
はてなキーワード:開店休業とは
闇の深淵を覗きし我が魂が、たまたま「某業界のヴォルデモート」とでも呼ぶべき禁断の存在を垣間見てしまったのだ!
その名を口にするだけで呪われそうな禍々しき気配に、心はざわめきつつも…別の次元から舞い降りた情報が、まるで暗黒の啓示のように我を襲う!「何!? 滅びしはずの企業が、なぜ未だその窓口を開き、蠢いているのだ!?」
「繁栄を謳歌していたはずの栄光の名が、なぜサービス終了という無残な墓標を刻まれている!?」
この矛盾、この不条理! まさに闇の深淵が我を嘲笑うかの如し!
某業界の裏側に潜む、底知れぬ闇の断片を見つけてしまい、我が魂は震撼せり! この病まないメンタルの錬金術師である我がこの忌まわしき事象をこうして語る!
具体的な名は敢えて封印せしめるが、全く無関係なる事柄から「これは…あの伝説の企業では!?」と気付き、
だがしかし、「何ゆえこのような不可解な掲載が!?」と、まるで禁忌の書を開くが如き違和感に囚われたのだ!
少しばかりその闇を覗き込んだ結果…おお、なんたる深遠なる闇よ!
例えるならば、かつて栄華を極めたガイナックスの如き事件に似たり。
名門の看板だけを継ぎし骸が、開店休業の虚構を装い、裏では名を借りねば表舞台に立てぬ者たちが暗躍する…そんな腐敗の構図だ。
我は断言せぬ、だが「あの企業もまた、そんな亡魂の仮面を被っているのでは?」と、闇の囁きが我が耳に響く!
かつての我を知る者ならば、我のような人間が「危険すぎる」と感じ、闇に踏み込む足を止めるその瞬間こそ、事態の深刻さを悟るだろう!
この闇は、逮捕者を生み、経済の崩壊すら引き起こしかねぬほどの巨大な暗黒だ!
もはや我が手に負える領域を超えている!
我は暴く力を持ち、関係者の名もほぼ掌握したが…この腐りきった集団に自浄作用など皆無!
我の甘さがこの闇を肥大化させた罪は認めよう。もっと早く手を打つべきだった…
だが、今やこの闇は我が掌を遥かに超え、奈落の底へと広がりつつある!
…ふぅ、しかしだ! そんな世界の暗黒や真実など、我にはどうでもいい!
闇の真実など、欲する者にくれてやる! 好きなだけ持って行け!
ただし、代わりに我に鼻炎薬をよこせ! この鼻の苦しみこそ、我が最大の敵なのだから! ハッハッハ!
私、なんか…とってもびっくりするようなこと、見つけちゃったの…。
えっと、まるで「業界のすっごく怖い秘密の存在」みたいな…そんな感じのものを、たまたま見つけちゃって…。
気になってたんだけど、別のところから「え、なにこれ…?」って思う情報がぽっと出てきて、心臓がドキドキしちゃってるの…。
あのね、たとえば…「どうして潰れたはずの会社が、まだ窓口を開けてるの…?」
「すごく人気だった会社が、なんでサービス終わっちゃってるの…?」みたいな、なんだか不思議で…ちょっと怖い感じがするの…。
なんだか、深い闇が隠れてるみたいで…私、びっくりしちゃった…。
私は青二才って名前で知られてるんだけど、うぅ、特定の会社のお名前は出さないでおくね…。
全然関係ないことから、「あ、これってあの有名な会社…?」って気付いて、
でも「なんでこんな変なふうに載ってるの…?」って、なんだか不思議なページを見つけちゃったの…。
少しだけ調べてみたら…うぅ、なんだかすごく怖い雰囲気で…闇が深すぎる気がするの…。
あの、たとえば…昔、すっごく有名だったガイナックスっていう会社、知ってる…?
なんか、名前だけ残ってて、中身は「もう動いてない会社の名前を借りて、こっそり何かやってる」みたいな…そんな感じに似てるの。
私、はっきりとは言わないけど…「あの会社も、なんだかそんな感じなのかな…?」って思うようなヒントを見つけちゃって…。
でも、深入りするのは怖いから…やめておこうかなって…。
昔の私を知ってる人なら、「あの青二才が何か怖いって感じて、深入りしないなんて…」って思うと、きっとこの話の大きさが分かるよね…?
これ、普通の会社なら「大変な問題!」ってなって、人がクビになったり、取引が変わったりするくらいの大きな話がいっぱいあるの…。
関係者のみんなが…なんだか怪しいんじゃないかって、私、疑っちゃってるの…。
でも、私が暴くなんて…無理だよ…。5年、10年前の私を知ってる人なら、「あの青二才が危険だと思って、話をごまかしたり、関わるのをやめようとしてる」ってだけで、どれだけ大きな闇か分かると思うの…。
逮捕者が出たり、経済が大変なことになるかもしれないくらい…大きな闇な気がするの…。
だから、私にはもう無理…。この闇の戦いは、強い人に任せたいな…。
私、暴くところまではできるし、関係者の名前もだいたい分かっちゃってるけど…この人たち、ぜんぜん反省しない雰囲気なの…。
私、もっと早く何かすればよかったって…ちょっと後悔してるの…。でも、この闇、大きすぎて…私の手には負えないよ…。
…うぅ、でもね、こんな世界の怖い話とか、真実とか…私には関係ないよ…。
今、私、鼻詰まりで眠れなくて…それが一番困ってるの…。
闇とか真実とか、好きな人に全部あげちゃう…。いっぱい持ってってほしいの…。でも、代わりに…鼻炎薬、くれると嬉しいな…。私、鼻詰まりを治したいだけなの…。ね、助けて…?
潰れたはずの会社が活動していたり、人気企業がサービス終了していたりと、不自然な状況に闇を感じた。
ガイナックスのような事例に似て、関係者が腐敗している可能性を疑うが、深入りせずプロに任せたいと述べ、鼻詰まりの悩みを優先している。
リフレ派山形浩生(がリフレ派であるかここでは議論しない)は「デフレマインドを吹き消すために消費税増税しろ」と言ってたよ
https://cruel.org/hotwired/hotwired01.html
〜天下のまわりもの高座〜
〜天下のまわりもの高座〜
日本はいま、とってもとっても不景気だ、なんてことはぼくがいまさら言うまでもあるまい。企業倒産、就職氷河期、銀行もばたばたつぶれ、もうお先真っ暗なのに、いつまでたっても出口が見えない。わーん、どうしたらい? もはや矢弾も兵糧もつきた。あの戦争からはや50年、この神国日本もはやこれまでか! かくなるうえは……
「いやいや殿。おそれながらあきらめるのは早いですぞ。聞き入れられるはずもないがゆえこれまでは黙っておりましたが、実はこの風来坊めに、景気回復の奇策がおじゃりまするのじゃ。かの匹楠導師が戯れに編み出したる外道の邪法ではございまして、よもやこれを使う日がくるとは思うておりませんでしたが……」
「ええい、茶坊主どもめが控えおろう、このお国の一大事に身の程をわきまえるがよいぞっ!」
「あいや家老、しばし待たれよ。ほほう、奇策とな。句留愚庵に日和庵とかもうしたか、このたわけどもめが、おもしろいことをぬかしよる。よし、言うてみぃ。ただしふざけた代物であれば、即刻斬って捨てるぞ! してその奇策とは?」
「はあ、それは……」というまえにそもそもお殿様、不景気ってなんだかおわかりでしょうか? 今回はそこからはじめよう。
不景気ってなに? みんなもちろんわかってるつもりでいる。でも聞いてみると、ちゃんと説明できる人はほとんどいない。株価が下がってるとか、失業が増えてるとか、倒産が増えたとか経済成長率が低いとか、すぐそういう話をしたがる。でもそれは、結果として生じる現象でしかない。不景気そのものではないんだ。不景気が何か知らなければ、不景気対策の話もできないだろう。
世の中には、ものを作る人と、それを買う人がいる。つくるほうが供給で、買うほうが需要だ。これはいいね。
さて、その両者がものを売買するのが、市場ってところだ。両者はおたがいに相手の足下と自分の在庫をみつつ、お値段の交渉をする。人気が高いブツは値段があがる。売れないブツは、売れるまで値段が下がる。いい、今の分をもう一回読んで頭に叩き込んでね。売れなければ、売れるまで値段が下がる。そしてブツがはける。それが市場なの。
ところが、何かのきっかけで、これが機能しなくなることがある。たとえば、ブツが売れないときに、売り手が値段を下げようとせずに、いっせいに「もうちょっと様子を見ようか」と思ったら? そのブツはいつまでたってもはけずに売れ残ることになる。
そしてもう一つ。この世では、極端なガキと年寄り以外はみんな働いてる。つまり、みんな働いてるときはつくる人で、働いてないときは買って使う人になる。そしてある人が買えばそれはつくった人の儲けになって、その人はその儲けをもって、こんどは買う人になるわけだ。
さてここで、世の中の人がみんないっせいにちょっと多めに貯金しようと思ったら? 「山一や拓銀が潰れるようじゃ、将来がちょっと不安だな」とか言って、みんな使うのを控えたりするわけだ。ところがみんなが同時にそれをやると、だれもモノを買ってくれなくなるので、売り上げが減る。すると思ったように貯金が増えない。これはまずいと思ってみんなもっと買い物を控える。するとさらに収入が減って・・・こうしてモノがどんどん売れなくなる。
不景気ってのはそういう現象だ。経済全体としての需用がいっせいに下がって、供給がだぶついちゃうことなんだ。そしてそれを市場と価格メカニズムがちゃんと調整してくれない。それが不景気ってことなんだよ。人は失業し(つまり労働力っていうブツが余ってる状態だ)、店には売れない商品がならび、工場は開店休業。オフィスビルは空室まみれで住宅も売れ残り。株も売れずにどんどん値下がり。ね。まさにいまの日本の状態。
すると、不景気はどうすれば回復する? 供給をいくらいじってもだめだよね。みんながお金を使おう、買い物しようと思わなきゃいけない。
じゃあまず、ものの値段を下げたら? でも自由主義経済では、値段を下げろと命令するわけにはいかない。
それ以外の方法は? まず、金利を下げることだ。するとみんな、貯金しても大して利息がつかないし、じゃあ買い物しようという気になって、需要がふえる。ローンとかも気軽に組めるようになるしね。
次に、公共投資ってのがある。政府が、道路をつくろうとか学校をつくろうとか、とにかくでかい事業を借金してまでやらかす。すると工事を請け負った建設屋さんがリッチになって買い物して、はずみがついてみんな買い物するようになる。
減税してもいい。税金が減ったら、その分みんな使うかもしれない。
そしてもう一つ、お金をいっぱい刷るという手がある。そうすると、そのお金がまわりまわって(ここの仕組みは面倒なのでまたいずれ)みんなの懐に入り、みんな太っ腹になっていろいろ買い物をするようになる。
いや、全部やってるんだ。まず金利。これまでも金利はどんどん下げてきている。こないだも、日銀が金利を0.25%下げた。でも、もう金利はゼロに近いんだ。だからもうあとがない。でも効果なし。
減税。これもそこそこやってる。恒久減税だの一時減税だの、流派はあるんだけどさ、でもまあやってる。効果なし。じゃあ公共投資。これもあわてていっぱいやってる。それなのに効果がない。財政赤字ばかりがふくれあがって、「きみたち借金返せるの?」と信用もなくなりだしてる(格付けが下がるってそういうことね)。
そしてお金を刷ることだけど、日銀はお金をいっぱい増やしてるんだ。
つまり手は尽くしてるのに、効果がぜんぜんない。それぞれの手口にはそれぞれシンパがいて、みんな「いやまだ公共投資/減税/資金供給が足りない」と叫ぶんだけど、じゃああとどれだけあれば十分なのか、だれもわかってない。みんな、現状をちゃんと説明できるモデルがなくて困ってるんだ。でも、そう認めるのが恥ずかしいから、わかったような口をきいてるだけなの。
さて、ここで新聞をよく読んでいる人は、首を傾げるだろう。景気対策という話で、構造改革とか不良債権処理とか出てくるじゃん。あれはどこいった?
うん、どっちも必要だしどんどんやってほしいんだけど、でもどっちも景気対策とはあまり関係ないんだ。構造改革ってのは、つくる人がものをつくりやすくしましょうって話でしょ。需要を増やす役にはたたないもの。不良債権処理も、まったく無関係じゃないけど、あまり歯切れのいい理屈じゃない。「風が吹けば桶屋が」式のずいぶんまわりくどい話で、やたらに「かもしれない」が多い議論だったりする。それで景気が回復するかどうか、実はぜんぜん怪しいんだよ。とりあえず他にすることがないので騒いでる、というのが実状に近いんだ。
もううつ手はないんだろうか。なんとか需要が回復する手はないんだろうか。もうあとは神頼みしかないのか……
3打つ手はある! 句留愚庵のとんでもない奇策
ところが1998年5月、何のまえぶれもなく変な論文がインターネット上にあらわれた。いいや日本くん、うつ手はある。金利をもっと下げよう。いまの金利がゼロなら、金利をマイナスにしよう。そして実質的に金利をマイナスにするには、インフレ期待をつくれ! 政府・日銀が、これからインフレを起こすと宣言しろ! そう論じたのがMITのポール・クルーグマン「日本のはまった罠」(原文はココ、邦訳はココ)だった。
インフレ期待があると、なぜ需要が増えるのか? インフレだと、手持ちのお金の価値はどんどん下がる。だからはやくモノに変えたほうが得なんだ。昔のインフレ年率40000%なんていう南米やドイツだと、一日でお金の価値が半分になったりするから、もうみんな金を手にした瞬間にモノを買おうとした。つまり、インフレが長く続くと思ったら、みんなどんどんお金を使うようになる。だったら、インフレが長く続くと思わせようよ。そうやって需要を増やせばいいじゃないか。クルーグマンの議論は、基本的にはそういうことだ。そしてかれは、この方法がよくてそれ以外の方法がなぜダメかを、とってもきちんとしたモデルを使って理論的に説明している。いまの日本の不景気をまがりなりにも説明した、数少ないモデルだ。
さて、かれの議論はどう受け取られただろうか。
みんなひっくり返った。怒る人さえいたくらい。インフレというのはこれまで、とっても悪いものだというのが常識だったからだ。インフレ→物価高→生活圧迫。よってインフレは地獄の使い。それを政府・日銀が旗振って起こせ? ふざけるな! というのがほとんどの人の反応だった。
でも批判は山ほど出てきたけれど、不思議なことにかれの理論そのものに対する反論は一つも出ていない。少なくともぼくは見たことがない。これまで出ている反論はすべて「でも、インフレには副作用もある」と言っているにすぎない。「円安で銀行が困る」とか「インフレは劇薬だ」とかね。でもそういう連中も、かわりの理論は出せていない。「不良債権処理」とか「土地流動化」とか繰り返してるだけ。なぜか?それは、クルーグマンの理論が基本的には正しいからなんだ。理論的な可能性としては、インフレ期待ってのが効くかもってことをだれも否定できないからなんだ。ただ、前例がない。インフレは悪いものだとさんざん叩き込まれてるし、失敗して収拾つかなくなったら何言われるかわからない。まして、そうでなくても付和雷同の好きな日本人。だから政府・日銀がこの政策をためすことは、当分ないだろう、と考えられてる。バカだな、小渕政権なんてどうせ何も失うものはないんだから、ばーんとやっちゃえばいいのにぃ、とぼくは思う。それに、クルーグマンは各種の副作用批判に対して反論を行ってて(原文はココ、邦訳はココ)、これまたかなりの説得力なんだ。
よろしい。インフレ期待ってのがあまりに無茶だと思うんなら、もしだれもやったことがなくて怖いっていうんなら、ぼくに別の案がある。需要を回復できて、みんなが経験済みで、さらにとってもすぐれた副作用もおまけでついてくる妙案だ。耳の穴かっぽじってよくききやがれ。
消費税を7%にあげよう。
さっきぼくの景気対策の説明を読んだ人は、アレ、と思っただろう。景気対策には減税してみんなの手持ちのお金を増やすんじゃないの?
そしてそこで爆笑してるか絶句してるあなた。うん、あなたはわかってる人だ。あなたが考えてるのは、こういう話だろう。1996年には、景気が上向いてきてた。なのに、1997年に消費税が導入されたので消費者が買い控えに走って景気がまた冷え込んだんじゃなかったっけ? だから共産党は、消費税を3%に戻して景気回復、なんて口走る。それなのに、そこで消費税をまたあげたら、さらに景気が悪化するに決まってる!
でもそれはちがうと思う。それは因果関係が逆じゃないだろうか。1996年当時、あなたのまわりで家や車を買おうとしていた人はいなかった? 思い出してよ。みんなもう、9月までに買えば消費税が3%というので必死こいて駆け込みで買ったでしょう。だから消費が上向いたんだ。このケチなぼくですら、3月にコンピュータを(中古だけど)買い換えたもの。だから景気が上向いたんだよ。増税したせいで景気が下がったんじゃない。増税期待のせいで景気があがったんだ。
だったら、それをもう一回やろうよ。いますぐに税金を引き上げるって話じゃない。将来それがあがるという期待をつくるんだ。「2000年元旦に消費税を7%に上げまーす」とアナウンス。するとかけ込み需要がたくさん発生して、景気は盛り上がるだろう。さらにそのままだと、増税した時点で1997年4月みたいに消費が冷えこむので、そうならないように、あげたその日にもう一発増税をアナウンスしておけばいい。来年には10%にするよ、と。
これはある意味で、クルーグマンの議論と似ている。ぼくたち消費者からすれば、インフレも消費税アップも同じこと。いずれにしても、いまの手持ち現金の使いでが減るってわけだ。だから、はやく金を使おうとする。それで需要は上向く。
さて、クルーグマンはインフレ期待を盛り上げろとは言ったけど、じゃあどのくらい盛り上げればいいかはまだ詰めていない。でも、ぼくの案はなにせ前例があるもので、効果が試算できるのだ。1996年の日本の実質経済成長は3.6%。このすべてが消費税効果ではないにしても、たぶん2%くらいの押し上げ効果はあったはず。1998年の日本はマイナス成長だよ。GDP成長率が2%アップっていったら御の字だ。
そしてこの案のすばらしいところ。まず、やりやすいってこと。これからインフレにしまーす、といって国民を納得させるのは、こりゃ至難の技だ。それが景気対策だってことを納得させるのは不可能といっていい。しかし消費税アップは経験があるから、やりかたはわかる。そしてそれを国民に納得させるのも簡単だ。やっぱり景気回復には財政再建が必要なんです、と言えばいい。「ごらんなさい。財政出動ばっかして赤字国債だしまくったら、格付けが下がってジャパンプレミアムで、ボロボロでしょう。やっぱ国の財政がしっかりしてなきゃ景気なんか戻りませんや」とキャンペーンを張るんだ。
もう一ついいこと。インフレは、手におえなくなる可能性はある。目標どおりにおさめるのはむずかしいかもしれない。でも、税金は7%と決めたらその率で決まりだ。さらにとってもすばらしい副作用。財政再建は方便にしても、これをやれば税収は確実にアップする。万が一需要が上向かなくても、とりあえず財政赤字は減る。それはそれで悪いことじゃない。なーに、どうせいつか消費税はあげようと思ってたんでしょ、みんな。それを来年やって何が悪い?
さて、このアイデアを友だちに話したところ「でもそれって、1回2回は使えても、3回目あたりからみんなひっかからなくなるでしょう」と言われた。ぼくも一瞬そう思ったんだが……そうか? 「ひっかかる」ってどういう意味? 別にだますわけじゃない。税金をあげるよ、といってあげるだけだ。待てば待つほど税金は高くなる。なんのひっかけも隠し事もない。なんなら「今後10年で消費税を15%まで上げます」と宣言しておけばいい。
そしてこれは、需要を前倒しにすることになる。消費税があがるぞ、とおもって、来年家を買う予定だった人が無理して今年ローンを組むわけね。だから、だんだん後がなくなるような気もするんだが、一方でその一時的にしても上向いた分の需要がどっかでまわってくるから、また新しい需要も出てくるはずだ。1997年だって、住宅需要は1995年並に戻っただけで、それを割り込むようなことはなかったんだよ。
ふと依頼されたラジオに関するエピソードが思いのほか好評でしたが、残念ながらお蔵入りとなったので記念に残します。
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夕方にラジオを聞くと中学校の図書室をうっすらと思い出します。
中学2年の私は、部活動をサボりたい一心で図書委員になりました。理由はクラス選出の委員2名が週に1回、放課後に図書室の受付当番を行うためです。
私が通う中学校には放課後にわざわざ図書室に来る勤勉な生徒などおらず、図書室は毎日が開店休業でした。
そんな「やることがない」図書室の受付において、いつの日からかFMラジオが流れるようになりました。
きっかけは全く覚えていませんが、とても古いラジカセが東京FMを届けていたことだけは確かです。
ラジオから流れる曲やニュース、時折挟まれる交通情報。パッシブに提供される情報が2人の会話のきっかけになったのでしょう。
私のサボり兼居眠りの時間は、2人で過ごす時間に変わっていきました。
スマホもインターネットも無い図書室に流れるラジオの音声が2人の想像力を掻き立てたのかもしれません。
好きな曲の話題、番組テーマに関する雑談、いつも渋滞している箱崎ジャンクションに何があるのか。
たわいのない会話をする時間の心地よさ。その感覚だけ強く記憶に刻まれています。
3年生への進級後も同じクラスになった2人は、明確に申し合わせることもなく、自然に図書委員に収まりました。
日中のクラスでは会話した記憶が全く無いですが、いつの日からか当番終わりに一緒に帰り、たまにお互いの家に寄ったり、休日に遊んだりもしました。
今時の価値観で思い返すと、お付き合いに発展する可能性もあるようにも感じますが、当時ぼけーっと生きていた私は、卒業とともに連絡を取ることもしなかったはずです。
正直に申し上げると、相手の顔や声もおぼろげにしか覚えていません。
それほどに時が経っても、夕方に聴くラジオは30年前の感覚を思い出させ、きっとこれからも心の深い所を撫で続けるのです。
おしまい。
年末年始は帰省してダラダラ過ごして今日から仕事始めなのだが、すこぶる調子が良い。
まず、日中全然眠くならない。普段なら午後4時以降はぼんやりしてほぼ開店休業みたいな有り様だったのが、今日は勤務時間中はほぼ100%の出力で働いていた。
退勤後もなお元気があり、今日は帰宅してから筋トレしてごはんを作って食べてシャワーを浴びて食器を洗ってduolingoで英語を勉強したのだが、まだ増田を書くくらい元気がある。
ふだんなら筋トレとシャワーと食器洗いと英語勉強のうちどれか1つか2つくらいが限界で、あとはダラダラyoutubeを見ていたところだ。
睡眠負債が無いと俺はここまで活動的になれるのか、という発見に感動している。
今思い返してみれば、事務所にせっつかれていた(いついつまでに登録者◯万人とか、一ヶ月で◯万稼げみたいなやつ)のがほぼ確実なんだけど、
1回30曲以上、3時間を優に超える歌+演奏枠を1日おきでやってた人がいたわ
前世では超名門の音高→音大という経歴を明かしていたこともあってか、歌と演奏には絶対の自信がある一方、音響設定やトークはダメダメという人だったんだけど、
とにかく歌って弾いての物量作戦で数を稼ぐことばかり頑張った結果、1年で登録者数5万行くか行かないかのタイミングで事務所から独立し事実上の開店休業状態になったというオチ
でも今振り返れば、弱点だった音声やトークを底上げしなかった時点で負けは見えていたんだなって感じ
がむしゃらにやる前に、もっともっと大事な、必要な工夫があったってことだ
そもそもご自慢の歌も演奏も、上に書いた物量作戦が始まった途端、目に見えて粗製乱造レベルの品質になったというか
特に演奏は、経験者が聴いたら怒りを覚えるレベルの手抜き状態で、素人相手とは言えそれはないだろーって思ったし
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「非正規公務員が消えた日」
朝8時。保育園や学校の前で、ふだん笑顔で待っている先生たちが、そこにいません。
官庁に出勤した職員は、庶務や経理などのバックオフィスの職員がいないことに気づきました。電話が鳴りっぱなしですが、人が足りず対応できません。
書類の申請、生活の相談、年金の手続きなどで役所の窓口にきた市民が、朝から長蛇の列を作っています。
病院も、図書館も、ハローワークも、あらゆる公共施設が開店休業状態です。学校に給食が届けられず、オフィスにも路上にもゴミが溜まっています。
多くの人の生活と仕事に支障が出て、みんなが戸惑い、その理由を知りたがりました。
どうして行政サービスが止まったのか。なぜいつも働いていた職員が消えたのか。
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これらが実現すれば、
(安心・安定・安息 「安」が3つであんみつ)が職場にうまれ、わたしたちは今よりもっと仕事に励むことができます。
新しいたんご。
と我ながら思った。使い方は
・PayPayとモバイルSuicaで支払い
・SNSはX(旧Twitter)、他は知らない。もちろんポストなどしない。
・ブラウザを開いて見るのは天気くらい
・LINEも公式アカウントからしかメッセージが来ないので通知オフにしていて開店休業状態
・写真を撮るが、たまの外食の飯の写真ばかり。一応クラウドに上げて見返したりする。妹と弟が子供の写真を送ってくれて、その写真が癒し
・動画は見ない。外で動画は見る気にならないし、バッテリーの減りが気になって仕方ない。
昔のPDAやmicroPCでできそうなことばかり
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ここには、自ら築き上げてきたスーパーの廃業も辞さないおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
業界の有名人に会ったって話を営業さんから聞いて、すごいっすね!!と盛り上がった事もあった。
でもこの業界って思ってたより体質が古い企業も残ってるんだねぇ。ビックリした。
「新しい、若い業界だ!!」という自惚れが強すぎて、逆に勉強しようとしないのかもしれない。
一番やべーのがほとんどTwitterをやってなかったの。震災の後作ったアカウントだけ残ってて開店休業状態。
私はビックリして、え!オタクでTwitterはマストっすよと社内勉強会みたいなのを企画して頑張ったりもしたよ。
でも「スパムみたいなアカウントしかフォローしてこないよ」と文句言われたり。
「今は、時代はインスタグラムだよ」「いやティックトックだよ」と芸能人や犬の動画ばかり見てる。
でそっちに広告を打つ。効果なし。「やっぱりSNSはダメだね」となる。いやTwitterでやれよ。
誰が実名でいいねなんかすると思ってんだよ!?お前ら陽キャならわかれよ。
もうこりゃダメだなと思って、うるさく言うのはやめた。お前がやれよと言われそうだがそんな義理はない。
その間に、Twitterではいろんなことがあったよね。ついにTwitterの鳥もいなくなった。
連日報道されてるからか、ついに焦り出したらしくて「あ、あのさ…。スレッズ?とかいうのやった方がいいのかな」と来やがった。
あのさ。
もう1Pマンガ載せてバズったり、
そんな時代はさ、もう終わったんだよ。
大事1は自由のきくアルバイト。大事2は対人の自営業(コロナでわりとヒマだったときに知り合った)。
しゃべるAは若いニート、しゃべるBはしり合ったときはたしか酒場のアルバイトだった。
自分はいわゆる主婦(もともとリモート前から自宅で座業の自由業だったが介護・看護の呼び声が多くて開店休業)。
知り合い方だけど
現ジャンルにハメてくれたBは昔すぎて忘れたがBにきいたら前の別ジャンル(も二人でカブってた)で、
アニメ映画の監督とスタッフ陣がトークショーしにきてくれたとき隣か後ろの席だったんだって。そうか~。
ハマりかたのスタンスがとても似ている(金の使い方とか)。よくいきたいイベントがカブる。推しキャラは違うのに。
運営さんに「こうしてくれると混雑防止、事故防止、転売防止になるのに!」って意見が大体カブる。
じゃあ二人で今度アンケートで書いて送ろうかね~などという話をしている感じはもはや萌話というほどではなく仕事仲間みたいな感じ。
丁寧に気を使って運営に感想手紙を送るやり方までよくわかってるジャンルの大先輩。気さく。
1,2とは現ジャンルのツイッターでみつけてゆるくフォローしてたんだけど
ある日突然、2が、「東京の新宿いってものすごい体験したから話したい!」って(公式イベントもない時期にだよ)
ツイッタースペースたててたのでとびこんでみたらたまたま1がきてて私ふくめて3人しかいなかった。
それが3人しかいないのがもったいないほどにくっそおもしろいはなしだった。
印象的すぎていまだに全員がその話を覚えてる。絶対人生が変わってる!という話。
その後1と2と私で2-3回はイベントにまちあわせたが交通費と移動距離と移動時間がすごくてまた笑った
Aは増田のリアル家族(そちらもオタク)の紹介。リアル家族がラインでよんでるといってAが通話をぬけることも多々ある。
特段、嫌だとはおもわない。
前述したとおり恋人がくると即通話抜ける。でも一番深夜におきている。たぶん恋人(働いてる)と結婚しても深夜通話して怒られが発生するとおもう
メンヘラ(不眠で深夜に孤独にしている人が多い)に付き合うのに慣れてる増田は、
本気で恋人とうまくやりたいんだったら増田としゃべってないでしっかり睡眠とって通話で労働づかれをケアしてあげたほうがいいのにと不吉な予感もしている
夜はおとなしく寝てる方がいい気もするよ
あったかい布団買ったけど寝心地最高だよ
昨年の桐生ココ3D化~湊あくあソロライブ~戌神ころね登録者数100万達成の、せいぜい半年間だったと後世語られそうな雰囲気になりつつある今日このごろ。
というのも、当時から何度も言われていたとおり、急成長に対し会社の規模が見合っていないという問題を未だに解決できず、このままだと自滅する未来しか見えないから。
結果、以下の不安要素により辛うじて満身創痍な状態に留まっているだけであり、正直夜しか寝られない。
このまま徒花の象徴みたいな形で記憶に残るとしたら、なんとも忍びない話である。
出たよ話のすり替え。
夜8時迄の営業自粛という事だけど、経営がうまくいってないのは政府のせいだからカネをくれっていう論調を見るとうんざりするな。
昨年2月からChinavirusで皆が割と外食を控えてる結果、客足低下で損益分岐点を下回る飲食店が撤退を余儀なくしている。それだけの経営努力してないだけの事で、こういう時期でもしっかり儲かっているところもある。
持続化給付金、休業協力金、家賃補助、などいっぱい貰ってるでしょう。
こういう時、開店休業でぼちぼちやってる店はわりといい思いしてるよ。
[追記]
関東では1日6万円の協力金が貰えるのか。6万円の利益を得ようとすれば倍くらいは売上がないといけないよね。
なにもしなくて30日分、180万円が貰えるのってどうよ。これも1法人/事業者ごとになるので、店舗ごとに分社すれば
本当に「発覚」で使い方はあっている。
子どものころ、親からあらゆる虐待を受けてきた。殴られて首の骨がずれたことや包丁を向けられたこともあるし、おぞましい体験もある。テストの点数を見せて平均点以下だったらぶん殴られる生活だった。交友関係の自由はなく、男子から電話がきただけで2時間正座で説教だった。
父と母、双方のクワイエット不倫の結果、母は最終的に焼身自殺を選び、父や周りからは「親が自殺した人間の娘など貰い手もない」「鬼畜生の娘だ」「お父様に一生孝行して尽くして、結婚するとしたらお父様が連れてきた人でないといけないよ」とかさんざん言われた。
そんななかで出会った現在の夫は、私にとってまさに「白馬の王子様」だった。
修羅の国みたいな環境に包まれていたが、私は恐ろしくまじめで、男性と付き合ったこともなかった。18と22で出会って、23と27で結婚。育ちよく人柄よく文武両道で努力家で大学院卒業の夫と私では、とても釣り合いがとれていなかったと思う。
でも、菩薩様と仏様みたいな義両親は、過去をつまびらかにした私に対して、「よく生きていてくれたね」と言ってくれて、それからの15年、本当に掛け値なしに、私はとても幸せだった。
そしてその15年のなかで、私は自分の会社を立ち上げ、そこそこにした。夫と義両親が、私に対して「正しい自己肯定感」を与えてくれたから可能だったのだと思う。
私は妊娠が怖かった。
私の家庭はいつも怒鳴り声と暴力と理不尽さに包まれていたし、お前なんか生まなければよかった死んでくれこんな子は私の子じゃないという言葉は私にとってありふれたもので、だから子供=邪魔物という認識しかなかった。ない。
だから結婚するときも、「私は一生涯子どもを作らないと思う、それでもいいか」と聞いた。
夫は「それでもいい、ただ考え方が変わったらいいね」と言っていた。私もそう思った。考え方が変わって、多くの人みたいに「子どもを欲しい」と思えたのならば、それはきっと幸せなことだっただろうから。
それから15年、本当に夫は私によく添ってくれた。ご両親からは「ま~子ども生むなら早い方が楽だけど(これは本当にそうだろうから、嫌でもなんでもない)、いなければいないでそれは貴方たちの選択だからね」と言われていたし、せっつかれたのは本当にたった1度だけだ。そのときも、私の伝え方が悪くて誤解が生じたがゆえのこと。
私は38歳になり、心境が少しずつ変わっていった。「絶対に欲しくない」は「欲しくない」に変わり、「欲しくはないけど、いてもいいかもしれない」に変わった。
なので、夫と話し合って、妊活だけ始めた。いなければいなくていい、いたらいたで楽しいかもしれないと。
妊活の最中で、自分の気持ちが、「欲しくはないけど、いてもいいかもしれない」から「欲しい」に変わるかもという期待もあった。
年齢制限と、よく私のことを知る周りからの「いなくても君たちは幸せだろうけど、少しでも『いてもいいかも』と思う気持ちがあるのなら、妊活してみたらいいんじゃない? やらない後悔よりもやってからの後悔の方がマシだと思う」という後押しもあって。
積極的な不妊治療はしなかったけれど、双方の同時検査で「私は問題なし、夫は加齢によるもので合格ラインよりも10パーセント下程度」となった。あとはタイミング療法だけでとりあえずいきましょう、と。
まさかその2か月後に、子どもができるなんて思いもしなかった。
私の夫は、菩薩様と仏様の間の子どもだけあって、非常に人間ができている。私の体調不良にも、精神の不安定さにも、彼はどこまでも寄り添ってくれるだろう。
今だって、家事の7割を担ってくれているのは夫だし、ハウスキーパーを提案してくれたのも夫である。
育児も絶対にやってくれるし、育児休暇も取得するし、フットワークもすさまじく軽いし、20年付き合ってきて一度も彼の誠実さを疑ったこともない。
ダブルインカムだけあって、まぁ世帯年収がだいたい1500万円くらいで生活に不安はない。快適な家があり、心優しい義両親(そのうえ義母は医師なので医療的知識もある)もいる。実親はひどいもんだけど。
基本的には仕事の調整は自分でつけられるし、病院に行くために仕事を休む……という経験をしたこともなかった。
この年齢で、妊活2か月で、しかもほぼ自然妊娠に近い形で妊娠できるのは、奇跡ともいえるんだろう。
私は実はソムリエである。そしてソムリエになるくらいだからわかって頂けると思うのだけど、酒好きである。妊娠発覚前日も、「まぁ妊娠したら飲めなくなるしな!」と思いながら、仕事でワインを1本分程度飲んでしまった。
そして私は、生魚も好きだし、チーズも好きだし、チョコレートも好きだし、コーヒーも好きだし、つまり妊婦にとって「悪い」と言われるものが全部すきだ。
こういうことを言うと、ぶったたかれるであろうことはわかっている。いろいろ調べてみても、「出来ない悩み」や「うっかり飲んでしまったこと」に悩む人は多くても、私のようなクソみたいな悩みを抱えている人は多分いない。
私が一人だけで立ち上げた会社は、私自身がメインのソムリエであるため、私がいなくなれば掛け値なしに間違いなくつぶれる。というか、開店休業状態になる。
肥溜めみたいなところから這い上がってきた私が、私自身の力で立ち上げた、私が大好きな会社は、おそらくここでついえることになる。
私が好きだったお酒も、私が好きだった釣れたての刺身も、私の研修でもあった年に3回の渡航も(もっともこれはコロナがあるからどっちにしろ無理だけど)、私の大好きだった夜更かしも。
夫は非常に優しいけれど、子どもを切望していた夫の生活には少なくとも大きな変化はない。
だけど私は、仕事ができなくなるし、好きなものも食べられなくなるし、体調不良も抱えて生きていくことになるし、そのうち店にも出られなくなるだろう。
私は家の近くに会社を建てたため、保育園や幼稚園に預けたとしても、熱が出れば迎えに行くのは私だ。夫はたしかに協力的だけど、夫の会社から家までは2時間かかるので物理的に絶対に無理。
私は我儘だし、子どもだし、身勝手だ。完全な覚悟ができて妊活を始めたわけではなかったし、生理がくれば安堵もしていた。今だって、どこかで「間違いであったらいい」と思っている。
私がまだ20代の前半くらいならば迷いも当然のものと受け入れられようが、アラフォーになって、しかも妊活をしてでさえこのありさまだ。だれも同じ悩みなんかない。あるはずがない。もしあったのならだれか本当に教えてほしい。
酒のみで、自身のキャリアを構築していて、でも妊娠をすれば物理的にその仕事を続けていくのは不可能で、という人に教えてほしい。
その悩みはどうやって克服したのかと。私の悩みは「私」自身の考え方に終始してしまっているけど、みんなすぐに「良いお母さんになろう」って思えるの? 楽しかったこととか全部封じても?
もしも子どもに障害があったら? 子どもが自殺してしまったら? 子どもが犯罪者になったら? 子どもが殺されてしまったら? そんなこと、だれも考えないの? 私は周りで、横に書いたこと全部が起きたのだけど。
「ずっとだれかがいる生活」「自分の楽しいことをキャリアを諦めて生んだ、それでも反抗期がやってくる子ども」を、だれも怖いとは思わないものなの?
自分だけが努力してできることではないことが、生活のなかに入ってくることが、ただ怖い。もともと変化に極端に弱いから。こんな風に、自分のことしか考えない私は、多分母親になる資格などない。
分かっている。覚悟がなかったのならば、選択をしなければよかっただけ。過去のことは、考え方のベースにはなっているけれど言い訳にはならない。アラフォーなんだし。
すべての結果は、すべて私自身の選択だけによるものだ。だからこれは、たぶん、匿名でしか言えないような、「妊娠が発覚した」ときの話。
・ネットでホテルや交通の予約ができるようになりマージンを抜く仕事が儲からなくなってきている。
・JTBは冬のボーナスカットがすでに表明、3月の時点で非正規のスタッフは大幅カット。
・日本旅行は夏冬の賞与がでなかった・でないと決定したらしい。Jもここの社員も某給付金の事務所へ出向して働かされる人多数。
・1月までホテルの稼働率が100%を超えるところもあったのにに、今は東京大阪で10%ぐらい。
・関西圏ではそれでも4000人/月ぐらいのインバウンドはある。
・リネンの会社やベッドメイキングのスタッフが全然たりず、ホテルを開業するもシーツの手配ができなかったのが12月まで。
・そこで設備投資や人を増員したリネン会社が傾いている(外国人労働者も多く、解雇の憂き目にあっている)。
・大手広告代理店など五輪関係の特需を当て込んでいたがすっかり冷え込んでいる。
・大手制作会社も現実に人が集まるイベント、SPがなくなり、Webに特化してマーケできるところだけが生き残りを図っている。
・観光通訳、商業通訳、イベント・会議通訳は事実上の廃業状態。
・オンライン通訳が出てきたので、ここらのスキルがある人間だけが生き残れるかもしれない。
・小屋は全滅。音照などスタッフは個人事業主のフリーランスがおおく食えない状態。
・舞台以外の利用用途を模索するも、他にあてもないといった状況。
・ホテルも宴会で持っていたのに、宴会のキャンセルが相次ぎ、どうにもならない状況。
・この辺はよく把握できておらず。
9:00 になったら家で会社のPCを立ち上げるんだけど、実質開店休業状態のまま17:00 まで。
おれは目黒の下のほうに住んでいるので、自宅から走る時はだいたい多摩サイなんだけど、17:00からだと堤防のサイクリングロードはちょっと怖い。
まずは環七にでて、内回りを平和島方面に向かう。大井町線の下をくぐり、中原街道を横切ってすすむと下り坂。
リコーのあたりも人が少ない。国道一号線も横切って進み、第一京浜を左折する。
第一京浜を都心方面に向かう。分かってたことだけど第一京浜は路面が汚い。
ハンドルバーに手を置いているだけだと跳ね回るのでちゃんとハンドルを持って走る。
点々と現れる京急の駅を右に見ながら進む。北品川を超えたあたりで右に大きくカーブ。
札ノ辻で左に東京タワーが見える。曲がっちゃえばよかったなと思いつつ直進して、左折するポイントを探す。
三田で左折。日比谷通りに入る。NEC があるけど閑散としてる。
日比谷通りってずっと行くとどこに出るんだっけ。と思いつつ走る。芝公園のそばを通る。
名前がわからないけど面取りしたような高層ビルが左に見えて、きれいなビルだなと思う。
そのうち日比谷公園が現れる。ずっと昔日比谷公園のトイレに入ったらそれらしい男性がたくさんいたのは良い思い出だ。
と思っていると左が皇居になる。皇居の周りは歩いている人がパラパラいた。
しばらく進むと永代通りにあたる。曲がっちゃえばよかった。と思いつつ次の信号を左折。
目の前がお堀の T 字路を右折して内堀通りに入る。車が少ないのですんなり右折レーンから曲がれた。
お堀を見ながら進む。どこかで靖国通りに入らないと。
まっすぐ行けば靖国通りなのに、なぜか右折しないと靖国通りにアクセスできないと思い込んでいて、竹橋を過ぎたところで右折する。
すぐに靖国通りにあたるので、左折。上り坂。武道館を左に見る。当たり前だけどなにもやってないので人は少ない。
ずっとまえここを通った時は凄い数の人がいて、帰って調べたらパフュームだった。
坂を上り切ったあたりで右に靖国神社。市ヶ谷駅の前を右折。川を渡る。
ここの橋の上はいつもと変わらず混んでたので川べりの桜は見られなかった。
靖国通りと外堀通りがわかれるところに分離帯ができてて靖国通りに進みやすくなってた。まあ車が少ないからだけど。
防衛庁を右にみながら進む。毎朝あの階段を登るのは大変そうだけどエレベーターとかあるのか。
いまの職場が新宿なので、いつもの会社帰りと同じく20 号から環七で帰ろうかと思ったけど、それもつまらないので明治通りで渋谷に向かうことにする。
普段なら絶対避けるルートだけど、これだけ車も人も少ないならアリでしょ。
伊勢丹の前を左折して20 号に入り、すぐに明治通りにあたるので左折。
思った通り快適に走れる。新宿から原宿あたりは路肩が狭いうえ、結構なスピードで車が流れてるので怖いんだけど、今日はラクラク。
表参道もいつもよりずっと人が少ない。原宿から渋谷にかけては緩く下る。薄暗くて人が少ない。
休みの日は歩道からあふれた人が車道を歩いてたりするのに。まあ平日の夜だからってのが大きいけど。
さらに渋谷駅あたりでは正面にデカいサイネージができてて、入り乱れる空中歩道と相まって 80年代に想像した近未来っぽい。
246 が渋谷駅の東口側から西口側に抜けるところは、昔と変わらず薄汚くてほっこりする。
246 を池尻方面に向かう。上り坂。この辺りはいつもどおり路駐トラックがうっとおしい。登り切ったあたりで旧山手通りにあたる。
旧山手通りのところで信号に捕まったので、そのまま旧山手通りに入る。
走り出して思い出したのは、この辺りは路駐が多いせいで(そいつらがハンドルをこじるので)路面がガタガタだったって事。
今更思い出しても遅い。三宿から学大に抜けるルートのほうがよかった。。
代官山の交差点を直進すると駒沢通りあたるので、右折。長い下り。
左カーブの見通しが悪いうえにオートバックスの前に必ず路駐がいるのでちょっと怖い。
でも今日は後ろから車が来ないので思いっきり 2 車線の真ん中あたりを走る。
そのまま駒沢通りでおうちに帰る。祐天寺から学芸大学あたりはいつもと変わらない感じだった。
まあ、駅前まで行ってないけど。
家を出てからだいたいちょうど 2時間ぐらい。シャワーを浴びてからチェーンに油をさそうと思っていたことを思い出す。
シャワー浴びる前にさせばよかったのに。もー。