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[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu
(1)本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉
(2)明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島の知識人の流行語になった**
(3)島津義弘の関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水の千本松原のこと)が生まれた
(4)しかしロシア語の意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる
(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京の学生や青年のあいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった
(6)流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**
(7)鹿児島県出身の作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ)
(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいときや気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**
(9)司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味で使用し、(3)の意味は失われていった**
(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった
(11)そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味でしかない江戸~明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である
しかし、このnote記事では1936年の辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。
また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報を提示するとともに研究を補強したい。
「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。
まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島県士族の佐藤良之助とある。
これは相手を馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。
ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手を威圧するための掛け声なのかはわからない。
「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公となすに足らん
句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。
「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」
田舎者が上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。
「ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。
1892年『罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である。
真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?
英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。
1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身の杉浦重剛という人が東京に作った私塾である。
此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり
其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ
前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者は薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである。
薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。
此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活の写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり
下宿暮らしの書生はあまりに自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。
とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?
「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり
自分が情けなくなってちぇすと。
溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー、貴様(おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり
怒りのちぇすと。
彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり
喜びのちぇすと。
薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。
ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京の出身らしい。
チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり
ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?
と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。
この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟(長岡藩)出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。
1897年、江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。
「ちえッすと!」
謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。
と、こうしたあたりが1898年の内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である。
明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。
これは冒頭でリンクしたnote記事の説明に反する事実である。
「薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明が適当ではないか。
ちぇすと てすとに同ジ
元は「てすと」なのか?
元は「ちぇ+すとう」なのか?
チエスト よいしょ(掛声)
note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、
1977年『かごしまの民俗探求』の久保けんお「薩摩の方言と民謡」では、
チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのである。エイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである。
1979年、井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、
ちぇっそ 感動詞。一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからとかいうのがある。
と説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。
これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠が必要になりそうである。
| 年 | 名称 | 概要 |
|---|---|---|
| 1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
| 1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
| 1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
| 1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
| 1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
| 1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
| 1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
| 1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
| 1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
| 1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
| 1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
| 1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
| 1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
| 1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
| 1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
| 1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
| 1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
| 1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
| 1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
| 1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
| 1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
| 1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
| 1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
| 1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
| 1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
| 1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
| 1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
| 1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
| 1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
| 1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
| 1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
| 1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
| 1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
| 1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
| 1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
| 1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
| 1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
| 1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
| 1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
| 1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
| 1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
長岡藩の支藩であった三根山藩(現在の西蒲原郡巻町峰岡)が長岡藩の窮状を察し、米百俵を寄贈したが、分配されることを望む藩士らに向けて虎三郎は、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、その米百俵の売却益を元手に、学校に必要な書籍、器具の購入にあて、明治3年6月15日(1870年7月13日)に国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目)に開校した(現在の市立阪之上小学校のルーツでもある)。
国を興すは教育にあり―小林虎三郎と「米百俵」 | 松本 健一 |本 | 通販 | Amazon
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