
はてなキーワード:阪神間とは
兵庫県の南北格差がぁあああ! もう、ひどすぎるんですわぁあああ!
うわぁああああ! なんでこんなことになってるんですかぁあああ! 私、もう、悲しくて悲しくて、涙が止まらないんですわぁああああ!神戸や阪神間はキラキラしてて、人もお店もいっぱいで、なんかもう、全部あるんです! 都会なんです! でもね、でもね、但馬とか丹波とか、北の方はぁあああ! 人は減って、お店は閉まって、病院だって遠いんですわぁああああ!学校もね、子供たちが少なくて、もう、このままだとなくなっちゃうんです! うわぁああああ! これが同じ兵庫県なんて、信じられない! 信じたくないんですわぁああああ!
でも、私にはぁああ、私にはね、この格差をなくす方法があるんですわぁあああ!
もう、泣いてるだけじゃダメなんです! 私だって、本当は泣きたくない! でも、この悲惨な状況を、誰かに、誰かに伝えなきゃって、そう思うと、もう、涙が止まらないんですわぁああああ!
神戸から北の方まで、電車もバスも、もっと便利にするんです! 車がなくても、お年寄りだって、学生だって、みんなが自由に移動できるようにするんです!高速道路だって、もっとつなげて、時間をもっと短くするんです! そうすれば、人がね、人の流れが生まれるんです! 人が動けば、町も元気になるんですわぁああああ!
北の方にも、新しい工場とか、会社とか、もっと誘致するんです!IT企業とか、観光業とか、その地域に合った産業を育てるんです!若者が地元で働ける場所があれば、東京とか大阪に出て行かずに、地元に残ってくれるんですわぁああああ! そうすれば、家族も増えて、子供の声が、また聞こえるようになるんです!
都会と同じように、近くに病院があって、困った時にすぐに診てもらえるようにするんです! お年寄りが安心して暮らせるように、介護の施設も、もっと増やすんです! 誰もが安心して暮らせる兵庫県にしたいんですわぁああああ! そうすれば、子供を産んで育てる人も、増えるはずなんです!
都会の学校と、北の学校で、教育の質に差があってはいけないんです! どこに住んでいても、同じように良い教育を受けられるようにするんです!先生を増やすとか、オンライン授業をもっと活用するとか、できることは全部やるんです!子供たちの未来を、絶対に諦めたくないんですわぁああああ!
このままじゃ、兵庫県は、本当にバラバラになってしまう! それだけは、それだけは、絶対に嫌なんです! 私だって、この兵庫県で生まれ育って、この兵庫県を、愛してるんですわぁああああ!
だから、皆さん! 私と一緒に、この南北格差問題を解決しましょう! 今、動かないと、もう、手遅れになるんです! 手遅れにぃいいいい! うわぁああああ!
豪邸の定義なんて知らんけど、少なくとも年末にお邪魔させてもらったとき俺は豪邸だと思った。
兄家族は子ども3人居るから子供部屋確保するためにその家を選んだらしい。
阪神間のベッドタウン的な街なんだけど大阪にも神戸にも行きやすいみたい。
で、兄の家見て改めて思ったけどやっぱり東京って異常だわな。
俺も東京に住んでるけどそもそも東京で4,000万で戸建てなんて中古でもほとんど無いよ。
マンション買うにしたって、駅からだいぶ遠くて狭い3LDKでも4,000万は超えてる。便利な所なら6,000万でも「お手頃」っていう感覚。
聞いたこともないけど5LDKの戸建てなんて東京だといくらするんだろう。
3億?いや最近なら3億でも足らんのかな。
東京なら兄の会社より給料高い所なんてゴマンと有るだろうけど、住宅の費用が高過ぎて結局は可処分所得大したことないんだろうな。
兄は関西勤務なだけで会社自体はクソデカメーカーだし、サラリーマンやるなら一番コスパ良いと思う。
まず兵庫を一括りにしてる時点で間違い。
兵庫は摂津、播磨、丹波、但馬、淡路の五国からなりいまだにバラバラなのが実情。
摂津(阪神間)は大阪の付属品。山口組の本拠地でもある。そもそも港町として異国に売られた地域。当然治安は悪い。六甲山と瀬戸内海の間の狭い平野を無理やり埋め立てたりして住んでるので、閉塞感とかすぐそこにある山の圧迫感とかは感じると思う。増田が語ってるイメージはここのイメージ。
播磨は姫路を中心とした歴史が古い地域。特有の閉鎖生と保守性があり、祭りが激しくガラが悪い。ヤンキーしか住んでない。
丹波は京都。農産物を京都に提供するための地域。黒豆おいしい。
但馬は山。そして日本海。山陰地方と同じ文化圏。城崎温泉がある。カニおいしい。夏は暑く冬は豪雪。神戸に行くには山をいくつも越えないといけない。
関西に限ってみるぜ! 行ったことがある中で、特に印象に残ったところ(あるいは定期的に足を運んでるところ)をリストアップ。増田は今は阪神間在住なので行きやすいところがどうしても多くなる。
京阪神+奈良以外は日頃の行動範囲に入ってないので、だいぶ適当。
わかる!めっちゃわかりすぎる!!
そう、東京でパン買って袋開けて匂い嗅いでも紙袋の匂いしかしないのわかるわかる!
私は阪神間出身東京在住だけど、地元のパン屋に入ったら香ばしいパンの香りが充満していて、何買っても美味しそうで迷うわ〜!って環境で育ってきたけど、東京のパン屋は香りがしない。だから何買いにきたっけ?って考えてしまう。買いたいものがなくて何も買わずに出る時もある。
全く食欲をそそらないのだ!
それに関西は有名なホテルにもベーカリーが入ってるよね。だいたい間違いないやつ。「ホテル食パン」は文字通り「ホテルのベーカリーの食パン」なのよ。
東京もそうかな、と思って行ってみたけど、ティールームしかないのな!
パンは味の他に香ばしい香りやパリパリふわふわもっちりとした食感が魅力要素の半分以上占めているけど、東京のパンは情報(誰が作った、どこどこの名店、限定〇〇個など)と甘さとモチモチ感が重要視されているような気がする。香りはそんなに重要ではないのだろう。要はケーキやお菓子と同じなのだ。
甘さも過剰だがデニッシュやクロワッサンのバターも使いすぎていて、生地から油がジュワッと出てきて胸焼けする。
多分東京の人はパンを米の代わりの主食として食べない文化なのだろう。甘くてもちもち高級食パンが東京で流行って、1斤1000円以上もするのに何斤も高級食パン買うおばちゃんとか理解できなかったけど、珍しいお菓子買う感覚なのかもしれない。
だから増田、美味しいパンを東京で食べるのは諦めよう。私は諦めた。東京には寿司とかラーメンとか他に美味しいもの沢山あるから、そっちを食べることにしている。
具体的な店名出せって言うから出すと、夙川駅前のブーランジェリー ミヤナガとかおいしいよ(西宮市だが)。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
近隣を回る民間業者には半ギレで断られ、役所は「車を持ってる友達に頼んでここまで持ってきて(平日昼間に)」と言い、自治会の回収は2ヶ月に一度、朝8時で徒歩10分の距離。同じマンションの人や近所の知り合いをあたっても芳しい答えはなく、あきらめて濡らしてちぎって燃えるゴミに出している人がほとんどらしい。令和の政令指定都市で。
いや、去年の秋から隔週の各戸回収を(ようやく!!)始めてくれたのでそれはいいんだけど、まあ回収忘れがひどい。というか、まず一度では回収してくれない。
然るべき窓口に電話すると、マンション前の車が邪魔で見えにくいのかもしれませんという。確かにそうっぽいんだけど、管理会社が近隣業者に貸している駐車スペースなのでどうしようもない。なるべく見えやすそうな場所に置いておくのみ。
それでも今までは、一度窓口に電話すれば翌日じゅうに持っていってくれていた。だが今回ついに、出した翌々日に出張で家を空けたら一週間も回収されないままになってしまった。
出した翌日に電話したときは「夕方までには回収します」との返答。でも翌朝家を出る時にまだあって、もう一回電話しとかな……と思ったんだけどすっかり忘れてた。忘れて帰ったら見事に出した時のまま、雨も降ったのでカピカピボロボロになっていた。GWとはいえ平日も挟んでるのに。
これ私の責任か。再三の電話を忘れた私が、濡らしてちぎる手間を惜しんで回収を頼った私が悪いのか。生ゴミじゃないだけマシだけど、他住民から苦情でも来たらどうしよう。
というか、今まで住んだ場所でこんな面倒なことなかった。隔週でゴミ捨て場に持っていけばよいのが当たり前で、そこに疑う余地なんてないと思っていた。私が贅沢者だったのか?ゴミとか資源の回収って市民インフラのいっっっちばん基礎のやつじゃないのか?ゴミ袋も他所より高いし。
もちろん市内の全マンションがそうってわけじゃない。良いマンションやファミリー層向けのマンションは出すスペースがあるし、そうでなくても特に困ってない人は多い。でも、Twitterで「京都市 ダンボール」で検索すると、新大学生と思しき同じような悲鳴が並んでるのは確か。色々調べたけど「京都は自治会の回収システムが強い独自の文化で〜」みたいな言い訳ばかりでうんざりした。そんなとこにまで古都ならではのドヤ顔を入れてくるんじゃないよ。
聞けば、回ってくる民間業者は一戸建ての分だけ回収してマンション住民の分を断り、回収日時を聞かれても教えないらしい。建前だけ各戸回収始めたことにして、実態としてはまだそれがまかり通ってるんじゃないかと勘繰ってしまう。
本来は、特に今はエッセンシャルワーカーには感謝しなきゃいけない世の中なんだ。なのになぜ、毎度毎度クレーマーみたいに電話でお願いしなきゃいけないのか。確かに業者はヤカラめいてるけど、業者の人格を気にしなきゃいけない時点でおかしい。他の自治体ならずっと前から当たり前にできてるようなことで、問題があるのは市の仕組みのほうですよね?
学生街で一人暮らしの若人いっぱいいるはずなのに、何のマイノリティでもないはずなのに、地域コミュニティに入ってないというだけで行政の想定から外されている感じがしてどうにも居心地が悪い。ここは菅がなんか言い出すより遥か前から自助共助シティなんでしょうか。
なんというか、もっと乾いたベッドタウンの方が水が合うのはわかってるんだけど、維新に振り回されたくないので大阪に越したくない。阪神間は家賃が高いし、さらに西に行くと職場が遠すぎる。そもそも引っ越す金がないしな。どうしたものか。
兵庫県知事だ。
過去発言は関西経済界の活性策を話し合う場で「関東大震災が起きればチャンスだ」と2008年に言い放ったことが強烈である。
最近は中国にマスクを百万枚送ったり、大阪に大袈裟と言ったりしている。
候補者が少ないことや、保守的になりがちなところ、「兵庫県」には県民が関心を持っていないところ、「自公が指示している」「創価が多い」なども影響している。
どちらかというと兵庫県は市長がそれぞれ動き、なんらかの特化型都市をそれぞれ作っているイメージなのだが、こういうときばかりは知事の力が必要だ。
今日、井戸知事は通常通り四月八日から学校を再開させるといった。
兵庫県にはスポーツ推薦などで大阪や遠く和歌山などから通学する生徒がとても多い。
その多くが阪神間を利用する。阪神間は、感染がいま危険とされている場所だ。
井戸知事は本日マスクもせず、けらけらと笑いながらインタビューを受けた。
マスクが手に入らないのだろうか。
兵庫県では周囲の県よりも手に入らなくなってきている。これは噂ではなく事実だ。
なにが起こっているか分かるだろうか。