか経ってないのに、地域おこし事業事務事業担当者になりました。

高卒枠で採用公務員だと、たまにバケモノ級の兵がいます

女の子事務だけやっているとかではなく、上司の方からキッチリ権限をもらっていました。

その道のコンサルタントであるとか、営業会社であるとか、京都を盛り上げるための○△協議会役員級の人とか、いろんな人がその部署の窓口に行くのですが……彼女がサシで来庁者を相手にしてました。

日記中の「ふるさと納税」はフェイクです。地域おこし・地域づくりというジャンルは同じです

そんな彼女ですが、事務事業関係システム周りの契約をしていた会社元請けコンサルに引き抜かれる格好で、転職することになりました。

引き抜きというのは、あくまで弊庁の中での言い方です。断じて不審転職ではありませんでした。同期であるの子の影響を受けて、私は転職を考えることになりました。

彼女上長の人ですが、相当憤慨していました。「あの会社指名停止総務部に言うとく。ほかの自治体にも、一応国にも情報共有した方がええわ。やっとくから」と発言しています



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【閑話②】これまでの投稿履歴

投稿数その他をカウントしてみました。

増田は1ページにつき25件表示です。

私のホームでは17ページ分あって、短文や返信コメントを除くと12ページ程度。

12*25≒300本が投稿数です。実際、この中で二千字以上でフィルタすると、約150本が残ります

残り150本は? と聞かれると、自分でもよくわかりません。発言小町やYahoo!知恵袋や、Quoraなど、

私が投稿している他サイトの流用物とか、大喜利ネタとか、皆さまへの短文質問とか、そういうものと存じます

ブックマーク数は……? と気になったのですが、当方エンジニアではないため正確なカウントができません。

少なく見積もった場合、延べブクマ数は約7万~8万です。

ところで、「本当にあなたが書いたの?」という疑問はあると思いますが、「いや、これは私が書いた」という人が出てこないことを証明材料としてください。いざとなったら、日記本文を編集することで証明します。

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Permalink |記事への反応(1) | 20:20

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2022-08-29

ぼったくりバー店員だったことがある 其の一

かに話したくなってきた。

まだ二十歳ほどの頃、地元広島特に定職に就くこともなくアパート暮らしをしていた俺は、昔からの繋がりの先輩に誘われて、客から高い金を踏んだくる店で働いていた。

福山駅付近にある繁華街だった。福山といったら知名度ほとんどないが、桃太郎電鉄の青マスとして出てくる程度には良いまちのようだ。当時の俺は、そのへんのアパート暮らしながら、昼はコンビニアルバイトで、夜はそのバーで働いて、それで明け方に自宅に帰って昼過ぎまで寝る。そんな毎日だった。

地元が懐かしい。もう6年は帰っていない。来年には帰ってみようか。増田民で、もしお勧めスーパー銭湯とかラーメン屋とか焼肉屋とかあったら教えてくれよ。

すまないが推敲はほぼしていない。変な字があったらごめんよ。

ちょっと自分語りをさせてほしい。滅多にない機会なんだ。いいだろ?

正直、あまりいい門地の生まれじゃない。大きい河川沿いで生まれた。加茂、という地域だ。歴史のある地域に付けられる名前らしい。

幼稚園の頃は、今頃の時期になると数日に一度は木造の家が床下浸水していた思い出がある。江戸時代はいわゆる部落というやつだったらしい。小学校の頃から家の近くにある集会所に近所の子どもらと一緒に夜集まっていた。学校先生が来て普通に勉強を教えてもらうこともあれば、平和活動やら差別糾弾やら総括やら、物騒な単語が飛び交う学びを体験することもあった。

官公庁の前に100名くらいで出かけていって、平和活動(という名のデモ)をしたこともあったっけ。市役所や県の事業所の前で大きい横断幕を持って、大声でシュプレヒコールをやっていた。

それで、くだんの集会所には、たまに偉い雰囲気の人が来て「昔は食べる物にも遊ぶ場所にもトイレにも困る環境でしたが……君たちは我々を含んだ先人のおかげで……君たちも皆のために必要あらば社会と戦って、これからもいい時代を作りましょう」みたいな話をしていた。

なんでも、その先人が高校生の頃、県立府中高等学校先生が授業中に被差別部落のある辺りを指さして、「あそこにのう、四つが住んどる!」と大きい声で生徒に注意を促したことがあったらしい。それで、キレたその先人は、その先生に何度も何度も何度も挑んで、巧緻を尽くして作戦を練り、仕舞いには証拠を突き付けて皆で糾弾して転勤させてやった、というのがその偉い人(当時国会議員。故人だけど一応伏せる)の話だった。

当時の自分は目ヤニを擦って話を聞いていた。自分達が隣保館に通っていた最後世代だ。中学生になる頃には学習活動はすっかり無くなっていた。今ではただの地域集会所になっている。

親は、あんまりよくなかったかもしれない。言うことを聞かなかったら暴力暴言は当たり前だった。内容的には、農業の手伝いや畑の草刈り洗濯物を畳むなどのまっとうな義務もあれば、親の張りぼて見栄を張るためのアイテムになることも多かった。要するに、母親の親戚や友達の前では『優等生』でなくてはならなかった。

ちょっとでも問題発言をすると、家に帰ってからボコボコに殴られ蹴られする。あれは今でも覚えている。小学校5年の時、叔母にからかわれてキレてしまった時、母が木刀で俺の後頭部を強打したのだ。今でも頭を触ると分かる。あの時殴られた箇所が凹んでいる。あれは痛かった。



というわけで、そんな環境で育った人間がまともになるはずもなく。中学校に入る頃には、すっかりと暴力癖のあるキッズへと成長していた。

当時の地元中学校は、荒れに荒れていた。原動機付自転車で通学する者や、青い髪で授業を受ける者や、卒業式特攻服を着る者や……。学校トイレは○○の場になっていた。月一くらいの頻度で、女子中学生が体を売っているか、無理やり犯られているかのどっちかだ。オリジナル制服としてセーターを作って着用する女子生徒もいた。けっこう可愛かった記憶がある。

先日、母校のホームページを見てみたが、当時とはまったく違った様子で驚いた。無邪気に笑って学校活動をする中学生達が映っていた。平成10年代の当時は、あん中学生は少なかった。ヤクザみたいな見た目の男子だとか、娼婦みたいな目つきの女や、死んだ魚の目をしたような(≒いじめを受けている)雑魚どもや、無敵の人の予備軍みたいに無気力になってる奴とか、そんなのばっかりだった。

それで、ついにある時、新築に近い状態体育館タバコの不始末が原因で全焼してしまう。いやあ、あれには参ったね。体育館での授業や部活動、好きだったんだが。

グーグルマップ。クチコミを参照

中学生がごく普通に喫煙していた。あの日、俺が4時間目に体育の授業でバレーをしていた(※だらしない恰好をして髪も染めていたけど、授業はちゃんと受ける方だった)ところ、3年連中がステージ上の柔道場でタバコにしけ込んでいた。先生に止める様子はない。当時の中学校では、校内でタバコを吸うのは暗黙に認められていた。

休みチャイムが鳴った後、俺も先輩方にタバコに誘われた。生意気な1年坊主だったと思うが、可愛がってくれる先輩がいた。が、当時は鬼のように厳しい暴力教師しか部活顧問)がいて、そいつが苦手だったので、見つかるような嫌な直感がして断った。あの時の俺はツイていた。

荒れ放題の中学校だったけど、それでも何とかなっていたから、教師も生徒も油断してたんだろうな。その3年連中の吸ってたタバコのうち、柔道場の畳に押し付けて消し忘れたやつが段々と燃え広がって、昼休憩になると「ジリリリリ……」と自動火災報知器が反応した。

しかし、それでも誰も何もしなかった。なぜなら、週に一度は誰かが校内にある自火報をイタズラで鳴らしていたからだ。感覚がマヒしていた。

昼休憩の中頃、体育館ステージ後ろの屋根から煙が出始めてようやく、教師連中が消火器を持って体育館突入したが遅かった。昼休憩が終わる頃には生徒は全員校庭に避難していた。体育館を見ると、2階部分の廊下に何十枚と並んだガラスが熱で一斉に割れていく光景があった。なんかもう、凄かった。同じく窓ガラス沿いのカーテンも50m分は並んでいたと思うが、最初カーテン燃えたと思ったら、僅か3,4秒ほどで全てのカーテンに火が付いた。

担任先生が、「いつかは起こると思っとったわ。馬鹿じゃのう」なんて呟いていた。それで、消防車が到着したのを確認すると、校舎への延焼の危険がないとのことか、またみんな教室に戻って、何十分か待たされて、先生が来て、その日は非常階段を通って裏口から下校となった。マスコミが押しかけていたのを覚えている。下駄箱まで進入していた朝日新聞記者を、先生らが怒号とともに追い払っていた。

なんか、ここまで書いただけで精神力ほとんどを使ってしまった。拙い文章力で恥ずかしい。ほかの長文増田は、明らかにもっといい文を書いてる。

火事があった次の日には、あの3年連中は全員しょっぴかれていた。家庭裁判所審判を受けて、ほぼ全員が少年院にぶち込まれた。ほかに、彼らと交流があったり、間接要因になったと思われる生徒は裁判所に出向いて証人として発言することになった。俺もその一人だ。最低でも二回はいたか

その次の年度は確か、校長ほか数名が異動になって、最強に厳しい先生方が教委から強権を委任されて当中学校に赴任し、不良どもを善悪あらゆる手段で抑え込んで、俺が高校生になる頃には不良は全くいなくなっていた。

俺の下の代には、強面の奴とか異常体格の奴がいなかったという事情もある。教師暴力を働くような狂犬タイプもいなかった。東京リベンジャーズの1巻で喩えると、当時はキヨマサ君みたいな中学生が最低5,6人はいた。一方で、俺の下の代のヤンキー(予備軍を含む)は、タケミチみたいな標準体型の子が多かった。

当時の俺ですら、何となくわかってたんだ。背伸びしてタバコを吸ったり、チャンスがあったら酒とか飲んだり、女子モテたくて喧嘩をしたり、セブンイレブンの前で駄弁ってたりしたけど、本当はわかっていた。勉強するのが一番いいんだって。最善なんだって

俺の父親会社経営者だった。祖父地元市役所の偉い人で、曾祖父町長だった。親戚だって職業はそれぞれ違ったけど、みんな金持ちだった。親戚同士の集まりには、うちの家の駐車場に高そうな黒塗りや真っ白の乗用車が並んでいた。

彼らに共通していたのは、社会が認めるであろう分野で相当な努力を積み重ねていることだ。俺みたいに、学校先生にとりあえず反抗してるだけじゃなくて。信念があって、そのために動いてる。

法律も慣習も、常識非常識も、論理的思考人間関係の機微も、曲がったこともまっすぐなことも、とにかく何でもかんでも現実をまっすぐに見て、あの人達が何が正しいかをいつも考え抜いていたって、今ではちゃんとわかる。

あの当時の俺も、今の俺も、これらのことができていない。だからこんなに落ちぶれた。血筋はいいのに。俺はくずになってしまった。

そろそろ筆を休める。いい文が書ける気がしない。また明日投稿してリンクを貼っておく。

https://anond.hatelabo.jp/20220830220250

Permalink |記事への反応(22) | 20:26

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